2021年11月24日水曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その8 ― 結論の図式化

本シリーズ記事の結論に相当する部分をユーチューブ配信向けに図式化しましたので、3枚の画像として、こちらでも公開します。新しい発見ないし表現も盛り込まれていますので、ぜひご覧ください。ユーチューブでは拙いナレーションで説明していますので、よろしければご覧ください:https://www.youtube.com/watch?v=0NlDAtqu9wg

【概念的分析】

  

【認知機能による考察】



要点は、インターフェースを通じて認知される仮想知能および人工知能というそれぞれの概念は、いずれも思考作用によるものであって、仮想知能と認識されるか、または人工知能と認識されるかの違いは思考力あるいは、思考経路ないしは思考プロセスの差異あるいはレベルによるものであると考えられることです。端的に言えば、人工知能のほうはより単純素朴、あるいは短絡的で、プリミティブともいえる思考回路ではないかと疑われます。




 

2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2021年10月25日月曜日

なぜ憂うべきなのか ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その6

 当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。

アクロニム(頭字語、略語)による分析

人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPCRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。

一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。

PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。

このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。

擬人化、仮想と人工知能

以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。

以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。

人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、

「集合的知能」あるいはこれに類する概念と用語を用いることの利点

ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。

一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。

  1. 心理学、集団心理学や人間学などの成果をシステムの設計や解析の方法論に取り入れることが可能になる。
  2. 当該分野あるいはカテゴリーの有意義な分類と整理、さらには体系化が可能になる。
総括すると、現在エーアイと呼ばれているものの真に人間的な次元での構造化が可能になり、したがって分析と構成が可能になり、真に精神的な意味で生産的な開発と発展の見通しが得られるようになるのではないだろうか。


2021年10月4日月曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その5 ― 人間と生物、無生物

著者は後半で、バイオコンピュータの可能性について考察を始めるが、私は最初にバイオコンピュータのアイデアが出てきた時点で違和感を持った。それは、一言で表現すれば、生物と無生物を区別する根拠とAIの理念との結びつきに対する違和感というべきかと思う。なぜなら、私はすでにAIの理念そのものが破綻していると考えるものであって、その理由は生物と無生物との違いとは関係がないからであった。バイオコンピュータの可能性について考察している本書のそれ以後の記述については一応、通読はしたが、明確に表現できるような印象と理解を得るに至らなかったものの、上記の違和感あるいは疑念を覆すものではなかった。前回同様、この問題を著者の論旨に沿って考察するには少なくとももう一度、たとえ拾い読みでもする必要があるが、前回記事に書いたように、本書を無くしてしまったのである。ただ、今回はその違和感を掘り下げることで持論を展開してみたいと思う。

上述したように、前回までにAIの理念が破綻していることを述べた根拠は生命現象、生命の概念や生物と無生物の違いなどとは直接関係がなく、むしろ人間性と人間以外の存在との違いまたは関係であるというべきである。最初の根拠は、AIとは、コンピュータその他のハードウェアを「道具として使う」存在である、という著者の一種の定義から、その存在は人間に他ならず、人間以外ではありえないのではないか?という問いかけから得られたものであった。続いて、情報とは何か、情報の本質から、少なくともコンピュータとソフトウェアを使用して処理を行うような種類の情報は人間によってのみ発信および受信されるものであるという観点であり、この場合も普遍的な生命の概念あるいは生物と無生物という対立関係とは直接的な関係はない。何らかの対立関係を想定するのであれば、要するに人間と人間以外という対立関係である。これは基本的には人間は言語を持つということにある。私自身はソフトウェアの本体ともいえるプログラム言語を言語と呼ぶことに何となく抵抗があって、プログラム言語については素人で使うこともできないにも関わらずいろいろ思うところもあったが、プログラム言語が一般の、いわゆる自然言語から派生したといえることは間違いがないし、少なくとも言語を持たない動物がプログラム言語を生み出すということはあり得ないので、言語能力を持つ人間のみがコンピュータ、あるいは人工頭脳、あるいはエー・アイを使い、操作する主体であり得ることは疑いようがないのである。

