2013年10月2日水曜日

『漱石と温かな科学』(小山慶太)の読了にいたるまで

表題の本は、もう10年以上も前に購入した新刊書をこれまで読まずにいたものである。永らく放置していたこの本に手を伸ばしたきっかけは、一連の最近の読書である。読了した順を遡って列記してみると次のようになる。



岡潔 『春宵十夜』、ごく最近再刊された文庫本

太田文平 『寺田寅彦』、古書店の店先で偶然に見つけて購入

中谷宇吉郎著、福岡伸一編、『科学以前の心』、最近の文庫本

高瀬正仁 『岡潔 数学の詩人』、岩波新書

小林秀雄+岡潔 『人間の建設』、新潮文庫、最近の刊

白洲次郎 『プリンシプルのない日本』、最近の文庫本

白洲正子 『隠れ里』、『白洲正子自伝』、『西行』、いずれも購入した文庫本


とまあこんなところ。

小林秀雄の本は書店の文庫本コーナーの平積みで見つけたが、昨年あたりから読んでいた白洲正子と白洲次郎が作品と私生活でも影響を受けていたことで念頭にあったことは確かだ。もちろん小林秀雄は現在なお多数の著者やジャーナリズムで言及され続けている人物でもあり、多く人々の念頭に常にあるのだろう。哲学者の木田元氏の近年の著書でもかなり目立って言及されていた。しかし個人的には若いころにあの有名な『モオツァルト』を読んだだけだった。それが岡潔との対談ということで新たな興味が湧いたことは確かである。

上記の中、『人間の建設』までは、すでに当ブログの記事にしている。

『人間の建設』を読了した後、続いて小林秀雄とその周辺に向かう気もあったが、結果的に岡潔の周辺に向かっていったようだ。岡潔と親交があった中谷宇吉郎の本も偶然なのかどうか、新刊文庫本のコーナーで目が止まり、もともと関心のある人でもあったので購入して比較的すぐに読了した。その後、中谷宇吉郎の先達でもあり、先生でもあったともいえる寺田寅彦の伝記を古書店で見つけてそれも積読にはならず比較的早期に読了した。それと殆ど同時にまた岡潔の恐らく処女作だろうと思われる『春宵十夜』を読了したわけである。この本が新刊書として刊行されたとき、恐らく立ち読みした記憶がある。数学志望でそれが果たせなかった大学の同級生が読んで憧れていたことは確実だったが、なぜか自分は購入してまで読む気にはならなかった。


寺田寅彦と親密な関係にあってその弟子であったところの先生であり、中谷宇吉郎と岡潔にも特別深く敬愛されていたといえるのが漱石にほかならないが、その漱石と科学との関わり、あるいは接点とも言えるかもしれないが、漱石のその面にフォーカスを当てた漱石論とも言えるのがこの本、『漱石と暖かな科学』と言っても良いだろうと思う。著者のあとがきによると、「漱石の作品や生きざまを通して織りなされる文学と科学の綾を、七つの物語にしてまとめて描いてみたのが本書である」となっているが、「織りなされる文学と科学の綾」とは実にうまく表現したものだと思う。この表現自体が非常に文学的で、あまり科学的でも論理的でもないが、実に適切で、他に言い様がないとも言える。私には接点とでも表現するしか能がないが。

ともかく、漱石の思想や文学と科学との関係を理論的に解明できたものとも説明できたものとも思えないが、それでも確実に漱石あるいはその周辺と時代そのものと科学との深い関わりを暗示する含蓄のある本だったと思う。もちろん、作品以外に、寺田寅彦や科学の面で関わりのあった何人かの人物も登場する。

さらに文学一般と科学の関係などを掘り下げることや漱石の科学性や科学観について考究することも意義あることだろうが、今これ以上この問題で考えるいとまも能力もない。ただ、「話変わって」、というべきかもしれないが、個人的には鴎外との関係または対比で、少し思うところがある。今のところ寺田寅彦、中谷宇吉郎、岡潔の三人共に、鴎外について語っている文章に行き当たっていないが、少なくとも漱石ほどには評価していなかったのだろう。現在の一般的な人気においてもそういえる。しかし私的には、最初に両者の作品群を多少とも読んだ頃から、鴎外のほうが偉いという感想をもっていた。

鴎外は、漱石が意識的にかどうかは分からないが、扱うことを避けたと思われる人生の重要事に重点をおいて追求しつづけていたように思う。それは職業、仕事、あるいは使命、天職という問題で、見方によっては立身出世の問題になってしまい、そういう問題を避ける事で漱石は人間関係の深みを追求する事ができたのかも知れないとも思う。その辺りについては、漱石の作品群もごく通り一遍にしか読んでいないので何も言えない。

過去に、漱石の代表作をひと通り読んだ頃と同時期に鴎外選集をかなり読んだので、その頃から私は鴎外と漱石について上記のような印象を持っていた。後年の史伝と呼ばれる作品群になると難しくてとても読めなかったが、渋江抽斎までは、一応面白く読めた記憶がある。鴎外が描いたそういう人物は過去の武士を含めた役人や学者の場合が多いが、初期の短編ではもっと身近な職業人や職人も多く、漱石の描いた人物よりもはるかに多様であるといえる。女性を描くの場合もそういうところがあり、有名な「安井夫人」は変な言い方だが、学者の妻という、一つの天職に取り組む女性を描いたと言えないこともない。夫との感情的な人間関係については何も書いていないし推測も憶測もしていない。著者が推測しているのは彼女の「あこがれ」であって、確かにそれはあまりにも茫漠としたものではある。が、やはり漱石作品と同様に純然たる文学である。やはりゲーテの影響は否定出来ないと思うが、漱石がゲーテをどう思っていたのだろうかと思うことはある。

・・・今はこの記事でもうあまり時間をとる気にもなれないので、あとはちょっと断片的なメモをいくつか。

◆岡潔は、世界的にいっても女性を本当に描くことができたのはドストエフスキーと漱石だけだと言っている。他にも断片的だが岡潔の文学論で意味深長な発言は多い。

◆しばらく前からカッシーラーの「啓蒙主義の哲学」を少しづつ読んでいる。ちょうどデカルトからニュートンにいたる時代の考察を読んでいて、「漱石と暖かな科学」の記述と重なるところがあり、興味深かった。

◆寺田寅彦は俳句の創作で漱石と深くつながっていた。岡潔も芭蕉と俳句そのものを高く評価していた。それに対して鴎外はどちらかと言うと短歌や歌人達と関わりが深かったようなところがある。岡潔はまた「佐藤春夫は芥川は詩がわからないといっているが、むしろ佐藤春夫は詩人ではなくうたびとだという気がする」と書いている。これと関係があるかどうか分からないが、太田文平著『寺田寅彦』には次のような一節がある。「俳諧の精神はロマンよりも写実をとるということであり、抽象的なものより具体的なものを対象にするのが、科学における寅彦の俳諧の私信の真髄である。・・・」この辺りの事は個人的に、短歌も俳句も理解しているとはいえないのでよくわからないが気になるところではある。どちらかと言えば短歌の方が好きかなという程度だ。

2013年8月27日火曜日

カッシーラー、『人間』の意義を今の自分なりに要約してみると

前回記事で、カッシーラー、『人間』の再読をきっかけに、今回特に強い印象を受けた箇所を抜き書きしてみた。またこれも同様に、この本を友人に勧めることになった結果、この本のどこが気に入っているかと問われることとなり、即、全部としか言いようがないというような言い方で返信してしまったが、改めて、具体的にどの箇所かということではなくどういうところか、という、いわばまとめというか、当方自体の理解度を問われていることでもあることに気づき、またしばらく考え込まざるを得なかった。

結局、今回は次のように返信をした。

「・・・カッシーラーの『人間』の第二編で扱われている神話と宗教、言語、芸術、歴史、および科学について述べられている 論考は、現在のところそれらについてもっともすぐれた定義になっているのではと、個人的に考えている次第なのです。もちろんその定義はシンボル形式という 認識から到達できたことなのだと思うわけです。

これは我ながらうまくまとめられたような気がした。例えば「芸術とは何か」といえばすなわち芸術論そのもので、そのような本は無数にあるだろうし、この表題そのものの題の本もいくらでもありそうだし、特に有名なトルストイの本は一度読んだことがある。神話と宗教、言語、歴史、科学にしても同様で、無数にあるとも言えるだろう。

しかしこれらすべてを包括的に定義できたような本で、その定義も考え得る最先端を行っているといえる著作がこの書物である、と言えるのではないだろうか。もちろん、当方はそのようなことを公言できるような読書家でも、教養人でも、もちろん専門研究者でもないので、これは嗅覚とでもいう程度のものかもしれないが、それなりに確信はある。


