本書は34の話題、事実上の章で構成されるが、基本的な三つの部分に分けて読むこともできる。最初の部分は鏡像の問題と、くくることができ、鏡像の性質や画像の対称性と認知に関わる心理学的な問題といえる。次の部分は生物の構造と分子の構造における対称性の問題で、特に立体化学と呼ばれる分野の問題が生命現象との関わりで扱われている。そのあと、「四次元」というタイトルの一章で哲学者カントが考えた鏡像に関係する問題が扱われる。ここでカントが偉大な哲学者であると評価されているのだが、その哲学や認識論に触れるのではなく、カントが四次元や多次元のことを考えていたということを紹介する方向へと進み、後続の各章への導入のような役割を果たすことになっていると思う。後続の章群は本書の半分近くを占めるが、すべてが事実上、量子論と素粒子論の紹介と解説になっている。
今回この、やはりむずかしい素粒子論の各章の途中まで何とか継続して読み続けたが、第25章「時間普遍性の破れ」以降は最後まで、ざっとめくりながら目についたところだけ拾い読みするだけで最後まで行き着いた。もちろん、よく判らないからだが、図書館の貸し出し期限が迫っていることもあるし、量子力学や素粒子論についての解説書が沢山出ている中でこの本が特別わかりやすいという印象も持てなかったからでもある。少なくとも当面の関心事でも対応できる問題でもなかった。
さて、この書の日本語タイトルと全巻の構成から誰もが受けとるであろう内容は、日常の現象から、生物、化学、一般物理、さらには素粒子論にいたるまで自然全般にわたって左右の概念で扱える問題を科学的に論じたとでも言うべきかと思われる。翻訳者のあとがきでも大体そうである。しかし原著者のまえがきを見ると、著者の主眼は量子力学におけるパリティの保存、非保存問題の意義を左右の対象性の意味を通して解説し、解釈し、さらに奥深いところまで読者を誘ってゆきたいという意図にあるように思われる。それは、本書が初版から第二版、第三版と版を重ねるごとに素粒子論に該当する章が大幅に増補されると同時に副題も変更されている事からもわかる。
さらに、訳者あとがきによると原著初版の副題は「左と右とパリティ非保存」であるのに第二版の副題は「対象性と非対象性、鏡の反射からスーパーストリングまで」となっており、「左右」という言葉が消え、日本語タイトルには無い「対称性」が主役となっている。主タイトルの「両手使い」という用語に左右の意味が込められていることは確かだが、日本語のタイトルに比べて比ゆ的な度合いが強い。このことから、原文と日本語訳の語法と表現に若干の齟齬が感じられる部分があり、タイトル以外の訳語にもそれが感じられるところがある。
翻訳の面で特徴的な一例として――これはアマゾンのサイトで原文の索引だけを見て確認したのだが――enantiomorphが一貫して「鏡像対象」と訳されている。この訳語は化学の専門用語として定訳のようだから、何の問題も無いはずなのだけれども、この語の和訳には「対掌体」という訳もあり、本来の意味からいえば対掌体が正しい。実際に定義からも鏡像と対掌体は異なる。対掌体は右手型と左手型の関係だが、鏡像の方は例えば右手(の像)と右手の鏡像との関係である。似たようなものだが、例えば左手の甲の上に右手の手のひらをのせた場合の位置関係など、鏡像関係ではあり得ない位置関係である。量子力学ではどういう意味を持つかはわからないが、少なくとも鏡像問題、鏡映反転の問題では、鏡像と対掌体の概念を区別しなければ話は進まない(鏡像が実物像とが互いに対掌体の関係にあるということ)。この点で原著者自身、enantiomorphという語は使っているものの(鏡像問題の箇所でこの語が使われているかどうかは日本語版ではよくわからないが)、鏡像問題の箇所では、区別できていないのではないかという印象をぬぐえない。
というのも、本書全体を通じて著者は実のところ左右よりも対称性、対象の概念を中心に据えており、当然この用語を頻繁に使用しているが、単に対象と書かれている箇所と左右対称と書かれている箇所とがある。対称性の概念が左右の概念と分かちがたく結びついているといえるが、それは違うのではないかと思うのである。現実に上下対称や前後対称という表現が全く使われない訳でははない。第一、左右対称という表現があること自体、上下その他の左右以外の対称性があり得ることを示している。要は頻度の問題だが、頻度の問題を絶対化すると誤解が発生して道がそれてしまう。著者は左右に過剰な意味と役割を与えているように思われる。翻訳ではさらにそれが増幅されているように見えるのである。
少なくとも後半の、量子力学と素粒子論を扱う部分では左右の概念からは決別し、単に対称性の概念だけで問題を考察すべきではないかと思う。単に対称性という場合と左右対称性という言い方が混在しているが、不要な「左右」を引きずっているように思われる。さらに以下は内容をよく理解しないままの印象に過ぎないけれども、対称性の概念自体どこまで有効なのか、疑問に思えるところもある。著者は初めの方、結晶の対称性を解説した章で、「この本の目的は対称性一般を論ずることではない。いまここで結晶を取り扱うのはその反射対称に関してだけなのである。」として、本書で扱うのは鏡面対称のみである事を明言しているのだが、本書の素粒子論に関する部分でも後の方、「時間不変性の破れ」や「反物質」の章などで考えられている対称性は、少なくとも鏡面対称性そのものではないし、対称性という表現(もちろんそれは術語として定着している用語ではあるが)自体がかなり比ゆ的ではないかという印象が持たれるのである。
既に述べたように、本書でカントの鏡像に関する考察を扱った章が一つの転回点になっている。このカントの鏡像論をマッハが批判し、マッハもまたそこから四次元や多次元幾何学の問題に移行していることに本書の著者が触れていないのは少し意外である。ただしマッハはその一方で左右の概念も生理学的な面から考察し、幾何学空間の等方性に対する知覚空間の異方性の問題として「左右」問題としてではなく「上下・前後・左右」の感覚の問題を考察している。著者は本書でマッハの研究にも触れているのだが、マッハによって指摘された幾何学空間の等方性と視空間の異方性の問題を見逃していたことはかなり重要な見落としではないかと思われる。
幾何学空間の等方性に関しては著者も「等方性」という表現は用いていないものの、鏡像問題に関する章の最後の方で次のような表現で言及している。「混乱の殆どが、一般の言語では左右反転をわれわれの(生物学的な)左右対称をもとに定義することからおこっている。三次元空間の座標幾何の正確なことばを使えば、各座標軸がおのおののx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する。」。この点はさすがというべきかもしれない。
しかし結論をいえば著者自身、ここで指摘している「混乱」を免れていないのではないか、と思うのだが。
著者は巻末に、カントが「左と右に関する見解について言及している」沢山の本や論文を掲げている。ここでの「左と右に関する見解」という表現にも上記で述べたような誇張と行き過ぎが感じられる。またそこにマッハの著作が入っていないのは著者がマッハについて何度も言及しているだけに異常である。ここに著者の思索上の偏りが何となく感じられる。この偏りはこの著者に限らず、かなり時代に根深いものであるかもしれない。
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