2013年1月27日日曜日

岡潔の科学観とゲーテの言葉 ― 科学と人間的なもの ― 科学と陰謀

小林秀雄と岡潔の対談を掲載した『人間の建設』を文庫本で読んだ。小林秀雄全集から文庫本に再録された薄い本で昨年発行され、先日購入したのは今年の第八刷。茂木健一郎氏が最後に解説文を書いている。この本を購入する気になったのは、岡潔が小林秀雄を相手に、相対性理論について、かなりのスペースを割いて説明というか、見解を述べていたので、詳しく読んでみたいと思ったからであった。

今は一読しただけなので、もちろん難しい話でもあり、その個所については何とも言えないが、そのあと岡潔が科学一般について簡潔に定義しているところがあって、それは非常に簡潔で当を得た見事な定義であると思われた。その個所は、「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張を入れる。・・・」

この発言自体は相対性理論についての文脈で、この後もまだその文脈は続くのであるが、相対論に関わる文脈を離れても、この定義「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのです・・・」は非常に有効な一つの定義というか、科学についてのもっとも本質的な局面を表すものといえるように思われる。当たり前のこと、と言うこともできようが、そうだとしてもそれが忘れられがちでもあり、ことに近年は科学についてこれとは異なった面の方が強調されがちであると思えるのである。

この定義は、先般このブログで触れたゲーテの発言にも直接つながるものだといえる。その個所をここに再録すると、

『1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。』

もうひとつ、思い出すことのひとつは私が直接耳にしたたところの、記憶に残っている言葉で、大学の鉱物学教授、T先生が良く口にした次のフレーズである。「・・・科学は人間性を疎外しますからね・・・」。そういえばこのT先生もゲーテのファンで、授業中に時に専門の講義ををそっちのけでゲーテがどうこうという話を始めたりするものだから、一部には不評だった。(もっともゲーテ自身が科学者、地質学者を任じていたこともあり、他の先生も専門的な文脈でゲーテに言及することはあるにはあったし、特に生物学者や地質学者にはゲーテのファンが多いということはある)。で、「疎外しますからね、・・」の続きはどういうことかと言えばそれはつまり、自然科学は人間性を疎外(この字の「疎外」で良いのだろうと思うが、個人的には、よくこの意味を知っているわけではない)するので、他方で哲学や文学も続けてこなければ持ちこたえられなかったであろうということ、自然科学だけでは精神的に耐えられなかった、ということではなかったかと理解している。

以上の三者に共通することは、科学が人間的なものを排除することで成立するという認識だといえるが、ゲーテは「いっそう高次の人間」と言ったり、「魂の言語が自在に駆使できなければならない」と言い、「魂の言語」なる概念を持ち出す。こういう表現でゲーテは何を言おうとしているのであろうか?これは当面、難しすぎる問題である。

いずれにせよ、ゲーテはこの科学の問題を言語の問題として語っているのに対して、岡潔は言語の問題を捨象して語っている、あるいは言語には触れていない。そういうことを含めてこの二つの発言の微妙な差異を分析することは興味深いものになるような気もするが、他方、そういう緻密な分析には深入りせずとも、このような科学の定義、科学の本質的な局面からすぐに思い浮かぶことは、理科系学問と文化系学問の違い、人々が自然科学的な考察に慣れた人々と、歴史や社会的、政治的なものへの理解に慣れた人々に分かれる傾向があることなどの問題の考察への基本的な糸口になることである。

少なくとも、知的な専門分野が理科系と文化系に分かれていることは自然なことでもあり、止むを得ないことでもあることが、このことからも納得できるのである。

他方、理科系の分野では思考から可能な限り人間的な要素を抜くということだとしても、完全に抜き去ってしまうことが不可能であることはゲーテの言葉からも明らかである。言葉そのものが人間的なものから生じているのだから、これはもうどうにもしようのないことなのだが、科学というものはそこを何とか無理をしながらも自然をとらえようと努力してきたのだろう。


また、同じ理科系と言ってもその科学性の純度には分野によって大きく差があるともいえる。技術系、工学となると、これらほど一面で人間的なものに束縛される分野もないからである。たとえば科学技術の最たるものであるコンピューター、ロボット技術や情報技術においては機械装置やソフトウェアを擬人化せずに、つまり擬人的な言語表現を用いずに使用することはもちろん、設計することも、説明することも不可能であろう。

