2008年8月9日土曜日

情報と信号 ― 脳とコンピューター

(機械とコンピューターについて)
普通コンピューターはその正式な定義はともかく、情報を処理する機械、情報処理機とも考えられている。機械であることは確かであるが、一般に日本語で機械あるいは何々機という場合の「機」という言葉の意味には微妙なところがある。例えば洗濯機と掃除機を比べてみても微妙な違いがある。洗濯機は、特に最近では自動化が進んでいることもあり、それ自身が洗濯をしてくれる機械というニュアンスがある。洗濯ロボットと言ってもそう変わらない。ところが掃除機の場合は普通、人間がそれを使って掃除をする道具という意識でつかわれている。厳密に考えれば洗濯機の場合も洗濯機自体が「洗濯という概念」を持ちながら洗濯しているわけではなく(もちろん洗濯ロボットも)、人間がそれを使って洗濯しているので、掃除機の場合とそれほどの変わりはない。英語ではそもそも機械という言葉もそれほど使うことがない。洗濯機はWasher、掃除機は Cleaner、掃除に使う薬品類もCleanerであり、掃除をする人もCleanerと言っておかしくない。はっきり言って英語のこの辺りの用法は簡潔ではあるが大ざっぱきわまりない。

洗濯機と掃除機のこの微妙な意味上の違いが現実に何かの問題を引き起こすというはまずあり得ない。実際に洗濯機が洗濯という概念を持ちながら洗濯していると考える人はまずいないだろう。しかし、これがコンピューターとなるとそういうわけには行かなくなってくる。コンピューターはデータあるいは情報を処理する機械と思われている。情報とは本来意味を持ったもの、あるいは意味そのものを指しているのであってコンピューターが実際に情報を処理しているのであるとすればコンピューターは情報の内容を理解出来るのでなければならない。実際、コンピュータ用語としてはコンピューターがあたかも情報を理解しているかのような言葉の用法が頻繁に使用されている。要するに擬人化である。コンピューターあるいはソフトが何かを「認識する」というような表現が実に頻繁に使用されている。こういう擬人化はコンピューター用語としては表現の能率化という意味で仕方のないことであり、必要なことでもあるのだろう。ただこういう事情からコンピューターに心を持たせることが出来るようになるという錯誤に繋がって来ているのだという可能性もある。

少なくとも現在、普通にはコンピューターが心をもっていると考えている人はいない。とすればコンピューターが情報を処理しているというのは正確には誤った言い方であり、人がコンピューターで(を使用して)情報を処理しているのだということは誰の目にも明らかな事であろう。ではもっと正確な言い方はないものだろうか、と考えてみると、信号という言い方が使われている場合もある。信号といえば情報よりは具体性のある、あるいは機械と親和性があるとも言える物質的なものという印象がある。すなわち、電気とか光エネルギーとか化学物質とか、少なくとも物理的なものである。この場合も具体的に電気とか光とか言わずに「信号」という以上、情報と同様、多分に意味性を帯びていることは確かであり、厳密には信号の操作や処理を行うのも最終的には人間である事には変わりはないのであるが、それでも「情報」よりは正確だといえる。またコンピューターは人間が作ったものであり、当然、作った人がいる以上、誰にでもという訳ではないが、解るべき人には仕組みが解っている筈だし、どのように動作しているのかも分かった上での言葉の用法である。信号も現実には何ビットかの電気信号であることが解った上で情報とか信号とかいった言葉を便宜的に使っているだけである。仕組みが全く解っていない人でも少なくとも電気信号であることくらいは分かっている。

(脳科学における情報と信号)
一方何かとコンピューターに比較される脳について考えてみたい。コンピューターに比較されることにより、脳についても情報を処理しているという表現が頻繁に使われる。脳全体についても使われるし、部分についても使われる。ここで、もちろん人間の場合だが、脳とその人そのもの、つまり人格とを同一視するかどうかは非常に重要な問題である。さらに脳全体(辞書では脳波中枢神経系から脊髄を覗いた部分と書かれているのでそれに従うとして)と脳の部分、特に大脳の部分(脳科学の本には前頭葉とか後頭葉とかの他にさらに細かくブローカ野とか何々野、さらには運動野とか聴覚野とか機能と結びついた名前の部分がある)とで同じように考えて良いものかどうかという問題も生じてくる。

