前回記事の本、ガードナー著『自然界における左と右』のテーマあるいはキーワードを列挙するなら左右、鏡像、対掌体(翻訳では鏡像対称)、そして対称性、特に鏡面対称性ということになるだろう―あとプラスとマイナス、陰陽なども付け加えたいところだがこの本では直接触れてはいない―。特に日本語訳ではこれらすべてを左と右という表現で「左右問題」として包括的に扱っていたが、前回記事ではそういう考え方に疑問を呈した結果になった。反面、この本にはこの種の意味論的な問題や論点の宝庫とでも言える面があるように思われる。もとより素粒子物理学や量子力学の理解にまで踏み込んだ議論はできないものの、この本に触発された形で、この種の用語の意味論的な考察を一回限りではなく、随時、継続的に考察してゆきたいと思う。
まず「鏡像」という言葉を切り口というか出発点として始めたい。もちろんこれは鏡像問題がきっかけであるが、日常的にも鏡像は各方面でのキーワードとして象徴的とでも言えるインパクトを持っているからである。
―科学における「像」―
鏡像という言葉には像という言葉が含まれている。 像はだいたい英語のimageと同じで、現実の使われ方や熟語になった場合に多少の齟齬が生じることは避けられないが、殆どの場合imageの対応語としても定着している。鏡像その他の熟語を含めて、「像」が科学のさまざまな分野で重要な役割を担っているが、例えば物質とか物体、あるいは力といった物理学の基本的な諸概念に比べても意味論的な探究がなおざりにされているのではあるまいか。像、イメージは哲学、認識論、美学、その他の人文系諸学にとって絶えずその本質が再考され続けているのではないかと思われるほどだが、それに比べて自然科学ではその意味が問い直されることは殆どなく無反省に使われているように思われる。
幾何光学は、専門的には広範囲な研究対象があるものと推察されるけれども、少なくとも像を扱う限りにおいては科学よりも技術といえる。それも光学機器を設計するための技術という面もあるが像そのものを扱う物理学以外の分野の研究手段という点でひとつの研究手法という技術になり得るともいえる。結局のところ、像そのものは物理学の対象ではなく、個別科学以前の対象ということになるだろう。
とはいえ、幾何光学が物理学としては未定義のブラックボックスのような形で「像」を抱え込んでいることは否定できないと考える。そしてこれは程度の差はあれ、幾何光学だけではなく、物理学全般にも言えることではないかと思うのである。
(以後、更新または次回に継続の予定)
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