2008年10月20日月曜日

カッシーラー著「シンボル形式の哲学第一巻 言語」を読んで

しばらくまえにこの書物、カッシーラー著「シンボル形式の哲学第一巻 言語」(木田元訳岩波文庫)を一通り読み終わった。もう一度は読み直さないとは思っているが、続刊二巻以降も早く読みたいと思うようになって、先日、確実に置いてある書店まで買いに行った。2,3,4,巻と、何れも2006年11月の印刷で、それぞれ5刷り、4刷り、2刷りとなっている。第一巻はいつ購入したかは忘れたが、印刷日付を見ると91年9月刷りになっている。例の癖で、購入してから読むまでに少なくとも数年は経っている。とにかくこれだけ大部の哲学書を読み通したのは久しぶりだし、第一、その経験も僅かである。他にも、可成り若い頃に購入し、多少は読み始めても、何れ機会が来れば読もうと思いながらずるずると延ばし延ばししてきたことを思えば、続刊の2,3,4巻も読み通す気になっているのは自分にとっては珍しいことだ。自分の性に合っているのか、ちょうど今がその何れ読もうと思っていた時期なのか、ちょうど今読みたいと思っていることが書かれているということか、いろいろ、そういった偶然か必然か知らないが、そういう巡り合わせもあるのかも知れない。他方、現在購入した第二巻が5刷り、第三巻上が4刷り、4巻下が2刷りとなっているのを見ると、出版以来、可成り持続的に多くの読者に受け入れられているように見える。今の時代に迎えられる要素が大いにあるのかも知れない。他方、この著者はいま流行の哲学者のようにも見えないし、超有名な哲学者に数えられる訳でもない。例えば「世界の名著」とか、そういうシリーズに入ることはなかったのだ。まあそれはともかく、とにかく哲学書として、少なくともこの書物だけは四巻最後まで読み通し、できれば熟読したいものだと思っている。

この第一巻「言語」は、著者自身によって「言語哲学」と呼ばれている。確かにそう呼ぶのが相応しいように思われる。どうしても比較してしまうのが、最近読んだ、このブログの8月1日の記事で取り上げた「言語の脳科学」である。こちらは言語学ではないが、確かに脳科学という科学ではあるだろう。科学というものの一面が改めて、今更ながらというべきか、明らかになったような気がする。科学というものは少なくとも簡単に定義できる概念、というより、言葉が見つかり、それを形式的に操作をして、ある程度体系的な表現ができるとなればそのまま「意味」を明確にすることをなおざりにしたまま、見切り発車をして推論をすすめたり、技術的な応用に走ってゆくものなのだということを。それは古典力学にしてもそうだろう。力と質量とは互いに相手との関係でしか定義されないことだとか、ニュートン自身が万有引力の正体で悩んだという話だとか。

「言語の脳科学」では、「言語モジュール説」として「意味」をそれが何であるかを殆ど追求しないまま、それを1つの要素として、あたかも物理的な単位のように取り扱い、言語を文法と意味、音韻、その他に分けられるものとしている。「分ける」という動詞にしてもその意味を深めることのないままに色々な推論を工夫してゆく。

とにかく科学では、もちろん分野、部門、専門によって程度が様々に異なるだろうが、実験や推論の形式的処理の複雑さに比べて「意味」が希薄になる傾向がある。もちろん、人間が思考している以上、意味はある。しかし技術に傾けば傾くほど意味が希薄になってゆき、コンピュータの内部では意味は完全になくなってしまうのだとも言えよう。

この「シンボル形式の哲学一巻 言語」では注釈をいれて500ページ近い(岩波文庫)一巻全体が事実上言語とそれによって表現される意味との関係を軸に哲学史に沿って「言語哲学」が展開されているいうのがざっと一回目読んだ印象である。哲学独特の抽象的な用語による抽象的な表現の難解さには参ってしまうが、専門用語に関しては、特に言語学関係ではあるにはあるが、特殊な用語をそれ程多用しているわけではない。本質的に科学の研究書ではなく、あくまで哲学書である。


ちょうど、はてなのブログ、発見の「発見」で以前の鏡像問題の記事関連して9月19日の記事を書いたときは、この巻を読み終わった頃だった。この、鏡像問題関連の記事の中では、以前と同じだが、 鏡像問題の本質は上下、前後、左右という言葉の意味に深く関わっているというようなことを、書いたのだが、実のところこの時は言葉の選び方に迷ったのだった。あえて「言葉の意味」と言わずとも、概念とでも言えば良いのではないか、言葉よりも概念の方が先立つのではないかという気持ちだったと思う。しかし、上下、前後、左右というような概念は言葉以外の何で表現されるだろうか。音楽ではもちろん表現できない。絵では表現できそうな気もする。しかし、絵は大いに助けになるが、絵だけで表現し、伝えることはできない。文字とか、矢印のような記号とか、言語的要素なしには表現できないだろう。言語は確かに考えれば考えるほど特別なもので、例えば「シンボル形式・・・」を読み始めるまえに読み始めて半分は読んだのだが何故か読むのを中断してしまったウンベルト・エコの「テクストの概念」の初めの方に書かれてあったように「神秘的」なものだとあらためて思う。

横道にそれかかったが、とにかくそういうわけで意味と概念とを意識的に分けて考えることもこの本から学んだ。他にも今の段階でこの本から多くの答を見いだすことができたような気がするが、それ以上に、解らないままに最後まで読むだけ読み進んだというべき箇所があまりにも多い。しかし冒頭に書いたように、再読するまえに続編の「神話的思考」、「認識の現象学」をとにかく読了したいという気持ちが強い

