2019年5月26日日曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その2

前回記事では血統、血縁、血族という言葉が古語辞典に見当たらないことから、近代以前の日本語では血がこの種の概念を象徴する傾向はあまりなく、どちらかといえば西欧語の影響なのではないかという推察を述べたのですが、もう一度古語辞典を調べてみたら、血筋(ちすぢ)という言葉はありました。ただこの言葉も一義的には血管を意味するようなので英語の blood line とは成立過程が多少異なりますね。ただ他に、古語としての「血の道」という言葉には、前回に取り上げた「血脈」の意味がある他、血統の意味もあるようです。だから、血統や血族という言葉が英語由来であったとしても、日本語としても違和感がないのでしょう。

一方、ある意味で「血」と対立関係にあるともいえる言葉ないし概念に 「肉(にく)」があります。日本語では肉親という表現があり、血族に近い意味合いではあります。「肉親」を和英で調べると、例えば 「family member」(ジーニアス和英辞典)などがでてきますが、直接「肉親」に相当する言葉がなく、日本語特有の表現であることがわかります。ところがこの言葉は古語辞典には見つかりません。だいいち、「肉(にく)」は古語にはなく、「肉(しし)」しかありません。肉を「しし」と言い、「肉」の文字を「しし」と読むこと自体は知ってはいましたが、「肉(にく)」という表現が近代以前にはなかったとは、いまさらながら驚きでした。そこで漢和辞典で調べてみたら「ニク」は音読み(呉音)でした。してみると、「肉(ニク)」は中国由来の言葉であり、「肉」の付く多く熟語は日本語の古語辞典には見つからないにしても漢文由来の用語として近代以前から使われていたのかもしれない。そうすると、中国では古来、「血」よりも「肉」の方を象徴的に使うことが多かったのでしょうか?また「肉親」も中国由来の言葉なのでしょうか?ということで、web検索してみましたが、「肉親」そのものがある、あるいはあったかどうかはともかく、Weblio で見られる中国語辞典によれば、現代中国語には「骨血」や「骨肉」という、「肉親」に似た言葉があるようです。


以上の言語的な詮索は極めて不十分で素人っぽいものですが、それでも象徴性という問題において、以上から少なくとも次のような結論なり考察が可能になると思います。

1)  血の象徴性は親族関係のような生物学的なつながりだけではなく、古語の「血脈」のように、精神的なつながりを意味する場合もある、あるいはあった。これはある意味当然だと言える。なぜなら、何らかの人間的なつながりというものはそれ自体、身体的なものでも物質的なものでもないからである。仮に肉親の親と子に限っても、個人間で物質的な絆でつながっているわけでも結ばれているわけでもない。繋がっていたのは胎児のときだけ、それも母親とだけである。またつながりといってもこれは生命の繋がりであって個人の生命そのものは個人の身体、つまり個体とは別物だからである。つまり、繋がりとか絆といった概念自体が象徴的であると言える。

2)血と肉それぞれの象徴性を比較した場合、肉の場合は現実の親族関係、それも親子かせいぜい兄弟姉妹程度の近い関係を象徴するにとどまるが、血の場合は現実の親族関係に限ったとしも兄弟姉妹よりも遥かに遠い血縁関係にまで及ぶものであり、上記1) のように、現実の血縁とは関係のない精神的な結びつきにまで用いられる。これは血が見かけ上、液体であることに深い係わりがあるように思われる。つまり身体のような個体としての姿かたちを持たないということである。ある意味これは象徴的にはより精神に近いともいえる。

ちょうど最近読了したある本に「血盟団」という名前が出てきました。この名称は他者が付けた名前だそうですが、調べてみると「血盟」とは「血判を押すなどして、固く誓い合うこと。(名鏡国語辞典)」とあります。血判という現実の血液そのものを象徴的に使用することを見ても、以上の考察を裏書きするように思われます。

