2015年12月29日火曜日

鏡像問題の意味と意義


鏡像問題はいまだに未解決であると か、定説がないとか言われる一方で、現に多くの説が存在し、少なくとも主張を続けているそれぞれの提唱者は、自説を取り下げない限り、自説こそが定説とな るべきか、定説に発展する基礎であると考えていることになる。また物理学者や数学者の中にはあえて問題にするほどのことでもないと考えている人も多いのではないだろうか。こういう状況下では新しい理論が提唱されたところで、その理論がどうであれ、現在の状況が変わることは難 しいのではないかという見方もできそうである。問題自体の重要性、意義についても様々な態度があるように思われる。

しかしながら、鏡像問題が追求するものそれ自体は、 一つの認知現象について、なぜそうなるのかという一つの説明に過ぎないといえるにしても、原因または理由が謎とみなされる限り、謎の中には未知の可能性があり、どのように多様な意味や重要な意義のある発見がもたらされるかわからないという期待も持てるのである。
 
どのような分野であれ、現在、定説あるいは正解とみなされている重要で価値の高い科学理論の多くに共通する要素は、そのもたらす意味範囲の広さと意義深さであり、知的または技術的生産性の大きさともいえるのではないだろうか。つまり、その理論からさらに多くの有意義な理論や証明が展開されたり、実用的、技術的な応用が可能になったりしているものだと思う。ニュートン力学にしても量子力学にしてもそのような観点から普遍的な理論として認められているのであろう。それは同時に体系的であるともいえる。

新しい理論が有意義であるとすれば、その理論自体がさらに大きく発展する可能性を秘めている場合もあるであろうし、既存の大きな体系に有意義に組み入れられ、その体系をより豊かにし、価値を高める場合もあるだろう。あるいはその両方の要素を持つ場合もあるかもしれない。そのような理論の多くはおそらく着想された当初から直感的に面白く思われ、興味深く感じられ、人を引き付けるのではないだろうか。

従来理論の不備や誤りを見つけること、さらに指摘された不備や誤りが従来理論の提唱者自身を含めて広く学界や一般から受け入れられるには様々な面で障害がある。そのような努力はもちろん、従来理論の有意義な部分を理解し、正当に評価することと共に、欠かせないことではある。しかし過剰にそのようなことに労力を費やすことは必ずしも効率的であるとは思えない。まずは金鉱石から金を取り出すことである。金以外に貴重なもの、可能的なものが含まれている場合があるにしてもそれらを選別することは後からでもできる。

逆に従来理論の不備と誤りを見つけることから考察を開始し、新しい解決を見出そうという行き方ではなかなか新しく有意義な発見に至ることは難しいのではないかと思う。ことに鏡像問題は数学の分野でよくあるように具体的に明確な形で与えられた問題を解くのではなく、問題自体が多面的にさまざまな表現で定式化されている。そのため、具体的に提起された一つの表現にしてもかなり多義的な解釈が可能な場合が多いのである。

仮に同じ程度の説得力しか持たない二つの理論があった場合、形式的な表現よりもそのもたらす意味の広汎さや意義深さを評価すべきではないかと思う。


私が鏡像問題にここまで関わることになった最初のきっかけは2007年末のウェブ新聞の科学欄記事であった。その記事では鏡像問題そのものよりもむしろそれが論争中であるということに焦点が当てられていたように記憶している。私自身は、その時、別に論争に参加したいと思ったわけではなかった。そういうことには縁がないと思っていた。ただ改めて鏡映反転の問題に興味を呼び起こされたのである。

一方、当時は偶然にも私が哲学者カッシーラーの著作(『シンボル形式の哲学』)を読み始めた頃だった。2008年から2009年にかけて遅々としながら日々、慣れない哲学書を覗き込むような気持で読み続けていた。

私が自ら鏡像問題に独自に取り込むことができるのではと考え始めたのはこの読書がきっかけである。具体的にはこの書の第二巻で鏡像問題に強力な光を当てることになると思われる記述に遭遇したのである。最初はこのブログや別のブログ記事でそれを示唆することで専門の研究者の目に留まればよいと思っていた程度だったが、そのうちに欲が出て自分自身で鏡像問題を体系化してみたいと思うようになった。それは私欲でもあったが、一方で義務であるとさえ思われたのである。