著者がこの書を著すきっかけとなった当初の目的は、『シンボル形式の哲学 』の英語版を作成するという動機であるとされるが、その『シンボル形式の哲学』とこの『人間』とを比較して特に目立つ違いを見てみると、こちらでは科学に関する部分が分量的に極めて少なく、その代わりに芸術と歴史に関する記述が比較的多くを占めていることに気付く。それはこの本がより一般的な読者層を対象にしているからと言えるのだろうが、それ以上に意味深なところがあるようにも思われる。そして、それに呼応するように当然、芸術家や歴史家からの引用が多くなっているが、全体を通じてゲーテからの引用の多さが際立っている印象を受ける。改めてゲーテの影響力の大きさと、哲学者としてのゲーテの重要性を思い知らされる次第だ。


2013年8月2日金曜日

歴史と科学 ―― カッシーラー『人間』よりやや長い引用というより抜き書き

先日、かつて学生時代に一度読んだカッシーラー『人間』宮城音哉訳、の再読を終えたので、メモしておきたい。

現実のところ、内容を今まで、具体的に記憶し続けていたわけではまったくない。しかし、改めて読み返してみると、その後自分があれこれと考えたことの多くがこの本の影響を受けていたことに改めて気づかされた。もちろん、その後で散発的に読んだゲーテなどの本の記憶や影響と重なる部分もあり、どこまでがこの本の影響なのかと言い切ることもできないではあろうけれども。それにしてもゲーテからの引用が多く、改めてゲーテの影響の深さにも気づかされたといえる。

今回特に印象に残った長い一節を抜き書きしておこうと思う。やはり年のせいか、歴史の問題に興味の重心の一部が移ってゆくようなところもある。次の引用というより抜き書きは「歴史」と題された第十章からのものである。

『偉大な科学者マックス・プランクは、科学的思考の全過程は、すべての「人間学的」要求を除去しようとする恒常的な努力だと述べた。我々は自然を研究し、自然法則を発見して、公式化するためには人間を忘れねばならぬ。科学的思想の発展において、擬人的(主観化的)要素は、次第に背景に退けられ、ついに物理学の理想的構成においては、全く姿を消すのである。歴史学は、これとは全く異なった方法をとって発展する。それは、人間世界においてのみ生き、また呼吸することができる。言語及び芸術と同様、歴史は根本的に擬人的である。その人間的側面を除去することは、その独特の性格と本性を破壊することであろう。しかし、歴史的思想の擬人性は、なんら、客観的心理の制限でもなく、客観的心理を妨害するものでもない。歴史は、外部の事実や事件ではなく、自己の知識の一形式である。自己を知るために、自己を超えて行こうとしてもむだであるし、いわば自己の影を飛越えようとすることはできぬのである。私はこれと反対の方法を選ばねばならない。歴史において人間は、つねに自己自身にかえる。人間は、その過去の経験全体を回想し、これを現実化しようと試みる。しかし、歴史的自己は、単に個人的自己ではない。それは擬人的ではあるが、自己中心的ではない。矛盾した表現形式を用いるならば、我々は、歴史は「客観的擬人性」を表現するものということができる。歴史は、人間経験の多様性を我々に教え、これによって我々を、特殊で唯一の瞬間における、気まぐれと偏見にしばられぬようにする。歴史的知識の目的は、実に自己の――我々の知る自我および感ずる自我の――このような豊富化であり、また拡大であって、これを除去することではないのである。』

2013年7月2日火曜日

「知る」と「認識する」

「嘘を知る」という表現はあまり聞かない。「嘘であることを知る」とか、「嘘だったことを知る」とか「嘘の内容を知る」というような表現はありうる。

しかし、「嘘を認識する」という表現はありそうだ。だいたい「嘘であることを認識する」というのと同じような意味になりそうである。

一方、「真実を知る」という表現は問題なくよく使われる。「真実を認識する」という表現も問題ない。

では、「虚構を知る」と「虚構を認識する」ではどうだろう。「虚構を知る」とはあまり言わず、言うのであれば「虚構であることを知る」という表現になるだろう。それに対して「虚構を認識する」はそれ程不自然ではなく、「虚構であることを認識する」と同じような意味にとられるのではないだろうか。

最後に「錯覚」または「幻覚」あるいは「幻影」のような言葉の場合はどうだろうか。

「錯覚を知る」とはあまり言わないが、「錯覚を認識する」とは心理学などの文章ではよく出現しそうである。しかし、こういう表現になるとかなり多義的になってくるように思われる。これは「錯覚そのもの、錯覚の内容を認識する」ようにもとれるし、「錯覚であることを認識する」ようにもとれる。「幻覚」でも「幻影」でも同様。これでは全く反対の意味になる。日本語であれ英語であれ、どの言語にも共通して言えることであると思う。

2013年6月20日木曜日

「系」と「System」の対応関係とそれぞれの意味の複雑さについて(その2)

先般、システムと系の意味深長な意味の差異 という記事を書いたが、「System」と「系」それぞれの本来の意味と訳し方については色々と微妙な問題が含まれているように思われる。まず実例をいくつか挙げてみたい。

  • 「frame of reference」という用語は専門用語辞典によると基礎用語として『基準系』という訳語のみが与えられている。他方、研究社理化学英和辞典によると『基準座標系』という訳語が与えられている。もう一つ、岩波理化学辞典にはこの用語は出ていなかった。岩波理化学辞典は用語辞典ではないので、あまり些細な項目は取り上げられていないという傾向はあるが、少し気にはなる。
  • この『基準系』をウィキペディア日本語版で調べてみると、次のように説明されている。「基準系、基準座標系、または参照系 (英: frame of reference) は、物理学において、系の内部の対象の位置、方位、およびその他の性質の測定を行う基準となる座標系または座標軸の集合、または観測者の運動の状態に結びつけられた観測基準系 (observational reference frame) を言う。」
  • 前項に引いたウィキペディアの説明では単独で「系」という用語が使われているが、この「系」を上述の各辞典で調べてみると、用語辞典では分野毎に様々な対応する英語が挙げられているが、もちろん多くの分野で「system」がもっとも多い。但しこの用語を研究社理化学辞典で調べると対応するのは数学用語としての「corollary」のみであり、岩波の理化学辞典では何も出ていない。
  • 「system」単独では、岩波理化学辞典には項目がないが、研究社の理化学英和辞典では物理用語として「系、体系、物質系、物理系」の訳語が挙げられ、「有機的な関連をもった部分の集まり、特に物理的考察の対象として環境から区別して理念的に抽出したもの」との説明が与えられている。
  • 「座標系」は、どの辞書でも「system of coordinate」または「coordinate system」であり、これはそのまま日本語の熟語にきれいに一致し、対応している。また岩波理化学辞典には「座標」の項目の中に詳しい説明があり、「座標の各点に対する座標成分のあたえ方を決める方式」となっている。つまり、systemが「方式」の意味で使われていると言える。この説明はウィキペディアでもだいたい同じであって、座標系の種類として直交座標系とか極座標系とかが挙げられている。
以上の例のみでなく色々な例を考えあわせて見るに、ただ物理学用語として考えた場合でも、「系」の持つ意味的なニュアンスと「system」の持つ意味的なニュアンスはかなり異なっているように思われる。この意味上の差異が文脈によって重要な意味を持つ場合があるとは言えないだろうか。例えば「座標の変換」というような概念の用い方や捉え方にも影響が及んでいる可能性も考えられるのではないだろうか。

2013年6月7日金曜日

カント、プロレゴーメナ再読後のつぶやき

先週だったか、先々週だったか、かつて一度だけ読んだカントの『プロレゴーメナ』を再読了した。とにもかくにも通読はし切った記憶のあるわずかな哲学書の一つである。最近になってこの書を再読するきっかけとなったのは、昨年あたり、純粋理性批判を読み始め、最初の「先験的感性論」だけは何とか読み切ったものの、その後、カテゴリーの問題に入ってからは読み続けることができなくなり、そこでひとまず打ち切り、この書を再読することに決めた次第。

最初にこの書、プロレゴーメナの存在を知ったのは、かつてある私立大学文学部の夜間部に1年ほど通ったとき、教養物理の先生から授業中に勧められた時である。その先生はカント哲学は物理学にとって必須との考えだったようで、純粋理性批判は難しいのでプロレゴーメナを読むのがが良いと。ただ文学部での授業であったためにそのような話をしたので、専門の物理学や工学部の学生にはそのような話はしないのだとも言っておられたような記憶もある。

実際に読んだのは当時すぐにではなく、何年か後になってからだと記憶している。いつどこで読んだのかは記憶に残っていないが、当時の、もうかなり変色した岩波文庫本をとってみると最後まで鉛筆で線を引いた箇所がかなりあり、とにかく読み切ったという記憶には間違いなかったのだなあという感慨はあった。

