+今回はまず次の二つの用語について考えてみたいと思います。:
1.比較
2.変換
初めて専門の学術誌で鏡像問題の論文集に触れたとき、最初から用語と語法の問題でかなりの違和感と抵抗を覚えました。特に使い方が気になった用語のひとつは「変換」という単語です。単に用語の適切さというのではなく、考え方、方法論の問題とも思われました。と言うのも、ある論文では「何々変換」という風に、理論の名称そのものとしてこの用語を使っていたのに対し、別の論文では変換と言う用語をそれほど、キーワードのようには使っていないのですが、やはり、そういう論文でも変換または転換でもいいのですが、そういう変化ないしは変更の意味を持つ概念が主役になっているという印象では共通するところがありました。一方、後になって気づいたことですが、「比較」という用語があまり重要な概念として使用されていないことも気になっていたと言えます。今にして言えることではありますが、私自身にしてみれば鏡像問題はつまるところ二つの形象を比較することに他ならないと思えるし、比較のプロセスを分析することこそ重要なのではと思われるのですが、どの論文でも「比較」の概念が等閑視されていた印象だったのです。違和感と抵抗を感じつつ、いくつかの論文を読み、同時にこの数年間、自らの語法を模索しながら鏡像問題を考えるうちに、次第にこの二つの用語の概念について分析することの重要性に気づかされてきた次第なのです。以下、抽象的な言葉の議論で恐縮ですが、この問題について、考察してみたいと思います。
【比較の対象と変換の対象】
もっとも一般的に考えて、いやしくも「比較」という概念を使用する以上は少なくとも二つの対象の存在が前提になる。三つ以上になると一度に比較することができないから、普通は二つで比較される。これに対して「変換」は一つの対象を別のものに変えることであるから対象は一つであるともいえるが、普通何かを変換するといえばそれは物質的なものではなくて画像とかデータとかそういうものだろう。たとえば運動エネルギーが熱に変わったり物質がエネルギーに変わったりする場合は普通変換とは言わずに転換とか変化とか言う言葉を使う。画像とかデータなどは物質ではないからあるものを何かに変換しても変換元がなくなるわけではないことは、録音や録画、コンピュータでデータを変換することが日常的になっている現在、誰もが身に染みて理解していることだろうと思う。というわけで、変換の場合も対象は二つあるとは言えるのだが、ただ変換の場合は結果的に二つの対象ができたわけで、元は一つであるともいえる。とはいえ、あるものを別のものに変えようというのであるから、変える目的物としての対象は最初からあるともいえる。してみると、比較の場合も変換の場合も同様に二つの対象があるのだが、つまるところ「比較」の場合の二つの対象は最初から平等な、同じカテゴリーの対象として存在しなければならないのに対して、「変換」の場合は変換する前の対象と変換後の対象という、質的に異なった対象を扱うというべきだろう。
こういう次第で、「変換」の場合も二つの対象の存在が前提になっていると言えるのだが、変換を行う対象そのものは一つであるので、変換のプロセスなり原理なりを考察しているうちに当初の二つの前提となる存在を忘れがちになるのではあるまいか?「変換」の場合も当初から二つの対象が存在することが前提なのだ。その二つの対象に相違点と共通点とが想定できるからこそ、一方をどのように変化させれば他方になるかというプロセスを考察するわけであり、変換の前には常に比較があると言うべきではないだろうか。
★ 以上の、この項での結論を鏡像の問題、具体的に鏡映反転と呼ばれる鏡像問題に適用してみよう。鏡像問題の対象はよく「実物」と「鏡像」との比較の問題のように言われるが、本当は決してそうではない。実際は一人の観察者が「実物」から乱反射される光を直接眼で受け止めて見る場合の像と、光を鏡に反射させて見る場合の像との二つの像を比較しているのであって、光の経路が異なるだけであり、どちらも実物自体ではなく像なのである。対象が人物であるとすれば、どちらもその人自身ではなくその人の像なのであり、直接見る人物も鏡を介して見る人物も同じ人物像であって、光の経路が異なるだけなのである。だから自分自身の鏡像を見る場合、少なくとも顔や後姿は、自分自身が直接見ることができないわけだから、鏡像に対応する直接の像は存在しないのである。