当然、技術、工学や医学のみならず、人文科学とか社会科学などの「科学」性が問題になる。これらの学問分野が科学であるかとか、そうでないとかの議論は昔から盛んにおこなわれているが、特に心理学や言語学、精神医学、他方では歴史学などで問題になることが多かったのではないかと思う。最近では脳科学とコンピュータサイエンスの発達に伴って急速にこれらの人文系、社会学系分野の科学性が求められるような風潮が加速してきたような印象がある。

こういう現状に照らし合わせて、元の文脈に戻ってみたい。
岡潔は科学の立場からみて、科学に「主張のない科学に勝手な主張を入れる。」と、科学に人間的なものが混入してくることを、つまり科学が不純なものになること、歪められることを問題視しているわけであるけれども、上述の工学や医学のように明らかに人間的な要素の含まれる分野の存在を問題にしているわけではないことは明らかだろう。工学や医学はいわば自然科学の応用であって、工学的あるいは医学的な問題の解決の過程で自然科学的な知見を利用しているのであり、最初から明瞭な目的が前提となっている。科学はその目的のための手段の一つに過ぎない。目的のために手段として利用されている基礎科学の内容そのものに立ち入ることはなく、歪めることもない筈である。

しかし、工学や医学は全体としてのそれら自体が科学そのものであるとは言えない。また、建物の基礎があまりにも重い建造物のために崩れたり変形したりする可能性があるように、科学的な基礎が揺らぐこともないとは言えないだろう。このこと、つまり工学や医学は全体としてのそれら自体は決して自然科学そのものではないということをよくよく認識することは、昨今の風潮から見て特に重要なことであるように思われる。

というのも昨今はどのような分野においてもことさら科学性が強調される傾向が強いからである。自然科学を基礎とする、あるいはそれを手段として用いる工学や医学のみならず、社会科学や人文科学をも科学でなければならない、科学にしなければならない、自然科学と同一の基礎を持たなければならない、といった強迫観念のような考え方が正当であるかのような論調が多いからである。

かつて若いころ、私自身もそのような強迫観念のようなものを持っていた。特に歴史、歴史学に対してそのような考えを持っていた。しかし今ではそのような強迫観念こそが有害なものだと思っている。歴史は歴史、歴史学はあくまで歴史学であって、自然科学と同じ意味での科学ではありえない。科学にもいろいろな定義の仕方があり、定義によっては科学と言えるかもしれないが、少なくとも自然科学と同じ意味での科学ではありえない。そもそも同じ自然科学であっても物理学と生物学あるいは地球科学とが、同一の基礎のうえに立っているとは言えない。

科学ではあり得ないもの、科学になりえないものを科学でなければならない、自然科学と同様の形式を持たねばらならない、同様の条件を満たさなければならない、という無理に科学であるかのように、科学の外観を与えようとするとどこかに無理がかかり、いびつなものが出来上がるのではないかと思われる。そういうものを疑似科学と呼ぶことはできるかもしれない。しかし、言葉の次元でもゲーテが言うように完全な科学というもの、純粋な科学というものは殆どあり得ないもの、いわば理念的なものであるとすれば、事実上あらゆる科学は疑似科学であるということになってしまう。ただ、程度や方式の問題になってしまうのである。

例えば当ブログの以前の記事で取り上げた梅棹忠雄の「文明の生態史観」によれば、著者は、「生態史観は単なる知的好奇心の産物であって現状の価値評価でも現状変革の指針でもない。そのような「べき」、当為の立場に立たなかったからこそ、生態史観のようなものができたと考えている。」と述べている。

梅棹忠雄のいう「純粋な知的好奇心の産物」は科学ないし自然科学とはまた別、というよりももっと幅広いものであると思われる。

「べき」、当為の要素を取り除くことは人間的な要素を取り除くという点で科学に近づいたものになるとはいえるかもしれないが、しかしそれで文明の生態史観が、自然科学と同じ基準で科学であるとは言えないし、梅棹忠雄自身もそこまで科学そのものであるとは考えていなかったのではないかと思う。文明という概念自体が科学とは相容れないものだからである。そのモデルである生物学的生態学にしても、また生物学全般にしてもそうである。これは、生物学が化学と物理学に還元されるとかされないとかいった議論とは異なる。化学や物理学自体にしてからが言葉なくして成立しないもので、完全に人間的なものから解放され得ないともいえる。

もちろん、歴史につきものである過去や現在の事実検証、未来の予測において科学的な手法を用いなければならないし、その限りで科学的な概念と手法に従わなければならない。しかし歴史あるいは歴史学そのものが科学になることは永遠にあり得ない。歴史の真実と科学的真実とは全く別物であるからである。

