【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって、定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。
【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。
【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
(2018年7月2日 田中潤一)