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2018年11月4日日曜日

鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸

一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。

まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。

次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。

以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。

では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。

以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。

上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。

この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。

なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。

左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。

とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。

端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。

面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。

上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。

ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。

いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。 

このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。

なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)

2018年6月30日土曜日

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言え人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。

 【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。

【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。

  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
 (2018年7月2日 田中潤一)

2018年6月16日土曜日

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。

「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。


 【等方空間における座標系】

  • 座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。
  • 各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か-の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く-であるということはできません。ですから+と-とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と-を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。
  • x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。

以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。


【異方空間における方向軸】 

以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と-で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、
  • 両側を+側と-側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。
こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?
 
というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。

何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者で心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。

もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。 
(2018年6月16日 田中潤一)

2018年4月26日木曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(iv)(鏡像の意味論、番外編その4)―― 「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する

いくつもの英語の鏡像問題論文を調べてみて気づくことの一つに、defineという用語が頻繁に出てくるということがあります。当然日本語の論文でもそれに対応して「定義する」という表現が頻出しているわけですが、どういう局面でそれが出てくるかといえば、要するに目に見える人や物の上下前後左右を決めることをdefineと言っているわけです。また上下などの方向、あるいは方向軸を決める場合もあります。一方で、ごく頻度は少ないですがassign「割り当てる」という用語も同じような局面でわずかに使われています。ただし使用頻度としては1/50くらいの差があるのではないでしょうか。日本語の論文でも対応して「割り当てる」とか「当てはめる」とかを使っている場合もあるようです。

ところでIttelson(1991)の論文で、有名な哲学者・心理学者のW. James(1890)が引用されているのですが、そこでJamesは、一個のキューブの前後上下左右を決めるのにLabelという用語を使っています。Jamesはそこでの考察として興味深いことに、「左右」は赤や青などの色のようなものであると述べています。これは感覚質、あるいは以前有名になった言葉で、クオリアですね。

ジェームズは、人間ではなく単なるキューブに上下前後左右のラベル付けすることを言っているわけですが、このlabel という表現は日常的な表現に近いといえます。例えば木彫の彫刻家が木のブロックで最初に上下前後左右を決めたりする場合、日本語では普通は「決める」とか「決定する」などと言うと思いますが、「割り当てる」というのも不自然ではないし、ジェームズのように「ラベル」付けするという言い方もあると思います。しかし日常的にはこういう場合「定義する」とはまず言わないし、英語でも、日常語としてdefineとはあまり言わないのではないでしょうか。また木のブロックなどではなく、人物の姿や人物以外でも上下前後左右を持つように見える物体の上下前後左右を判断する場合に「定義する」というのは不自然に思われるのではないでしょうか?

ここでシニフィアンとシニフィエを使って「定義する」と「割り当てる」を分析してみようと思います。 

端的に言って「定義する」という言葉は本来、未だに確定したシニフィアンを持たないシニフィエに、確定したシニフィアンを与える、ということではないでしょうか?要するに、科学の分野でも、科学ではなくても、まだ名前のない新しい概念に名前を付けるということです。特に例を挙げるのも面倒だし、必要もなく、お分かりいただけると思います。それに対して「割り当てる」は、すでに確定したシニフィアンとシニフィエのセットとしての言葉を特定の対象に当てはめること、ということだといえます。

彫刻家が木のブロックの方向を決める場合、 少なくとも普通の正面向きの人物立像である場合、人物の上下前後左右として「確定したシニフィアンとシニフィエのセット」を木のブロックに「割り当てる」ことになると思います。

とすれば、少なくとも正立した人間の場合、上下前後左右のシニフィアンとシニフィエのセットは最初から確定しているのであり、わざわざ定義などする必要はないはずです。ですから、正立した人物の姿に新たに上下前後左右を「定義する」というのも不自然です。しかし、確定しているからと言って、直ちに他人の上下前後左右を、少なくとも左右を認識できるかと言えばそうでもないでしょう。また横たわっている人物や倒立している人物にもこれらがすべて確定しているとは言えないように思われます。

そこで人物像の場合は一般的に表現するなら「定義する」よりも 「見つける」の方が、英語の場合はfindが最も適切な表現ではないかと思います。 さらに彫刻や映像作品ではよくあることですが向き合って抱擁したり、格闘したりといった集合的な人物の場合はどうでしょうか?こういう場合は観察者独自の判断によるしか定義のしようがないでしょう。芸術作品の場合は作者が決めることであるし、生け花や盆栽なども審美的に決まるものでしょう。そういう場合は「定義する」がふさわしいように思われるかもしれません。しかしこの場合は対象が人間ではあっても一人ではなく複数の人間であるし、芸術作品になればそれはなおさら別物であり、つまるところ彫刻素材の木のブロックに上下前後左右を割りてるのと同じことであり、すでに他の対象(すなわち一人の人間)で確定した(定義済みの)のシニフィアンとシニフィエのセットとが割り当てられたものと言えます。これは横たわっていたり倒立していたり、という正立していない一人の人間の場合にも言えることだと思います。

 では、その、正立している人間の上下前後左右は一体いつだれが定義したのでしょうか?これはもう、日本語として言語的に、あるいは辞書的に定義されているとしか言いようがありません(例えば人が北を向いた時の東が右)。言語的な直観とでもいえるようにも思われます。ではそのシニフィアンに対応するシニフィエは一体何でしょうか?それを考えるときに問題になるのは、そのシニフィエはいつでも常に上下前後左右というシニフィアンと対応しているとは言えないことです。これは前回の話題になったように、あるシニフィエは常に同じシニフィアンにくっついているとは限りません。前回は自分の視空間の立場で考察してみたわけですが、他人を見ている場合も仰向けに寝ている人を見れば、普通は顔やお腹の方を上と見るのではないでしょうか。横になったり、逆立ちしたりというだけではなく、よじったり、腰を曲げたりすることができるし、絶えず動き回り、位置と姿勢が変化しています。そういう問題を避けるために位置や姿勢とは関係のない頭部だけを取り出して考察してみることもできます。他方、あらゆる人間に共通する要素を取り出してみるとすればやはり正立して動きのない状態の人間で考察すべきかもしれません。ただ簡単のために、ここでは頭部で考察を進めてみたいと思います。

しかし、単純化のために頭部だけを取り出してみても、何が上下前後左右などの方向軸あるいは方向性の(究極の)シニフィエなのかということは、色と同様、結局はそれを指し示すことでしか表現できないわけですが、やはり色もいくつかの指標で表現されているのと同様、 何とか言語的に表現しない限り話になりません。結論を言ってしまえば、それが知覚空間であり、幾何学空間の等方性に対して異方的な性質を持つということになるのだと思います。しかしその結論に至るまでを説明しようとすると、それはちょっと一筋縄ではゆかないように思います。ですから知覚空間、視空間の性質から逆にたどって他人というか、具体的な人間の身体へと対応付けてゆく方法をとるのも一つの方法だと考えます。

