2026年8月8日土曜日

鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その9 ― カント哲学との関わりで(2)― 原因性あるいは因果関係の問題(ヒューム哲学参照)

  従来、鏡像反転現象の考察では「何がその原因なのか」という原因の特定についてはあまり語られることはなく、「なぜその現象がみられるのか」という問いかけで考察が始められることが多かった。例えばガードナーによる説明では、彼は次のように語り始めている。

 「これまで鏡の反射よる対称について、簡単な説明をしてきた。この説明を頭において、そろそろ第一章で提起した問題、すなわち、鏡は左右を逆転するのに、なぜ上下はさかさまにならないのだろうか、という問題に答えてみることにしよう。」
 そしてガードナーの解答は、それを引用すると次のとおりである。
 「これまでのことを要約してみることにしよう。鏡は上下にくらべて左右を好んで逆転する、という事は全くないのである。ただ、その鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転する、のである(It does reverse the structure of a figure, point to point, along the axis perpendicular to the mirror)。この逆転によって、非対称形の鏡像は実物の左右像(注:Enantiomorph、対掌体)になる。我々のからだが左右相称であるので、鏡による逆転現象は、左右の入れかえとよんだほうが便利である、これは単にいい方の問題であって、習慣的にこのような言葉の使い方をするのである。(坪井忠二他訳)」
 ここでは原因を特定するという意識はなく、もっぱら「鏡」を主語にした擬人的な表現で現象が語られている。「鏡は上下に比べて左右を好んで逆転する、という事は・・」という具合である。このような「鏡が(何かを)逆転する」という、鏡を主語にした表現は、事実上すべての学術的な鏡像問題研究論文でも見られるものである。そうして、ガードナーの説明以降に、あるいはガードナー説に触発されて登場してきた諸々の論文のほとんどが心理学者によるものである。そしてついにGregory (1989) や高野 (1998) のように、光学作用を完全に、あるいは部分的に、1つの要因としても認めないような理論が登場するまでに至ったのである。

 実のところ、ガードナーは、鏡像反転現象を二段階で説明している。彼はまず、「これまで鏡の反射よる対称について、簡単な説明をしてきた。この説明を頭において・・・」と語り始めたとき、すでに最初の段階の説明を前提としている。つまり、鏡像と実物の鏡面対称性が成立し、両者が互いに対掌体(左右像)になっていることを前提としているのである。ガードナー自身を含めてそれ以後の論者の多数派は、この前提(対の形状が互いに対掌体になっている)を認めたうえで、それぞれ対の左右逆転について独自の説明を加えているが、Gregory (1987) や高野 (1998)は、ガードナーの前提を無視しているか見逃している。

 しかし、ガードナーはこの前提、つまり対が互いに面対称であり、必然的に対掌体になっていることの原因については一切考察していないのである。彼が鏡像の成立に光の正反射の法則が関与していることを認識していないとは思われない。彼は光学的な虚像の概念を当然のこととして受け入れていたものと思われる。ただしガードナーは、鏡像が成立するメカニズムを鏡の動作として擬人的に表現したのである。例えば、ガードナーが、"It does reverse the structure of a figure, point to point, along the axis perpendicular to the mirror(鏡はそのその鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転する)"と語るとき、彼は鏡を主語にして他動詞を用いて目的語に対して「図形の各々の点の位置を逆転する」と語っている。これは徹頭徹尾擬人的な表現であって、どのような物理的なプロセスも、認知プロセスをも表現していない。現実に鏡像反転を観察するのは個人の観察者以外ではありえない。観察者は二つの形を比較しているのであって、一方が他方に変化したり、移動したりするわけではない。しかしガードナーがこれを擬人的に表現したことによって(鏡を擬人的に表現するのは伝統的にも日常的な感覚としても、ごく普通のことだが、科学者が使う科学の言葉としてはあまりにも安易ではないだろうか?) 、この二つの形状の差異の問題が、形状が変化させられた問題と受け止められるようになってしまった。高野 (1998、他) はこの現象を「変換」と表現し、やがて終には鏡像と実物との本質的な違いを置き去りにして、鏡像を現実の人物や物体と見做すような理論を構築するに至る。これはグレゴリー  (1989) も同様であって、両者の理論は見かけ上は異なるが、いずれも鏡像を現実の人物や物体で置き換えても成立する説明であって、明らかに鏡像の問題から逸脱した理論になっている。

