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2023年5月1日月曜日

神秘からの逃走先としての科学と科学からの逃走先としての芸術 その1、科学と憧れ ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その7

科学と憧れ ― 憧れとは何者だろうか

 少年期から青年期初期にかけて、私にとって自然科学は最高の憧れの対象であった。しかし ― 数年間の就職期間と浪人期間を経た後であったが ― 自然科学を専攻する目的で大学入学した時点では、一面においてではあるが、すでに自然科学に幻滅を抱いていた。それでも自然科学を専攻した理由は、名目的には就職の適性を考えてのことであったが、当初の憧れがまだ惰性を持っていたという面もある一方で、自然科学とはいったい何なのだろうかという、いわば科学の本質について少しでも極めたいという、野心めいた気持ちもあったのである。もちろん、そういう目的が就職につながる筈もなかったが、憧れの対象の方向はそちらの方に屈折していった趣がある。

そういう間にも、いつも考えていたことは、そもそも憧れとは何であろうか?ということ。また幻滅についても、なぜ幻滅を感じるようになったのか?ということである。憧れについて言えば、憧れの対象は何であれ、何かに憧れる気持ちというものは、人により程度の違いはあろうけれども、何か止むに已まれぬ欲望のような処がある。もちろん小学校低学年程度の子供時代にそれが憧れであるというような意識は持つわけもないが、その後の科学への思いは確かに憧れという言葉でしか表現できないものであった。憧れとは、何か心を満たすものを求めるという意味で、欲望と共通するところがある。では欲望とはどこが違うのかと問えば、それはいろいろと考察する切り口はあるが、差し当たって言える一つのことは、欲望の方はそれ自体が科学的考察の対象となっていることである。もちろんそれは心理学の対象であるが、フロイトが始めた精神分析ではその中心概念になっている。こういう点で、憧れはいまのところ、科学の対象外である。であるからこそ、私は科学に憧れることができたとも言える。「科学への憧れ」は言葉になるが、「科学への欲望」は、言葉にならない。欲望の対象は物質的なものか、生理的なものであるからである。

ともあれ、私にとって科学はそういう憧れの気持ちと強く結びついていた。後から訪れた科学への幻滅の気持ちも、それが憧れであったからこそであろう。

一方、科学に憧れるといっても、科学とは何であるかを最初から分かったうえで憧れたわけではない。そもそも憧れの対象は最初からそれについて知っているものではない。科学という言葉から何とはなしに受け取れる印象あるいはイメージから憧れに気持ちを抱いたに過ぎない。そうだからこそ、将来にわたって科学とは何かについて考え続ける羽目になったのである。

そもそもの発端は、記憶が及ぶ限りで、小学校の科目で理科という科目の授業を受け始めたことにある。理科という科目は私にとってその他の、国語や社会とは明らかに違ったインパクトを持つものであった。それは理科という言葉の語感とも関係していたように思う。今まであまり考えた記憶はないが、いま改めて理科に相当する言葉を英語やヨーロッパの言語で調べてみると、いずれも「科学、Science」かそれに相当する言葉である。中国語でも「科学」となっている。調べてみると、実際にアメリカの小学校の授業科目としての理科はScienceとなっている。日本で「理科」という言葉を誰がいつ頃小中学校の科目として使われるようになったのか、何故、中国でこの言葉が使われないのかについては興味深いところがある。普通の辞書や従来の百科事典にはあまり「理科」という項目は見つからないが、ウィキペディアには「理科」の項目があり、その記述には結構興味深いものがある。やはり、日本発祥の言葉であるが、中国語には取り入れられていないらしいことも興味深いものがある。それによると「理科」という言葉は当初、江戸時代の蘭学者によって、物理学を意味するオランダ語の訳語として発案されたとある。とすれば、「物理学」は「理」に「物」を付けた言葉であるからその後にできた言葉と思われる。やはりウィキペディアで調べてみると、「物理学」については語源的な記述はなく、また「物理」を引くと「物理学」に転送される。おそらく「物理」と「心理」は共に、「物理学」と「心理学」の後からできた言葉であろう。

以上から、詳細な論理は省略して一つの結論を出すと、理科という言葉の概念は基本的に自然科学を意味するが、可能性として心理学をも含みうるもののように思われる。現在、科学とされている社会科学や歴史は含まれないことになる。もちろん、現実に小学校や中学校の理科には心理学的なものは含まれていなかったはずである。また高校以上になれば理科という科目はなくなり、個別科学になるが、それでも大学やそれ以上の教育を含めて理科という概念は意味を持ち続けていると言えるだろう。

ともあれ私の憧れの対象としての科学は、理科という言葉による概念に始まるということができる。

2022年7月3日日曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その1

 かつて、というか私の若いころの話だが、「反共」、あるいは「反共主義」という言葉の意味するところはそれだけで印象が悪い内容であったように思う。少なくとも私にとって印象の悪い言葉であった。もちろんそれには当時の社会一般の常識的な印象を反映していたはずである。共産主義そのものに同調する人は多くはないものの、日本共産党は安定して勢力を伸ばし続け、極端な反共主義者は共産主義者以上に嫌われるような風潮があったように思う。私の場合、そんな深くも強力にでもないが外面的な共産主義の影響を受け、少なくともあこがれる程度までは影響を受けていたとはいえる。

ソ連崩壊後はソ連や東欧諸国で実際に効力を持っていた共産主義や依然として共産主義国家であった中国の共産党も含めて共産主義や共産主義政党に対する反感は増大し、理念としての共産主義の権威性も大幅に低下した印象がある。しかしだからと言って、反共や反共主義に対する印象が向上したとか、悪い印象がなくなったかといえばそうでもない。むしろ反共や反共主義という概念自体が希薄になって、この言葉が使われることも少なくなってきたのではないかと思われる。

共産主義体制や理念としての共産主義も事実上破綻したにもかかわらず、反共産主義が盛り返すようには見えないのはなぜなのか?私は、それは宗教と科学主義の問題が絡んでいるように思われる。というのは、共産主義は一応、少なくとも形式的には反宗教であり、逆方向から言えば多くの宗教は反共産主義であった。つまり共産主義は唯物主義であり、科学主義であることが建前であったということである。

言い換えると、理念としての共産主義は科学主義であるという点で、今でも一部の知識人、常識人の心をとらえ続けていると思うのである。反共主義は反科学主義であり、宗教的である場合が多いという点で、一部の知識人や一般人にもに忌避される傾向は今でも持続しているといえる。

