2019年10月17日木曜日

人工知能と人工頭脳 ― その1

人工知能(Artificial intelligence、AI)という言葉はれっきとした専門用語であるらしく、科学技術の専門用語辞典に、定義はないが、項目はある。かつてよく使われた人工頭脳(Artificial brain)は専門用語ではないらしく、上記の用語辞典には項目がない。しかし私の個人的な印象では、この二つの言葉を比較すると、人工知能よりもむしろ人工頭脳の方に科学的な印象を受けるのである。

手っ取り早いところで日本語ウィキペディアには専門的な定義があり、次の三通りの定義が紹介されている。
  1. 「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」
  2. 「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」
  3. 「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
というふうで、二つは研究分野とされているのだが、もう一つは技術の範疇である。それに続いて次のような定義が紹介されている:
  • 「『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。「誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である」
 以上によれば、AIとは特定の研究分野を意味するものであるとの定義が優勢ではあるけれども、特定の技術を意味する定義もある。その技術とは簡単に言ってその研究分野における研究の成果物ということになるだろう。そして今や一般にはその技術的成果物の意味で使われる場合が殆どと言ってよいだろう。こうなってくると、この言葉とその帰結の行く末にはかなり心もとないものが感じられてくるのである。

というのも、一般人はこのような言葉を専門的な定義で理解したうえで使うわけではない。一般人はこの種の言葉の概念をその言葉(熟語)を構成する要素の本来の語源的な意味でとらえるのである。しかもこれは非専門家だけではなく専門家自身の方にも多分に該当するのである。そう考えた場合、「人口の知能」とは一体なんぞや、そんなものが実在しえるのか、という意識を絶えず伴いながらも、なんとなくそういうものがあるような前提に引きずり込まれがちなのである。

しかし、そもそも知能という概念自体に確たる専門的な定義もあるのかどうかは覚束ないし、コンピュータサイエンスの中でも知能という概念自体が明確に把握されているのかどうかは疑わしい。人工という概念にしてもそうである。

そのようなわけで、上記のような諸定義をこれ以上分析することは当面は諦め、独自の視点で分析してみたいと思う。その際、人工知能に似た言葉で、かつてはよく使われた人工頭脳と比較することが一つの手がかりになるように思われる。(次回に続く)

2019年9月15日日曜日

シリーズ記事・鏡像の意味論・に関係するその後の投稿

シリーズ記事『鏡像の意味論』は本ブログで書き始め、別のブログ『ブログ・発見の発見』にも転載してきましたが、前回以後の鏡像問題に関する記事は『ブログ・発見の発見』に掲載するようにしています。そちらのブログの方針により適合していると考えられることが理由です。先般、この件で新しい記事を掲載しましたので、リンクしてご紹介します。タイトル:予備的論文を公開します:Main elements and a Conditional theoretical result on the mirror problem。
 英文ですが、鏡像問題に関する包括的な論考の一部です。ご高覧ください。

2019年9月3日火曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その5)― プラトン『国家』の視野と個人主義

 あまり後のことも考えずにこのようなシリーズ記事を書き始めてしまったこともきっかけとなって、三十年以上にわたって積読していたプラトンの『国家』を一応一読しました(中公世界の名著『プラトンⅡ』)。全訳ではなかったので、いつか省略部分も読んでみたいものですが、読了した部分にしても甚だ消化不良なので、とりあえず、この時点でこのシリーズ記事との関連で気づいたことだけでもメモしておくことにしました。

 プラトンは、責任編集者の田中美智太郎によれば「思考実験」において、<知恵>が支配する<理想国>から、堕落してゆく段階に従って<軍人優位の、名誉を志向する>国家、<寡頭制>国家、<民主制>国家、および<僭主制>国家を想定し、それぞれの制度に対応する典型的な性格の人間像を分析しているわけですが、民主制国家に対応する民主制度的な人間像は、まあ今でいう民主主義者にだいたい相当すると言ってよいかと思います。その民主主義的な人間像の分析は、他の制度の人間分析とともに、やはり非常に当を得て興味深いですね。

 プラトン時代のギリシャは実際に民主制であったと言われますが、やはりプラトンによる民主制と民主主義的人間の分析の視野には、個人主義は少なくとも明示的には入っていないように思われました。もちろんそれは当然で、個人主義は、私の常識的理解でも「封建制度の崩壊と資本主義の発達を背景としてひろく行われるようになったもの」(岩波小辞典・哲学、1958年)という感じでしたが、他の手近にある解説書なども参照してみると、結構ソフィストなど古代ギリシャ時代の哲学諸派も個人主義の例に挙げられていたりします。しかしウィキペディアによると個人主義、individualisme という言葉自体は最初にフランスでできたもので「もともとは啓蒙主義に対する非難を意味する言葉であった」とのことですから、やはり封建制度の崩壊後にできた言葉なのでしょう。ですからそれ以前に個人主義に相当するものがあったとしても、区別して考えるべきでしょう。こうしてみると、古代ギリシャの個人主義、現代の個人主義、そしてプラトンの考える民主制や民主主義的人間像を対比的に考えて見ることは意義深いものになりそうな気がします。

 一方、日本語で「個人主義」をネット検索してみると、夏目漱石の『私の個人主義』が最も頻繁にヒットするようです。日本語の個人主義論としてはこれが代表的な作品になるのかもしれませんね。

 いずれにしても、民主主義にしても個人主義にしてもそれら自体を全面的に考察するとなると、私のような若くもない一般人にとってはどうしようもないので、今後はシリーズタイトルの目的に即して何らかの切り口か糸口になるようなアイデアがみつかれば拾い集めて行こうかと考えています。