すくなくとも脳の小部分、つまり何々野というような部分を対象とする場合、これを人格と同一視することは明らかに無理である。人そのものでないとすれば何か、人体の一部であることは間違いがないが、その人そのものつまり人格そのものと見なすことは無理である。また人格を部分に分けると言うことも無理だろう。もっとも精神分析では人格を部分に分けて考える様なところもあるかもしれないが、はっきりしたものではないだろうし、それが脳の部分に対応しているわけでもなく、現在の脳の研究者の多くはそういう分け方は当然否定している筈である。また無機物と同列に扱う事は無理であるが、情報の意味を理解出来る人格そのものでないことは明白である。とすればコンピュータが情報処理をしているというのが擬人的な比喩であるのと同様にこれも比喩的に「情報」といっているだけであり、情報を処理しているという言い方を適用するには不適当だろう。もし情報を処理しているというなら、脳内に多数の人格が住んでいて、各自の役割に応じた情報処理をしていると考えるより仕方が無い。しかしそういう風に考える人は余りいないだろう。少なくとも科学者を自認する人がそう考えるとは思えない。とすればそういう各部分部分が情報を処理しているという言い方は不適当であり、そういう考え方で論を進めると言うことはあまりにも漠然と現実性のない結論に導かれる可能性が大きいと思われる。

そこで信号を処理するという仮説の立て方がまだ具体性があるのだが、そうなると当然もっと具体的な描写を迫られることになる。信号を伝達するものといえば化学反応を起こす物質の移動か、電気的な動きか、光、その他のエネルギーといった物質的なものに限られる。そうなってくるとそれらが実際にどのようなメカニズムでどのように動きどのように「処理」されているのか何らかのイメージを描けなければならなくなる。それが出来ないから「情報」という言葉でごまかして(意図的ではないにしろ)いるだけではないのかという疑いが起きるのである。

では脳全体としてはどうか。脳全体を情報処理のシステムと考える場合である。情報を文字通りの意味で処理できるのは情報の意味が分かる人格すなわち心を持つものでなければならない。とすれば脳と人格とを同一視することになる。これは自己矛盾と言える。少なくとも人の心を脳の物理的メカニズムで説明できる筈であり出来なければならないという考えの脳科学者にとっては自己矛盾と言える。なぜなら情報は物理的なものではないからである。情報は意味であって意味の分かるもの同士でやりとりするものであり、意味を理解できる者だけが処理できるものである。情報のレベルであれこれを推定して仮説を立てたりしても、それを物理的なものに還元できない限り物理的レベルに還元した事にはならないからである。意味を物質あるいは物質的な現象に還元することなどできる訳がない。意味は何度取り出しても減ったり無くなったりすることがない。全く同じ意味が二つ存在することもできない。忘れることが出来る。また思い出すことも出来る。

以上のように、全体としてにしろ部分的にであるにしろ、脳内で何か情報が処理されているという想定に基づいた仮説の立て方は科学的な思考法としてはどう考えても矛盾があり、無理がある ― 脳内で物理化学的なプロセスしか起きていないという前提に立つ限り。

(付記)
実は、この稿は前回の「言語の脳科学」について述べた感想に続く文脈で書いているが、もう一つの契機がある。それはやはり「言語の脳科学」に書かれていた次の記述がきっかけになっている。
「ペンフィールドほど人間の脳を直接刺激して反応を調べた人はいない。・・・・それにもかかわらず、ペンフィールドは、心が脳とは別物であるという二元論の立場を唱え続けた。・・・・失語症の研究で有名なゲシュビントが、ペンフィールドに会って科学的根拠の乏しい二元論を一般向けに宣伝しないように、と抗議したという逸話が残っている。」

