2018年11月4日日曜日

鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸

一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。

まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。

次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。

以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。

では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。

以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。

上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。

この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。

なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。

左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。

とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。

端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。

面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。

上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。

ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。

いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。 

このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。

なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)

2018年6月30日土曜日

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言え人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。

 【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。

【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。

  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
 (2018年7月2日 田中潤一)

2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)

2018年6月16日土曜日

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。

「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。


 【等方空間における座標系】

  • 座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。
  • 各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か-の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く-であるということはできません。ですから+と-とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と-を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。
  • x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。

以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。


【異方空間における方向軸】 

以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と-で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、
  • 両側を+側と-側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。
こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?
 
というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。

何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者で心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。

もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。 
(2018年6月16日 田中潤一)

2018年4月26日木曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(iv)(鏡像の意味論、番外編その4)―― 「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する

いくつもの英語の鏡像問題論文を調べてみて気づくことの一つに、defineという用語が頻繁に出てくるということがあります。当然日本語の論文でもそれに対応して「定義する」という表現が頻出しているわけですが、どういう局面でそれが出てくるかといえば、要するに目に見える人や物の上下前後左右を決めることをdefineと言っているわけです。また上下などの方向、あるいは方向軸を決める場合もあります。一方で、ごく頻度は少ないですがassign「割り当てる」という用語も同じような局面でわずかに使われています。ただし使用頻度としては1/50くらいの差があるのではないでしょうか。日本語の論文でも対応して「割り当てる」とか「当てはめる」とかを使っている場合もあるようです。

ところでIttelson(1991)の論文で、有名な哲学者・心理学者のW. James(1890)が引用されているのですが、そこでJamesは、一個のキューブの前後上下左右を決めるのにLabelという用語を使っています。Jamesはそこでの考察として興味深いことに、「左右」は赤や青などの色のようなものであると述べています。これは感覚質、あるいは以前有名になった言葉で、クオリアですね。

ジェームズは、人間ではなく単なるキューブに上下前後左右のラベル付けすることを言っているわけですが、このlabel という表現は日常的な表現に近いといえます。例えば木彫の彫刻家が木のブロックで最初に上下前後左右を決めたりする場合、日本語では普通は「決める」とか「決定する」などと言うと思いますが、「割り当てる」というのも不自然ではないし、ジェームズのように「ラベル」付けするという言い方もあると思います。しかし日常的にはこういう場合「定義する」とはまず言わないし、英語でも、日常語としてdefineとはあまり言わないのではないでしょうか。また木のブロックなどではなく、人物の姿や人物以外でも上下前後左右を持つように見える物体の上下前後左右を判断する場合に「定義する」というのは不自然に思われるのではないでしょうか?

ここでシニフィアンとシニフィエを使って「定義する」と「割り当てる」を分析してみようと思います。 

端的に言って「定義する」という言葉は本来、未だに確定したシニフィアンを持たないシニフィエに、確定したシニフィアンを与える、ということではないでしょうか?要するに、科学の分野でも、科学ではなくても、まだ名前のない新しい概念に名前を付けるということです。特に例を挙げるのも面倒だし、必要もなく、お分かりいただけると思います。それに対して「割り当てる」は、すでに確定したシニフィアンとシニフィエのセットとしての言葉を特定の対象に当てはめること、ということだといえます。

彫刻家が木のブロックの方向を決める場合、 少なくとも普通の正面向きの人物立像である場合、人物の上下前後左右として「確定したシニフィアンとシニフィエのセット」を木のブロックに「割り当てる」ことになると思います。

とすれば、少なくとも正立した人間の場合、上下前後左右のシニフィアンとシニフィエのセットは最初から確定しているのであり、わざわざ定義などする必要はないはずです。ですから、正立した人物の姿に新たに上下前後左右を「定義する」というのも不自然です。しかし、確定しているからと言って、直ちに他人の上下前後左右を、少なくとも左右を認識できるかと言えばそうでもないでしょう。また横たわっている人物や倒立している人物にもこれらがすべて確定しているとは言えないように思われます。

