2019年10月17日木曜日

人工知能と人工頭脳 ― その1

人工知能(Artificial intelligence、AI)という言葉はれっきとした専門用語であるらしく、科学技術の専門用語辞典に、定義はないが、項目はある。かつてよく使われた人工頭脳(Artificial brain)は専門用語ではないらしく、上記の用語辞典には項目がない。しかし私の個人的な印象では、この二つの言葉を比較すると、人工知能よりもむしろ人工頭脳の方に科学的な印象を受けるのである。

手っ取り早いところで日本語ウィキペディアには専門的な定義があり、次の三通りの定義が紹介されている。
  1. 「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」
  2. 「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」
  3. 「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
というふうで、二つは研究分野とされているのだが、もう一つは技術の範疇である。それに続いて次のような定義が紹介されている:
  • 「『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。「誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である」
 以上によれば、AIとは特定の研究分野を意味するものであるとの定義が優勢ではあるけれども、特定の技術を意味する定義もある。その技術とは簡単に言ってその研究分野における研究の成果物ということになるだろう。そして今や一般にはその技術的成果物の意味で使われる場合が殆どと言ってよいだろう。こうなってくると、この言葉とその帰結の行く末にはかなり心もとないものが感じられてくるのである。

というのも、一般人はこのような言葉を専門的な定義で理解したうえで使うわけではない。一般人はこの種の言葉の概念をその言葉(熟語)を構成する要素の本来の語源的な意味でとらえるのである。しかもこれは非専門家だけではなく専門家自身の方にも多分に該当するのである。そう考えた場合、「人口の知能」とは一体なんぞや、そんなものが実在しえるのか、という意識を絶えず伴いながらも、なんとなくそういうものがあるような前提に引きずり込まれがちなのである。

しかし、そもそも知能という概念自体に確たる専門的な定義もあるのかどうかは覚束ないし、コンピュータサイエンスの中でも知能という概念自体が明確に把握されているのかどうかは疑わしい。人工という概念にしてもそうである。

そのようなわけで、上記のような諸定義をこれ以上分析することは当面は諦め、独自の視点で分析してみたいと思う。その際、人工知能に似た言葉で、かつてはよく使われた人工頭脳と比較することが一つの手がかりになるように思われる。(次回に続く)

2019年9月15日日曜日

シリーズ記事・鏡像の意味論・に関係するその後の投稿

シリーズ記事『鏡像の意味論』は本ブログで書き始め、別のブログ『ブログ・発見の発見』にも転載してきましたが、前回以後の鏡像問題に関する記事は『ブログ・発見の発見』に掲載するようにしています。そちらのブログの方針により適合していると考えられることが理由です。先般、この件で新しい記事を掲載しましたので、リンクしてご紹介します。タイトル:予備的論文を公開します:Main elements and a Conditional theoretical result on the mirror problem。
 英文ですが、鏡像問題に関する包括的な論考の一部です。ご高覧ください。

2019年9月3日火曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その5)― プラトン『国家』の視野と個人主義

 あまり後のことも考えずにこのようなシリーズ記事を書き始めてしまったこともきっかけとなって、三十年以上にわたって積読していたプラトンの『国家』を一応一読しました(中公世界の名著『プラトンⅡ』)。全訳ではなかったので、いつか省略部分も読んでみたいものですが、読了した部分にしても甚だ消化不良なので、とりあえず、この時点でこのシリーズ記事との関連で気づいたことだけでもメモしておくことにしました。

 プラトンは、責任編集者の田中美智太郎によれば「思考実験」において、<知恵>が支配する<理想国>から、堕落してゆく段階に従って<軍人優位の、名誉を志向する>国家、<寡頭制>国家、<民主制>国家、および<僭主制>国家を想定し、それぞれの制度に対応する典型的な性格の人間像を分析しているわけですが、民主制国家に対応する民主制度的な人間像は、まあ今でいう民主主義者にだいたい相当すると言ってよいかと思います。その民主主義的な人間像の分析は、他の制度の人間分析とともに、やはり非常に当を得て興味深いですね。

 プラトン時代のギリシャは実際に民主制であったと言われますが、やはりプラトンによる民主制と民主主義的人間の分析の視野には、個人主義は少なくとも明示的には入っていないように思われました。もちろんそれは当然で、個人主義は、私の常識的理解でも「封建制度の崩壊と資本主義の発達を背景としてひろく行われるようになったもの」(岩波小辞典・哲学、1958年)という感じでしたが、他の手近にある解説書なども参照してみると、結構ソフィストなど古代ギリシャ時代の哲学諸派も個人主義の例に挙げられていたりします。しかしウィキペディアによると個人主義、individualisme という言葉自体は最初にフランスでできたもので「もともとは啓蒙主義に対する非難を意味する言葉であった」とのことですから、やはり封建制度の崩壊後にできた言葉なのでしょう。ですからそれ以前に個人主義に相当するものがあったとしても、区別して考えるべきでしょう。こうしてみると、古代ギリシャの個人主義、現代の個人主義、そしてプラトンの考える民主制や民主主義的人間像を対比的に考えて見ることは意義深いものになりそうな気がします。