2008年8月9日土曜日

情報と信号 ― 脳とコンピューター

(機械とコンピューターについて)
普通コンピューターはその正式な定義はともかく、情報を処理する機械、情報処理機とも考えられている。機械であることは確かであるが、一般に日本語で機械あるいは何々機という場合の「機」という言葉の意味には微妙なところがある。例えば洗濯機と掃除機を比べてみても微妙な違いがある。洗濯機は、特に最近では自動化が進んでいることもあり、それ自身が洗濯をしてくれる機械というニュアンスがある。洗濯ロボットと言ってもそう変わらない。ところが掃除機の場合は普通、人間がそれを使って掃除をする道具という意識でつかわれている。厳密に考えれば洗濯機の場合も洗濯機自体が「洗濯という概念」を持ちながら洗濯しているわけではなく(もちろん洗濯ロボットも)、人間がそれを使って洗濯しているので、掃除機の場合とそれほどの変わりはない。英語ではそもそも機械という言葉もそれほど使うことがない。洗濯機はWasher、掃除機は Cleaner、掃除に使う薬品類もCleanerであり、掃除をする人もCleanerと言っておかしくない。はっきり言って英語のこの辺りの用法は簡潔ではあるが大ざっぱきわまりない。

洗濯機と掃除機のこの微妙な意味上の違いが現実に何かの問題を引き起こすというはまずあり得ない。実際に洗濯機が洗濯という概念を持ちながら洗濯していると考える人はまずいないだろう。しかし、これがコンピューターとなるとそういうわけには行かなくなってくる。コンピューターはデータあるいは情報を処理する機械と思われている。情報とは本来意味を持ったもの、あるいは意味そのものを指しているのであってコンピューターが実際に情報を処理しているのであるとすればコンピューターは情報の内容を理解出来るのでなければならない。実際、コンピュータ用語としてはコンピューターがあたかも情報を理解しているかのような言葉の用法が頻繁に使用されている。要するに擬人化である。コンピューターあるいはソフトが何かを「認識する」というような表現が実に頻繁に使用されている。こういう擬人化はコンピューター用語としては表現の能率化という意味で仕方のないことであり、必要なことでもあるのだろう。ただこういう事情からコンピューターに心を持たせることが出来るようになるという錯誤に繋がって来ているのだという可能性もある。

少なくとも現在、普通にはコンピューターが心をもっていると考えている人はいない。とすればコンピューターが情報を処理しているというのは正確には誤った言い方であり、人がコンピューターで(を使用して)情報を処理しているのだということは誰の目にも明らかな事であろう。ではもっと正確な言い方はないものだろうか、と考えてみると、信号という言い方が使われている場合もある。信号といえば情報よりは具体性のある、あるいは機械と親和性があるとも言える物質的なものという印象がある。すなわち、電気とか光エネルギーとか化学物質とか、少なくとも物理的なものである。この場合も具体的に電気とか光とか言わずに「信号」という以上、情報と同様、多分に意味性を帯びていることは確かであり、厳密には信号の操作や処理を行うのも最終的には人間である事には変わりはないのであるが、それでも「情報」よりは正確だといえる。またコンピューターは人間が作ったものであり、当然、作った人がいる以上、誰にでもという訳ではないが、解るべき人には仕組みが解っている筈だし、どのように動作しているのかも分かった上での言葉の用法である。信号も現実には何ビットかの電気信号であることが解った上で情報とか信号とかいった言葉を便宜的に使っているだけである。仕組みが全く解っていない人でも少なくとも電気信号であることくらいは分かっている。

(脳科学における情報と信号)
一方何かとコンピューターに比較される脳について考えてみたい。コンピューターに比較されることにより、脳についても情報を処理しているという表現が頻繁に使われる。脳全体についても使われるし、部分についても使われる。ここで、もちろん人間の場合だが、脳とその人そのもの、つまり人格とを同一視するかどうかは非常に重要な問題である。さらに脳全体(辞書では脳波中枢神経系から脊髄を覗いた部分と書かれているのでそれに従うとして)と脳の部分、特に大脳の部分(脳科学の本には前頭葉とか後頭葉とかの他にさらに細かくブローカ野とか何々野、さらには運動野とか聴覚野とか機能と結びついた名前の部分がある)とで同じように考えて良いものかどうかという問題も生じてくる。

すくなくとも脳の小部分、つまり何々野というような部分を対象とする場合、これを人格と同一視することは明らかに無理である。人そのものでないとすれば何か、人体の一部であることは間違いがないが、その人そのものつまり人格そのものと見なすことは無理である。また人格を部分に分けると言うことも無理だろう。もっとも精神分析では人格を部分に分けて考える様なところもあるかもしれないが、はっきりしたものではないだろうし、それが脳の部分に対応しているわけでもなく、現在の脳の研究者の多くはそういう分け方は当然否定している筈である。また無機物と同列に扱う事は無理であるが、情報の意味を理解出来る人格そのものでないことは明白である。とすればコンピュータが情報処理をしているというのが擬人的な比喩であるのと同様にこれも比喩的に「情報」といっているだけであり、情報を処理しているという言い方を適用するには不適当だろう。もし情報を処理しているというなら、脳内に多数の人格が住んでいて、各自の役割に応じた情報処理をしていると考えるより仕方が無い。しかしそういう風に考える人は余りいないだろう。少なくとも科学者を自認する人がそう考えるとは思えない。とすればそういう各部分部分が情報を処理しているという言い方は不適当であり、そういう考え方で論を進めると言うことはあまりにも漠然と現実性のない結論に導かれる可能性が大きいと思われる。

そこで信号を処理するという仮説の立て方がまだ具体性があるのだが、そうなると当然もっと具体的な描写を迫られることになる。信号を伝達するものといえば化学反応を起こす物質の移動か、電気的な動きか、光、その他のエネルギーといった物質的なものに限られる。そうなってくるとそれらが実際にどのようなメカニズムでどのように動きどのように「処理」されているのか何らかのイメージを描けなければならなくなる。それが出来ないから「情報」という言葉でごまかして(意図的ではないにしろ)いるだけではないのかという疑いが起きるのである。

では脳全体としてはどうか。脳全体を情報処理のシステムと考える場合である。情報を文字通りの意味で処理できるのは情報の意味が分かる人格すなわち心を持つものでなければならない。とすれば脳と人格とを同一視することになる。これは自己矛盾と言える。少なくとも人の心を脳の物理的メカニズムで説明できる筈であり出来なければならないという考えの脳科学者にとっては自己矛盾と言える。なぜなら情報は物理的なものではないからである。情報は意味であって意味の分かるもの同士でやりとりするものであり、意味を理解できる者だけが処理できるものである。情報のレベルであれこれを推定して仮説を立てたりしても、それを物理的なものに還元できない限り物理的レベルに還元した事にはならないからである。意味を物質あるいは物質的な現象に還元することなどできる訳がない。意味は何度取り出しても減ったり無くなったりすることがない。全く同じ意味が二つ存在することもできない。忘れることが出来る。また思い出すことも出来る。

