2015年12月29日火曜日

鏡像問題の意味と意義


鏡像問題はいまだに未解決であると か、定説がないとか言われる一方で、現に多くの説が存在し、少なくとも主張を続けているそれぞれの提唱者は、自説を取り下げない限り、自説こそが定説とな るべきか、定説に発展する基礎であると考えていることになる。また物理学者や数学者の中にはあえて問題にするほどのことでもないと考えている人も多いのではないだろうか。こういう状況下では新しい理論が提唱されたところで、その理論がどうであれ、現在の状況が変わることは難 しいのではないかという見方もできそうである。問題自体の重要性、意義についても様々な態度があるように思われる。

しかしながら、鏡像問題が追求するものそれ自体は、 一つの認知現象について、なぜそうなるのかという一つの説明に過ぎないといえるにしても、原因または理由が謎とみなされる限り、謎の中には未知の可能性があり、どのように多様な意味や重要な意義のある発見がもたらされるかわからないという期待も持てるのである。
 
どのような分野であれ、現在、定説あるいは正解とみなされている重要で価値の高い科学理論の多くに共通する要素は、そのもたらす意味範囲の広さと意義深さであり、知的または技術的生産性の大きさともいえるのではないだろうか。つまり、その理論からさらに多くの有意義な理論や証明が展開されたり、実用的、技術的な応用が可能になったりしているものだと思う。ニュートン力学にしても量子力学にしてもそのような観点から普遍的な理論として認められているのであろう。それは同時に体系的であるともいえる。

新しい理論が有意義であるとすれば、その理論自体がさらに大きく発展する可能性を秘めている場合もあるであろうし、既存の大きな体系に有意義に組み入れられ、その体系をより豊かにし、価値を高める場合もあるだろう。あるいはその両方の要素を持つ場合もあるかもしれない。そのような理論の多くはおそらく着想された当初から直感的に面白く思われ、興味深く感じられ、人を引き付けるのではないだろうか。

従来理論の不備や誤りを見つけること、さらに指摘された不備や誤りが従来理論の提唱者自身を含めて広く学界や一般から受け入れられるには様々な面で障害がある。そのような努力はもちろん、従来理論の有意義な部分を理解し、正当に評価することと共に、欠かせないことではある。しかし過剰にそのようなことに労力を費やすことは必ずしも効率的であるとは思えない。まずは金鉱石から金を取り出すことである。金以外に貴重なもの、可能的なものが含まれている場合があるにしてもそれらを選別することは後からでもできる。

逆に従来理論の不備と誤りを見つけることから考察を開始し、新しい解決を見出そうという行き方ではなかなか新しく有意義な発見に至ることは難しいのではないかと思う。ことに鏡像問題は数学の分野でよくあるように具体的に明確な形で与えられた問題を解くのではなく、問題自体が多面的にさまざまな表現で定式化されている。そのため、具体的に提起された一つの表現にしてもかなり多義的な解釈が可能な場合が多いのである。

仮に同じ程度の説得力しか持たない二つの理論があった場合、形式的な表現よりもそのもたらす意味の広汎さや意義深さを評価すべきではないかと思う。


私が鏡像問題にここまで関わることになった最初のきっかけは2007年末のウェブ新聞の科学欄記事であった。その記事では鏡像問題そのものよりもむしろそれが論争中であるということに焦点が当てられていたように記憶している。私自身は、その時、別に論争に参加したいと思ったわけではなかった。そういうことには縁がないと思っていた。ただ改めて鏡映反転の問題に興味を呼び起こされたのである。

一方、当時は偶然にも私が哲学者カッシーラーの著作(『シンボル形式の哲学』)を読み始めた頃だった。2008年から2009年にかけて遅々としながら日々、慣れない哲学書を覗き込むような気持で読み続けていた。

私が自ら鏡像問題に独自に取り込むことができるのではと考え始めたのはこの読書がきっかけである。具体的にはこの書の第二巻で鏡像問題に強力な光を当てることになると思われる記述に遭遇したのである。最初はこのブログや別のブログ記事でそれを示唆することで専門の研究者の目に留まればよいと思っていた程度だったが、そのうちに欲が出て自分自身で鏡像問題を体系化してみたいと思うようになった。それは私欲でもあったが、一方で義務であるとさえ思われたのである。

それが幾何学空間の等方性と知覚空間の異方性という異なった認知空間による説明である。『シンボル形式の哲学』では鏡像問題が扱われていたわけではなく、その個所のテーマも知覚空間そのものではなく「神話空間」であり、またマッハからの引用を元にした議論であったが、その個所をに行き当たり、読み進んだ時点で、すでにそれが鏡像問題の解答そのものであると思われたほどである。そして、ここに至って、改めて鏡像問題の重要性、奥深さについて認識を新たにさせられたともいえる。

私自身は昔、大学時代前後の頃だと思うが、いま鏡映反転と言われている現象について考えたことは記憶していた。そのときには一応解決に至ったと思い、それ以上は考えなかった。いま思い起こしてみると、その時考えたことは、鏡像とはつまるところ、こちら側の裏返しなのだ、という認識だったように記憶している。

その後30年以上も経過し、今回のように心理学や物理学の専門家によって重要な問題として議論されていることを初めて知った次第で、あらためて興味をかきたてられたのだが、個人的には学問的分野で研究職についているわけでもなく発表の場を持つわけでもなかったこともあり、ブログ記事で、例えば縦書きと横書きと認知機能との関係など、関連する事柄について気の付いたことを発表していた程度だった。