前回記事の終わりで、英語でこの種の言葉、blood line とか blood relative が成立した時期に興味を持ったことを書きましたが、これについては今回立ち消えになってしまいました。今の私がこんな調査を行うのは無理なようです。血の象徴性についてはひとまず今回で終了ということで。

2019年5月25日土曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その1

このシリーズのはじめに
今回のシリーズはシリーズのタイトルに該当する内容を毎回、各回の連続性や関連性などをあまり考慮することなく思い付きのまま書き連ねるというものになりそうです。

血統、血族、血縁など

大抵の言葉は他の言葉から派生したものなので人が日常的に言葉の由来を考える暇などないし、血統という言葉もこれが血という言葉に由来することは明白だとはいえ、人はもはや血統という言葉から流れる赤い血液そのものをイメージするということは殆どなく、血統という概念自体も割と明確に規定されているように思われます。それはそれで何の問題もないとは思うのですが、一方でなぜ、血が血統や血縁など、親族関係を象徴することになったのかを考えることにも意義があるように思います。最近私はなぜか、このことが気になり始めました。

英語にも blood line という血統に相当する言葉があるので、血統は blood line の訳語としてできた可能性も考えられ、ありあわせの辞書で調べてみましたが、そういう記述は見つかりません。そこで古語辞典(岩波古語辞典、1974年)を調べてみると、確かに血統という言葉も血縁という言葉、血族という言葉も見つかりません。ただし血脈という言葉がありました。本来は血管を意味するようですが、象徴的には仏教の用語になっているようです。引用すると「仏の教えを師から弟子へと代々うけ伝えること。法統。」とあります。これは生物学的な血統であるよりもむしろ精神的な系譜という意味になりますね。やはり、「血統」は英語か西欧語由来のように思われます。ちなみに「血族」や「血縁」を和英で調べてみると blood relative とか blood tie など、ちゃんと対応語が見つかるので、英語に由来すると見た方が自然に思われます。しかし、それにしては翻訳語とは思えない自然さが感じられるように思われます。もっとも明治以後にできた英語からの翻訳語はあまりにも数多いので、目立たないことも確かです。

そこで気になるのが英語でこれらの言葉が成立したのはいつ頃なのかという問題です。(以下継続予定)

2019年5月12日日曜日

個人主義、民主主義と民主制 ―― 科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その2)

確かに、民主主義という言葉とその概念には問題があるように思われる。例えば、最近あるウェブサイト ― 教えられるところの多いウェブサイトではあるが ― では次のような表現が見られる。「私、副島隆彦は、×「民主主義」というコトバは、使わない。× デモクラティズム  democratism というコトバはない。」。

確かに、有名な辞書にdemocratismという言葉は見つからない。しかしWebを検索してみるとこの言葉は現実に使われていないわけではない。意味付けについてはいろいろ問題がありそうだし、日本語の民主主義に相当するのかどうかも問題があろうが、権威ある辞書に載っていないというだけでその言葉が存在しないとは言えない。ましてその言葉で表現されている概念まで存在しないとは。

確かに、「Democracy」を「民主主義」と訳すのは不正確であると思う。 「制度」は「主義」、言い換えると「思想」ではないからである。しかしだからと言って日本語で「民主主義」と表現される概念が「ない」とは言えない。民主制という「制度」 ― Wikipediaを見ると英語では"System”と表現されているが ― はそれなりの人々の思想、希望、意志、心情、心性、あるいは欲求の反映であり、そういう心理的なものに支えられているのだから、民主主義という言葉で表現される概念はあるはずである。個人主義がその大元にあるように思われるが、個人主義がそのまま民主制の根拠となるわけでもないと思われる。

簡単に言って、個人主義と民主制の間に民主主義が介在していると考えれば、あるいは『個人主義⇒民主主義⇒民主制』という系列または順序を考えればわかりやすいのではないか。個人主義と民主主義との関係を多面的に考察することで実り多い成果が得られるような気がする。