前回は、「左右逆転(反転)」という一つの表現は、3通りの異なった認知現象を意味し得るという結論に到達しました。その3通りというのは次の三つです
1)左右の意味的逆転―左と右の意味が入れ替わること。
2)左右における形状の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象同士での形状の左右逆転。
3)固有左右軸の相対的方向の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象の各左右軸の、共通空間における相対的な方向逆転。
以上の「左右」はいずれも「上下」と「前後」にも置き換えることができますが、もちろん、同じような帰結がもたらされるわけではありません。
以上の3つを、現実の鏡像問題で議論される一つの状況に適用してみたいと思います。
普通、鏡像問題の考察ではまず真っ先に人物が自分自身の像を鏡で見る場合の左右の逆転の問題から開始することが多いようです。それはある意味当然ではありますが、直接見ることのできない自分自身の像を対象にしなければならない上に、左右を特別視しすぎてしまうことで、余計な先入観が増幅されがちです。むしろこの図のような状況から考え始める方が全体を把握するための近道になるように思います。
上の画像はすでに前回の記事で掲載したいくつかの画像と同じような状況ですが、前回の記事ではそれぞれ抽象的な像として図示しただけであるのに対して、今回の画像は現実にあり得る状況を示したものとして見ていただきたいと思います。つまり床に置かれた大きな鏡の上に二人の人物が直立して観察者の方を向いているという想定です。
この図を一般の人に見せて、「上の人物像とその鏡像とで上下の逆転に気づきますか?」と質問した場合、まず全員が「上下の逆転が見られる」ことを肯定すると思われます。しかしそれだけで、冒頭で掲げた3種の中で2番目の形状の上下逆転が認知されているとは断言できません。形状の逆転が認知されるには前回説明したように上下軸だけが逆転して前後軸と左右軸は逆転せず、その結果として全体としての形状が変化し、比較される対が互いに異なった形状になっていることが認知される必要があります。向かって左の人物Aの場合、左右の形状的な差は非常に小さいため、左右軸は両者で逆転しているとも逆転していないとも、どちらともすぐには認知しないのが普通ではないでしょうか。
また、左の人物像Aと右の人物の鏡像bとを比較することもできます。この場合もやはり上下軸の逆転が認知されるといって良いと思われます。この場合は形状の逆転はあり得ません。両者は同じく上下・前後・左右軸を持つ人物像ではありますが、各部のサイズが違うし、色やパターンもまったく異なります。したがって一方の形状をどの方向で逆転しても他方の形状になることはあり得ません。したがって、Aとbの対でもBとbの対でも同じ意味で上下の逆転が認知されている可能性が高く、そうだとすればBとbの対では形状の上下逆転が認知されているとは必ずしも言えなくなります。
これらの中で向かって右の人物の場合、一方の肩にかばんを掛けているので、全体としての形状の違いは分かりやすくなっているはずです。しかしこの場合もパッと見てすぐに形状の差異を認知して、上下軸は両者で逆転しているのに左右軸は逆転していないとは簡単に気づけないと思われます。個々のパーツに注目した場合、人物の顔にしても、肩にかけている鞄にしても、ただ同じ形の顔や鞄がさかさまになっているだけと感じるのではないでしょうか。これには冒頭で掲げた3種類の逆転の中の1)が関係しているように思われます。この逆転は間違えやすい混乱の要因です。それでも両者の違いになんとなく気づいてそれを確かめようとした場合にすることは両者を想像力で重ね合わせるか、それとも各パーツを対応付けるということではないでしょうか。
例えば鞄に注目して鞄の位置を合わせるとします。それには平行移動すればよいわけで、そのようにして重ね合わせると、両者ともに鞄は人物像の左右軸では同じ方向にあり、両者で左右軸は逆転していないことになり、上下だけが逆転していることに気づいて形状の上下逆転が認知されることになります。しかし、このような平行移動による重ね合わせを行うケースはむしろ少ないのではないかと思われます。人物の顔や身体を基準に重ね合わせるにしても、鞄を基準に重ね合わせるにしても、一方を、(この場合はどちらかといえば下の鏡像の方を)回転させて両者を重ね合わせることが多いのではないでしょうか。そうすると上下の逆転は解消しますが、上の人物像では左の肩に鞄を掛けているのに、回転した鏡像の方は右肩に鞄を掛けていることが判り、左右軸の逆転が認知され、結局、形状の左右逆転が認知されることになります。