その後、といっても今はもう昔、「意志と表象としての世界」を読んで、これも内容を記憶しているというわけにはゆかないが、ショーペンハウアーがプロレゴーメナを推奨していた箇所があったのだけはよく覚えている。この本は純粋理性批判の理解を著しく容易にするものであるのに、読まれることが少ない、と嘆いていたように記憶している。

ゲーテは、プロレゴーメナに言及しているかどうかは知らないが、カント哲学についてはいくつかの箇所で言及していることには気づいている。例えばエッカーマンに対して、「カントの思想はもうドイツ人の血肉になっているので、君はもう純粋理性批判を読む必要はないだろう」、「君が読むなら判断力批判を読みたまえ」というようなことを語っていたように記憶している。

確かに、現代人、世界中の現代人全体にとって、ある程度はそのようなこと、つまりゲーテがエッカーマンに語ったようなことが言えるといっても良いのではないだろうか。もちろん個人や社会や文化によって濃淡があるし、意識化の程度も大きく異なるだろうが。さらに時代の推移によって薄れていったり復活したりという波のようなものはあるだろうが。

私の場合、当時、プロレゴーメナを読んで以降、プロレゴーメナに何が、どのようなことが書かれてあったかを説明できたかというと、全くそのようなことはなかった。何が書かれていたかと問われれば、忘れたと答えるしかなかっただろう。しかし、それ以降、ある程度は無意識にも血肉になっている部分はあったといえると思っている。

先の私立大学文学部の夜間部を1年あまりでやめ、1年おいて本州の西の果てにも近い大学の一応は理科系学部に地質鉱物専攻で入学したのだが、そのころはもう科学信仰というべきか、自然科学に対するあこがれのようなものはなくなっていたのだが、それでも自然科学に対するこだわりの気持ちは結構強いものがあった。自然科学に対するカントの、あるいはプロレゴーメナの思想がある程度は身についていたのかもしれないと思う。たとえ直接カントの著作から得たものではなかったとしてもである。

せっかくここまで来たのだから、純粋理性批判を読むことを再開したいものだが、中巻と下巻は購入していないので同じ訳者のものを続けて読むか、改めて別の訳者のものを読むかを迷っている。現在あるのはプロレゴーメナと同じ岩波文庫で、訳者も同じである。最近、ここ数年の間に木田元氏の短い哲学解説書を文庫本で何冊も読んだが、この著作の翻訳について触れている箇所や文献案内もあったので、参考になるのだが、それにしても現在の訳者に対しての個人的な印象は悪くない。


翌日追記
同じ大学の同じ教授の教養物理であっても理科系での講義は文化系での講義に違いが出るというのは十分に考えられることであるし、当然のことともいえるが、さらに理科系での講義では哲学的、あるいは思索的な側面がなおざりにされるということも、当然とも、予測できることともいえるが、やはりそれはさびしいともいえるし、残念なことであるともいえる。自然科学そのものというか自然科学全体が工学的な方向に傾く傾向が続く一方であるともいえる。

どこの国でも国を挙げての科学技術奨励の風潮も高まる一方であるが、他方、一般人のあいだでは科学への不信感や絶望感も広がっている。

もちろん技術開発の喜び、それも純粋な、技術開発そのものの喜びというものはあるに違いはないが、科学そのものの喜び、というのが不適切であるとすれば、やむに止まれぬ探求というものがなおざりにされる結果に至るのではないかと思うのである。科学による自己疎外、といいながら自分でもこの言葉の意味はよくわからないが、そういうものが自然科学専攻の学習者の心の深層に沈潜するというような考えは一種の老婆心であろうか。

テレビの科学番組も事実上、殆ど新技術の紹介に過ぎない。そうでなければダーウィン礼賛を看板にした自然選択による進化論喧伝する番組化のどちらかである。事実上、珍しい生物の生態を紹介する番組に過ぎないので、それはそれで楽しめるものではあるのだが、一方で欺瞞が蔓延してゆく。

まあこんなところか。

2013年5月21日火曜日

心理学的問題と意味論的問題 ―― 前回記事の補足

このブログのタイトルの冒頭に意味という言葉を掲げながら、正直なところ、現在、意味論というタイトルで学問的に、あるいは専門的に研究されている諸々の分野あるいは諸々の理論について筆者は知識がありません。ただ論理学の一部門として、形式論理を補足あるいはそれに対峙するものとしての意味論という認識はあり、また哲学的な問題という認識もあります。「意味論」という言葉自体にはその程度の認識しか持たないのですが、要するに「意味の問題」という程度の意味でこの「意味論」という言葉を使っています。もちろん言葉あるいはシンボルを使う人間、人間の心と意味は切り離せないものであり、その意味で心理学とも切り離すことのできない分野であるという認識はあります。


前回の記事で鏡像問題に関わる分野としての心理学について言及しましたが、よくよく考えて見るに、この鏡像問題には心理学と同様、意味論に関わる部分が多いように思います。むしろ、普通に心理学という言葉で意味される心理学の分野あるいは心理学的現象よりも意味論的な分析が重要なのではという気がします。もちろんそれ自体、大いに心理学に関わる要素ではあると思うのですが。

当然、脳科学においても意味論的な分析は重要ではないかと思います。言語と脳機能との関係がよく問題にされますが、それ以前に脳科学で用いられる用語の意味論的な分析が重要なのではないかと。

2013年4月30日火曜日

脳科学とは何かを考えるヒントとしての鏡像問題―養老猛司著『唯脳論』の読後感その2

(この記事はブログ発見の発見の方にも掲載しました)

―前回のこのテーマでの記事では、この有名な著作の基本前提となる主張への疑問に絞って掘り下げてみましたが、今回は「脳科学」という分野への著者の考え方あるいは方法論と一般的な認識について考えてみたいと思います。―


最初の「唯脳論とはなにか」という節で、著者は唯脳論を「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。」と定義している。これだけではよくわからないが、後に続く叙述と「実証主義と観念論を結合する」という小見出しの内容から、これはおおよそ次のようなことを主張しているように思われた。

ここで著者は実証主義という言葉で理科系と文科系という区分における理科系を意味し、観念論という言葉で文化系を意味しているようである。というのは、この見出しの節で著者は次のように書いている。「理科と文科という二つの文化があると言ったのは、C・P・スノーらしい。私は一介の解剖学者だが、自分がどちらの「文化」に所属するのか、近頃よくわからなくなってきた。」そして、「両者(理科と文科)をどう結合したらいいか。そこで脳にたどり着く。というのが、この本を書いた私の動機である。」

この小見出しの箇所も他の記述と同様、端的で論理的な記述というよりも、間接的で迂回するような記述なのでわかりにくいが、こういうことだと思われる。すなわち、先の唯脳論の定義における「ヒトの活動」は簡単に言って文科系の領域であり、「脳と呼ばれる器官の法則性」は理科系ということであろう。つまり、理科系の観点から文科系を「眺めよう」ということになる。これはこれで著者のこの『唯脳論』のみならず、脳科学と言われるものの現状を表しているように思われる。確かに脳科学者の著書や発言あるいは脳科学と言われる分野の言説の多くは専門科学的な、具体的には、私は専門家ではないのでよくわからないが、解剖学、生理学、脳神経科学、大脳生理学等々の分野なのだろうと思われる諸分野の専門的な記述と人文科学的な、場合によっては日常言語的世界の記述とが混在しているように思われる。

確かにそれはある種の結合の仕方には違いはないが、真の意味で結合―統合というべきかもしれないが―されている言えるのだろうか。

実証主義と観念論という枠組みにしても、それに対応するように用いられている「理科系」と「文科系」という枠組みにしても、それら自体は無意味ではないし、それなりに有意義ではあるだろう。しかしながら、これらの言葉はいずれも抽象的で具体性に欠けている。また、実証主義と理科系とがそのまま重なるわけでもないし、観念論がそのまま文科系に重なるわけでもないし、第一、観念論の定義など難しいもので、文脈から切り離された「観念論」は人によって理解の仕方は様々であろう。

こういう言い方だと、理科系と文科系の様々な要素、あるいは具体的に言って解剖学とか生理学とか、あるいは文科系では心理学とか、言語学とか、社会学とか、あるいは経済や法律にまで関わるような、さらに日常的な諸々の問題といったさまざまな分野の、言わばつぎはぎ、あるいはごった煮のような、ばらばらの要素が形式的にまとめられているだけというものになりかねないのではないかと危惧されるのである。

【理科系研究分野と文科系研究分野の混在の例】
一般に、どのような専門分野も純粋にその分野の用語だけで記述されたり、考察されたりしているわけではない。しかし、専門分野とされている以上、その分野としての統一があり、無秩序に他の分野が混在しているわけではない。