日本で行われていたその議論というのは、具体的には日本認知科学会で行われてきた討論会や誌上討論形式の論文集などになるわけで、鏡像問題のように実用性や技術的な目的からは程遠い問題に対する関心を失うことなく持ち続け、このような取り組みを続けてこられた学会と先生方の持続的な取り組みには極めて大きな意義があり、個人的にも敬意を抱いている。

それらが集約されたのが、日本認知学会学会誌の論文集『小特集―鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見えるのはなぜか?』に掲載された諸々の論文、掲載順に小亀淳先生、高野陽太郎先生、多幡達夫先生の諸論文であったのだろう。個人的には、この論文集の著者のお一方が私にこの議論を紹介してくださり、さらに議論の中に案内してくださることになった。その結果、具体的には昨年、学会にテクニカルレポートを提出できたことである。そのような幸運を享受できたことは誠に有難いことであったと考えている。

現在の科学は過度に技術志向的であるとか技術偏重であるとか批判されっる場合があり、私もそれに同感する考えを持っている。一方でゲーテが早くから指摘してきたように数学偏重と言う批判もあるように思える。これは形式偏重、形式主義的であるともいえ、つまるところ形式論理偏重ということになるのではないだろうか。その結果として意味あるいは概念そのものの分析、探求がおろそかになり、空虚な形式的な表現のみが物を言うようになる。

 鏡像問題はこのような現状の中で真に人間的で有意義で楽しい科学を取り戻すためのまたとないテーマではないか、と思えるのである。そこからは、自然科学と人文科学に共通する根底ともいえる意味論と認識論が見え始めてくるように思われるのである。



2015年12月17日木曜日

鏡像の意味論―その10―問題の分析


図1 鏡像認知の一部分としての自己鏡像認知と他者の鏡映反転


図2 自己鏡像の認知と他者の鏡映反転の組み合わせからなる自己鏡像の鏡映反転
 

【問題の純化と問題の分析(要素分析)】

問題の純化と分析は、科学的方法の基本事項ではないでしょうか。しかし鏡像問題では従来、どうもこの点がすっきりしていないようでです。

前々回「鏡像の意味論その10」では「問題の純化」と題してこの問題に取り組み、問題純化の1段階に成功したものと考えます。今回は表題のとおり、問題の1つの分析を行ってみたいと思います。


【鏡像認知問題と鏡像問題(鏡映反転)】

現在、鏡像認知問題といえば普通、自己鏡像の認知の問題とみなされ、英語の「mirror self-recognition」に相当するようです。では自己像に限らない文字通りの鏡像認知問題、英語にすると「mirror recognition」という問題が研究や論議されているかといえば、そういうことはなさそうです。英語でも「mirror self-recognition」という用語は学術用語として見つかりますすが、「mirror recognition」という用語はやはり日本語と同様に「mirror self-recognition」の簡略表現として使われているように見えます。この辺に一つの鍵が潜んでいるように思われます。

つまり、字義に即して考えると鏡映反転は鏡像認知の一部分であるとの印象を受けます。その鏡像認知の問題は事実上、自己鏡像の認知の問題とみなされています。したがって、鏡映反転の問題も自己鏡像認知の一部分であるならば、自己鏡像の認知の問題に限られることになります。そのため、鏡映反転の問題も自己鏡像の問題として考察されてきたのではないかと思うのです。

しかし、鏡像の認知は自己鏡像の認知に限って存在しているわけではないことは自明なことではないでしょうか?現実に鏡映反転の問題では自己以外の他者や文字などについても議論されています。鏡像認知の問題でも他者像の認知の問題あるいは自己と他者を含めた、あるいは共通する問題が存在するはずです。

このように、自己鏡像以外すなわち他者の鏡像を含めた「(あらゆる)鏡像認知」を認めれば、「自己鏡像の認知」は「(あらゆる)鏡像認知」の一部分であり、同時に「他者の鏡映反転」も「あらゆる鏡像認知」の一部分であることになります。最初の図1は、これを表しています。


【自己鏡像の鏡映反転は他者の鏡映反転問題と自己鏡像認知問題との2要素に分析できる】

鏡像問題を考察する場合、たいていは絵を描いて考察し、説明をします。絵を描かないまでも言葉で対象を表し、空間的なイメージを客観的に表現することが不可欠です。その場合、自己鏡像の鏡映反転を考察する場合でも観察者の姿とその鏡像を描くことが普通に行われています。それは絵に描かれた人物を観察者に見立てているわけですが、そこには観察者が見ている光景そのものは表現されていません。そのような図は描くことができるにしてもせいぜい両腕やメガネの枠あるいは無理をすれば眉や鼻の一部などを描けるでしょうが、観察者の全体像は不可能です。従って、自己鏡像の場合とはいいながら、他者として対象化された姿を考察しているわけで、客観的な対象としては他者であり、その他者の認知を推定しているにすぎません。描かれた図は当然、単なる図形であり、身体感覚はもとより、認知能力などあるはずもなく、図から説明できることはあくまで視覚的な情報にとどまります。つまり、視覚に関する限り、他者の鏡映反転を考察していることになります。

以上から、自己鏡像の鏡映反転問題は、他者の鏡映反転メカニズムと自己鏡像の認知の問題に分析できることがわかります。

鏡映反転の問題は視覚に関する限りの問題であり、基本的に他者の鏡映反転問題から出発すべきであり、他者の鏡映反転メカニズムが解明されれば鏡映反転の問題自体はそれで解決されたものとみなしてよいことになります。自己鏡像の鏡映反転の問題は、したがって、むしろ自己鏡像の認知問題と鏡映反転の問題の2つに分析できることになります。鏡映反転の問題が自己鏡像の認知問題に含まれるわけではないのです。これを表現したものが図2です。