こういう次第で、実物が鏡像に「変換」されると考えたとすればそれは明らかに錯覚である。また直接見る像が、対応する鏡像に「変換」されると考えるのもまた錯覚である。どちらの像も独立に成立するのである。一方の像が他方の像に変化したわけでもない。どちらも平等に、別個の像として存在するのである。比較の対象としても平等に存在するのである。ただ後から、「一方の像から他方の像に変化させられると仮定すればどのような手順で変化させられるのか」を考える場合に変換という概念が使用できるのではないだろうか。
従って、変換を行ったり、変換のプロセス、変換のメカニズムを考察したりするには前提として変換前の形状と変換後の形状の差異を認識した上で、どのような操作を行えばそのように変換できるのだろうか?という問題を解く形で考察していると考えるべきだろう。変換のプロセスを考察する以前に、ある程度の比較が行われていると考えるべきである。鏡像を含めて一切の像は、二つを比較する場合、違いを直感的に見つけるのは基本的には二つの像の重ねあわせだろう。
重ねあわせの際、平面と立体との違いは重要である。平面画像の違いを見つけることは比較的簡単である。単に並べてみるだけでも比較はできる。しかし立体となるとそうは行かない。平面の場合は一つを裏返しても方向が異なるだけで、同じ像が見えるが、立体を裏返すと全く異なった像が見える。従って二つの立体像を比較するには単に並べて見比べるだけではなく、裏返したりひっくり返したり、さまざまな操作が必要になる。こういう立体を比較する操作は相当に知的な操作であり、鏡像認知とともに人間の成人にしかできない認知作用と言えるだろう。
以上のように二つある像の一方あるいは両方を空間的に動かして比較するプロセスは決して「変換」のプロセスではない。「変換」以前のプロセスであり、「変換」は両者の違いを説明する一つの手段に過ぎない。比較プロセスで認識される差異は直感的なものである。変換は直感的な認知を概念的に説明するしかたであるともいえよう。
【「変換」の対象】
前項でも触れたが、「変換」は、それに似た言葉である「転換」や「変化」とは異なった対象に用いられる。変換は他動詞である。主語はまず人間に限られると言えよう。他方、目的語は何でもありといえるかもしれないが、多くの場合はデータとか形とかそういったものであろう。一方の「転換」は自動詞であって、主語は人間に限らず、多くは自然物やエネルギーである。
変換も転換も日本語であって、当然どの国語でもこれに相当する用語があるわけではないが、少なくともこの種の用語が他動詞的に使われる場合は本来は人間が主語であって、自然物に使われる場合は比喩あるいは擬人化と言えよう。
あまり推論する時間もないので端的に言って、変換の対象は現在では主に情報と呼ばれるもののようだ。他方変換のプロセスそのものはなんだろうか。どうも数学的、あるいは幾何学的な操作のように思われる。デジタル用語辞典によると、「変換」は「ある情報を異なる形式に変える処理」とある。この種の理論についてはよく知らないが、具体的に何を変えるかと言えば、記号を変えるというようなこともあるように思われる。座標軸のXをYに変えたり、プラスをマイナスに変えたりという具合。
★鏡像問題で座標系あるいは座標軸が用いられる場合に上下・前後・左右の軸が用いられることが多い。ここで相対的に逆転という「変換」を考えてみる場合、上下軸の上下方向や左右軸の左右の方向を逆転あるいは反転することだと言える。それはどういうことだろうか?それは言葉を変えることであり、反対の言葉を使用することである。言葉を変えること、互いに正反対の言葉を使用することは、詰まるところ、「意味」を変えること、「意味」を逆転させることに他ならない。
