2018年4月26日木曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(iv)(鏡像の意味論、番外編その4)―― 「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する

いくつもの英語の鏡像問題論文を調べてみて気づくことの一つに、defineという用語が頻繁に出てくるということがあります。当然日本語の論文でもそれに対応して「定義する」という表現が頻出しているわけですが、どういう局面でそれが出てくるかといえば、要するに目に見える人や物の上下前後左右を決めることをdefineと言っているわけです。また上下などの方向、あるいは方向軸を決める場合もあります。一方で、ごく頻度は少ないですがassign「割り当てる」という用語も同じような局面でわずかに使われています。ただし使用頻度としては1/50くらいの差があるのではないでしょうか。日本語の論文でも対応して「割り当てる」とか「当てはめる」とかを使っている場合もあるようです。

ところでIttelson(1991)の論文で、有名な哲学者・心理学者のW. James(1890)が引用されているのですが、そこでJamesは、一個のキューブの前後上下左右を決めるのにLabelという用語を使っています。Jamesはそこでの考察として興味深いことに、「左右」は赤や青などの色のようなものであると述べています。これは感覚質、あるいは以前有名になった言葉で、クオリアですね。

ジェームズは、人間ではなく単なるキューブに上下前後左右のラベル付けすることを言っているわけですが、このlabel という表現は日常的な表現に近いといえます。例えば木彫の彫刻家が木のブロックで最初に上下前後左右を決めたりする場合、日本語では普通は「決める」とか「決定する」などと言うと思いますが、「割り当てる」というのも不自然ではないし、ジェームズのように「ラベル」付けするという言い方もあると思います。しかし日常的にはこういう場合「定義する」とはまず言わないし、英語でも、日常語としてdefineとはあまり言わないのではないでしょうか。また木のブロックなどではなく、人物の姿や人物以外でも上下前後左右を持つように見える物体の上下前後左右を判断する場合に「定義する」というのは不自然に思われるのではないでしょうか?

ここでシニフィアンとシニフィエを使って「定義する」と「割り当てる」を分析してみようと思います。 

端的に言って「定義する」という言葉は本来、未だに確定したシニフィアンを持たないシニフィエに、確定したシニフィアンを与える、ということではないでしょうか?要するに、科学の分野でも、科学ではなくても、まだ名前のない新しい概念に名前を付けるということです。特に例を挙げるのも面倒だし、必要もなく、お分かりいただけると思います。それに対して「割り当てる」は、すでに確定したシニフィアンとシニフィエのセットとしての言葉を特定の対象に当てはめること、ということだといえます。

彫刻家が木のブロックの方向を決める場合、 少なくとも普通の正面向きの人物立像である場合、人物の上下前後左右として「確定したシニフィアンとシニフィエのセット」を木のブロックに「割り当てる」ことになると思います。

とすれば、少なくとも正立した人間の場合、上下前後左右のシニフィアンとシニフィエのセットは最初から確定しているのであり、わざわざ定義などする必要はないはずです。ですから、正立した人物の姿に新たに上下前後左右を「定義する」というのも不自然です。しかし、確定しているからと言って、直ちに他人の上下前後左右を、少なくとも左右を認識できるかと言えばそうでもないでしょう。また横たわっている人物や倒立している人物にもこれらがすべて確定しているとは言えないように思われます。

そこで人物像の場合は一般的に表現するなら「定義する」よりも 「見つける」の方が、英語の場合はfindが最も適切な表現ではないかと思います。 さらに彫刻や映像作品ではよくあることですが向き合って抱擁したり、格闘したりといった集合的な人物の場合はどうでしょうか?こういう場合は観察者独自の判断によるしか定義のしようがないでしょう。芸術作品の場合は作者が決めることであるし、生け花や盆栽なども審美的に決まるものでしょう。そういう場合は「定義する」がふさわしいように思われるかもしれません。しかしこの場合は対象が人間ではあっても一人ではなく複数の人間であるし、芸術作品になればそれはなおさら別物であり、つまるところ彫刻素材の木のブロックに上下前後左右を割りてるのと同じことであり、すでに他の対象(すなわち一人の人間)で確定した(定義済みの)のシニフィアンとシニフィエのセットとが割り当てられたものと言えます。これは横たわっていたり倒立していたり、という正立していない一人の人間の場合にも言えることだと思います。