以上のとおり、鏡映反転の問題は他者の鏡映反転の認知について考察すれば鏡映反転の問題自体としてはそれで十分であると言えます。


【鏡像問題(Mirror problem)と鏡映反転(Mirror inversion)】

用語として「鏡像問題」と「鏡映反転」の両方が使用されているわけですが、以上の考察から、「鏡像問題」は自己鏡像の鏡映反転を含めた問題とし、「鏡映反転」は「客観的に認知可能な鏡映反転」すなわち「他者の鏡映反転の認知」と定義することが適切ではないでしょうか。

2015年12月11日金曜日

鏡像の意味論―その9―形状と意味

【意味するものと意味されるもの】

言語学言語論、あるいは記号論というべきか、言語学的な分野で「意味するもの」と「意味されるもの」との区別が研究されていることについて、詳しく専門的に立ち入った知識はありませんが、この区別を多少とも意識することは、幾何光学などの物理学とされる分野を含め、像、画像、映像など、あるいは視覚をあつかう心理学研究にとって極めて有意義ではないかと思います。特に「形」あるいは「形状」という言葉の使用については、この問題を避けることはできない時点に到っているものと考えています

極めて単純素朴に考えても、形という言葉は幾何学的形状そのものと、「何々の形」とういう場合の「何々」すなわち「意味」あるいは「意味されるもの」を表現している場合の二通りが考えられます。

「形」の場合、さらに問題になるのは、この二重性(幾何学的形状と意味)が言葉だけではなく「図形」、あるいは「絵」(以降、表現を堅固にするために「描画」と呼ぶことにします)についてもいえることです。ひいては人が知覚する像そのものについてもこの二重性が存在することになります。

この問題そのものをこれ以上にここで掘り下げ続けることは無理なので、以上を単に前置きとして、以下の検討に入りたいと思います。


 【形または像と意味】

鏡像問題の議論では普通に人物の像について問題にされるため、頭とか足、あるいは右手といった、身体の部分について位置関係や形状について論じられますが、その根拠となるのは象の形状といえます。その幾何学的形状をもとに頭とか右手とかを判断するわけですが、その頭とか右手というのは頭という概念あるいは右手という概念であって、幾何学的形状そのものではなく、具体的な意味を持つもの(足なら足という生物学的機能を持つ実態の意味)すなわち意味されるものを表していることになります。

頭が上で足が下、右手は右、顔や胸、腹は前で背中は後ろ、といった上下・前後・左右の意味は人間という概念について言えることであって、偶然に人間に似た幾何学的な形状があったてしてもそれには適用されないものです。幾何学空間は等方的であり、視空間や知覚空間は異方的であるというのはこの意味です。しかし単なる形状物であっても人形などは人形という意味を持つ以上、単なる幾何学的な形状ではないので上下・前後・左右を持つといえます。こういう形状の意味は人間の直感的な認識によるもので、幾何学的形状のように数や量で表現することはできないものです。

以上の観点は、心理学としてはゲシュタルト心理学と呼ばれる学派の成果と重なる部分があるのかもわかりません(私自身は専門的に心理学を専攻してきたわけでもなく直接ゲシュタルト学派の文献から学んだわけではありません)。しかしゲシュタルト学派そのものは現在あまり主流ではないようです。たとえば、I. Rockの「Orientation and Form」では、この学派は主流ではない単なる心理学の一派であり、当該本の主題に関して、ゲシュタルト学派の主張をあまり尊重していないように見られます。Rockの「Orientation and Form」は、吉村浩一教授による鏡像問題の論文「Relationship between frames of reference and mirror-image reversals」中に重要な参考文献として挙げられていましたのでアマゾンを通じて古書を入手して一通り読んでみました。この本は表題の通り形状と方向との関係を心理学的に扱った研究書ですが、視空間の異方性について次のような記述があります。

In any case it would be misleading to think of form changes induced by changes in orientation as exemplifying anisotropy(いずれの場合にも、方向の変化によって生じる形状の変化を、異方性の例として考察することは誤りであろう)」

上述のRockの考え方には問題があると思います。そのような考え方こそ間違いではないかとさえ思います。Rockは視空間の異方性を量的にしかとらえていないように思われます。 

ところがRock自身、方向による形状の変化の例として次のような例を挙げているです。 




 図:I. Rock著「Oriatetion and Form」より引用


この図で、上の三つは180度回転すると全く別人の顔と服装に見えるというもので、下左は子犬、右はあごひげを生やした老人に見立てられ、それぞれ90度回転すると子犬はシェフの横顔老人の横顔アメリカの地図に変化して見えるというものです。形状のこの変化は明らかに意味の変化であって長さやそのの尺度の量的な変化とは言えません。異方性を量的な差異ととらえる限り、確かにここで異方性は重要な意味を持っていませんが、形状の方向における異方性を形状が「意味するもの(形状によってい意味されるもの)」の差異ととらえるならば、これは視空間の異方性を示す見事な例となるはずです。

【数値と意味】

鏡像の問題に戻ると、上下・前後・左右の各方向は、形状の意味に基づいて決まるのであって、幾何学的な形状そのものではないことがわかります。この形状の持つ意味は人間の意識で直感的に把握できるもので、幾何学的形状のように量や数式で表現できるものではありません。

座標系を用いると確かに形状を数値や数式で表現できるでしょうが、数値や数式から図形の持つ意味を把握できるわけではありません。 CGでは座標系を用いて形状を数値に変換しますが、それは数値で計算処理をしたあと、再びディスプレイ上に目に見える形状に戻すことが最終的な目的です。ディスプレイから見て取るのは意味を持つ形であり、すでにそこから数値も数式も読み取ることは不可能です。これからも、上下・前後・左右を決めるのは幾何学的形状の数値データではなく形状の「意味」であることが分かります