 一方、日本語で「個人主義」をネット検索してみると、夏目漱石の『私の個人主義』が最も頻繁にヒットするようです。日本語の個人主義論としてはこれが代表的な作品になるのかもしれませんね。

 いずれにしても、民主主義にしても個人主義にしてもそれら自体を全面的に考察するとなると、私のような若くもない一般人にとってはどうしようもないので、今後はシリーズタイトルの目的に即して何らかの切り口か糸口になるようなアイデアがみつかれば拾い集めて行こうかと考えています。

2019年8月17日土曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その4、血とアイデンティティー

 血統や血筋といった類の熟語や文脈において、これまで3回にわたって血の象徴性をみてきたわけですが、血が象徴するもの ― 言葉の上でも現実の血そのものにおいても ― は、それらの熟語や文脈、さらには言葉を使う人自身の意図によって相当な違いがあることがわかります。例えば最初の回で見たように、血脈という語は語源から言えば、仏教の師弟関係という、普通の意味での血統とは全く無関係の精神的な系譜を意味していたわけで、ある面では正反対の意味となるようにも思えます。しかし、こういった多様な血の象徴性を用いた表現において共通する核となる象徴性があるはず、と考えると、つまるところ血が象徴するもの、血において象徴されるものは、個人や何らかの集団のアイデンティティーというべきものではないかと思われるのです(本ブログ7月10日の記事参照)。次にいくつかの例を挙げてみます。
  1. 親子における「血のつながり」の文脈において血が象徴するものは、その親子とういう集団のアイデンティティーであるということができる
  2. 一般的に用いられる意味での「血統」は端的に言えば家系図において確認できる繋がりに他ならず、この場合に血という文字で象徴されるものは家系図で示される集団のアイデンティティーであるということができる
  3. 本来あるいは古語としての「血脈」において血が象徴するものは師弟関係という集団のアイデンティティーであるということができる。
  4. 血統血縁血筋血脈血盟血を引く、等々、多様な異なる熟語や表現に関わらず、親族関係や家系とは関係なく精神的なつながりを意味する集団のアイデンティティーとみることができる

 ところで昨今はDNAゲノムといった言葉が特に(1)のような文脈で、時には(2)や(3)の文脈においても、血を使った表現の代わりに使われます。DNAやゲノムは化学物質の構造や組合せによる遺伝情報を意味するものと考えられますが、それでも、親子が全く同じDNAまたはゲノムを持っているわけではないことは、親子に同じ血が流れているわけではないのと同様であって、何らかの象徴として使われているという点では、血と、何ら異なることはないと思います。その象徴するものの究極はアイデンティティーという概念的な言葉で表現されるものではないかと思えるわけです。しかしアイデンティティーという言葉が使われることは、特に上述のような熟語として使われることは、殆どありません。熟語、とくに漢字を使った簡潔な熟語を作るという点ではDNAもゲノムも使うことは難しいというより、事実上不可能でしょう。
 熟語としてではなく単独で使う場合にはDNAやゲノムが使われることも多くなったとは言えるかもしれません。それでも「血を引く」というような表現で「DNAを引く」などとはちょっと言えませんね。まして「アイデンティティーを引く」などと言えば何のことかさっぱりわからなくなっていしまいそうです。

 アイデンティティー、すなわちidentityという名詞は抽象名詞で、英語としても比較的新しい、少なくともbloodよりははるかに新しい言葉であることは明白であり、遺伝子もそうですがDNAゲノムともなればはさらに新しく、20世紀にできた言葉でしょう。ですからこういう言葉ができるまではそのような概念もなかったわけですが、しかし洋の東西を問わず、あるいは共通して血で象徴されるところの何者か、あるいはシニフィエというべきもの — 平たく言えば意味ですが — は、だれにも直感できるものであったに違いありません。この象徴性は広く言えば神話的象徴といえるものだと思います。もっと即物的で科学的に見えるDNAも、すでに述べた通り、象徴的ということでは変わらないと思います。科学的象徴性というべきでしょうか。ただし、やはり実感を伴う象徴性としては血の象徴性には及ばないように思えます。

 血は液体であって決まった形を持たず、赤色という、これまた強烈な象徴性を持つ色を持っています。血が身体の中を流れ、充満していることは人々にとって直観的といっても良いほどの知識であり、血管は皮膚の上からでも透けて見え、脈打っていることも分かり、血液循環のメカニズムは知らなくても、心の臓器とされる心臓から送り出されていることくらいは、昔からわかっていた筈で、多量に失われると命にかかわることも知られていた筈。ということで、生命の象徴でもあり、こういったイメージの力は強烈であって、単に文字と発音のイメージしか持たない「アイデンティティー」で完全に置き換えることはできないものです。ただしDNAと言えば今どきはマスコミでも紹介されているらせん状の分子構造体のイメージが換気されそうです。このイメージは血のイメージとは全く異なりますね。しかし視覚的イメージであることには違いありません。

 こうしてみると、血の象徴性について考えて見る事は、神話的な象徴性は科学的な認識の中にも生きているというカッシーラーの思想の一端を感得できる良い例になるのではないかと思います。