そこで人物像の場合は一般的に表現するなら「定義する」よりも 「見つける」の方が、英語の場合はfindが最も適切な表現ではないかと思います。 さらに彫刻や映像作品ではよくあることですが向き合って抱擁したり、格闘したりといった集合的な人物の場合はどうでしょうか?こういう場合は観察者独自の判断によるしか定義のしようがないでしょう。芸術作品の場合は作者が決めることであるし、生け花や盆栽なども審美的に決まるものでしょう。そういう場合は「定義する」がふさわしいように思われるかもしれません。しかしこの場合は対象が人間ではあっても一人ではなく複数の人間であるし、芸術作品になればそれはなおさら別物であり、つまるところ彫刻素材の木のブロックに上下前後左右を割りてるのと同じことであり、すでに他の対象(すなわち一人の人間)で確定した(定義済みの)のシニフィアンとシニフィエのセットとが割り当てられたものと言えます。これは横たわっていたり倒立していたり、という正立していない一人の人間の場合にも言えることだと思います。

 では、その、正立している人間の上下前後左右は一体いつだれが定義したのでしょうか?これはもう、日本語として言語的に、あるいは辞書的に定義されているとしか言いようがありません(例えば人が北を向いた時の東が右)。言語的な直観とでもいえるようにも思われます。ではそのシニフィアンに対応するシニフィエは一体何でしょうか?それを考えるときに問題になるのは、そのシニフィエはいつでも常に上下前後左右というシニフィアンと対応しているとは言えないことです。これは前回の話題になったように、あるシニフィエは常に同じシニフィアンにくっついているとは限りません。前回は自分の視空間の立場で考察してみたわけですが、他人を見ている場合も仰向けに寝ている人を見れば、普通は顔やお腹の方を上と見るのではないでしょうか。横になったり、逆立ちしたりというだけではなく、よじったり、腰を曲げたりすることができるし、絶えず動き回り、位置と姿勢が変化しています。そういう問題を避けるために位置や姿勢とは関係のない頭部だけを取り出して考察してみることもできます。他方、あらゆる人間に共通する要素を取り出してみるとすればやはり正立して動きのない状態の人間で考察すべきかもしれません。ただ簡単のために、ここでは頭部で考察を進めてみたいと思います。

しかし、単純化のために頭部だけを取り出してみても、何が上下前後左右などの方向軸あるいは方向性の(究極の)シニフィエなのかということは、色と同様、結局はそれを指し示すことでしか表現できないわけですが、やはり色もいくつかの指標で表現されているのと同様、 何とか言語的に表現しない限り話になりません。結論を言ってしまえば、それが知覚空間であり、幾何学空間の等方性に対して異方的な性質を持つということになるのだと思います。しかしその結論に至るまでを説明しようとすると、それはちょっと一筋縄ではゆかないように思います。ですから知覚空間、視空間の性質から逆にたどって他人というか、具体的な人間の身体へと対応付けてゆく方法をとるのも一つの方法だと考えます。

単に形状などのイメージと考えれば彫刻や人形と同様、それは人間そのものの写しでしかないわけです。ただしそこには人間という存在の意味が込められているわけです。ですから、それらの方向軸は先に考えたとおり、「定義された」ものではなく(意味が)「割り当てられた」ものです。ですから少なくとも外的な形状そのものではないことは確かです。第一、外的な形状では、左右について方向が区別できません。しかし知覚空間と考えるならば、左右についてもはっきりとした違いがあります。左右を逆にした文字列が読みづらいことは上下を逆にした場合と同様です。視空間の全方向的異方性についてはこれで十分だと思います。


こうしてみると、具体的な個々の人間(の身体)の方向軸のシニフィエも他の物体やイメージと同様に「定義する」ものでも「定義された」ものでもなく、「割り当てる」ものであり、その割り当てられるオリジナルのシニフィアンとシニフィエのセットは、視空間のものであるということができます。

