2018年1月15日月曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)

「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がかえって分かりやすく、インパクトもあるように思います。

端的に言ってシニフィアンとシニフィエの区別は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。

例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合は文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないものです。ですから日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンとシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。

このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。それで、マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と言ったのだと思います。

ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。

こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。

このように空間の異方性を理解する鍵はシニフィアンとシニフィエとの関係にあり、『意味』にあると言えます。
(2018/01/14 田中潤一)

2018年1月14日日曜日

二つの異方空間と三つの等方空間(鏡像の意味論、番外編その3)

前回の投稿を誤って削除してしまいましたので、掲載したリストだけを簡単に再現し、簡単に付記を書き留めておきました。

  1. 主に視空間(異方的)における解析により論旨を展開 ―― Gregory説、高野説
  2. 主に像空間(異方的)における解析により論旨を展開 ―― 吉村・多幡説
  3. 主に鏡像認知空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― Gardner説、Itteleson説
  4. 主に比較空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― 多幡・奥田説、Corballis説
  5. 主に光学的実像空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― Haig説

何れの説もその空間における説明に力点を置いているということで、他の空間による解析を全く用いていないというわけではありません ―― そのような部分の内容や重要性については諸説によりさまざまですが、中には単に常識的な理解、あるいは他人の成果を利用しているだけの場合もあるように思います。またこの分類は各説の優劣や評価とは無関係です。ただ、「1」の視空間のみによる解析では、視空間そのものは観察者以外にはうかがい知ることのできない感覚的で主観的な認知空間であるわけで、どうしても直観にたより客観性を欠くものになるように思います。そこで実験という手段の可能性がでてくるのでしょうが ―― 当然、実験にも限界があります ―― ある一つの実権によって何がわかるのか? それだけですべてがわかるのか? 実験を使った解析と統合はそう簡単ではないと思います。
(2018/01/14 田中潤一)

2017年10月16日月曜日

上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)

視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。

視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。

このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的で一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。

ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。

単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。

動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿とタツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。

移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。

動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。

道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログや論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。 

植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学や地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。

このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。

さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。

音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。

例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。

幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。

というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。 

(10月17日追記注記) 
  • 例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。
(2017年10月16日 田中潤一)