あるいは観察者が自分自身と各人物像とを対応付ける可能性もあります。たとえば逆さまに映っている鏡像の方を自分自身に引き寄せて考えると、鏡像の人物は右側に鞄を掛けていることに気づきますが、鏡像ではない上の方の人物像は彼自身の左肩に鞄を掛けていることに気づき、結果的に左右の形状逆転に気づくに至るという可能性があります。
さらにもう一つの可能性として、足の下の横軸を中心にして鏡像の方を手前に起こして裏返すように回転させて両者を重ね合わせるという発想もあり得ます。この場合は裏返った鏡像君は観察者に背中を向けているはずで、その場合は前後の軸だけが逆転することになり、形状の前後逆転が認知されることになります。
このように形状の逆転が認知されるには相当な想像力と思考を動員する必要があることがわかり、その思考経路によって、形状の逆転が認知される方向軸は異なってくるものです。従って少なくとも上の絵のような場合、どの方向で形状の逆転が認知されるかはそのときそのときの観察者の心の中に踏み込まない限り、特定は不可能と言うほかはないと思います。ただし一定の傾向性は間違いなくあるでしょう。
ここでの結論
以上は鏡の床の上で二人の人物像がこちら向きに正立している状態ですが、当然鏡像はいろいろな条件で出現します。上の場合は上下・前後・左右のどの方向での形状の逆転も認知される可能性があることが示されたといえますが、どのような場合でも、それが言えるでしょうか?結局のところ、どのような状況下であっても上下・前後・左右のうちでどの方向でも逆転が認知される場合があるのではないか?言いかえると、ある場合には必ず左右での逆転しか認知されえないといった条件は限りなく観察者の心理の内部に踏み込まない限り、存在しないのではないか? もしもそういうことが言えるとすればそれは同語反復に過ぎないのではないか、という推測が成り立ちます。
そこで改めて対掌体の性質による説明を振り返ってみたいと思います。前回の記事で紹介したように、鏡像と直接の像の対は幾何学的に互いに対掌体であり、任意の一軸で互いに逆転した形状になっていると説明されています。*
*この点について、および前回から言及している吉村氏の説については多幡先生のサイトhttp://www.geocities.jp/tttabata/mirrorcom.html に詳しい論説があります。
この対掌体の定義、すなわち任意の一軸で互いに逆転した形状になっているという説明それ自体をそのまま受け止めれば、逆転が認知される方向軸が任意であり、どのような方向軸で形状が逆転していると見ようとそれは観察者次第ということになるはずです。ところが現実には少なくとも上図のように人物の場合上下か前後か左右のたった三つの方向軸であり、さらに、多くの場合には左右になるというのはなぜかという点に問題が絞られてきたように思われます。
ここで注目すべきことは上述の対掌体の定義は幾何学的な定義であるということです。幾何学には本来上下・前後・左右の概念はなく、方向は相対的にのみ定義されることに注目する必要があります。幾何学的図形はそれがヒトの形であるとか、場所が地上であるとか、そのような意味を持ちません。上下・前後・左右もそれぞれ幾何学が持たない意味であることに気づく必要があります。
ここから、上下・前後・左右の何れかでの形状逆転は幾何学空間と人間の認知空間の差異に起因しているという説明が成り立ちます。しかし多くの場合に共通する傾向として、ある場合には殆ど必ずといって良いほどの割合で左右の逆転が認知される状況というのはあり得るし、左右以外の逆転が認知される傾向が大きいといえる別の状況はあるでしょう。そのような傾向性がなぜ生じるのか、具体的にそのような傾向がどのようなメカニズムで生じるかが、これからの鏡像問題の課題と言えます。
そのような傾向性が生じる根源はマッハによって最初に主張され、カッシーラーによってさらに重要な意味が付与されたと考えられる「幾何学的な思考空間の等方性と知覚空間の異方性」にあるということが鏡像問題の基礎となり得ると考えるものです。
19 件のコメント:
私の中では、鏡映反転における座標というのは、前後、左右、上下などを判断する基準になるもの(恐らくは感覚的なもの)を数学的に表現したものであって、鏡映反転における反転の判断を数学的に表すと、実物やそのイメージと鏡像やそのイメージにおける、対応する各点の位置関係がどうなっているかということだと考えており、1)2)3)の何れにおいても共通する部分だと思うのですが、どうでしょうか?
