2022年10月9日日曜日

一神教、科学主義、および神秘主義という三つの概念ないし理念を個人的体験をとおしてみると(1)― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その5

 前回は一神教、科学主義、および神秘主義という三つの概念が持つ相互関係ないしは構造をゲーテという特別な人物の思想において考察してみたということになるだろうか。次にはこれを特定の個人ではなく、もっと大きな単位、例えばヨーロッパ文明とか世界文明などにおいて考察したいものだが、ここでいきなりそこまで壮大な試みに切り込むのは無謀な話である。そこでゲーテにおいてさらにこの問題を掘り下げるのも意義深いと思うが、それにしても今の私の身に余る試みに変わりはない。そこでまず、私の個人的体験を振り返ることから始めて、それを考察してみたいと思う。

私は、最近はあまり使われる機会も少なくなった言葉で団塊世代の一人であり、日本生まれの日本人である。日本人のキリスト教徒は非常に少ないといわれるが、私の場合は人生の始めからキリスト教とはわりと関わりが深い方であったと思う。まず、母の実家の家族の多くがキリスト教徒であるかそれに近い位置にあった。母の兄たちは長男を筆頭に、幼少時に親から洗礼を受けさせられたとのことである。女の子たちは特に強制されなかったので、母は洗礼を受けなかった。なんでも学校友達にヤソ、ヤソと言って冷やかされるのが嫌だったという。それでも日曜学校には通わされたそうで、年をとってからも時どき賛美歌を懐かしそうに口ずさんでいたこともある。そういう環境になった原因というのは、私の祖父にあたる人が宣教師に英語を教えてもらうことを条件にヤソに入信したという話であった。その宣教師は英国人だから当然、教会は英国系の教会である。その祖父がその後英語を活用できたのかどうかなど、そういう話は全く聞く機会がなかったので祖父の話はこれまでである。母の兄たちには何度か会った記憶があるが、あまりキリスト教を匂わせるような印象はなかった。母の弟にあたる叔父は私には身近な存在だったが、兄たちのように洗礼は受けなかったそうである。たぶん当の叔父は私の母に比べてもかなり年下であったから、そういう問題が出る頃には祖父も年を重ねて考え方も変わっていたのかもしれない。

その叔父は、近くにあった教区の教会に通っていたような形跡は見られなかったが、そこの信徒連とは付き合いがあったらしく、信徒の女性と結婚して教会で結婚式も挙げ、これは数年前になるが、葬儀も教会で行われた。洗礼を受けていなかったので、本来は教会で葬儀はできない規定であったところが、何らかの条件で、死後洗礼というような形で葬儀を行うことができたということらしい。実際、本人が常々、冠婚葬祭はキリスト教式が良いと話していたから、これは本人にとっても良いことではあったはずである。

その妻すなわち私の叔母とその娘すなわち従妹はどちらも洗礼を受けた信徒であり続けている。従妹の方は信徒のなかで役員も務め、教会のカギも預かり、クリスマスや何やらの行事があると相当に忙しい思いをしているらしい。ただ、本人が語ったところによれば、息子を教団系列の私立大学に入れたこと、その他の便宜を図ってもらえるので、役員をやっているとのことで、心から教団の活動に熱心なわけでもなさそうである。とはいっても信徒の数が減る一方であることに寂しい思いをしているらしい。叔母についていえば、私の家族を含めた間でキリスト教の話をしたことなど一切なかった。当地とはやや離れた県の出身であったがなぜそのキリスト教会の信徒になったのかなど、一切話したことがなかった。もう相当なお歳だが、今からでも機会があれば聞いてみようかと思っている。それにしても私の方からそういう話を聞きたいと思ったこともなかった。

ここでちょっとした結論めいたことを言うと、叔父にとってキリスト教は結婚相手をみつけるためと、結果的に自分の葬式を挙げてもらうことが目的で入信したようなものである。その娘にしても、キリスト教の理念に殉じるというよりも教団やコミュニティへの精神的な依存や団体の持つ利点などが利用できるという意味合いが強いように思われる。