単に形状などのイメージと考えれば彫刻や人形と同様、それは人間そのものの写しでしかないわけです。ただしそこには人間という存在の意味が込められているわけです。ですから、それらの方向軸は先に考えたとおり、「定義された」ものではなく(意味が)「割り当てられた」ものです。ですから少なくとも外的な形状そのものではないことは確かです。第一、外的な形状では、左右について方向が区別できません。しかし知覚空間と考えるならば、左右についてもはっきりとした違いがあります。左右を逆にした文字列が読みづらいことは上下を逆にした場合と同様です。視空間の全方向的異方性についてはこれで十分だと思います。


こうしてみると、具体的な個々の人間(の身体)の方向軸のシニフィエも他の物体やイメージと同様に「定義する」ものでも「定義された」ものでもなく、「割り当てる」ものであり、その割り当てられるオリジナルのシニフィアンとシニフィエのセットは、視空間のものであるということができます。

というわけで上下前後左右に相当する(常に上下前後左右という言葉で表現されるとは限らないものの)究極の、根源的なシニフィエは幾何学的な形状が持つものでも、物質的な身体のが持つものでもなく、視空間という知覚空間が持つ方向感覚が反映されたものと思われます。ではそれは何に由来するのかといえば視覚自体に由来するとは言えないと思います。それは身体感覚か、生理学や医学で言われる体性感覚などに由来するとしか考えられません。というのも、視覚を持たない人にも、目を閉じているときでもそのような感覚はあるからです。

視覚自体もそうですが、こういった知覚は主観的なもので、他人の知覚をそのまま認知することはできないものです。そこで、端的に言って、他人の姿、つまり像に自分を重ねて、擬人的に推定するしか比較しようが無いものです。この点で、高野陽太郎先生が鏡像問題の議論において鏡像を擬人化して左右を判断しているのは自然なことであり、そのこと自体は良いとしても、それで鏡像問題、鏡映反転の問題が解決したといわれてもねー?ということですね。そこから鏡像問題よりも視空間の問題へと広がれば良かったと思うのですが。全般に鏡像問題の論文で、少なくとも意識的に、「視空間」という用語を使用して考察を進めたものがなかったことも問題であると考えています。
(2018年4月26日 田中潤一)

2018年4月4日水曜日

(続続続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係

ここで一つの例を考えてみます。人が仰向けに寝ころんでまっ直ぐ正面を見ているとします。空を見ているにしろ、天井を見ているにしろ、たいていの人はこういう場合、上の方を見ていると意識するものです。ではこの場合、この人は自分の頭頂部の方向をどのように意識するのでしょうか?この人に尋ねてみると、やはり正立しているときと同様に「上」というでしょうか?これは表現力の問題にもつながりますが、もっと即物的に「頭頂部の方向」ということもできます。足元の方向も同様に、「下の方」というよりも「足元の方向」と表現することが正確でしょう。そうしてみると、仰向けになっている場合は「上の方」も「正面の方向」という方が正確で誤解を防げるように思われます。視空間で考えてみると、この人が正立しているときの視空間の前方が、この場合には上方になっているわけです。

こういう場合、この人が正立している場合の「前」のシニフィエは、知覚される重力方向による「上」 というシニフィアンに引っ張られてくっ付いてしまったようです。そうして、正立しているときの「上」のシニフィエは、別の言葉(シニフィアン)である「頭頂部の方向」に乗り換えてしまいました。同様に「下」のシニフィエであったものが、「足元の方」というシニフィアンに乗り換えてしまったことになります。もはや「前」と「後ろ」、そして「下」というシニフィアンは無用になってしまったようです。しかしこの人が仰向けになったままで本を見たり、スマホなり他のディスプレイなどで映像を見るとしましょう。再び正立しているときの「前」、「上」、「下」というシニフィアンが復活しそうです。

見方を変えてみると、上下・前後・左右の各シニフィアンには絶対的にひとつづつが1対1で対応するシニフィエというものは無いと考えた方がよさそうです。例えば英語では日本語の上下にそのまま対応できるような言葉はありません。「上」の場合、topがあてられることもありますが、aboveとかonとか、別の表現が求められる場合が多いですね。「後ろ」も少なくともbackとかrearの二とおりがあります。日本語でも、特に「上下」の場合は「天地」が使われる場合が多々あります。ところが面白いことに左右だけは日本語でも英語でも常に右と左、rightとleftなんですね。

では左右のシニフィアンが常に、絶対的に不動かといえばそうではないと思います。視空間の場合に限っても、上述のように仰向けではなく横になって、例えば右を上にして横になっている場合、正立しているときの視空間の「右」のシニフィエはやはり、仰向けの場合の前方と同様に「上」というシニフィアンに引っ張られて乗り換えることが多いのではないか思います。ただしこの場合は「右」というシニフィアンが残る場合も多いのではないでしょうか。両者のシニフィエが同時に共存しているのかもしれません。実験のテーマになるように思います。

上記は左右の特殊性というより、むしろ上下の特性に由来しているように思います。というのは重力方向の知覚には上下だけしかないからです。

実は、今回の稿は重力方向の知覚と視空間の上下の問題について考えていたことがきっかけだったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係で前回の続きのようにになってしまいました。

重力方向の知覚と鏡像問題の関係は興味深い問題ですが、しかし鏡像問題とくに鏡映反転の問題に限った場合、実際の現象に適用するにはあまりにも複雑になりすぎるように思われ、今の段階であまり追求しても仕方がないように思います。鏡像問題、特に鏡映反転の問題では視空間の上下前後左右ではなくむしろ対象となるイメージ、つまり像の上下前後左右が問題であり、この場合の上下前後左右は観察者が独自の基準で像に割り当てるものだからです。ただし完全に任意に割り当てることができるのではなく、2つの軸だけしか任意に割り当てることができないということです。これが多幡-奥田説の「左右軸の従属性」の本質であるように考えています。ただ今回のテーマは鏡像問題から離れていますのでこの問題についてはこれまでにしておきます。

視空間の問題に戻ると、視空間自体の方向性は上下前後左右という抽象的な、シニフィエが浮動しやすい方向性ではなく、身体の構造、外形に現れる構造あるいは機能に由来するものであることが明らかになってきたようです。

今後は基礎的な知覚あるいは感覚そのものの研究で、シニフィアンとシニフィエの視点による考察の展開が望まれるような気がします。実は少し前、先週ですが、次の研究をネットで見つけました。

『重力方向知覚における視覚刺激の過T向きと種類および身体の傾きの影響』根岸一平・金子寛彦・水科晴樹、東京工業大学大学院理工学研究科物理情報システム専攻 ― 光学 38, 5 (2009) 266-273
https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/38-05-kenkyuronbun.pdf。