 いずれにせよ、ガードナーは鏡像反転の問題を、物理的には、一切考察していない。専門的には数学者であるガードナーは、鏡像という現象の問題を幾何学的・数学的問題に還元してしまった。ただしそれだけでは現実の認知現象を説明できないため、習慣的な言語表現の問題を加味して対応したといえる。ガードナー以降の何人かの論者はこの問題をある程度意識して、物理現象との関係を示唆するような表現がみられる。例えば、Ittelson (1991) は、"a mirror optically reverses the axis perpendicular to it.(鏡が光学的に、鏡に垂直方向に軸を逆転させる)" となり, Corballis (2000) では ”the rotation and translocation caused by the mirror,(鏡が原因となって生じる回転)” という表現がみられ、Tabata and Okuda (2000) では"the inversion caused by the optical process of mirroring(光学的なプロセスに起因する反転)"  というように、光学的ないしは物理的な原因がほのめかされている。しかしいずれも光学的ないしは物理的な原因は言及されているだけであって、物理的なプロセスと、面対称性ないし対掌体の性質とのつながりは明らかではない。

 鏡面の反射法則は光ないしは光線を主語にして記述される。たとえば研究社理化学英和辞典によれば、反射の法則とは、「光が媒質の境界に入射するとき、入射光、反射光および入射点で境界に立てた法線は同一平面上にあり、かつ入射光と法線の成す角と反射光と法線のなす角は等しいという法則」である。これは、ここでは動的な要素、つまり時間的に変化する要素は光線である。光速はあまりにも速く、また光の粒子はあまりにも小さく、光を図で説明しようとすれば幾何学的な直線で表現せざるを得ない。このように、人は光の粒子も光線も直接見ることができない。ただ眼の網膜に形成される物理的な像(実像)によって視覚像(visual image)を知覚するのみである。この視覚像というものは物理的な存在ではなく認知的な存在である。したがって物理光学的に光の正反射の結果をたどれるのは、網膜に実像が形成されるまでと言えよう。

    Ittelson (1991) が「鏡が光学的に、鏡に垂直方向に軸を逆転させる」といい、 Corballis (2000) が「鏡が原因となって生じる回転」といい、Tabata and Okuda (2000) が「光学的なプロセスに起因する反転」と言っているのはいずれも鏡の光学作用が原因となっていることをほのめかしているが、やはりGardnerと同様に光学的虚像の図示に基づいている。つまりいずれの説明も原因が鏡の光学的性質であり、光線を主語として記述されるプロセスであることをほのめかしてはいるが、結果としては、鏡を主語とし、他動詞を使って実物の形状を変化させるという、物理的な変化としてはあり得ない虚構の幾何学的プロセスを述べているのである。この間に原因と結果の連続性を見出すことはできない。

 Haig (1993) は、光の正反射のプロセスから直接、鏡像反転を導こうとした。しかし、彼は光線と観察者の視線とを混同してしまった。というより、光線を視線と見做してしまった。彼が描いた正反射を含む光路図は、人の眼の直前で途切れている。光が網膜に達していないので、物理的プロセスは完結していない。その光路は観察者の眼の直前で、観察者の視線を示すものにすり替わっている。前述のとおり、つまるところ視線の先には虚像が想定されているのである。