具体的には、より左右軸座標の値が大きいものほど左にあるという認識だとして、実物と鏡像の(観測者が注目している)対応する各点の左右座標の値の大小関係が実物と鏡像で逆転するかどうかで左右反転の有無を判断しているということです。
勿論、実際に観測者の意識の中に厳密な数学的な座標が存在するとかいうわけではなく、あくまで観測者の感覚を数学的に表現するならばということですが、どうでしょうか?(1)2)3)を別のものとすることに対する反論ではありません。)
>ところが現実には少なくとも上図のように人物の場合上下か前後か左右のたった三つの方向軸であり、
「人物の場合上下か前後か左右のたった三つの方向軸であり、」というのは通常認識されるのはということでよろしいでしょうか?一応、別の方向軸でも認識しようと思えばできると思います(少なくとも私自身は出来ていると思っております)。例えば、直線的な方向以外でも、ある一点から見てどの方向に何度回転した点かなどから位置関係の反転を判断するなど。ただ、日常的な感覚ではない上に(それに対応する単語も恐らくない)、そもそも3次元空間の物の座標上の位置関係を認識するには変数は3つあれば十分なので、上下、前後、左右の3方向で事足りており、わざわざ別の方向を考える必要性がないことが、通常その他の反転が認識されない原因の一つとしてある気はします。
■ 最初の問題について。私は基本的に上下・前後・左右については座標とか座標系はあまり考える必要はなく、ただ方向軸という概念だけでよいと思います。というのは、上下・前後・左右は視空間あるいは知覚空間についてのみ該当する概念だと考えるからです。座標系は上下・前後・左右という意味を持たない等方的な幾何学空間における相対的な位置関係が問題になる場合にだけ使えばよいと思います。ある意味これが本来の「共有座標系」といえるかもしれません。
■ 二つ目の問題について。確かにそれは言えますが、現実に上下・前後・左右という言葉が基準になっていて、中間的な方向軸はどれかに帰着させて認識するのが通常でしょう。もちろん表裏とか、奥行きとか、いろいろ表現がありますが、人間の場合、表現方法としてはこの三つの軸と言ってよいのではないでしょうか。
>座標とか座標系はあまり考える必要はなく、ただ方向軸という概念だけでよいと思います。
方向軸というのは、どちらがより上側かなどが判断できるもので、物体の各点のその方向軸での位置を数値化できるものだと思いますが、これは座標(系)の概念そのものではないでしょうか?