この記述を私はあるブログサイトでやりとりしていたコメントに持ち出したのだった。そのときの文脈は還元主義についての文脈であったのだが、私自身よく還元主義と二元論の問題について整理した上ではないままにこの記述を引用して問題をかき混ぜてしまったこともあり、そこでつまずいてしまったのだが、とにかくペンフィールドがいわゆる二元論を主張した人として有名なことや、他にも二元論を説いた人としてエックルスという有名な研究者がいたことも教えられた。

私は今回、ペンフィールドと言う名前には何処かでであった記憶はあったのだが、何処で出てきた名前かには全く記憶がなかった。これを機にネットで少し調べてみた。そして見覚えのあるイラストが出て来、思い出したのだが、この人のそういった面を知ったのは初めてだった。そして著書の紹介記事なども読み、著書そのものは未だ読んでいないが、上記の点で自分と似た考えを持ったと思われる優れた脳研究者の存在を知って安心したこともこの稿を書く動機の一つになった。

(付記2)
二元論の問題、心と身体の二元論が科学と相容れないものかどうか、またこれが哲学的な、もっと根源的な二元論と同じ事なのか、といった問題は今は避けたい。ただ、要素還元論と心的なものが物理的なものに還元できるという意味での還元主義とは別問題で同列に扱う事は出来ないと思う。

2008年8月1日金曜日

意味と構造、文法と意味、形式と内容 ― 「チベットのモーツァルト」(中沢新一著、講談社学術文庫)と「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中公新書)を読んで。

1.続けて読んだ「チベットのモーツァルト」と「言語の脳科学」の感想。

電車の中で読む本として適当に選び、続けて読んだ表題中の2冊の本は、どちらのも読む前には多少抵抗のあった本だったが、見かけ上きわめて対照的な文章でありながら重要な点で共通する部分のある問題をあつかった本でもあり、両者を併せ読んだことによって自分なりにかなり重要な発見に導かれたように思う。そのテーマは、一言で言えば、また最も抽象的な表現で言えば、「形式と内容を分けるということ」についての問題といえる。

初めの中沢新一著、「チベットのモーツァルト」に関して言えば、著名人といえる著者自身についてと、この書物の評判について多少は知っていたが、具体的にこの本がどういった内容を取り扱った本であるかは、読むまでは全く知らなかった。読み始めてみて、象徴詩の翻訳のように難解な比喩の連続からなる文章で執拗に「意味」について、意味そのものについて述べられていたのがもっとも印象に残ったと言える部分である。そういった難解な比喩の一部は、取り扱われているフランスの学者の言葉に由来しているらしい。私自身はそれらのフランスの学者達の書物、構造主義やポスト構造主義の著作に多少挑戦しようと思ったことはあったが、殆どどの本も読み通すことができずに置き去りにしてきたことを思い出さざるを得なかった。それはともかく、とにかくこの難解な比喩の羅列自体を、そのどのセンテンスにしてもその言葉に即して理解できたとは思わないが、全体の字面を追って読み通すことで、多少は「意味」そのものについての何らかの理解というか、把握というか、印象というかが深まったような気はしたのである。ここでの意味は言葉の意味とか、音楽の意味とか、あるいは単語の意味とか、センテンスの意味とか、多少具体的なものでなく、最も抽象的な意味での意味そのものだろう。

この本については当面これだけのことしか言えないが、この本に続けて次の酒井邦嘉著「言語の脳科学」(中公新書)を読んだことで、後者の扱う言語学と脳科学との関わりにおける中心的な問題と思われる文法と意味、あるいは形式と意味という問題について、自分なりの理解が進んだように思われた。

こちらの方は非常に分かりやすい言葉で、分かりやすく書かれた本である。しかし分かりやすいだけに表面的なにおいもする、というか、ごまかされたような気もしないではない。まず「言語の脳科学」という表題が正確な意味で分かりにくい。せめて副題でも付けて、もっと具体的な説明となる表現にして貰いたいものだと思う。ここで『言語の』が『脳科学』に付けられた修飾語であり、脳科学が基本的なテーマであることは分かるのであるが、『の』を所有格の『の』と見なすことも出来ない。これではあまりにも漠然としている。こういう表題の曖昧さは読者の本の内容への理解にも影響を与えるものだと思う。