別の観点から言えば、バイオコンピュータの概念はハードウェアに関するものである。もちろん、そういうハードウェアが実現したとすればソフトウェアもそれに対応した変化を受けることになるとしても、AIの理念の実現をハードウェアに期待することは、ソフトウェアでAIの理念を実現することが無理であることを、すでに認めていることに他ならない。端的に言えば、ソフトウェアでAIの理念を実現することは、それ自体が自己矛盾なのである。

という次第で、バイオであろうがバイオでなかろうが、AIの理念が実現できるとすれば、それはソフトウェアが不要、すなわち人間が設計する一切のソフトウェアから解放されたハードウェアが実現することに他ならない。それは、いわば完全に人間のコントロールから解放された、言語能力を持つ物理的存在ということになる。もちろん、人間とのコミュニケーションが可能でなければならない。そういうものが実現できるかどうかはともかく、これはもう、古典的な人造人間であって、プログラムともプログラミング言語とも関係のないものである。

もちろん現在の、ソフトウェアとハードウェアとの組み合わせによる人工頭脳が、完全に人間によってコントロールされているとは言えない。コンピュータが、関係者の予測できない動作をすることはよく問題になるところである。しかしこれは、ハードウェアがソフトウェアなしで自律的に動作するという訳ではない。これは、ソフトウェア自体も、人間が完全にコントロールできているわけではないことを意味しているともいえる。

以上は多分に、いわゆるエー・アイが、(前回に1つの結論として得られたとおり)人工知能ではなく集合的知能とみなせるということと関係がある。集合的ということは総合的ということでも包括的ということでもない。悪く言えば多くの個人の、それも断片的な知能の、またかなり恣意的な寄せ集めに過ぎない面もあると言わざるを得ない。ただ、機械を、いわば軸的中心として統合されているとは言える。具体的に言えば、プログアミング言語の作成者、オペレーティングシステムの作成者、アプリケーションの作成者、それぞれの使用者、何れについても膨大な人員が、ハードウェアのシステムを軸として関わっている。いわば多様な個々人の断片的な知性の、無秩序ではないが、かなり恣意的な結合体であると言える。そこに何らかの統合原理が機能していることは確かであるが、一方で人知の及ばない要素が入り込んでいる可能性がある。しかしそういうことは何もソフトウェアにおいてのみ生じる現象ではなく、多数の人間が関る共同作業において生じることである。これは個人の言語活動あるいは情報活動、あるいは芸術創作においても生じることである。人は自分自身の発言や作文、あるいは描画や音楽活動においてさえ、自分自身で完全にコントロールできているわけではない。直観や無意識の作用もあれば感情に動かされる面もあり、インスピレーションや天啓も大いにあり得るというべきであり、端的に言って人知の及ばない要素と言わざるを得ない。

バイオコンピュータの理念あるいは構想については原理的な基礎的知識もなく良くわからないが、以上のような文脈で考察するのはどうだろうかと思う。いずれにしても、他の場合と同様、人工知能という概念とは相容れないものである。

以上の考察を通じて、一貫して存在感を示し、輝きを増し続けているように思われるのが、「人間はシンボルを繰る生き物である」という人間の定義に立脚して名著『人間』を書いたカッシーラーの哲学である。その全貌を私はいまだ知らないが、「人間」という存在の本質と特質に着目し、言語を中心とするシンボル形式を中心に据えたその哲学は、コンピュータサイエンスあるいは情報学においても基本的な支えとなってしかるべきではなかろうかと思うのである。例えば、主著である『シンボル形式の哲学』中で有名な個所として、等方空間と異方空間の相違に関する考察がある。等方空間については西垣通氏自身も本書中で一回だけ言及しているところがあるが、カッシーラーの哲学については一度も言及していない。まあ今となってはもう30年以上も前の著作であり、当方も著者のその後の思想については殆ど知るところはないのだが。ただ、社会的にも、専門的にと同様、人工知能という言葉が以前にも増して無反省に使われる頻度が高くなっている現状は憂うべきではないかと思うのである。