単に、xyz(直交)座標系でいうなら、x軸だけを定めて、y,z軸は定めないというだけで、これも座標(系)の一部を使っていると言えると思います。
常に3軸が必要なわけではないという意味であれば、それはその通りだと思います。
「どちらがより上」という場合と「どちらがより右」という場合の関係を、「どちらがY軸上でより値が大きい」と「どちらがX軸上でより値が大きい」という場合との関係を比較してみましょう。
「上」や「右」と、「Y」や「X」とは範疇が違います。Y軸とX軸との関係は互いに直交するという相対的な関係があるだけで、YにもXにも固有の「意味」はなく、交換が可能です。それに対して「上」や「右」には歴然とした「意味」があります。従って、少なくとも、幾何学的な座標系とは同じものとは言えないと思います。
座標系は座標系と呼ばなくては不都合な場合になって初めて座標系と呼べば良いのであって、座標系という用語を使わなくても考察が進められるのであればあえて座標系という用語を使う必要はないと思います。おっしゃるように、座標系というのは道具なのですから、必要な場合に使えばよいので、座標系という概念をことさら拡張したり、追及したりする必要はないと思うのです。
ご返信ありがとうございます。
>「上」や「右」と、「Y」や「X」とは範疇が違います。Y軸とX軸との関係は互いに直交するという相対的な関係があるだけで、YにもXにも固有の「意味」はなく、交換が可能です。それに対して「上」や「右」には歴然とした「意味」があります。従って、少なくとも、幾何学的な座標系とは同じものとは言えないと思います。
これはテクニカルレポートにも書かれていた「幾何学的空間」と「知覚空間」の違いのことだと思いますが、それはその通りだと思います(テクニカルレポートについての意見は、後日まとめてメールでお送りしようと思うのですが、よろしいでしょうか?)。
ただ、例えば、どちらがより上かという判断をする場合に、方向軸のみを定めた場合、軸上以外の2点のどちらが上かは厳密には決まらないはずですが、でもなんとなくの判断はあると思います。そのなんとなくの判断を明確に表すには、各点を軸上の点に対応させてみるなどの操作が必要であって、この場合は座標系と見たほうが明確で分かりやすいのではないかということです。そういった対応関係などが明確になっていないと私自身は気持ち悪く感じますし、科学的な考察をするという場合には重要なことではないでしょうか?
そういった対応関係は座標系の概念そのものであって、特に概念を拡張する必要はないと思います。
「座標系という用語を使わなくても考察が進められる」場合は、基本的に全ての場合に言えてしまうというか、一回一回説明すると長くなってややこしくなるものを「座標系」という言葉で置き換えて定義しているだけのものだと思いますので、「座標系」という言葉に限らず、「絶対的に必要でなくても便利だから使う」というのが言葉の普通のありようではないかと思うのですが、どうでしょうか?
上記コメントの捕捉です。
>それに対して「上」や「右」には歴然とした「意味」があります。従って、少なくとも、幾何学的な座標系とは同じものとは言えないと思います。従って、少なくとも、幾何学的な座標系とは同じものとは言えないと思います。
この部分は何と言いましょうか、幾何学的な座標系の座標軸に一般的には固有の意味はないと言えばそうだと思いますが、それは、それらの座標軸に上下、左右などの意味のあるものを当てはめることを妨げるものではないのではないでしょうか?「座標軸に一般的には固有の意味はない」というのは、どのように当てはめようと基本的に自由であって、上下、左右、前後以上に入れ替え不可に思える(というより定義が明確に決まっている)東西と南北に座標軸(例えばx軸とy軸など)を対応させることなどは普通になされることではないでしょうか?
仮に、上下、左右、前後などの意味のある方向に座標系の概念を用いた場合に問題が生じるのであれば、それはどのようなものでしょうか?
さらに東西南北についていうと、座標軸ではありませんが、球(面)座標系(3次元の極座標系)の角度変数に東西と南北を対応させたものが、経度と緯度であって、これはまさに、どちらがより北にあるかを表せるものだと思いますが(東西については循環しているので範囲を区切るなどの操作が必要ですが)、東西南北が意味をもつ概念だからといって、特に問題は生じてはいないのではないでしょうか?