要するに、共産主義と反共産主義との対立関係が科学主義と宗教との対立を含意しているともいえようか?もっと単純に言い切ってしまえば、科学主義と宗教との対立関係を置き換えているともいえるのである。そこで科学主義と宗教との対立関係を分析する必要が生じるのであるが、これはまあ難しい問題である。

なによりも、その前に、現実の共産主義団体や反共主義団体が、各々それらの理念を体現しているかどうかはまた別の問題としてあることである。こういう問題は理念だけを取り出して考察することはまず不可能だから厄介なのである。

一方現実の科学上の諸問題で科学を尊重することと科学主義とはまた別物であることも考慮しなければならない。例えば、端的に言えば特にCO2温暖化説において日本共産党を含めて共産主義的勢力の科学無視、あるいは科学的ないい加減さについては、今はもうあきれるばかりである。一般的に言えば形式的に科学的な表現を使用するだけに過ぎない場合や一部の科学者の所説を盲目的に支持するに過ぎないことが多いのである。いわば科学は内容よりもむしろ形式と方法であって、この形式と方法でカバーできる内容というのは限られているともいえるし、適した対象もあれば不適切な対象もあり、人間の知的活動の分野としては極めて限定的なものであることが次第に明らかになってきたのが現在ではないかと思う。その点で、いまや政治思想の拠り所を科学に求めたり、逆に科学の拠り所を政治思想に求めたりすることは、時代遅れになりつつあるのではないかと思うのである。

公開日2022年7月3日

修正および加筆2022年7月6日

2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2021年8月22日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その3― (続)人工知能の理念またはアイデア

前回、エキスパートシステム、自然言語処理システム、および知能ロボットに代表されるような、著者がAI(人工知能)という分野に属すとみなすシステムにおいて、人間とのインターフェースを捨象したシステムを、ソフトウェアも含めて、エーアイと呼ぶことにした(現実にそういうものはあり得ないと思うが)。いま一度この間の論理を整理してみると、著者はAI(人工知能)を、道具としてのコンピュータを含む全体的な存在として捉えていることが前提である。もう一度引用すると:AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない。
道具としてコンピュータを使ったり、「応用」したりする主体は、つまるところ、人間以外ではありえない。したがって私が定義するところの「エーアイ」は、エキスパートシステムなどのシステム全体から人間を捨象した部分に他ならない。この、私がエーアイと呼ぶことにしたものについては、本書の第2章以下で詳細に説明、あるいは論述されているので、かなり難しいが、本シリーズで引き続き検討してみたいと思う。第1章の残りでは、著者は「AIとは何か」について、歴史的な事情に基づいてその成果をかなり批判的に論じている。

 著者は初期のAI研究に対してかなり批判的に論評している。例えば下記引用のように:

  •  チューリングはデカルト流の<理性>を信奉していた。チューリングにとって「ある事柄を判定できる」とは、「それを立証する明晰で普遍的な数学的手順(アルゴリズム)が存在すること」であった。
    「風変わりな天才チューリングは、「そういう数学的手順を有するもの」として人間を再定義したに過ぎない。
  • AIという言葉が初めて用いられたのは1956年、米国ダートマス大学の会場であった。― 中略 ― ところで面白いことに、この教祖たちは世界をゲームかパズルのようなものとしてとらえていた風がある。そういえばチューリングもチェスが好きであった。― 中略 ― たしかに、世界をゲームとみなす世界観は一種の普遍性を持っている。だがそれにも限界がある。とくに噴飯ものだったのは、彼らがゲームやパズルだけでなく、機械翻訳までに同様の技法で取り組もうとしたことだった。しかも、現在のパソコンにもおよばない貧弱な機械を使ってである。
    いうまでもないが、翻訳のできばえは素人にも一目瞭然である。こうして破局がおとづれた。教祖はホラ吹きとののしられ、予算は削られ、AI研究はいったん悲劇的な挫折を味わったのである。
  • 思えば妙な話である。人間の知的活動はパズルやゲームばかりではない。― 中略 ― 人間活動できわめて応用範囲が広く、はなはだ高級な知的活動は、初期のAIでは無視されてしまったのだろうか。とすれば、AI研究者とはチェス盤をもった小児にひとしいということになる。
  • 言語を理解することは、意味を解することである。それが可能になるためには、宇内の万物森羅万象について、さまざまの知識を持っていなければならない。立派な辞書や文法書があるのに、翻訳家が刻苦勉励せねばならない理由はそこにある。だがこんな自明の真理も、AI研究者のあいだで広く認められたのは1970年代以降のことだった。
  • おりしも、1970年代から80年代にかけて記憶素子の値段が一挙に低下した。ここで一人の新たな教祖が登場する。スタンフォード大学のファイゲンバウムである。
    ファイゲンバウムの戦略は、安価になった記憶装置に<知識>を大量にとりこみ、それらを推論機構によって組合わせるというものだった。まさにコロンブスの卵である。意表を突いたこの戦略は、<知識工学(ノレッジ・エンジニアリング)>と呼ばれて注目を集め、AI研究は息を吹き返した。そして現在、産業界のキラキラしたまなざしを浴びているのである。

以上は本書第1章「AIとは何か 」の中ほどの小見出し「探索とゲーム」とそれに続く「知識工学の登場」からの引用である。私が興味深く、あるいは訝しく思うことは、著者がAIの理念を立ち上げた人たちを「教祖」と呼び、考え方の誤りを指摘しているにも関わらず、人工知能の理念そのものに疑いを呈していないことである。その問題とは別に、この引用から歴史的に、「知識工学」という戦略により「AI研究は息を吹き返した」ことがわかり、それは要するに、業界あるいはオーソリティのあいだで最終的にAIの理念が認められたことがわかる。著者とオーソリティとの関係は判らないが、いずれにせよ、著者の見解はオーソリティ、特に産業界における主流から外れることが無かったことがわかるのである。

ところで、前回記事のとおり、私が、AIの理念そのものが破綻していると判断した根拠と、西垣氏による初期AI研究への批判の論点とは全く異なるものである。第一、西垣氏による初期AI研究の批判の論拠は、私にとっては、この本を読むまでは全くあずかり知らない知見であった。それにもかかわらず、素人の私にも十分に納得できる論拠ではある。ただ、納得できるものの、徹底的ないしは根本的、根源的な論拠とは言えないような気がする。この点を、今後の考察で掘り下げることが出来れば、と願っている。

