2015年12月11日金曜日

鏡像の意味論―その9―形状と意味

【意味するものと意味されるもの】

言語学言語論、あるいは記号論というべきか、言語学的な分野で「意味するもの」と「意味されるもの」との区別が研究されていることについて、詳しく専門的に立ち入った知識はありませんが、この区別を多少とも意識することは、幾何光学などの物理学とされる分野を含め、像、画像、映像など、あるいは視覚をあつかう心理学研究にとって極めて有意義ではないかと思います。特に「形」あるいは「形状」という言葉の使用については、この問題を避けることはできない時点に到っているものと考えています

極めて単純素朴に考えても、形という言葉は幾何学的形状そのものと、「何々の形」とういう場合の「何々」すなわち「意味」あるいは「意味されるもの」を表現している場合の二通りが考えられます。

「形」の場合、さらに問題になるのは、この二重性(幾何学的形状と意味)が言葉だけではなく「図形」、あるいは「絵」(以降、表現を堅固にするために「描画」と呼ぶことにします)についてもいえることです。ひいては人が知覚する像そのものについてもこの二重性が存在することになります。

この問題そのものをこれ以上にここで掘り下げ続けることは無理なので、以上を単に前置きとして、以下の検討に入りたいと思います。


 【形または像と意味】

鏡像問題の議論では普通に人物の像について問題にされるため、頭とか足、あるいは右手といった、身体の部分について位置関係や形状について論じられますが、その根拠となるのは象の形状といえます。その幾何学的形状をもとに頭とか右手とかを判断するわけですが、その頭とか右手というのは頭という概念あるいは右手という概念であって、幾何学的形状そのものではなく、具体的な意味を持つもの(足なら足という生物学的機能を持つ実態の意味)すなわち意味されるものを表していることになります。

頭が上で足が下、右手は右、顔や胸、腹は前で背中は後ろ、といった上下・前後・左右の意味は人間という概念について言えることであって、偶然に人間に似た幾何学的な形状があったてしてもそれには適用されないものです。幾何学空間は等方的であり、視空間や知覚空間は異方的であるというのはこの意味です。しかし単なる形状物であっても人形などは人形という意味を持つ以上、単なる幾何学的な形状ではないので上下・前後・左右を持つといえます。こういう形状の意味は人間の直感的な認識によるもので、幾何学的形状のように数や量で表現することはできないものです。

以上の観点は、心理学としてはゲシュタルト心理学と呼ばれる学派の成果と重なる部分があるのかもわかりません(私自身は専門的に心理学を専攻してきたわけでもなく直接ゲシュタルト学派の文献から学んだわけではありません)。しかしゲシュタルト学派そのものは現在あまり主流ではないようです。たとえば、I. Rockの「Orientation and Form」では、この学派は主流ではない単なる心理学の一派であり、当該本の主題に関して、ゲシュタルト学派の主張をあまり尊重していないように見られます。Rockの「Orientation and Form」は、吉村浩一教授による鏡像問題の論文「Relationship between frames of reference and mirror-image reversals」中に重要な参考文献として挙げられていましたのでアマゾンを通じて古書を入手して一通り読んでみました。この本は表題の通り形状と方向との関係を心理学的に扱った研究書ですが、視空間の異方性について次のような記述があります。

In any case it would be misleading to think of form changes induced by changes in orientation as exemplifying anisotropy(いずれの場合にも、方向の変化によって生じる形状の変化を、異方性の例として考察することは誤りであろう)」

上述のRockの考え方には問題があると思います。そのような考え方こそ間違いではないかとさえ思います。Rockは視空間の異方性を量的にしかとらえていないように思われます。 

ところがRock自身、方向による形状の変化の例として次のような例を挙げているです。 




 図:I. Rock著「Oriatetion and Form」より引用


この図で、上の三つは180度回転すると全く別人の顔と服装に見えるというもので、下左は子犬、右はあごひげを生やした老人に見立てられ、それぞれ90度回転すると子犬はシェフの横顔老人の横顔アメリカの地図に変化して見えるというものです。形状のこの変化は明らかに意味の変化であって長さやそのの尺度の量的な変化とは言えません。異方性を量的な差異ととらえる限り、確かにここで異方性は重要な意味を持っていませんが、形状の方向における異方性を形状が「意味するもの(形状によってい意味されるもの)」の差異ととらえるならば、これは視空間の異方性を示す見事な例となるはずです。

【数値と意味】

鏡像の問題に戻ると、上下・前後・左右の各方向は、形状の意味に基づいて決まるのであって、幾何学的な形状そのものではないことがわかります。この形状の持つ意味は人間の意識で直感的に把握できるもので、幾何学的形状のように量や数式で表現できるものではありません。

座標系を用いると確かに形状を数値や数式で表現できるでしょうが、数値や数式から図形の持つ意味を把握できるわけではありません。 CGでは座標系を用いて形状を数値に変換しますが、それは数値で計算処理をしたあと、再びディスプレイ上に目に見える形状に戻すことが最終的な目的です。ディスプレイから見て取るのは意味を持つ形であり、すでにそこから数値も数式も読み取ることは不可能です。これからも、上下・前後・左右を決めるのは幾何学的形状の数値データではなく形状の「意味」であることが分かります