2021年8月29日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その4 ― 情報の本質

 前回までの記事を前提としてエーアイについて、引きつづき考えて見たいと思う。ただ、以降、エーアイをエー・アイと書いた方が良いかとも考えている。ところで、今回の記事を書き始める直前に本書を紛失したので、本書の記述に即して記述を進めることが難しくなった。また入手することも簡単だが、この際、本書の記述に即して進めることを止め、本書の内容に対する私の理解に基づいて自分の論理で考察を続けていく方が、効率的で良いと思われ、そうしたいと思う。本書の記述に即して考察を進めて行くと、袋小路とは言わないが、多岐にわたる道に分け入らざるを得ないので、総合的にまとめるのは容易ではないからである。という次第で原文を確認できなくなり、以下で短い引用を行う場合、原文と一致しない可能性があることをお断りしておきたい。

著者は現在大多数の権威者や業界人と同様だと思うが、「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する装置である」という見方あるいは表現を採用している。ところが本書の中ほどで東大名誉教授清水博氏の「そもそもコンピュータは情報を処理するものではない」という見方を紹介している。後で著者自身も清水博氏の考えに同調する見解を表明している。しかし著者は再び「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する」という前提で考察を続けているのである。これはある意味、これまでの文脈上、そのような表現を使わざるを得ないということであろうと思う。ここにも思考が言葉の限界に制約される悲しさがある。

私の考えではそもそもコンピュータないしエー・アイは、情報を処理するか、しないか、という二者択一の前提自体が間違っているのである。

日本語表現の一例を挙げれば、「コンピュータは情報を処理する装置である」という表現では、必ずしも情報を処理する主体がコンピュータであるという意味で語られているとは限らない。この表現は、「コンピュータは、人がそれを用いて情報を処理する装置である」という意味で発言されたとしても、受取られたとしても、一向におかしくはない。私はそれが本来の日本語の含意であると思う。それが、何がなんでも言語表現上の主語と意味上の主体とを一致させなければ済まない英語の影響もあって、コンピュータが情報処理の主体であると解釈されるようになったという面がある。この考え方についてはもう何年もまえに電気掃除機とか洗濯機の例をとって本ブログでも書いている。こういう、道具を主語にする表現は英語には特に多い。例えばWeblio英和には次のような例文がある:These scissors cut well(このはさみはよく切れる)。私は以前からこういう表現は擬人化表現の一種であると考えている。

という訳で、コンピュータもハサミも、詰まるところは道具であって人間との関わりなしでは意味を持たないのである。仮に、手塚治虫のSFマンガにあったようにロボットが人間に反乱を起こすとか、はさみが付喪神になるようなことがあるとすればそれはもはやロボットが内蔵するコンピュータの情報処理機能とか、紙を切るというハサミ本来の機能とはまったく別の起源をもつ現象であって、そういう機能と何らかの関係を持つことがあったとしても、全く別の文脈で考えるべきなのである。

ただし、エー・アイと他の一般の道具や機械と異なる点は、コンピュータはソフトウェア、特にプログラム言語で記述されたソフトウェアを必要とし、このソフトウェアはプログラム言語とよばれる一種の「言語」とされるもので記述されるという点である。本書の著者はこのプログラム言語とプログラムをエー・アイの主要部分と考えて、多岐にわたる考察を進めていると言える。

プログラム言語自体と、作成されたプログラムとを一体のものとして考えた場合、これと情報との関係がどのようなものであるかを考えるとすれば、本など、書かれた文章と比較するのがもっとも適切だろう。何らかの自然言語(自然言語とか機械言語とかいう表現にも違和感があるが)で表された本は紛れもなく著者によって情報が込められたものではあるが、しかしそれが著者自身を含めて人間によって読まれない限りは情報とはいえない。したがって、本が情報を担うためには書き手と読み手の両方が人間でなければならない。