今日は時間がないので、再度お答えはできませんが、テクニカルレポートに対するご意見をメールでくださる由、ありがとうございます。いつでもすぐにご返事できるとは限りませんが、ぜひメールをお寄せください。
地球とか、個々の人物とか、前後左右などが定まった個々の道具など、個物に固有の座標系を適用するのは、事実上すべて技術的というか、実用上の必要で行われているので、まさに座標系が道具であることを示しているように思います。CGの固有座標系などがその代表的なものだと思いますが、いずれも相対的な位置や距離を数字に変換してコンピューターで計算したり、逆に数値から画面に画像を表示したりするために使用されるので、もちろん科学研究の目的でCGが使われるとしても、それ自体はあくまで技術であって科学ではないと思います。
もちろん、固有座標系の概念が科学的な考察で使われることもあり得るし、有用なら使えばよいと思います。私自身、「固有座標系」は使うかもしれません。しかし、地球や一人の人物といった個体から離れた抽象的な上下前後左右の軸からなる共有座標系というものは今のところ、ちょっと考えられません。そのようなものを想定すると混乱の元になると思います。その意味で、前後上下左右からなる共有座標系の概念は論理的に矛盾をはらんだものにならざるを得ないように思うのです。
また、私が上下軸や左右軸という表現で十分だというのは、例えば「左右軸」の場合、ある直線方向が左右方向の意味を持つということを表現しているだけであって、直線上の距離関係や位置関係は問題にしていません。だから、ことさら座標軸というような表現は必要がないし、混乱を招くだけだと考えます。
距離や位置関係はすべて相対的なものです。ですから距離や位置関係を表すには相対的な位置を表す幾何学的な座標系があれば足ります。そのような座標系は私も胸像問題の考察で使用しています。鏡面上に原点をとり、鏡を見る人物から見て上下、前後、左右方向に各軸を定義するとしても、それが考察あるいは計算上便利だからであって、それらの軸に上下とか左右といった名前を付けることはしません。
一部はメールでもお伝えしようと思っていたことではありますが、
>「左右軸」の場合、ある直線方向が左右方向の意味を持つということを表現しているだけであって、直線上の距離関係や位置関係は問題にしていません。
私が思うに例えば、「左右が反転した」というのは、まさに左右の位置関係が反転しているということではないでしょうか?鏡映反転の問題はその意味でまさに位置関係に関する問題だと思うのですが、どうでしょうか?
位置関係と関係のない「左右が反転」したという判断を私は想定できないのですが。
形状の反転にしても、それは物体の各点の相対的な位置関係の反転にほかならないのではないでしょうか?そもそも形状(色彩は除く)自体が各点の相対的な位置関係によって形作られるものだと思いますので。
以下はその上で、
>地球や一人の人物といった個体から離れた抽象的な上下前後左右の軸からなる共有座標系というものは今のところ、ちょっと考えられません。
そういった「共有座標系」なるものは私も特に想定はしておりません。この前言及いたしましたのは私が読んだ文献から「共有座標系」(共通座標系だったかもしれませんが)の使い方を推測すれば、観察者に付随した上下前後左右(自分から見て右手のある方向が右方向など)を想定して、それをもって実物と鏡像の鏡映反転の判断がなされる場合に使われているのではないかということです。
メールの方でもお伝えしようと思っていたことですが、テクニカルレポートの5-1(1)の段階で鏡映反転が認知される場合には、そのような座標系なり方向軸が想定されていませんでしょうか?そういったものが何もなければ、「左右の反転」という認知は成り立たないのではないでしょうか?
文献によっては別の使われ方もあるのかもしれませんので、使用の是非については分かりませんが(私自身は特に使っておりません)。
それと、これも私が読んだ限りの推測ですが、鏡映反転における「固有座標系」というのはCGの「固有座標系」(これが何かは正確には知らないのですが)を想定したものではなく、実物と鏡像それぞれに別々に与えられた方向を基準にした座標系と言った意味で使われていると思います(テクニカルレポートの5-2(2)の方向軸がそれに対応していると思います)。私が以前、「共有座標系は観測者の固有座標系」といったのはそういった意味になります。
言われている「地球や一人の人物といった個体から離れた抽象的なら上下前後左右の軸かなる共有座標系」というのは、実物と鏡像に別々に割り当てられた(固有)座標系なり方向軸なりの位置関係を表す際に使われているものを言われている可能性はないでしょうか?その場合は、実像と鏡像それぞれの座標系に共通して適応されると言った意味で共通やら共有やらの言葉が使われているものはあった気がします。ただ、その座標系は地球や一人の人物といった個体から離れたのもであれば、とくに上下前後左右の軸などは持っていないのではないでしょうか?