 では、その、正立している人間の上下前後左右は一体いつだれが定義したのでしょうか?これはもう、日本語として言語的に、あるいは辞書的に定義されているとしか言いようがありません(例えば人が北を向いた時の東が右)。言語的な直観とでもいえるようにも思われます。ではそのシニフィアンに対応するシニフィエは一体何でしょうか?それを考えるときに問題になるのは、そのシニフィエはいつでも常に上下前後左右というシニフィアンと対応しているとは言えないことです。これは前回の話題になったように、あるシニフィエは常に同じシニフィアンにくっついているとは限りません。前回は自分の視空間の立場で考察してみたわけですが、他人を見ている場合も仰向けに寝ている人を見れば、普通は顔やお腹の方を上と見るのではないでしょうか。横になったり、逆立ちしたりというだけではなく、よじったり、腰を曲げたりすることができるし、絶えず動き回り、位置と姿勢が変化しています。そういう問題を避けるために位置や姿勢とは関係のない頭部だけを取り出して考察してみることもできます。他方、あらゆる人間に共通する要素を取り出してみるとすればやはり正立して動きのない状態の人間で考察すべきかもしれません。ただ簡単のために、ここでは頭部で考察を進めてみたいと思います。

しかし、単純化のために頭部だけを取り出してみても、何が上下前後左右などの方向軸あるいは方向性の(究極の)シニフィエなのかということは、色と同様、結局はそれを指し示すことでしか表現できないわけですが、やはり色もいくつかの指標で表現されているのと同様、 何とか言語的に表現しない限り話になりません。結論を言ってしまえば、それが知覚空間であり、幾何学空間の等方性に対して異方的な性質を持つということになるのだと思います。しかしその結論に至るまでを説明しようとすると、それはちょっと一筋縄ではゆかないように思います。ですから知覚空間、視空間の性質から逆にたどって他人というか、具体的な人間の身体へと対応付けてゆく方法をとるのも一つの方法だと考えます。

単に形状などのイメージと考えれば彫刻や人形と同様、それは人間そのものの写しでしかないわけです。ただしそこには人間という存在の意味が込められているわけです。ですから、それらの方向軸は先に考えたとおり、「定義された」ものではなく(意味が)「割り当てられた」ものです。ですから少なくとも外的な形状そのものではないことは確かです。第一、外的な形状では、左右について方向が区別できません。しかし知覚空間と考えるならば、左右についてもはっきりとした違いがあります。左右を逆にした文字列が読みづらいことは上下を逆にした場合と同様です。視空間の全方向的異方性についてはこれで十分だと思います。


こうしてみると、具体的な個々の人間(の身体)の方向軸のシニフィエも他の物体やイメージと同様に「定義する」ものでも「定義された」ものでもなく、「割り当てる」ものであり、その割り当てられるオリジナルのシニフィアンとシニフィエのセットは、視空間のものであるということができます。

というわけで上下前後左右に相当する(常に上下前後左右という言葉で表現されるとは限らないものの)究極の、根源的なシニフィエは幾何学的な形状が持つものでも、物質的な身体のが持つものでもなく、視空間という知覚空間が持つ方向感覚が反映されたものと思われます。ではそれは何に由来するのかといえば視覚自体に由来するとは言えないと思います。それは身体感覚か、生理学や医学で言われる体性感覚などに由来するとしか考えられません。というのも、視覚を持たない人にも、目を閉じているときでもそのような感覚はあるからです。

視覚自体もそうですが、こういった知覚は主観的なもので、他人の知覚をそのまま認知することはできないものです。そこで、端的に言って、他人の姿、つまり像に自分を重ねて、擬人的に推定するしか比較しようが無いものです。この点で、高野陽太郎先生が鏡像問題の議論において鏡像を擬人化して左右を判断しているのは自然なことであり、そのこと自体は良いとしても、それで鏡像問題、鏡映反転の問題が解決したといわれてもねー?ということですね。そこから鏡像問題よりも視空間の問題へと広がれば良かったと思うのですが。全般に鏡像問題の論文で、少なくとも意識的に、「視空間」という用語を使用して考察を進めたものがなかったことも問題であると考えています。
(2018年4月26日 田中潤一)

2018年4月4日水曜日

(続続続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係

ここで一つの例を考えてみます。人が仰向けに寝ころんでまっ直ぐ正面を見ているとします。空を見ているにしろ、天井を見ているにしろ、たいていの人はこういう場合、上の方を見ていると意識するものです。ではこの場合、この人は自分の頭頂部の方向をどのように意識するのでしょうか?この人に尋ねてみると、やはり正立しているときと同様に「上」というでしょうか?これは表現力の問題にもつながりますが、もっと即物的に「頭頂部の方向」ということもできます。足元の方向も同様に、「下の方」というよりも「足元の方向」と表現することが正確でしょう。そうしてみると、仰向けになっている場合は「上の方」も「正面の方向」という方が正確で誤解を防げるように思われます。視空間で考えてみると、この人が正立しているときの視空間の前方が、この場合には上方になっているわけです。