歴史も、科学も、言葉を用いる。しかし歴史の言葉から人間性を排除することはできないのに対して、科学の言葉からは可能な限り人間性を捨象しなければならないのである。

例えば歴史的な問題で科学性との関係で、疑似科学論議を含めてよく話題にされる問題に「陰謀論」がある。「陰謀論」という歴史理論のカテゴリーのようなものがあって、それが科学ではないとか、「疑似科学」であるとか、「ニセ科学」であるとかの議論が専門の自然科学とされる科学分野の科学者を含め、批判の対象になっている。

陰謀とはまた格別に人間的な言葉ではあり、概念であり、意味である。こういう格別に人間的な概念が岡潔の言う「主張のない科学に勝手な主張を入れる」事と同様、科学的な考察に影響を与えることがあるとすれば科学にとって重大な問題だろう。とすればよく「疑似科学批判」というような科学そのものについて考察すると言えなくもない文脈で、「陰謀」とか「陰謀論」が問題にされるのも表面的には一理はあると言えなくもない。

しかし問題はあくまで科学側の問題なのであって、科学的な考察の中に中に「陰謀」という概念や陰謀そのものが入り込み、陰謀によって科学的結論が歪められたりすることがあるとすればそういうことこそが問題になるのであり、陰謀をあつかうこと、政治や歴史の中における陰謀について何かを主張すること自体が問題になるわけではない。

陰謀論や「陰謀」そのものの具体的な定義は何であれ、「陰謀論」と呼ばれているものは広い意味で歴史、あるいは歴史認識とでも呼ばれるものの範疇にはいるものとみなせるが、すでに述べたように歴史自体も歴史学も、それ自体を科学とみなすことはできないが、そうであるからと言って、疑似科学とかニセ科学とか、あるいは反科学といったカテゴリーに入るわけでもない。単に歴史、あるいは歴史学と呼ばれる一つの言説に過ぎない。真実や事実という見方においても、歴史的な真実と科学的な真実とは別物である

陰謀にしても、陰謀論にしても、そういった概念自体は科学とは馴染まない、というよりも相容れないというべきで、陰謀の定義、陰謀の存在や、陰謀の意義や機能、そういったものをいくら客観的に扱ったところで、科学になるというものでもない。科学が介入できるのは具体的な事実関係だけである。

もちろん、歴史的真実に科学的真実が含まれる、あるいは歴史的真実の前提として科学的真実が必要とされる場合はあるし、多くの場合はそういえるであろう。その場合、科学性を問題にするのであれば、その科学的真実にかかわる部分のみを問題にすればよいのであって、全体としての「陰謀論」そのものが科学ではないとか、これまた明瞭とは言えない概念である「疑似科学」であるといったような定義づけをすることには何の意味もないのである。

また一方、あまりにも人間的である政治的な歴史からは遠く離れた分野であり、純然たる自然科学である地球科学上の問題である「地球温暖化懐疑論」が科学ではないとか、「疑似科学である」とか、主張する人がいる。これには逆の立場もある。CO2温暖化説そのものが科学ではないとか、疑似科学であるとかの主張である。どちらかと言えば、というか程度の問題からいえば、後者の方に正当性があると思うが、こういう正反対の主張が出てくること自体がこういった議論の無意味さを表しているのではないかと思われる。。

地球科学は工学とはまた異なった意味で、物理学や化学とは異なっている。地球科学あるいは地質学、ジオロジーは究極的には地史、すなわち地球の歴史となるべきだという考え方がある。とすれば、人間の歴史、民族や国家や人類の歴史と同様、歴史であるとすれば、人間的なものが相当に入ってくるはずのものであって、可能な限り人間的なものを排除してゆくべき、純粋性を追求すべき科学の分野ではないと思われるのである。

しかしCO2温暖化説を含んだ地球温暖化に関する議論では、この問題自体はCO2という化学物質、太陽活動を含めたエネルギー、そして物理的な時間といった物理と化学の量にすべてが還元される問題である。たとえ人間活動が入っていても、この問題に関する限り人間活動も生物の活動も完全に化学物質と物理量に還元されるのである。それを歴史的に扱うのが地球化学なのである。地球化学的に合理的に説明されているかどうかを判定することがすべてであり、疑似科学であるとかニセ科学であるとかの議論は何の意味も必要性もないのである。

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