以上のように、全体としてにしろ部分的にであるにしろ、脳内で何か情報が処理されているという想定に基づいた仮説の立て方は科学的な思考法としてはどう考えても矛盾があり、無理がある ― 脳内で物理化学的なプロセスしか起きていないという前提に立つ限り。

(付記)
実は、この稿は前回の「言語の脳科学」について述べた感想に続く文脈で書いているが、もう一つの契機がある。それはやはり「言語の脳科学」に書かれていた次の記述がきっかけになっている。
「ペンフィールドほど人間の脳を直接刺激して反応を調べた人はいない。・・・・それにもかかわらず、ペンフィールドは、心が脳とは別物であるという二元論の立場を唱え続けた。・・・・失語症の研究で有名なゲシュビントが、ペンフィールドに会って科学的根拠の乏しい二元論を一般向けに宣伝しないように、と抗議したという逸話が残っている。」

この記述を私はあるブログサイトでやりとりしていたコメントに持ち出したのだった。そのときの文脈は還元主義についての文脈であったのだが、私自身よく還元主義と二元論の問題について整理した上ではないままにこの記述を引用して問題をかき混ぜてしまったこともあり、そこでつまずいてしまったのだが、とにかくペンフィールドがいわゆる二元論を主張した人として有名なことや、他にも二元論を説いた人としてエックルスという有名な研究者がいたことも教えられた。

私は今回、ペンフィールドと言う名前には何処かでであった記憶はあったのだが、何処で出てきた名前かには全く記憶がなかった。これを機にネットで少し調べてみた。そして見覚えのあるイラストが出て来、思い出したのだが、この人のそういった面を知ったのは初めてだった。そして著書の紹介記事なども読み、著書そのものは未だ読んでいないが、上記の点で自分と似た考えを持ったと思われる優れた脳研究者の存在を知って安心したこともこの稿を書く動機の一つになった。

(付記2)
二元論の問題、心と身体の二元論が科学と相容れないものかどうか、またこれが哲学的な、もっと根源的な二元論と同じ事なのか、といった問題は今は避けたい。ただ、要素還元論と心的なものが物理的なものに還元できるという意味での還元主義とは別問題で同列に扱う事は出来ないと思う。

2008年8月1日金曜日

意味と構造、文法と意味、形式と内容 ― 「チベットのモーツァルト」(中沢新一著、講談社学術文庫)と「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中公新書)を読んで。

1.続けて読んだ「チベットのモーツァルト」と「言語の脳科学」の感想。

電車の中で読む本として適当に選び、続けて読んだ表題中の2冊の本は、どちらのも読む前には多少抵抗のあった本だったが、見かけ上きわめて対照的な文章でありながら重要な点で共通する部分のある問題をあつかった本でもあり、両者を併せ読んだことによって自分なりにかなり重要な発見に導かれたように思う。そのテーマは、一言で言えば、また最も抽象的な表現で言えば、「形式と内容を分けるということ」についての問題といえる。

初めの中沢新一著、「チベットのモーツァルト」に関して言えば、著名人といえる著者自身についてと、この書物の評判について多少は知っていたが、具体的にこの本がどういった内容を取り扱った本であるかは、読むまでは全く知らなかった。読み始めてみて、象徴詩の翻訳のように難解な比喩の連続からなる文章で執拗に「意味」について、意味そのものについて述べられていたのがもっとも印象に残ったと言える部分である。そういった難解な比喩の一部は、取り扱われているフランスの学者の言葉に由来しているらしい。私自身はそれらのフランスの学者達の書物、構造主義やポスト構造主義の著作に多少挑戦しようと思ったことはあったが、殆どどの本も読み通すことができずに置き去りにしてきたことを思い出さざるを得なかった。それはともかく、とにかくこの難解な比喩の羅列自体を、そのどのセンテンスにしてもその言葉に即して理解できたとは思わないが、全体の字面を追って読み通すことで、多少は「意味」そのものについての何らかの理解というか、把握というか、印象というかが深まったような気はしたのである。ここでの意味は言葉の意味とか、音楽の意味とか、あるいは単語の意味とか、センテンスの意味とか、多少具体的なものでなく、最も抽象的な意味での意味そのものだろう。

この本については当面これだけのことしか言えないが、この本に続けて次の酒井邦嘉著「言語の脳科学」(中公新書)を読んだことで、後者の扱う言語学と脳科学との関わりにおける中心的な問題と思われる文法と意味、あるいは形式と意味という問題について、自分なりの理解が進んだように思われた。

こちらの方は非常に分かりやすい言葉で、分かりやすく書かれた本である。しかし分かりやすいだけに表面的なにおいもする、というか、ごまかされたような気もしないではない。まず「言語の脳科学」という表題が正確な意味で分かりにくい。せめて副題でも付けて、もっと具体的な説明となる表現にして貰いたいものだと思う。ここで『言語の』が『脳科学』に付けられた修飾語であり、脳科学が基本的なテーマであることは分かるのであるが、『の』を所有格の『の』と見なすことも出来ない。これではあまりにも漠然としている。こういう表題の曖昧さは読者の本の内容への理解にも影響を与えるものだと思う。

本体の内容においてもそういう事が言える。分かりやすい言葉で書かれている変わりに、結果的に解ったようにも思える一方で、あるいは騙されているのではないかというような感じが残るのである。著者に意図的に騙されたようなという訳ではなく、分かりやすい言葉のもつ本質的な曖昧さ、不完全さが露呈している印象である。具体的にいうと、本来、眼に見えるものに対して使う平易な言葉が眼に見えないものに対して使われ、人格すなわち心を持つものに対して使われる言葉が物質や機能に対して用いられる。後者は要するに擬人化である。どちらも日常、科学を問わずごく普通に用いられる言葉の用法には違いはないが、それが脳科学や言語の問題を取り扱うようになると、そういう用語の持つ問題が増幅されてくるのである。