結果的に、以上の文面を書いた後の挿入になってしまったが、つい最近、当の叔母にその話を聞けるような機会があったので聞いてみた。それによれば、彼女は実家は仏教であったが、地元にあった今のグンゼ株式会社の繊維工場に勤めたことがきっかけで入信したということだった。グンゼの創業者が熱心なキリスト教徒であったことが発端である。後で例のごとくウィキペディアを見るとグンゼの歴史が結構詳しい。― ちなみに、ウィキペディアには企業情報が、その歴史を含め結構詳しいのはありがたく重宝している。― 私はこれまでグンゼがそれほどの歴史のある会社であることも、創業者がキリスト教徒で、宗教家といえる一面もあったこともなおさら、知らなかった。こちらの方はこちらの方で興味深いが、それはそれとして、叔母の場合も結局のところキリスト教との関係は叔父の場合と似たり寄ったりというところか。叔父の場合は生前に洗礼を受けなかったのだから教義には懐疑的であったことには間違いがない。叔母の場合は実際に入信して洗礼も受け、家に伝わる仏教を放棄したことになる。またその父親もキリスト教に好感を持ったらしい。その理由は、仏教では戒名その他のランクがお金次第であるのに対してキリスト教では洗礼名を自由に選べるという点で感心していたとのことである。そういうわけで信心に懐疑的であったとは言えないが、とはいえ敬虔な信者であったわけでもない。正統的なプロテスタントの指導者は一般に他の一切の宗教(キリスト教系ではないところの)を容認しないことはもちろん、神秘主義的な傾向の多くをも否定するものである。例えば霊魂、神霊、悪霊、霊界、カルマ、生まれ変わり、といったものを否定するように説教するものである。しかし信徒の多くは内心ではそうではない。彼女もその例にもれずそのようなことには頓着しなかった。実際のところ、これは本場である西欧の一般信徒もそうではないかと思うものである。

次に、親戚関係ではなく友人の例で一つのケースを振り返ってみたい。かつて、私が中国地方のある都市の事業所に勤務していたときで、少し年下の同僚に起きた事例である。あるとき彼が、当時地元で活動を開始したばかりの独立系プロテスタント教会に通いだしたことを私に告げ、私にも入信を勧めるべく布教活動を始めたのである。指導的な活動家や牧師にも紹介され、私としては入信する可能性はほとんど想定していなかったけれども、関心はあったので、教会まで講演会を聞きに行ったり、牧師さんとも何度か話をする機会を持った。興味本位でともいえるが、不真面目な冷やかしというわけでもなく、かなり強い関心を持っていたのである。

紹介されたある熱心な布教活動家の話によれば、その教会は特定の教団に属すのではなく独立系であり、教義としてはカルヴァン派に近いという話であった。それとの関係かどうか、当時東京からやってくる講演者たちの講演内容は、当時は割とよく知られていた言い方でファンダメンタリズム ― 根本主義 ― に近いように思われた。ただし、当の牧師さんやかの活動家の語るところによれば、自分たちの立場はファンダメンタリズムではないと断言していたが、当時アメリカでフィーバーといわれるほど人気を博していた伝道師のビリー・グラハムのファンで支持者でもあり、いま改めて確認してみるとそれは福音派と呼ぶべきものらしい。いずれにしてもプロテスタントの中でもかなり急進的であることは確認できたように思う。ただし当の友人はあまり深くは考えたり議論したりはしないたちで、例えば本人は大学で地質学を専攻していたにも関わらず、かの福音派の主張するような、地球の年齢は6,000年だとする主張にも頓着する様子は見られなかった。このような問題は絶対的な真理は確実に知りえないとしても、議論における誠実さや捏造とかについては見過ごすことはできないというのは私の考え方である。当の教会はどこの教団にも所属していないとは云うものの、当時は東京から当地の教会まで、牧師さんが呼ぶのか、はたまた向こうから派遣されてくるのか、何らかのプロテスタント系布教団体の活動家がよく講演に訪れ、そういう機会に私も招待され、聞きに行くこともあったが、その内容はだいたいそういうアメリカの福音派などで作成された資料や教材をそのまま翻訳したようなものであった。

