数日前に表記の本を読了した。この本を読み始めた経緯は、このブログか別のブログに書いたが、これはおそらく20年ほども以前に購入して殆ど読んでいなかった本である。同じ著者の『シンボル形式の哲学』は数年前に一通り読了したが、つい昨年には学生時代に読んだ、やはり同じ著者の『人間』を再読したところであり、一応だがカッシーラーの重要な著作を三冊読んだことになる。こういうこと、一人の大哲学者の著書三冊を読了したといえるのは初めてのことで、ちょっとした満足感がある。もっとも『人間』は一般人を対象に書かれた本であると言われているし、今回の『啓蒙主義の哲学』も最初に購入したのは哲学史の教科書的な印象で購入したものだったが。
そういう次第なので、どうしてもこの三冊を、どれだけ理解できたかはさておき、自分なりに比較する気が起きる。もちろん先に読んだ二著作、特に主著と言われる『シンボル形式の哲学』がどれほど頭に残っているかと言えばまったく心もとない次第である。とはいえ、先日脱稿し、テクニカルレポートとして日本認知学会に投稿して再録された鏡像問題に関わる論考は、『シンボル形式の哲学』の第二巻である『神話的思考』を読んでいなければ成立することがあり得なかったものなのである。ちょうどブログで鏡像問題の新聞記事に触れた頃に、まさに今回のレポートで引用したあたりを読んでいたのだから。
とにもかくにも少なくとも個人的に、これらの三著作を比較することは特に興味深いのである。
『シンボル形式の哲学』は第一巻が『言語』、第二巻が『神話的思考』、第三巻が『認識の現象学』というタイトルになっているが、第三巻『認識の現象学』 の後半では自然科学と数学がテーマとなり、訳者の解説によるとこの部分がこの書の「クライマックス」とされている。それに対して『人間』では人間の「文化」を対象とし、文化の要素として神話と宗教、言語、芸術、歴史、そして科学が、どちらかというと並列的に扱われていたような印象があったが、比較的に芸術と歴史に重点が置かれていたような気がする。
今回の『啓蒙主義の哲学』では、対象は表題の通り啓蒙主義の哲学という、哲学そのものである。それが自然と自然認識という認識の基礎から始まり、心理学、宗教、歴史、法、国家、社会、と、この順序で著述が進められ、最後は『美学の基本問題』という章タイトルのとおり、美学が対象となっている。分量的にも、この書物では美学の問題が「クライマックス」となっている印象であった。これにはかなり強烈な印象を受けたといってもいい。 個人的に「啓蒙主義の哲学」についても、一般人としても殆ど知識と明確な印象を持っていたわけではなかったが、それでも、美学が啓蒙主義の哲学の中で重要な位置を占めているという印象は殆どなかったからである。それがこの著作を読了することで、美学こそが哲学の最終目標であるかのような印象が得られた次第なのである。それは単に啓蒙主義の哲学についてのことではなく、哲学そのものの目標が美学にあるといえるのではないかということなのだ。
改めて木田元氏による『シンボル形式の哲学』の解説を少しだけ拾い読みしてみたところ、次のような記述があった。「彼はこの〔シンボル形式〕という概念をどこから汲みとってきたのであろうか。カッシーラー自身は、その直接の源泉として美学と物理学を挙げている」
「美学と物理学」―なるほど、意味深長。
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