2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


2021年8月5日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その1、三種類のAI概念

去る五月、引っ越しの準備を機に蔵書の半分ほど削減することを目標に整理を行った際、偶然にも表記の本一冊を手に取った一瞬、処分する方に回そうと思ったが、すぐに思い直して残しておくことにし、今、引っ越し先の住まいで読み終わったところである。最初に処分しようと思った理由は、端的にいって今ではもうAI、人口知能という言葉と概念に辟易していたためである。しかしすぐに思い直して読み直そうと思った理由は、もともと、当時から人工知能という言葉と概念には反感を感じていたけれども、本書自体は拾い読みした程度で実際には一読したとも言えず、内容もほとんど記憶していなかったし、AIという言葉に辟易していたとはいえ、この現在に至ってますます盛んに用いられるようになった言葉と概念について、もう少しは掘り下げて理解する必要を感じたからに他ならない。

著者の西垣通氏は、実は私と同年齢である。 調べてみると生年月日も極めて近い。もちろん、経歴や業績の差は比較にならない。著者がこの本を出したのはちょうど著者40歳の頃になるが、その当時の同年齢の私は一地方大学の卒業を挟んで何回かの転職を繰り返した後に宝飾品の加工職人をしていた筈である。私が購入したのは1992年の第三刷であるから、ちょうど不景気で宝飾品加工業の先行きも怪しくなり、転職を考え、間もなく50歳にもなろうかという時期にパートのアルバイトもしながら放送大学で情報工学やプログラミングなどを受講してみたり、と、あれこれ迷ったり、あがいていた時期でもあった。所詮、ITの専門家に転身などできるはずもなかったが、それでもその後から現在に至るまで実利につながるパソコンユーザーになることができ、身を助けることになったことは有難いことではあった。

さて、本書を今度読み返してみて、というより、初めてまともに通読してみて改めて気付いたことは、コンピュータサイエンスに関する西垣氏の思想的態度には、前提知識の圧倒的な差にも関わらず、結構共感できる部分が多いことであった。しかし決定的に私とは異なる点をも発見できたように思う。

一つの概念として語ることが困難なAIという用語 ― 現実に存在する技術としてのAI概念とAIそれ自体、また到達目標としてのAI概念

この書は「AIとは何か」という、AIの定義から始まり、この言葉がアメリカ生まれの言葉とされ、かつては人工頭脳と呼ばれたこともある、と書かれている。私自身がこのブログで、AIは人工頭脳と同じものを指しているとする記事を書いたが、同じ認識であったことになる。ただ、著者自身も述べているように、AIという用語は極めて多義的で、そもそもどういうカテゴリーに属すのかが把握しにくいと思われるのである。ちなみに本書には次のような記述もある:「AIという分野は何も珍しいものではない。米国の大学の某研究室には、三十年も前からAIの看板が麗々しく掲げられている。」ここではAIは「分野」として説明されている。こういう所では、「何の分野なのか?」という問題が気になる所である。

本書の中ほどで、ドレイファスという名前の、「反AIの闘志」と呼ばれる哲学者の紹介とともに「反AI」という一つのキーワードが登場する。ここではその内容について議論はしないが、このようなAIという用語の多面的な使われ方をみると、AIについて語る場合にそれを1つの概念として語ることが困難であることに気付く。そこで、この見出しのように、取りあえず次の3つの意味に分けて考えるのが良いと思われる。

  1. 現実にAIという触れ込みの下で存在している技術で、完全であるかどうかは問われない。例えば機械翻訳システムとか、自動運転システムといった技術。こういうものはすでにAIという名称で通用しているのだから、総称する場合にはAIと呼ぶしかないともいえる。しかし、例えばITという更に総称的な用語を使うこともできるし、また単に、即物的に機械翻訳システムとか自動運転システムなどといえばそれで済む話である。ソフトウェアとハードウェアの組合せに過ぎないともいえるので、私自身は「AI」はできるだけ使わないことにしている。
  2. AIという用語それ自体の概念。あるいは理念と呼べるかもしれない。そもそもAIという概念に相当するものが存在し得るのか、という議論に導かれるような概念である。
  3.  実現すべき最終目標としてのAIの概念。

本書は、冒頭の数行で上記「1」の問題に触れ、その後前半で「2」の問題を扱い、中ほどで「反AI」について紹介した後、その後の後半で「3」の問題を扱っていると言える。 次回以後、これら「2」と「3」に関して本書と本書に込められた著者の思想について感想を述べてみたいと思っている。



2020年2月14日金曜日

人工知能と人工頭脳 ― その3(人工知能という言葉とAIという略語の併用)

ニュース番組などで人工知能という言葉が使われる場合、申し合わせたようにAIという略語との併用で話される。AIと言った後、必ず人工知能と言い直す。これは文章の場合も同じであってカッコ付きか併用で用いられる。外国の場合はどうなのかよくわからないが、例えばWikipediaでその項目を見ると、やはり英語でもAIとArtificial Intelligenceを併用してどちらかをカッコに入れて使われる傾向があるように思われる。なぜこんな面倒くさい言葉が使われるようになったのだろうか?このこの熟語、本来は専門用語であったこの熟語自体への違和感とか問題点についてはすでに過去2回にわたって表明させて頂いたが、取り合えず、すでにこの言葉で何らかの概念が表現される習慣が定着してしまい、他の用語を使うことが難しくなってきた状況さえ考えられる。とはいってもやはり違和感あるいは使い心地の悪さ、面倒さは拭い去れない。

この言葉に相当する過去の用語はやはり人工頭脳をおいて他にはないのではないだろうか。人工頭脳という言葉があまり使われなくなった理由を考えて見るとそれは、後から、コンピューターという用語が一般的になってきたからと思われる。というのはそれ以前、日本語の場合であるが、電子計算機という言葉しかなかったところ、計算以外の目的でも使われる計算機としてコンピューターという英語が使われるようになった。さらにパソコンが普及してソフトウェアがソフトと呼ばれて個人的にも購入されるようになり、ハードウェアとソフトウェアという言葉と概念が一般的に使われるようになった結果、ハードウェアとソフトウェアが一体になった概念を適切に表現する言葉が見失われたのではないだろうか、そういう時に別のところから人工知能という言葉が登場したので、この言葉にうまく便乗したのではあるまいか。すでに前回、前々回で述べたようにこの人工知能という概念は不自然で実態があやふやな概念に思えるのだが、新味はある。という訳でハードウェアとソフトウェアが合体した概念がこの新味のある言葉に乗り移ったのではないだろうか。あの、シニフィアンとシニフィエとの複雑怪奇な関係として。

一方、人工知能というシニフィアンの立場から考察してみると、人工知能は本来従来になかった新しい人口の創造物としての概念を表現する意図をもって登場したはずである。そういうものが存在し得るかどうかは別として、そういう概念を表すシニフィアンに、従来からあったハードウェアとソフトウェアの合体物(私は人工頭脳と言って良いと思うが)が相乗りしてきたのだともいえる。そういう相乗りを許したということは、もちろん相乗り自体はあり得ることだが、もともとの人工知能というシニフィアンの中身あるいはシニフィエが空虚であったのではないかという疑いがもたれるのである。要するに空車であったからこそ楽々と入り込むことができたのではないだろうか?

では、人工知能という熟語とAIという略語の併用という現象は何に由来するのだろうか?もちろんAIという略語ではわかりにくいから人工知能という正規の用語で言い直しているのであるけれども、そういう面倒な言葉を使用するのは、端的にいって他の言葉を使いたくないからであろう。要するに新しさを演出したからであろう。人工頭脳と言えば多少は自然で分かりやすいと思えるのだがそれを使わないのはもはやこの言葉がすでに古びてしまい、新しさを演出できない。AIを併用せずに人工知能だけで済ますのは、やはり抵抗を感じるか、反感あるいは違和感を慮ってのことではないかとも思われる。個人的に思うのは、あまりにも漠然とはしているが、単にITでもデジタル技術でも良いではないか、と思うけれども。

2020年1月19日日曜日

人工知能と人工頭脳 ― その2(仮想知能・バーチャル知能という表現が優れている)

前回記事(同一表題のその1)で人工知能という言葉への違和感を書き始め、その後も考え続けていたのですが、ようやく『人工知能』は『仮想知能』と呼ぶべきではないかと思い付き、念のためにグーグル検索してみるとツイッターにそういう提案がすでに出ていましたね。

Shuuji Kajita on Twitter: "「人工知能」は「仮想知能」と改名すべき ...

トマボウ on Twitter: "人工知能は仮想知能と言ったほうが良くて ...


冒頭に述べた通り私も賛成です。ではなぜそうなのかを前回の文脈の続きで述べてみたいと思います。

そもそも『知能』という言葉は何らかの属性を表す概念を意味するのであって属性を担う存在を表すものではないからです。『人工頭脳』という場合は、頭脳そのものと同様、何かの思考に類する機能を担う存在であって機能そのものではないわけです。もっとも端的な言葉で言えば『能力』や『力』そのものがそうです。物理的な力を考えて見ても、引力、重力、圧力、火力、電力、原子力、等々、様々なレベルでいろいろ考えられますが、力そのものに天然も人工もありません。

ただ、日本語の場合、『人工』ではなく『人工的』といえば少々ニュアンスが異なってくるように思います。『人工』の場合は「人間が作ったもの」というニュアンスですが、『人工的』といえば『人為的』という言葉でも置き換えられるように、具体的な性質、性格、あるいは特徴を意味することになるので、それほど違和感は感じられません。英語ではどちらも『Artificial』という他はないので、この点では断然、日本語の方が優れているように思います。他の言語については知りませんが。という訳でこの言葉が英語起源であることには頷けるものがあります。

改めて、日本語は大切にしたいものです。特に日本語を英語化すること、安易に英語風な表現を取り入れる事、英語風な表現にしてしまうことにはよほど注意すべきではないかと思います。もちろん何でも、どのような場合でもそうだとは言いませんが。

 




2019年10月17日木曜日

人工知能と人工頭脳 ― その1

人工知能(Artificial intelligence、AI)という言葉はれっきとした専門用語であるらしく、科学技術の専門用語辞典に、定義はないが、項目はある。かつてよく使われた人工頭脳(Artificial brain)は専門用語ではないらしく、上記の用語辞典には項目がない。しかし私の個人的な印象では、この二つの言葉を比較すると、人工知能よりもむしろ人工頭脳の方に科学的な印象を受けるのである。

手っ取り早いところで日本語ウィキペディアには専門的な定義があり、次の三通りの定義が紹介されている。
  1. 「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」
  2. 「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」
  3. 「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
というふうで、二つは研究分野とされているのだが、もう一つは技術の範疇である。それに続いて次のような定義が紹介されている:
  • 「『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。「誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である」
 以上によれば、AIとは特定の研究分野を意味するものであるとの定義が優勢ではあるけれども、特定の技術を意味する定義もある。その技術とは簡単に言ってその研究分野における研究の成果物ということになるだろう。そして今や一般にはその技術的成果物の意味で使われる場合が殆どと言ってよいだろう。こうなってくると、この言葉とその帰結の行く末にはかなり心もとないものが感じられてくるのである。

というのも、一般人はこのような言葉を専門的な定義で理解したうえで使うわけではない。一般人はこの種の言葉の概念をその言葉(熟語)を構成する要素の本来の語源的な意味でとらえるのである。しかもこれは非専門家だけではなく専門家自身の方にも多分に該当するのである。そう考えた場合、「人口の知能」とは一体なんぞや、そんなものが実在しえるのか、という意識を絶えず伴いながらも、なんとなくそういうものがあるような前提に引きずり込まれがちなのである。

しかし、そもそも知能という概念自体に確たる専門的な定義もあるのかどうかは覚束ないし、コンピュータサイエンスの中でも知能という概念自体が明確に把握されているのかどうかは疑わしい。人工という概念にしてもそうである。

そのようなわけで、上記のような諸定義をこれ以上分析することは当面は諦め、独自の視点で分析してみたいと思う。その際、人工知能に似た言葉で、かつてはよく使われた人工頭脳と比較することが一つの手がかりになるように思われる。(次回に続く)

2017年10月16日月曜日

上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)

視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。

視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。

このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的で一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。

ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。

単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。

動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿とタツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。

移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。

動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。

道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログや論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。 

植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学や地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。

このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。

さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。

音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。

例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。

幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。

というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。 

(10月17日追記注記) 
  • 例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。
(2017年10月16日 田中潤一)

2017年10月10日火曜日

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。

端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。

一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?

鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府の心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。

以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。

こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。 


虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

2015年12月29日火曜日

鏡像問題の意味と意義


鏡像問題はいまだに未解決であると か、定説がないとか言われる一方で、現に多くの説が存在し、少なくとも主張を続けているそれぞれの提唱者は、自説を取り下げない限り、自説こそが定説とな るべきか、定説に発展する基礎であると考えていることになる。また物理学者や数学者の中にはあえて問題にするほどのことでもないと考えている人も多いのではないだろうか。こういう状況下では新しい理論が提唱されたところで、その理論がどうであれ、現在の状況が変わることは難 しいのではないかという見方もできそうである。問題自体の重要性、意義についても様々な態度があるように思われる。

しかしながら、鏡像問題が追求するものそれ自体は、 一つの認知現象について、なぜそうなるのかという一つの説明に過ぎないといえるにしても、原因または理由が謎とみなされる限り、謎の中には未知の可能性があり、どのように多様な意味や重要な意義のある発見がもたらされるかわからないという期待も持てるのである。
 
どのような分野であれ、現在、定説あるいは正解とみなされている重要で価値の高い科学理論の多くに共通する要素は、そのもたらす意味範囲の広さと意義深さであり、知的または技術的生産性の大きさともいえるのではないだろうか。つまり、その理論からさらに多くの有意義な理論や証明が展開されたり、実用的、技術的な応用が可能になったりしているものだと思う。ニュートン力学にしても量子力学にしてもそのような観点から普遍的な理論として認められているのであろう。それは同時に体系的であるともいえる。

新しい理論が有意義であるとすれば、その理論自体がさらに大きく発展する可能性を秘めている場合もあるであろうし、既存の大きな体系に有意義に組み入れられ、その体系をより豊かにし、価値を高める場合もあるだろう。あるいはその両方の要素を持つ場合もあるかもしれない。そのような理論の多くはおそらく着想された当初から直感的に面白く思われ、興味深く感じられ、人を引き付けるのではないだろうか。

従来理論の不備や誤りを見つけること、さらに指摘された不備や誤りが従来理論の提唱者自身を含めて広く学界や一般から受け入れられるには様々な面で障害がある。そのような努力はもちろん、従来理論の有意義な部分を理解し、正当に評価することと共に、欠かせないことではある。しかし過剰にそのようなことに労力を費やすことは必ずしも効率的であるとは思えない。まずは金鉱石から金を取り出すことである。金以外に貴重なもの、可能的なものが含まれている場合があるにしてもそれらを選別することは後からでもできる。

逆に従来理論の不備と誤りを見つけることから考察を開始し、新しい解決を見出そうという行き方ではなかなか新しく有意義な発見に至ることは難しいのではないかと思う。ことに鏡像問題は数学の分野でよくあるように具体的に明確な形で与えられた問題を解くのではなく、問題自体が多面的にさまざまな表現で定式化されている。そのため、具体的に提起された一つの表現にしてもかなり多義的な解釈が可能な場合が多いのである。

仮に同じ程度の説得力しか持たない二つの理論があった場合、形式的な表現よりもそのもたらす意味の広汎さや意義深さを評価すべきではないかと思う。


私が鏡像問題にここまで関わることになった最初のきっかけは2007年末のウェブ新聞の科学欄記事であった。その記事では鏡像問題そのものよりもむしろそれが論争中であるということに焦点が当てられていたように記憶している。私自身は、その時、別に論争に参加したいと思ったわけではなかった。そういうことには縁がないと思っていた。ただ改めて鏡映反転の問題に興味を呼び起こされたのである。

一方、当時は偶然にも私が哲学者カッシーラーの著作(『シンボル形式の哲学』)を読み始めた頃だった。2008年から2009年にかけて遅々としながら日々、慣れない哲学書を覗き込むような気持で読み続けていた。

私が自ら鏡像問題に独自に取り込むことができるのではと考え始めたのはこの読書がきっかけである。具体的にはこの書の第二巻で鏡像問題に強力な光を当てることになると思われる記述に遭遇したのである。最初はこのブログや別のブログ記事でそれを示唆することで専門の研究者の目に留まればよいと思っていた程度だったが、そのうちに欲が出て自分自身で鏡像問題を体系化してみたいと思うようになった。それは私欲でもあったが、一方で義務であるとさえ思われたのである。

それが幾何学空間の等方性と知覚空間の異方性という異なった認知空間による説明である。『シンボル形式の哲学』では鏡像問題が扱われていたわけではなく、その個所のテーマも知覚空間そのものではなく「神話空間」であり、またマッハからの引用を元にした議論であったが、その個所をに行き当たり、読み進んだ時点で、すでにそれが鏡像問題の解答そのものであると思われたほどである。そして、ここに至って、改めて鏡像問題の重要性、奥深さについて認識を新たにさせられたともいえる。

私自身は昔、大学時代前後の頃だと思うが、いま鏡映反転と言われている現象について考えたことは記憶していた。そのときには一応解決に至ったと思い、それ以上は考えなかった。いま思い起こしてみると、その時考えたことは、鏡像とはつまるところ、こちら側の裏返しなのだ、という認識だったように記憶している。

その後30年以上も経過し、今回のように心理学や物理学の専門家によって重要な問題として議論されていることを初めて知った次第で、あらためて興味をかきたてられたのだが、個人的には学問的分野で研究職についているわけでもなく発表の場を持つわけでもなかったこともあり、ブログ記事で、例えば縦書きと横書きと認知機能との関係など、関連する事柄について気の付いたことを発表していた程度だった。

日本で行われていたその議論というのは、具体的には日本認知科学会で行われてきた討論会や誌上討論形式の論文集などになるわけで、鏡像問題のように実用性や技術的な目的からは程遠い問題に対する関心を失うことなく持ち続け、このような取り組みを続けてこられた学会と先生方の持続的な取り組みには極めて大きな意義があり、個人的にも敬意を抱いている。

それらが集約されたのが、日本認知学会学会誌の論文集『小特集―鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見えるのはなぜか?』に掲載された諸々の論文、掲載順に小亀淳先生、高野陽太郎先生、多幡達夫先生の諸論文であったのだろう。個人的には、この論文集の著者のお一方が私にこの議論を紹介してくださり、さらに議論の中に案内してくださることになった。その結果、具体的には昨年、学会にテクニカルレポートを提出できたことである。そのような幸運を享受できたことは誠に有難いことであったと考えている。