プログラムの場合は書き手は人間なのだが、読み手が機械であるともいえる。読み手というのはもちろん比喩である。正確に言えば、プログラムが入力されるコンピュータという機械はプログラムの読み手であるという訳にはゆかない。プログラムは機械言語に変換されたうえで機械に読み取られるとされているが、機械が機械言語を読み取るというのも擬人化という一種の比喩に過ぎないのであって、つまるところ、本当の意味での読み手は最終的にディスプレイ画面の表示を読み取る人間または、ロボットの動作を認知する人間以外にはありえない。端的に言えば情報の入口と出口は何れも人間である以上、この情報を操作しているのは人間以外の何物でもない。すなわち、エーアイは人間とは独立した何らかの知能ではなく人間の知能そのものである。ただし個人の知能ではなく膨大な知能が集約された集合的知能と考えてよさそうだ。要するにエーアイと呼ばれるものは一種の機械装置を伴う集合的知能である。英語で表現するのであれば"machine aided collective intelligence"で良いのではないだろうか?

本シリーズの次回は「人間と生物」という切り口で考察してみたい。

 

2021年8月22日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その3― (続)人工知能の理念またはアイデア

前回、エキスパートシステム、自然言語処理システム、および知能ロボットに代表されるような、著者がAI(人工知能)という分野に属すとみなすシステムにおいて、人間とのインターフェースを捨象したシステムを、ソフトウェアも含めて、エーアイと呼ぶことにした(現実にそういうものはあり得ないと思うが)。いま一度この間の論理を整理してみると、著者はAI(人工知能)を、道具としてのコンピュータを含む全体的な存在として捉えていることが前提である。もう一度引用すると:AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない。
道具としてコンピュータを使ったり、「応用」したりする主体は、つまるところ、人間以外ではありえない。したがって私が定義するところの「エーアイ」は、エキスパートシステムなどのシステム全体から人間を捨象した部分に他ならない。この、私がエーアイと呼ぶことにしたものについては、本書の第2章以下で詳細に説明、あるいは論述されているので、かなり難しいが、本シリーズで引き続き検討してみたいと思う。第1章の残りでは、著者は「AIとは何か」について、歴史的な事情に基づいてその成果をかなり批判的に論じている。

 著者は初期のAI研究に対してかなり批判的に論評している。例えば下記引用のように:

  •  チューリングはデカルト流の<理性>を信奉していた。チューリングにとって「ある事柄を判定できる」とは、「それを立証する明晰で普遍的な数学的手順(アルゴリズム)が存在すること」であった。
    「風変わりな天才チューリングは、「そういう数学的手順を有するもの」として人間を再定義したに過ぎない。
  • AIという言葉が初めて用いられたのは1956年、米国ダートマス大学の会場であった。― 中略 ― ところで面白いことに、この教祖たちは世界をゲームかパズルのようなものとしてとらえていた風がある。そういえばチューリングもチェスが好きであった。― 中略 ― たしかに、世界をゲームとみなす世界観は一種の普遍性を持っている。だがそれにも限界がある。とくに噴飯ものだったのは、彼らがゲームやパズルだけでなく、機械翻訳までに同様の技法で取り組もうとしたことだった。しかも、現在のパソコンにもおよばない貧弱な機械を使ってである。
    いうまでもないが、翻訳のできばえは素人にも一目瞭然である。こうして破局がおとづれた。教祖はホラ吹きとののしられ、予算は削られ、AI研究はいったん悲劇的な挫折を味わったのである。
  • 思えば妙な話である。人間の知的活動はパズルやゲームばかりではない。― 中略 ― 人間活動できわめて応用範囲が広く、はなはだ高級な知的活動は、初期のAIでは無視されてしまったのだろうか。とすれば、AI研究者とはチェス盤をもった小児にひとしいということになる。
  • 言語を理解することは、意味を解することである。それが可能になるためには、宇内の万物森羅万象について、さまざまの知識を持っていなければならない。立派な辞書や文法書があるのに、翻訳家が刻苦勉励せねばならない理由はそこにある。だがこんな自明の真理も、AI研究者のあいだで広く認められたのは1970年代以降のことだった。
  • おりしも、1970年代から80年代にかけて記憶素子の値段が一挙に低下した。ここで一人の新たな教祖が登場する。スタンフォード大学のファイゲンバウムである。
    ファイゲンバウムの戦略は、安価になった記憶装置に<知識>を大量にとりこみ、それらを推論機構によって組合わせるというものだった。まさにコロンブスの卵である。意表を突いたこの戦略は、<知識工学(ノレッジ・エンジニアリング)>と呼ばれて注目を集め、AI研究は息を吹き返した。そして現在、産業界のキラキラしたまなざしを浴びているのである。

