2009年2月15日日曜日

キリスト教原理主義について ― 「ニセ科学論議」との関わりで

キリスト教原理主義と呼ばれる宗派のすべてか、少なくとも多くはヤングアース創造論者であるといえる。現在日本で言われているキリスト教原理主義の正確な定義はよく知らないが、この辺りの状況は、日本のマスコミではアメリカの国情として取り上げられるだけのように見える。しかし、現実にはアメリカの一部だけではないのではないだろうか。BBCニュースの科学欄などを見ていても、イギリスやヨーロッパ大陸でも地質学と生物進化論に関わる部分で、このキリスト教原理主義的な傾向の高まりが見られるらしいし、日本にも予想以上に浸透してきているのではないかと思える。


もう20年以上も前の話だが、あるプロテスタント教会とその牧師さんに近づきになったことがある。独立系で正統的なプロテスタントを自認しており、その信者の1人の話では、自分はカルバンの思想に近いのだといっていた。牧師さんによれば、根本主義者、 (当時fundamentalismは原理主義ではなく根本主義と訳されていた)と呼ばれている宗派はプロテスタントではなく、エホバの証人や統一教会などと同様に新興宗教なのであって、自分たちはそうではなく、あくまで正統的なプロテスタントであると主張していた。しかしその教会では当時盛んに、今でいうヤングアース創造論者の講師を迎え、講演会などを頻繁に行い、地球の年齢は6千年であると主張し、地質学の攻撃をやっていたのだった。その講演の内容は完全なねつ造に基づいた、あきれるようなものだった。そのやり方というのは、現代の地質学の説明をしてからそれを攻撃するわけだが、その批判される現代の地質学というのが全くのねつ造であったのである。地球科学での地球の年齢というのは当時と今でも殆ど変わっていないと思うが、当時の定説で45億年の筈だったのが、そのねつ造地質学によると10億か100億という切りのいい数字であったように記憶している。それをまた切りの良いように10程にわけ、原生代とか古生代とか、聞いたことのある名称を割り振っただけのものであり、そういったでたらめの地質学をねつ造した上で、それをコテンパンにやっつけて地質学のいい加減さを説いていたのだった。そういった資料のすべてはアメリカ製だった。もしもニセ科学と呼べるものに近いものがあるとすればそれこそニセ地質学であり、ニセ科学とも呼べるものだろう。私はニセ科学ということばの使用に反対しているが、このように限定して局所的に、正確に使用すれば問題はない。しかし現実には言葉をそう正確に使用する人は専門の科学者にもあまりいないのである。


この場合もいったんその資料についてニセ科学というような言葉を使い出すと、そのような原理主義信仰そのものについもニセ科学と呼ぶようになりがちである。現実には現在の「ニセ科学批判」者の多くはこのキリスト教原理主義についてはあまり言及することはないようなのでそのこと自体は起きていないが、このキリスト教原理主義の思想の問題はあくまで宗教の問題とか、宗教と科学との関係の問題といったコンセプトで論議されるべき問題であって「ニセ科学問題」というような変な枠組みで論議するものではないと私は思う。


しかし、いずれにせよ、このこのキリスト教原理主義の問題は興味深い問題であり、と現在オカルトとか言われているようなものとの比較からも何か重要な論点が現れてくるような気がする。


このブログの先日の記事で触れたことだけれども、カッシーラー著「シンボル形式の哲学第2巻・神話的思考」の最終章に主要な宗教を比較した部分があり、そのキリスト教に関する記述には現在のキリスト教原理主義の理解にも非常に示唆的なものがあるように感じられた。ただ掘り下げて理解するには一筋縄では行かないような気はする。

2009年2月14日土曜日

カッシーラー シンボル形式の哲学[2]神話的思考、を読んで

昨日、何とかこの2巻目を読み終わった。読み始めたとき、第一巻の「言語」よりは読みやすそうだと思ったのだが、その期待は裏切られた。とにかく1巻目同様難しかったし、続いて読み始めた第三巻は更に難しいかもしれない。この本よりももっと有名で、かつもっと読みやすい哲学書もあるかも知れない。もっと多くの人が読み、世界に影響を与えてきた、いわゆる必読書で、これよりも読みやすいものもあるかも知れない。しかしそれにも関わらずこの本が私に合っている、相性が良いという気がするのである。難しく読みづらいけれども、原著者をも翻訳者をも非難する気にもなれない。とにかく読み進むしかない。