端的な例を挙げると、物理学をはじめとして多くの自然科学や工学で不可欠な数学は実証科学ではないとみなされている。しかし現実には数学は理科系とされている。こういうことからも、実証主義と理科系、観念論と文科系がそれぞれそのまま重なり合うわけでもないが、それはさておき、この場合、数学はいわば道具として、あるいは言語に準ずるような手段として、自然科学の中に取り込まれている。統合されているともいえる。こういう場合、物理学の場合であれば物理学の中に取り込まれ、統合されているのであって。単に物理学と数学が混在しているというわけではない。つまり、自然科学とも数学ともつかない別のものになっているわけでもないし、自然科学と数学の中間というわけでもない。全体としてはあくまで物理学等の自然科学である。

また異なった混在のあり方として工学のような応用ないし実利的な様々の工学的な諸分野がある。それらはあくまで工学であり、技術であって、科学そのものではない。

それ以外に、自然科学と考えられている分野として生物学など、生命科学と総称される諸分野と地球科学の諸分野、それに医学などがあり、脳科学もそれらに含まれるといえるが、これらの諸々の分野においてもそれぞれの方式、構造で、理科系要素と文科系要素が混在していないとは言えない。そのような次第で、脳科学に何らかの形で理科系要素と文科系要素が混在するということ自体は、他の諸々の分野と比べて不自然というわけではないだろう。ただ、今ここでそういった多岐にわたる諸分野の構造をすべてを分析し、考察することなど不可能である。

【鏡像問題という一例】
ここに鏡像問題という興味深い一例がある。これは文字通り一つの具体的な「問題」であって、特定の学問分野、研究分野というわけではない。しかし鏡像左右反転の謎といわれるこの問題は、特定の実用的、技術的な問題ではなく、純粋に知的な興味から発する問題である。であるから、純学問的な問題と言うことができる。決して技術的な、あるいは工学的な問題ではない。

私がこの論争中と言われる「鏡像問題」が世界中を通じて科学者、学会の間に存在することを初めて知ることになり、非常な興味を覚えて自らも考え始めるようになったのは2007年12月の毎日新聞記事がきっかけであり、それ以来本ブログで何度か取り上げて自らも考察し、ひいてはごく最近、当該新聞記事の当事者のおひとりである大阪府立大学名誉教授の多幡先生から直接お話を伺う機会にも恵まれた。ということで、常に念頭にある問題としていろいろな局面で考えることの多い課題であるのだが、今回は鏡像問題そのものというよりも、学問分野の関係という視点での興味で考えてみたい。

当該新聞記事は次のような前文で始まっている。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたといわれるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。今年11月、「鏡像問題に決着をつけた」とする認知心理学者の論文が発表されると、物理学者が批判するなど熱い論争が続く。」

ここではまず、鏡像問題が物理学の問題であるか、(認知)心理学の問題であるかが一つ争点になっているが、その後の経過や記事の内容自体からも、物理学上の問題と心理学上の問題との両方が関わっていると考えるべき方向に向かっていると思われる。物理学的側面と心理学的側面のどちらがより基本的であるかというとらえ方をすると難しくなるが、「鏡像問題」という具体的な問題として捉える限り、これが純粋に心理学的な問題であって物理学の問題ではないというように単一分野の問題であるという考え方は、考えれば考えるほど、分が悪くなるように思われる。

では物理学上の問題と心理学上の問題とが関わっている鏡像問題そのものとはなにかと考えると、これは科学以前の問題であるとすべきであろう。日常的な問題ともいえるが、結局のところ日常言語の概念でとらえられる問題と言うことができる。結局は言葉と概念の問題、さらにシンボル体系の問題として考察できるというか考察すべき問題のように思われるのである。例えばキーワードともいえる「鏡」、「左右」。

それでは脳科学の場合、この問題はどうなっているのだろうか。

実は、私は今回『唯脳論』を読むことで、「脳」は基本的に解剖学の用語であり、概念であることに初めて気付かされた。脳という概念は解剖学の体系の中で初めて明瞭な意味を持つのであり、日常用語としては極めて曖昧で漠然とした意味しか持ちえないともいえる。あるいは解剖学や生理学の内部においてさえも、かなりあいまいな部分の残る用語であるかもしれない。解剖学者である『唯脳論』の著者が「唯脳論」を着想されたのも脳が解剖学の用語であり、概念でもあるからこそであろう。

他方、「脳と心」というように、脳科学の各分野でつねに脳との関係が興味の対象とされるところの一方の「心」の方はどうかと言えば、これは全く解剖学上の概念ではない。解剖学や生理学や諸々の自然科学諸分野が成立するよりもはるか以前から存在し続ける言葉であり、概念である。そして心を科学的に研究する分野が心理学と呼ばれているともいえるが、単に心理学にとどまらず、文科系諸分野の中心テーマといえるほどのものである。
そこから前述のような、『唯脳論』における著者、養老猛司氏の唯脳論の定義が生まれたのであろうと思われる。

しかし、既に述べたように、唯脳論の定義ないし方法論は、はあまりに抽象的で、悪く言えば大ざっぱである。
それは、「理科系」という研究分野と「文科系」といいう研究分野、あるいは必ずしもそれらと重なるとはいえない「実証主義」と「観念論」という研究分野をそれらの違いを明らかにしないままただご都合主義的に結びつけるだけに終わり、論理的に錯綜したものになってしまう危険性が感じられるのである。事実、『唯脳論』の構成は難解で、論理的な一貫性が感じられず、錯綜したものに感じられる。

ここで再び鏡像問題に立ち返ってみたい。この問題では、鏡像問題が物理学の問題であるか、心理学の問題であるかが一つの争点になっていたという事実がある。ということは、鏡像問題そのものはそのまま物理学の問題でも心理学の問題でもなく、日常言語次元の問題、いわば科学以前の問題なのである。その問題を解決するために物理学や心理学が動員されていると考えるべき問題と言える。このことを踏まえて脳科学の問題を考えてみるに、脳科学における最大の問題、あるいは諸問題を総体的に表現すれば脳と心との関係ということになろう。この関係の問題をどうとらえるべきであろうか。

すでに述べたように一方の「心」は諸々の科学が成立するはるか以前から存在し続け、将来的にも消滅するとは到底思われない確固たる日常言語の言葉であるから、この問題は日常言語的な、科学以前の問題と考えるのが自然である。ところがそれに対するもう一方の「脳」は、解剖学や生理学の用語なのであり、本来は日常言語、科学以前の言葉ではなく、それが日常言語としても用いられるようになってきたのであり、この問題を科学的に考察しようと企てるのなら、新たに適切な科学の諸分野を動員して考察を開始すべき問題と言えるのである。

逆に、この問題自体を特定の科学分野の問題ととらえるとすれば、「心」も「脳」もそれぞれその研究分野の体系の中で明確に定義されたものでなければならない、とすればそのような研究分野の体系は現在存在しているとは思われないのである。

前回の記事で検討したところの、「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略―心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」という『唯脳論』の基本主張を以上の視点で検討してみると、この主張では「心」という日常言語的な科学以前の概念を解剖学や生理学の枠内に、無理に引きずり込んでいるように思われる。こうして引きずり込まれる際に「心」の概念が変形を受けることになる。

『唯脳論』には書かれていないが、ウィキペディアによると、「生理学は生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」であり、「形態的側面からアプローチする解剖学や形態学と対置される。」とあり、常識的に納得できる定義だと思われる。とすれば、『唯脳論』の著者が心臓血管系の機能としている「循環」すなわち血液循環は生理学上の機能とみなすことができ、解剖学的な脳には脳の生理学的な機能を対応させるべきところを、それに変えて日常語の「心」を限定された自然科学分野の枠内に引きずり込むことで、本来の「心」が意味するものを損なってしまっている。

もう少し比喩を膨らませてみるなら、「心」を解剖学と生理学の枠内に引きずり込む際に、「心」の持つ膨大な意味内容がすべて搾り取られてしまい、形骸となった単なる言葉、「意味するもの」と言ってよいのかもしれないが、言葉の意味するものとしての側面のみが取り込まれ、その意味されるところのものとして脳の生理学的な機能がすり替えられたかのような印象を受けるのである。この部分の論理的な奇妙さについては前回の記事で分析してみた。

従って、脳の生理学的機能の意味するものと心という言葉が意味するものとが自明とみなされるまで一致することが証明されることを要する仮説であるとみなすことができるかもしれないが、著者は仮説であるとはいっていないし、現実にこれを前提事項として論を進めているのである。

以上の、唯脳論の定義と言える部分は本書の冒頭部分であるが、本書のそれ以降の部分にこの定義の証明に充てられている箇所があるかというわずかな期待を持ちながら読み進んだことは事実である。しかし、一読した限り、むしろこの定義を前提として議論を進めている部分が殆どで、全体としては結論の先取りという印象を受けた。

