話を戻すと、問題の「です」というべきところを「になります」と言い換える表現が蔓延してきた由来を、単に日本語崩壊の徴候と短絡的にとらえるだけでなく、なぜこの表現が蔓延してきたかを考察する労を惜しまないことも大切ではないかと思う。 有能で献身的に活動する多忙な人達がいちいちそういう労をとることはできないと思われるので、こういう問題を重要なテーマと考える本ブログで少々考察してみたいと思う。
問題の表現は店舗やあるいはコマーシャルで商品の選択肢を説明する文脈で使われ始め、使われ続けていることが多いと思われる。そう考えるとある程度その理由は次のように推し量ることができる:
- 会話に丁寧さと過度の婉曲表現や勿体を付け加えるために、ことさら冗長な表現を求める
- 言葉のリズム感
- 複数の選択肢から特定の商品を選択する際、他の商品ではなくその商品の選択を選択すべきである場合に、その商品であることを強調する意図が込められる。別の商品から当該商品への(意思の、目的の、適正の)移行という意味で「~になる(become)」という表現が選択されうる。うがった見方をすれば、英語の「become」には「似合う」という意味があるので、ある意味英語の影響かという見方もできる(文法的には錯綜しているが)
ここでこの問題に限ってこれ以上多面的に掘り下げることはあまり効率のよい作業になるとも思えないので、今回の記事はこれで打ち切りたいと思う。ただ、日本語について、とくにその価値、貴重さやメリットや貴重さを論じたりする場合にもあまり大雑把で安易な議論はしてほしくないと思うものである。
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