というわけで上下前後左右に相当する(常に上下前後左右という言葉で表現されるとは限らないものの)究極の、根源的なシニフィエは幾何学的な形状が持つものでも、物質的な身体のが持つものでもなく、視空間という知覚空間が持つ方向感覚が反映されたものと思われます。ではそれは何に由来するのかといえば視覚自体に由来するとは言えないと思います。それは身体感覚か、生理学や医学で言われる体性感覚などに由来するとしか考えられません。というのも、視覚を持たない人にも、目を閉じているときでもそのような感覚はあるからです。

視覚自体もそうですが、こういった知覚は主観的なもので、他人の知覚をそのまま認知することはできないものです。そこで、端的に言って、他人の姿、つまり像に自分を重ねて、擬人的に推定するしか比較しようが無いものです。この点で、高野陽太郎先生が鏡像問題の議論において鏡像を擬人化して左右を判断しているのは自然なことであり、そのこと自体は良いとしても、それで鏡像問題、鏡映反転の問題が解決したといわれてもねー?ということですね。そこから鏡像問題よりも視空間の問題へと広がれば良かったと思うのですが。全般に鏡像問題の論文で、少なくとも意識的に、「視空間」という用語を使用して考察を進めたものがなかったことも問題であると考えています。
(2018年4月26日 田中潤一)

2018年4月4日水曜日

(続続続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係

ここで一つの例を考えてみます。人が仰向けに寝ころんでまっ直ぐ正面を見ているとします。空を見ているにしろ、天井を見ているにしろ、たいていの人はこういう場合、上の方を見ていると意識するものです。ではこの場合、この人は自分の頭頂部の方向をどのように意識するのでしょうか?この人に尋ねてみると、やはり正立しているときと同様に「上」というでしょうか?これは表現力の問題にもつながりますが、もっと即物的に「頭頂部の方向」ということもできます。足元の方向も同様に、「下の方」というよりも「足元の方向」と表現することが正確でしょう。そうしてみると、仰向けになっている場合は「上の方」も「正面の方向」という方が正確で誤解を防げるように思われます。視空間で考えてみると、この人が正立しているときの視空間の前方が、この場合には上方になっているわけです。

こういう場合、この人が正立している場合の「前」のシニフィエは、知覚される重力方向による「上」 というシニフィアンに引っ張られてくっ付いてしまったようです。そうして、正立しているときの「上」のシニフィエは、別の言葉(シニフィアン)である「頭頂部の方向」に乗り換えてしまいました。同様に「下」のシニフィエであったものが、「足元の方」というシニフィアンに乗り換えてしまったことになります。もはや「前」と「後ろ」、そして「下」というシニフィアンは無用になってしまったようです。しかしこの人が仰向けになったままで本を見たり、スマホなり他のディスプレイなどで映像を見るとしましょう。再び正立しているときの「前」、「上」、「下」というシニフィアンが復活しそうです。

見方を変えてみると、上下・前後・左右の各シニフィアンには絶対的にひとつづつが1対1で対応するシニフィエというものは無いと考えた方がよさそうです。例えば英語では日本語の上下にそのまま対応できるような言葉はありません。「上」の場合、topがあてられることもありますが、aboveとかonとか、別の表現が求められる場合が多いですね。「後ろ」も少なくともbackとかrearの二とおりがあります。日本語でも、特に「上下」の場合は「天地」が使われる場合が多々あります。ところが面白いことに左右だけは日本語でも英語でも常に右と左、rightとleftなんですね。

では左右のシニフィアンが常に、絶対的に不動かといえばそうではないと思います。視空間の場合に限っても、上述のように仰向けではなく横になって、例えば右を上にして横になっている場合、正立しているときの視空間の「右」のシニフィエはやはり、仰向けの場合の前方と同様に「上」というシニフィアンに引っ張られて乗り換えることが多いのではないか思います。ただしこの場合は「右」というシニフィアンが残る場合も多いのではないでしょうか。両者のシニフィエが同時に共存しているのかもしれません。実験のテーマになるように思います。