この先取りされた結論に加えて身心並行論と脳の擬人化による説明がなされることで、何か証明または論証が行われているような錯覚が生じる。

このことを著者は次のように語っている。「脳についてわれわれは、普通の臓器とは逆に、機能をあらかじめ知っており、構造をあとから知るのである。ここでは、したがって通常とは議論が逆転する。」「唯脳論では、あらかじめ知られた機能に対して、構造を割り付けなければならない。こういう逆転した議論を人はなかなか受け付けないのである。」

これは結論の先取りという詭弁でなくてなんであろうか。著者自らが逆転した議論であることを認めている。

好意的に解釈すれば、これは結論の先取りではなく、仮説という見方もできると思われるかもしれない。しかし著者は仮説とは言っていない。実際、「機能をあらかじめ知っている。」と最初から断定しているわけで、これは仮説ではない。事実、最初からこの考えを仮説としてではなく前提条件として扱っている。

というような次第で、著者のいう「実証主義と観念論を結合する」という、あるいは「唯脳論」の行き方は、少なくともこれらの箇所、すなわち基本的な箇所では破たんしていると言わざるを得ない。

他方、脳科学のような問題の多い分野において有効な方法論を確立するためにも鏡像問題は参考になるのではないかと思われる次第である。

2013年3月13日水曜日

システム(System)と「系」の意味深長な意味の差異

英語の「System」という用語は、日本語の「系」という言葉と相当強固に結び付けられているようだ。これは特に自然科学方面でSystemが系と訳される場合が多いことに起因しているように思われる。例えば銀河系、太陽系、あるいは循環器系、消化器系、神経系、などである。

しかし数学用語として用いられる「系」の相当語句を英語で調べてみると、「Corollary」という難しい用語が見つかり、これは「System」ではない 。

またもっとも頻繁に「系」が使われるのは「何々系」という言い方で、日系人とか白系ロシア人とか、人種とか民俗について言われることが多かったみたいだが、最近では「お笑い系」とか「美人系」とか、人の特徴や傾向を表す場合にまで、実によく使われるが、こういう言い方がSystemと訳せないことはもちろんである。

ただ、こういう意味での「系」は自然科学や技術方面でも頻繁に用いられ、例えば「ポリエステル系の接着剤」などという場合は実に紛らわしいものとなる。この日本語本来の意味から言えば、この「系」は「System」ではないといえるが、それにも関わらず「System」と訳すことも可能で、結果的に、全体としてはそれ程異なった意味になるとも思えない。但しこの場合でも「ポリエステル・システム」は「ポリエステル系」とは完全に異なった意味を持つことになる。すなわち、ポリエステルを構成要素に持つシステムということになる。結果的にポリエステルを原材料の1つとして使用した複合材料ということになる場合もあり得る。

漢和辞典を調べるとわかるが、系という用語は糸という構成要素からも推定できるように、「つながり」というような意味に由来し、いろいろな意味でつながりや関連性のある全体を表すと同時に、そのメンバーである個体や構成要素を表すことも可能だといえる。というよりも、どちらかと言えば個体を表す場合の方が普通で、その場合「何々系」は形容詞的に用いられている。名詞的に用いられて全体を表す場合は「体系」とか「系統」のような熟語になるといえる。

それに対してSystemは、常に、構成された、あるいは関連性やつながりのある全体を指すものといえる。全体の構成要素である個物や個体にSystemは使えないということだろう。

これは単数形と複数形を区別しない日本語の特性と深い所で関係しているように思われる。

とりあえず、「System」と「系」を相互に翻訳する際には特に注意すべき事柄だろう。

2013年3月11日月曜日

『唯脳論』(養老猛司著、澤口俊之解説、ちくま学芸文庫)の読後感とその基本前提となる主張への疑問


本書の難解さ
本書を通読して言えることの一つに、非常に難解だということがある。難解であることに原因が考えられるとすれば、当然、その責任は読者側にあるか、書物、すなわち著者の側にあるか、あるいはその両者に原因があるかの三通りが考えられる。巻末解説者の脳科学者である澤口俊之氏によれば、氏自身もこの唯脳論をよく理解できないことを認めたうえで、その原因、難解である原因はひとえに読者側に、つまり読者の理解力不足あるとしているように見える。ちなみに氏は唯脳論を数千年に一度の画期的な理論であるとみなしておられる。

私の印象では、もちろん私の理解力不足に原因があるには違いないが、著者側にもこの本を難解にしている原因は間違いなくあるように思う。一回通読したうえでのおおざっぱな印象をいえば、全体的に論理構造が不明瞭で、錯綜しているといってもいいような印象を受ける。さらに言えば、論理構造の不明瞭さ、あるいは論理的な矛盾は、この著作自体に含まれるほかに、この著作で前提とされている脳科学における現在の一般的な、あるいは主流とされるような考え方そのものにも含まれている印象を受けた。というのは脳科学者である解説者が現在の脳科学の常識として指摘している本書中の主張そのものにその矛盾を私が感じるからである。まずその主張について考察してみたい。

本書の基礎となる主張
この『唯脳論』では、その主張は最初の「心身論と唯脳論」という節で、次のように表現されている。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」
要するに、心臓血管系の機能が血液の循環であるのと同じ意味で、脳の機能が心である、いう主張である。

また著者は、「脳」は「心臓血管系」と同様に「構造」であり、構造と機能との並行関係という視点でとらえている。したがって、「構造」という概念と「機能」という概念についての理解あるいは認識が鍵となるように思われるが、どちらについてもこの本ではそれ以上の分析がされていないように思われる。
いま「構造」について論じることは難しいが、「機能」という概念について、私なりに分析してみたいと思う。


機能が意味するもの
脳や心臓など、臓器について言う場合、「機能」という言葉と同様に「作用」とか、「活動」とか、「働き」とかの用語が良く使われる。この種の言葉は科学、特に自然科学の領域でも重要な箇所でよく使われる言葉だが、意外と無反省に使われている傾向があるように思われる。何れも非常に抽象的な表現ではあるが、これらの中で「機能」は比較的に具体性が高く、分析しやすいように思われるし、この本の中でも基本的に「機能」が使われているので「機能」について考察してみたい。

心臓血管系の場合、機能は「血液の循環」である(著者は簡単に「循環」と言っているが)。
一般に、「機能」は何らかの目的と不可分の関係であることが多い。心臓血管系の持つ血液の循環という機能の場合、それは人間の生命の維持という目的と不可分の関係にあるといえる。つまり、血液の循環は、人間の生命を維持するために必要な限りでの、心臓血管系が関わる生理現象であるといえる。心臓血管系が関わる生理現象や、さらに物理化学的に還元されるすべての現象を挙げればそれらは無数の現象から成り立っている。熱も発生するし、電波や音波などの波動も発生している。そういった無数の現象のすべてが心臓血管系の機能であるわけではなく、人間の生命維持に必要とされる血液の循環に関わる限りでの生理現象の総体が、心臓血管系の機能であるといえる。

もちろん、このように考えると、他方の「構造」に対応する概念とは言えなくなるかもしれない。しかし、著者が「機能」に対応させている「構造」の方にも同様のことが言えるのであって、人間の生命維持に必要な血液循環機能に関わる限りでの「構造」であって、考え得るあらゆる構造とは言えないのではないだろうか。

これは人間の作った道具に例えることでわかりやすくなる。機能という用語は、生物の臓器などと同様に、道具や機械について特に用いられる用語である。

例えばスピーカーという道具の機能は普通、簡単に言ってしまえば「音を出す」ことと考えられている。しかし、もちろんのこと、どんな音でもよいわけではない。何かが箱にぶつかって出る音はスピーカーの機能に含まれない。他方、スピーカーは熱も出す。また光を反射しているので見ることができるが、こういう現象もスピーカーの機能には含まれない。つまり、スピーカーの機能を正確に言えば、スピーカーを使用する人間が何らかの目的で電気信号を流すことで、その電気信号に従った音波を発生することにある。言い換えると、スピーカーの機能とは、人間が音楽を再生したり、通信に用いたりする用途に合致するように音波を発生することに関わる限りで、スピーカー内で生じる物理現象のすべてを指すといえるだろう。

他方、スピーカーの構造とは、そのような目的で人間が設計した限りでの構造を意味するといえる。
その場から人間が去ってしまえばそれはもうスピーカーではなくなる。

脳と心臓血管系についても同様のことが言える。いずれの機能についても、その背後と前方に人間という全体的存在が欠かせない。この意味で、血液の循環が心臓血管系の機能であるというのは自然であり、誰もが納得できることである。しかし、脳と心について同じことだいえるであろうか。