2019年8月10日土曜日

「です」の代わりとして使われる「になります」という表現の問題

「何々です」といえば済むところを「何々になります」という表現が頻繁に使われることに対する違和感や不快感を示す人は多いようで、私もその一人である。このことをもって日本語の崩壊の徴候とまで決めつける人までいるようだ。そういう心配はわかるし、ある意味同感だが、そういう苦言を呈するご本人が、私から見れば不愉快なカタカナ英語を使うことがわかって一時落胆したことがある。具体的にいうと「リスペクトする」という表現であり、これは私個人的にではあるが、最も不快感を感じるカタカナ英語の代表格なのである。その理由は「リスペクト」がカタカナ英語であること自体ではなく、単純に日本語として音が汚く耳障りであるという点に尽きるが、さらに付け加えるとすれば、普通の英語教養のある日本人でもリスペクトという発音を聞いてその意味内容、あえてカタカナ術語を使えば、シニフィエを実感できるとは思えないからでもある。簡単にいえば空虚なのだ。
 話を戻すと、問題の「です」というべきところを「になります」と言い換える表現が蔓延してきた由来を、単に日本語崩壊の徴候と短絡的にとらえるだけでなく、なぜこの表現が蔓延してきたかを考察する労を惜しまないことも大切ではないかと思う。 有能で献身的に活動する多忙な人達がいちいちそういう労をとることはできないと思われるので、こういう問題を重要なテーマと考える本ブログで少々考察してみたいと思う。
 問題の表現は店舗やあるいはコマーシャルで商品の選択肢を説明する文脈で使われ始め、使われ続けていることが多いと思われる。そう考えるとある程度その理由は次のように推し量ることができる:
  1. 会話に丁寧さと過度の婉曲表現や勿体を付け加えるために、ことさら冗長な表現を求める
  2. 言葉のリズム感
  3. 複数の選択肢から特定の商品を選択する際、他の商品ではなくその商品の選択を選択すべきである場合に、その商品であることを強調する意図が込められる。別の商品から当該商品への(意思の、目的の、適正の)移行という意味で「~になる(become)」という表現が選択されうる。うがった見方をすれば、英語の「become」には「似合う」という意味があるので、ある意味英語の影響かという見方もできる(文法的には錯綜しているが)
上記(1)について言えば、まさにこの点が聞く人に不快感を与える理由の一つともいえる。しかしこういう過剰な丁寧さと勿体を付けた表現に流れる傾向はある意味で非常に日本語的な特性であるともいえるのではないだろうか。煩雑な敬語表現の体系を持つのは日本語の美点でもあるだろうが、多大に欠点でもあると、私は考えている。

 ここでこの問題に限ってこれ以上多面的に掘り下げることはあまり効率のよい作業になるとも思えないので、今回の記事はこれで打ち切りたいと思う。ただ、日本語について、とくにその価値、貴重さやメリットや貴重さを論じたりする場合にもあまり大雑把で安易な議論はしてほしくないと思うものである。

2019年7月10日水曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その4)― 個人主義と個人が持つ多様なアイデンティティ

個人主義って何なのかを改めて考えて見るためにそもそも個人って何なのかを考えて見ると、個人と集団または個人と共同体という対立関係なしに個人を考えられないことがわかり、またそれらを区別するためにアイデンティティという言葉が便利なことに気付きました。さらにこのアイデンティティという言葉で表されているものは血あるいは血という言葉で象徴されているものに極めて近いことにも思い至ります。血の象徴性については本ブログの別シリーズ記事で、並行して書いているのですが、ここで改めて気づきました。




 こうして図にしてみると、当たり前のようでもありますが、多少の参考にはなるように思います。

ひとつ。改めて分かったことは、究極の個人主義というのは決して個人のアイデンティティだけで成立するのではなく、人類としてのアイデンティティなしでは成立しないと思われることです。

2019年6月17日月曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その3)― 『国体論(白井聡著)』に見られる戦後「変節」の分析を参照する

このタイトルシリーズを書き始めるきっかけとなったのはその1で述べた通り、太田原和橆 著『祖父たちの昭和』の中で、ある意味身近な例として見出されることとなった戦前から戦後にかけての日本人の「変節」の問題だった。実は『祖父たちの昭和』を読む次第となる前、去年の中頃あたりから少しづつ読み始めていたひとつの本があって、それは白井聡 著『国体論』である。実のところ私はこのような現代史や政治に関わる本や記事に近づく習慣を持たなかった。若い頃には多少は読んでいる振りをしていた時期もあった程度である。そういう次第で本書の濃密な内容に参ってしまい、時期的な多忙も重なって殆ど中断していたころに上述の『祖父たちの昭和』を読了する機会を得た結果、このシリーズを書き始めた次第なのだが、その後に改めてこの『国体論』を何とか読了し、改めて、やや精度を高めて再読したところである。本シリーズ記事は前者『祖父たちの昭和』に触発されて私自身の問題意識で書き始めたので、全体としての前者への論評ではなかったのと同様、今回の記事も後者『国体論』の一部に触発されて本シリーズ記事の文脈で書いたものであり、決して全体としてのこの著作への論評ではないことを、まずお断りしておかなければならない。