 ここでこのプロセスについて、原因の概念についてのカントの説明を参照してみたい。もちろん、カント哲学における原因の概念を深く掘り下げて理解したり考察したりするわけではない。私の第二論文では、光が鏡面で正反射することから始まり、人の眼に代えてカメラのフィルムに相当する像面で実像が生じるまでのプロセスで物理的なプロセスを終わらせた。このプロセスにおいて主語は一貫して光ないしは光線であり、時間的には最後まで連続している。このプロセスは少なくとも因果関係の概念に関して、カントによる次の説明に適合している。それは「原因はその結果を原因についで継起するするものとして時間において規定する(篠田英雄訳)」。つまり時間における継起という点である。従来の、虚像に基づく説明ないし理論はいずれも、明らかにこの点を満たしていない。

 ガードナー説を始めとする従来の光学的虚像のみに基づく鏡像反転の説明における原因性は、どうやらヒューム哲学による因果関係についての考え方には適合できそうに思われる。私はヒュームの著作を読んだことはなく、最近まではヒューム哲学について学んだり考えたりしたことはなかったのだが、最近、因果関係についての考え方においてカント哲学とヒューム哲学との違いなどについて少々、事典類や参考書などにあたってみることがあった。そして、例えばジェームズ・A・ハリー著、矢嶋直規訳『ヒューム入門』によれば、
「自然法則の普遍性についての一般原理の源泉は存在しない。そのことは、われわれの因果信念がそうした原理に依拠することなく説明されなければならないことを意味する、とヒュームは結論する。むしろ、かかわっている精神の過程は、単なる連合の習慣であり、その際いくつかの規則的に経験された出来事の結合がわれわれに、例えば曇り空はすぐに雨になると信じるように促すのである。」
とあり、「観念の自動的連合のわれわれの認知生活への重要性についてのこの発見こそ、ヒュームが人間本性の科学への自身の主たる貢献と見なしたものであった。」という事である。

 こうしてみると、上述のようなヒューム哲学的な、因果関係を「単なる連合の習慣」と見るような意識が近現代科学において浸透している傾向があるように思われる。鏡像反転問題においては上述のように鏡を擬人的に表現することで光学的虚像をも擬人化あるいは物質化してしまい、それらと実物との鏡面対称性という幾何学的な分析で終始し、物理的プロセスの分析を追求しないという、ほとんどすべての従来説の深層には、このような、因果関係を「単なる連合の習慣」と見るような意識が潜在しているのではないだろうか。
 すでに述べている通り、私は原因の概念についてのヒューム説を深く理解するものではないのと同様、これに対するカント説についても深く総合的に理解しているわけではないが、その限りで、ヒューム哲学ではなくカント哲学の方に正確性への追求姿勢が感じられ、少なくとも科学性の追求においては尊重すべき考え方ではないかと思うものである。これはカテゴリーの理解と尊重においても同様である。


2026年8月2日日曜日

鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その6~8 ― 書評:加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』をレビューする(その1~3)

(今回の記事は筆者の別ブログサイト『発見の発見』に公開済みの記事3回分の再録です。)

 鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その6― 書評:加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』をレビューする(その1)

表記、加地大介氏の著書『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』(2024年、教育評論社)の存在にはたぶん、一昨年あたりから気が付いていたように記憶しています。私がそれに気が付いたのは、鏡像問題や鏡映反転などのキーワードでインターネット検索(Google検索)すると、かなり上位にこの本のタイトルが出現するようになったからでした。しかしこれまで私はその本についてそれ以上知ろうという好奇心はなく、去年は私の二つ目の公開された英語論文を日本語化し、解説文を追加した本『鏡像反転現象における純粋な物理過程と認知過程―鏡像問題の分析と解決―その2』の作成と、アマゾンKDPを利用した出版作業その他に没頭していました。そんなところ、去年の9月に出版したその本を先日、多幡先生(多幡達夫大阪府立大学名誉教授)に献本差し上げたところ、多幡先生からのメールで、加地大介氏の鏡像問題研究について次のような話を伺いました。