まず、心が人間の生存、生命を維持するうえで重要な働きをしていることは否定できない。しかし、常にそうであるといえるだろうか。人間は自殺することがある。また自分ではなく他人の生命を維持するために働くこともあれば、殺人を犯すこともある。こういう行為に「心」が関わっていないなどとは誰も言えないであろう。

こう考えてくると、心臓血管系の血液循環機能の場合も生命の維持ではなく生命を破壊する方向に作用する場合もあるのではないかという疑問が持たれるかもしれない。確かに、血液循環機能はがん細胞の増殖をも促進することで、結果的に生命を脅かすことにもつながる。しかしここで改めて言葉の意味について分析してみる必要がある。血液循環機能というのは人間が作り出した生理学、あるいは生物学上の概念なのである。物理学や化学にはこのような概念はない。

試みに、ウィキペディアで「生理学」を調べてみると、「生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」となっている。「機能」を辞書で調べてみると、例えば次のような定義が見つかる。「器官・機械などで相互に関連し合って全体を構成する個々の各部分が、全体の中でになっている固有の役割(大辞林第三版)」この定義は生理現象などについては適切な定義と言えると思われる。

意味するものと意味されるもの
つまり、血液循環機能は血液循環という生命現象のひとつを機能という見方で把握した概念であるともいえる。血液循環という現象、つまり血液循環現象そのものは、いわば「意味されるもの」であり、血液循環機能という場合は血液循環という現象を生理学的な機能という観点で把握したところのいわば「意味するもの」だといえる。

血液循環機能を「生命を維持するための機能」ととらえるのは生理学的な機能を端的に、わかり易く表現したまでで、生理学的な機能と完全に一致するというわけではないとも言える。

「心」に対して以上のような意味的な分析が可能であろうか。

これに関して、「心」について、著者は次のように述べている。「心を脳の機能としてではなく、何か特別なものとして考える。―中略― それはおそらく間違いである。」
ここで、「心を脳の機能として考える」のは著者の立場であり、「なにか特別なものとして考える」のは著者が「おそらく間違いである」として批判の対象にしている人々の立場であるといえる。ここで著者が指摘するような脳と心臓血管系との対応関係を適用すれば、著者の立場は血液循環機能と同様、「心という機能」として、つまり「意味するもの」として使用していることになる。これはひとつの概念である。心とはそれ自体が概念なのであろうか。心それ自体が概念と言えるであろうか。

「心」という言葉は、日本語でもそれ以外の言葉でも、生物学や生理学が確立されるよりはるか以前からある。それに対して、歴史的に、血液の循環は、「心臓は人間を含む動物の生命現象においてどのような役割を果たしているのであろうか」という疑問、要するに生物学や生理学的な探究の結果として発見された現象であり、「血液の循環機能」はその現象を機能として意味づけるために作られた新しい生物学ないし生理学上の用語なのである。

ここで最初に引用した著者の基本的な主張をもう一度確認してみたい。それは次のとおりである。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」

ここで著者は「心臓血管系」を「脳」に対応させ、また「循環」を「心」対応させているのであるが、ここでの「循環」と「心」は共に「意味されるもの」を指しているものと考えざるを得ないのである。しかし、以上に見てきたように、それ以降で展開される著者の議論では、「心」を「意味するもの」として使用していると考えられるのである。ここに重大な矛盾が存在する。

【「心」は単に名前なのか
このような次第で、血液循環機能とは血液循環現象に与えられた概念であり、換言すれば血液循環現象を意味するものとしての「名前」ともいえるのである。

一方、「心」が血液循環機能に対応する脳の機能に対して与えられた「名前」以外の何物でもないとは、たいていの人は承服できないのではないだろうか。

他方、著者が批判の対象としているところの、心を「なにか特別なものとして考える」立場では、「心」という単語自体は名詞であり、何らかの対象に与えられた、対象を意味するところの名前であることは確かだが、その意味する対象は「心」という言葉でしか表現できないところの「何か特別なもの」なのであるといえる。この「何か特別なもの」が「意味されるものである」

この「心」という言葉によって「意味されるもの」は、「心」(あるいはそれと類縁の言葉、例えば精神とか、外国語の相当語句など)という言葉でしか表現できないものであるが、いろいろな性質は考えられる。たとえば意思(自由であるかどうかはともかくも)や感情を持つことなどである。であるからこそ、生命現象の本来の機能に反するような自殺を意図したり、他人の身体や生命に影響を及ぼしたりもできるのである。

脳機能の内容
一方、それでは著者によって「心」という名前が与えられたところの、「意味される」対象である脳機能はどういうものだろうか。それは現在に至るまでの脳科学あるいは神経系に関する学問分野の直接の研究内容のすべてと言えるのだろうが、それに「心」という名前を与えるに値するだけの内容を持つといえるだろうか。

心臓血管系における血液循環機能と同様の生理現象的な部分でわかっていることは、神経細胞を流れる信号(何らかの電気的な現象や化学的な現象)の他、脳波などの物理現象ということになるのではないだろうか。

脳の場合、こういう電気的あるいは化学的な信号に意味的なものが加わっている。意味的なものが加わっているからこそ、信号と言えるわけであり、著者を含めて多くの科学者がさらにそれを「情報」と表現している場合が多い。脳という器官自体がそれらの意味を理解しているかどうかは証明不能であろう。あくまで比ゆ的に用いられているに過ぎない。コンピューターが情報の意味内容を理解しているといえないのと同様にである。それらの信号に「意味」を見ているのは、考察している人間以外の何物でもない。

著者は本文最初の「唯脳論とはなにか」という節の冒頭近くで、「ヒトが人である所以はシンボル活動にある」と述べている。これは「人間はシンボルを繰る動物である」とするカッシーラーの定義と同じであるが、著者を含む多くの脳関連の科学者は「脳」を主語にした行為として生理現象を説明することで、「人間」を「脳」に置き換ええる。

シンボル活動を行う主体としての「人間」は自明な存在と言える。カッシーラーが人間をシンボルを繰る動物として定義し、「人間(邦訳)」という書物を書いたのは、人間がシンボルを繰る主体として自明な存在であったからであると思われる。これに対して臓器に命令したり、臓器の機能をつかさどったり、制御したり、知ったりする主体としての脳は自明な存在とは程遠い。

「脳が命令する」とか、「脳がつかさどる」とか「脳がコントロール」するとかの表現はすべて比喩に過ぎない。こういう比喩は個々のメカニズムや機能を説明するには有用な表現であろうけれども、こういう比喩を前提に論理を積み上げてみたところで、出来上がった理論も所詮は比喩に過ぎない。
言い換えると、脳を人間に例えて語っているに過ぎない。つまり脳の擬人化と言える。

以上は本書の冒頭節『唯脳論とはなにか』で、本書全体で展開される唯脳論の基本前提とされている「心は脳の機能である」という主張に対する疑問ないしは反論である。非常に広範囲に及ぶ問題について考察されている本書の全体については、また再読する機会があれば、部分的にでも感想を述べてみたいが、広範で複雑な内容だけに困難なものになりそうである。

2013年3月2日土曜日

プログラミング言語は「言語」か

プログラミング言語が日本語や英語と同じ意味で言語であるという認識が以前にもまして、一般的にも広がって話題になってきているみたいである。最近もネット犯罪のニュースが話題になることなどもあって、こういった発言がマスコミやネットの間でも目立つように思うが、個人的にはどうも気持ちが良くない。


確かに、学問的にプログラミング言語は「言語」とされているようである。私もかつてほんの初歩だが、放送大学で情報工学を受講し、なんとか単位を取ったが、その時の教科書でも、プログラミング言語が言語であることは理論的に証明済みだということになっていた。


しかし、こういう「証明」ができるのも結局は定義次第である。言語の定義、あるいは言葉の定義など、今までに完全な定義などあるだろうか?またある程度の定義ができた所で、その定義の意味が完全に客観的に、あるいは論理的に理解可能ということがあるだろうか。としてみると、プログラミング言語も、いわゆる自然言語も共通に含まれるような定義があっても不思議はないし、プログラミング言語を含められない定義もいくらもできるであろう。


先の放送大学での情報工学を受講した際、論理学の問題で先生に次のような質問をしたことがある。それは、形式論理を完全に意味論から切り離す事が可能なのか?それに対する先生の回答は、そういう考えもあるが、切り離すことができると考えた方がプログラミンング言語を作りやすいので、そう考えることにしている、ということであった。


要するに、技術の問題なのである。プログラミング言語の一つも使えない者がこんなことを言うのも多少気が引けるが、プログラム言語が、自然言語とか機械言語とかの種別はあるものの、日本語や英語と同じ意味で言語であると考えることで技術上の概念操作が効率的にスムースに行えるということではないだろうか。

