2017年6月11日日曜日

前回記事『鏡像の意味論その22』の補足 ― 上下前後左右の適用と重ね合わせの比較は別のプロセス

【今回の要点】
  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。

というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。

さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。

たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。

この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。(6月13日追記)



ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。

以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。

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