この2巻目を読みながら絶えず気になることは1巻目の「言語」とこの間の「神話」との関係である。どちらもシンボル形式ということで、1種の並列あるいは平行関係のように扱われているわけだが、言語と神話とが並列的に扱われるということはどういうことなのかという、疑問が解決されないままに読み進まなければならないことが1種の負担になる。それに対する著者の、一種の答が最後章に現れる。「むろん言語と宗教の種的な相違を何らかの根源的統一性のうちに解消することなど問題になり得ない」、「シンボル形式の哲学の問いは、共通の起源にではなく、共通の構造にかかわるものだからである。」、要するに構造ということのようだ。

この、巻の最終章で、代表的な宗教の幾つかが比較して扱われる。ユダヤ教、ゾロアスター教、仏教、そしてキリスト教。この部分の各宗教についての説明は、基礎的な部分での難しさがあるものの、表面上、簡潔で説得力がある。仏教についても、なるほどと思わせられるものがある。しかしやはり最後のキリスト教に関する部分が多くを占め、強い問題意識で扱われている。この箇所は現在のキリスト教の動きを考える上でも非常に重要な論点を整理した形で提起している。

2009年2月11日水曜日

「ニセ科学」という概念とカテゴリーの持つ問題について


以前はてなのブログ『「発見の」発見』でニセ科学批判に関する問題を取り上げたところ、そのブログとしては最も多いアクセスがあり、そのブログの記事の中ではもっとも反響のあったものだった。


この記事はそのブログの建前として、毎日新聞科学欄の記事に即して書いたものだった。その時はあまり系統的に、また緻密に考えることはなかったのだけれども、その後もこの問題については色々と考えざるを得ず、折を見て考えをまとめようと試み、今回一通り納得がゆくようにまとめる事ができたと思う。

「ニセ科学」という言葉、概念を根拠にある種の言説を批判する立場 の多くは、建前上、そういう理念的というか理想的な科学を根拠にそういう批判を行っている訳だが、実際、現実にはそういう理念的な科学ではなく、現実のコミュニティーの内実から沸き上がってくるような批判を行っているという事ができそうな気がする。というのは、次のような事情があると思うのである。

現実の科学はオーソリティーをよりどころとする1種のコミュニティーの存在抜きには存在し得ないものである。プラトン以来、ギリシャから世界各国に引き継がれ、日本ではそういう名前ではないが、多くの国でアカデミーとよばれているものがそれだと思う。国単位でも、もっと別の単位でも、正規の団体であろうとなかろうと、必ずそういうものがある。それが現実の科学というものだろう。但し理念的な、あるいは理想的な科学というものが当然想定できる訳だが、そういう理念的なものは容易に定義できるようなものでも無いこともまた明白である。

科学のコミュニティーも当然人間の集まりである。オーソリティーがあり、多少の民主主義もあるだろうが、意識しないタブーや不文律などもあると考えても差し支えないだろう。言葉を換えていえば科学とはいってもそこにも1種の神話に相当するものがあるとも言える。今盛んなニセ科学批判には多分にそのようなタブーや不文律による批判が、少なくとも潜在的な部分で多分に含まれているように思えるのである。もちろん不文律でもタブーでもない正当な規約違反とでもいうべきものもあるのは当然だが、それだけというわけではないのである。

そもそも何故「ニセ」とか「エセ」とかこういう定義の曖昧な、ある意味卑俗な言葉を、論理的であるべき文脈で使うのだろうか。これと似た言葉で、「トンデモ」という言葉もよく使われている言葉である。感情的な、あるいは文学的な、あるいはユーモアを含んだ文脈でこのような言葉を使うのなら分かるが、まるで確立した述語のような感覚でトンデモという言葉が論理的であるべき文脈で使われている。「トンデモ」という言葉ほど主観的な言葉もないだろうと私は思うのだが。