例えば、一般人が普通にコンピュータを使う際でも、コンピュータが文字を認識するとか、文字認識ソフトなど、擬人的な表現を使うが、擬人的な表現を使うことなくコンピューターやロボットを技術的に扱うことが事実上不可能になっていることと同じ理屈であると思う。


これは技術の問題であって、科学の問題でもなく、さらに普遍的な真理の問題と考えるべきではないと思う。普遍的な真理の問題として言語の定義を考えることができるとすれば、それは哲学の問題になると言えるのではないか。


日常のレベルでは、ちょっと考えてみるだけで、プログラミング言語が日本語や英語などの自然言語とは異なるものである、と言える根拠はいくらで挙げることができる。第一、プログラミング言語を人間同士のコミュニケーションには使えない。感情や思想を表現することもできない。それがどうして言語なのか?という疑問を投げかけることもできるはずである。


両者が同じ言語という範疇に属すことが証明されている理論というのは結局は文法理論の一つなのだろうけれども、あくまで一つの理論であって、それが技術的に役立つということ以下でも以上でもない、ということなのではないだろうか


プログラミング言語が、自然言語と呼ばれる日本語や英語と同じ意味で言語であるという考え方も一種の比喩で、日常の会話でもそう説明することで便利になるのであればその場限りの比喩として役立つ単なる表現とでも考えておくのが良いのではないかと思う。しかしそれが何か深いところに潜む普遍的な真理であるかのように思わせる雰囲気が社会的に広がっているようなところがあって、あまり良い傾向ではないような気がするのである。


またちょっとニュアンスの違う問題だが、プログラミング言語こそが論理の神髄であるとか論理そのものであるかのような発言もよく目にすることがある。これもちょっと違うのでなないか。

論理学や数学的な研究がもとになってプログラミング言語ができたのであって、その逆ではないだろう。


論理的な思考を正確に実行するための訓練にはなるのだろうが、それだけが論理ではないし、論理の本質的な部分ではないように思えるのだが。


2013年1月27日日曜日

岡潔の科学観とゲーテの言葉 ― 科学と人間的なもの ― 科学と陰謀

小林秀雄と岡潔の対談を掲載した『人間の建設』を文庫本で読んだ。小林秀雄全集から文庫本に再録された薄い本で昨年発行され、先日購入したのは今年の第八刷。茂木健一郎氏が最後に解説文を書いている。この本を購入する気になったのは、岡潔が小林秀雄を相手に、相対性理論について、かなりのスペースを割いて説明というか、見解を述べていたので、詳しく読んでみたいと思ったからであった。

今は一読しただけなので、もちろん難しい話でもあり、その個所については何とも言えないが、そのあと岡潔が科学一般について簡潔に定義しているところがあって、それは非常に簡潔で当を得た見事な定義であると思われた。その個所は、「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張を入れる。・・・」

この発言自体は相対性理論についての文脈で、この後もまだその文脈は続くのであるが、相対論に関わる文脈を離れても、この定義「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのです・・・」は非常に有効な一つの定義というか、科学についてのもっとも本質的な局面を表すものといえるように思われる。当たり前のこと、と言うこともできようが、そうだとしてもそれが忘れられがちでもあり、ことに近年は科学についてこれとは異なった面の方が強調されがちであると思えるのである。

この定義は、先般このブログで触れたゲーテの発言にも直接つながるものだといえる。その個所をここに再録すると、

『1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。』

もうひとつ、思い出すことのひとつは私が直接耳にしたたところの、記憶に残っている言葉で、大学の鉱物学教授、T先生が良く口にした次のフレーズである。「・・・科学は人間性を疎外しますからね・・・」。そういえばこのT先生もゲーテのファンで、授業中に時に専門の講義ををそっちのけでゲーテがどうこうという話を始めたりするものだから、一部には不評だった。(もっともゲーテ自身が科学者、地質学者を任じていたこともあり、他の先生も専門的な文脈でゲーテに言及することはあるにはあったし、特に生物学者や地質学者にはゲーテのファンが多いということはある)。で、「疎外しますからね、・・」の続きはどういうことかと言えばそれはつまり、自然科学は人間性を疎外(この字の「疎外」で良いのだろうと思うが、個人的には、よくこの意味を知っているわけではない)するので、他方で哲学や文学も続けてこなければ持ちこたえられなかったであろうということ、自然科学だけでは精神的に耐えられなかった、ということではなかったかと理解している。

以上の三者に共通することは、科学が人間的なものを排除することで成立するという認識だといえるが、ゲーテは「いっそう高次の人間」と言ったり、「魂の言語が自在に駆使できなければならない」と言い、「魂の言語」なる概念を持ち出す。こういう表現でゲーテは何を言おうとしているのであろうか?これは当面、難しすぎる問題である。

いずれにせよ、ゲーテはこの科学の問題を言語の問題として語っているのに対して、岡潔は言語の問題を捨象して語っている、あるいは言語には触れていない。そういうことを含めてこの二つの発言の微妙な差異を分析することは興味深いものになるような気もするが、他方、そういう緻密な分析には深入りせずとも、このような科学の定義、科学の本質的な局面からすぐに思い浮かぶことは、理科系学問と文化系学問の違い、人々が自然科学的な考察に慣れた人々と、歴史や社会的、政治的なものへの理解に慣れた人々に分かれる傾向があることなどの問題の考察への基本的な糸口になることである。

少なくとも、知的な専門分野が理科系と文化系に分かれていることは自然なことでもあり、止むを得ないことでもあることが、このことからも納得できるのである。

他方、理科系の分野では思考から可能な限り人間的な要素を抜くということだとしても、完全に抜き去ってしまうことが不可能であることはゲーテの言葉からも明らかである。言葉そのものが人間的なものから生じているのだから、これはもうどうにもしようのないことなのだが、科学というものはそこを何とか無理をしながらも自然をとらえようと努力してきたのだろう。


また、同じ理科系と言ってもその科学性の純度には分野によって大きく差があるともいえる。技術系、工学となると、これらほど一面で人間的なものに束縛される分野もないからである。たとえば科学技術の最たるものであるコンピューター、ロボット技術や情報技術においては機械装置やソフトウェアを擬人化せずに、つまり擬人的な言語表現を用いずに使用することはもちろん、設計することも、説明することも不可能であろう。

当然、技術、工学や医学のみならず、人文科学とか社会科学などの「科学」性が問題になる。これらの学問分野が科学であるかとか、そうでないとかの議論は昔から盛んにおこなわれているが、特に心理学や言語学、精神医学、他方では歴史学などで問題になることが多かったのではないかと思う。最近では脳科学とコンピュータサイエンスの発達に伴って急速にこれらの人文系、社会学系分野の科学性が求められるような風潮が加速してきたような印象がある。

こういう現状に照らし合わせて、元の文脈に戻ってみたい。
岡潔は科学の立場からみて、科学に「主張のない科学に勝手な主張を入れる。」と、科学に人間的なものが混入してくることを、つまり科学が不純なものになること、歪められることを問題視しているわけであるけれども、上述の工学や医学のように明らかに人間的な要素の含まれる分野の存在を問題にしているわけではないことは明らかだろう。工学や医学はいわば自然科学の応用であって、工学的あるいは医学的な問題の解決の過程で自然科学的な知見を利用しているのであり、最初から明瞭な目的が前提となっている。科学はその目的のための手段の一つに過ぎない。目的のために手段として利用されている基礎科学の内容そのものに立ち入ることはなく、歪めることもない筈である。

しかし、工学や医学は全体としてのそれら自体が科学そのものであるとは言えない。また、建物の基礎があまりにも重い建造物のために崩れたり変形したりする可能性があるように、科学的な基礎が揺らぐこともないとは言えないだろう。このこと、つまり工学や医学は全体としてのそれら自体は決して自然科学そのものではないということをよくよく認識することは、昨今の風潮から見て特に重要なことであるように思われる。

というのも昨今はどのような分野においてもことさら科学性が強調される傾向が強いからである。自然科学を基礎とする、あるいはそれを手段として用いる工学や医学のみならず、社会科学や人文科学をも科学でなければならない、科学にしなければならない、自然科学と同一の基礎を持たなければならない、といった強迫観念のような考え方が正当であるかのような論調が多いからである。

かつて若いころ、私自身もそのような強迫観念のようなものを持っていた。特に歴史、歴史学に対してそのような考えを持っていた。しかし今ではそのような強迫観念こそが有害なものだと思っている。歴史は歴史、歴史学はあくまで歴史学であって、自然科学と同じ意味での科学ではありえない。科学にもいろいろな定義の仕方があり、定義によっては科学と言えるかもしれないが、少なくとも自然科学と同じ意味での科学ではありえない。そもそも同じ自然科学であっても物理学と生物学あるいは地球科学とが、同一の基礎のうえに立っているとは言えない。