ただし、二つの形状を比較する際には数値や座標系は重要です。 もちろん意味としての形状の比較ではなく幾何学的形状の比較です。形状の比較は二つの点の位置関係と距離という相対的な数値で決まるのものであるからです。鏡像問題における形状の逆転はつまるところ二つの形状の規則的な変化(差異)に基づき、その差異が対掌体の概念で表現できるわけです

2015年12月9日水曜日

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。

ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。

端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。

一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。

鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。

鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。

以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。

上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。

鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。

次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。

2015年5月16日土曜日

科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ

タイトルにある二著作のうち、今回読了したのはこの3月に文庫本形式で刊行されたばかりの『科学哲学への招待(野家啓一著)』の方である。一言でいって専門用語としての「科学哲学」の概念が、かなり明瞭に提示されている本である。実のところ、科学哲学という言葉は見聞きしていたという意味では知っていたが、専門的に定義されているような意味ではよく理解していなかったので、この用語の概念がかなり明瞭に把握できたことは個人的に意義のある契機となった。

しかし、読み進むうちに、1~2年ほど前だったか、後者の方『科学哲学(ドミニック・ルクー著、文庫クセジュ日本語訳)』を読みかけて放棄したままだったことを思い出した。あまり内容も記憶しておらず、やはり翻訳本であるということもあって、読みづらく面白く読めなかったせいかとも思ったが、あらためてこの本を取り出してページをめくってみたところ、半ばあたりまで、ところどころ色鉛筆で線が引いてあり、自分のことながら結構まじめに読んでいたらしいのだった。しかしやはり翻訳本の文章が持つ宿命で、表現のインパクトが弱かったのだろう。

という次第で、後者の方も、正確に前回中断した個所からというわけではないが、目次を見て興味深く思われた箇所、結果的に、前回中断した個所よりも少し後の方からもう少し真面目に読み直してみた。その個所というのは、フランスの伝統、学者、特にバシュラールという哲学者を中心に解説した個所から始まっていた。この学者については前者に言及がなかったこともあり、短い本でもあるので改めて真面目に読んでみたのである。

両者の内容はだいたい重なっていると言える。前者は、「第一部・科学史」、「第二部・科学哲学」、「第三部・科学社会学」の三部構成になっているのに対し、後者は第1章から第21章まで切れ目なしにつながっているだけだが、前者と同様に三部構成として見ることができる。というのは、第一部と第二部はテーマとしてかなり共通しているといえるからである。特に第二部に相当する部分がクーンのパラダイム論で終了し、そこから第三部の科学社会学なり、科学論、あるいは別の展開といった方に移行するという構成で共通している。ただ後者では、この前者の第三部に相当する部分がバシュラールを中心としたフランスの哲学者の仕事と、生物学における科学哲学の問題が扱われている。前者では、この部分は科学社会学という範疇の中で多様な問題が扱われているわけだが、当然、後者と重なる部分もあり、互いに重ならない部分もある。

両者それぞれに意義があると思うけれども、個人的には後者の方が興味深く思われた。というのも、後者の行き方の方がそれまでの第二部までの内容と密接につながっていると思われる点で私の個人的な関心に対応しているように感ぜられたからである。しかし現在日本の社会的関心からいえば、前者の方が有意義かもしれない。

という次第で、両者共に第二部に相当する部分、すなわちクーンのパラダイム論に至るまでの内容が事実上、狭い意味の「科学哲学」であることが、今回の読書でかなり明瞭に理解できたことが、今回の個人的な収穫だったといえるかもしれない。

今回、この「科学哲学」について改めて、今回理解できた範囲で考えてみたのだが、基本的にこの「科学哲学」は論理学であり、それも形式論理を基礎に展開されてきたのであり、「意味」の領域に踏み込む程度が貧弱なのではないかと思われた。

もちろん、「意味」が重要な要素として扱われていないわけではない。しかしそれは意味の定義とか、「意味とは何か」あるいはある要素が「意味を持つ」か「持たない」か、といった、意味を中身の見えないパッケージとして扱うにとどまるかのような印象を受けるのである。そこが、「意味」の内容に深く関わっているカッシーラーの哲学などとの違いではないかと思うのだが。

後者(ルクーの著作)でかなり重点的に解説されているバシュラール等の哲学者の言説は、この短い解説書から漠然と読み取れた限りでは、カッシーラー同様に意味の中身にまで踏み込んでいるような印象を受ける。

それにしても、引き続きこの本で紹介されている生物学的な科学哲学の興味深い解説を読むにつけても、科学は永久に言葉の枠から抜け出すことができないという、一種の絶望に行き着くようにも思われる。ただしそれは科学にとっての絶望である。

カッシーラーは『シンボル形式の哲学』第三部の序文で次のように述べている。

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」