2023年5月1日月曜日

神秘からの逃走先としての科学と科学からの逃走先としての芸術 その1、科学と憧れ ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その7

科学と憧れ ― 憧れとは何者だろうか

 少年期から青年期初期にかけて、私にとって自然科学は最高の憧れの対象であった。しかし ― 数年間の就職期間と浪人期間を経た後であったが ― 自然科学を専攻する目的で大学入学した時点では、一面においてではあるが、すでに自然科学に幻滅を抱いていた。それでも自然科学を専攻した理由は、名目的には就職の適性を考えてのことであったが、当初の憧れがまだ惰性を持っていたという面もある一方で、自然科学とはいったい何なのだろうかという、いわば科学の本質について少しでも極めたいという、野心めいた気持ちもあったのである。もちろん、そういう目的が就職につながる筈もなかったが、憧れの対象の方向はそちらの方に屈折していった趣がある。

そういう間にも、いつも考えていたことは、そもそも憧れとは何であろうか?ということ。また幻滅についても、なぜ幻滅を感じるようになったのか?ということである。憧れについて言えば、憧れの対象は何であれ、何かに憧れる気持ちというものは、人により程度の違いはあろうけれども、何か止むに已まれぬ欲望のような処がある。もちろん小学校低学年程度の子供時代にそれが憧れであるというような意識は持つわけもないが、その後の科学への思いは確かに憧れという言葉でしか表現できないものであった。憧れとは、何か心を満たすものを求めるという意味で、欲望と共通するところがある。では欲望とはどこが違うのかと問えば、それはいろいろと考察する切り口はあるが、差し当たって言える一つのことは、欲望の方はそれ自体が科学的考察の対象となっていることである。もちろんそれは心理学の対象であるが、フロイトが始めた精神分析ではその中心概念になっている。こういう点で、憧れはいまのところ、科学の対象外である。であるからこそ、私は科学に憧れることができたとも言える。「科学への憧れ」は言葉になるが、「科学への欲望」は、言葉にならない。欲望の対象は物質的なものか、生理的なものであるからである。

ともあれ、私にとって科学はそういう憧れの気持ちと強く結びついていた。後から訪れた科学への幻滅の気持ちも、それが憧れであったからこそであろう。

一方、科学に憧れるといっても、科学とは何であるかを最初から分かったうえで憧れたわけではない。そもそも憧れの対象は最初からそれについて知っているものではない。科学という言葉から何とはなしに受け取れる印象あるいはイメージから憧れに気持ちを抱いたに過ぎない。そうだからこそ、将来にわたって科学とは何かについて考え続ける羽目になったのである。

そもそもの発端は、記憶が及ぶ限りで、小学校の科目で理科という科目の授業を受け始めたことにある。理科という科目は私にとってその他の、国語や社会とは明らかに違ったインパクトを持つものであった。それは理科という言葉の語感とも関係していたように思う。今まであまり考えた記憶はないが、いま改めて理科に相当する言葉を英語やヨーロッパの言語で調べてみると、いずれも「科学、Science」かそれに相当する言葉である。中国語でも「科学」となっている。調べてみると、実際にアメリカの小学校の授業科目としての理科はScienceとなっている。日本で「理科」という言葉を誰がいつ頃小中学校の科目として使われるようになったのか、何故、中国でこの言葉が使われないのかについては興味深いところがある。普通の辞書や従来の百科事典にはあまり「理科」という項目は見つからないが、ウィキペディアには「理科」の項目があり、その記述には結構興味深いものがある。やはり、日本発祥の言葉であるが、中国語には取り入れられていないらしいことも興味深いものがある。それによると「理科」という言葉は当初、江戸時代の蘭学者によって、物理学を意味するオランダ語の訳語として発案されたとある。とすれば、「物理学」は「理」に「物」を付けた言葉であるからその後にできた言葉と思われる。やはりウィキペディアで調べてみると、「物理学」については語源的な記述はなく、また「物理」を引くと「物理学」に転送される。おそらく「物理」と「心理」は共に、「物理学」と「心理学」の後からできた言葉であろう。

以上から、詳細な論理は省略して一つの結論を出すと、理科という言葉の概念は基本的に自然科学を意味するが、可能性として心理学をも含みうるもののように思われる。現在、科学とされている社会科学や歴史は含まれないことになる。もちろん、現実に小学校や中学校の理科には心理学的なものは含まれていなかったはずである。また高校以上になれば理科という科目はなくなり、個別科学になるが、それでも大学やそれ以上の教育を含めて理科という概念は意味を持ち続けていると言えるだろう。

ともあれ私の憧れの対象としての科学は、理科という言葉による概念に始まるということができる。

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