2018年6月30日土曜日

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言え人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。

 【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。

【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。

  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
 (2018年7月2日 田中潤一)

2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)

2018年6月16日土曜日

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。

「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。


 【等方空間における座標系】

  • 座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。
  • 各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か-の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く-であるということはできません。ですから+と-とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と-を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。
  • x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。

以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。


【異方空間における方向軸】 

以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と-で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、
  • 両側を+側と-側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。
こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?
 
というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。

何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者で心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。

もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。 
(2018年6月16日 田中潤一)