現在の科学は過度に技術志向的であるとか技術偏重であるとか批判されっる場合があり、私もそれに同感する考えを持っている。一方でゲーテが早くから指摘してきたように数学偏重と言う批判もあるように思える。これは形式偏重、形式主義的であるともいえ、つまるところ形式論理偏重ということになるのではないだろうか。その結果として意味あるいは概念そのものの分析、探求がおろそかになり、空虚な形式的な表現のみが物を言うようになる。

 鏡像問題はこのような現状の中で真に人間的で有意義で楽しい科学を取り戻すためのまたとないテーマではないか、と思えるのである。そこからは、自然科学と人文科学に共通する根底ともいえる意味論と認識論が見え始めてくるように思われるのである。



2013年3月11日月曜日

『唯脳論』(養老猛司著、澤口俊之解説、ちくま学芸文庫)の読後感とその基本前提となる主張への疑問


本書の難解さ
本書を通読して言えることの一つに、非常に難解だということがある。難解であることに原因が考えられるとすれば、当然、その責任は読者側にあるか、書物、すなわち著者の側にあるか、あるいはその両者に原因があるかの三通りが考えられる。巻末解説者の脳科学者である澤口俊之氏によれば、氏自身もこの唯脳論をよく理解できないことを認めたうえで、その原因、難解である原因はひとえに読者側に、つまり読者の理解力不足あるとしているように見える。ちなみに氏は唯脳論を数千年に一度の画期的な理論であるとみなしておられる。

私の印象では、もちろん私の理解力不足に原因があるには違いないが、著者側にもこの本を難解にしている原因は間違いなくあるように思う。一回通読したうえでのおおざっぱな印象をいえば、全体的に論理構造が不明瞭で、錯綜しているといってもいいような印象を受ける。さらに言えば、論理構造の不明瞭さ、あるいは論理的な矛盾は、この著作自体に含まれるほかに、この著作で前提とされている脳科学における現在の一般的な、あるいは主流とされるような考え方そのものにも含まれている印象を受けた。というのは脳科学者である解説者が現在の脳科学の常識として指摘している本書中の主張そのものにその矛盾を私が感じるからである。まずその主張について考察してみたい。

本書の基礎となる主張
この『唯脳論』では、その主張は最初の「心身論と唯脳論」という節で、次のように表現されている。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」
要するに、心臓血管系の機能が血液の循環であるのと同じ意味で、脳の機能が心である、いう主張である。

また著者は、「脳」は「心臓血管系」と同様に「構造」であり、構造と機能との並行関係という視点でとらえている。したがって、「構造」という概念と「機能」という概念についての理解あるいは認識が鍵となるように思われるが、どちらについてもこの本ではそれ以上の分析がされていないように思われる。
いま「構造」について論じることは難しいが、「機能」という概念について、私なりに分析してみたいと思う。


機能が意味するもの
脳や心臓など、臓器について言う場合、「機能」という言葉と同様に「作用」とか、「活動」とか、「働き」とかの用語が良く使われる。この種の言葉は科学、特に自然科学の領域でも重要な箇所でよく使われる言葉だが、意外と無反省に使われている傾向があるように思われる。何れも非常に抽象的な表現ではあるが、これらの中で「機能」は比較的に具体性が高く、分析しやすいように思われるし、この本の中でも基本的に「機能」が使われているので「機能」について考察してみたい。

心臓血管系の場合、機能は「血液の循環」である(著者は簡単に「循環」と言っているが)。
一般に、「機能」は何らかの目的と不可分の関係であることが多い。心臓血管系の持つ血液の循環という機能の場合、それは人間の生命の維持という目的と不可分の関係にあるといえる。つまり、血液の循環は、人間の生命を維持するために必要な限りでの、心臓血管系が関わる生理現象であるといえる。心臓血管系が関わる生理現象や、さらに物理化学的に還元されるすべての現象を挙げればそれらは無数の現象から成り立っている。熱も発生するし、電波や音波などの波動も発生している。そういった無数の現象のすべてが心臓血管系の機能であるわけではなく、人間の生命維持に必要とされる血液の循環に関わる限りでの生理現象の総体が、心臓血管系の機能であるといえる。

もちろん、このように考えると、他方の「構造」に対応する概念とは言えなくなるかもしれない。しかし、著者が「機能」に対応させている「構造」の方にも同様のことが言えるのであって、人間の生命維持に必要な血液循環機能に関わる限りでの「構造」であって、考え得るあらゆる構造とは言えないのではないだろうか。

これは人間の作った道具に例えることでわかりやすくなる。機能という用語は、生物の臓器などと同様に、道具や機械について特に用いられる用語である。

例えばスピーカーという道具の機能は普通、簡単に言ってしまえば「音を出す」ことと考えられている。しかし、もちろんのこと、どんな音でもよいわけではない。何かが箱にぶつかって出る音はスピーカーの機能に含まれない。他方、スピーカーは熱も出す。また光を反射しているので見ることができるが、こういう現象もスピーカーの機能には含まれない。つまり、スピーカーの機能を正確に言えば、スピーカーを使用する人間が何らかの目的で電気信号を流すことで、その電気信号に従った音波を発生することにある。言い換えると、スピーカーの機能とは、人間が音楽を再生したり、通信に用いたりする用途に合致するように音波を発生することに関わる限りで、スピーカー内で生じる物理現象のすべてを指すといえるだろう。

他方、スピーカーの構造とは、そのような目的で人間が設計した限りでの構造を意味するといえる。
その場から人間が去ってしまえばそれはもうスピーカーではなくなる。

脳と心臓血管系についても同様のことが言える。いずれの機能についても、その背後と前方に人間という全体的存在が欠かせない。この意味で、血液の循環が心臓血管系の機能であるというのは自然であり、誰もが納得できることである。しかし、脳と心について同じことだいえるであろうか。

まず、心が人間の生存、生命を維持するうえで重要な働きをしていることは否定できない。しかし、常にそうであるといえるだろうか。人間は自殺することがある。また自分ではなく他人の生命を維持するために働くこともあれば、殺人を犯すこともある。こういう行為に「心」が関わっていないなどとは誰も言えないであろう。

こう考えてくると、心臓血管系の血液循環機能の場合も生命の維持ではなく生命を破壊する方向に作用する場合もあるのではないかという疑問が持たれるかもしれない。確かに、血液循環機能はがん細胞の増殖をも促進することで、結果的に生命を脅かすことにもつながる。しかしここで改めて言葉の意味について分析してみる必要がある。血液循環機能というのは人間が作り出した生理学、あるいは生物学上の概念なのである。物理学や化学にはこのような概念はない。