十分に読んではいませんが、改めて重力方向の知覚について感覚器官との関係などを含めて興味深い知見を得ることができました。ただこの種の実験的研究で特徴的なことは常に角度などの数値的なデータをとることに重点が置かれていることです。ですから有名なI.Rockの研究と同様、身体を機械的に傾けるといった多少大掛かりな装置が用いられています。とにかく現在の科学では実験に基づく定量的な研究が主流であることを物語っているように思います。それに対してシニフィアン・シニフィエの視点による意味分析の方が、さらに本質的な問題に切り込んで行けるのではないかと思うものです。
(2018/04/05 田中潤一)

2018年3月8日木曜日

(続々)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

【今回の結論】 
  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2.  視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンとシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンとシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンとシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンとシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まで忘れていたのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ― 
こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。
(2018年3月8日 田中潤一)

2017年6月11日日曜日

前回記事『鏡像の意味論その22』の補足 ― 上下前後左右の適用と重ね合わせの比較は別のプロセス

【今回の要点】
  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。

というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。

さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。

たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。

この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。(6月13日追記)



ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。

以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。

2017年5月28日日曜日

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

【今回の要点】
  1. 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  2. これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  3. 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  4. 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。 
  5. 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、
道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。

 鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間
前回の記事で、鏡像認知のプロセスは他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセスは他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。

さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。

前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。

例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。

この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。

この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。

思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。

この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。
(2017年5月28日 田中潤一)

2015年12月29日火曜日

鏡像問題の意味と意義


鏡像問題はいまだに未解決であると か、定説がないとか言われる一方で、現に多くの説が存在し、少なくとも主張を続けているそれぞれの提唱者は、自説を取り下げない限り、自説こそが定説とな るべきか、定説に発展する基礎であると考えていることになる。また物理学者や数学者の中にはあえて問題にするほどのことでもないと考えている人も多いのではないだろうか。こういう状況下では新しい理論が提唱されたところで、その理論がどうであれ、現在の状況が変わることは難 しいのではないかという見方もできそうである。問題自体の重要性、意義についても様々な態度があるように思われる。

しかしながら、鏡像問題が追求するものそれ自体は、 一つの認知現象について、なぜそうなるのかという一つの説明に過ぎないといえるにしても、原因または理由が謎とみなされる限り、謎の中には未知の可能性があり、どのように多様な意味や重要な意義のある発見がもたらされるかわからないという期待も持てるのである。
 
どのような分野であれ、現在、定説あるいは正解とみなされている重要で価値の高い科学理論の多くに共通する要素は、そのもたらす意味範囲の広さと意義深さであり、知的または技術的生産性の大きさともいえるのではないだろうか。つまり、その理論からさらに多くの有意義な理論や証明が展開されたり、実用的、技術的な応用が可能になったりしているものだと思う。ニュートン力学にしても量子力学にしてもそのような観点から普遍的な理論として認められているのであろう。それは同時に体系的であるともいえる。

新しい理論が有意義であるとすれば、その理論自体がさらに大きく発展する可能性を秘めている場合もあるであろうし、既存の大きな体系に有意義に組み入れられ、その体系をより豊かにし、価値を高める場合もあるだろう。あるいはその両方の要素を持つ場合もあるかもしれない。そのような理論の多くはおそらく着想された当初から直感的に面白く思われ、興味深く感じられ、人を引き付けるのではないだろうか。

従来理論の不備や誤りを見つけること、さらに指摘された不備や誤りが従来理論の提唱者自身を含めて広く学界や一般から受け入れられるには様々な面で障害がある。そのような努力はもちろん、従来理論の有意義な部分を理解し、正当に評価することと共に、欠かせないことではある。しかし過剰にそのようなことに労力を費やすことは必ずしも効率的であるとは思えない。まずは金鉱石から金を取り出すことである。金以外に貴重なもの、可能的なものが含まれている場合があるにしてもそれらを選別することは後からでもできる。

逆に従来理論の不備と誤りを見つけることから考察を開始し、新しい解決を見出そうという行き方ではなかなか新しく有意義な発見に至ることは難しいのではないかと思う。ことに鏡像問題は数学の分野でよくあるように具体的に明確な形で与えられた問題を解くのではなく、問題自体が多面的にさまざまな表現で定式化されている。そのため、具体的に提起された一つの表現にしてもかなり多義的な解釈が可能な場合が多いのである。

仮に同じ程度の説得力しか持たない二つの理論があった場合、形式的な表現よりもそのもたらす意味の広汎さや意義深さを評価すべきではないかと思う。


私が鏡像問題にここまで関わることになった最初のきっかけは2007年末のウェブ新聞の科学欄記事であった。その記事では鏡像問題そのものよりもむしろそれが論争中であるということに焦点が当てられていたように記憶している。私自身は、その時、別に論争に参加したいと思ったわけではなかった。そういうことには縁がないと思っていた。ただ改めて鏡映反転の問題に興味を呼び起こされたのである。

一方、当時は偶然にも私が哲学者カッシーラーの著作(『シンボル形式の哲学』)を読み始めた頃だった。2008年から2009年にかけて遅々としながら日々、慣れない哲学書を覗き込むような気持で読み続けていた。

私が自ら鏡像問題に独自に取り込むことができるのではと考え始めたのはこの読書がきっかけである。具体的にはこの書の第二巻で鏡像問題に強力な光を当てることになると思われる記述に遭遇したのである。最初はこのブログや別のブログ記事でそれを示唆することで専門の研究者の目に留まればよいと思っていた程度だったが、そのうちに欲が出て自分自身で鏡像問題を体系化してみたいと思うようになった。それは私欲でもあったが、一方で義務であるとさえ思われたのである。

それが幾何学空間の等方性と知覚空間の異方性という異なった認知空間による説明である。『シンボル形式の哲学』では鏡像問題が扱われていたわけではなく、その個所のテーマも知覚空間そのものではなく「神話空間」であり、またマッハからの引用を元にした議論であったが、その個所をに行き当たり、読み進んだ時点で、すでにそれが鏡像問題の解答そのものであると思われたほどである。そして、ここに至って、改めて鏡像問題の重要性、奥深さについて認識を新たにさせられたともいえる。

私自身は昔、大学時代前後の頃だと思うが、いま鏡映反転と言われている現象について考えたことは記憶していた。そのときには一応解決に至ったと思い、それ以上は考えなかった。いま思い起こしてみると、その時考えたことは、鏡像とはつまるところ、こちら側の裏返しなのだ、という認識だったように記憶している。

その後30年以上も経過し、今回のように心理学や物理学の専門家によって重要な問題として議論されていることを初めて知った次第で、あらためて興味をかきたてられたのだが、個人的には学問的分野で研究職についているわけでもなく発表の場を持つわけでもなかったこともあり、ブログ記事で、例えば縦書きと横書きと認知機能との関係など、関連する事柄について気の付いたことを発表していた程度だった。

日本で行われていたその議論というのは、具体的には日本認知科学会で行われてきた討論会や誌上討論形式の論文集などになるわけで、鏡像問題のように実用性や技術的な目的からは程遠い問題に対する関心を失うことなく持ち続け、このような取り組みを続けてこられた学会と先生方の持続的な取り組みには極めて大きな意義があり、個人的にも敬意を抱いている。