その場合にも使われているとすれば、その座標系においては上下前後左右の概念を割り当てる必要は私もないと思います。
>それが考察あるいは計算上便利だからであって、それらの軸に上下とか左右といった名前を付けることはしません。
名前を付けるかどうかは、基本的に個人の好みの問題だとは思いますが、例えば、物理の放物運動の問題などでは、鉛直方向と水平方向の座標軸を持った、座標系が描かれることは普通にあると思います。計算する際には鉛直方向をy軸、水平方向をx軸として計算するわけですが、それは計算の際に(鉛直成分)と書くよりyと書いた方が楽で見るほうも分かりやすいからであって、鉛直方向を座標軸の名前とするのが不都合だからとかいうわけではないと思います。むしろ「鉛直成分」や「水平成分」などと言った言葉は普通に使用されていると思います。鉛直方向にy軸をとった際のy成分などとはあまり言わないと思います。なので、名前を付けないことにこだわる必要も特にないのではないでしょうか?
座標軸や座標変数に名前を付けられているようなものでいうと、他にも、前に挙げた緯度、経度もそうだと思いますし、高度、水深、標高といった鉛直方向のものなど色々あると思うのですが、どうでしょうか?
これらは、基本的に位置を表すものであって、上下前後左右はただの方向を指し示すのに過ぎないと考えられているのではないかと思いますが、先ほどのコメントでも申しましたように、私が思うに鏡映反転はどちらがより上かといった位置関係が問題になると思いますので、上下、前後、左右の度合い(何から見てどれぐらい上にあるかなど)を示すのもという意味で、名前を付けること自体は問題ないのではないでしょうか?もっとも、あくまで度合いを表すものであるため、上下、前後、左右といった言葉ではなく、上の度合い、前の度合い、左の度合いといった言葉を使うべきだと言うことであれば、一理あるとは思います。ただ、いきなり度合いと言う言葉を使うと逆に混乱されそうな気がしますので、私のブログで紹介している説では上下、前後、左右という言葉用いております(元々が、専門家ではなく、あくまで一般の人向けに書いているという事情もありますが)。
【最初のご指摘について】
私が『「左右軸」の場合、ある直線方向が左右方向の意味を持つということを表現しているだけであって、直線上の距離関係や位置関係は問題にしていません。』と言っているのは、「左右軸」という言葉の使い方について言っているのであって、何も鏡像問題で、「鏡映反転の問題はその意味でまさに位置関係に関する問題だ」と思っていないということではありません。現に位置の逆転の問題はこのブログのこのシリーズでも、テクニカルレポートでも頻繁に取り上げているはずですが。私は位置の逆転といった問題は相対的な関係であるから、通常の幾何学的な座標で扱うべきであるといっているのです。
【二番目のご指摘について】
おそらく吉村氏の著書『鏡の中の左利き』の内容に対する解釈ではないかと思うのですが、おっしゃる様に解釈しますと、それはつまるところ、私が先般に述べた3種類の逆転の中で「意味の逆転」に帰着すると考えられるのです。その種の反転は対掌体の性質に帰着させられるところの「形状の逆転」ではない種類の逆転であり、その著作の主張と矛盾するのです。
【最後のご指摘について】
私は、放物運動などの問題を例にあげてゴマフさんが考察しておられるような内容に反するようなことは何も言っていません。それらの多くはその通りです。地球上の環境は一つの固有座標系として考えることは便利なことだとも思います。また地球の重力を問題にしている以上重力方向を一つの基準にして、座標軸の一つをそれに合わせるのは必然性があります。
