2015年12月9日水曜日

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。

ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。

端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。

一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。

鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。

鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。

以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。

上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。

鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。

次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。

3 件のコメント:

ゴマフ犬 さんのコメント...

>鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。

鏡の有無に係らない、実像という形状と鏡像という形状との比較の意味ではそうかもしれませんが、鏡の存在を問題にするなら「形状の逆転」も鏡像に特有の問題ではないのではないでしょうか?鏡像ではなく、ある物体とその対掌対とを比較する場合にも生じ得るものだと思います。「鏡の存在こそが鏡像問題に固有のものだ」という捉え方もできると思いますが、固有の問題以外は除外すべきだとすると、「形状の逆転」も除外すべき対象となり得ると思うのですが、どうでしょうか?
基本的に何を問題にするかは、固有の問題に限定することが必然的と言うわけではなく、個人の主観による部分が大きいと思います。ある説の妥当性は、その個人の主観によって問題にした部分についての理論性や論理性によって基本的に判断されるものであって、何を問題にしたかによって判断されるものではないと思います(その価値を判断する際には関係するとは思いますが)。
鏡像問題の議論で私が混乱の原因と思うことの一つは、何を問題にしているかが人によってバラバラであって、他説に対しても解釈(特に、問題としているものが心理的な部分なのか物理的な部分なのか)が適切になされていないがために不要な批判が展開されている部分が多いような気がします。

田中潤一 さんのコメント...

確かに鏡像ではない二つの像で形状の逆転が見られる場合はあります。私が「鏡像に固有」と書かずに「鏡像に特有」と書いたのはそのためです。ただし、鏡像の場合、同じ対象の直接の像と比較して必ず例外なく対掌体になっているのです。それが鏡像であるための必須条件です。その点で全体として鏡像を含まない視空間と明確に区別できるわけです。そもそも「鏡像問題」あるいは「鏡映反転」の問題という以上、鏡像ではない像だけの場合との違い、あるいは差異を明らかにしなければ鏡像問題としての意味がないのではありませんか?

今回も3つの記事をていねいに読んでくださり、ありがとうございます。他のコメントには今すぐにはお答えできませんが、今後このブログ(および「発見の発見」)で、鏡像問題や関係する話題で記事を書く際には大いに参考にさせていただきますので、引き続き当ブログをお読みくだされば幸いです。

なお、当方、鏡像問題関連ではブログ記事とは別のところで公開したいと考えているワークを断続的に作成準備しています。差し支えなければ貴殿に草稿をレビューしていただければと考えていますので連絡を差し上げるかもしれません。その際はご検討いただければ嬉しいです。

ゴマフ犬 さんのコメント...

>鏡像の場合、同じ対象の直接の像と比較して必ず例外なく対掌体になっているのです。

これについては何度か申し上げたと思いますが、鏡像についての物理的な要素はただの光なのであって、それをどう見るかは、観測者の主観による部分があり、「例外なく対掌体」ということはないと思います。目の錯覚などを除くとしても、奥行きにある程度の自由度があることと、見えていない部分に関しては観測者が勝手に補う部分でしかないと思うことがその理由です。

>「鏡像問題」あるいは「鏡映反転」の問題という以上、鏡像ではない像だけの場合との違い、あるいは差異を明らかにしなければ鏡像問題としての意味がないのではありませんか?

これについては、そもそも、私自身、「鏡像問題」は2つの形態の比較以上の意味合いはあまりないと思っています。ただ、ある物体とその鏡像との比較という特性によって観測者に独特の心理的作用を与えることがあるために、「鏡は左右が逆になるのに上下は逆にならないのは不思議だ」とか言った疑問を持つ人がいると言うだけのことだとは思います。なので「鏡像問題」として特別扱わなければいけないような問題があるのかと言うとあまり無いように思います。
ただし、他の鏡像が関わらない場合として扱えるものであっても、その場合についての原理が明らかになっていない場合は、それについて明らかにするならば他の部分についても明らかになるためむしろ有益であると思うことと、すでに明らかになっているものがそのまま適用できる場合であっても、その「そのまま適用できる」と言うことが認識されていなければ、「そのまま適用できる」と言うことを示すことには意味があるのではないかと思います。つまり、他の場合と共通する問題で研究する意味がないものは、他のすでに明らかになっているものをそのまま適用すれば良いことがすでに分かっている場合ぐらいではないかと思います。
他の場合でも生じるものは、「鏡像問題」として扱うのではなく、「2つの形状の比較の問題」の一態様として示すべきだという考え方もあるかもしれませんが、内容が有益であればどの問題として扱うかはあまり気にしないでも良いように思います。
ニュートンの運動方程式や万有引力の法則は地上の物体と惑星の運動の両方に共通して適用できることに意義があるという見方は一般的なものだと思いますし、原子レベルのミクロな世界での研究が宇宙の研究に対して適用できた例もあったと思いますし、問題を細分化して他の部分は考えないというより、共通して適用できるものを見出そうとする方が科学者の一般的な姿勢だと思います。