科学ではあり得ないもの、科学になりえないものを科学でなければならない、自然科学と同様の形式を持たねばらならない、同様の条件を満たさなければならない、という無理に科学であるかのように、科学の外観を与えようとするとどこかに無理がかかり、いびつなものが出来上がるのではないかと思われる。そういうものを疑似科学と呼ぶことはできるかもしれない。しかし、言葉の次元でもゲーテが言うように完全な科学というもの、純粋な科学というものは殆どあり得ないもの、いわば理念的なものであるとすれば、事実上あらゆる科学は疑似科学であるということになってしまう。ただ、程度や方式の問題になってしまうのである。

例えば当ブログの以前の記事で取り上げた梅棹忠雄の「文明の生態史観」によれば、著者は、「生態史観は単なる知的好奇心の産物であって現状の価値評価でも現状変革の指針でもない。そのような「べき」、当為の立場に立たなかったからこそ、生態史観のようなものができたと考えている。」と述べている。

梅棹忠雄のいう「純粋な知的好奇心の産物」は科学ないし自然科学とはまた別、というよりももっと幅広いものであると思われる。

「べき」、当為の要素を取り除くことは人間的な要素を取り除くという点で科学に近づいたものになるとはいえるかもしれないが、しかしそれで文明の生態史観が、自然科学と同じ基準で科学であるとは言えないし、梅棹忠雄自身もそこまで科学そのものであるとは考えていなかったのではないかと思う。文明という概念自体が科学とは相容れないものだからである。そのモデルである生物学的生態学にしても、また生物学全般にしてもそうである。これは、生物学が化学と物理学に還元されるとかされないとかいった議論とは異なる。化学や物理学自体にしてからが言葉なくして成立しないもので、完全に人間的なものから解放され得ないともいえる。

もちろん、歴史につきものである過去や現在の事実検証、未来の予測において科学的な手法を用いなければならないし、その限りで科学的な概念と手法に従わなければならない。しかし歴史あるいは歴史学そのものが科学になることは永遠にあり得ない。歴史の真実と科学的真実とは全く別物であるからである。

歴史も、科学も、言葉を用いる。しかし歴史の言葉から人間性を排除することはできないのに対して、科学の言葉からは可能な限り人間性を捨象しなければならないのである。

例えば歴史的な問題で科学性との関係で、疑似科学論議を含めてよく話題にされる問題に「陰謀論」がある。「陰謀論」という歴史理論のカテゴリーのようなものがあって、それが科学ではないとか、「疑似科学」であるとか、「ニセ科学」であるとかの議論が専門の自然科学とされる科学分野の科学者を含め、批判の対象になっている。

陰謀とはまた格別に人間的な言葉ではあり、概念であり、意味である。こういう格別に人間的な概念が岡潔の言う「主張のない科学に勝手な主張を入れる」事と同様、科学的な考察に影響を与えることがあるとすれば科学にとって重大な問題だろう。とすればよく「疑似科学批判」というような科学そのものについて考察すると言えなくもない文脈で、「陰謀」とか「陰謀論」が問題にされるのも表面的には一理はあると言えなくもない。

しかし問題はあくまで科学側の問題なのであって、科学的な考察の中に中に「陰謀」という概念や陰謀そのものが入り込み、陰謀によって科学的結論が歪められたりすることがあるとすればそういうことこそが問題になるのであり、陰謀をあつかうこと、政治や歴史の中における陰謀について何かを主張すること自体が問題になるわけではない。

陰謀論や「陰謀」そのものの具体的な定義は何であれ、「陰謀論」と呼ばれているものは広い意味で歴史、あるいは歴史認識とでも呼ばれるものの範疇にはいるものとみなせるが、すでに述べたように歴史自体も歴史学も、それ自体を科学とみなすことはできないが、そうであるからと言って、疑似科学とかニセ科学とか、あるいは反科学といったカテゴリーに入るわけでもない。単に歴史、あるいは歴史学と呼ばれる一つの言説に過ぎない。真実や事実という見方においても、歴史的な真実と科学的な真実とは別物である

陰謀にしても、陰謀論にしても、そういった概念自体は科学とは馴染まない、というよりも相容れないというべきで、陰謀の定義、陰謀の存在や、陰謀の意義や機能、そういったものをいくら客観的に扱ったところで、科学になるというものでもない。科学が介入できるのは具体的な事実関係だけである。

もちろん、歴史的真実に科学的真実が含まれる、あるいは歴史的真実の前提として科学的真実が必要とされる場合はあるし、多くの場合はそういえるであろう。その場合、科学性を問題にするのであれば、その科学的真実にかかわる部分のみを問題にすればよいのであって、全体としての「陰謀論」そのものが科学ではないとか、これまた明瞭とは言えない概念である「疑似科学」であるといったような定義づけをすることには何の意味もないのである。

また一方、あまりにも人間的である政治的な歴史からは遠く離れた分野であり、純然たる自然科学である地球科学上の問題である「地球温暖化懐疑論」が科学ではないとか、「疑似科学である」とか、主張する人がいる。これには逆の立場もある。CO2温暖化説そのものが科学ではないとか、疑似科学であるとかの主張である。どちらかと言えば、というか程度の問題からいえば、後者の方に正当性があると思うが、こういう正反対の主張が出てくること自体がこういった議論の無意味さを表しているのではないかと思われる。。

地球科学は工学とはまた異なった意味で、物理学や化学とは異なっている。地球科学あるいは地質学、ジオロジーは究極的には地史、すなわち地球の歴史となるべきだという考え方がある。とすれば、人間の歴史、民族や国家や人類の歴史と同様、歴史であるとすれば、人間的なものが相当に入ってくるはずのものであって、可能な限り人間的なものを排除してゆくべき、純粋性を追求すべき科学の分野ではないと思われるのである。

しかしCO2温暖化説を含んだ地球温暖化に関する議論では、この問題自体はCO2という化学物質、太陽活動を含めたエネルギー、そして物理的な時間といった物理と化学の量にすべてが還元される問題である。たとえ人間活動が入っていても、この問題に関する限り人間活動も生物の活動も完全に化学物質と物理量に還元されるのである。それを歴史的に扱うのが地球化学なのである。地球化学的に合理的に説明されているかどうかを判定することがすべてであり、疑似科学であるとかニセ科学であるとかの議論は何の意味も必要性もないのである。

2013年1月17日木曜日

一行の一覧性は横書きが優れるが、ページの一覧性は縦書きの方が優れている ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その6

前回同様、「縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題」の補足記事です。以前、一覧性においては横書きが優れているのではないかと書きましたが、その若干の修正になると思います。


このシリーズの最初の記事で述べたことですが、縦書きが読み取りの確実性、正確性の点で優れるのに対して横書きは一覧性と速読性において優れる面があると思われます。しかし一覧性について言えば、これは一行の読み取りに関することであって、ページ全体の一覧性について言えば、縦書きの方が優れているように思われます。これは一般的に言って縦方向よりも横方向の一覧性が優れているとすれば当然のことともいえますが、これはこれではっきりと指摘しておく必要があるものと思います。

一般に縦方向の一覧性よりも横方向の一覧性が優れていること自体は映画やテレビ、PCディスプレイの殆どが横長であることからも明らかで、殆ど自明のことであると言えるかもしれません。絵画の額縁や写真の場合も殆どが横長です。イメージでは文章よりも一覧性が要求されますから、これは当然のことでしょう。一方、文章の場合、書物の見開きではたいてい横長になりますが、1枚のシートでは、現在では縦長が標準のようです。しかし日本のような縦書き文化圏では伝統的にどうだったのでしょうか。縦書きと横書きの問題を考察する場合はこういう視点も必要になってくると思われます。


近いところで、今でも使われている原稿用紙は中央で二分され袋とじに対応し、袋とじにすると縦長にはなりますが、基本的に横長と言えます。他方、横書き用の原稿用紙は縦長で、袋とじには対応できない形式になっています。


書籍でも、大型の書籍や字の小さな雑誌では殆どの場合は数段の段組みになっています。横書きの場合ももちろん縦の段組みになる場合があるわけですが、データは確認していませんが、個人的な印象では、日本語の縦書きは英語の場合に比べて段組みになる場合が多いように思われます。新聞や雑誌のように縦の長さが短く、かなり極端な横長ページになると、縦の、一行あたりの一覧性も横書きにそれほど劣ることがなくなるうえ、横方向の(ページ)一覧性が加わり、横書きに比べて優れたページ全体の一覧性が得られるような気がします。


総合的な一覧性は、一概に言えないにしても、しいて言えば、縦書きの方が優れているのではないでしょうか。ページ全体の一覧性は一行の一覧性よりもメリットが大きいのではないかと思われるからです。もちろん、英文や数式の併記への対応を考慮すればそうも言っておられなくなってしまいますが。