2018年1月28日日曜日

(続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩き

前回の続きです。冒頭から余談になりますが、「シニフィアンの一人歩き」というフレーズをグーグルで完全一致検索してみると4件ほど見つかりました。紙の文献ではかなり一般的な表現のような気もしますね。

さて、一昨年の暮れに多幡先生からご提供いただいた文献の中にBennet(1990)という「左右の違い」という抽象的なテーマのみを扱った論文がありました。この論文は鏡像問題自体がテーマではなく、このテーマだけでA4くらいの二段組で18ページという長い論文でもあり、これまで読んでいなかったのですが、今回、少し覗いてみました。今の時点で全文を読むのは余りにもしんどい作業なので最初の一ページのほかは、ちらっと見た程度ですが、どうもこの人は、マッハがカントのプロレゴーメナの一節から展開した発見を繰り返しているような印象を受けました。ただしマッハとは似て非なる方向になっているように思います。

両者の違いがどこに起因するかを考えてみると、結局、マッハはプロレゴーメナのみを参照しているのに対してBennetはプロレゴーメナの他にもう一つの初期の論文を参照していることにあるようです。というのは、カントの初期の論文では「右と左の違い」が論じられているのに対してプロレゴーメナではもはや「右と左の違い」の違いではなく「右手と左手の違い」だけが取り上げられているからです。

端的にいって「右と左の違い」は「右手と左手の違い」とは全く異なります。ここにシニフィアン、シニフィエの出番になるのですが、右・左と右手・左手は、シニフィアンとしては非常に強い関係があり、よく似ていてますが、シニフィエは全く違うといってよいと思います。「右と左の違い」は難しい問題ですが、「右手と左手の違い」は単純に三次元的な形状の違いに還元できるわけです。カント自身、プロレゴーメナの中では「右と左の違い」にはもはや言及していないと思いますし、マッハもここでは「右手と左手の違い」に徹して、対掌体の概念を説明するに至っているものと考えられます。


マッハは他方で「右と左の違い」を「右手と左手の違い」とは離れたところで考察した結果、「左右も上下・前後と同様に異方的である」という発見ができたのだと思います。カントは「右と左の違い」を考えたとき、「上と下の違い」や「前と後ろの違い」を考えることがなかったのに対して、マッハは心理学者、生理学者でもあったので、感覚の問題として上下・前後・左右を考えることができたからではないでしょうか。カントも左右を感性あるいは直観の問題とみなしていたとは思いますが。

それにしても現代の英語圏の心理学や認識論の分野でマッハがあまり参照されていないように見えるのはなぜなのだろうか?という疑問がここでも起こります。 ガードナーにしても、あの有名な著書の中で、物理学者としてはマッハを非常に尊重しているのに心理学者あるいは認識論学者としてのマッハには全く言及していないのです。マッハが鏡像問題を考察しているにも関わらずです。


さて、シニフィアン、シニフィエに戻りますが、以上のように上下・前後・左右をシニフィアンの視点で見直してみれば、上下・前後・左右を軸とした固有座標系の概念にはやはり無理があるように思います。というのは、一般に座標軸で使われるx、y、zは変数であって何の値でも良いわけですが、そういうところに上下・前後・左右を持ってくると、上下・前後・左右のシニフィアンが文脈を離れて一人歩きするようになり、知らぬ間にシニフィエがすり替わったり逆転していたり、という話になりかねないと考えるわけです。これはまた数学的表現や幾何学的表現自体にもいえるのではないかと思え、早くからゲーテが数学の過剰な使用について危惧していたことも思い起こされます。
(2018/01/28 田中潤一)

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