それが幾何学空間の等方性と知覚空間の異方性という異なった認知空間による説明である。『シンボル形式の哲学』では鏡像問題が扱われていたわけではなく、その個所のテーマも知覚空間そのものではなく「神話空間」であり、またマッハからの引用を元にした議論であったが、その個所をに行き当たり、読み進んだ時点で、すでにそれが鏡像問題の解答そのものであると思われたほどである。そして、ここに至って、改めて鏡像問題の重要性、奥深さについて認識を新たにさせられたともいえる。

私自身は昔、大学時代前後の頃だと思うが、いま鏡映反転と言われている現象について考えたことは記憶していた。そのときには一応解決に至ったと思い、それ以上は考えなかった。いま思い起こしてみると、その時考えたことは、鏡像とはつまるところ、こちら側の裏返しなのだ、という認識だったように記憶している。

その後30年以上も経過し、今回のように心理学や物理学の専門家によって重要な問題として議論されていることを初めて知った次第で、あらためて興味をかきたてられたのだが、個人的には学問的分野で研究職についているわけでもなく発表の場を持つわけでもなかったこともあり、ブログ記事で、例えば縦書きと横書きと認知機能との関係など、関連する事柄について気の付いたことを発表していた程度だった。

日本で行われていたその議論というのは、具体的には日本認知科学会で行われてきた討論会や誌上討論形式の論文集などになるわけで、鏡像問題のように実用性や技術的な目的からは程遠い問題に対する関心を失うことなく持ち続け、このような取り組みを続けてこられた学会と先生方の持続的な取り組みには極めて大きな意義があり、個人的にも敬意を抱いている。

それらが集約されたのが、日本認知学会学会誌の論文集『小特集―鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見えるのはなぜか?』に掲載された諸々の論文、掲載順に小亀淳先生、高野陽太郎先生、多幡達夫先生の諸論文であったのだろう。個人的には、この論文集の著者のお一方が私にこの議論を紹介してくださり、さらに議論の中に案内してくださることになった。その結果、具体的には昨年、学会にテクニカルレポートを提出できたことである。そのような幸運を享受できたことは誠に有難いことであったと考えている。

現在の科学は過度に技術志向的であるとか技術偏重であるとか批判されっる場合があり、私もそれに同感する考えを持っている。一方でゲーテが早くから指摘してきたように数学偏重と言う批判もあるように思える。これは形式偏重、形式主義的であるともいえ、つまるところ形式論理偏重ということになるのではないだろうか。その結果として意味あるいは概念そのものの分析、探求がおろそかになり、空虚な形式的な表現のみが物を言うようになる。

 鏡像問題はこのような現状の中で真に人間的で有意義で楽しい科学を取り戻すためのまたとないテーマではないか、と思えるのである。そこからは、自然科学と人文科学に共通する根底ともいえる意味論と認識論が見え始めてくるように思われるのである。



2015年12月17日木曜日

鏡像の意味論―その10―問題の分析


図1 鏡像認知の一部分としての自己鏡像認知と他者の鏡映反転


図2 自己鏡像の認知と他者の鏡映反転の組み合わせからなる自己鏡像の鏡映反転
 

【問題の純化と問題の分析(要素分析)】

問題の純化と分析は、科学的方法の基本事項ではないでしょうか。しかし鏡像問題では従来、どうもこの点がすっきりしていないようでです。

前々回「鏡像の意味論その10」では「問題の純化」と題してこの問題に取り組み、問題純化の1段階に成功したものと考えます。今回は表題のとおり、問題の1つの分析を行ってみたいと思います。


【鏡像認知問題と鏡像問題(鏡映反転)】

現在、鏡像認知問題といえば普通、自己鏡像の認知の問題とみなされ、英語の「mirror self-recognition」に相当するようです。では自己像に限らない文字通りの鏡像認知問題、英語にすると「mirror recognition」という問題が研究や論議されているかといえば、そういうことはなさそうです。英語でも「mirror self-recognition」という用語は学術用語として見つかりますすが、「mirror recognition」という用語はやはり日本語と同様に「mirror self-recognition」の簡略表現として使われているように見えます。この辺に一つの鍵が潜んでいるように思われます。

つまり、字義に即して考えると鏡映反転は鏡像認知の一部分であるとの印象を受けます。その鏡像認知の問題は事実上、自己鏡像の認知の問題とみなされています。したがって、鏡映反転の問題も自己鏡像認知の一部分であるならば、自己鏡像の認知の問題に限られることになります。そのため、鏡映反転の問題も自己鏡像の問題として考察されてきたのではないかと思うのです。