本体の内容においてもそういう事が言える。分かりやすい言葉で書かれている変わりに、結果的に解ったようにも思える一方で、あるいは騙されているのではないかというような感じが残るのである。著者に意図的に騙されたようなという訳ではなく、分かりやすい言葉のもつ本質的な曖昧さ、不完全さが露呈している印象である。具体的にいうと、本来、眼に見えるものに対して使う平易な言葉が眼に見えないものに対して使われ、人格すなわち心を持つものに対して使われる言葉が物質や機能に対して用いられる。後者は要するに擬人化である。どちらも日常、科学を問わずごく普通に用いられる言葉の用法には違いはないが、それが脳科学や言語の問題を取り扱うようになると、そういう用語の持つ問題が増幅されてくるのである。

この点で「チベットのモーツァルト」と比較してみる事は興味深い。「チベットのモーツァルト」は、著者の個人的な体験あるいは著者の理解した他の人類学者、哲学者、詩人等の思想をその意味体験そのものを難解な比喩を使って表現したもので、難解ではあるが、表そうとしているのは著者の体験した意味そのものであることが伺えるのである。それに対し、「言語の脳科学」では著者の直接体験ではなく、脳という客観的な対象ではあるが、殆どブラックボックスとも言える対象を外部から、眼に見えるものに対して使う平易な、あるいは単純な言葉、概念を用いて内部のメカニズムを想像し、仮説を立てようとしている、といったところだろうか。また言語という、やはり眼に見えないものであるが、本人の体験からは独立したものを外部から眼に見えるもの、物理的なものに対して用いる分かりやすい言葉で分析しようと試みていると言えるのである。

一言で言って、現在の脳科学における言語に関わる部分と、それに関わる限りでの言語学の状況を、矛盾に満ちた現状そのままに分かりやすく提示されたと言う印象である。但し、これまでも脳科学に関する文章に接する際に、大抵の場合に抵抗として感じられる、特有の言葉の使い方がここでも大いに気になるのであり、個人的にはその抵抗を解明する必要を強く感じるのである。


2.言葉を文法と意味とに分けるということについて

「言語の脳科学」の中でキーポイントとなる章、部分は言語が文法と意味とに分けられるという問題を論じた第三章「言語はどこまで分けられるか」だろう。

「分ける」という表現をもちいる場合、普通の物体を分けるのなら、ただナイフで切り分ける場合もあれば、化学分析で成分を分ける場合もある。その意味は全く異なったものであり、技術的な困難さもまた異なる。また対象が生き物で、それが高等動物であれれば、頭と身体を切り分ると死んでしまい、もはや生き物ではなくなる。下等動物や植物では切り分けても再生する場合がある。

現に、この第三章、「言語はどこまで分けられるか」には次の様に書かれている箇所がある。「統語論・意味論・音韻論を言語の三要素として考えることにしよう。」ここでは言語には「論」がついていないが統語と意味と音韻には「論」がついている。つまり、ここでは言語学あるいは言語に関する考察を統語論・意味論・音韻論に分けて考察するということと、言語そのものが統語と意味と音韻とに分けられるという可能性とがすり替わっているのである。

文法と意味とを分けると言うが、分けるとは具体的にはどういう事だろう。ある文から文法構造を抽出することはできる。しかし文法構造を抽出して残るはずの意味は何処に残っているのだろう。水を酸素と水素に分解するようなわけにはゆかないのである。ある文から文法を抽出することはできても、意味の方は抽出することはできない。これを「分ける」と言って良いものか。確かに文法と意味とを分けて考えることはできるかも知れない。しかしある具体的な文を文法構造と意味に分けることはできない。