  • 『學士會会報』No. 975, p. 32に哲学者・加地大介氏による「哲学における鏡像反転論」という文があり、同氏はその中で自らの「円柱座標説」というべきものを述べていた。
  • 多幡氏は「心理学分野において 1998 年以降に幾つもの鏡像反転の謎に関する文献が発表され、それらの中に、この謎に対する「決定打と言える説」(Corballis 論文、Tabata-Okuda 論文、おおび McManus の著書が一致して唱えた)があることを紹介する文を同誌に投稿」した。
  • その投稿は本年3月に発行された『學士會会報』No. 977, p. 90(「会員ひろば」欄)に掲載され、同文(一部修正)は多幡氏のブログサイトに転載されている( https://ideaisaac2.blogspot.com/2026/03/on-reading-mirror-reversal-in-philosophy.html)。

 そこで私は上述の自著の出版に関わる作業も一段落したこともあって、改めて加地氏の表題の著作をレビューしてみる気持ちになっていたところ、最寄りの市立図書館に、それも二つの分館に一冊づつあることがわかり、とりあえず借り出して、気になる箇所を拾い読みしてみました。この著作の鏡像反転に関わる章を全体として、レビューするのはやはりそれなりの時間がかかりそうなのですが、とりあえず、少なくとも一つの決定的な点で、私がこれまでの二つの論文(いずれも少なくともプレプリントとしては2021年7月~2024年1月)が指摘したところの、従来説のすべてに共通する方法論的誤りを克服しておらず、言い換えると誤りに気づいておらず、結局のところ、結果的に鏡像反転の問題に対して問題の解説と考察あるいは解釈を述べるにとどまり、決定的な回答を見出すまでに至らなかったことにつながっているものと考えられます。以下、簡単に、その従来説のすべてに共通する方法論的誤りについて簡単に説明します。

  • 従来説のすべては「光学的虚像と実物」と呼ばれる一対についての比較分析のみに基づいて考察してきた。この対は幾何学的に鏡面対称あるいは面対称と呼ばれる状態に相当し、事実上、幾何学的な鏡面対称性とそれによって必然的に生じる対掌体の対についてのみの分析で物理的な状態を分析したものと錯覚していたことになる。視点を変えて言い換えると、眼の中に結像する光学的実像については眼中になかったことになる。
  • 上記をさらに掘り下げると、それは鏡像というもの、ひいては視覚像そのものの本質に対する理解につながる問題である。具体的には視覚像というものの二面性(主観的と客観的)を理解する必要がある。本来、視覚像は個人の主観に属すものであり、客観的に表現するには図示するほかはなく、鏡像の場合、幾何光学的に作図されたものが光学的な虚像であり、実物に対して面対称の図形として描かれることになるが、それが実際に存在する物体ではないことは自明であり、虚像というよりは虚物体とでもいうべきものある。
  • したがって、光学的虚像をいくら幾何学的に分析しても、物理的な状態あるいはプロセスを分析した事にはならない。
  • 物理的な状態あるいはプロセスを分析するには、観察者の眼内に結像する実像を分析する必要がある。

 下記に、上述の、私の二つの論文(それぞれバージョンによって多少の差異はありますが)を列挙しておきます。
  • J. Tanaka, “Concept of the Isotropic Space and Anisotropic Space as Principal Methodology to Investigate the Visual Recognition,” PhilSci Archive (01. Aug. 2021). http://philsci-archive.pitt.edu/19392/.
  • J. Tanaka, Resolution of the Mirror Problem, (Chisinau: LAP LAMBERT Academic Publishing, 2022).
  • J. Tanaka, ISOTROPIC AND ANISOTROPIC SPACES IN VISUAL RECOGNITION: - Analysis and Resolution of Mirror Problem - Kindle Edition (Independently published from Amazon, 2024).
 上記の3つは基本的に同一の内容で、著者は第一論文と称しています。