上記は左右の特殊性というより、むしろ上下の特性に由来しているように思います。というのは重力方向の知覚には上下だけしかないからです。

実は、今回の稿は重力方向の知覚と視空間の上下の問題について考えていたことがきっかけだったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係で前回の続きのようにになってしまいました。

重力方向の知覚と鏡像問題の関係は興味深い問題ですが、しかし鏡像問題とくに鏡映反転の問題に限った場合、実際の現象に適用するにはあまりにも複雑になりすぎるように思われ、今の段階であまり追求しても仕方がないように思います。鏡像問題、特に鏡映反転の問題では視空間の上下前後左右ではなくむしろ対象となるイメージ、つまり像の上下前後左右が問題であり、この場合の上下前後左右は観察者が独自の基準で像に割り当てるものだからです。ただし完全に任意に割り当てることができるのではなく、2つの軸だけしか任意に割り当てることができないということです。これが多幡-奥田説の「左右軸の従属性」の本質であるように考えています。ただ今回のテーマは鏡像問題から離れていますのでこの問題についてはこれまでにしておきます。

視空間の問題に戻ると、視空間自体の方向性は上下前後左右という抽象的な、シニフィエが浮動しやすい方向性ではなく、身体の構造、外形に現れる構造あるいは機能に由来するものであることが明らかになってきたようです。

今後は基礎的な知覚あるいは感覚そのものの研究で、シニフィアンとシニフィエの視点による考察の展開が望まれるような気がします。実は少し前、先週ですが、次の研究をネットで見つけました。

『重力方向知覚における視覚刺激の過T向きと種類および身体の傾きの影響』根岸一平・金子寛彦・水科晴樹、東京工業大学大学院理工学研究科物理情報システム専攻 ― 光学 38, 5 (2009) 266-273
https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/38-05-kenkyuronbun.pdf。

十分に読んではいませんが、改めて重力方向の知覚について感覚器官との関係などを含めて興味深い知見を得ることができました。ただこの種の実験的研究で特徴的なことは常に角度などの数値的なデータをとることに重点が置かれていることです。ですから有名なI.Rockの研究と同様、身体を機械的に傾けるといった多少大掛かりな装置が用いられています。とにかく現在の科学では実験に基づく定量的な研究が主流であることを物語っているように思います。それに対してシニフィアン・シニフィエの視点による意味分析の方が、さらに本質的な問題に切り込んで行けるのではないかと思うものです。
(2018/04/05 田中潤一)

2018年3月8日木曜日

(続々)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

【今回の結論】 
  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2.  視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンとシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンとシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンとシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンとシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まで忘れていたのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ― 
こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。
(2018年3月8日 田中潤一)

2018年1月28日日曜日

(続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩き

前回の続きです。冒頭から余談になりますが、「シニフィアンの一人歩き」というフレーズをグーグルで完全一致検索してみると4件ほど見つかりました。紙の文献ではかなり一般的な表現のような気もしますね。

さて、一昨年の暮れに多幡先生からご提供いただいた文献の中にBennet(1990)という「左右の違い」という抽象的なテーマのみを扱った論文がありました。この論文は鏡像問題自体がテーマではなく、このテーマだけでA4くらいの二段組で18ページという長い論文でもあり、これまで読んでいなかったのですが、今回、少し覗いてみました。今の時点で全文を読むのは余りにもしんどい作業なので最初の一ページのほかは、ちらっと見た程度ですが、どうもこの人は、マッハがカントのプロレゴーメナの一節から展開した発見を繰り返しているような印象を受けました。ただしマッハとは似て非なる方向になっているように思います。

両者の違いがどこに起因するかを考えてみると、結局、マッハはプロレゴーメナのみを参照しているのに対してBennetはプロレゴーメナの他にもう一つの初期の論文を参照していることにあるようです。というのは、カントの初期の論文では「右と左の違い」が論じられているのに対してプロレゴーメナではもはや「右と左の違い」の違いではなく「右手と左手の違い」だけが取り上げられているからです。

