2022年7月20日水曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その2

 ― 前回に続けて―

ここでもう一度、改めて科学主義と、科学を尊重すること、について考えてみたい。例えば、ニュートン力学は現在、絶対的な真理とはみなされていないが、少なくとも日常レベルでは絶対的な権威があるといえる。それは現実的な日常レベルではそれに代わる理論がないからである。つまりニュートン力学が成立するまでそれに相当するものはなかったし、工学的にも有効で生産活動に寄与することにもなったからである。一方、CO2温暖化説はどうだろうか?これは言うまでもなく地球の平均気温上昇の主要原因をCO2を始めとする温室効果ガスの増加に求めるという理論であるが、こちらの方はニュートン力学とは違い、他にもいろいろ説明理論がある。歴史的に、あるいは事実上の地球温暖化自体がすでに終わっている可能性があるが、温暖化のメカニズム自体にいろいろな要因が想定できる。その主要原因として太陽活動主因説こそが、CO2主因説に対立する重要な理論である。であるからこの場合、無条件に一方の学説を妄信することは、科学を尊重することとは言えない。ただしCO2主因説も科学的な形式と方法論をとっているとは言える。ここでこれ以上この問題を掘り下げる暇はないが、少なくとも現在の太陽活動主因説は、現在のCO2主因説に比べて遥かに包括的(CO2温室効果をも含めて)な考察に基づいた優れた理論であって、より真実に近いと考えられるのである。少なくとも現在のCO2主因説はこの比較を厳密に行っていないし、高度な太陽活動主因説では重要な役割を担っている化学熱力学の関与についても無知であるか、無視している。両者の優劣を考えた場合、CO2主因説は他方に比べて格段に劣っているのである。

以上の点で、共産主義思想と制度あるいはその体現者たちはいずれも、科学主義的であるとはいえるが、科学を尊重しているとも重視しているとも考えられない。これはもちろん現実の政治や共産主義以外の政治理念の体現者の大半にとっても言えることではある。ただし共産主義は理念として科学的であること、さらに言えば科学を尊重することを建前としているので、この点では他の政治思想や党派より深刻に受け止める必要があると思うのである。一言でいえば現在の共産主義は科学主義的ではあるが、科学の運用においても科学的真理の追究においてもご都合主義的であると言わざるを得ない。このご都合主義は科学以外のもの、端的に言って宗教に対しても適用されうる。中国共産党は宗教弾圧を行ってきたことで有名だが、日本共産党の場合は明確にあらゆる宗教を否定するわけではなく、一部の宗教に対してはむしろ融和的であるともいえる。キリスト教徒で日本共産党を支持する人たちも多いように思われる。では、現実の共産党やそういう組織・団体はどういう宗教を敵視しているのだろうか。これは、一言で言って共産主義を敵視し攻撃する宗教を敵視しているということになろう。というのは、宗教の側でも反共を趣旨とする宗教とそうでもない宗教があることが反映している。

だいたい伝統的な宗教はすべて唯物主義を否定し、共産主義をも否定することに例外はないように思われるが、特に反共を前面に掲げて活動するようなことは大半の宗教団体はあまりないように思われる。ただし、排他的と言われる宗教、つまり他の宗教や宗派に非寛容で全否定するような宗教や宗派は共産主義に対しても当然非寛容になる。この種の宗教や宗派は一神教か多神教かという分け方では、一神教である、ということになる。

ということで、一般に政治思想と宗教との関係で対立関係を生じるのは、宗教側についていえば、一神教的な宗教である場合が多いということはできそうである。これは一つの結論であるとともに、以後の考察において一つの前提事項として、重要な考えであろう。少なくとも理念的にはそう言える。

2022年7月3日日曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その1

 かつて、というか私の若いころの話だが、「反共」、あるいは「反共主義」という言葉の意味するところはそれだけで印象が悪い内容であったように思う。少なくとも私にとって印象の悪い言葉であった。もちろんそれには当時の社会一般の常識的な印象を反映していたはずである。共産主義そのものに同調する人は多くはないものの、日本共産党は安定して勢力を伸ばし続け、極端な反共主義者は共産主義者以上に嫌われるような風潮があったように思う。私の場合、そんな深くも強力にでもないが外面的な共産主義の影響を受け、少なくともあこがれる程度までは影響を受けていたとはいえる。

ソ連崩壊後はソ連や東欧諸国で実際に効力を持っていた共産主義や依然として共産主義国家であった中国の共産党も含めて共産主義や共産主義政党に対する反感は増大し、理念としての共産主義の権威性も大幅に低下した印象がある。しかしだからと言って、反共や反共主義に対する印象が向上したとか、悪い印象がなくなったかといえばそうでもない。むしろ反共や反共主義という概念自体が希薄になって、この言葉が使われることも少なくなってきたのではないかと思われる。

共産主義体制や理念としての共産主義も事実上破綻したにもかかわらず、反共産主義が盛り返すようには見えないのはなぜなのか?私は、それは宗教と科学主義の問題が絡んでいるように思われる。というのは、共産主義は一応、少なくとも形式的には反宗教であり、逆方向から言えば多くの宗教は反共産主義であった。つまり共産主義は唯物主義であり、科学主義であることが建前であったということである。

言い換えると、理念としての共産主義は科学主義であるという点で、今でも一部の知識人、常識人の心をとらえ続けていると思うのである。反共主義は反科学主義であり、宗教的である場合が多いという点で、一部の知識人や一般人にもに忌避される傾向は今でも持続しているといえる。

要するに、共産主義と反共産主義との対立関係が科学主義と宗教との対立を含意しているともいえようか?もっと単純に言い切ってしまえば、科学主義と宗教との対立関係を置き換えているともいえるのである。そこで科学主義と宗教との対立関係を分析する必要が生じるのであるが、これはまあ難しい問題である。

なによりも、その前に、現実の共産主義団体や反共主義団体が、各々それらの理念を体現しているかどうかはまた別の問題としてあることである。こういう問題は理念だけを取り出して考察することはまず不可能だから厄介なのである。

一方現実の科学上の諸問題で科学を尊重することと科学主義とはまた別物であることも考慮しなければならない。例えば、端的に言えば特にCO2温暖化説において日本共産党を含めて共産主義的勢力の科学無視、あるいは科学的ないい加減さについては、今はもうあきれるばかりである。一般的に言えば形式的に科学的な表現を使用するだけに過ぎない場合や一部の科学者の所説を盲目的に支持するに過ぎないことが多いのである。いわば科学は内容よりもむしろ形式と方法であって、この形式と方法でカバーできる内容というのは限られているともいえるし、適した対象もあれば不適切な対象もあり、人間の知的活動の分野としては極めて限定的なものであることが次第に明らかになってきたのが現在ではないかと思う。その点で、いまや政治思想の拠り所を科学に求めたり、逆に科学の拠り所を政治思想に求めたりすることは、時代遅れになりつつあるのではないかと思うのである。

公開日2022年7月3日

修正および加筆2022年7月6日