それらが集約されたのが、日本認知学会学会誌の論文集『小特集―鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見えるのはなぜか?』に掲載された諸々の論文、掲載順に小亀淳先生、高野陽太郎先生、多幡達夫先生の諸論文であったのだろう。個人的には、この論文集の著者のお一方が私にこの議論を紹介してくださり、さらに議論の中に案内してくださることになった。その結果、具体的には昨年、学会にテクニカルレポートを提出できたことである。そのような幸運を享受できたことは誠に有難いことであったと考えている。

現在の科学は過度に技術志向的であるとか技術偏重であるとか批判されっる場合があり、私もそれに同感する考えを持っている。一方でゲーテが早くから指摘してきたように数学偏重と言う批判もあるように思える。これは形式偏重、形式主義的であるともいえ、つまるところ形式論理偏重ということになるのではないだろうか。その結果として意味あるいは概念そのものの分析、探求がおろそかになり、空虚な形式的な表現のみが物を言うようになる。

 鏡像問題はこのような現状の中で真に人間的で有意義で楽しい科学を取り戻すためのまたとないテーマではないか、と思えるのである。そこからは、自然科学と人文科学に共通する根底ともいえる意味論と認識論が見え始めてくるように思われるのである。



2013年1月17日木曜日

一行の一覧性は横書きが優れるが、ページの一覧性は縦書きの方が優れている ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その6

前回同様、「縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題」の補足記事です。以前、一覧性においては横書きが優れているのではないかと書きましたが、その若干の修正になると思います。


このシリーズの最初の記事で述べたことですが、縦書きが読み取りの確実性、正確性の点で優れるのに対して横書きは一覧性と速読性において優れる面があると思われます。しかし一覧性について言えば、これは一行の読み取りに関することであって、ページ全体の一覧性について言えば、縦書きの方が優れているように思われます。これは一般的に言って縦方向よりも横方向の一覧性が優れているとすれば当然のことともいえますが、これはこれではっきりと指摘しておく必要があるものと思います。

一般に縦方向の一覧性よりも横方向の一覧性が優れていること自体は映画やテレビ、PCディスプレイの殆どが横長であることからも明らかで、殆ど自明のことであると言えるかもしれません。絵画の額縁や写真の場合も殆どが横長です。イメージでは文章よりも一覧性が要求されますから、これは当然のことでしょう。一方、文章の場合、書物の見開きではたいてい横長になりますが、1枚のシートでは、現在では縦長が標準のようです。しかし日本のような縦書き文化圏では伝統的にどうだったのでしょうか。縦書きと横書きの問題を考察する場合はこういう視点も必要になってくると思われます。


近いところで、今でも使われている原稿用紙は中央で二分され袋とじに対応し、袋とじにすると縦長にはなりますが、基本的に横長と言えます。他方、横書き用の原稿用紙は縦長で、袋とじには対応できない形式になっています。


書籍でも、大型の書籍や字の小さな雑誌では殆どの場合は数段の段組みになっています。横書きの場合ももちろん縦の段組みになる場合があるわけですが、データは確認していませんが、個人的な印象では、日本語の縦書きは英語の場合に比べて段組みになる場合が多いように思われます。新聞や雑誌のように縦の長さが短く、かなり極端な横長ページになると、縦の、一行あたりの一覧性も横書きにそれほど劣ることがなくなるうえ、横方向の(ページ)一覧性が加わり、横書きに比べて優れたページ全体の一覧性が得られるような気がします。


総合的な一覧性は、一概に言えないにしても、しいて言えば、縦書きの方が優れているのではないでしょうか。ページ全体の一覧性は一行の一覧性よりもメリットが大きいのではないかと思われるからです。もちろん、英文や数式の併記への対応を考慮すればそうも言っておられなくなってしまいますが。

2012年10月14日日曜日

横書きの漢字熟語は、明朝系のフォントがゴシック系よりも読みやすい ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その5

このタイトルの記事は「その4」で「まとめ」としていったん終了していますが、その後ちょっと気の付いた断片的一事例です。

気の付いたことというのは、横書き表示される日本語フォントでは、漢字の場合、縦横ともに単純な棒状の線で構成されるゴシック系のフォントよりも、横線の右側に上向きの三角(ウロコと呼ばれるそうですが)のついた明朝系の方が読みやすいのではないか、ということです。少なくとも個人的にはインターネット記事を見ているときなど、それを感じます。

これはこの三角形、うろこが必ず右側にあるために、左から右に向かう動きという方向性が感じられるためと考えられます。明朝体というのは「楷書の諸要素を単純化したものが定着している」そうですが、楷書の筆順では横線の場合、筆を左から右に向かって引くためにその動きが横線の形に表現されています。

前回までの記事で述べてきたように、左右の感覚は基本的に上下のような絶対的な方向性を持たないために、文字の横書きでは一定の規則や習慣によって左から右への方向が定められているわけですが、この横線の形態に現れた心理的な方向性によって、規則で定められた方向性が強化されているといえます。

さらに言えば、漢字の場合、横線の筆順、左から右への筆順は右利きに由来すると考えれば、この現象も人間の右利きに由来するといえるかもしれません。また横線のウロコに限らず、全体としての線の抑揚も筆順に由来するものであるため、抑揚が強いフォントの方が横書きに向いているように思われます。


◆ただし、読みやすさというのは単に横書きの場合の方向性だけではないので、上記のことは単に一つの要素にすぎないといえます。一つ一つの文字の読みやすさやその他の要素に比べてどれ程の比重を持つかについてはこれだけで何とも言えないものがあるように思います。









2011年2月1日火曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ)

はじめに ― 前回の記事では筆者が何を言いたいのかがよく分からない・・、どこに新しい主張や発見があるのか分からないという感想がありましたので、今回はまずそこのところから始めたいと思います。

【何が言いたいのか】
何を言いたいのか?一言でいって量より質、量的な問題よりも質的な問題に注目すべきであるということに尽きます。
単に眼球運動の速さ、あるいは読みの速さや視野の広さといった数量的な比較ではなく、文章の理解の質にまで及ぶような、また優劣という比較ではない、個性の質的比較を問題にしたいということです。単に眼球運動の速さというのでは読みの速さですらありません。また、読みの速さを測定できたところで、読みの質の問題、理解度とか、間違いの無さ、また集中度などにまで及ばなければ優劣の比較に至ることはできないのではないでしょうか。