変換操作で上下を逆転させることや左右を逆転させることはすべて自由で何でもありである。単に記号や言葉を変えるだけで済む。しかし現実にはどうだろうか。頭のある方を下といい、足のある方を上と見ることはあり得るだろうか?逆立ちをしている人についてそういうことはいえるかもしれない。しかしこの場合は環境の上下が基準になっているのである。地上の環境も人間の場合と同様に上下があり、環境の上下が人間の上下に優先するということだろう。
表と裏の関係はかなり微妙である。人の手を考えてみた場合、手の甲を表と言うこともできるし、裏と見ることもできる。しかし、いったんどちらが表でどちらが裏であるかを決めた以上、鏡に映さない手と鏡に映った手を比べてみて表と裏の意味を逆転させることは許されないことだと言える。上下・前後・左右もすべて同様である。鏡像の問題を考える場合に限っては、上下・前後・左右の意味を逆転させてみることはあり得ないか、間違った見方であると言えよう。左右の場合は人間の場合は差が小さいから、逆転してみることはあり得るだろう。しかしそれは立体としての形を正しく見ていないのであり、間違った認知である。平面としてみるならば、可能であるとは言えるのだが。
こういう次第で、上下や前後や左右の軸を一つでも逆転してものを見るということは、形を正確に見るという観点からは許されないことである。あるいは平面的に見て、立体としての形状を無視していると言えるかもしれない。
鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。鏡像であろうが直接見る像であろうが、平面的にしか認知しない場合はいくらでもある。現実のところ、どのように表現すべきか、難しい問題だが、当面のところ簡単に言って立体と平面の中間で移ろっているとでもいうしかないようだ。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2014年11月24日月曜日
2014年7月8日火曜日
鏡像の意味論―像、鏡像、対掌体、対称性―その1
前回記事の本、ガードナー著『自然界における左と右』のテーマあるいはキーワードを列挙するなら左右、鏡像、対掌体(翻訳では鏡像対称)、そして対称性、特に鏡面対称性ということになるだろう―あとプラスとマイナス、陰陽なども付け加えたいところだがこの本では直接触れてはいない―。特に日本語訳ではこれらすべてを左と右という表現で「左右問題」として包括的に扱っていたが、前回記事ではそういう考え方に疑問を呈した結果になった。反面、この本にはこの種の意味論的な問題や論点の宝庫とでも言える面があるように思われる。もとより素粒子物理学や量子力学の理解にまで踏み込んだ議論はできないものの、この本に触発された形で、この種の用語の意味論的な考察を一回限りではなく、随時、継続的に考察してゆきたいと思う。
まず「鏡像」という言葉を切り口というか出発点として始めたい。もちろんこれは鏡像問題がきっかけであるが、日常的にも鏡像は各方面でのキーワードとして象徴的とでも言えるインパクトを持っているからである。
―科学における「像」―
鏡像という言葉には像という言葉が含まれている。 像はだいたい英語のimageと同じで、現実の使われ方や熟語になった場合に多少の齟齬が生じることは避けられないが、殆どの場合imageの対応語としても定着している。鏡像その他の熟語を含めて、「像」が科学のさまざまな分野で重要な役割を担っているが、例えば物質とか物体、あるいは力といった物理学の基本的な諸概念に比べても意味論的な探究がなおざりにされているのではあるまいか。像、イメージは哲学、認識論、美学、その他の人文系諸学にとって絶えずその本質が再考され続けているのではないかと思われるほどだが、それに比べて自然科学ではその意味が問い直されることは殆どなく無反省に使われているように思われる。
幾何光学は、専門的には広範囲な研究対象があるものと推察されるけれども、少なくとも像を扱う限りにおいては科学よりも技術といえる。それも光学機器を設計するための技術という面もあるが像そのものを扱う物理学以外の分野の研究手段という点でひとつの研究手法という技術になり得るともいえる。結局のところ、像そのものは物理学の対象ではなく、個別科学以前の対象ということになるだろう。