本書の第四章と第五章で、当の「変節」が詳細に分析されている。まず、アメリカの占領軍に対して予期された抵抗が皆無であったことについて「ひとことで言えば、途轍もない変節が生じたのである」(同書)と書かれている。そして理由として天皇による日本国民への戦争終結宣言を挙げることを端緒として、それ以後に継続したこの持続的な変節の問題を国体概念の分析をとおして展開していると言える。

先般の『その1で 私はその変節の理由として、敗戦の結果としてもたらされた個人主義指向的な諸々の制度変革がもたらす環境の居心地の良さと開放感を指摘したのだけれども、それに関連すると思われる表現として、『国体論』の著者が次のように述べているくだりがある:
 様々な意味で「あの戦争に負けてよかった」とは、多くの場面で語られてきた戦後の日本人の本音であるが、このような本来あり得ない言明が半ば常識化し得たのは、われわれが「新しい国体」を得たことによると考えるならば、合点が行く。(『国体論』第五章より)
 つまり著者はその「本音」を正当化する、あるいは正当化できるための論拠として想定される国体の概念とその変化を緻密に考察しているように見られる。この論理は、本音の反対概念とされる建前という言葉を使用すれば建前論ともいえるが、建前論という表面的な見方ではその心理、心情を深く掘り下げることはできないだろう。むしろ倫理的な心情の文脈というべきと思われる。

しかし個人主義の論理を用いれば、上述の本音はストレートに正当化できるように思われる。確かに個人主義の論理を適用することは、いわゆる忠君愛国という戦前と戦中の建前としての大義を全面的に否定することになるという意味で、途轍もない変節ではある。しかし個人主義的な思潮というか傾向がそれまでの日本に全くなかったわけではない。個人主義的指向にもとづく民主主義運動と多様な活動家も存在していたので、波や反動があったにしても、多少の民主主義的制度も採り入れられつつあったはずである。(これについては著者自身が大正デモクラシーとの関連で考察の対象としている)。戦時中にその動向がどのように変遷したのかという詳細については曲折があろうけれども、この戦後の変節がアメリカから強制されたものであっても、政権の当事者ではない限り、この制度的な変節自体に何の負い目も罪悪感をも感じる必要はないはずである。むしろこれらの制度的変節がアメリカによる日本の政権への要求ないし押し付けによるものであったがゆえに、アメリカに対して恩義を感じなければならない点に負い目を感じる向きが多かったのではないかと思う。敗戦により日本は海外での権益を失い、それ以外にも私などのあずかり知らぬ経済的負担があったのだろうと思う。アメリカはそれらに加えて民主主義の普及喧伝者として正義という大義の下で内政干渉をしてきたことになる。そのために多くの日本人にとってその要求、少なくとも民主主義と個人主義的な諸制度が与えられた点で、戦争によって日本人にひどい仕打ちを行ったアメリカに恩義を感じることを余儀なくされたことにおいて、何らかの正当化を必要とする負い目あるいは罪悪感が生じたのだろう。少なくともこういった負い目や罪悪感を感じることにおいて、殆どの日本人は日本人あるいは日本国民としてのアイデンティティーと一体感を持ったはずである。この日本国民としてのアイデンティティーと一体感は、個人主義とは逆方向のベクトルを持つものと言える。個人主義は各個人のアイデンティティーを優先あるいは重視するからである。

個人主義の対義語は集団主義とされ、心理学ではこの二つの用語と概念を基礎にさまざまに考察されているように思われる。しかし集団といっても小は家族から大は人類全体に至るまで多種多様である。当面、この一対のセットを二つの反対方向を持つベクトルのセットと考えることで、多種多様な集団のベクトルを大きさと方向のずれによって差別化できるであろう。ただし、個人の対義語が集団とされることに抵抗を感じるのは私だけだろうか。例えば、集団を和英で調べると、まずgroupという訳語が代表語として出てくる。しかし集団主義に相当するのはどうやらcollectivismらしい。collectivismをネットのhttp://learnersdictionary.comで調べると、"a political or economic system in which the government owns businesses, land, etc."とあり、またcollectivistという副項目があってcollectivist ideologyに加えてcollectivist culture/societyという例が挙げられている。また英辞郎にはgroupismという語があり、「集団順応(主義)」の訳語が出ている。web検索でこの語の用例を見るとどうやら日本人のメンタリティーを表現するために作られた造語であるのかもしれない。

別の英和辞典にはcollectiveの訳語のひとつに「共同体」という言葉がでている。少なくとも日本語で個人主義の対義語を集団主義と固定して考察していては不都合な局面も出てくるように思われるのである。

『国体論』には集団という言葉や概念は見当たらないが、共同体という表現は2回ほど出てくる。私の考え方では、個人主義の対義語が集団主義となるのは仕方がないにしても、個人の対義語としては共同体の方が相応しいような気がする。ただし「共同体主義」という言葉をざっとWEB検索してみると、この表現はcommunitarianismの訳語で、特定の学者の主張に由来する特定の思想と言うべきものらしい。という次第で人間一般が普遍的に持つ二つの反対方向を持つ心情的な傾向という意味では、また特に政治学的な文脈では個人の対義語は共同体とみなせば見通しが良くなるのではないだろうか。家族も一つの共同体であり、地域コミュニティーや企業や宗教団体も共同体であり、当然、親族、氏族、民族、国民、さらには人類に至るまでそれぞれが何らかのレベルで共同体といえる。現代の政治を語る場合はとりあえず民族と諸国民を扱うわけで、日本の場合は日本国民であり、当然、『国体論』の扱う対象は日本国民である。とはいっても、日本国民の意思はもちろん、心性や心情やを考察するには各個人の心情を通して以外にはありえず、各日本人は日本人としてのアイデンティティーと同様に各個人としてのアイデンティティーを持っている。同様に上述のように多様なレベルで多様な共同体としてのアイデンティティーをも持っている。