この点で「チベットのモーツァルト」と比較してみる事は興味深い。「チベットのモーツァルト」は、著者の個人的な体験あるいは著者の理解した他の人類学者、哲学者、詩人等の思想をその意味体験そのものを難解な比喩を使って表現したもので、難解ではあるが、表そうとしているのは著者の体験した意味そのものであることが伺えるのである。それに対し、「言語の脳科学」では著者の直接体験ではなく、脳という客観的な対象ではあるが、殆どブラックボックスとも言える対象を外部から、眼に見えるものに対して使う平易な、あるいは単純な言葉、概念を用いて内部のメカニズムを想像し、仮説を立てようとしている、といったところだろうか。また言語という、やはり眼に見えないものであるが、本人の体験からは独立したものを外部から眼に見えるもの、物理的なものに対して用いる分かりやすい言葉で分析しようと試みていると言えるのである。

一言で言って、現在の脳科学における言語に関わる部分と、それに関わる限りでの言語学の状況を、矛盾に満ちた現状そのままに分かりやすく提示されたと言う印象である。但し、これまでも脳科学に関する文章に接する際に、大抵の場合に抵抗として感じられる、特有の言葉の使い方がここでも大いに気になるのであり、個人的にはその抵抗を解明する必要を強く感じるのである。


2.言葉を文法と意味とに分けるということについて

「言語の脳科学」の中でキーポイントとなる章、部分は言語が文法と意味とに分けられるという問題を論じた第三章「言語はどこまで分けられるか」だろう。

「分ける」という表現をもちいる場合、普通の物体を分けるのなら、ただナイフで切り分ける場合もあれば、化学分析で成分を分ける場合もある。その意味は全く異なったものであり、技術的な困難さもまた異なる。また対象が生き物で、それが高等動物であれれば、頭と身体を切り分ると死んでしまい、もはや生き物ではなくなる。下等動物や植物では切り分けても再生する場合がある。

現に、この第三章、「言語はどこまで分けられるか」には次の様に書かれている箇所がある。「統語論・意味論・音韻論を言語の三要素として考えることにしよう。」ここでは言語には「論」がついていないが統語と意味と音韻には「論」がついている。つまり、ここでは言語学あるいは言語に関する考察を統語論・意味論・音韻論に分けて考察するということと、言語そのものが統語と意味と音韻とに分けられるという可能性とがすり替わっているのである。

文法と意味とを分けると言うが、分けるとは具体的にはどういう事だろう。ある文から文法構造を抽出することはできる。しかし文法構造を抽出して残るはずの意味は何処に残っているのだろう。水を酸素と水素に分解するようなわけにはゆかないのである。ある文から文法を抽出することはできても、意味の方は抽出することはできない。これを「分ける」と言って良いものか。確かに文法と意味とを分けて考えることはできるかも知れない。しかしある具体的な文を文法構造と意味に分けることはできない。

何故言語から文法を取り出すことができるかと言えば、文法それ自体が意味と形式を備えたものであって、それ自体を言語で表現できるからである。それに対し、意味を取り出すと言ってもそれ自体を意味と形式を備えた言語で表現しない限り、「これが意味です」と言って意味だけを示すことができない、つまり文章の意味(名詞の単語の場合は別の考え方をしなければならないが、当面は文)を言語で表現すると、自動的に文法を備えた文、すなわち元の文章そのものにならざるを得ないからである。ということは、文法の方は形式であると言っても、それ自体意味と形式とを備えているために、それを言語で表現できるからに他ならないのである。文法は主語とか、動詞、目的語、といった抽象的なあるいは機能的な意味を持つ要素の構造であり、それ自体が意味を持っているし、構造そのものも 1 つの意味と言えないこともない。

要するにこれは、無理に例えると、容器中の液体のようなものかも知れない。もちろん容器が文法で、容器の形を持った液体が意味である。器によって形を持った意味が捉えられる。

もう少しこの比喩を推し進めてみたい。例えば無色透明なワイングラスに赤いワインが注がれているとする。ワインはグラスの形に従い、美しい色と形を持った一体のものとして眼に見える。しかし、無色透明なワイングラスも眼に見えないわけではない。ワイングラスも中のワインと同じように物質で出来ている。酸素が重要な主成分であることもワインと変わらない。要するにワイングラスもワインに形を与える形そのものではなく、ワインとそれほど変わらない物質で出来た物体であり、ワインが液体であるのに対し、それが固体であることだけがその違いである。文法もそういう意味でワイングラスの様なものということが出来る。文法自体が意味で形作られているのである。

このように、言語から文法を分けて論ずると言われることは、言語から文法を取り出す、あるいは抽出するという方がまだ適当だろう。しかし、それでも、言語から文法を抽出したとして、その残留物には文法がもう含まれていないわけではない。文法を抽出された元の言語は依然として元のままである。要するに言語を意味と文法とに分ける事は出来ないのである。ということは、言語から文法を抽出するという言い方も、分けるという言い方と同様、誤解に導かれる表現なのである。

物質とは限らないが、普通一般のものは、その一部を取り分けたり、化学分析のように成分を抽出したりした後には取り出した成分が残らないのが普通である。それに対し、いくら取り出しても、何度取り出しても、減りも無くなりもしないものが有る。情報、知識、意味等の言葉で表されるものがそうである。

ということで、文法それ自体も言葉そのものと同様、意味を持つものだと思うのである。但し、「意味を持つ」という言い方も、これまた比喩であり、誤解に導かれることを避けることがむずかしい。

文法も含め、言語は意味を持つというよりも、意味を表現するものなのだ。意味は言語の成分ではなく、言語によって暗示され、表現されるところの、言語とは全く別のものなのである。

実は今、カッシーラーの「シンボル形式の哲学第一巻」(生松敬三、木田元訳、岩波文庫)を読み始めたところだ。これもまた難解な書物だが、ちょうど4分の1ほど読み進んだところに次の様な記述がある。

「プラトンにとっては語の物理的・感性的内容がイデア的意義の担い手となるのであるが、意義そのものはやはり言語の枠内につなぎ止められるものではなく、言語の彼岸にあるものだ」

実際、言語作品にしても音楽のような芸術作品にしても、高度なものは一度や二度くらいの体験では解ることが出来ない場合が多い。何度読んだり聞いたりしても、最後まで解らない場合もある。しかし意味が無いのではなく、解る人には解るのである。