ただし、二つの形状を比較する際には数値や座標系は重要です。 もちろん意味としての形状の比較ではなく幾何学的形状の比較です。形状の比較は二つの点の位置関係と距離という相対的な数値で決まるのものであるからです。鏡像問題における形状の逆転はつまるところ二つの形状の規則的な変化(差異)に基づき、その差異が対掌体の概念で表現できるわけです

2015年12月9日水曜日

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。

ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。

端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。

一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。

鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。

鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。

以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。

上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。

鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。

次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。

2015年5月16日土曜日

科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ

タイトルにある二著作のうち、今回読了したのはこの3月に文庫本形式で刊行されたばかりの『科学哲学への招待(野家啓一著)』の方である。一言でいって専門用語としての「科学哲学」の概念が、かなり明瞭に提示されている本である。実のところ、科学哲学という言葉は見聞きしていたという意味では知っていたが、専門的に定義されているような意味ではよく理解していなかったので、この用語の概念がかなり明瞭に把握できたことは個人的に意義のある契機となった。

しかし、読み進むうちに、1~2年ほど前だったか、後者の方『科学哲学(ドミニック・ルクー著、文庫クセジュ日本語訳)』を読みかけて放棄したままだったことを思い出した。あまり内容も記憶しておらず、やはり翻訳本であるということもあって、読みづらく面白く読めなかったせいかとも思ったが、あらためてこの本を取り出してページをめくってみたところ、半ばあたりまで、ところどころ色鉛筆で線が引いてあり、自分のことながら結構まじめに読んでいたらしいのだった。しかしやはり翻訳本の文章が持つ宿命で、表現のインパクトが弱かったのだろう。

という次第で、後者の方も、正確に前回中断した個所からというわけではないが、目次を見て興味深く思われた箇所、結果的に、前回中断した個所よりも少し後の方からもう少し真面目に読み直してみた。その個所というのは、フランスの伝統、学者、特にバシュラールという哲学者を中心に解説した個所から始まっていた。この学者については前者に言及がなかったこともあり、短い本でもあるので改めて真面目に読んでみたのである。

両者の内容はだいたい重なっていると言える。前者は、「第一部・科学史」、「第二部・科学哲学」、「第三部・科学社会学」の三部構成になっているのに対し、後者は第1章から第21章まで切れ目なしにつながっているだけだが、前者と同様に三部構成として見ることができる。というのは、第一部と第二部はテーマとしてかなり共通しているといえるからである。特に第二部に相当する部分がクーンのパラダイム論で終了し、そこから第三部の科学社会学なり、科学論、あるいは別の展開といった方に移行するという構成で共通している。ただ後者では、この前者の第三部に相当する部分がバシュラールを中心としたフランスの哲学者の仕事と、生物学における科学哲学の問題が扱われている。前者では、この部分は科学社会学という範疇の中で多様な問題が扱われているわけだが、当然、後者と重なる部分もあり、互いに重ならない部分もある。

両者それぞれに意義があると思うけれども、個人的には後者の方が興味深く思われた。というのも、後者の行き方の方がそれまでの第二部までの内容と密接につながっていると思われる点で私の個人的な関心に対応しているように感ぜられたからである。しかし現在日本の社会的関心からいえば、前者の方が有意義かもしれない。

という次第で、両者共に第二部に相当する部分、すなわちクーンのパラダイム論に至るまでの内容が事実上、狭い意味の「科学哲学」であることが、今回の読書でかなり明瞭に理解できたことが、今回の個人的な収穫だったといえるかもしれない。

今回、この「科学哲学」について改めて、今回理解できた範囲で考えてみたのだが、基本的にこの「科学哲学」は論理学であり、それも形式論理を基礎に展開されてきたのであり、「意味」の領域に踏み込む程度が貧弱なのではないかと思われた。

もちろん、「意味」が重要な要素として扱われていないわけではない。しかしそれは意味の定義とか、「意味とは何か」あるいはある要素が「意味を持つ」か「持たない」か、といった、意味を中身の見えないパッケージとして扱うにとどまるかのような印象を受けるのである。そこが、「意味」の内容に深く関わっているカッシーラーの哲学などとの違いではないかと思うのだが。

後者(ルクーの著作)でかなり重点的に解説されているバシュラール等の哲学者の言説は、この短い解説書から漠然と読み取れた限りでは、カッシーラー同様に意味の中身にまで踏み込んでいるような印象を受ける。

それにしても、引き続きこの本で紹介されている生物学的な科学哲学の興味深い解説を読むにつけても、科学は永久に言葉の枠から抜け出すことができないという、一種の絶望に行き着くようにも思われる。ただしそれは科学にとっての絶望である。

カッシーラーは『シンボル形式の哲学』第三部の序文で次のように述べている。

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」

2015年4月10日金曜日

鏡像の意味論―その7―擬人化と鏡像問題

擬人化は科学のあらゆる領域に広く行き渡っている。浸潤しているとも浸食しているともいえる。言葉の本質上、避けられないことではあるかも知れないが、それでも常に意識し、反省すべき問題であることに変わりはないだろう。

技術的な達成が目的であれば、その過程の言葉として使われる擬人化はロボットやソフトウェアで用いる言葉と同様、便利な道具であり、なんら問題にならない。技術は結果がすべてなのだから。しかし鏡像問題は技術的目的の追求ではなく「なぜ?」を問う意味の探求である。

シリーズ2回目で「変換」の意味について考察したように、変換とは人間が明確な目的を持って行う行為であって、人間以外のものが何かを「変換」したと表現すればそれは擬人化に他ならない。鏡像を見て左右なり上下なりが変換されたと見、ある場合を「光学変換」として物理現象とみなし、ある場合を別の種類の変換として心理現象とみなして、別種の現象とみなされる場合、明らかに物理現象とみなされた「光学変換」は物理現象が擬人化されていると見ることができる、というより、擬人化そのものである。

「光学変換」というような名詞化された科学的な響きを持つ用語を使っていると擬人化という印象は薄れがちであるが、「鏡はその垂直な方向だけを反転する」、というような動詞的な表現になると擬人化であることはより明白となる。

(但しこのような「鏡は~反転する」といった表現では少なくとも日本語の場合、擬人化していることがよりあからさまに感じられ、擬人化表現であるという自覚が伴うように感ぜられるのである。英語の場合この種の表現はより普通で、自然でもあり、あまり擬人化と意識されないのではないかと思うのだがどうだろうか。ともあれ、「~変換」というように名詞化されてしまうとさらに擬人化の構造が覆い隠され、科学的な外見を付与されたような形となり、擬人的表現が科学的な表現として独り歩きしてしまっているのではないだろうか?)

当然ながら、鏡はそのような能動的な行為は何も行っていない。現実には人間が網膜に映った映像を元に様々なことを認知したり考えたりしているだけのことである。網膜に映る映像はもちろん幾何光学の法則に従って生じている。だから、鏡映反転とは、人がある対象から発せられる光が鏡に反射せずに直接網膜に映った像を元にして認知した形象と、その対象から発せられる光が鏡に反射して網膜に映った像を元にして認知した形象とを比較した際に生じる現象である。

今ここで幾何光学の意義を考察するのは難しい。しかし少なくとも、光も鏡も何ものをも変換したり、変化させたりしているとは言えないことは明らかだろう。少なくとも、光も鏡も、一つの像を別の像に変換するようなことは行っていない。まして、ある実物、多くの場合は人間であるから人間とすれば、人間そのものを鏡像という虚像に変換するようなことはあり得ないことは自明のことである。

こういうことはヒトが自分自身以外の対象の鏡像を見ている状況では理解しやすいだろう。他人を見ている限り、直接見る姿も鏡に映る姿も同様に視覚に由来し、現代人の大人であれば網膜に映った映像に由来していることが判っているからである。しかし全体としての姿を直接見ることのできない自分自身を対象にするから、問題が込み入って錯綜してくるのである。

自分自身の鏡像を考える場合、自分自身の身体の認知と自己鏡像の認知の問題が関わってくるのであり、感覚、知覚だけをとってみても視覚以外の様々な身体感覚が関わってくるのであり、鏡映反転の問題として処理できるような問題ではないといえる。これは鏡映反転をも含む広い意味の鏡像認知の問題であり、自己認識の問題であり、もっと広く認識論にも関わってくる問題なのである。

したがって鏡映反転の基本的な構造は自己鏡像を除外したところから始めるべきなのである。自己像の鏡映反転を客観的に認識するには他人を自己に見立てることで可能になる。上下・前後・左右はあらゆる人間に共通する方向軸なのだから、他人を自己に見立てて一向に差支えないと言える。左右が外見上区別できない場合が多いことは確かだが、たいていは何らかの識別要素を備えているものだし、実験をするなら他人の右手を動かしてもらうだけでも良いし、何か判り易いものを持ってもらっても良い。


このように鏡像問題にはあらゆる科学に深く浸透している擬人化の問題が露わにされるという面白さがある。擬人化の問題に限らず、科学についての、特に言葉に関して様々な問題があぶりだされ、じつに興味深い問題なのである。


◆ 4月13日、緑色文字の部分を追記しました。
◆ 4月14日、青色文字の部分を追記しました。この擬人化の問題については特にコメントをお寄せ頂けることを希望します。

2015年1月19日月曜日

鏡像の意味論 ― その6 ― 用語の意味から考える-その5鏡像問題への適用の一例

前回は、「左右逆転(反転)」という一つの表現は、3通りの異なった認知現象を意味し得るという結論に到達しました。その3通りというのは次の三つです

1)左右の意味的逆転―左と右の意味が入れ替わること。
2)左右における形状の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象同士での形状の左右逆転。
3)固有左右軸の相対的方向の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象の各左右軸の、共通空間における相対的な方向逆転。

以上の「左右」はいずれも「上下」と「前後」にも置き換えることができますが、もちろん、同じような帰結がもたらされるわけではありません。
以上の3つを、現実の鏡像問題で議論される一つの状況に適用してみたいと思います。


普通、鏡像問題の考察ではまず真っ先に人物が自分自身の像を鏡で見る場合の左右の逆転の問題から開始することが多いようです。それはある意味当然ではありますが、直接見ることのできない自分自身の像を対象にしなければならない上に、左右を特別視しすぎてしまうことで、余計な先入観が増幅されがちです。むしろこの図のような状況から考え始める方が全体を把握するための近道になるように思います。


上の画像はすでに前回の記事で掲載したいくつかの画像と同じような状況ですが、前回の記事ではそれぞれ抽象的な像として図示しただけであるのに対して、今回の画像は現実にあり得る状況を示したものとして見ていただきたいと思います。つまり床に置かれた大きな鏡の上に二人の人物が直立して観察者の方を向いているという想定です。

この図を一般の人に見せて、「上の人物像とその鏡像とで上下の逆転に気づきますか?」と質問した場合、まず全員が「上下の逆転が見られる」ことを肯定すると思われます。しかしそれだけで、冒頭で掲げた3種の中で2番目の形状の上下逆転が認知されているとは断言できません。形状の逆転が認知されるには前回説明したように上下軸だけが逆転して前後軸と左右軸は逆転せず、その結果として全体としての形状が変化し、比較される対が互いに異なった形状になっていることが認知される必要があります。向かって左の人物Aの場合、左右の形状的な差は非常に小さいため、左右軸は両者で逆転しているとも逆転していないとも、どちらともすぐには認知しないのが普通ではないでしょうか。

また、左の人物像Aと右の人物の鏡像bとを比較することもできます。この場合もやはり上下軸の逆転が認知されるといって良いと思われます。この場合は形状の逆転はあり得ません。両者は同じく上下・前後・左右軸を持つ人物像ではありますが、各部のサイズが違うし、色やパターンもまったく異なります。したがって一方の形状をどの方向で逆転しても他方の形状になることはあり得ません。したがって、Aとbの対でもBとbの対でも同じ意味で上下の逆転が認知されている可能性が高く、そうだとすればBとbの対では形状の上下逆転が認知されているとは必ずしも言えなくなります。

これらの中で向かって右の人物の場合、一方の肩にかばんを掛けているので、全体としての形状の違いは分かりやすくなっているはずです。しかしこの場合もパッと見てすぐに形状の差異を認知して、上下軸は両者で逆転しているのに左右軸は逆転していないとは簡単に気づけないと思われます。個々のパーツに注目した場合、人物の顔にしても、肩にかけている鞄にしても、ただ同じ形の顔や鞄がさかさまになっているだけと感じるのではないでしょうか。これには冒頭で掲げた3種類の逆転の中の1)が関係しているように思われます。この逆転は間違えやすい混乱の要因です。それでも両者の違いになんとなく気づいてそれを確かめようとした場合にすることは両者を想像力で重ね合わせるか、それとも各パーツを対応付けるということではないでしょうか。

例えば鞄に注目して鞄の位置を合わせるとします。それには平行移動すればよいわけで、そのようにして重ね合わせると、両者ともに鞄は人物像の左右軸では同じ方向にあり、両者で左右軸は逆転していないことになり、上下だけが逆転していることに気づいて形状の上下逆転が認知されることになります。しかし、このような平行移動による重ね合わせを行うケースはむしろ少ないのではないかと思われます。人物の顔や身体を基準に重ね合わせるにしても、鞄を基準に重ね合わせるにしても、一方を、(この場合はどちらかといえば下の鏡像の方を)回転させて両者を重ね合わせることが多いのではないでしょうか。そうすると上下の逆転は解消しますが、上の人物像では左の肩に鞄を掛けているのに、回転した鏡像の方は右肩に鞄を掛けていることが判り、左右軸の逆転が認知され、結局、形状の左右逆転が認知されることになります。

あるいは観察者が自分自身と各人物像とを対応付ける可能性もあります。たとえば逆さまに映っている鏡像の方を自分自身に引き寄せて考えると、鏡像の人物は右側に鞄を掛けていることに気づきますが、鏡像ではない上の方の人物像は彼自身の左肩に鞄を掛けていることに気づき、結果的に左右の形状逆転に気づくに至るという可能性があります。

さらにもう一つの可能性として、足の下の横軸を中心にして鏡像の方を手前に起こして裏返すように回転させて両者を重ね合わせるという発想もあり得ます。この場合は裏返った鏡像君は観察者に背中を向けているはずで、その場合は前後の軸だけが逆転することになり、形状の前後逆転が認知されることになります。

このように形状の逆転が認知されるには相当な想像力と思考を動員する必要があることがわかり、その思考経路によって、形状の逆転が認知される方向軸は異なってくるものです。従って少なくとも上の絵のような場合、どの方向で形状の逆転が認知されるかはそのときそのときの観察者の心の中に踏み込まない限り、特定は不可能と言うほかはないと思います。ただし一定の傾向性は間違いなくあるでしょう。


ここでの結論

以上は鏡の床の上で二人の人物像がこちら向きに正立している状態ですが、当然鏡像はいろいろな条件で出現します。上の場合は上下・前後・左右のどの方向での形状の逆転も認知される可能性があることが示されたといえますが、どのような場合でも、それが言えるでしょうか?結局のところ、どのような状況下であっても上下・前後・左右のうちでどの方向でも逆転が認知される場合があるのではないか?言いかえると、ある場合には必ず左右での逆転しか認知されえないといった条件は限りなく観察者の心理の内部に踏み込まない限り、存在しないのではないか? もしもそういうことが言えるとすればそれは同語反復に過ぎないのではないか、という推測が成り立ちます。

そこで改めて対掌体の性質による説明を振り返ってみたいと思います。前回の記事で紹介したように、鏡像と直接の像の対は幾何学的に互いに対掌体であり、任意の一軸で互いに逆転した形状になっていると説明されています。*
*この点について、および前回から言及している吉村氏の説については多幡先生のサイトhttp://www.geocities.jp/tttabata/mirrorcom.html に詳しい論説があります。

この対掌体の定義、すなわち任意の一軸で互いに逆転した形状になっているという説明それ自体をそのまま受け止めれば、逆転が認知される方向軸が任意であり、どのような方向軸で形状が逆転していると見ようとそれは観察者次第ということになるはずです。ところが現実には少なくとも上図のように人物の場合上下か前後か左右のたった三つの方向軸であり、さらに、多くの場合には左右になるというのはなぜかという点に問題が絞られてきたように思われます。