  • 田中潤一 (2024)『等方空間に適用される直交座標系を使用して分析した鏡映反転の詳細な物理的プロセス』。https://doi.org/10.51094/jxiv.508
  • Tanaka, Junichi (2025). Purely physical processes of mirror reversal and its application to vision research. Optica Open. Preprint. https://doi.org/10.1364/opticaopen.28478939.v1
  • Tanaka., J. (2025). Purely physical processes of mirror reversal and its application to vision research. Nov Joun of Appl Sci Res, 2(3), 01-11. https://doi.org/10.1364/opticaopen.25981537.v7 
 上記の3つは基本的に同一の内容で、著者は第二論文と称しています。また両者の日本語版として著者は下記2点の書籍をアマゾンKDPでオンデマンド出版をしています。

 以上は、表記加地大介氏の著作が最新の研究において批判あるいは否定された方法論にとどまっている点を指摘したまでで、具体的に当著作全体としてのレビューにはなっていないかも知れません。それについてはまた稿を改めて「その2」として公表したいと考えています。また、加地氏が第一章のエピローグで解説しておられるカント哲学との関連に関する解説については、本ブログの本シリーズ記事として連載中の記事の考察において参考にさせて頂きたいと考えています。
 なお当著作の第二章『なぜ私たちは過去へ行けないのか』については、この内容が本のタイトルに含まれておらず、また現在のところ私の関心事ではないこともあり、今回のレビューの対象外としました。

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鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その7― 書評:加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』をレビューする(その2)― 乗り越えるべきガードナー説の問題点2つ

 前回の記事では、加地氏の理論も私の二つの論文で明らかにされた処の、従来説に共通する方法論的欠陥を免れていないこと、つまり光学的実像を分析することなく、光学的虚像と同等である鏡面対称性の図示を出発点として分析を行うことの問題点を指摘しました。なぜそれが問題なのかと言えば、それは、物理的プロセスと同等ではないものを分析して、物理的プロセスを分析したものと錯覚し、それ以上の物理的プロセスの分析を放棄したも同然であることです。では、光学的虚像の成立が物理的プロセスではないとすればそれはどういうプロセスなのかと考えると、それは認知プロセスまたは認識プロセスと考えるほかはありません。端的に言ってしまえば、それは鏡像認知(鏡像認識)と呼ばれているプロセスです。
 鏡像反転の真の原因は鏡による光の正反射という物理現象である以上、鏡像認知の結果である鏡面対称性の図示をいくら分析しても真の、というか初期原因といえるメカニズムについては未知のままで残されているということです。それで、加地氏によるそれ以上の分析は結局のところ認知過程の分析という事になるでしょう。そう考えた場合、加地氏の分析は私にとっての諸々の従来説(私の説にとって加地氏の説は従来説とは言えないので)と同様、物理過程と認知過程が明確に画定されていないため、解決不可能な曖昧さが残されていると言わざるを得ません。ただし、心理的なメカニズムとしては他の多くの所説に比べてかなり包括的で、優れた説明になっている印象はあります。以下、以上のことを踏まえたうえで、加地氏の所説を検討したいと思います。