こうしてみると、「心を持つ機械を作る」などという発想が如何に現実離れした無謀なものであるかということが思い知らされるのではないだろうか。

この本で「分ける」という表現と並んで気になる表現に「処理する」という表現がある。例えば、脳のある部位が文法を「処理している」とか、意味を「処理している」というような表現で、一般に脳科学などでは頻繁に使用される用語である。こういう表現の始まりは情報科学、コンピューターサイエンスなどで盛んに用いられる情報処理ということばだろう。コンピュータは情報を処理する機械とされている。私の考えでは、コンピュータ-そのものは情報の処理などはしていない。人間がコンピューターという機械を使って情報を処理しているだけである。

2008年6月14日土曜日

前回に続けて

このブログを始める直接の発端は、はてなのブログ「発見の発見」で取り上げたニューヨークタイムズの記事に対して頂いたコメントから、クオリア問題へ注意が向けられたことだった。これは前回の記事でとりあげたとおりである。しかし、正直なところ、このニューヨークタイムズの記事自体はそれほど精読したわけでもなく、それ以後も繰り返して読んではおらず、内容もよく記憶してはいなかったのだが、前回の記事を書いた後に改めて読み直してみて、蒼龍さんから頂いたコメントや氏のブログにおけるクオリア論で言及されている事柄の幾つかが明らかになった。またそれ以外のクオリア論、茂木健一郎氏のクオリア論もインターネット上で上で一部を読むことができた。もっと早く読むことも出来た筈だが、結局は怠けていたということだろう。

ニューヨークタイムズのこの記事 "Mind of a Rock "http://http://www.nytimes.com/2007/11/18/magazine/18wwln-lede-t.html?ref=science
では最近の汎心論に関わる哲学者として、アメリカの哲学者 Thomas Nagel、オーストラリアの哲学者David Chalmers、オクスフォードの物理学者Roger Penrose、そしてにはイギリスの哲学者Galen Strawson の名前を挙げている。これらの学者の著書の中で最も新しい、Galen Strawson の“Consciousness and Its Place in Nature,”という著書が、直接にはこの記事に繋がっているのだろう。というのも新聞記事として最近の話題を取り上げるのは当然のこどだし、はっきりと汎心論を全面に掲げて"Galen Strawson defends panpsychism against numerous critics"といっているからである。Galen Strawson という哲学者はそれほど有名では無いようだ。あまり他で言及されていない。有名なのはチャーマーズとペンローズのようだ。たしかに何処かで聞いたことのある名前ではあった。

このウィキペディアなどである程度分かったことは、茂木健一郎氏も蒼龍氏も、チャーマーズの著書の影響を受けたり、あるいは評価したりしているが、影響の受け方、評価の仕方が異なっているということのようだ。蒼龍氏から見れば茂木氏はチャーマーズのような徹底さと厳密さが欠けていて、間違って飛躍した想定を行っているということであろう。

チャーマーズ自身は汎心論に与している訳ではないと、ウィキペディアなどには書かれているが、このニューヨークタイムズの記事では汎心論に与しているように受け取れる。1行言及されているのみだから何ともいいようがないが。チャーマーズの、この問題の著書は、蒼龍氏によれば「ゴリゴリの分析哲学」で、翻訳があるものの相当手強いものであるらしい。それはともかく、色々な言及をみてみると、チャーマーズ自身もクオリアという言葉とその概念を重視していることには間違いは無いようだ。できれば読んで見たいが、そのような「ゴリゴリの分析哲学」でなくとも別の行き方でも、汎心論問題にアプローチできるのではないかという気もする。

以上の文脈でのことは今のところお預けと言うことにしておいて、今のところ、だいたい毎日少しづつ、ウンベルト・エコの「テクストの概念」をよみ、電車に乗るときには最近の文庫本で中沢新一著の「チベットのモーツアルト」を読んでいる。こちらの方は難解な比喩の羅列ばかりが延々と続き、さっぱり分からないが、それでも慣れてくると、特に退屈することもなく、淡々と字面を読み進むこと自体は可能であるのは面白い。昔、中沢氏の別の本を買っては見たものの、難解なだけでさっぱり興味がわき起こらなかったためにこの有名な本のことも敬遠していたのだが、たまたまつい最近、手元にあった1000円の図書カードを使おうと思い、手頃な文庫本を探しているときに見つかった。「意味」そのものについて難解な象徴を使って繰り返して繰り返し論じているこの書物は論理学上の、あるいは言語上の意味論と言えるのかどうかはさっぱり分からないが、エコも、意味は神秘的なものであると言っている。

2008年5月12日月曜日

意味とクオリア

クオリアという言葉とその意味とを知ったのはつい最近のことである。

一昨年から昨年にかけてだったか、NHKテレビで今もやっている「仕事の流儀」という番組を、続けて見ていた時期があった。 最初にこの番組を見たとき、この番組キャスターの茂木健一郎さんの話しぶりは好感が持てたし、インタビュアーとしてのゲストへの質問とコメントも充実した内容で聞き応えがあるように思われたのだけれども、いつも最初に、枕詞のように「脳が考え、脳が感じ・・・」と、脳を主語にしたフレーズを連発されるのには辟易し、感情的で申し訳ないが、その後の番組の内容を聞く楽しみも割り引かれてしまうのだった。 その後この番組はゲストによって見たり見なかったりしたが、時間帯が変わってからは見なくなってしまった。 少なくとも当時は、番組の内容自体は面白かったが、ただ、毎回聞いているうちに、音楽あるいは音響効果なども使った演出とナレーションが鼻について来たこともある。 とにかくこれがきっかけとなって、著書を買って読むことはなかったが、インターネットで茂木さんのブログなどを見ることがあった。 そこでクオリアという言葉を知ることになったのだけれども、ブログではどのページでも、そのときに見た限りにおいて、クオリアの意味についての説明はなかった。 しばらくは特に気にしていなかったのだが、あるときに、たぶんウィキペディアで、その意味を調べ、それが「感覚質」と訳されるもので、色などの感覚内容のことだと知ることになった。 ちょうどその頃、はてなで公開しているブログ・発見の「発見」のある記事に、ハンドル名を蒼龍さんという方からコメントを頂き、そのコメントの中で、氏のブログ中のクオリア論を紹介されたのをきっかけに、クオリアについてさらに考える様になった。 氏の、そのクオリア論は茂木さんのクオリア論の批判として展開されていたことも興味をひかれた理由になっている。