端的にいって「右と左の違い」は「右手と左手の違い」とは全く異なります。ここにシニフィアン、シニフィエの出番になるのですが、右・左と右手・左手は、シニフィアンとしては非常に強い関係があり、よく似ていてますが、シニフィエは全く違うといってよいと思います。「右と左の違い」は難しい問題ですが、「右手と左手の違い」は単純に三次元的な形状の違いに還元できるわけです。カント自身、プロレゴーメナの中では「右と左の違い」にはもはや言及していないと思いますし、マッハもここでは「右手と左手の違い」に徹して、対掌体の概念を説明するに至っているものと考えられます。


マッハは他方で「右と左の違い」を「右手と左手の違い」とは離れたところで考察した結果、「左右も上下・前後と同様に異方的である」という発見ができたのだと思います。カントは「右と左の違い」を考えたとき、「上と下の違い」や「前と後ろの違い」を考えることがなかったのに対して、マッハは心理学者、生理学者でもあったので、感覚の問題として上下・前後・左右を考えることができたからではないでしょうか。カントも左右を感性あるいは直観の問題とみなしていたとは思いますが。

それにしても現代の英語圏の心理学や認識論の分野でマッハがあまり参照されていないように見えるのはなぜなのだろうか?という疑問がここでも起こります。 ガードナーにしても、あの有名な著書の中で、物理学者としてはマッハを非常に尊重しているのに心理学者あるいは認識論学者としてのマッハには全く言及していないのです。マッハが鏡像問題を考察しているにも関わらずです。


さて、シニフィアン、シニフィエに戻りますが、以上のように上下・前後・左右をシニフィアンの視点で見直してみれば、上下・前後・左右を軸とした固有座標系の概念にはやはり無理があるように思います。というのは、一般に座標軸で使われるx、y、zは変数であって何の値でも良いわけですが、そういうところに上下・前後・左右を持ってくると、上下・前後・左右のシニフィアンが文脈を離れて一人歩きするようになり、知らぬ間にシニフィエがすり替わったり逆転していたり、という話になりかねないと考えるわけです。これはまた数学的表現や幾何学的表現自体にもいえるのではないかと思え、早くからゲーテが数学の過剰な使用について危惧していたことも思い起こされます。
(2018/01/28 田中潤一)

2018年1月15日月曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)

「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がかえって分かりやすく、インパクトもあるように思います。

端的に言ってシニフィアンとシニフィエの区別は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。

例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合は文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないものです。ですから日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンとシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。

このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。それで、マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と言ったのだと思います。

ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。

こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。

このように空間の異方性を理解する鍵はシニフィアンとシニフィエとの関係にあり、『意味』にあると言えます。
(2018/01/14 田中潤一)

2018年1月14日日曜日

二つの異方空間と三つの等方空間(鏡像の意味論、番外編その3)

前回の投稿を誤って削除してしまいましたので、掲載したリストだけを簡単に再現し、簡単に付記を書き留めておきました。

  1. 主に視空間(異方的)における解析により論旨を展開 ―― Gregory説、高野説
  2. 主に像空間(異方的)における解析により論旨を展開 ―― 吉村・多幡説
  3. 主に鏡像認知空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― Gardner説、Itteleson説
  4. 主に比較空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― 多幡・奥田説、Corballis説
  5. 主に光学的実像空間(等方的)における解析により論旨を展開 ―― Haig説

何れの説もその空間における説明に力点を置いているということで、他の空間による解析を全く用いていないというわけではありません ―― そのような部分の内容や重要性については諸説によりさまざまですが、中には単に常識的な理解、あるいは他人の成果を利用しているだけの場合もあるように思います。またこの分類は各説の優劣や評価とは無関係です。ただ、「1」の視空間のみによる解析では、視空間そのものは観察者以外にはうかがい知ることのできない感覚的で主観的な認知空間であるわけで、どうしても直観にたより客観性を欠くものになるように思います。そこで実験という手段の可能性がでてくるのでしょうが ―― 当然、実験にも限界があります ―― ある一つの実権によって何がわかるのか? それだけですべてがわかるのか? 実験を使った解析と統合はそう簡単ではないと思います。
(2018/01/14 田中潤一)