『横書き登場』(屋名池誠著、岩波新書)について
この連載の初回以来、この本を叩き台のようにさせていただいていますが、それは、この本が当時までの日本における横書きに関する情報の集成であると想定し、断片的な情報を除いては、この本一冊を参考に基に考察していますので、これは一面、筆者の怠慢に違いありません。しかし著者の屋名池教授ご自身が、「本書は初めて本格的に日本語書字方向の研究をこころみたものである」と書かれています。おそらく教授ご自身が ― 言葉の響きは良くないかも知れませんが ― 叩き台とされることを前提にされているのではないかと推察します。また、ツイッターなどのネット情報を見ても、印刷出版IT関係者の発言などを見ても今のところ、この本以上の情報には遭遇できていないように思います。
このように、この本では縦書きと横書きの厳密な定義に始まり、縦書きとは異なった横書きの性格とそれに起因する右横書きと左横書きとの競合について歴史的に詳しく調査され、さらに日本語における縦書きと横書きの質的な違いに及んでいると思います。そこで、縦書きと横書きの定義と質的な相違に関わる議論で、ゲシュタルトの概念が用いられていることは重要であると考えられます。

それにも関わらず、最終的には縦書き文と横書き文の読みの比較を眼球運動や視野の広さとの量的な優劣の比較で終わらせていることがもったいないと思うのです。結論的に、縦と横では眼球運動にも視野の広さにも大きな差はないという事から、縦書きと横書きに優劣は無いという結果に至っている訳ですが、それなら、わずかでも視野の広い横書きの方が良いではないかという結論に達しても不合理ではないということになりかねません。また数字や英文との混在の問題や、フォーマットの容易さという観点から、横書きに統一されてしまっても文句は言えないことになってしまします。

【縦と横の質的な違い】
縦書きと横書きの質的な違いは結局のところ縦、すなわち上下と横、すなわち左右という2つの方向性の質的な違いに帰着します。三次元の座標に対応させれば縦と横と前後の3つになり、x、y、z、の3つの軸の2つに対応しているわけですが、数学的な座標軸ではこの3つの軸に質的な差はありません。それが、上下や左右や前後といった概念になると質的な差が出て来ます。何度か引用したカッシーラーの著書からの引用はこのことを述べているように思われます。もう一度引用してみます。

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

この書物の第二巻、第二章のセクション1で、この知覚空間について論じられていますが、ここでいう視空間蝕空間は、著者によると知覚空間のことを指しています。もう少し前のセクションの書き出し近くから引用すると、「知覚空間、すなわち視空間や蝕空間と、純粋数学でいう空間とがけっして一致しないどころか、この二つのあいだには一貫した齟齬があるということはよく知られていよう。」という文章で始まり、幾何学的空間が「等質的」であるのに対して、「知覚空間には位置と方向の厳密な同等性などなく、一つひとつの位置がその固有の性質と固有の価値をもっている。」と続き、先の引用箇所に続いています。この箇所を引用する方が適切であったかも分かりません。この、一つひとつの位置が固有の性質と価値をもつということは当然、縦と横、あるいは前と後という方向それぞれについても固有の質的な違いがあるということになります。この書物のこの章、この箇所の記述は上と下、右と左、そして前と後の性質に関わる諸々を考察する際の基本的な出発点になるのではないでしょうか。

【どこに新しい主張があるか】
次に、「どこに新しい主張や発見があるのか」ということですが、それはこの連載の初回で述べていることで、それは初回のタイトルのとおりなのですが、一言で言って、縦書きと横書きの差異の問題と鏡像問題との関連性、あるいは共通性を指摘した点にあると考えています。どこに共通部分があるのかというと、それは先に述べた上下と左右、および前後という3つの方向の質的な差異が係わっているという点にあります。縦書き横書き問題ではさしあたって上下と左右の2方向だけで議論しているのに対して、鏡像問題の場合は三次元的3方向の軸について議論しなければならないわけですが、基本は同じです。前回にはたまたまその時に思い浮かんだことなのですが、地球の緯度と経度の問題を取り上げました。このように、この問題は鏡像の問題に限らず、日常、非日常のあらゆるところに潜んでいるように思われます。こういった問題はいろいろなところで、これまでにも哲学者や心理学者、あるいは美学者など、或いはそういう分野やジャンルに関わらず、取り上げられているかもしれません、というより、取り上げられ、考察されていないということは殆どあり得ないといってもいいかもしれません。ただし、縦書きと横書きの問題と鏡像問題の共通性という視点はおそらく初めてではないかと想像しています。

『横書き登場』における示唆的な指摘
ただ、『横書き登場』には鏡像問題への言及はありませんが、かなり示唆的な箇所があります。それは第1章で縦書きと横書きの厳密な定義がされている箇所です。ここで「横書き・縦書き」は文字と画面との関係ではなく、列びあう単字同士の関係なのである」という定義があり、その根拠として、単字すなわち単独の文字自体に方向性があることが指摘されています。これは、一つ一つの文字自体が上下左右を持つというように言い換えられると思うのですが、この本には、「しかし普通、単字には『この向きから見る』という一定の方向性がある」、と書かれています。「この向きから見る」ということは見る人の向きのことになりますが、結局見る人の向きと文字自体の向きとの関係ということになり、文字を裏側から見たりすることも含まれ、三次元的な方向性を指していることになり、鏡像問題で議論されている問題に非常に近い問題であることが分かります。ただしここでは、縦書きと横書きの定義で用いられているのであって、縦書きと横書きの性質、機能性、あるいは優劣等に関わる問題として言及されているわけではありません。しかしまた、同じ章に「重力のもとで暮らしているわれわれにとっては抵抗感の多い『上←下』という方向」、という既述があります。ここでは、縦書きの性質を検討する上で、この種の議論が用いられています。というのも、この、下から上に向かう方向の抵抗感が重力の方向に起因しているという考え方は、それが正解かどうかは別として、鏡像問題にも出てくる議論であるからです。要するに人間の持つ上下感覚の原因を論議していることで、鏡像問題と共通する部分があることがわかります。

以上、今回のシリーズで筆者が何を言いたかったのか、そしてどこに新しい主張や発見があると考えているかについて述べました。以下は前回に引き続いての、欧文や和文における具体的な考察です。

前回は数式が横書きに適している理由まで考察しました。以下にそれ以後の問題を順に検討してゆきたいと思います。

【欧文と横書きの親和性が高いはなぜかという問題】 
欧文は縦書きが事実上、実用が不可能であること、つまり縦書きにしても読めないか、横書きに比べて著しく読みづらいということは、殆ど自明のことですが、何故そうなのかという理由についても概念的には一般に了解されていると思われます。『横書き登場』の第7章には「横転縦書き」と横書きについて解説があり、欧文の場合は縦書きにすると横転横書きにならざるを得ないということから、欧文では縦書きが難しいということの説明に言及されていますので引用してみます。

「ラテン文字のように一字一字が音素(母音や子音のひとつひとつに相当する単位)という小さな単位に対応する音素文字では、一語をあらわすのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、語をあらわす文字列をひとつのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字体系では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、ゲシュタルトがくずれて、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。一方、日本語では長大なゲシュタルトは必要ないので、文字列全体を回転させる必要性が乏しかったわけである。」