とはいえ、幾何光学が物理学としては未定義のブラックボックスのような形で「像」を抱え込んでいることは否定できないと考える。そしてこれは程度の差はあれ、幾何光学だけではなく、物理学全般にも言えることではないかと思うのである。
(以後、更新または次回に継続の予定)
まず「鏡像」という言葉を切り口というか出発点として始めたい。もちろんこれは鏡像問題がきっかけであるが、日常的にも鏡像は各方面でのキーワードとして象徴的とでも言えるインパクトを持っているからである。
―科学における「像」―
鏡像という言葉には像という言葉が含まれている。 像はだいたい英語のimageと同じで、現実の使われ方や熟語になった場合に多少の齟齬が生じることは避けられないが、殆どの場合imageの対応語としても定着している。鏡像その他の熟語を含めて、「像」が科学のさまざまな分野で重要な役割を担っているが、例えば物質とか物体、あるいは力といった物理学の基本的な諸概念に比べても意味論的な探究がなおざりにされているのではあるまいか。像、イメージは哲学、認識論、美学、その他の人文系諸学にとって絶えずその本質が再考され続けているのではないかと思われるほどだが、それに比べて自然科学ではその意味が問い直されることは殆どなく無反省に使われているように思われる。
幾何光学は、専門的には広範囲な研究対象があるものと推察されるけれども、少なくとも像を扱う限りにおいては科学よりも技術といえる。それも光学機器を設計するための技術という面もあるが像そのものを扱う物理学以外の分野の研究手段という点でひとつの研究手法という技術になり得るともいえる。結局のところ、像そのものは物理学の対象ではなく、個別科学以前の対象ということになるだろう。
とはいえ、幾何光学が物理学としては未定義のブラックボックスのような形で「像」を抱え込んでいることは否定できないと考える。そしてこれは程度の差はあれ、幾何光学だけではなく、物理学全般にも言えることではないかと思うのである。
(以後、更新または次回に継続の予定)
2014年6月22日日曜日
『自然界における左と右』新版、マーティン・ガードナー著、坪井忠二他訳の部分読みと拾い読み
本書は34の話題、事実上の章で構成されるが、基本的な三つの部分に分けて読むこともできる。最初の部分は鏡像の問題と、くくることができ、鏡像の性質や画像の対称性と認知に関わる心理学的な問題といえる。次の部分は生物の構造と分子の構造における対称性の問題で、特に立体化学と呼ばれる分野の問題が生命現象との関わりで扱われている。そのあと、「四次元」というタイトルの一章で哲学者カントが考えた鏡像に関係する問題が扱われる。ここでカントが偉大な哲学者であると評価されているのだが、その哲学や認識論に触れるのではなく、カントが四次元や多次元のことを考えていたということを紹介する方向へと進み、後続の各章への導入のような役割を果たすことになっていると思う。後続の章群は本書の半分近くを占めるが、すべてが事実上、量子論と素粒子論の紹介と解説になっている。
今回この、やはりむずかしい素粒子論の各章の途中まで何とか継続して読み続けたが、第25章「時間普遍性の破れ」以降は最後まで、ざっとめくりながら目についたところだけ拾い読みするだけで最後まで行き着いた。もちろん、よく判らないからだが、図書館の貸し出し期限が迫っていることもあるし、量子力学や素粒子論についての解説書が沢山出ている中でこの本が特別わかりやすいという印象も持てなかったからでもある。少なくとも当面の関心事でも対応できる問題でもなかった。
さて、この書の日本語タイトルと全巻の構成から誰もが受けとるであろう内容は、日常の現象から、生物、化学、一般物理、さらには素粒子論にいたるまで自然全般にわたって左右の概念で扱える問題を科学的に論じたとでも言うべきかと思われる。翻訳者のあとがきでも大体そうである。しかし原著者のまえがきを見ると、著者の主眼は量子力学におけるパリティの保存、非保存問題の意義を左右の対象性の意味を通して解説し、解釈し、さらに奥深いところまで読者を誘ってゆきたいという意図にあるように思われる。それは、本書が初版から第二版、第三版と版を重ねるごとに素粒子論に該当する章が大幅に増補されると同時に副題も変更されている事からもわかる。
