2026年8月8日土曜日

鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その9 ― カント哲学との関わりで(2)― 原因性あるいは因果関係の問題(ヒューム哲学参照)

  従来、鏡像反転現象の考察では「何がその原因なのか」という原因の特定についてはあまり語られることはなく、「なぜその現象がみられるのか」という問いかけで考察が始められることが多かった。例えばガードナーによる説明では、彼は次のように語り始めている。

 「これまで鏡の反射よる対称について、簡単な説明をしてきた。この説明を頭において、そろそろ第一章で提起した問題、すなわち、鏡は左右を逆転するのに、なぜ上下はさかさまにならないのだろうか、という問題に答えてみることにしよう。」
 そしてガードナーの解答は、それを引用すると次のとおりである。
 「これまでのことを要約してみることにしよう。鏡は上下にくらべて左右を好んで逆転する、という事は全くないのである。ただ、その鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転する、のである(It does reverse the structure of a figure, point to point, along the axis perpendicular to the mirror)。この逆転によって、非対称形の鏡像は実物の左右像(注:Enantiomorph、対掌体)になる。我々のからだが左右相称であるので、鏡による逆転現象は、左右の入れかえとよんだほうが便利である、これは単にいい方の問題であって、習慣的にこのような言葉の使い方をするのである。(坪井忠二他訳)」
 ここでは原因を特定するという意識はなく、もっぱら「鏡」を主語にした擬人的な表現で現象が語られている。「鏡は上下に比べて左右を好んで逆転する、という事は・・」という具合である。このような「鏡が(何かを)逆転する」という、鏡を主語にした表現は、事実上すべての学術的な鏡像問題研究論文でも見られるものである。そうして、ガードナーの説明以降に、あるいはガードナー説に触発されて登場してきた諸々の論文のほとんどが心理学者によるものである。そしてついにGregory (1989) や高野 (1998) のように、光学作用を完全に、あるいは部分的に、1つの要因としても認めないような理論が登場するまでに至ったのである。

 実のところ、ガードナーは、鏡像反転現象を二段階で説明している。彼はまず、「これまで鏡の反射よる対称について、簡単な説明をしてきた。この説明を頭において・・・」と語り始めたとき、すでに最初の段階の説明を前提としている。つまり、鏡像と実物の鏡面対称性が成立し、両者が互いに対掌体(左右像)になっていることを前提としているのである。ガードナー自身を含めてそれ以後の論者の多数派は、この前提(対の形状が互いに対掌体になっている)を認めたうえで、それぞれ対の左右逆転について独自の説明を加えているが、Gregory (1987) や高野 (1998)は、ガードナーの前提を無視しているか見逃している。

 しかし、ガードナーはこの前提、つまり対が互いに面対称であり、必然的に対掌体になっていることの原因については一切考察していないのである。彼が鏡像の成立に光の正反射の法則が関与していることを認識していないとは思われない。彼は光学的な虚像の概念を当然のこととして受け入れていたものと思われる。ただしガードナーは、鏡像が成立するメカニズムを鏡の動作として擬人的に表現したのである。例えば、ガードナーが、"It does reverse the structure of a figure, point to point, along the axis perpendicular to the mirror(鏡はそのその鏡面に直角な軸にそって、いろいろな図形の各々の点の位置を逆転する)"と語るとき、彼は鏡を主語にして他動詞を用いて目的語に対して「図形の各々の点の位置を逆転する」と語っている。これは徹頭徹尾擬人的な表現であって、どのような物理的なプロセスも、認知プロセスをも表現していない。現実に鏡像反転を観察するのは個人の観察者以外ではありえない。観察者は二つの形を比較しているのであって、一方が他方に変化したり、移動したりするわけではない。しかしガードナーがこれを擬人的に表現したことによって(鏡を擬人的に表現するのは伝統的にも日常的な感覚としても、ごく普通のことだが、科学者が使う科学の言葉としてはあまりにも安易ではないだろうか?) 、この二つの形状の差異の問題が、形状が変化させられた問題と受け止められるようになってしまった。高野 (1998、他) はこの現象を「変換」と表現し、やがて終には鏡像と実物との本質的な違いを置き去りにして、鏡像を現実の人物や物体と見做すような理論を構築するに至る。これはグレゴリー  (1989) も同様であって、両者の理論は見かけ上は異なるが、いずれも鏡像を現実の人物や物体で置き換えても成立する説明であって、明らかに鏡像の問題から逸脱した理論になっている。

 いずれにせよ、ガードナーは鏡像反転の問題を、物理的には、一切考察していない。専門的には数学者であるガードナーは、鏡像という現象の問題を幾何学的・数学的問題に還元してしまった。ただしそれだけでは現実の認知現象を説明できないため、習慣的な言語表現の問題を加味して対応したといえる。ガードナー以降の何人かの論者はこの問題をある程度意識して、物理現象との関係を示唆するような表現がみられる。例えば、Ittelson (1991) は、"a mirror optically reverses the axis perpendicular to it.(鏡が光学的に、鏡に垂直方向に軸を逆転させる)" となり, Corballis (2000) では ”the rotation and translocation caused by the mirror,(鏡が原因となって生じる回転)” という表現がみられ、Tabata and Okuda (2000) では"the inversion caused by the optical process of mirroring(光学的なプロセスに起因する反転)"  というように、光学的ないしは物理的な原因がほのめかされている。しかしいずれも光学的ないしは物理的な原因は言及されているだけであって、物理的なプロセスと、面対称性ないし対掌体の性質とのつながりは明らかではない。