『国体論』では当然のこととして、基本的に日本人としてのアイデンティティーに基づいた心情と論理が分析され考察されているといえるが、個人としてのアイデンティティを指向する個人主義については本書でよく用いられている表現を使うとすればやや不可視化されているようにも見られる。個人主義と関係の深いとみられる民主主義については、もちろん本書の主要なテーマであるが、もっぱら戦後民主主義という限定された形で分析され、もっと広い意味あるいは抽象的なレベルでの民主主義については無条件で理念的に言及されるにとどまっている。いわばブラックボックスではないが、輝いて中身が見えない光球のようなものとして扱われているような印象を受けたのである。

一方、国民としてのアイデンティティーを超えた意識として個人や集団は、世界人あるいは人類そのものといった概念によるアイデンティティーを持ち得る可能性を否定できない。著者の視野にそれがないとは思えないが、少なくとも本書では個人主義と同様、不可視化の状態にあると言える。

さらに本書では霊的という言葉が最初の方と終わりの方で、使われている。いずれも天皇に関わる文脈であり、最初の方では「日本という共同体の霊的中心」、「共同体の霊的一体性」という形で使われ、最後の方では「天皇の発言に霊性に関わる次元を読み込むこと」、「霊的権威」という表現で使われている。この霊性についても、本来その正体がとらえ難いものであるゆえか、本書でもそれが詳らかにはされていない。

一般に霊的、霊性という言葉で表現されるものが宗教と関わりが深いことは言うまでもない。しかしそれは特定の宗教や宗教団体にのみ関わるものではない。その意味で著者が宗教性を視野に入れていることは間違いないと思われるが、それは本書でカバーされるものではないようだ。


という次第で、『国体論』の最初と最後に一瞬の三日月のように姿を見せる霊的霊性という言葉で表現されているものは科学主義唯物主義、あるいは物質主義などという言葉で表現されるものと対置され、対比されることが多いものである。ただしそこまでの分析と考察にまで行き着くにことは簡単ではないようだ。

2019年6月10日月曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その3、血統、血筋、血脈と『赤い糸』

赤い糸』という表現は辞書にも出ておらず、熟語というよりも慣用的な表現というべきでしょうが、象徴的な表現という意味で『血統』や『血筋』と比較したり親近性を考察することはできます。この言葉は、普通にはもっぱら男女の運命的な繋がりを意味する象徴的な表現として使われていることは言うまでもありません。しかし本来はもっと広い意味で自由に使われてきた表現であって、例えば昔読んだ本ですが、音楽学者の山根銀二はベートーベンについて書いた著書の中で、英雄交響曲と第五交響曲、および第七交響曲の三つが一本の赤い糸でつながっている、というような表現を使っていたことを記憶しています。

この赤い糸という表現が語源的にはどうであれ、イメージ的に血統血筋、および血脈と近い関係にあることは明らかでしょう。前回記事のとおり、血筋という言葉は日本語の古語としては本来的に血管を表すものであったことを考えて見ると、赤い糸はイメージ的には血統よりも『血筋』に近く、意味的には、本来的に精神的なつながりを表す『血脈』の方により近く感じられます。

いずれにしても、赤い糸は明白に象徴的な表現であって、一般的にも詩的ともいえる 表現として理解されているように思われます。それに対して血統血筋はもはや象徴的な表現であるという印象はなく、特に血統 ― 個人的には英語のblood lineに由来するのではないかと思えるのですが ― には殆ど象徴性は感じられず、むしろ即物的な印象が持たれます。

血統を、動物も含めて一般的に、具体的に表現するとすれば、個体間の雌雄の掛け合わせとその子孫を繋ぐ系図として表現するしかないので、そのまま言葉で表現するとすれば著しく冗長で複雑な表現になってしまいます。そもそも家系とか系図と言われるものは個体生命の発生を時間的な系列の中で示すものであって歴史の範疇に属すものです。このように血統という概念自体、極めて流動的な意味合いを持つ概念であると言えるでしょう。

現実に、例え親子であっても血管がつながっていたり、同じ血液が流れていたりすることはありえず、胎児の場合も決して血管で母親と繋がっているわけではありません。してみれば、血統という言葉も赤い糸と全く同様に、象徴的な表現であることに変わりはないのです。

とはいえ、 血統、特に親子関係についていえば、血液検査で決定できるものではないにしても、ある程度は参考にできることは確かです。そういう点で、血統血筋などは赤い糸などに比較して象徴性のレベルが異なるということは言えると思います。逆方向で言えば即物性のレベルとも言えるかもしれません。