ここで、「何故欧文は縦書きでは読めないのか」という設問とは独立して「何故欧文は横書きとの親和性が高いのか」という設問を立てることができると思います。これについても、『横書き登場』における前記の引用との関連で一応その説明にはなっていると思われますが、ただ、縦読みと横読みの眼球運動や注意点の移行といった読み手の視覚の動的なメカニズムとの関連で具体的に説明されるには至っていないと言えます。そこで読み手の視覚の動的なメカニズムが縦と横とで、どのよう違いがあるかを知る必要が出てきます。

繰り返しになりますが、前回、視線と注視点の動きについて次のような仮説を立ててみました。

1) 書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2) 横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的に歴然とした差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に定まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2) 横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合であっても、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3) 横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

2-1) から2-3)までは横書きに関わります。これらの特徴が欧文の特徴によく適合することはすぐに気付かれるのではないでしょうか。その欧文の特徴とは、スペースで区切られる単語で構成され、単位となる単語は横方向に変化する長さを持ち、したがって1文字か2文字の単語の一部以外は横長です。したがって、基本的に横長のゲシュタルト単位(こういう言い方があるかどうか分かりませんが)が横に並んでいることになります。こういう場合、視点あるいは注目点、(両方の意味を込めて注視点と呼びます)が連続的に、一様に流れて行くよりもゲシュタルト単位毎に飛び飛びに動く方が都合が良いのでは無いでしょうか。これは右仮説による注視点の横向きの動きにぴったりと当てはまります。もちろん、綴りの長い単語では1つのまとまりとして読むのは難しいので連続的に視点を追ってゆくことになりますが、とかく欧文では綴りの読み間違いや記憶違いが発生しやすいものです。漢字の場合、画数の多い文字は正確に記憶するのが難しいのと同様ですが、漢字の場合は書くことはできなくても読めることは多いものです。英語の場合、結構綴りの誤読も発生しやすいように思います。こういう欠点はあっても、英語の場合はこういう現在の横書きによる特徴が横向きの眼球運動と注視点の横の動きに適していることは確かです。

ここで現在の問題をわかりやすく整理するためにひとつ定義の追加ないし区別をしたいと思います。

◆縦書き::縦に筆記すること
◆縦読み::縦に読むこと
◆横書き::横に筆記すること
◆横読み::横に読むこと

一言で言って現在の横書きの欧文は、横読みの際の注視点の移動の仕方、性質に適しているといえます。

ここで歴史的になぜ欧文が横書きとして発達してきたかが気になるところですが、歴史的なこととは別に、英語についていえば、英文の構造や閉音節の発音が単語単位で区切れのある横書き構造に適していることは確かであるし、とくにそのリズム感は横読みの際の注視点のリズミカルな動きに調和する面があるのも事実ではないかと思います。

【日本語の場合】
日本語の場合は現行で縦書きと横書きの両方が存在していますが、それは当然、縦横いずれにも書くことと読むことが可能であるから、ということは明白です。その理由については、「横書き登場」などでもすでに説明されていると思います。それは基本的に正方形の文字が句切れなく続くという点で、基本的に縦横が同じサイズの、いわばゲシュタルト単位が単調に連なってゆくという点では縦書きと横書きとで違いがありません。

一方、縦書きまたは横書きとして表現される以前の、発音した際に感じられる日本語自体の性質として、単語による句切れが無く、句読点による休止以外はなだらかに連続してゆきます。特にはっきりとしたリズム感もありません。この性質が、縦読みの自然に流れる連続した、なだらかな注視点の動きにかなっています。横書きの場合は、横読みの際に起こりがちな注視点のスポット的にステップを踏むような移動が邪魔になると言えます。

それでも習慣づけられることによって横書きの横読みは可能で十分実用になり、読みの速さにおいても特別問題になることはなく、場合によっては縦書きよりも早く読める場合もあるかも知れません。ただし、読みの質というものを考える必要があります。英語でも綴りの読み間違いはよくあることで、書き間違いも結局は書き間違いに気付かないという事すから、読み間違いと同じことになります。

【さらに考察すべき種々の問題】
最後に、当然ですが、さらに考察すべき様々な問題があると思われます。中文やハングルについては筆者が中国語や朝鮮語知らないためもあり、今回はこれ以上考察は避けたいと思いますが、中でも次のような問題を検討することは和文と欧文、また和文と中文や韓文等の比較の上で重要であるものと考えます。

◆欧文の場合、文字のデザインを変えるなどして現在の横書きにおける特徴をそのまま縦書きに移すことが可能とすれば、縦書きの方が有利になるかどうか。 ― これまでの仮説と推論から推定すると、縦読みの自然さから綴りの読み間違いなどは減少する筈ですが、一方、長い単語の一覧性(ゲシュタルト性)は低下する可能性も考えられます。

◆和文における漢字やカタカナの混在する状態は、欧文における、スペースで単語が区切られる状態と同一の効果を持っているか、或いは異なるものであるかどうか。 ― 和文における漢字やカタカナの混在は縦書きと横書きとを問わず、読みやすさに寄与していることは明らかです。

◆和文における分節の分かち書きが持つ意味と、欧文におけるスペースで単語を区切ることが持つ意味の比較。分かち書きが縦書きと横書きそれぞれに関して持つ意味と漢字混在が縦書きと横書きにおいて持つ意味の違い。

【まとめ】
ここまで来て、これまでの考察を簡明に定式化する表現方法を見出すことができたようにと思います。次の2項目による定式化です。

◆次の2項目に定式化が可能。
① 縦横比が1に近い(円や正方形)の比較的小さいゲシュタルト単位、或いは縦横比が不定の比較的小さいゲシュタルト単位が一様に連なるような文字列の場合は縦書きの方がより正確に漏れなく読みとることが可能になる。

② 縦横比の長い、すなわち縦か横の何れかに細長く伸びた複合的な(ただし長さは必ずしも一定ではない)ゲシュタルト単位(英単語など)が連なる文字列の場合は、横書きの方が効率的に読みとることが可能になる。

ただし、欧文、和文を含めてすべての文には①と②両方の要素が含まれます。例えば英単語は横長のゲシュタルト単位といえるので、英単語に注目すれば英語は②になりますが、一つの英単語は一つ一つの文字の連なりであり①に該当すると言えます。和文ではもちろん全体として①に該当しますが、短い漢字の熟語など、②の要素も無視できないでしょう。①と②のそれぞれの作用の仕方は非常に複雑なものになると思われます。


【最後に】
今回の一連の考察は言語学などの専門的な用語や概念を踏まえたものになっていないかも知れません。また歴史的な調査やデータの統計的な解析、あるいは実験的な検証などは行っておらず、推論に終始しています。しかし、この推論で得られた考察を念頭に置いた上で、以下のような項目について縦書きと横書きとを比較してみることで、改めて縦書きと横書きの差が意識されてくるのではないかと思われます。

