鏡像反転に関わる論文のいくつかではカントの言説が引用されたり、参照されたりしている。いくつかの有名論文の文献リスト中で最も古いPears (1952)では、"Kant's problem of the incongruity of counter parts"という表現で言及されている。この問題はつまるところ、対掌体対の形状の差異の問題である。これは、カントが学問史上で初めて対掌体の性質に着目したといえる、という事であると思われる。この点については、比較的新しいCorballis (2000) においても同様である。Corballis (2000) は次のように記述している。"As Immanuel Kant (1783/1997) long ago observed, asymmetrical enantiomorphs invite the paradox that they appear to have the same shape; for every edge, corner, or surface on one, there is a corresponding edge, corner, or surface on the other." ここでのカントへの参照は、カントの有名な著作である『プロレゴーメナ』に基づいている。
一方、Ittelson (1991) では、カントの言説は左右概念あるいは左右の定義の問題において参照されている。"The special characteristics of right and left as linguistic categories were discussed in detail by Kant and probably by others earlier, but we turn to William James (1890/1950) for his usual lucid description"。ここではカントと併せて Bennett (1970) とWilliam James (1890/1950) が参照され、Ittelson自身はWilliam James の考え方に注目してそれを引用している。
上記 Ittelson (1991) が引用しているBennett (1970) は、"The difference between right and left" というタイトルで、テーマは鏡像反転ではなく、左右概念、あるいは左右の意味、定義の問題そのものである。そして、著者はカント哲学の専門家であるそうで、この論文はカントのいくつかの著作に即して考察されていると云っても良いほどである。ただ、ここでこの論文の内容について言及することは差し控えたい。というのは、かなりの長文であるうえ、内容も文章も込み入ているようで読みづらく、現時点で私には読みこなせていない。ただ、鏡像反転問題に関しては、著者は全面的にガードナー説を支持し、ガードナー説を再現する形で説明している点、ガードナー説の限界内での理解と考察にとどまっていることがわかる。
他方、全体としてのBennett (1970) 論文が読みづらい理由の一つは、この論文では、タイトルに現れたテーマは左右という方向概念の問題なのであるが、中身はこの左右という方向概念の問題と同時に対掌体の問題と面対称性の問題も扱われている事にある。それにはやはり理由があって、この論文で参照されているカントの一つ目の論文『On the First Ground of the Distinction of Regions in Space (空間における方位の区別の第一根拠について)』(1768) の内容にそういうところがあるのである。私はこのBennett論文に初めて触れたとき、『プロレゴーメナ』については、過去に読んだことがあり、その本(岩波文庫)もまだ手元にあって、参照することができたが、前者論文(以下では[カント - 1]と称する)については参照することはできなかった。しかし昨年(2025年)になって市立図書館に通うようになって偶然、岩波書店刊カント全集が開架されていることに気づき、この論文[カント - 1]に接することができた次第である。翻訳・解説者(上村恒一郎)によると、この論文は1768年の早い時期に公刊された論文で、「カント哲学の形成と展開において非常に重要な意味をもつ論文である。その理由は、批判期におけるカント哲学の基本テーゼの一つである『空間の超越論的観念性』に繋がる思考の原型が、ここに示されているからである。」とある。
さて、この論文の全体としての構想と意義についてはさておき、ここで鏡像問題ないしは鏡像反転現象の問題との関連で扱われている問題は、Ittelson (1991) で言及されていた左右の方向概念ないしは定義の問題と、Corballis (2000) において言及されていた対掌体の性質、および面対称性の問題であるといえる。Corballis (2000) においてはカントのこの論文ではなくて『プロレゴーメナ』が参照されていた。Ittelson (1991) においては文献リストにカントの著作は見られないが、Bennett (1970) が掲げられているので、これを参照したのであろう。Bennett (1970) においてはカントのこの論文に加えてさらにカントの『Inaugural lecture: "Dissertation on the Form and Principles of the Sensible and Intelligible World』 (1770)[カント - 2]と『プロレゴーメナ』[カント - 3]の二つが参照されている。というわけで、結局カントの著作では上記三つの論文ないし著作で鏡像問題にも関わる問題が扱われていることになる。この三つの著作において、これらの諸問題の扱い方に違いないし変遷があるかどうかが気になるのである。
検討の結果、[カント - 1]では確かに左右の方向概念の問題に加えて対掌体の性質、また面対称性の性質の問題が扱われている。しかし、[カント - 2]と、[カント - 3](プロレゴーメナ)では対掌体の性質ないしは面対称性の性質についての問題が扱われているが、左右の方向概念の問題については言及されなくなっていることがわかる。というのは、いずれにおいても右手と左手、あるいは右耳と左耳という用語は出てくるものの、単なる右あるいは左という用語はまったく出現しないのである。右あるいは左という言葉は右手と左手あるいは右耳と左耳という言葉でのみ出現している。要するに、カントは対掌体対の例として右手と左手、また右耳と左耳の形状を挙げているのであって、右あるいは左という方向概念そのものについては言及しなくなっているのである。じじつ、カントはここで球面の上半分と下半分(赤道面)において面対称をなす三角形の対という例も挙げている。この場合は左右対称というよりも上下対象というべきであろう。つまり、対掌体対の規定には上下も左右も関係がなく、単に反対方向が関係しているというべきである。
という次第で、カントは『プロレゴーメナ』を著した時点で、左右の方向概念の問題を扱わなかった。彼は最初の[カント - 1]以後、[カント - 2]と[カント - 3]においては左右の方向概念の問題を置き去りにしているといえる。ではなぜカントはこの問題を置き去りにしたままで終わったのであろうか。それは恐らく、この問題はこの時点で完成していたカント哲学の体系の中ではそれ以上に追求することは難しかったのではないだろうか。もちろんこれは、カント哲学の体系をよく理解しているわけではない私の単なる推測に過ぎない。
ところで、上述の論文[カント - 1]において、カントは鏡像問題ないしは鏡像反転現象に言及している。それは対掌体対の性質に基づくもので、基本的にガードナー説とそれ以降の諸説の基本的部分と同じである。鏡像反転のガードナー説の基本的部分は、すでにカントがこの論文で解明指摘していたといえる。またこの[カント - 1]ではすでに見たように、鏡像反転の認知プロセスの分析解明に不可欠なもう一つの要素である左右の方向概念をも上下・前後の概念とのセットで取り扱っている。つまり、この論文[カント - 1]では鏡像反転現象の認知プロセスに限って全面的に解明する二つのキー要素が見つけ出され、検討されている。一つは人間の主観的な上下・前後・左右の方向概念であり、もう一つは対掌体対の幾何学的性質である。ただし、鏡像反転の理解と説明においては対掌体の性質のみが援用され、左右の方向概念については援用されることはなかった。また、認知プロセスについてのみの理解であり、物理的プロセスについても解明されることはなかった。
もちろん、[カント - 1]の基本テーマと目標、つまり意義は鏡像反転現象の解明にあるのではなく、翻訳・解説者のいう様に、「カント哲学の形成と展開において非常に重要な意味をもつ論文である。その理由は、批判期におけるカント哲学の基本テーゼの一つである『空間の超越論的観念性』に繋がる思考の原型が、ここに示されているからである。」という事なのであろう。この「カント哲学の形成と展開」のプロセスと結果において、上下・前後・左右の方向概念に関するアイデアが置き去りにされていた、という事ができるのではないだろうか。もちろん、繰り返して述べると、以上は哲学全般についても、カント哲学についても、専門家でも、それに詳しいわけでもない私の単なる印象である。
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