 加地氏の説明はガードナーの説明を土台にして展開しています。したがって、まずガードナーの説明を検討する必要があるのですが、ガードナーは、最初から前後左右が定まっている(言い換えると上下前後左右が固定されている)人体その他の物体の鏡像を検討し、それらを鏡に映すと左右が逆転するように見える現象を説明し、それについて「数学的に厳密ないい方をすれば、鏡は左右を逆転してはいない。そればかりか、本当は前後を逆転しているのである!」と述べ、あとからもっと一般的な表現として、鏡は「鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転するのである。この逆転によって、非対称の鏡像は現実の左右像になる(坪井忠二 小島弘 共訳)」と述べています。
 ここでガードナーは、一般化して言う場合、(つまり人間その他の上下前後左右が決まっている物体に限らずに一般化して言う場合)、「鏡面に直角な軸」という表現をつかっていて「前後」とは言っていないことに注意する必要はあるでしょう。このことは後から問題になります。また、「左右像」という言葉はガードナーの原文では「enantiomorph(エナンシオモーフ)」という表現になっていて、「左右像」という訳は誤訳ではないものの、他にいろいろな訳し方があり「対掌体」という訳が最も適切であると、私は考えています。これについても後で問題になるかも知れません。
 以上のガードナーの説明において、鏡が鏡面の前後あるいは鏡面に垂直な軸に沿って各々の点の位置を逆転するのは「数学的に厳密ないい方」であると述べています。言い換えると「物理的に厳密」とは言っていません。つまりガードナーはここで数学的に(この場合は幾何学的といってもよいと思いますが)考察しているのであって、物理的に考察しているのではないことがわかります。では、数学的に考察しているということは具体的にはどういう事でしょうか?それは鏡面対称あるいは面対称の状態それ自体が物理的な現実であるものと見做しているものと考えられます。言い換えると、人が鏡像認知をした場合の認知内容を物理的現実と見做していることになります。結局のところガードナーも鏡像認知のプロセスを無視していることが明らかです。あるいは鏡像認知のプロセスが潜在していることに気が付いていないというわけです。

 もう一つのガードナー説の重要な問題点は、上下前後左右の概念もしくは定義にあります。端的に言ってガードナーは左右を幾何学的に、したがって相対的に考えているようです。しかし実際は、左右は上下前後と同様に人間の身体に固定されていると考えるべきもので、これについてはガードナーも尊敬するマッハが最初に気づき、彼の主著として有名な『感覚の分析』の中でも述べられていることで、等方性の幾何学空間に対する異方性の知覚空間の違いという認識論的な問題であるといえます。ガードナーが『自然界における左と右』においてもマッハを非常に高く評価しているにも関わらず、マッハのこの側面に無関心であった事には、何か、考えさせられるものがあります。

 加地氏は、少なくとも以上の点においてガードナーを踏襲し、彼を乗り越えていないことがわかります。ではそれ以外の点でガードナーを乗り越えた部分はあるでしょうか、たぶん、前進した部分と同様に後退した部分もあるような印象ですが、それをまた次回に検討したいと思います。

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鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その8― 書評:加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』をレビューする(その3)― ガードナー説からの後退と前進