◆眼の疲れ具合に差はないかどうか。
◆読み間違いの頻度に差はないかどうか。
◆読んだ内容の記憶の強度(記憶に残る程度)に差はないかどうか。
◆理解の速度と注視点の動きとのあいだで調和がとれているかどうか、視点の動きが先走るようなことはないだろうか。
◆一字一句を漏らさず読めているだろうか。
◆読んだ後の充足感に違いは無いだろうか。

筆者自身、これらのことに気付いてから書物の縦書きを読む際と、PCソフトで作業する時やウェブサイトの横書きを読む際に縦横の違いに注意するようになり、個人的には今回の考察がかなり検証されているように考えています。可能な場合は縦横変換できるテキストエディターで作業もしていますが、縦書きで入力すると、横書きの場合に比べて誤変換に気がつきやすいように思います。横書きでの作業に比べて誤変換を見逃すことが少ない印象です。また句点の打ち方も自然に、読みやすいように打てるように思います。あるいは、不必要な句点が少なくなるような気がします。さらに文章自体の作成にも影響を及ぼす可能性もないとは言えない気がします。

以上。

付記
鏡像問題に付いては http://d.hatena.ne.jp/quarta/ に幾つかの記事を書いています。

鏡像問題を扱った認知科学学会誌の論文が下記からダウンロードできます。
以下、多幡大阪府立大学名誉教授のツイートからコピー
「tttabata 小特集-鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か? JCSS Vol. 15, No. 3 (2008). 小亀、多幡、高野の各説、相互批判、批判への回答、の各論文が無料ダウンロードできます。 http://bit.ly/eeGxWO」

(2011年2月1日 田中潤一)

2011年2月13日追記
参考文献としてもう1件、ツイッターより多幡名誉教授のツイートを転載させて頂きます。
ウエブから消失していたブログ記事 「鏡の世界」 http://bit.ly/hmICZq 「鏡の世界:解答編」 http://bit.ly/dEWmZE を復活。解答編のコメント欄で、左右の定義、その概念の性質などについて、哲学の先生と有意義な議論をしていた。 @yakuruma


2010年12月17日金曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。

ゲシュタルトの概念導入の必要性

前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。


これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。

「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―

このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。

さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。

しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。

マッハとカッシーラーによる次の引用文

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。

例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題

例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。

そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。

上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること

書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。


1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)

これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。


数式が横書きに適していること。

これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。

今回、以上。

2010年11月1日月曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その2 ― 両眼視差の問題

はじめに、鏡像問題に関する新しい記事を「ブログ発見の発見」の方に書きました。関連しますので、最初にリンクしておきます:鏡像問題と「虚像問題」http://d.hatena.ne.jp/quarta/20101030#1288457496 こちらの記事は、大阪府立大学名誉教授の多幡先生から贈呈いただきました論文集にちなんでこの問題を再考したものです。

さて、縦書きと横書きの機能性と鏡像問題との関連についての、前回よりの続きです。

前回、生物、この場合は人間の感覚、特に視覚にとって前後、縦方向と横方向の質的な違いで、縦書きと横書きに関して以下のような事柄が説明できる可能性について言及しました。
1)  アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
2)  数式が横書きに適していること。
3)  漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
4)  横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
5)  漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
6)  縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
7)  横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

これらの事柄は大体すべてが現在実際に実行されている事ばかりです。そして何となく直感的に納得できるような事が多いようにも思われますが、しかし、問題なく納得できるのは上の3つまででしょう。その三つ目、中国語、ハングル、日本語は現在縦書きと横書きが併存しているというのはもちろん、現状で実行されていることですが、歴史的には日本語や中国語の横書きは外国語の影響が入るまではなかった事、そして今後はすべて横書きに統一されるであろうと予測する人や動きもあることから、このあたりの問題には自明でもなく、可成り微妙な議論の余地があることが分かります。その意味でこのあたりの事情を理論的に明らかにしておくことは重要であると考えます。

上の二つの項目について、英語など、 なぜ横書きが自然なのか、数式もなぜ横書きが自然なのかということは自明であるだけに何故そうなのか、と理論的に説明されることはあまり無かったように思われます。数式が横書きに適していることなど、誰でも直感的に分かることですが、何故そうなのか?という事の説明は、少なくとも私は聞いたことがありません。前回参考にした「横書き登場」にも何故そうなのか?という理論的な説明は見出されなかったように思います。

一方、鏡像問題の方は、「なぜ鏡像の左右が逆転するのか?」という設問で古くから議論が行われてきたそうです。この問題をブログ「発見の発見」http://d.hatena.ne.jp/quarta/ で取り上げたきっかけになった毎日新聞の記事の冒頭は次の様に始まっています。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたと言われるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。」
何故、「何故鏡像の左右が逆転するのか?」という疑問が古くから議論の対象とされてきたのに対して「何故アルファベットで記述する言語は横書きなのか?」とか「何故数式は横書きなのか?」といった疑問は古くから議論される事はなかったのでしょうか。たぶんこれはヨーロッパのアルファベットで記述する言語にとって、自然にそうなったまでであり、理由など考えるまでも無かったのではないでしょうか。しかし本来縦書きであった日本語にとって横書きも可能であることがわかった現在、この種の理論的な説明が求められるようになってもおかしくないように思います。

もう一つの理由として、鏡像問題の場合は光の反射という、物理的な現象を含んでいるということもあると思われます。光線の反射の問題が関わっていることが明らかであり、それを検討した上でなお解明されない部分が残るということに気付くことから物理的現象と心理的現象との関わり合いについて議論が展開されてきたようです。

前回はその、鏡像問題から物理的な部分を差し引いた心理的な、あるいは認知的な要素が縦書きと横書きの機能性にも関わっている事を述べ、具体的に今回冒頭に掲げた各項目について説明する予定を述べた次第ですが、その前に、この縦書きと横書き問題にも、構造問題とは別な、何らかの物理的ないし生理的要素が関わっていることが明らかですので、今回はそのことについて検討して見たいと思います。

その物理的ないし生理的要素というのは、既述の屋名池誠著「横書き登場」にも取り上げられていましたが、眼球運動の問題、それから両眼が横向きに並んでいることの影響はどうかという事になるでしょう。この問題に付いては「横書き登場」における記述次の様に至って簡潔にまとめられています。
「<眼球運動> 上下左右で差はない」
「<両眼の視力分布> 横書きでも片眼の視野で十分なので横書き有利と言う事はない・・」
「<文字を見分ける視野> やや横書き(有利?)」

このなかで眼球運動については「上下左右で差はない」とだけ書かれているのですが、この比較のしかたはあまりにも単純ではないでしょうか?というのは、上下の動きと左右の動きは単純に早さを比較できるようなものではないと思われるからです。それは、両眼には視差というものがあります。この比較で気になるのは、左右の一つ一つの眼について縦横の動きを比較したのでしょうか、それとも両眼で比較したのでしょうか。それが気になります。両眼で比較する場合、その場合左右の視差、眼球運動に関しては輻輳角度というものがあります。上下運動の場合は左右の輻輳角度は同一に保たれたまま上下に眼球運動が行われますが、左右の運動の場合は、動きは左右で対称ではありません。下に簡単な図を書いてみました。




片眼の場合は簡単ですが、両眼をAからBまで動かす場合と、CからDまで動かす場合では単純に速さを比較するだけで良いものでしょうか?正確さというものが問題になってくることはないでしょうか。また眼や脳にストレスがかかるという事はないでしょうか?横の動きの場合、英語と日本語ではどちらに向いているでしょうか?