以上は本書第1章「AIとは何か 」の中ほどの小見出し「探索とゲーム」とそれに続く「知識工学の登場」からの引用である。私が興味深く、あるいは訝しく思うことは、著者がAIの理念を立ち上げた人たちを「教祖」と呼び、考え方の誤りを指摘しているにも関わらず、人工知能の理念そのものに疑いを呈していないことである。その問題とは別に、この引用から歴史的に、「知識工学」という戦略により「AI研究は息を吹き返した」ことがわかり、それは要するに、業界あるいはオーソリティのあいだで最終的にAIの理念が認められたことがわかる。著者とオーソリティとの関係は判らないが、いずれにせよ、著者の見解はオーソリティ、特に産業界における主流から外れることが無かったことがわかるのである。

ところで、前回記事のとおり、私が、AIの理念そのものが破綻していると判断した根拠と、西垣氏による初期AI研究への批判の論点とは全く異なるものである。第一、西垣氏による初期AI研究の批判の論拠は、私にとっては、この本を読むまでは全くあずかり知らない知見であった。それにもかかわらず、素人の私にも十分に納得できる論拠ではある。ただ、納得できるものの、徹底的ないしは根本的、根源的な論拠とは言えないような気がする。この点を、今後の考察で掘り下げることが出来れば、と願っている。

2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


2021年8月5日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その1、三種類のAI概念

去る五月、引っ越しの準備を機に蔵書の半分ほど削減することを目標に整理を行った際、偶然にも表記の本一冊を手に取った一瞬、処分する方に回そうと思ったが、すぐに思い直して残しておくことにし、今、引っ越し先の住まいで読み終わったところである。最初に処分しようと思った理由は、端的にいって今ではもうAI、人口知能という言葉と概念に辟易していたためである。しかしすぐに思い直して読み直そうと思った理由は、もともと、当時から人工知能という言葉と概念には反感を感じていたけれども、本書自体は拾い読みした程度で実際には一読したとも言えず、内容もほとんど記憶していなかったし、AIという言葉に辟易していたとはいえ、この現在に至ってますます盛んに用いられるようになった言葉と概念について、もう少しは掘り下げて理解する必要を感じたからに他ならない。

著者の西垣通氏は、実は私と同年齢である。 調べてみると生年月日も極めて近い。もちろん、経歴や業績の差は比較にならない。著者がこの本を出したのはちょうど著者40歳の頃になるが、その当時の同年齢の私は一地方大学の卒業を挟んで何回かの転職を繰り返した後に宝飾品の加工職人をしていた筈である。私が購入したのは1992年の第三刷であるから、ちょうど不景気で宝飾品加工業の先行きも怪しくなり、転職を考え、間もなく50歳にもなろうかという時期にパートのアルバイトもしながら放送大学で情報工学やプログラミングなどを受講してみたり、と、あれこれ迷ったり、あがいていた時期でもあった。所詮、ITの専門家に転身などできるはずもなかったが、それでもその後から現在に至るまで実利につながるパソコンユーザーになることができ、身を助けることになったことは有難いことではあった。

