2018年11月4日日曜日

鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸

一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。

まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。

次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。

以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。

では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。

以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。

上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。

この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。

なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。

左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。

とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。

端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。

面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。

上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。

ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。

いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。 

このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。

なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)

2018年6月30日土曜日

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言え人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。

 【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。

【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。

  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
 (2018年7月2日 田中潤一)

2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)