以上のように、血のような人体あるいは肉体的な構成要素の名前を用いた象徴的表現を考察することには独自の意義が感じられるように思われます。

2019年6月3日月曜日

象徴的なものと言葉たち ― (2)建築と工芸における象徴性―その1、物の機能

建築と工芸が美術あるいは視覚芸術として語られるとき、一般に両者を併せて絵画や彫刻など、ファインアートとされる分野と区別され、応用芸術などと呼ばれることもあります。服飾デザインのように単に「デザイン」と呼ばれることも多いと思います。工芸品に限って言えば、その定義は商業的な業界や個人によっても様々であり、例えばかの有名な陶磁器鑑定家は、工場や無名作家によって比較的近年に作られた、やや値段の安い工芸品を「工芸品」と定義しているように見受けられます。こういう本来の定義からやや離れたか限定された定義は業界人同士で使うのはともかく、一般人に向かって使われることについては、個人的には多少の反感を感じなくもありません。とはいえ目的により分類方法はいくらでもあり、どのような分類もそれなりに有用でしょう。ここでは象徴性という観点からこれら両分野の視覚芸術を特徴づけて考察してみたいと思います。

端的に言って、建築や工芸品は言葉やイメージではなく「物」自体の象徴性が重要な機能を果たしている分野であると思います。ここで言う物自体は抽象的な「物自体」ではなく、個々の言葉やイメージで表現される対応物であって、記号論的に言い換えるとシニフィアンではなくシニフィエということです。

例えば「器」という言葉は人間性あるいは人格を表す言葉として象徴的に使われています。これは言葉の世界で「器」という言葉の象徴性を用いているわけですが、具体的な器そのものの象徴性を表現手段として用いるのが工芸であると言えると思います。器を描いたり写真に撮ったりすれば当然それは器のイメージということになり、「言葉」と「イメージ」とそれらで表される「物」そのものという、三つのセットの中で、の象徴性について考えて見たいと思うわけです。

建築の場合、全体としての建築について象徴性を現在の文脈で云々するのは難しいですが、建築の構成部分として、例えばを例にとってみると、言葉の「窓」も言葉の「器」と同様に象徴的に用いられる場合が多いことはすぐにわかります。英語になりますが、Window―ウィンドウという言葉はいまやコンピュータ用語として象徴性も意識されることなく使われるようになっています。日本語の「窓」も、多様な文章表現で象徴的に用いられていることは言うまでもありません。この窓そのものを象徴的に用いた芸術がステンドグラスであると思います。

ステンドグラスは光の芸術であるも言われ、またガラス工芸の一部門ともみなされていますが、少なくともキリスト教会で作られてきたステンドグラスを何の芸術であるかと問うとすれば、私は光の芸術あるいはガラスの芸術というよりも窓の芸術というべきかと考えます。そこでは窓の機能が持つ象徴性が大いに活用されていると思われるからです。

もちろん、 ファインアートと呼ばれる絵画や彫刻と異なる点は以上の「物の機能の象徴性」だけではなく、特に絵画と比べると素材の質感が大きな役割を果たしている点は大きいと思います。しかし材料の質感は絵画でも重要な要素であり、彫刻になればなおさらです。ということで、建築と工芸において特有の表現要素は物の機能が持つ象徴性であると定義して差し支えないと思います。

工芸品の機能性に関しては用の美ともいわれる機能美がよく問題にされる、というよりむしろ工芸品の機能についてはもっぱら機能美の観点から論じられ、機能の象徴性についてはあまり注目されることがなかったように思われます。象徴性も、どちらも何らかの意味であることは確実ではありますが、象徴性はとりあえず別物であります。この機能美に関しては肯定派と否定派あるいは重視派と非重視派とがあり、完全な否定派になると機能そのものを否定して作品はオブジェと呼ばれるようになるか、または事実上の彫刻となり、もはや工芸とは呼べなくなります。その種の作品では必然的に素材の質感に注目されるようになり、素材の質感に対する感性が強化されたり、さらには素材の象徴性の発見、掘り下げに至るかもしれません。しかし機能そのものを否定したことでそれまで自然に備わっていた機能の象徴性をも失うことになります。それが良いことかどうかは別として、器なら器としての機能を維持することで機能の象徴性も維持されることの意義、メリットについて改めて思いを致すことはこの時節、大いに意義のあることではないかと思うものです。今後の工芸の発展につながるのではないかと考えないこともありません。

2019年5月26日日曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その2

前回記事では血統、血縁、血族という言葉が古語辞典に見当たらないことから、近代以前の日本語では血がこの種の概念を象徴する傾向はあまりなく、どちらかといえば西欧語の影響なのではないかという推察を述べたのですが、もう一度古語辞典を調べてみたら、血筋(ちすぢ)という言葉はありました。ただこの言葉も一義的には血管を意味するようなので英語の blood line とは成立過程が多少異なりますね。ただ他に、古語としての「血の道」という言葉には、前回に取り上げた「血脈」の意味がある他、血統の意味もあるようです。だから、血統や血族という言葉が英語由来であったとしても、日本語としても違和感がないのでしょう。