そういう教材はだいたい科学あるいは科学主義への攻撃という形をとり、事実上の攻撃の対象は進化論とそれにつながる地質学であった。はっきり言ってそれらは地質学に関して相当に悪質な捏造と曲解に満ちた低級な内容で、端的に言って科学以前のいい加減で誠実さを欠く論理に基づくものである。当時からこういうアメリカのファンタメンタリズムとか福音派などの非科学性あるいは反科学性については新聞雑誌などのマスコミでも取り上げられ、批判されることが多かった。

そういう問題には私は興味があったので、図らずも身近なところで、アメリカのそういうキリスト教の動向が、日本にも波及していて、その波が私自身にも及んできたことが実感できた次第であった。というわけでこういったファンダメンタリスムや福音派などの主張だけを元にキリスト教と科学との関係を論じることにはあまり意味がなく危険でもある。それは現実に科学の方法と科学の理念的なものを否定するというよりも、進化論と地質学の具体的な成果を否定することに過ぎず、それは聖書の具体的な記述に合わないという一点が根拠になっているに過ぎない。実際、太陽系の構造とか、物理学理論などについては批判はしていなかったように思われる。

神秘主義との関係でいえば、当の教会の牧師さんに、その点について尋ねたことがある。そのときの牧師さんによれば、そういう、霊魂、神霊や悪霊、霊界や生まれ変わりといったものについては否定も肯定もしないが、神はそういうものについて詮索することを禁じているという話であった。プロテスタント一般についてそう言えるのかどうかは今のところ不勉強でよくわからない。

さて、その友人は最初は妹から教会を紹介されたということだが、結局本人と母親を含めて家族ぐるみで入信したそうで、本人は信徒連の女性から結婚相手を見つけて結婚するに至った。私はその後しばらくして会社を辞め、関東地方に移住したのちもしばらく連絡していたが、私に入信する気がないことが確実になったころから、お互い連絡することもなくなった。

彼自身の言葉によれば、彼が入信に至った理由は心の平安を得るためであり、人間にとって宗教は必要欠くべからざるものであるという信念である。実際のところ、洋の東西を問わず何らかの宗教に入信する動機はこの言葉に尽きるであろう。よく使われる別の表現では、『救済』である。その意味で結婚相手を見つけるためとか、信徒のコミュニティを持つことで孤独から逃れたいといった、いわば実利的ともいえる目的も、つまるところは心の平安を得るための条件の1つであり、その限りでは不純ともいえない。

とはいえ、だれにとっても、心の平安を得るためにはどんな宗教でもよいというわけにはゆかないはずである。教理や教団の活動に対して少しでも不信があれば真の心の平安は得られない、と私は思うが、この辺りから程度の問題や、個人の性格や、人生観の違いが表面化するともいえる。と同時に他方であまたある諸宗教間の共通点と相違点が問題になり、普通はまず多神教と一神教のどちらかに分けられ、キリスト教は一神教に該当するわけだが、上述の私の親戚関係にしても、友人にしても、広い意味で心の平安を得るという目的は、宗教一般について言えることであって、一神教であるか多神教であるかという点にはあまり関係がなかったようである。たまたま彼らにとって日本の既存の宗教、特に仏教ではもうそういう心の平安を得るための条件を満たしてくれず、簡単に言って陳腐化していたのではないかとみられるのである。彼らにとって新来の宗教がそれを満たすものであったといえるが、しかし同じ意味で新来の宗教は明治以来の日本では、他にもたくさんあった。新興宗教とか新宗教とか言われてきたものがそれで、日本では普通神道系と仏教系に分類されているが、キリスト教系で海外由来のものも新興宗教といわれるものがある。例えば、先に述べた友人が所属していた教会の牧師さんによればエホバの証人はキリスト教ではなく新興宗教であると話していた。

以上のような次第で、少なくとも洋の東西を問わず一般信徒の場合にはその宗教が一神教であるか多神教であるかといった問題はあまり意味をなさないように思われる。もちろんそれは個人のレベルを超えて文明の単位や民族の文化にとって重要ではないということにはならないことには留意しなければならないと考える次第である。

以上が、私の身辺の人々をとおしてみた、キリスト教(一神教としての)、科学主義、および神秘主義という三つの理念についての単純素朴な分析である。次には、私自身が受け止めたところの、西欧のキリスト教文明のインパクトについて、反省してみたいと思っている。