さて、本書を今度読み返してみて、というより、初めてまともに通読してみて改めて気付いたことは、コンピュータサイエンスに関する西垣氏の思想的態度には、前提知識の圧倒的な差にも関わらず、結構共感できる部分が多いことであった。しかし決定的に私とは異なる点をも発見できたように思う。

一つの概念として語ることが困難なAIという用語 ― 現実に存在する技術としてのAI概念とAIそれ自体、また到達目標としてのAI概念

この書は「AIとは何か」という、AIの定義から始まり、この言葉がアメリカ生まれの言葉とされ、かつては人工頭脳と呼ばれたこともある、と書かれている。私自身がこのブログで、AIは人工頭脳と同じものを指しているとする記事を書いたが、同じ認識であったことになる。ただ、著者自身も述べているように、AIという用語は極めて多義的で、そもそもどういうカテゴリーに属すのかが把握しにくいと思われるのである。ちなみに本書には次のような記述もある:「AIという分野は何も珍しいものではない。米国の大学の某研究室には、三十年も前からAIの看板が麗々しく掲げられている。」ここではAIは「分野」として説明されている。こういう所では、「何の分野なのか?」という問題が気になる所である。

本書の中ほどで、ドレイファスという名前の、「反AIの闘志」と呼ばれる哲学者の紹介とともに「反AI」という一つのキーワードが登場する。ここではその内容について議論はしないが、このようなAIという用語の多面的な使われ方をみると、AIについて語る場合にそれを1つの概念として語ることが困難であることに気付く。そこで、この見出しのように、取りあえず次の3つの意味に分けて考えるのが良いと思われる。

  1. 現実にAIという触れ込みの下で存在している技術で、完全であるかどうかは問われない。例えば機械翻訳システムとか、自動運転システムといった技術。こういうものはすでにAIという名称で通用しているのだから、総称する場合にはAIと呼ぶしかないともいえる。しかし、例えばITという更に総称的な用語を使うこともできるし、また単に、即物的に機械翻訳システムとか自動運転システムなどといえばそれで済む話である。ソフトウェアとハードウェアの組合せに過ぎないともいえるので、私自身は「AI」はできるだけ使わないことにしている。
  2. AIという用語それ自体の概念。あるいは理念と呼べるかもしれない。そもそもAIという概念に相当するものが存在し得るのか、という議論に導かれるような概念である。
  3.  実現すべき最終目標としてのAIの概念。

本書は、冒頭の数行で上記「1」の問題に触れ、その後前半で「2」の問題を扱い、中ほどで「反AI」について紹介した後、その後の後半で「3」の問題を扱っていると言える。 次回以後、これら「2」と「3」に関して本書と本書に込められた著者の思想について感想を述べてみたいと思っている。



2021年4月25日日曜日

「心」に関する英語と日本語 ― 心とマインド

 かなり昔の話になるが、たぶん翻訳関連の雑誌で、ある英米人の翻訳家が、日本語には「心」という一つの言葉でしか表現できないものを英語では多様な表現、特にheartやmindという異なる概念を持つ言葉で表現できるので、日本語にする場合に正確に翻訳できず困る、というようなことを書いていた記事を覚えている。こういう論調、特に日本語にはmindに相当する言葉がないことで日本語を程度の低い未発達な言語とみなすような論調は日本人の間でも、それ以前にもあったし、現在でもよく遭遇することがある。

この発言には各種の切り口、論点から賛同できることもできるし、逆に批判することも可能で、総合的に評価することや批判することは難しいと思われる。以下は一つの批判的な考察の一つであるとみて頂きたい。

この種の論調の一つの特徴は、個々の単語の意味を考察するやり方であって、文脈を考慮していないことである。実際この種の論調では、最初に挙げた例を含め、具体的な文例が挙げられることは少ない。とはいえ、いくつもの文例をあげつらって分析を始めるとかなりな長文として展開せざるを得ず、ここで一回の記事としてはやっていられない。そこで本文においても個々の単語あるいは熟語としての意味においての範囲内で、一つの批判的な考察をしてみたいと思う。