さらに、訳者あとがきによると原著初版の副題は「左と右とパリティ非保存」であるのに第二版の副題は「対象性と非対象性、鏡の反射からスーパーストリングまで」となっており、「左右」という言葉が消え、日本語タイトルには無い「対称性」が主役となっている。主タイトルの「両手使い」という用語に左右の意味が込められていることは確かだが、日本語のタイトルに比べて比ゆ的な度合いが強い。このことから、原文と日本語訳の語法と表現に若干の齟齬が感じられる部分があり、タイトル以外の訳語にもそれが感じられるところがある。
翻訳の面で特徴的な一例として――これはアマゾンのサイトで原文の索引だけを見て確認したのだが――enantiomorphが一貫して「鏡像対象」と訳されている。この訳語は化学の専門用語として定訳のようだから、何の問題も無いはずなのだけれども、この語の和訳には「対掌体」という訳もあり、本来の意味からいえば対掌体が正しい。実際に定義からも鏡像と対掌体は異なる。対掌体は右手型と左手型の関係だが、鏡像の方は例えば右手(の像)と右手の鏡像との関係である。似たようなものだが、例えば左手の甲の上に右手の手のひらをのせた場合の位置関係など、鏡像関係ではあり得ない位置関係である。量子力学ではどういう意味を持つかはわからないが、少なくとも鏡像問題、鏡映反転の問題では、鏡像と対掌体の概念を区別しなければ話は進まない(鏡像が実物像とが互いに対掌体の関係にあるということ)。この点で原著者自身、enantiomorphという語は使っているものの(鏡像問題の箇所でこの語が使われているかどうかは日本語版ではよくわからないが)、鏡像問題の箇所では、区別できていないのではないかという印象をぬぐえない。
というのも、本書全体を通じて著者は実のところ左右よりも対称性、対象の概念を中心に据えており、当然この用語を頻繁に使用しているが、単に対象と書かれている箇所と左右対称と書かれている箇所とがある。対称性の概念が左右の概念と分かちがたく結びついているといえるが、それは違うのではないかと思うのである。現実に上下対称や前後対称という表現が全く使われない訳でははない。第一、左右対称という表現があること自体、上下その他の左右以外の対称性があり得ることを示している。要は頻度の問題だが、頻度の問題を絶対化すると誤解が発生して道がそれてしまう。著者は左右に過剰な意味と役割を与えているように思われる。翻訳ではさらにそれが増幅されているように見えるのである。
少なくとも後半の、量子力学と素粒子論を扱う部分では左右の概念からは決別し、単に対称性の概念だけで問題を考察すべきではないかと思う。単に対称性という場合と左右対称性という言い方が混在しているが、不要な「左右」を引きずっているように思われる。さらに以下は内容をよく理解しないままの印象に過ぎないけれども、対称性の概念自体どこまで有効なのか、疑問に思えるところもある。著者は初めの方、結晶の対称性を解説した章で、「この本の目的は対称性一般を論ずることではない。いまここで結晶を取り扱うのはその反射対称に関してだけなのである。」として、本書で扱うのは鏡面対称のみである事を明言しているのだが、本書の素粒子論に関する部分でも後の方、「時間不変性の破れ」や「反物質」の章などで考えられている対称性は、少なくとも鏡面対称性そのものではないし、対称性という表現(もちろんそれは術語として定着している用語ではあるが)自体がかなり比ゆ的ではないかという印象が持たれるのである。
