2020年4月15日水曜日

感染者という言葉の一人歩き

コロナウィルス関連で、またいくつものキーワードが頻繁に使用されるようになった。その中で最初からもっとも気になり、メディアやオーソリティによる使い方に不満を覚えているのは『感染者』という言葉である。端的に私の考え方を言えば、殆どの場合、『感染者』は『感染判明者』あるいは『感染診断者』、あるいはもっと正確に具体的に、どのような診断法や検査方法で判明した感染者であるかを示すべきだと思うのだが、さしあたり『感染判明者』が最も適切ではないかと思う。

 『感染』という言葉自体、もちろん程度の問題であるども、最初から概念が明確であるとは言えない。ウィルスもウィルス感染者も目に見えないか、識別できない。なんらかの症状はだれの目にも見える場合もあるが、症状と感染とはもともと別物である。結局のところ感染者は何らかの検査や診断により陽性と判明した者のことであり、特定の検査や診断と切り離された抽象的な感染者というものはないといえるし、少なくとも数値的に表されるものとしてはあり得ない。

一方、感染者と併せて言及される死亡者の方は、はっきりと目に見える概念であるとはいえる。もちろん、『死』自体は他者からはっきり目に見えるとはいえるが、原因までもが誰の目にも見えるとは限らない。とはいえ、同じ文脈で使われる場合、死亡者数は感染者数の中に含まれることが明らかであるから、感染者数に比較すれば死亡者数は遥かに概念が明確であり、数値としては信用できることには間違いがない。しかし報道や一般に語られる内容をみれば圧倒的に『感染者』の方が多いのである。これはもう、感染者という言葉(シニフィアン)の一人歩きが蔓延しているとしか言いようがない。

言葉をシニフィアンとシニフィエに分析する有名な考え方は私自身、どれほどよく理解しているかは心もとないが、有用であり、便利だと思う。ただ私はカッシーラーの、言葉を乗り物に例える表現が好きである。乗り物のように、ある一つの乗り物に殆ど決まった乗員だけが乗っている場合もあるが、相乗りもあれば、乗員や乗客が交代する場合もある。時にはほとんど幽霊船のような場合もあるだろう。乗員に相当するものが概念であるとすれば、概念自体に極めて濃淡があり、かつ移ろいやすいものなのだから。