ここで注目すべきことは上述の対掌体の定義は幾何学的な定義であるということです。幾何学には本来上下・前後・左右の概念はなく、方向は相対的にのみ定義されることに注目する必要があります。幾何学的図形はそれがヒトの形であるとか、場所が地上であるとか、そのような意味を持ちません。上下・前後・左右もそれぞれ幾何学が持たない意味であることに気づく必要があります。

ここから、上下・前後・左右の何れかでの形状逆転は幾何学空間と人間の認知空間の差異に起因しているという説明が成り立ちます。しかし多くの場合に共通する傾向として、ある場合には殆ど必ずといって良いほどの割合で左右の逆転が認知される状況というのはあり得るし、左右以外の逆転が認知される傾向が大きいといえる別の状況はあるでしょう。そのような傾向性がなぜ生じるのか、具体的にそのような傾向がどのようなメカニズムで生じるかが、これからの鏡像問題の課題と言えます。

そのような傾向性が生じる根源はマッハによって最初に主張され、カッシーラーによってさらに重要な意味が付与されたと考えられる「幾何学的な思考空間の等方性と知覚空間の異方性」にあるということが鏡像問題の基礎となり得ると考えるものです。

2015年1月3日土曜日

鏡像の意味論 ― その5 ― 用語の意味から考える-その4 「左右逆転(方向軸の逆転)」には三種類がある

意味の逆転形状の逆転とは互いに無関係

図1:左右の意味的逆転(方向軸の意味的逆転)

図2:形状の左右逆転(形状の方向軸における逆転)

前回と前々回、「左右逆転」を「形状の左右逆転」と「左右そのものの逆転」との二通りに解釈でき、それぞれの解釈を説明しました。両者それぞれの解釈が妥当と考えられる二通りの現象(認知現象)があるとすればそれらの現象が互いに関係があるか、別個の現象であるかを明らかにすることは重要なことです。というのも、互いに独立した別個の現象が、同じ「左右逆転」という用語で表現されている可能性が出てくるからです。結論から言って、「形状の左右逆転」と「左右そのものの逆転」とは別個の独立した現象であり、互いに無関係であるといえます。前回記事のとおり「左右そのものの逆転」は「左右の方向軸の逆転」とも言えるので当面、単に「左右軸の逆転」またはさらに左右以外の方向軸にも適用して抽象的に「方向軸の逆転」と呼ぶことにします。

上の二つの絵は「左右そのものの逆転」と「形状の左右ないし上下逆転」とそれぞれ図示したものです。次に説明しますが、上述のとおり、方向軸の逆転形状の逆転とは独立した現象であって互いに無関係であることが図からもお判りいただけると思います。

方向軸の意味的逆転は意味の逆転であり、対象がヒトの場合は上下や前後の意味するものを取り違えることはあり得ず、事実上、左右逆転すなわち左右の取り違え以外にはありえません。これは認知上の誤りですが、言葉の使用における規則違反ないしは間違いであるともいえます。上の図1はこれを表現したものです。
こちらを向いた人物の右側に相当する方向は、ピアノでは左側であり、人物の左側に相当する側が右側になっています。これは左右の意味上の逆転であり、「左右軸の逆転」と表現してもよいのではないかと思います。さらに、「左右軸が逆転した異なった座標系」を使用して認知しているとも表現できるかもしれません。これはヒトとピアノというまったく別の対象ですが、観察者の方を向いた人物をピアノと同じ左右軸で認知することも往々にしてあるように思われます。しかしそのような認知は間違いであるとみなされるので×印を付けています。

いずれにしてもこのような認知は対象が鏡像であるか否かには関係のないものです。また「逆転している」という場合、ピアノと人物というまったく別の対象間で逆転しているとも言えるし、一人の人物を見る異なった観察者によって逆転しているともいえ、一人の観察者が見るときの心理状態によって逆転するとも言えます。要するにこれは認知上の問題であり、場合によっては鏡映反転現象に関わる可能性があるとしても、それは鏡映反転現象に特有の問題とは言えません。


図2は「形状の逆転」を説明したものです。形状の(左右)逆転そのものについては前々回の記事の図を参照してください。
いずれの像も立体であって、裏返すと背中が見えるものとします。また上下と左右は画面の上下左右ではなく、各人物像に固有の上下と左右を意味するものとします。

これら 4 つの人物像の中で① と ② の関係、および①と④の関係をとってみると、いずれの関係も「上下が逆転している」と言えそうな気がします。しかし②と④では明らかに形状が異なります。②と④のどちらについてもそれぞれを①と比べて「上下が逆転」と表現してしまえば、②と④の違いを区別できず、この意味でも「上下逆転」や「左右逆転」という簡潔な表現に問題があることがわかります。

②と④の違いは、②の場合は像をどのように回転、移動しても①と重ね合わせることができないのに対して、④の場合は像に回転と移動を加えることによって完全に重ね合わせることができる点です。このような場合は幾何学的に同形であるとみなせます。従って形状の逆転が見られるのは①と②の関係であることがわかり、この関係は①と ③、② と④の場合も含めて矢印でつないだすべての関係について適用できます。

第三の左右逆転

図2で、形状の異なる② と④のいずれもが①に対して「上下が逆転」していると表現でき、②の場合は形状が上下で逆転しているとも表現できるのに対し、④は①と同形だとすれば①と④の場合、形状が上下で逆転しているとは言えません。では①と④を比べた場合に何が上下で逆転しているといえばよいのでしょうか。この場合は図1に示した意味的逆転とも明らかに異なります。図1において左右の意味が逆転しているのと同じ意味で上下の意味が逆転しているわけではありません。しかし確かに上下の軸が逆転しているように見えます。また上下の軸が逆転しているとすれば、①と②の関係においても同様です。したがって①と②の関係と①と④の関係に共通して何らかの上下における逆転が生じていることは確かです。この逆転は「意味的逆転」でもなく、「形状の逆転」でもない別種の逆転といえるはずです。

この逆転は②の場合も④の場合も180°回転することによって解消します。ただし、④の場合はこの回転で①と重なりますが、②の場合はこの回転で③と重なり、③を①と比べると形状が左右で逆転していることがわかります。

すでに了解済みと思われますが、①と②とは互いに鏡像関係にあります。それに対して①と④とは互いに鏡像関係ではありません。したがってこの方向軸の逆転は、像が鏡像であるか鏡像でないかには関係がありません。上下軸を持つ形象であれば何にでも適用されるものです。つまり次の図3のように明らかに別人の形象についても言えることなのです。

図3:異なった人物像との比較

まずここで明らかになったことの一つは、鏡像問題の対象として取り上げられる左右などの逆転(反転)現象の中には鏡像とは関係のない現象、あるいは必ずしも鏡像のみに関わるものではないもっと一般的な方向軸の逆転が含まれているということです。すなわち、図1で示した意味的逆転とこの図3や、図2の①と④との間に見られる逆転関係です。

この逆転関係を他の逆転関係と明確に区別するにはどう定義すればよいでしょうか?とりあえず異なった二つの人物像の「固有方向軸(間)の逆転」と呼ぶことにします。名前や定義はともかく、この逆転と形状の逆転とを見分ける必要があります。というのも、図2の①と②との関係では、形状の逆転とこの方向軸の逆転とが共存しているからです。

この固有方向軸の逆転のみの場合は図2の①と④や図3で見られるように上下軸だけではなく左右軸も逆転しています。つまりこの場合は前後軸を中心にして像全体を180°回転したとみなせるため、前後軸に垂直な平面すなわちすべての方向軸が同時に逆転しているとみなせます。それに対して形状の逆転が含まれる場合には左右軸の逆転はなく、上下軸だけが逆転しているといえます。それをわかりやすく説明したのが次の図4です。この図は図1の①と②の関係すなわち形状の逆転を取り出したものですが、人物が着ているシャツのしわを表す線の両端に星とリングの形をつけています。真ん中の一対の像で比較してみると、星形とドーナツ形の位置関係は、上下では逆転していますが左右では逆転していません。図の上部のように平行移動してみるとさらにはっきりと、頭と足とが逆転しているのに左右(星とドーナツ形の左右関係)は逆転していないことがわかります。

図4:2種類の逆転の共存


他方、上下が逆転している対の一方を平行移動ではなく180°回転すると、図4の下側のようになり、上下軸での逆転は解消しますが、左右軸の逆転が生じています。星形とドーナッツ形の位置関係が左右で逆転するからです。

このように、形状の逆転固有方向軸の逆転とが共存している場合は固有方向軸の180°回転によって逆転を解消することができますが、その場合には必ず別の方向軸で軸方向と形状とが逆転することになります。したがって形状の逆転は必ず一つの方向軸でのみ生じることになります。この逆転する方向軸は必ずしも上下・前後・左右の一つでなければならないわけではなく、どのような方向軸でも生じ得ます。次の図5では左右の人物像それぞれの上下軸から互いに反対方向に35°傾いた軸上、すなわち画面の横軸方向で形状が逆転しています。顔とか足とか、具体的な意味を持つもので形状を表すとわかりづらいと思いますが、シャツのしわを表す曲線図形に着目すると、画面の横軸方向で逆転していることがわかります。

図5 

以上の検討から帰納的に次の二つの推測が導かれます。
1) 形状の逆転は必ず一方向でのみ認知される。
2) 形状の逆転が認知される方向は、方向軸が相対的に逆転している方向と一致する。

1) の方は、鏡像問題に関する従来の研究ですでに明らかにされていること、すなわち鏡像と直接像との対は互いに対掌体であり、任意の一軸で互いに逆転した形状になっていると説明される事実に合致します。

2) の方は、これらの図から直観的に読み取れることですが、これらの図ですべての場合が表現されているわけではありません。これまでの図は立体を表すものとして、裏側から見るとまったく別の像に見えるものと想定されてはいるものの、人物像の前後を表す方向軸は全く表現されていません。またこれらの図では観察者の立場にいるのは読者のみです。鏡像問題でよく例として挙げられるのは多くの場合は自己鏡像の場合です。読者とその鏡像との関係を図に表現することは不可能です。

ただ、多くの場合は自己鏡像について言えることだとしても、自己鏡像であるなしに関わらず、多くの場合に鏡像と直接像とを比べて左右が逆転しているものと認知されるとされていることは事実であり、その際に生じている方向軸の逆転方向が左右軸ではないことが多いことも確かです。鏡に対して正面を向いた人物像とそれに対する鏡像との関係でいえば、前後の方向軸が互いに逆転しています。したがってこの場合は方向軸が逆転する方向と形状の逆転が認知される方向とが一致していません。この不一致の原因を考察することが鏡像問題の重要な課題の一つといえるでしょう。

従来理論における混乱の一因

鏡像問題に関する従来理論のいずれも、本稿で明らかにされた(と私が考える)三通りの逆転が明確に区別されていないと思います。前回に触れた吉村氏の理論は鏡像問題を包括的に説明することを試みた最後の理論とも言えますが、そこでもこの三通りの逆転が明確に区別されないことに起因する理解不能な部分が残されているように考えられます。