 前回に続き、まず、ガードナー説との比較を続けます。

  • ガードナー説から後退している点
 問題なのは、加地氏が、ガードナーが、鏡像と実物が互いに対掌体[enantiomorph]になっていることを指摘している点を見逃していることです。日本語訳(坪井忠二 小島弘訳)でその個所は次のようになっています。
「(鏡は)その鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転するのである。この逆転によって、非対称形の鏡像は実物の左右像になる。」
 前回に少し触れましたが、「左右像」という言葉は、ガードナーの原文では「enantiomorph」となっています。この言葉の訳語としては分野によって実に色々な表現が用いられていますが、「対掌体」という訳語があり、この言葉には左右の概念が含まれていません。互いに対掌体の関係にあるという関係は右手と左手の形状の相対的な関係という意味で、端的に言えば右手と左手との関係は右と左との関係とは全く別物だという事を認識する必要があります。この件についてはまたこのシリーズではカント哲学との関係で言及する予定です。本稿で問題にしていることは、ガードナーはここで「非対称形の鏡像は実物のenantiomorph(対掌体)になる」と言っていることが何を意味するかというと、鏡像と実物とは三次元の三軸方向(上下前後左右の各軸)のうちどれか一つだけの軸方向で逆転した形状になっているという意味で、つまり相対的な関係であって、人体のように上下前後左右を持つものに適用すれば上下、前後、左右の何れか一つの軸方向で逆転した形状になっていることを意味しています。
 上記のコンセプトに関して、加地氏の対応にはいくらかの問題があるように思います。ひとつは対掌体対の性質について理解していないとは言いませんが、用語自体と共に概念と意義を深くは理解されていない様に思います。それはこの言葉を(したがってこの概念を)全く使用していないからです。それは、対掌体の性質を規定する際の三方向は幾何学的なのでx、y、zのような単なる記号で表すことはできても、そのまま人間の上下左右前後に適用できないという点です。言い換えると、鏡面に関してx、y、zの三軸を定義した場合にそれを人間の上下前後左右に当てはめるには何らかの条件が必要であるという事です。ガードナーはこの点を何となく理解していたように思われます。加地氏はガードナーを批判する際、鏡面の三軸を直接に人間の上下前後左右に対応させて批判しているようなところがあります。これにはガードナーの説明方法にも問題があって、ガードナー自身、鏡面に対して直角の軸という幾何学的表現に徹していればよいものを、同時に、鏡面に対して前後方向という表現も使っています。そ場合の説明に矛盾が出てくるわけです。例えば人間が鏡に対して横を向いている場合、鏡の前後と人間の前後は一致しません。これは、ガードナーの説明では具体的な実例については詳しく検討していないことからも来ているのでしょう。この点でガードナーにも加地氏にも首尾一貫していない点、どっちもどっちという印象はありますが、ガードナーはenantiomorph(対掌体)の概念を使用している点で、勝っているように思われます。見方を変えると、ガードナーは対掌体という抽象的で包括的な概念を使用していることで、具体的なさまざまな例を個別に説明することを避けることができたとも言えます。しかし対掌体の概念を使用することで、それ以後の多様な場面での具体的な考察を怠っているとも言えます。対掌体の概念を理解すれば問題はないのですが、対掌体の概念を理解していない人は混乱するわけです。
 加地氏はブロックという哲学者の誤謬を指摘し、それは左右概念の混乱によるものであるとし、それでも左右概念を検討したうえでの誤謬であると云ってガードナーが左右概念の分析を行っていないことを批判していますが、ブロックの誤謬は左右概念の分析以前に、対掌体の概念を理解していないことに起因しています。この点についてはまたの機会に検討したいと思いますが、端的に言って加地氏はブロックと共に、ガードナーが指摘している対掌体の概念を十分に把握していない事が、より高次のカテゴリーレベルにおける誤りであるように思われます。少なくともガードナーは対掌体の概念を踏まえたうえで上下前後左右について考察している点で、加地氏とブロックは共にガードナー説から後退している、と私は考えます。
 なお、このあたりで加地氏は次のような一つの結論を述べています。「なるほどー。鏡像反転の謎の原因は、鏡にではなく、結局のところ私たちが勝手に二つの異質な方向付けを組み合わせてしまっていることにあったんだ。」これは一種の早とちりとでも言いますか、間違いです。鏡を含めた光学現象なしに鏡像反転現象はあり得ません