何故言語から文法を取り出すことができるかと言えば、文法それ自体が意味と形式を備えたものであって、それ自体を言語で表現できるからである。それに対し、意味を取り出すと言ってもそれ自体を意味と形式を備えた言語で表現しない限り、「これが意味です」と言って意味だけを示すことができない、つまり文章の意味(名詞の単語の場合は別の考え方をしなければならないが、当面は文)を言語で表現すると、自動的に文法を備えた文、すなわち元の文章そのものにならざるを得ないからである。ということは、文法の方は形式であると言っても、それ自体意味と形式とを備えているために、それを言語で表現できるからに他ならないのである。文法は主語とか、動詞、目的語、といった抽象的なあるいは機能的な意味を持つ要素の構造であり、それ自体が意味を持っているし、構造そのものも 1 つの意味と言えないこともない。

要するにこれは、無理に例えると、容器中の液体のようなものかも知れない。もちろん容器が文法で、容器の形を持った液体が意味である。器によって形を持った意味が捉えられる。

もう少しこの比喩を推し進めてみたい。例えば無色透明なワイングラスに赤いワインが注がれているとする。ワインはグラスの形に従い、美しい色と形を持った一体のものとして眼に見える。しかし、無色透明なワイングラスも眼に見えないわけではない。ワイングラスも中のワインと同じように物質で出来ている。酸素が重要な主成分であることもワインと変わらない。要するにワイングラスもワインに形を与える形そのものではなく、ワインとそれほど変わらない物質で出来た物体であり、ワインが液体であるのに対し、それが固体であることだけがその違いである。文法もそういう意味でワイングラスの様なものということが出来る。文法自体が意味で形作られているのである。

このように、言語から文法を分けて論ずると言われることは、言語から文法を取り出す、あるいは抽出するという方がまだ適当だろう。しかし、それでも、言語から文法を抽出したとして、その残留物には文法がもう含まれていないわけではない。文法を抽出された元の言語は依然として元のままである。要するに言語を意味と文法とに分ける事は出来ないのである。ということは、言語から文法を抽出するという言い方も、分けるという言い方と同様、誤解に導かれる表現なのである。

物質とは限らないが、普通一般のものは、その一部を取り分けたり、化学分析のように成分を抽出したりした後には取り出した成分が残らないのが普通である。それに対し、いくら取り出しても、何度取り出しても、減りも無くなりもしないものが有る。情報、知識、意味等の言葉で表されるものがそうである。

ということで、文法それ自体も言葉そのものと同様、意味を持つものだと思うのである。但し、「意味を持つ」という言い方も、これまた比喩であり、誤解に導かれることを避けることがむずかしい。

文法も含め、言語は意味を持つというよりも、意味を表現するものなのだ。意味は言語の成分ではなく、言語によって暗示され、表現されるところの、言語とは全く別のものなのである。

実は今、カッシーラーの「シンボル形式の哲学第一巻」(生松敬三、木田元訳、岩波文庫)を読み始めたところだ。これもまた難解な書物だが、ちょうど4分の1ほど読み進んだところに次の様な記述がある。

「プラトンにとっては語の物理的・感性的内容がイデア的意義の担い手となるのであるが、意義そのものはやはり言語の枠内につなぎ止められるものではなく、言語の彼岸にあるものだ」

実際、言語作品にしても音楽のような芸術作品にしても、高度なものは一度や二度くらいの体験では解ることが出来ない場合が多い。何度読んだり聞いたりしても、最後まで解らない場合もある。しかし意味が無いのではなく、解る人には解るのである。

こうしてみると、「心を持つ機械を作る」などという発想が如何に現実離れした無謀なものであるかということが思い知らされるのではないだろうか。

この本で「分ける」という表現と並んで気になる表現に「処理する」という表現がある。例えば、脳のある部位が文法を「処理している」とか、意味を「処理している」というような表現で、一般に脳科学などでは頻繁に使用される用語である。こういう表現の始まりは情報科学、コンピューターサイエンスなどで盛んに用いられる情報処理ということばだろう。コンピュータは情報を処理する機械とされている。私の考えでは、コンピュータ-そのものは情報の処理などはしていない。人間がコンピューターという機械を使って情報を処理しているだけである。