トンデモというのは「とんでもない」という表現から来た言葉であることはまず間違いが無い。「とんでもない」というのはまず、人を非難する目的で使われる場合は「非常識だ」というような意味で使われることには誰でも同意するだろう。「常識」という概念も人によって相当に差があり得る概念だが、「とんでもない」といえば自分の常識が本当の常識であるという、自分の主観を絶対化するような表現のように受け取ることができる。その意味で最高度に主観的な言葉といって差し支えない。多くの場合、単に「とんでもない!」と、主語なしで使われる。意味上の主語は無理に解釈すれば話し相手のことになりそうだが。場合によっては殆ど間投詞のように使われる。よく、人からほめられたときなど、「とんでもありません」とか「トンデモございません」などというが、これは謙遜の気持ちを表そうとする間投詞のようなものである。こんな主観的な意味しか持てないような言葉によるカテゴリーの中に何らかの対象を押し込めるというのは、言葉の暴力に近い。

「トンデモ」ということばが、見るからに変な言葉であることは一目瞭然だが、ニセ科学という言葉も一言で言って、変な言葉である。ユーモアを含んだ文脈あるいは感情的な文脈で、あるいは詩的でもいい、文学的な表現といっても良いような文章でも、文脈によっては使われて効果的になることもあるかも知れない。しかし、論理的な文脈で使われたり、まして学術的な述語に近いような形で、こんな言葉がまかり通るようになるとすれば、いったいわれわれ一般人はどのように考えればよいのだろうかと戸惑うばかりである。

非科学ということばは昔からよく使われている言葉である。もっとも実際には「非科学的」という言葉がよく使われてきたのであって「非科学」という言葉はそんなに使われることはない。しかし非科学ということばは非常に明確な、それ自身が明快な定義であるともいえる。「非」というのは論理学でもそのまま使われている言葉で、そのままそれに相当する論理記号がある。但しそれは、この場合「非科学」が明快な意味を持つことができるのは「科学」そのものについて何も詮索する必要のない場合だけであって、科学の定義について考え始めるとすれば、そういうわけには行かなくなる。だから、ひとたび何か非科学とされたものがどういう点で非科学であるのか、とか、それは非科学的であるのか、というようなことを考え始めると、もう結論を出すことは容易なことではなくなるのである。

例えば、音楽は科学そのものではないから非科学であるということは言える。しかし、音楽は「非科学的」というようなことは普通言われることはないし、わざわざそんなことを考える人もあまりいないだろう。また音楽に科学的なもの、あるいは科学そのものが含まれていないという事はできないだろう。音楽ほど科学と技術とに深く結びついて発展してきた、あるいは変遷してきたものも少ない。

こういう問題はその言葉がどういう意味で使われているか、どういう範疇の意味で使われているかという問題と関係があるということは間違いが無い、しかしそれだけでもないように思われる。範疇の問題に入っていくと、物事を整理して正確に論議するのは容易なことではないだろう。またそれで解決する見込みがあるかどうか。

音楽とか、言葉とか、あるいは科学そのものも、こういうものは、論理的にはそう簡単に扱えるものではないのだろうと思う。すくなくとも眼に見えるもの、数えられるもの、物質的なもの、少なくとも論理的にはそういうものと同じようには簡単に取り扱うことはできるわけがない。音楽と非音楽、言葉と非言葉、科学と非科学、こういう、論理的には単なる否定の記号を付けるだけでも、物質的なものと同じようには簡単に、論理的に扱う事はできないものなのだと思う。こういう概念には「非」という、明快な、単なる論理記号のような言葉でもそういう難しさがあるわけだが、そこに「ニセ」とか、「疑似」とかいった、論理的に明快ではないような形容詞をつけると問題がどのように紛糾してくることか、容易に想像できるというものである。

偽物というのはもともと具体的な個物に対して用いられてきた言葉である。とくに美術骨董品や、あるいは影武者の場合のように重要人物のような人間など、要するに固有名詞で呼ばれるようなものとか、また金やダイヤモンドなど、貴重な物質について使われてきた言葉である。それも場合によってはきわめて慎重な使われ方をしている。例えば美術骨董品の世界では模写とか、レプリカとか複製とか、必要に応じて色々な近い概念の言葉た使い分けられてきた。金やダイヤモンドなどの物質の場合でも、模造とか、人造とか、人工とか、代替とか、代用とか、あるいは疑似というような言葉も慎重に使い分けられてきたのである。