既に述べたように、本書でカントの鏡像に関する考察を扱った章が一つの転回点になっている。このカントの鏡像論をマッハが批判し、マッハもまたそこから四次元や多次元幾何学の問題に移行していることに本書の著者が触れていないのは少し意外である。ただしマッハはその一方で左右の概念も生理学的な面から考察し、幾何学空間の等方性に対する知覚空間の異方性の問題として「左右」問題としてではなく「上下・前後・左右」の感覚の問題を考察している。著者は本書でマッハの研究にも触れているのだが、マッハによって指摘された幾何学空間の等方性と視空間の異方性の問題を見逃していたことはかなり重要な見落としではないかと思われる。
幾何学空間の等方性に関しては著者も「等方性」という表現は用いていないものの、鏡像問題に関する章の最後の方で次のような表現で言及している。「混乱の殆どが、一般の言語では左右反転をわれわれの(生物学的な)左右対称をもとに定義することからおこっている。三次元空間の座標幾何の正確なことばを使えば、各座標軸がおのおののx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する。」。この点はさすがというべきかもしれない。
しかし結論をいえば著者自身、ここで指摘している「混乱」を免れていないのではないか、と思うのだが。
著者は巻末に、カントが「左と右に関する見解について言及している」沢山の本や論文を掲げている。ここでの「左と右に関する見解」という表現にも上記で述べたような誇張と行き過ぎが感じられる。またそこにマッハの著作が入っていないのは著者がマッハについて何度も言及しているだけに異常である。ここに著者の思索上の偏りが何となく感じられる。この偏りはこの著者に限らず、かなり時代に根深いものであるかもしれない。
今回この、やはりむずかしい素粒子論の各章の途中まで何とか継続して読み続けたが、第25章「時間普遍性の破れ」以降は最後まで、ざっとめくりながら目についたところだけ拾い読みするだけで最後まで行き着いた。もちろん、よく判らないからだが、図書館の貸し出し期限が迫っていることもあるし、量子力学や素粒子論についての解説書が沢山出ている中でこの本が特別わかりやすいという印象も持てなかったからでもある。少なくとも当面の関心事でも対応できる問題でもなかった。
さて、この書の日本語タイトルと全巻の構成から誰もが受けとるであろう内容は、日常の現象から、生物、化学、一般物理、さらには素粒子論にいたるまで自然全般にわたって左右の概念で扱える問題を科学的に論じたとでも言うべきかと思われる。翻訳者のあとがきでも大体そうである。しかし原著者のまえがきを見ると、著者の主眼は量子力学におけるパリティの保存、非保存問題の意義を左右の対象性の意味を通して解説し、解釈し、さらに奥深いところまで読者を誘ってゆきたいという意図にあるように思われる。それは、本書が初版から第二版、第三版と版を重ねるごとに素粒子論に該当する章が大幅に増補されると同時に副題も変更されている事からもわかる。
さらに、訳者あとがきによると原著初版の副題は「左と右とパリティ非保存」であるのに第二版の副題は「対象性と非対象性、鏡の反射からスーパーストリングまで」となっており、「左右」という言葉が消え、日本語タイトルには無い「対称性」が主役となっている。主タイトルの「両手使い」という用語に左右の意味が込められていることは確かだが、日本語のタイトルに比べて比ゆ的な度合いが強い。このことから、原文と日本語訳の語法と表現に若干の齟齬が感じられる部分があり、タイトル以外の訳語にもそれが感じられるところがある。
翻訳の面で特徴的な一例として――これはアマゾンのサイトで原文の索引だけを見て確認したのだが――enantiomorphが一貫して「鏡像対象」と訳されている。この訳語は化学の専門用語として定訳のようだから、何の問題も無いはずなのだけれども、この語の和訳には「対掌体」という訳もあり、本来の意味からいえば対掌体が正しい。実際に定義からも鏡像と対掌体は異なる。対掌体は右手型と左手型の関係だが、鏡像の方は例えば右手(の像)と右手の鏡像との関係である。似たようなものだが、例えば左手の甲の上に右手の手のひらをのせた場合の位置関係など、鏡像関係ではあり得ない位置関係である。量子力学ではどういう意味を持つかはわからないが、少なくとも鏡像問題、鏡映反転の問題では、鏡像と対掌体の概念を区別しなければ話は進まない(鏡像が実物像とが互いに対掌体の関係にあるということ)。この点で原著者自身、enantiomorphという語は使っているものの(鏡像問題の箇所でこの語が使われているかどうかは日本語版ではよくわからないが)、鏡像問題の箇所では、区別できていないのではないかという印象をぬぐえない。
