先日、かつて学生時代に一度読んだカッシーラー『人間』宮城音哉訳、の再読を終えたので、メモしておきたい。
現実のところ、内容を今まで、具体的に記憶し続けていたわけではまったくない。しかし、改めて読み返してみると、その後自分があれこれと考えたことの多くがこの本の影響を受けていたことに改めて気づかされた。もちろん、その後で散発的に読んだゲーテなどの本の記憶や影響と重なる部分もあり、どこまでがこの本の影響なのかと言い切ることもできないではあろうけれども。それにしてもゲーテからの引用が多く、改めてゲーテの影響の深さにも気づかされたといえる。
今回特に印象に残った長い一節を抜き書きしておこうと思う。やはり年のせいか、歴史の問題に興味の重心の一部が移ってゆくようなところもある。次の引用というより抜き書きは「歴史」と題された第十章からのものである。
『偉大な科学者マックス・プランクは、科学的思考の全過程は、すべての「人間学的」要求を除去しようとする恒常的な努力だと述べた。我々は自然を研究し、自然法則を発見して、公式化するためには人間を忘れねばならぬ。科学的思想の発展において、擬人的(主観化的)要素は、次第に背景に退けられ、ついに物理学の理想的構成においては、全く姿を消すのである。歴史学は、これとは全く異なった方法をとって発展する。それは、人間世界においてのみ生き、また呼吸することができる。言語及び芸術と同様、歴史は根本的に擬人的である。その人間的側面を除去することは、その独特の性格と本性を破壊することであろう。しかし、歴史的思想の擬人性は、なんら、客観的心理の制限でもなく、客観的心理を妨害するものでもない。歴史は、外部の事実や事件ではなく、自己の知識の一形式である。自己を知るために、自己を超えて行こうとしてもむだであるし、いわば自己の影を飛越えようとすることはできぬのである。私はこれと反対の方法を選ばねばならない。歴史において人間は、つねに自己自身にかえる。人間は、その過去の経験全体を回想し、これを現実化しようと試みる。しかし、歴史的自己は、単に個人的自己ではない。それは擬人的ではあるが、自己中心的ではない。矛盾した表現形式を用いるならば、我々は、歴史は「客観的擬人性」を表現するものということができる。歴史は、人間経験の多様性を我々に教え、これによって我々を、特殊で唯一の瞬間における、気まぐれと偏見にしばられぬようにする。歴史的知識の目的は、実に自己の――我々の知る自我および感ずる自我の――このような豊富化であり、また拡大であって、これを除去することではないのである。』
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