『日本の俗流クオリア論を撃破する http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1』(2008/03/13 00:29)』

そのクオリア論で蒼龍さんは、茂木さんのクオリア論を批判したうえで、クオリアの存在は科学的に意味が無く、哲学的にも重要ではないという趣旨を述べておられる。 私は「脳がクオリアを生み出す」という表現にも違和感、抵抗を感じるのだが、クオリアを蒼龍さんのように無意味なものとも思えないのである。

蒼龍さんの同じブログで4月1日の記事で「クオリアが脳に影響を与える」という現象があり得るかどうかが問題になっている。

クオリアが脳に影響を与える??
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080401 

これは経緯から、飲茶さんという方のサイト:
哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html

で述べられている事に対する論評と思われ、このサイトで問題にされている「クオリアが脳に影響を与える」という現象は定義上ナンセンスであるとしている。 定義という言葉の意味そのもののが抱える問題はさしおき、私には「クオリアが脳に影響を与える」というのは無意味とも思われない。 ただ、「脳がクオリアを知る」という表現には抵抗を感じるのであるが。

このサイトで例として引かれている現象、すなわち、赤信号を見て危険を感じ、行動に変化を生じるという、ごく普通の人の行動を物理的に説明するのに、特にクオリアを持ち出す必要がないということは、両者とも一致している。 ところが飲茶氏の方は「脳がクオリアを語る」、「脳がクオリアの概念を知る」、あるいは「脳がクオリアに気づく」、といった表現から、クオリアの存在自体と「クオリアが脳に影響を与える」ということ自体は疑えない事だとしてそれ以後の議論を進め、メカニズムは謎であるものの、物理的に脳がクオリア発生することを認めざるを得ない事としている、と説かれているようである。 ここでは「クオリアが脳に影響を与える」という問題から「脳がクオリアを発生する」という問題への転換が見られる。 これをフィードバックのメカニズムで説明されているようであるが、このあたりはよく分からない。

この議論ではクオリアが存在するとすれば、それは脳が発生したものでなければならないという前提にとらわれているような気がする。 当然のことながら、仮に、心は脳から単独に発生するものだという帰結が約束されているとしても、依然として心と脳とは全く独立した別物である。 別ものである心と脳との関連に関する仮説に過ぎない。 性急に、心が認識するところのものであるクオリアが脳から発生するものだというような結論を下す前に、クオリアが脳に影響を与えるという可能性について、もう少し多面的に検討してみる方が、またクオリアの意味を深めること、精神生活のなかでクオリアの存在の意味、クオリアの存在を前提とせずに心理現象、精神生活の豊かな考察が可能だろうかという問題に対してもっと幅広く考察することの方が当面は重要な事なのではないかと思う。 もちろん脳からクオリアへの影響あるいは寄与(脳がクオリアを発生するということではなく)があるということは当然のことである。 だから、クオリアがどこから来るのかといった問題は後回しとし、クオリアと脳との相互関係といったものが有るかどうかを多面的に、説得力を持つように証明し、あるとすればどのようなものかを研究することが当面の課題として興味が持たれるところではないだろうか。

色彩はもちろん、イメージそのもの、また音、音色、その他諸々の感覚内容を伴う心の状態と脳との関係を考える場合、上記の赤信号とそれを見て影響を受ける人の行動のような例の他に、全く性質の異なった現象がまだまだ、色々とあるはずである。 まず記憶という問題がある。 記憶があるならまた当然、想像力という心の働きがある。 さらに、幻覚、夢、また可能性として神秘体験といわれるものもある。 こういったものをクオリアの存在を前提とせずに考え得るかどうか。

また心理的な色彩学とか音楽理論とか、そういったものもクオリアの存在と有意味性、重要性を前提とせずに成り立つかどうか。

一方、共感覚というものがあるといわれる。 特定の音から特定の色を知覚したりする、要するにある感覚の特定の内容が異なった感覚の特定の内容を呼び起こすという現象である。 この現象は脳内の異なったそれぞれの感覚に対応する回路がつながっていることから起こると説明されており、確かにそう考える事は分かりやすい。 しかしこれも具体的に、正確に分かっているとは思えず、ただそう考えると分かりやすいということではないだろうか。 ウィキペディアで見た範囲だけれども、共感覚の場合は実際に感覚器官に刺激が生じている訳ではないらしい。 この現象を異なった感覚のクオリア同士の接点のようなもので生じると考えること、あるいはクオリアの領域内で生じている現象であって脳機能が関わっていないというような仮定も出来るはずである。

さらに重要な場合として、言葉とコミュニケーションが介在する場合がある。 先の赤信号の例を用いれば、盲目の人(先天的な盲人と後天的な盲人両者を想定する必要があるが)に対して、「赤信号だよ」と教えたりする場合である。 こういう場合、例えば赤という言葉の意味は何かと考えれば、それは時と場合とによって様々なニュアンスがあろうけれども、基本的にはそれは「赤のクオリアだ」としか言いようがないのでは有るまいか。 そしてこの言葉が盲人の行動に影響を与えたとすれば、紛れもなく「クオリアが脳に影響を与えた」ということが出来るのではないか。 当然、先天的な盲人の場合はどうかが問題になる。 先天的な盲人の場合、目下のところ、赤の意味は赤の想像であるとしか言いようがない。 いずれにしてもこの場合の「意味」内容は物理現象であるとも、生理現象でもあるとも言えないと思うのである。