私が前回のコメントで例に挙げた鏡面上に原点を持つ座標軸は、放物運動の問題を扱っているのではありません。鏡像の問題を扱う場合に問題になる物理学の分野は力学でも天文学でもなく幾何光学です。幾何光学は文字どおり幾何学的に考察する限りでの光学であって、実用的な応用分野はともかく、基本的には、幾何学的な座標系に帰着して考察できるはずです。幾何光学には引力も地球の重力も関係ありません。鏡像問題でも心理的な方向で掘り下げていった場合に地球の重力が問題になる可能性はありますが、基本的な視覚のみに関わる範囲で重力方向は関係ないと考えられます。
【それ以外の問題について】
これまでの私のコメントは、私の記事に関するご意見に限ってお答えしていますので、ご不満を持たれたとすれば申し訳なく思います。最近は時間的にも能力的にも余裕がないので未だゴマフさんのブログを拝見しておりませんが、できるだけ早い機会に拝見し、そちらのほうに感想を書かせていただきたいと思っています。
ご返信頂きありがとうございます。
共有座標系や固有座標系については、私がみたのは、高野陽太郎氏の『鏡の中のミステリー』だったと思います。
他にも見たものはあるので、確かではありませんが。
座標系については、私が必要だと思っているのは、実際の実像と鏡像の関係というわけではなく、観測者が左右の逆転などを認知する際の基準になるものを数学的に表すとどうなるかといった際に用いるものになります。
つまりは観察者は依存した座標系であって、左右などの名前を付けたものが意味をなすようなもの(異方的な空間で使用するもの)を想定してのものです。
実際の実像と鏡像の関係についてはおっしゃる通り、左右などの意味を持たない幾何学で用いる座標系で考察すれば事足りると思います。ただ、その部分は単純な幾何光学であって、特に議論の対象になるようなこととは考えなかったため、その部分での座標系の必要性の是非を議論する意識は持っておりませんでした。
恐らく、幾何学的の「的」部分の扱いが、YAGURUMAさんと私で異なっていたのだと思います。
YAGURUMAさんは「等方的」という点に着目して、「幾何学的」と表現していたのだと思いますが、私は異方的であっても幾何学に関連したものであれば「幾何学的」という認識でありました。
誤解があったようで、申し訳ございません。
私のブログの方も見て下さるとのことですので、テクニカルレポートについてのメールはその後にしたいと思います。
なお、私のブログでは「座標系」と表現すべきところが、「座標」と表記されておりますが、全て修正する余裕もないためその点ご了承ください。
お付き合い頂きありがとうございました。
補足で一点だけ、
幾何光学と放物運動での座標系について
幾何光学における座標系が等方的なものであって、放物運動における座標系が異方的なものとして扱っておられると思うのですが、これは個人による感覚的なものではないでしょうか?
放物運動の場合には「地球の重力を問題にしている以上重力方向を一つの基準にして、座標軸の一つをそれに合わせるのは必然性があります。」とのことですが、別に必然性はないと思います。放物運動はただの運動であって、その際の重力というのはただの力なのですから。どんな座標系をとろうともそれによって運動の性質が変わるわけでも、そのような座標系をとらなければ運動を記述できないわけではないはずですので。むしろこれが物理学における等方性だったと思います。
仮に重力の存在によって、放物運動における鉛直方向と水平方向の座標軸を持つ座標系を異方的なものとみて、「鉛直方向」、「水平方向」といった名前を付けることを許るすのであれば、鏡像問題においても、鏡に垂直な方向に軸をとって、鏡の存在をもって、何らかの名前を付けても特に問題ないことにならないでしょうか?