英語においてHeartやMindなど、区別して表現される内容が、日本語で「こころ」という1つの単語でしか表現できないというケースは、逆に考えれば日本語の「こころ」は英語のHeartやMindをも包括する普遍性を持った言葉であって、これに相当する英語はないのではないかという疑いも生じてくるのである。そこで、「こころ」を扱う学問とみなせる「心理学」という言葉について考えて見たい。

英語で心理学はもちろんPsychologyである。これは西欧で学問の言葉とされたラテン語起源の言葉であることは一般的にも知られている。そういう語源的な問題を抜きにして、この言葉においてpsychが表す意味は、もはやHeartでもMindでも表現できないものであろう。

一方、Psychologyは日本や中国では心理学と訳されている。これは適切な訳語であるかどうかは別として、Psychologyの意味内容を吟味した上での翻訳であろう。もちろん、英英辞典を参考にもしたであろう。そういう経緯から、日本人の少年少女や素人が初めてこの言葉に接してもそれがどのようなものを意味しているかは大体想像できそうである。一方、英語国の少年少女が始めて、いきなりこの言葉に接した場合、この言葉を聞いただけではそれが何を意味するかは、全く想像もできないであろう。綴りと発音の関係も教わらなければわからないであろう。

ここで「心理」はもちろん「こころ」そのものではなく、「こころ」に相当する漢語の「心」に「理」という漢語が付されたもので、おそらく最初はPsychologyの訳語として心理学という言葉ができたのであろう。しかし、「心理」という言葉は今では普通の日本人がごく普通に使う言葉になっている。

例えば英辞郎で「心理」を調べてみると、まず、「mind」と「Psychology」という二つの訳語が挙げられ、もちろんその後に多くの文例が出ている。一方ジーニアス英和辞典という辞書で引いてみるとまず「Psychology」と「mentality」という二つの訳語が挙げられ、その後にもちろん多くの文例と解説が載せられている。

こういういろいろな表現を考察してゆくときりがないが、少なくとも「心理」と「mind」を対応できる場合があることは明らかであろう。ニ三年前だが、「The Oxford Companion to the MIND」という一種の心理学辞典を購入した。特定の記事を読む必要があっただけだが、アマゾンで中古本を千円程度で購入できた。ペーパーバックだが、大判で800ページもある大部な辞書である。いずれにしても、ここでは「mind」が「心理」に対応していることがわかる。ここで、「mind」と「心理」のどちらが優れているかを検討してみるのも興味深いだろうと思われるが、ここではそこまで立ち入らない。

今では私も、翻訳を行っているが、心やmindを含む表現の翻訳で苦労したような経験は持っていない。もちろん産業翻訳なので、ほとんどが技術的な翻訳だけれども、社会科学文献の和訳を依頼され、依頼者に成果を褒められたたこともある。私の経験上、技術的で具体的な表現で苦労することの方がずっと多いような気がする。

もう10年ほども前になるだろうか、カッシーラー著、木田元訳で「シンボル形式の哲学」を一回だけ何とか通読し、その後、木田元氏の著作を文庫本などでかなり読んだ記憶ことがあるが、その中で著者が、哲学文献の日本語訳は必ずできるはずであるという点を強調されていたことが強く印象に残っていて、私にとって、励みになっている。もちろん哲学文献の翻訳などをやっているわけではないが、翻訳一般について、氏のこの言葉は励みになっている。

いまや日本語に「mind」に相当する言葉がないことを憂えるような時代ではないのではないだろうか?もちろん個々の成果物にはいろいろ問題があるだろうが、日本語そのものについて、そのような点で憂えるような必要はないのではないかと思う。むしろ世界共通の「言語」そのものについて憂えるべきことが多いのではないだろうか?