2008年4月21日月曜日

最初に、

三つの出会い、あるいは契機

ⅰ意味論

大学時代、最初に購入した論理学の教科書「論理学概論」(近藤洋逸、好並英司著、岩波書店刊)は、途中までは何度か学習したものの、拾い読みは別にして、最後まで読み通すことは今に至るまで無かったのだが、末尾に掲載された多数の文献集は何となく眺めたことが何度かある。その多数掲げられた文献集の最後の数行に意味論の文献紹介があった。それまでに掲げられた文献に比べると極端に少ない。少ないだけではなく「その他」のカテゴリーに含められ、さらにその最後の数行なのである。その部分は次のようなコメントで始まっている。「本書では省略した意味論(記号論)に関するものを挙げておく」。そして数冊の英語の書物のリストで終わっているのだが、その中に一冊だけ翻訳されているものが紹介されていた。
Langer., S. K. : Philosophy in a new key,(1957) (矢野・池上・貴志・近藤訳:シンボルの哲学 岩波書店)
この本は大学時代に一通りは読み通した数少ない哲学書の一つになった。

この論理学教科書の本文では、前書きも含め、意味論という言葉は一切出てこない。「意味」は索引では一度だけ出てくるが、その箇所は、冒頭のページで「内包または意味という」というフレーズだけであった。その後は全て「内包」が用語として使われている。

末尾の文献集で「本書では省略した・・・」と書かれている以上、本来は意味論も論理学に含まれるべきものであることが暗黙のうちに了解されるのであるが、それにしては本文で全く触れられることがないというのはどういうことであるのか、当時はそれほど意識して考えた記憶はないがが、後になって考え込んだことがある。これは授業でも同じことであって、実は大学教養課程での論理学の講義を受けた経験は、教養課程一年だけで中退した大学を含めて二回あるのだが、どちらの場合も論理学の授業中に意味論に言及されたことは全く無かったのではなかったか、と記憶している。

しかし当時、上記「シンボルの哲学」を購入して読んだということは、たまたま入手しやすい翻訳本があったことも理由ではあるけれども、やはり私は当時から意味論に惹かれていたらしい。この本の末尾の方に著者が影響を受けた学者を何人か列挙している箇所があった。そこにはショーペンハウアー、ニーチェ、フロイト、カッシーラーが含まれていた(今手元に本がないので確認できないが)様に記憶している。これらの人物の著作も、私がこれまでに読んだ、本当に数少ない哲学書 ― フロイトの場合は哲学書ではないのかも知れないが ― に含まれている。カッシーラーはこの本で触発されて読んだのかも知れないが、その他は必ずしもそうではないと思う。私は常に意味論につながるような傾向には相性が良かったのかも知れない。

とはいっても、専攻していたのは哲学でも心理学でも言語学でもなく、地質鉱物科学だった。その地質鉱物学の勉強に際しても、どうも勉強の要領が悪く、色々と余計なことが気になった。とくに言葉の問題 ― 具体的には覚えていないが ― が気になることが多く、将来、科学と言葉の問題について専門的に考えてみたいと思うようなこともあったが、職業的にそういうことが実現できる可能性もなく、色々と迷い続ける間に時間が経過し、卒業、就職という時期を迎えることになった。

1990年代初め、あまり科学技術とも思索とも関係のない、時間ばかりを消耗する仕事を続けていた時期に当たるが、それでも散発的に買い求め、殆ど積ん読状態になっていた本の中に、意味論に該当する、少なくとも二つの書物があったのを今取り出してきて、最初から読み始めたり、拾い読みしたりしている。ひとつはウンベルト・エコ著、谷口勇訳、「テクストの概念」。もう一つは雑誌「imago」の「認知心理学への招待」特集号。後者は拾い読みで終わりそうだが。


ⅱゲーテ

大学時代の鉱物学主任教授が、口癖というほどではないが、よく口にされていたフレーズは「科学は人間性を疎外しますからね・・・」というものだった。この言葉は私にとって理解のある有難い言葉に思われたが、必ずしも専門の学業に励むための激励の言葉にはならなかったかも知れない。そのことはともかく、その先生はゲーテのファンであった。また、ショーペンハウアーを偉大な哲学者として評価する人でもあった。
私は、当時はゲーテの科学に関わる文章を読むことはなかったのだが、ずっと後になって、どういう訳か、当時やっていた仕事が不景気で暇になってきた頃にゲーテの色彩論その他を読むことになった。ちょうどその頃、岩波文庫版のゲーテ色彩論が再版されていて、書店で見つかったからかも知れない。これとそれ以外に他社から出されていたゲーテの科学論文のアンソロジーなども少しは読んだのだが、これらを読んだことは重要な体験となった。。

ゲーテ色彩論でゲーテが特に口を酸っぱくして述べているように思われたのは、特に科学と言葉との関係であるように思われた。岩波文庫版の色彩論ではゲーテの色彩論そのものについての文章はそれほど多くを占めてはいなかったように思う。

言葉は全て比喩であるのに、近代科学では比喩が定義という形で固定化されて一人歩きするようになったことによって問題が生じてくる、というのが大ざっぱな要約といえるかも知れない ― 私の勝手な要約だが。

当時時々行くことのあった日比谷図書館に古く大部なゲーテ全集があって、ある時、科学論集を含む巻もあったのをのぞいてみた。それにはハイゼンベルクがゲーテの科学について述べた文章が収められていた。その巻の解説には、ハイゼンベルクはゲーテの科学論文をひもとくことによって不確定性原理を確立する一つのきっかけとなったのだ、といったことが書かれてあったが、そのハイゼンベルクの文章そのものにはそういったことは何も書かれていなかった。むしろゲーテに対する批判になっていると見られる箇所も多いように思われた。少なくとも単純にゲーテを礼賛しているわけでは無かったが、しかし、遠い将来にはゲーテが望んでいたような科学が行われる時代が来るのだというニュアンスをにおわせることによってゲーテの科学を支持するとも言える内容になっていたといえる。少なくとも当面はゲーテが望んだような科学ではなく散文的で退屈で数学を駆使した骨の折れる精密科学に精を出さなければならない時代が当分は続くのである、と。これを見るとハイゼンベルクは科学を固定的に考えていなかったことが分かる。古代には古代の科学があったし、未来には未来の科学がありえる。ゲーテにはゲーテの科学があった。現代は近代科学、あるいは現代科学の時代である――ここでは精密科学という表現が使われていたが。もちろん科学は真理そのもででもないし、どんな科学にも間違いはありえる。場合によれば想像や思い違い、あるいは悪意あるねつ造などもあるかも知れない。しかし科学は骨董品のように、本物があって偽物があるといったものではないのだ。――もちろんこの部分は当の論文に書かれていたことではない。