要するに、「等方性」「異方性」と言ったものは、テクニカルレポート等においては左右と上下は入れ替え不可といった感覚的なものについていわれていると思いますが、座標系を等方的とみるか異方的とみるかもその意味では感覚的なもの(物理学における意味では力学だろうと天文学だろうと幾何光学だろうと等方的)だと思いますので、意味のある名前を付けるかどうかは個人の自由で良いのではないでしょうか?それによって理論的な部分に違いが出るわけでもないと思いますので。
以上になります。
お忙しいと思いますし、そもそも私に返信を求める権利がないことも自覚しておりますし、返信が遅れたとか、返信がないなどと言うことで不満に思うこともありませんので、そこはYAGURUMAさんの自由で何ら問題ありません。
改めまして、お付き合い頂きありがとうございました。
微妙で難しい問題ですね。
物理学全般で「等方性」の概念がどのように扱われているか、私はよく知らないのです。結晶学の初歩を習ったときに「光学的等方体」という概念を教わりましたが、それ以外の分野ではよく知りません。
ここで等方性と言っているのは物理学以前のいわば認識論的な立場で考えています。物理空間における等方性と違法性についての考え方については、マッハとカッシーラーとの間でも隔たりがあるような気がします。
今回の場合、私の考え方は、ゴマフさんの考え方に近いように思います。
「重力方向を一つの基準にして、座標軸の一つをそれに合わせる」といっているとおり、重力方向が座標軸そのものであるとは言っていません。「合わせる」というのは全く別物のを重ね合わせるという意味であって、同一であるといっているわけではありません。「必然性」というのは実用上あるいは技術的な必然性という意味で言っているとお考え下さい。重力の帰結を求める以上、重力方向での座標を求める必要があり、ほかの方向で座標を求めた場合も結局重力方向に変換するわけなので、最初から重力方向に合わせるに越したことはないということです。
座標系というのは結局のところ、道具なのですから、固有座標系を作るのであれば、別に名前を付けて問題はないと、私も思います。要するに約束事ですね。ただ等方的であるべき座標系の座標軸に意味のある名前を付けるのは問題だと思います。
放物運動については、重力方向での座標なり、その遷移を見ることが目的ならば、別の方向の2軸構成される座標系を用いた場合には、当然重力方向への変換が必要なわけですが、放物運動一般についても重力方向への変換が必要かと言えば必ずしもそうではないと思います。単純に放物運動の軌跡を求めるだけならば変換の必要はありませんし、例えば石を斜め上方に投げ上げた場合に、その石が空中にある的に当たるかどうかを求めるためには、どんな座標系をとろうとも、その座標系での石の軌跡を求めて、その軌跡が、的の占める空間(これも同じ座標系で表現されたもの)を通過するかどうかを見ればよいのであって、特に鉛直(重力)方向への変換は必要ないと思います。
もっとも、鉛直方向と水平方向の2軸をからなる直交座標系を用いれば、放物運動の軌跡は2次関数で表されるため、そちらの方が便利ですし、人の感覚としてもその方が分かりやすいため、普通はその座標系を用いるということだと思います。
ただ、ある放物運動を、斜め上方に直線的に飛んでいる飛行機から見た場合にどういう風に見えるかを求めたい場合には、その飛行機の進行方向に一軸を持つその飛行機に固定された座標系を用いることになる思います。
要するに、どの方向に軸を持つかだったりどんな種類の座標系(直交座標系や極座標系など)を用いるかは、何を求めたいかによるところが大きいのであって、重力というのはその選択に影響を与えるものではあっても、絶対的な影響力があるというわけではないと思います。
その理由というわけではないのですが、そもそも放物運動の軌跡に影響を及ぼすのは重力だけではなく、その物体を投げ上げたときのその物体の速度(初速)も影響するものであって、重力だけが特別なわけではないと思いますので。
興味深い問題に発展しそうですが、本稿の直接のテーマから離れて収集がつかなくなりそうなので、これ以上ここでは、この問題でお答えしないことにします。このブログの他の記事や、他のブログの記事で、関連する問題に触れているかもしれません。ただ一つだけ付け加えるとすれば、私が言いたいことは、物理学も人間の営みの一つであるということです。ゲーテの科学論に近いものが根底にあるように思います。
確かに、鏡像問題とはあまり関係のない話でしたが、上記私のコメントについて一つ訂正です。
飛行機から見た場合に、「飛行機の進行方向に一軸を持つその飛行機に固定された座標系」と書いてしまいまいたが、この場合も飛行機に固定されてはいるが鉛直方向と水平方向の2軸からなる座標系の方が簡単だったと思います。人の視線の傾きを表現するのであれば、単にその座標系に描いた軌跡を傾けてみればよいだけでした。
申し訳ありません。
コメントを投稿