というのも、本書全体を通じて著者は実のところ左右よりも対称性、対象の概念を中心に据えており、当然この用語を頻繁に使用しているが、単に対象と書かれている箇所と左右対称と書かれている箇所とがある。対称性の概念が左右の概念と分かちがたく結びついているといえるが、それは違うのではないかと思うのである。現実に上下対称や前後対称という表現が全く使われない訳でははない。第一、左右対称という表現があること自体、上下その他の左右以外の対称性があり得ることを示している。要は頻度の問題だが、頻度の問題を絶対化すると誤解が発生して道がそれてしまう。著者は左右に過剰な意味と役割を与えているように思われる。翻訳ではさらにそれが増幅されているように見えるのである。
少なくとも後半の、量子力学と素粒子論を扱う部分では左右の概念からは決別し、単に対称性の概念だけで問題を考察すべきではないかと思う。単に対称性という場合と左右対称性という言い方が混在しているが、不要な「左右」を引きずっているように思われる。さらに以下は内容をよく理解しないままの印象に過ぎないけれども、対称性の概念自体どこまで有効なのか、疑問に思えるところもある。著者は初めの方、結晶の対称性を解説した章で、「この本の目的は対称性一般を論ずることではない。いまここで結晶を取り扱うのはその反射対称に関してだけなのである。」として、本書で扱うのは鏡面対称のみである事を明言しているのだが、本書の素粒子論に関する部分でも後の方、「時間不変性の破れ」や「反物質」の章などで考えられている対称性は、少なくとも鏡面対称性そのものではないし、対称性という表現(もちろんそれは術語として定着している用語ではあるが)自体がかなり比ゆ的ではないかという印象が持たれるのである。
既に述べたように、本書でカントの鏡像に関する考察を扱った章が一つの転回点になっている。このカントの鏡像論をマッハが批判し、マッハもまたそこから四次元や多次元幾何学の問題に移行していることに本書の著者が触れていないのは少し意外である。ただしマッハはその一方で左右の概念も生理学的な面から考察し、幾何学空間の等方性に対する知覚空間の異方性の問題として「左右」問題としてではなく「上下・前後・左右」の感覚の問題を考察している。著者は本書でマッハの研究にも触れているのだが、マッハによって指摘された幾何学空間の等方性と視空間の異方性の問題を見逃していたことはかなり重要な見落としではないかと思われる。
幾何学空間の等方性に関しては著者も「等方性」という表現は用いていないものの、鏡像問題に関する章の最後の方で次のような表現で言及している。「混乱の殆どが、一般の言語では左右反転をわれわれの(生物学的な)左右対称をもとに定義することからおこっている。三次元空間の座標幾何の正確なことばを使えば、各座標軸がおのおののx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する。」。この点はさすがというべきかもしれない。
しかし結論をいえば著者自身、ここで指摘している「混乱」を免れていないのではないか、と思うのだが。
著者は巻末に、カントが「左と右に関する見解について言及している」沢山の本や論文を掲げている。ここでの「左と右に関する見解」という表現にも上記で述べたような誇張と行き過ぎが感じられる。またそこにマッハの著作が入っていないのは著者がマッハについて何度も言及しているだけに異常である。ここに著者の思索上の偏りが何となく感じられる。この偏りはこの著者に限らず、かなり時代に根深いものであるかもしれない。
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