こういう場合、この人が正立している場合の「前」のシニフィエは、知覚される重力方向による「上」 というシニフィアンに引っ張られてくっ付いてしまったようです。そうして、正立しているときの「上」のシニフィエは、別の言葉(シニフィアン)である「頭頂部の方向」に乗り換えてしまいました。同様に「下」のシニフィエであったものが、「足元の方」というシニフィアンに乗り換えてしまったことになります。もはや「前」と「後ろ」、そして「下」というシニフィアンは無用になってしまったようです。しかしこの人が仰向けになったままで本を見たり、スマホなり他のディスプレイなどで映像を見るとしましょう。再び正立しているときの「前」、「上」、「下」というシニフィアンが復活しそうです。

見方を変えてみると、上下・前後・左右の各シニフィアンには絶対的にひとつづつが1対1で対応するシニフィエというものは無いと考えた方がよさそうです。例えば英語では日本語の上下にそのまま対応できるような言葉はありません。「上」の場合、topがあてられることもありますが、aboveとかonとか、別の表現が求められる場合が多いですね。「後ろ」も少なくともbackとかrearの二とおりがあります。日本語でも、特に「上下」の場合は「天地」が使われる場合が多々あります。ところが面白いことに左右だけは日本語でも英語でも常に右と左、rightとleftなんですね。

では左右のシニフィアンが常に、絶対的に不動かといえばそうではないと思います。視空間の場合に限っても、上述のように仰向けではなく横になって、例えば右を上にして横になっている場合、正立しているときの視空間の「右」のシニフィエはやはり、仰向けの場合の前方と同様に「上」というシニフィアンに引っ張られて乗り換えることが多いのではないか思います。ただしこの場合は「右」というシニフィアンが残る場合も多いのではないでしょうか。両者のシニフィエが同時に共存しているのかもしれません。実験のテーマになるように思います。

上記は左右の特殊性というより、むしろ上下の特性に由来しているように思います。というのは重力方向の知覚には上下だけしかないからです。

実は、今回の稿は重力方向の知覚と視空間の上下の問題について考えていたことがきっかけだったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係で前回の続きのようにになってしまいました。

重力方向の知覚と鏡像問題の関係は興味深い問題ですが、しかし鏡像問題とくに鏡映反転の問題に限った場合、実際の現象に適用するにはあまりにも複雑になりすぎるように思われ、今の段階であまり追求しても仕方がないように思います。鏡像問題、特に鏡映反転の問題では視空間の上下前後左右ではなくむしろ対象となるイメージ、つまり像の上下前後左右が問題であり、この場合の上下前後左右は観察者が独自の基準で像に割り当てるものだからです。ただし完全に任意に割り当てることができるのではなく、2つの軸だけしか任意に割り当てることができないということです。これが多幡-奥田説の「左右軸の従属性」の本質であるように考えています。ただ今回のテーマは鏡像問題から離れていますのでこの問題についてはこれまでにしておきます。

視空間の問題に戻ると、視空間自体の方向性は上下前後左右という抽象的な、シニフィエが浮動しやすい方向性ではなく、身体の構造、外形に現れる構造あるいは機能に由来するものであることが明らかになってきたようです。

今後は基礎的な知覚あるいは感覚そのものの研究で、シニフィアンとシニフィエの視点による考察の展開が望まれるような気がします。実は少し前、先週ですが、次の研究をネットで見つけました。

『重力方向知覚における視覚刺激の過T向きと種類および身体の傾きの影響』根岸一平・金子寛彦・水科晴樹、東京工業大学大学院理工学研究科物理情報システム専攻 ― 光学 38, 5 (2009) 266-273
https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/38-05-kenkyuronbun.pdf。

十分に読んではいませんが、改めて重力方向の知覚について感覚器官との関係などを含めて興味深い知見を得ることができました。ただこの種の実験的研究で特徴的なことは常に角度などの数値的なデータをとることに重点が置かれていることです。ですから有名なI.Rockの研究と同様、身体を機械的に傾けるといった多少大掛かりな装置が用いられています。とにかく現在の科学では実験に基づく定量的な研究が主流であることを物語っているように思います。それに対してシニフィアン・シニフィエの視点による意味分析の方が、さらに本質的な問題に切り込んで行けるのではないかと思うものです。
(2018/04/05 田中潤一)

2018年3月8日木曜日

(続々)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

【今回の結論】 
  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2.  視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンとシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンとシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンとシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンとシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まで忘れていたのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ― 
こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。
(2018年3月8日 田中潤一)