試みに、ウィキペディアで「生理学」を調べてみると、「生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」となっている。「機能」を辞書で調べてみると、例えば次のような定義が見つかる。「器官・機械などで相互に関連し合って全体を構成する個々の各部分が、全体の中でになっている固有の役割(大辞林第三版)」この定義は生理現象などについては適切な定義と言えると思われる。

意味するものと意味されるもの
つまり、血液循環機能は血液循環という生命現象のひとつを機能という見方で把握した概念であるともいえる。血液循環という現象、つまり血液循環現象そのものは、いわば「意味されるもの」であり、血液循環機能という場合は血液循環という現象を生理学的な機能という観点で把握したところのいわば「意味するもの」だといえる。

血液循環機能を「生命を維持するための機能」ととらえるのは生理学的な機能を端的に、わかり易く表現したまでで、生理学的な機能と完全に一致するというわけではないとも言える。

「心」に対して以上のような意味的な分析が可能であろうか。

これに関して、「心」について、著者は次のように述べている。「心を脳の機能としてではなく、何か特別なものとして考える。―中略― それはおそらく間違いである。」
ここで、「心を脳の機能として考える」のは著者の立場であり、「なにか特別なものとして考える」のは著者が「おそらく間違いである」として批判の対象にしている人々の立場であるといえる。ここで著者が指摘するような脳と心臓血管系との対応関係を適用すれば、著者の立場は血液循環機能と同様、「心という機能」として、つまり「意味するもの」として使用していることになる。これはひとつの概念である。心とはそれ自体が概念なのであろうか。心それ自体が概念と言えるであろうか。

「心」という言葉は、日本語でもそれ以外の言葉でも、生物学や生理学が確立されるよりはるか以前からある。それに対して、歴史的に、血液の循環は、「心臓は人間を含む動物の生命現象においてどのような役割を果たしているのであろうか」という疑問、要するに生物学や生理学的な探究の結果として発見された現象であり、「血液の循環機能」はその現象を機能として意味づけるために作られた新しい生物学ないし生理学上の用語なのである。

ここで最初に引用した著者の基本的な主張をもう一度確認してみたい。それは次のとおりである。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」

ここで著者は「心臓血管系」を「脳」に対応させ、また「循環」を「心」対応させているのであるが、ここでの「循環」と「心」は共に「意味されるもの」を指しているものと考えざるを得ないのである。しかし、以上に見てきたように、それ以降で展開される著者の議論では、「心」を「意味するもの」として使用していると考えられるのである。ここに重大な矛盾が存在する。

【「心」は単に名前なのか
このような次第で、血液循環機能とは血液循環現象に与えられた概念であり、換言すれば血液循環現象を意味するものとしての「名前」ともいえるのである。

一方、「心」が血液循環機能に対応する脳の機能に対して与えられた「名前」以外の何物でもないとは、たいていの人は承服できないのではないだろうか。

他方、著者が批判の対象としているところの、心を「なにか特別なものとして考える」立場では、「心」という単語自体は名詞であり、何らかの対象に与えられた、対象を意味するところの名前であることは確かだが、その意味する対象は「心」という言葉でしか表現できないところの「何か特別なもの」なのであるといえる。この「何か特別なもの」が「意味されるものである」

この「心」という言葉によって「意味されるもの」は、「心」(あるいはそれと類縁の言葉、例えば精神とか、外国語の相当語句など)という言葉でしか表現できないものであるが、いろいろな性質は考えられる。たとえば意思(自由であるかどうかはともかくも)や感情を持つことなどである。であるからこそ、生命現象の本来の機能に反するような自殺を意図したり、他人の身体や生命に影響を及ぼしたりもできるのである。

脳機能の内容
一方、それでは著者によって「心」という名前が与えられたところの、「意味される」対象である脳機能はどういうものだろうか。それは現在に至るまでの脳科学あるいは神経系に関する学問分野の直接の研究内容のすべてと言えるのだろうが、それに「心」という名前を与えるに値するだけの内容を持つといえるだろうか。

心臓血管系における血液循環機能と同様の生理現象的な部分でわかっていることは、神経細胞を流れる信号(何らかの電気的な現象や化学的な現象)の他、脳波などの物理現象ということになるのではないだろうか。

脳の場合、こういう電気的あるいは化学的な信号に意味的なものが加わっている。意味的なものが加わっているからこそ、信号と言えるわけであり、著者を含めて多くの科学者がさらにそれを「情報」と表現している場合が多い。脳という器官自体がそれらの意味を理解しているかどうかは証明不能であろう。あくまで比ゆ的に用いられているに過ぎない。コンピューターが情報の意味内容を理解しているといえないのと同様にである。それらの信号に「意味」を見ているのは、考察している人間以外の何物でもない。

著者は本文最初の「唯脳論とはなにか」という節の冒頭近くで、「ヒトが人である所以はシンボル活動にある」と述べている。これは「人間はシンボルを繰る動物である」とするカッシーラーの定義と同じであるが、著者を含む多くの脳関連の科学者は「脳」を主語にした行為として生理現象を説明することで、「人間」を「脳」に置き換ええる。

シンボル活動を行う主体としての「人間」は自明な存在と言える。カッシーラーが人間をシンボルを繰る動物として定義し、「人間(邦訳)」という書物を書いたのは、人間がシンボルを繰る主体として自明な存在であったからであると思われる。これに対して臓器に命令したり、臓器の機能をつかさどったり、制御したり、知ったりする主体としての脳は自明な存在とは程遠い。

「脳が命令する」とか、「脳がつかさどる」とか「脳がコントロール」するとかの表現はすべて比喩に過ぎない。こういう比喩は個々のメカニズムや機能を説明するには有用な表現であろうけれども、こういう比喩を前提に論理を積み上げてみたところで、出来上がった理論も所詮は比喩に過ぎない。
言い換えると、脳を人間に例えて語っているに過ぎない。つまり脳の擬人化と言える。

以上は本書の冒頭節『唯脳論とはなにか』で、本書全体で展開される唯脳論の基本前提とされている「心は脳の機能である」という主張に対する疑問ないしは反論である。非常に広範囲に及ぶ問題について考察されている本書の全体については、また再読する機会があれば、部分的にでも感想を述べてみたいが、広範で複雑な内容だけに困難なものになりそうである。