このハイゼンベルクの文章はたしかに感銘深いものであったが、不満であったのは言葉の問題、ゲーテの重要なテーマである科学と言葉の問題には直接触れられてはいなかったことであった。


ⅲ情報科学・技術と脳科学

当時はバブル崩壊後の不況もあって仕事に行き詰まると同時に、一方ではパソコンが急速に普及し始めた時期でもあった。そういう状況だったから、何が何でもコンピューターに関する知識は必要だと思い、放送大学で「情報工学」と「プログラミングの基礎」を受講した。どちらも十分によく学習することが出来たとはとても言えないが、このときの教科書は教科書として内容が濃く好感も持てるものだった。個人的な動機、目的や成果などはこの際どうでもいいことだが、この時の教科書を部分的にでも読み返すたびに考え込んでしまうことがある。それはコンピューターサイエンス、情報科学等はいったい科学上の分野としてはどういう位置にあるのか、という問題である。この教科書の冒頭にも情報工学という名称について、これに類する日本語と英語のおびただしいネーミング例が挙げられている。既存の伝統的な科学分野を参照して考えると、論理学、数学、と重なる部分や、隣接するとも言える部分があることは間違いがないが、それ以外に言語学とも近い部分があることも、どうしても受け入れなければならない。実際プログラミング言語は言語と呼ばれている。

実はこの「プログラミング言語」という言葉、これを「言語」と呼ぶことには当初から違和感、あるいはそれ以上の反感さえを持ち続けてきた。書店のコンピューター書籍売り場やソフトウェアの売り場などで「言語」という分類を表示したコーナーなどを目にする際には不快感さえ感じてしまうのだった。教科書にはどこかに「プログラミング言語が言語であることは証明されている」といった記述があったように思う。言語の定義からそういうことが言えるのだろうが、定義そのものの意味もそう確かなものではないことはこの教科書自体にも触れられている箇所がある。

しかしこの反発は単に感情的なものかも知れないし、何らかの統一用語は避け得ないものだからそれが嫌いな言葉でも仕方がない。しかし、例を挙げると、機械言語とは「機械が読み取ることが出来る言語である」とか、「機械が理解できる言語である」といったような表現になると、これはどう見ても擬人的な表現になっていると思うのだが、専門家を含めて一般的にもこういう表現が擬人的な表現とは意識されていないということにも気持ちの悪さを覚えるのである。というのは放送大学の受講中に何回か教授に質問することが許されていたので、情報工学または業界では擬人的な表現が多く使われることについてコメントを求めたことがあるのだが、その際に教授から「私は特に擬人的な表現が多いとは思いません」という返信を頂いたからでもある。

考えてみると擬人的な表現は比喩一般と同様、日常言語のあらゆる局面に充満しており、何度も使われるうちに比喩であることが意識されなくなっている。科学技術の用語でも同じことがあり、それがまさにゲーテが問題にしていることの一つであると思われたのである。

脳科学でも以前から似たようなことが気になって仕方が無かった。

脳の働きについては例えば、「最近になって脳の機能が解明されてきたので脳と心との関係が解明出来る時が来つつある」といった類の表現は、マスコミの科学報道や書籍の宣伝などでよく耳にする言葉であるけれども、こういう表現はもうかなり前から、昔からといっても良いと思うが、繰り返し使われてきたような気がするし、これから何十年先になってもこういう表現が使われ続けるのではないかと思うことがある。もちろん具体的な部分では、また応用的な部分ではめざましい進展があったに違いないが、核心の部分ではそんなには変わってもいないのではないかと思うようになり、以前は脳科学の本も購入して読もうとしたこともあったけれども、最近は興味を持たなくなっていた。しかし世の中ではコンピューターの発達と平行して脳科学への関心がますます高まっているように見える。これは技術面、応用面の広がりからいって当然ではあると思うのではあるけれど。

情報科学と同様に脳科学でも、比喩と擬人的な表現が至る所に充満し、気づかないところにも潜んでいるように感じられる。脳科学ではコンピュータを脳の比喩に用い、情報科学では脳をコンピューターの比喩として用い、この両方向の比喩が錯綜している。一方が他方の言葉を比喩的に用いているときに、その表現の内部に逆向きの比喩が潜んでいたりする。ということで、小さな本でも、そういうところで躓き、先に進めなくなってしまうのだった。

コンピューターサイエンスの方は、技術的に成果が上がれば、基本的にはそれで良いわけだから、技術的に有効ならどのような考え方も「有り」かも知れない。またコンピューターそのものは無機物であって明らかに人間ではないのだから、擬人的な表現とは見なさない立場に立っていたとしても、少なくとも見かけ上の擬人的表現を見つけることは容易である。だが脳科学ではそうではない。脳は臓器であって人間の身体の一部である故に、擬人的な表現が使われていても擬人的表現とは見えにくい。


ウェブサイトとブログの開設

一昨年の秋に、はてなのダイアリーで『ブログ・発見の「発見」』を開設しました。これにはり利己的な理由を含め幾つかの動機がありましたが、形式としては、ウェブ上の日本の三つのニュースサイトとニューヨークタイムズ、およびBBCニュース、それぞれの科学・自然のセクションの中から発見のニュースと言えるものをリストアップしてホームページに掲載した上で、ブログでコメントするというアイデアでした。もちろん私は科学上のどの分野でも専門的に論評出来る見識を持つわけではありません。ただ、一般人の立場で、特に言葉と意味にこだわり、科学と言葉、意味について考えさせられるケースを集めて、考える材料にしてみたかったことが基本の動機になっています。そこではニュースサイトの科学ニュースを題材にするという制約を掲げていますので、それとは別に、特にそういう制約を設けずに、主として科学上の意味にまつわるちょっとしたメモや、あるいは多少まとまった断片を書き留め、望むらくは考え方は異なっていても同じ興味をもって見て頂ける方々のコメントをも期待する目的で、こちらにも新たに、意味について考えるブログを設けました。読書ノート、あるいは読ウェブ・ノートの様なものから、スポット的な思いつきや提案など、何でもありのつもりでやってゆきます。いずれにしても困難な、哲学的な意味論より、『発見の「発見」』と同様に具体的な事例に傾きそうです。