  • ガードナー説よりも前進しているとも後退しているとも言えない座標系の使用
 加地氏は、ガードナーは直交座標系(デカルト座標系)を使用していることから、鏡面に垂直方向の逆転を主張しているものと考えています。そして回転座標系を使用することで左右逆転を説明できるものとし、回転座標系の使用が直交座標系の使用よりも優れていると主張しています。それは、回転座標系を使用することで回転の概念(回転操作)を導入できることにあるようです。しかし、実は、加地氏自身が後で述べているように、ガードナーも回転操作を使用していないわけではありません。それは、ガードナーが次のように記述しているところです。「これらの要因によって、私たちは鏡を見たとき、自分がその中に入った状態を想像して実物と鏡像とを比較し、その相違を区別するために、右と左が入れ替わったと言う。その言い方が最も便利だからである。」ここで、人が想像上で鏡の中に入って自分という実物と鏡像を比較する際、鏡の中の自分と現実の自分を比較するために人は上下軸を中心にして回転せざるを得ません。ですから、ガードナーもここでは言葉には出さずとも回転操作を想定しています。そもそも、ガードナーは具体的な説明の過程で、直交座標系であるか回転座標系であるかを問わず、座標系自体を使っていません。ですから、ガードナーの「鏡に垂直な軸で逆転している」という説明を、直交座標系による説明と同一視するのは間違っています。これは、鏡面対称性の図解を見ると直観的に理解できることです。強いて何らかの操作を行っているとすれば、イメージの平行移動でしょう。それは強いて言えばイメージ空間の平行移動であって、座標系の移動と考えるのは後付けの解釈と言えます。回転の場合も、イメージ空間の回転であって、座標系を使用していると考えるのは一つの説明の仕方であって、普通の人は物を見る場合に座標系というような複雑な定義の概念を使用することはありません。ちなみに、岩波理化学事典には『鏡映(mirror operation)』という項目があり、数学的な定義がありますが、座標系の概念を使用しているわけではありません。

  • ガードナー説から前進している点
 加地氏は回転座標系を使用することで、回転操作の重要性に気づいたということができます。この回転操作をかなり包括的に記述することに成功したということはできると思います。ガードナーは、鏡像と実物とは互いに対掌体(enantiomorph)であるので、三つの直交軸の何れか一軸が逆転して観察されることを踏まえたうえで、その一軸が左右軸として認識される場合が多いという事を述べているのですが、説明の仕方がやや大雑把で、いろいろなケースを個別に詳しく検討していないという嫌いがあります。加地氏の本の「回転軸の謎」という見出しの下で回転操作をかなり包括的に述べている点で、ガードナーから前進しているといえるように思います。

まとめ
 加地氏の説明は、ガードナー説以前のだいたいすべての説と、それ以後の一部の所説と同様に、対掌体対の成立段階とそれ以後の認知プロセスを区別することなく、全体を一体として説明することになったために無理があり、混乱を含まざるを得なくなったという面があります。このレビュー記事の一回目で大阪府立大学名誉教授の多幡先生の記事を紹介しましたが、そこで言及されていた次の三説ではこの点が解決されていると言えます:Corballis 論文、Tabata-Okuda 論文、および McManus の著書。詳しくはこのレビューの初回記事(―その1)をご参照ください。また手前みそになりますが、この加地大介氏の著書を一読されると、同様に初回記事で紹介している私の各論文、特に最後の日本語の著作二冊は理解しやすくなると思います。最後に宣伝になって恐縮ですが次の二冊には現時点での私の論点がすべて含まれていますので、ご一読いただきますと幸いです。


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(今回の記事は筆者の別ブログサイト『発見の発見』に公開済みの3回分記事の再録です。)




2026年8月1日土曜日

お知らせ:連載シリーズ記事『鏡像問題と哲学あるいは認識論』の掲載サイトを本サイトに戻して掲載を続けます。

 先般5月1日の記事で、表記の通りシリーズ記事『鏡像問題と哲学あるいは認識論』を別ブログサイト「FC2ブログ」の筆者ブログ『発見の発見』に移転することをお知らし、実際にそれを実行して何回かの記事をそちらのサイトに掲載しましたが、その後、移転先の『発見の発見』へのアクセス数は大して増えることがなく、一方で本ブログサイトへにアクセスが激減したことに気づきました。その理由を推察するに、恐らく、本ブログサイトのBroggerでは自動翻訳機能があったため、海外からのアクセスが多く得られていたことにあるとの結論に達しました。ブログ『発見の発見』が所属しているブログサイト「FC2ブログ」には自動翻訳機能が備わっていなかったという次第です。そこで当方の構想を変更し、当該シリーズ記事は当ブログサイトに戻すこととしました。順次、その後の連載記事をこちらのブログに再録し、新記事もこちらで継続してゆきますので、継続してご覧いただけると幸いです。