2019年6月3日月曜日

象徴的なものと言葉たち ― (2)建築と工芸における象徴性―その1、物の機能

建築と工芸が美術あるいは視覚芸術として語られるとき、一般に両者を併せて絵画や彫刻など、ファインアートとされる分野と区別され、応用芸術などと呼ばれることもあります。服飾デザインのように単に「デザイン」と呼ばれることも多いと思います。工芸品に限って言えば、その定義は商業的な業界や個人によっても様々であり、例えばかの有名な陶磁器鑑定家は、工場や無名作家によって比較的近年に作られた、やや値段の安い工芸品を「工芸品」と定義しているように見受けられます。こういう本来の定義からやや離れたか限定された定義は業界人同士で使うのはともかく、一般人に向かって使われることについては、個人的には多少の反感を感じなくもありません。とはいえ目的により分類方法はいくらでもあり、どのような分類もそれなりに有用でしょう。ここでは象徴性という観点からこれら両分野の視覚芸術を特徴づけて考察してみたいと思います。

端的に言って、建築や工芸品は言葉やイメージではなく「物」自体の象徴性が重要な機能を果たしている分野であると思います。ここで言う物自体は抽象的な「物自体」ではなく、個々の言葉やイメージで表現される対応物であって、記号論的に言い換えるとシニフィアンではなくシニフィエということです。

例えば「器」という言葉は人間性あるいは人格を表す言葉として象徴的に使われています。これは言葉の世界で「器」という言葉の象徴性を用いているわけですが、具体的な器そのものの象徴性を表現手段として用いるのが工芸であると言えると思います。器を描いたり写真に撮ったりすれば当然それは器のイメージということになり、「言葉」と「イメージ」とそれらで表される「物」そのものという、三つのセットの中で、の象徴性について考えて見たいと思うわけです。

建築の場合、全体としての建築について象徴性を現在の文脈で云々するのは難しいですが、建築の構成部分として、例えばを例にとってみると、言葉の「窓」も言葉の「器」と同様に象徴的に用いられる場合が多いことはすぐにわかります。英語になりますが、Window―ウィンドウという言葉はいまやコンピュータ用語として象徴性も意識されることなく使われるようになっています。日本語の「窓」も、多様な文章表現で象徴的に用いられていることは言うまでもありません。この窓そのものを象徴的に用いた芸術がステンドグラスであると思います。

ステンドグラスは光の芸術であるも言われ、またガラス工芸の一部門ともみなされていますが、少なくともキリスト教会で作られてきたステンドグラスを何の芸術であるかと問うとすれば、私は光の芸術あるいはガラスの芸術というよりも窓の芸術というべきかと考えます。そこでは窓の機能が持つ象徴性が大いに活用されていると思われるからです。

もちろん、 ファインアートと呼ばれる絵画や彫刻と異なる点は以上の「物の機能の象徴性」だけではなく、特に絵画と比べると素材の質感が大きな役割を果たしている点は大きいと思います。しかし材料の質感は絵画でも重要な要素であり、彫刻になればなおさらです。ということで、建築と工芸において特有の表現要素は物の機能が持つ象徴性であると定義して差し支えないと思います。

工芸品の機能性に関しては用の美ともいわれる機能美がよく問題にされる、というよりむしろ工芸品の機能についてはもっぱら機能美の観点から論じられ、機能の象徴性についてはあまり注目されることがなかったように思われます。象徴性も、どちらも何らかの意味であることは確実ではありますが、象徴性はとりあえず別物であります。この機能美に関しては肯定派と否定派あるいは重視派と非重視派とがあり、完全な否定派になると機能そのものを否定して作品はオブジェと呼ばれるようになるか、または事実上の彫刻となり、もはや工芸とは呼べなくなります。その種の作品では必然的に素材の質感に注目されるようになり、素材の質感に対する感性が強化されたり、さらには素材の象徴性の発見、掘り下げに至るかもしれません。しかし機能そのものを否定したことでそれまで自然に備わっていた機能の象徴性をも失うことになります。それが良いことかどうかは別として、器なら器としての機能を維持することで機能の象徴性も維持されることの意義、メリットについて改めて思いを致すことはこの時節、大いに意義のあることではないかと思うものです。今後の工芸の発展につながるのではないかと考えないこともありません。

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