少し、例を挙げて詮索してしてみれば、例えば美術品については偽物にまつわる話はきわめて頻繁に出てくる話であるのに対し、音楽について偽物にまつわる話はきわめて少ない。聞いたことがある例を思い出してみれば、例えばバッハの曲として知られている曲が実際にはバッハ以外の人物の作品であることが疑われているとか、ベートーベンの新しい曲が発見されたニュースがあるが、おそらくそれはベートーベンの名前をかたった他人の作で、たぶん偽物だろう、といったような話で、これは実際には音楽そのものではなく作曲者という、人物を騙った偽物であるというべきだろう。音楽そのものには偽物ということばは使うことは無理なのかも知れない。少なくとも美術骨董品や貴金属などと同じ意味での偽物の音楽というのはあり得ない。

あるものがある別のものAの偽物であることをいうには、その前の段階で「非A」であることが証明済みあるいは了解済みでなければならない。非AであるだけでAの偽物ということにはならないからである。偽物であるということができるのは非Aであることが証明された上で、さらに議論を重ねなければならないことののである。だから、単に非Aというだけの言葉を使う場合は、一応Aの意味を保留したままで話を進めてゆくこともできるが、偽物であるというにはそういうわけには行かない。非Aであることに議論の余地がない場合にのみ、その上で改めて偽物という言葉が使えるかどうか、込み入った議論が必要になってくるのだと思う。こういう点だけから見ても、ニセ科学も疑似科学も、きわめて恣意的で主観的な意味が入り込んでくる言葉であると言える。

とはいえ、世の中にはニセ科学ということばを使いたくなるような批判されるべき言説や、動向などが頻発している事も事実である。多くの場合それらはねつ造事件ということで落着を見るのである。あるいはトリックが発見されたということで落着に至る。解決に至るような場合は殆ど100%がトリックを含め、ねつ造が発覚することによっている。だから、私は個人的にはこういうものを「ニセ科学」ではなく、「ねつ造科学」と呼べば良いと思っている。あるいはあえて「科学」をつける必要もなく単なる「ねつ造」とか「ねつ造言説」とか、「ねつ造論文」と呼べば良い。事実、専門学者によるねつ造事件の場合は「ねつ造論文」と呼ばれているのである。但しそれをそう呼ぶには具体的なねつ造の事実を突き止める必要がある。それまではあくまでも「ねつ造の疑い」であり、ねつ造の容疑者にすぎない。「ニセ科学」というカテゴリーを根拠にこの種の言説を批判する人たちはねつ造の疑いがあると思われるもの、彼らにとってのねつ造の容疑者に過ぎないものを「ニセ科学」と呼ぶことによって「ねつ造科学」同等物としてそれらを葬り去りたいと願っている。実際、本当に有害であると信じられるのであれば、証拠が見つかるまで待つことはできないし、危険な徴候を持つものであれば早めに告発する必要があるだろう。そういう場合はあくまで「ねつ造容疑」ということで告発をすれば良いのである。これは他の刑事事件と全く同じことである。

しかし、「ニセ科学」批判論者の多くは非科学的であることをもってねつ造の疑いをかける。これでねつ造の事実が発覚する場合もあるだろうが、必ずしもそうとは限らない。例のノーベル賞を取り損なった韓国の大学教授の論文ねつ造事件の場合、たぶんその非科学性によってそのねつ造に事実が発見されたというよりも、何らかの証拠が発見されたことによるのではないだろうか。単に証拠が発見されたということであって、それが非科学的だということから発覚したというのではないように思われる。たぶん「ニセ科学」批判論者によってこの事件が発覚したとのではないだろうと思う。非科学性と、ねつ造のような倫理的問題とは別の問題である。

「ニセ科学」批判論者の本当の意図は「ねつ造」という犯罪性を告発するところにあるのではなく、非科学性を告発することにあると考えざるを得ない。しかし最終的に告発するには「ねつ造」という欺瞞性、つまり倫理性に訴えざるを得ない。つまり、本当の目的は非科学性を批判することにあるのだが、批判する根拠としては欺瞞性に頼るのである。

言論は自由であり、非科学性の批判ももちろん自由である。しかし「トンデモ」という言葉と共に、「ニセ科学」というような非論理的な言葉、変なカテゴリーを盾にすることは有害である。