しかし、鏡像の認知は自己鏡像の認知に限って存在しているわけではないことは自明なことではないでしょうか?現実に鏡映反転の問題では自己以外の他者や文字などについても議論されています。鏡像認知の問題でも他者像の認知の問題あるいは自己と他者を含めた、あるいは共通する問題が存在するはずです。

このように、自己鏡像以外すなわち他者の鏡像を含めた「(あらゆる)鏡像認知」を認めれば、「自己鏡像の認知」は「(あらゆる)鏡像認知」の一部分であり、同時に「他者の鏡映反転」も「あらゆる鏡像認知」の一部分であることになります。最初の図1は、これを表しています。


【自己鏡像の鏡映反転は他者の鏡映反転問題と自己鏡像認知問題との2要素に分析できる】

鏡像問題を考察する場合、たいていは絵を描いて考察し、説明をします。絵を描かないまでも言葉で対象を表し、空間的なイメージを客観的に表現することが不可欠です。その場合、自己鏡像の鏡映反転を考察する場合でも観察者の姿とその鏡像を描くことが普通に行われています。それは絵に描かれた人物を観察者に見立てているわけですが、そこには観察者が見ている光景そのものは表現されていません。そのような図は描くことができるにしてもせいぜい両腕やメガネの枠あるいは無理をすれば眉や鼻の一部などを描けるでしょうが、観察者の全体像は不可能です。従って、自己鏡像の場合とはいいながら、他者として対象化された姿を考察しているわけで、客観的な対象としては他者であり、その他者の認知を推定しているにすぎません。描かれた図は当然、単なる図形であり、身体感覚はもとより、認知能力などあるはずもなく、図から説明できることはあくまで視覚的な情報にとどまります。つまり、視覚に関する限り、他者の鏡映反転を考察していることになります。

以上から、自己鏡像の鏡映反転問題は、他者の鏡映反転メカニズムと自己鏡像の認知の問題に分析できることがわかります。

鏡映反転の問題は視覚に関する限りの問題であり、基本的に他者の鏡映反転問題から出発すべきであり、他者の鏡映反転メカニズムが解明されれば鏡映反転の問題自体はそれで解決されたものとみなしてよいことになります。自己鏡像の鏡映反転の問題は、したがって、むしろ自己鏡像の認知問題と鏡映反転の問題の2つに分析できることになります。鏡映反転の問題が自己鏡像の認知問題に含まれるわけではないのです。これを表現したものが図2です。

以上のとおり、鏡映反転の問題は他者の鏡映反転の認知について考察すれば鏡映反転の問題自体としてはそれで十分であると言えます。


【鏡像問題(Mirror problem)と鏡映反転(Mirror inversion)】

用語として「鏡像問題」と「鏡映反転」の両方が使用されているわけですが、以上の考察から、「鏡像問題」は自己鏡像の鏡映反転を含めた問題とし、「鏡映反転」は「客観的に認知可能な鏡映反転」すなわち「他者の鏡映反転の認知」と定義することが適切ではないでしょうか。

2015年12月11日金曜日

鏡像の意味論―その9―形状と意味

【意味するものと意味されるもの】

言語学言語論、あるいは記号論というべきか、言語学的な分野で「意味するもの」と「意味されるもの」との区別が研究されていることについて、詳しく専門的に立ち入った知識はありませんが、この区別を多少とも意識することは、幾何光学などの物理学とされる分野を含め、像、画像、映像など、あるいは視覚をあつかう心理学研究にとって極めて有意義ではないかと思います。特に「形」あるいは「形状」という言葉の使用については、この問題を避けることはできない時点に到っているものと考えています

極めて単純素朴に考えても、形という言葉は幾何学的形状そのものと、「何々の形」とういう場合の「何々」すなわち「意味」あるいは「意味されるもの」を表現している場合の二通りが考えられます。

「形」の場合、さらに問題になるのは、この二重性(幾何学的形状と意味)が言葉だけではなく「図形」、あるいは「絵」(以降、表現を堅固にするために「描画」と呼ぶことにします)についてもいえることです。ひいては人が知覚する像そのものについてもこの二重性が存在することになります。