一方、ある意味で「血」と対立関係にあるともいえる言葉ないし概念に 「肉(にく)」があります。日本語では肉親という表現があり、血族に近い意味合いではあります。「肉親」を和英で調べると、例えば 「family member」(ジーニアス和英辞典)などがでてきますが、直接「肉親」に相当する言葉がなく、日本語特有の表現であることがわかります。ところがこの言葉は古語辞典には見つかりません。だいいち、「肉(にく)」は古語にはなく、「肉(しし)」しかありません。肉を「しし」と言い、「肉」の文字を「しし」と読むこと自体は知ってはいましたが、「肉(にく)」という表現が近代以前にはなかったとは、いまさらながら驚きでした。そこで漢和辞典で調べてみたら「ニク」は音読み(呉音)でした。してみると、「肉(ニク)」は中国由来の言葉であり、「肉」の付く多く熟語は日本語の古語辞典には見つからないにしても漢文由来の用語として近代以前から使われていたのかもしれない。そうすると、中国では古来、「血」よりも「肉」の方を象徴的に使うことが多かったのでしょうか?また「肉親」も中国由来の言葉なのでしょうか?ということで、web検索してみましたが、「肉親」そのものがある、あるいはあったかどうかはともかく、Weblio で見られる中国語辞典によれば、現代中国語には「骨血」や「骨肉」という、「肉親」に似た言葉があるようです。


以上の言語的な詮索は極めて不十分で素人っぽいものですが、それでも象徴性という問題において、以上から少なくとも次のような結論なり考察が可能になると思います。

1)  血の象徴性は親族関係のような生物学的なつながりだけではなく、古語の「血脈」のように、精神的なつながりを意味する場合もある、あるいはあった。これはある意味当然だと言える。なぜなら、何らかの人間的なつながりというものはそれ自体、身体的なものでも物質的なものでもないからである。仮に肉親の親と子に限っても、個人間で物質的な絆でつながっているわけでも結ばれているわけでもない。繋がっていたのは胎児のときだけ、それも母親とだけである。またつながりといってもこれは生命の繋がりであって個人の生命そのものは個人の身体、つまり個体とは別物だからである。つまり、繋がりとか絆といった概念自体が象徴的であると言える。

2)血と肉それぞれの象徴性を比較した場合、肉の場合は現実の親族関係、それも親子かせいぜい兄弟姉妹程度の近い関係を象徴するにとどまるが、血の場合は現実の親族関係に限ったとしも兄弟姉妹よりも遥かに遠い血縁関係にまで及ぶものであり、上記1) のように、現実の血縁とは関係のない精神的な結びつきにまで用いられる。これは血が見かけ上、液体であることに深い係わりがあるように思われる。つまり身体のような個体としての姿かたちを持たないということである。ある意味これは象徴的にはより精神に近いともいえる。

ちょうど最近読了したある本に「血盟団」という名前が出てきました。この名称は他者が付けた名前だそうですが、調べてみると「血盟」とは「血判を押すなどして、固く誓い合うこと。(名鏡国語辞典)」とあります。血判という現実の血液そのものを象徴的に使用することを見ても、以上の考察を裏書きするように思われます。

前回記事の終わりで、英語でこの種の言葉、blood line とか blood relative が成立した時期に興味を持ったことを書きましたが、これについては今回立ち消えになってしまいました。今の私がこんな調査を行うのは無理なようです。血の象徴性についてはひとまず今回で終了ということで。

2019年5月25日土曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その1

このシリーズのはじめに
今回のシリーズはシリーズのタイトルに該当する内容を毎回、各回の連続性や関連性などをあまり考慮することなく思い付きのまま書き連ねるというものになりそうです。

血統、血族、血縁など

大抵の言葉は他の言葉から派生したものなので人が日常的に言葉の由来を考える暇などないし、血統という言葉もこれが血という言葉に由来することは明白だとはいえ、人はもはや血統という言葉から流れる赤い血液そのものをイメージするということは殆どなく、血統という概念自体も割と明確に規定されているように思われます。それはそれで何の問題もないとは思うのですが、一方でなぜ、血が血統や血縁など、親族関係を象徴することになったのかを考えることにも意義があるように思います。最近私はなぜか、このことが気になり始めました。

英語にも blood line という血統に相当する言葉があるので、血統は blood line の訳語としてできた可能性も考えられ、ありあわせの辞書で調べてみましたが、そういう記述は見つかりません。そこで古語辞典(岩波古語辞典、1974年)を調べてみると、確かに血統という言葉も血縁という言葉、血族という言葉も見つかりません。ただし血脈という言葉がありました。本来は血管を意味するようですが、象徴的には仏教の用語になっているようです。引用すると「仏の教えを師から弟子へと代々うけ伝えること。法統。」とあります。これは生物学的な血統であるよりもむしろ精神的な系譜という意味になりますね。やはり、「血統」は英語か西欧語由来のように思われます。ちなみに「血族」や「血縁」を和英で調べてみると blood relative とか blood tie など、ちゃんと対応語が見つかるので、英語に由来すると見た方が自然に思われます。しかし、それにしては翻訳語とは思えない自然さが感じられるように思われます。もっとも明治以後にできた英語からの翻訳語はあまりにも数多いので、目立たないことも確かです。

そこで気になるのが英語でこれらの言葉が成立したのはいつ頃なのかという問題です。(以下継続予定)