2013年3月2日土曜日

プログラミング言語は「言語」か

プログラミング言語が日本語や英語と同じ意味で言語であるという認識が以前にもまして、一般的にも広がって話題になってきているみたいである。最近もネット犯罪のニュースが話題になることなどもあって、こういった発言がマスコミやネットの間でも目立つように思うが、個人的にはどうも気持ちが良くない。


確かに、学問的にプログラミング言語は「言語」とされているようである。私もかつてほんの初歩だが、放送大学で情報工学を受講し、なんとか単位を取ったが、その時の教科書でも、プログラミング言語が言語であることは理論的に証明済みだということになっていた。


しかし、こういう「証明」ができるのも結局は定義次第である。言語の定義、あるいは言葉の定義など、今までに完全な定義などあるだろうか?またある程度の定義ができた所で、その定義の意味が完全に客観的に、あるいは論理的に理解可能ということがあるだろうか。としてみると、プログラミング言語も、いわゆる自然言語も共通に含まれるような定義があっても不思議はないし、プログラミング言語を含められない定義もいくらもできるであろう。


先の放送大学での情報工学を受講した際、論理学の問題で先生に次のような質問をしたことがある。それは、形式論理を完全に意味論から切り離す事が可能なのか?それに対する先生の回答は、そういう考えもあるが、切り離すことができると考えた方がプログラミンング言語を作りやすいので、そう考えることにしている、ということであった。


要するに、技術の問題なのである。プログラミング言語の一つも使えない者がこんなことを言うのも多少気が引けるが、プログラム言語が、自然言語とか機械言語とかの種別はあるものの、日本語や英語と同じ意味で言語であると考えることで技術上の概念操作が効率的にスムースに行えるということではないだろうか。

例えば、一般人が普通にコンピュータを使う際でも、コンピュータが文字を認識するとか、文字認識ソフトなど、擬人的な表現を使うが、擬人的な表現を使うことなくコンピューターやロボットを技術的に扱うことが事実上不可能になっていることと同じ理屈であると思う。


これは技術の問題であって、科学の問題でもなく、さらに普遍的な真理の問題と考えるべきではないと思う。普遍的な真理の問題として言語の定義を考えることができるとすれば、それは哲学の問題になると言えるのではないか。


日常のレベルでは、ちょっと考えてみるだけで、プログラミング言語が日本語や英語などの自然言語とは異なるものである、と言える根拠はいくらで挙げることができる。第一、プログラミング言語を人間同士のコミュニケーションには使えない。感情や思想を表現することもできない。それがどうして言語なのか?という疑問を投げかけることもできるはずである。


両者が同じ言語という範疇に属すことが証明されている理論というのは結局は文法理論の一つなのだろうけれども、あくまで一つの理論であって、それが技術的に役立つということ以下でも以上でもない、ということなのではないだろうか


プログラミング言語が、自然言語と呼ばれる日本語や英語と同じ意味で言語であるという考え方も一種の比喩で、日常の会話でもそう説明することで便利になるのであればその場限りの比喩として役立つ単なる表現とでも考えておくのが良いのではないかと思う。しかしそれが何か深いところに潜む普遍的な真理であるかのように思わせる雰囲気が社会的に広がっているようなところがあって、あまり良い傾向ではないような気がするのである。


またちょっとニュアンスの違う問題だが、プログラミング言語こそが論理の神髄であるとか論理そのものであるかのような発言もよく目にすることがある。これもちょっと違うのでなないか。

論理学や数学的な研究がもとになってプログラミング言語ができたのであって、その逆ではないだろう。


論理的な思考を正確に実行するための訓練にはなるのだろうが、それだけが論理ではないし、論理の本質的な部分ではないように思えるのだが。


2012年5月16日水曜日

「LED電球の光が真っ直ぐに進む」のは当たり前

LEDランプの光が従来の白熱電灯とは異なって「真っ直ぐに進む」とか「直進性が高い」とか、よく言われます。

先日もガラス工芸をやっている人と話した際、LEDの光は真っ直ぐに進むので、ランプシェードに使うにしても、今のところかなり工夫しなければ使いづらい、というような話がありました。LEDランプに関してこういう認識はかなり一般的になっているようです。しかしよく考えるとこういう表現はおかしな話で、光が直進するということは誰でも小学校の理科の時間に習って知っているはずです。光はどんな光であっても直進するのは当たり前ではありませんか?

ネットで検索してみると指向性と拡散性という表現を使っている例もあります。これが正しい表現でしょう。つまり、電球の正面方向に向かう光量が多く、側面の方は暗くなるということであて、これは「光の直進性」とは何の関係もない筈なのですが。


これは恐らくLEDランプの発光体の構造によるものでしょう。とくに以前からあるようなイルミネーションや機械のパイロットランプに使われる豆ランプ型のLEDではなくて電球として使われる白色のLEDランプではLEDに蛍光物質の発光体が組み合わされていて、それが平面状であるため、前方に向かう光の光量が多いのだと思います。

ところで、「直進性」は光自体の持つ性質といえるように思われますが、「指向性」に関して光そのものにそのような指向性があるとは考えにくい話です。どう考えても光そのものではなく、光を発する発光体の構造や仕組みに原因があるとしか考えられません。LEDの原理、仕組み事体にそのような要素があるのかというような専門的なことはわかりませんが、少なくとも現在のLEDランプの構造にそのような要因があることは確かに思われます。

しかし殆どの人はLEDランプそのものではなく、あくまでも「光」を主語にして話をします。それで「真っ直ぐに進む」ではなく「前方への指向性がつよい」と適切な表現をする場合でも「光」を主語にするために何か光自体が指向性を持っているかのような印象になってしまいます。

個人的にはこのこと、つまり「光」を主語に指向性や拡散性を云々することに違和感を持つものですが、少なくとも「(白熱灯に比べて)真っ直ぐに進む」とか「直進性が強い」というような表現は止めてもらいたいと思います。

最初にこういう表現をしたのはやはりジャーナリストなのでしょうか。技術関係の評論家かジャーナリストなのでしょう。あるいは技術者自身が素人にわかりやすく説明するためにこのような表現をしたのでしょうか。

いずれにせよ、科学的な考え方を理解するにしても、科学そのものについて考えるにしても、このようないい加減な言い方は努力して是正してゆくべきではないでしょうか。

ジャーナリストや評論家の責任は大きいと思います。

【2013/8/29 追記】
次回の記事「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係」(2012/6/06)も是非お読みください。