tag:blogger.com,1999:blog-1005992177417970488.post2853360945249622504..comments2018-05-19T19:17:21.737+09:00Comments on 「意味」の周辺: 鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか田中潤一http://www.blogger.com/profile/12423015027053262241noreply@blogger.comBlogger3125tag:blogger.com,1999:blog-1005992177417970488.post-81630631791446143092015-12-22T22:59:48.043+09:002015-12-22T22:59:48.043+09:00>鏡像の場合、同じ対象の直接の像と比較して必ず例外なく対掌体になっているのです。
これについ...>鏡像の場合、同じ対象の直接の像と比較して必ず例外なく対掌体になっているのです。<br /><br />これについては何度か申し上げたと思いますが、鏡像についての物理的な要素はただの光なのであって、それをどう見るかは、観測者の主観による部分があり、「例外なく対掌体」ということはないと思います。目の錯覚などを除くとしても、奥行きにある程度の自由度があることと、見えていない部分に関しては観測者が勝手に補う部分でしかないと思うことがその理由です。<br /><br />>「鏡像問題」あるいは「鏡映反転」の問題という以上、鏡像ではない像だけの場合との違い、あるいは差異を明らかにしなければ鏡像問題としての意味がないのではありませんか?<br /><br />これについては、そもそも、私自身、「鏡像問題」は2つの形態の比較以上の意味合いはあまりないと思っています。ただ、ある物体とその鏡像との比較という特性によって観測者に独特の心理的作用を与えることがあるために、「鏡は左右が逆になるのに上下は逆にならないのは不思議だ」とか言った疑問を持つ人がいると言うだけのことだとは思います。なので「鏡像問題」として特別扱わなければいけないような問題があるのかと言うとあまり無いように思います。<br />ただし、他の鏡像が関わらない場合として扱えるものであっても、その場合についての原理が明らかになっていない場合は、それについて明らかにするならば他の部分についても明らかになるためむしろ有益であると思うことと、すでに明らかになっているものがそのまま適用できる場合であっても、その「そのまま適用できる」と言うことが認識されていなければ、「そのまま適用できる」と言うことを示すことには意味があるのではないかと思います。つまり、他の場合と共通する問題で研究する意味がないものは、他のすでに明らかになっているものをそのまま適用すれば良いことがすでに分かっている場合ぐらいではないかと思います。<br />他の場合でも生じるものは、「鏡像問題」として扱うのではなく、「2つの形状の比較の問題」の一態様として示すべきだという考え方もあるかもしれませんが、内容が有益であればどの問題として扱うかはあまり気にしないでも良いように思います。<br />ニュートンの運動方程式や万有引力の法則は地上の物体と惑星の運動の両方に共通して適用できることに意義があるという見方は一般的なものだと思いますし、原子レベルのミクロな世界での研究が宇宙の研究に対して適用できた例もあったと思いますし、問題を細分化して他の部分は考えないというより、共通して適用できるものを見出そうとする方が科学者の一般的な姿勢だと思います。ゴマフ犬noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1005992177417970488.post-79484813186922921702015-12-22T19:42:03.499+09:002015-12-22T19:42:03.499+09:00確かに鏡像ではない二つの像で形状の逆転が見られる場合はあります。私が「鏡像に固有」と書かずに「鏡像に...確かに鏡像ではない二つの像で形状の逆転が見られる場合はあります。私が「鏡像に固有」と書かずに「鏡像に特有」と書いたのはそのためです。ただし、鏡像の場合、同じ対象の直接の像と比較して必ず例外なく対掌体になっているのです。それが鏡像であるための必須条件です。その点で全体として鏡像を含まない視空間と明確に区別できるわけです。そもそも「鏡像問題」あるいは「鏡映反転」の問題という以上、鏡像ではない像だけの場合との違い、あるいは差異を明らかにしなければ鏡像問題としての意味がないのではありませんか?<br /><br />今回も3つの記事をていねいに読んでくださり、ありがとうございます。他のコメントには今すぐにはお答えできませんが、今後このブログ(および「発見の発見」)で、鏡像問題や関係する話題で記事を書く際には大いに参考にさせていただきますので、引き続き当ブログをお読みくだされば幸いです。<br /><br />なお、当方、鏡像問題関連ではブログ記事とは別のところで公開したいと考えているワークを断続的に作成準備しています。差し支えなければ貴殿に草稿をレビューしていただければと考えていますので連絡を差し上げるかもしれません。その際はご検討いただければ嬉しいです。田中潤一https://www.blogger.com/profile/12423015027053262241noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1005992177417970488.post-30341192785528525362015-12-19T09:39:57.359+09:002015-12-19T09:39:57.359+09:00>鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。
鏡の有無に係らない、実像という形状...>鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。<br /><br />鏡の有無に係らない、実像という形状と鏡像という形状との比較の意味ではそうかもしれませんが、鏡の存在を問題にするなら「形状の逆転」も鏡像に特有の問題ではないのではないでしょうか?鏡像ではなく、ある物体とその対掌対とを比較する場合にも生じ得るものだと思います。「鏡の存在こそが鏡像問題に固有のものだ」という捉え方もできると思いますが、固有の問題以外は除外すべきだとすると、「形状の逆転」も除外すべき対象となり得ると思うのですが、どうでしょうか?<br />基本的に何を問題にするかは、固有の問題に限定することが必然的と言うわけではなく、個人の主観による部分が大きいと思います。ある説の妥当性は、その個人の主観によって問題にした部分についての理論性や論理性によって基本的に判断されるものであって、何を問題にしたかによって判断されるものではないと思います(その価値を判断する際には関係するとは思いますが)。<br />鏡像問題の議論で私が混乱の原因と思うことの一つは、何を問題にしているかが人によってバラバラであって、他説に対しても解釈(特に、問題としているものが心理的な部分なのか物理的な部分なのか)が適切になされていないがために不要な批判が展開されている部分が多いような気がします。ゴマフ犬noreply@blogger.com