2019年5月12日日曜日

個人主義、民主主義と民主制 ―― 科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その2)

確かに、民主主義という言葉とその概念には問題があるように思われる。例えば、最近あるウェブサイト ― 教えられるところの多いウェブサイトではあるが ― では次のような表現が見られる。「私、副島隆彦は、×「民主主義」というコトバは、使わない。× デモクラティズム  democratism というコトバはない。」。

確かに、有名な辞書にdemocratismという言葉は見つからない。しかしWebを検索してみるとこの言葉は現実に使われていないわけではない。意味付けについてはいろいろ問題がありそうだし、日本語の民主主義に相当するのかどうかも問題があろうが、権威ある辞書に載っていないというだけでその言葉が存在しないとは言えない。ましてその言葉で表現されている概念まで存在しないとは。

確かに、「Democracy」を「民主主義」と訳すのは不正確であると思う。 「制度」は「主義」、言い換えると「思想」ではないからである。しかしだからと言って日本語で「民主主義」と表現される概念が「ない」とは言えない。民主制という「制度」 ― Wikipediaを見ると英語では"System”と表現されているが ― はそれなりの人々の思想、希望、意志、心情、心性、あるいは欲求の反映であり、そういう心理的なものに支えられているのだから、民主主義という言葉で表現される概念はあるはずである。個人主義がその大元にあるように思われるが、個人主義がそのまま民主制の根拠となるわけでもないと思われる。

簡単に言って、個人主義と民主制の間に民主主義が介在していると考えれば、あるいは『個人主義⇒民主主義⇒民主制』という系列または順序を考えればわかりやすいのではないか。個人主義と民主主義との関係を多面的に考察することで実り多い成果が得られるような気がする。

2019年4月22日月曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その1)

注記: 今回のテーマは、昨日ひと通り読み終えた本『祖父たちの昭和―化血研創設期の事ども―(田原和橆著)』の一節に触発されて着想を得ました。この著作は先般、私の別のブログ『矢車SITE』で言及したとおり、昨年に友人である著者から贈られたものです。当該作品についての全体的または部分的な感想や紹介についてはまた別の機会に別のブログかまたは本ブログで取り上げてゆきたいと思っています。この記事はあくまで上記著作の一節のみに触発された私自身の問題意識で書き始めました。


 まず当該書籍の引用から:「戦後生まれの私にとって、第三日記に見られる最も際立った特徴は、やはり、戦時中と終戦後の極短期間で祖父豊一が示している心象の大きな変化、一種の『変節』である。― 中略 ― もっとも、終戦直後における手のひらを返したような変節は、日本国民の間でよく見られたようで、昨日まで軍国主義者だった中学の先生が、終戦を境にアメリカ贔屓に豹変したという類の逸話も珍しくない。また、そのような変節は、GHQの操作により促された節もある。」

上記引用のような複雑な戦後日本の状況は、著者や私のような団塊世代の人間にとっても自然に環境から伝わってきたように思えるが、私個人的には祖父に関する知識は一切なく、父親も戦争以外の原因で亡くなっていたため、著者の祖父に相当するような公人的立場の知識人はもちろん、何らかの記録を残すような人物には身近に恵まれず、この点で当事者的な感覚からは比較的遠かったと言える。しかし、今回のように友人の祖父の日記という形でこの間の経緯を具体的に目にしてみると(日記の文章は長くなるので上記の引用では省略)、これまでに比べてより当事者体験に近いものが感じられたように思う。

かかる「変節」のメカニズム、正当性、または非正当性を考察するのにまず自分自身の心情から類推してみると、端的に言って、戦時中と終戦の過程においてアメリが日本と日本人に対していかにひどい仕打ちを行ったとしても、アメリカがもたらした終戦後の社会環境はそれ以前の社会に比べて少なくとも一面でそれまでになかった居心地の良さと開放感をもたらしたことは紛れもない事実ではなかったかと思われる。その根拠となる思想を一言で言い表すとすれば個人主義という表現以外には考えられない。

個人主義と民主主義との関係性については多様な論理付けが可能だろうが、まず直観的に、民主主義的制度の根拠が個人主義に求められることは明らかだろう。結果から言えば、アメリカから押し付けられた民主主義的制度と不可分に伴う個人主義的な諸々の社会制度の変化が、殆どの国民にとって居心地の良さと開放感をもたらすものであって、これはいわゆる知識層と一般庶民に共有されていたもののように思われる。この個人主義の先進国であるアメリカへの憧れが科学技術の面での先進性とあいまって、戦勝国への反感を凌駕するものだったのだろう。


個人主義の根拠についても多様な論理があるだろうが、まず直観的に科学、科学主義、唯物主義、物質主義、といった思想、思潮、風潮との密接なつながりは眼に見えて明らかではないだろうか。人間、ヒト、家族、国民、人類、といった単位の中で物理的に、視覚的に、そして触覚的に明らかに区別できる単位は個人だけである一方、各人が意識的に自覚できる単位も、それぞれの個人以外にはありえない。

この科学、科学主義、唯物主義、物質主義が現今、再考、再吟味、あるいは反省と批判の対象になりつつあり、一方でますます増長する科学主義との対比が明瞭になりつつあるように思われる。