仮に両眼の視点を常に一致させながら眼球を動かさなければならないとすると、横に動かす場合は縦に動かす場合に比べて相当にストレスがかかるのではないかと思われます。必ずしも正確に一致させながら動かす必要は無いかも知れませんが、そういう場合には英語と日本語ではどちらに有利に作用するでしょうか。

前記7項目の各論に移る前に、以上のような視差の問題を提起しておきたいと思います。

2010年10月11日月曜日

縦書きおよび横書きの機能性の差異と鏡像問題

以前から、文の縦書きと横書きについて考えていたことをまとめてみたいと思っていたのですが、この問題に付いて特に専門的な研究や発言をフォローしてきたわけではないので、一般的な現状認識がどのようなものであるのかを知りたいと思い、手頃な参考書として次のの本を見つけて一読してみました。横書き登場』、屋名池誠著、岩波新書

膨大な資料を網羅してまとめられたこの本によって日本における縦書きと横書きの歴史的な推移についてはほぼ見通せるようになっていると思います。ただ、縦書きと横書きそれぞれの機能性については、「結局、縦書き、横書きには殆ど優劣の差はないといえよう。」と結論づけられているように、「優劣」という観点で包括的に捉えられ、縦書きと横書きそれぞれの持つ機能的な個性、特質については掘り下げられることが少ないように思われました。個々の問題に付いての優劣の比較はともかく、何事も最終的に「優劣」の比較で結論づけるという行き方には問題があるように思います。総合評価としての抽象的な優劣の比較は、よほど大きな差が無い限り行ってはならない事だと思います。優劣はすべてケースバイケースで具体的に判断すべきものと思います。ただ、この本の場合は「優劣はない」という結論になっていることは救いだと思います。


優劣という評価を離れた、縦書きと横書きそれぞれの特質という面で、この本の中で最も興味深く思われた箇所は、日本の江戸末期に本格的な横書きが登場するようになってから左横書きが定着するまでの期間に生じた右横書きと左横書きとのせめぎ合いについて考察された部分です。このことの前提としてまず、縦書きの場合は実用上、上から下に向けて読み書きする以外にあり得ないのに対し、横書きの場合は右から左に読み進む右横書きも左から右に読み進む左横書きのいずれも可能だという事実があり、このことはこの本でも論じられています。この事実こそが、縦書きと横書きそれぞれの最大の特質につながることなのであり、さらに深く掘り下げることが必要なのです。

横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来している。

1つの結論から言って、横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、有名な鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来していると言って差し支えありません。

鏡像問題について

鏡像問題という言葉がどういった種類の言葉であるのか、どういった分野あるいは学会または業界でどのように定義されて通用しているのか、よく分かりませんが、過去に新聞の科学欄にこの話題が掲載され、鏡像問題というテーマの下に心理学と物理学の研究者による研究が現在に至るまで発表され続け、専門の学術誌もあると言う事を知りました。それまで心理学方面で鏡像認識という術語があることは知っていました。これは人間や動物が鏡像を見て自分自身の姿であると認識できるかどうかという問題のようですが、鏡像問題の方は鏡像では現実と左右が逆転して見えるのは何故か、という問題のようです。しかし、鏡像認識の問題も鏡像問題に含まれることもあるようで、この場合は広義の鏡像問題とされ、左右が逆転して見える問題は狭義の鏡像問題とされるようなので、とりあえず虚像問題は鏡像の左右が逆転して見えるのは何故かという問題とみなして良さそうです。この問題に付いて、上記の新聞記事、ネット版毎日新聞の記事に触発され、この問題に付いて当時以前に考えたことや、当時改めて考えたことをブログに書いて公開しました。このブログ記事は、当のブログ記事の中では比較的多くのアクセスがあったようです。

この問題は基本的には次の様に整理できるように思われます。

1.鏡像の空間は現実の空間に対して、空間を構成する縦、横、および前後方向の3軸の中の1つの方向が逆転する。
2.逆転する軸方向は縦、横、および前後の何れともみなすことができるが、人は普通、それを横方向、すなわち左右方向に充てる。

問題は何故それが縦方向でも前後方向でもなく左右の横方向であるのか、ということにあり、ここで地球の引力が持ち出されたり、いろいろ議論があるようですが、基本的には、生命、生物の本質に関わる様に思われます。人間を含め、殆どの生物、とくに動物の身体は左右対称が基本型になっています。逆に言えば、鏡面対象になっている方向を横方向、すなわち左右と呼んでいるという事になります。

ちょうど当時、少しづつ読み進めていたカッシーラーの「シンボル形式の哲学」に見出された次の記述がもっとも根本的にこの原理を表しているように思われました。

☆ 視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。引用中の引用は、原文の注記によればマッハによるそうです。

以上の引用中にある、前と後、上と下、左と右それぞれにおける異質性にもそれぞれ個性と違いがあり、少なくとも非常に明白に思われることは、前と後の異質性や上と下の異質性は、左右の異質性に比べて遙かに大きいとみなして差し支えないことです。現実の物や光景でも、絵でも、上下が逆さまになったり前後が逆になったりすれば誰でも気付きますが、左右が入れ替わってもすぐには気付かないし、気付いてもそれ程の違和感を感じません。何事においても天地が逆さまになればそれこそ大騒ぎですし、前と後もそうです。行列で並んでいても前と後の差は絶対的なものですが、左右の差は微妙なものです。左大臣と右大臣、右翼と左翼、左側通行と右側通行、こういう場合の左右の差は微妙なもので、いつの間にか入れ替わったりしています。その反面、論争の対立は常に左右の対立にされます。つまり同一平面上での対立は常に左右の対立になってしまいます。

以上のような上下と左右(前後はこの際除外し)それぞれが持つ本質的な個性が文字の縦書きと横書きの機能的な差異に関わってくるのは当然のことと思われます。端的に言って縦書きにおける上下の異質性に比べ、横書きにおける左右の異質性は遙かに少ないという事が言えるのです。このことから以下のようなことがすべて説明できるようになると思われます。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

以上の項目それぞれ、回を改めて考察してみたいのですが、最後に掲げた、横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性に優れるという点は、これまで指摘されたことはないのではないか、と推測しています。「横書き登場」においてもこのことには触れられていません。

速読性に優れることは、他方、誤りが生じやすいという可能性につながるように思われます。確かめたわけではありませんが、横書きでは誤記、誤読の可能性が高いような気がします

以上、今回はこれまでにします。

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