2021年4月25日日曜日

「心」に関する英語と日本語 ― 心とマインド

 かなり昔の話になるが、たぶん翻訳関連の雑誌で、ある英米人の翻訳家が、日本語には「心」という一つの言葉でしか表現できないものを英語では多様な表現、特にheartやmindという異なる概念を持つ言葉で表現できるので、日本語にする場合に正確に翻訳できず困る、というようなことを書いていた記事を覚えている。こういう論調、特に日本語にはmindに相当する言葉がないことで日本語を程度の低い未発達な言語とみなすような論調は日本人の間でも、それ以前にもあったし、現在でもよく遭遇することがある。

この発言には各種の切り口、論点から賛同できることもできるし、逆に批判することも可能で、総合的に評価することや批判することは難しいと思われる。以下は一つの批判的な考察の一つであるとみて頂きたい。

この種の論調の一つの特徴は、個々の単語の意味を考察するやり方であって、文脈を考慮していないことである。実際この種の論調では、最初に挙げた例を含め、具体的な文例が挙げられることは少ない。とはいえ、いくつもの文例をあげつらって分析を始めるとかなりな長文として展開せざるを得ず、ここで一回の記事としてはやっていられない。そこで本文においても個々の単語あるいは熟語としての意味においての範囲内で、一つの批判的な考察をしてみたいと思う。

英語においてHeartやMindなど、区別して表現される内容が、日本語で「こころ」という1つの単語でしか表現できないというケースは、逆に考えれば日本語の「こころ」は英語のHeartやMindをも包括する普遍性を持った言葉であって、これに相当する英語はないのではないかという疑いも生じてくるのである。そこで、「こころ」を扱う学問とみなせる「心理学」という言葉について考えて見たい。

英語で心理学はもちろんPsychologyである。これは西欧で学問の言葉とされたラテン語起源の言葉であることは一般的にも知られている。そういう語源的な問題を抜きにして、この言葉においてpsychが表す意味は、もはやHeartでもMindでも表現できないものであろう。

一方、Psychologyは日本や中国では心理学と訳されている。これは適切な訳語であるかどうかは別として、Psychologyの意味内容を吟味した上での翻訳であろう。もちろん、英英辞典を参考にもしたであろう。そういう経緯から、日本人の少年少女や素人が初めてこの言葉に接してもそれがどのようなものを意味しているかは大体想像できそうである。一方、英語国の少年少女が始めて、いきなりこの言葉に接した場合、この言葉を聞いただけではそれが何を意味するかは、全く想像もできないであろう。綴りと発音の関係も教わらなければわからないであろう。

ここで「心理」はもちろん「こころ」そのものではなく、「こころ」に相当する漢語の「心」に「理」という漢語が付されたもので、おそらく最初はPsychologyの訳語として心理学という言葉ができたのであろう。しかし、「心理」という言葉は今では普通の日本人がごく普通に使う言葉になっている。

例えば英辞郎で「心理」を調べてみると、まず、「mind」と「Psychology」という二つの訳語が挙げられ、もちろんその後に多くの文例が出ている。一方ジーニアス英和辞典という辞書で引いてみるとまず「Psychology」と「mentality」という二つの訳語が挙げられ、その後にもちろん多くの文例と解説が載せられている。

こういういろいろな表現を考察してゆくときりがないが、少なくとも「心理」と「mind」を対応できる場合があることは明らかであろう。ニ三年前だが、「The Oxford Companion to the MIND」という一種の心理学辞典を購入した。特定の記事を読む必要があっただけだが、アマゾンで中古本を千円程度で購入できた。ペーパーバックだが、大判で800ページもある大部な辞書である。いずれにしても、ここでは「mind」が「心理」に対応していることがわかる。ここで、「mind」と「心理」のどちらが優れているかを検討してみるのも興味深いだろうと思われるが、ここではそこまで立ち入らない。

今では私も、翻訳を行っているが、心やmindを含む表現の翻訳で苦労したような経験は持っていない。もちろん産業翻訳なので、ほとんどが技術的な翻訳だけれども、社会科学文献の和訳を依頼され、依頼者に成果を褒められたたこともある。私の経験上、技術的で具体的な表現で苦労することの方がずっと多いような気がする。

もう10年ほども前になるだろうか、カッシーラー著、木田元訳で「シンボル形式の哲学」を一回だけ何とか通読し、その後、木田元氏の著作を文庫本などでかなり読んだ記憶ことがあるが、その中で著者が、哲学文献の日本語訳は必ずできるはずであるという点を強調されていたことが強く印象に残っていて、私にとって、励みになっている。もちろん哲学文献の翻訳などをやっているわけではないが、翻訳一般について、氏のこの言葉は励みになっている。

いまや日本語に「mind」に相当する言葉がないことを憂えるような時代ではないのではないだろうか?もちろん個々の成果物にはいろいろ問題があるだろうが、日本語そのものについて、そのような点で憂えるような必要はないのではないかと思う。むしろ世界共通の「言語」そのものについて憂えるべきことが多いのではないだろうか?