この問題そのものをこれ以上にここで掘り下げ続けることは無理なので、以上を単に前置きとして、以下の検討に入りたいと思います。


 【形または像と意味】

鏡像問題の議論では普通に人物の像について問題にされるため、頭とか足、あるいは右手といった、身体の部分について位置関係や形状について論じられますが、その根拠となるのは象の形状といえます。その幾何学的形状をもとに頭とか右手とかを判断するわけですが、その頭とか右手というのは頭という概念あるいは右手という概念であって、幾何学的形状そのものではなく、具体的な意味を持つもの(足なら足という生物学的機能を持つ実態の意味)すなわち意味されるものを表していることになります。

頭が上で足が下、右手は右、顔や胸、腹は前で背中は後ろ、といった上下・前後・左右の意味は人間という概念について言えることであって、偶然に人間に似た幾何学的な形状があったてしてもそれには適用されないものです。幾何学空間は等方的であり、視空間や知覚空間は異方的であるというのはこの意味です。しかし単なる形状物であっても人形などは人形という意味を持つ以上、単なる幾何学的な形状ではないので上下・前後・左右を持つといえます。こういう形状の意味は人間の直感的な認識によるもので、幾何学的形状のように数や量で表現することはできないものです。

以上の観点は、心理学としてはゲシュタルト心理学と呼ばれる学派の成果と重なる部分があるのかもわかりません(私自身は専門的に心理学を専攻してきたわけでもなく直接ゲシュタルト学派の文献から学んだわけではありません)。しかしゲシュタルト学派そのものは現在あまり主流ではないようです。たとえば、I. Rockの「Orientation and Form」では、この学派は主流ではない単なる心理学の一派であり、当該本の主題に関して、ゲシュタルト学派の主張をあまり尊重していないように見られます。Rockの「Orientation and Form」は、吉村浩一教授による鏡像問題の論文「Relationship between frames of reference and mirror-image reversals」中に重要な参考文献として挙げられていましたのでアマゾンを通じて古書を入手して一通り読んでみました。この本は表題の通り形状と方向との関係を心理学的に扱った研究書ですが、視空間の異方性について次のような記述があります。

In any case it would be misleading to think of form changes induced by changes in orientation as exemplifying anisotropy(いずれの場合にも、方向の変化によって生じる形状の変化を、異方性の例として考察することは誤りであろう)」

上述のRockの考え方には問題があると思います。そのような考え方こそ間違いではないかとさえ思います。Rockは視空間の異方性を量的にしかとらえていないように思われます。 

ところがRock自身、方向による形状の変化の例として次のような例を挙げているです。 




 図:I. Rock著「Oriatetion and Form」より引用


この図で、上の三つは180度回転すると全く別人の顔と服装に見えるというもので、下左は子犬、右はあごひげを生やした老人に見立てられ、それぞれ90度回転すると子犬はシェフの横顔老人の横顔アメリカの地図に変化して見えるというものです。形状のこの変化は明らかに意味の変化であって長さやそのの尺度の量的な変化とは言えません。異方性を量的な差異ととらえる限り、確かにここで異方性は重要な意味を持っていませんが、形状の方向における異方性を形状が「意味するもの(形状によってい意味されるもの)」の差異ととらえるならば、これは視空間の異方性を示す見事な例となるはずです。

【数値と意味】

鏡像の問題に戻ると、上下・前後・左右の各方向は、形状の意味に基づいて決まるのであって、幾何学的な形状そのものではないことがわかります。この形状の持つ意味は人間の意識で直感的に把握できるもので、幾何学的形状のように量や数式で表現できるものではありません。

座標系を用いると確かに形状を数値や数式で表現できるでしょうが、数値や数式から図形の持つ意味を把握できるわけではありません。 CGでは座標系を用いて形状を数値に変換しますが、それは数値で計算処理をしたあと、再びディスプレイ上に目に見える形状に戻すことが最終的な目的です。ディスプレイから見て取るのは意味を持つ形であり、すでにそこから数値も数式も読み取ることは不可能です。これからも、上下・前後・左右を決めるのは幾何学的形状の数値データではなく形状の「意味」であることが分かります

ただし、二つの形状を比較する際には数値や座標系は重要です。 もちろん意味としての形状の比較ではなく幾何学的形状の比較です。形状の比較は二つの点の位置関係と距離という相対的な数値で決まるのものであるからです。鏡像問題における形状の逆転はつまるところ二つの形状の規則的な変化(差異)に基づき、その差異が対掌体の概念で表現できるわけです

2015年12月9日水曜日

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。

ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。

端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。

一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。

鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。

鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。

以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。

上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。

鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。

次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。