 鏡面の反射法則は光ないしは光線を主語にして記述される。たとえば研究社理化学英和辞典によれば、反射の法則とは、「光が媒質の境界に入射するとき、入射光、反射光および入射点で境界に立てた法線は同一平面上にあり、かつ入射光と法線の成す角と反射光と法線のなす角は等しいという法則」である。これは、ここでは動的な要素、つまり時間的に変化する要素は光線である。光速はあまりにも速く、また光の粒子はあまりにも小さく、光を図で説明しようとすれば幾何学的な直線で表現せざるを得ない。このように、人は光の粒子も光線も直接見ることができない。ただ眼の網膜に形成される物理的な像(実像)によって視覚像(visual image)を知覚するのみである。この視覚像というものは物理的な存在ではなく認知的な存在である。したがって物理光学的に光の正反射の結果をたどれるのは、網膜に実像が形成されるまでと言えよう。

    Ittelson (1991) が「鏡が光学的に、鏡に垂直方向に軸を逆転させる」といい、 Corballis (2000) が「鏡が原因となって生じる回転」といい、Tabata and Okuda (2000) が「光学的なプロセスに起因する反転」と言っているのはいずれも鏡の光学作用が原因となっていることをほのめかしているが、やはりGardnerと同様に光学的虚像の図示に基づいている。つまりいずれの説明も原因が鏡の光学的性質であり、光線を主語として記述されるプロセスであることをほのめかしてはいるが、結果としては、鏡を主語とし、他動詞を使って実物の形状を変化させるという、物理的な変化としてはあり得ない虚構の幾何学的プロセスを述べているのである。この間に原因と結果の連続性を見出すことはできない。

 Haig (1993) は、光の正反射のプロセスから直接、鏡像反転を導こうとした。しかし、彼は光線と観察者の視線とを混同してしまった。というより、光線を視線と見做してしまった。彼が描いた正反射を含む光路図は、人の眼の直前で途切れている。光が網膜に達していないので、物理的プロセスは完結していない。その光路は観察者の眼の直前で、観察者の視線を示すものにすり替わっている。前述のとおり、つまるところ視線の先には虚像が想定されているのである。

 ここでこのプロセスについて、原因の概念についてのカントの説明を参照してみたい。もちろん、カント哲学における原因の概念を深く掘り下げて理解したり考察したりするわけではない。私の第二論文では、光が鏡面で正反射することから始まり、人の眼に代えてカメラのフィルムに相当する像面で実像が生じるまでのプロセスで物理的なプロセスを終わらせた。このプロセスにおいて主語は一貫して光ないしは光線であり、時間的には最後まで連続している。このプロセスは少なくとも因果関係の概念に関して、カントによる次の説明に適合している。それは「原因はその結果を原因についで継起するするものとして時間において規定する(篠田英雄訳)」。つまり時間における継起という点である。従来の、虚像に基づく説明ないし理論はいずれも、明らかにこの点を満たしていない。

 ガードナー説を始めとする従来の光学的虚像のみに基づく鏡像反転の説明における原因性は、どうやらヒューム哲学による因果関係についての考え方には適合できそうに思われる。私はヒュームの著作を読んだことはなく、最近まではヒューム哲学について学んだり考えたりしたことはなかったのだが、最近、因果関係についての考え方においてカント哲学とヒューム哲学との違いなどについて少々、事典類や参考書などにあたってみることがあった。そして、例えばジェームズ・A・ハリー著、矢嶋直規訳『ヒューム入門』によれば、
「自然法則の普遍性についての一般原理の源泉は存在しない。そのことは、われわれの因果信念がそうした原理に依拠することなく説明されなければならないことを意味する、とヒュームは結論する。むしろ、かかわっている精神の過程は、単なる連合の習慣であり、その際いくつかの規則的に経験された出来事の結合がわれわれに、例えば曇り空はすぐに雨になると信じるように促すのである。」
とあり、「観念の自動的連合のわれわれの認知生活への重要性についてのこの発見こそ、ヒュームが人間本性の科学への自身の主たる貢献と見なしたものであった。」という事である。

 こうしてみると、上述のようなヒューム哲学的な、因果関係を「単なる連合の習慣」と見るような意識が近現代科学において浸透している傾向があるように思われる。鏡像反転問題においては上述のように鏡を擬人的に表現することで光学的虚像をも擬人化あるいは物質化してしまい、それらと実物との鏡面対称性という幾何学的な分析で終始し、物理的プロセスの分析を追求しないという、ほとんどすべての従来説の深層には、このような、因果関係を「単なる連合の習慣」と見るような意識が潜在しているのではないだろうか。
 すでに述べている通り、私は原因の概念についてのヒューム説を深く理解するものではないのと同様、これに対するカント説についても深く総合的に理解しているわけではないが、その限りで、ヒューム哲学ではなくカント哲学の方に正確性への追求姿勢が感じられ、少なくとも科学性の追求においては尊重すべき考え方ではないかと思うものである。これはカテゴリーの理解と尊重においても同様である。


0 件のコメント: