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2023年5月1日月曜日

神秘からの逃走先としての科学と科学からの逃走先としての芸術 その1、科学と憧れ ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その7

科学と憧れ ― 憧れとは何者だろうか

 少年期から青年期初期にかけて、私にとって自然科学は最高の憧れの対象であった。しかし ― 数年間の就職期間と浪人期間を経た後であったが ― 自然科学を専攻する目的で大学入学した時点では、一面においてではあるが、すでに自然科学に幻滅を抱いていた。それでも自然科学を専攻した理由は、名目的には就職の適性を考えてのことであったが、当初の憧れがまだ惰性を持っていたという面もある一方で、自然科学とはいったい何なのだろうかという、いわば科学の本質について少しでも極めたいという、野心めいた気持ちもあったのである。もちろん、そういう目的が就職につながる筈もなかったが、憧れの対象の方向はそちらの方に屈折していった趣がある。

そういう間にも、いつも考えていたことは、そもそも憧れとは何であろうか?ということ。また幻滅についても、なぜ幻滅を感じるようになったのか?ということである。憧れについて言えば、憧れの対象は何であれ、何かに憧れる気持ちというものは、人により程度の違いはあろうけれども、何か止むに已まれぬ欲望のような処がある。もちろん小学校低学年程度の子供時代にそれが憧れであるというような意識は持つわけもないが、その後の科学への思いは確かに憧れという言葉でしか表現できないものであった。憧れとは、何か心を満たすものを求めるという意味で、欲望と共通するところがある。では欲望とはどこが違うのかと問えば、それはいろいろと考察する切り口はあるが、差し当たって言える一つのことは、欲望の方はそれ自体が科学的考察の対象となっていることである。もちろんそれは心理学の対象であるが、フロイトが始めた精神分析ではその中心概念になっている。こういう点で、憧れはいまのところ、科学の対象外である。であるからこそ、私は科学に憧れることができたとも言える。「科学への憧れ」は言葉になるが、「科学への欲望」は、言葉にならない。欲望の対象は物質的なものか、生理的なものであるからである。

ともあれ、私にとって科学はそういう憧れの気持ちと強く結びついていた。後から訪れた科学への幻滅の気持ちも、それが憧れであったからこそであろう。

一方、科学に憧れるといっても、科学とは何であるかを最初から分かったうえで憧れたわけではない。そもそも憧れの対象は最初からそれについて知っているものではない。科学という言葉から何とはなしに受け取れる印象あるいはイメージから憧れに気持ちを抱いたに過ぎない。そうだからこそ、将来にわたって科学とは何かについて考え続ける羽目になったのである。

そもそもの発端は、記憶が及ぶ限りで、小学校の科目で理科という科目の授業を受け始めたことにある。理科という科目は私にとってその他の、国語や社会とは明らかに違ったインパクトを持つものであった。それは理科という言葉の語感とも関係していたように思う。今まであまり考えた記憶はないが、いま改めて理科に相当する言葉を英語やヨーロッパの言語で調べてみると、いずれも「科学、Science」かそれに相当する言葉である。中国語でも「科学」となっている。調べてみると、実際にアメリカの小学校の授業科目としての理科はScienceとなっている。日本で「理科」という言葉を誰がいつ頃小中学校の科目として使われるようになったのか、何故、中国でこの言葉が使われないのかについては興味深いところがある。普通の辞書や従来の百科事典にはあまり「理科」という項目は見つからないが、ウィキペディアには「理科」の項目があり、その記述には結構興味深いものがある。やはり、日本発祥の言葉であるが、中国語には取り入れられていないらしいことも興味深いものがある。それによると「理科」という言葉は当初、江戸時代の蘭学者によって、物理学を意味するオランダ語の訳語として発案されたとある。とすれば、「物理学」は「理」に「物」を付けた言葉であるからその後にできた言葉と思われる。やはりウィキペディアで調べてみると、「物理学」については語源的な記述はなく、また「物理」を引くと「物理学」に転送される。おそらく「物理」と「心理」は共に、「物理学」と「心理学」の後からできた言葉であろう。

以上から、詳細な論理は省略して一つの結論を出すと、理科という言葉の概念は基本的に自然科学を意味するが、可能性として心理学をも含みうるもののように思われる。現在、科学とされている社会科学や歴史は含まれないことになる。もちろん、現実に小学校や中学校の理科には心理学的なものは含まれていなかったはずである。また高校以上になれば理科という科目はなくなり、個別科学になるが、それでも大学やそれ以上の教育を含めて理科という概念は意味を持ち続けていると言えるだろう。

ともあれ私の憧れの対象としての科学は、理科という言葉による概念に始まるということができる。

2022年12月14日水曜日

一神教、科学主義、および神秘主義という三つの概念ないし理念を個人的体験をとおしてみると (2):キリスト教文化的芸術の私へのインパクト ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その5

 明治以降の日本人が学校教育で教えられたり、広く社会や家族を通して得られたキリスト教文化的なインパクトというものに注目し、分析するという場合で、その対象が科学や哲学に該当する場合、個々の対象についてそれがキリスト教文化に固有のものであるかどうかという判別は簡単にはできそうもない。哲学的なものや科学的な考え方や成果といったものはキリスト教以前、特にヨーロッパではギリシャの哲学や科学という伝統があったはずである。もちろんヨーロッパ以外にもある。中世のキリスト教神学にはアリストテレスの哲学や科学が取り入れられていたことはよく知られている。シリーズの最初の記事で、近代科学が一神教としてのキリスト教と深い関係があるという考え方については、それを検証すること自体がこのシリーズ記事の目的の一つでもあるので、それについては後回しにしたい。

明確なキリスト教のラベルがついている文化的なものと言えば、それは芸術分野に属すものだといえるだろう。建築では教会建築がキリスト教文化を代表している。しかしキリスト教の教理と関係があるのは建築様式や形式であって、建築の与える印象そのものとは言えない。絵画では宗教画と言われる分野がある。しかしその場合も教理と関係があるのは図像的な意味であって、形式と様式のような約束事に関わるものであり、絵画が与える芸術的な感銘とは異なるものだと思う。音楽の場合はさらにそれがはっきりする。そもそも純粋な音楽でキリスト教の教理とか一神教の理念とかを表現できるわけがない。音楽で表現できるものは、言語で表現される理念や概念のようなものではない。それは造形芸術でも同だろうが、音楽の場合はその点で造形芸術に比べて純粋であるといえる。造形芸術の場合はそれが、先に述べたような図像的な意味と分かちがたく結びついている。一方で音楽は言葉と結びつくことが多いが、必ずしも常にそうではなく、言葉と音楽は明確に区別できるものである。

それに加えて、西洋音楽の場合、キリスト教は特に音楽を重視してきたことはよく言われることであり、またクラシック音楽そのものの発祥の起源がキリスト教の教会の儀式にあるといわれ、多少ともクラシック音楽に親しみ、馴染んで、知識をもっている日本人なら、だれでもそういう印象を持っていると思われる。日本の義務教育で行われている西洋音楽史の授業でもその程度のことは教えられている。また一部の賛美歌やクリスマスソングなども日本人一般に浸透しているし、カトリックのミサ曲などもクラシック音楽の一分野として、ある程度の人気のある分野である。ただ興味深いことは、ミサ曲の中でもレクイエム、日本語で鎮魂ミサ曲の人気が高いことである。死者の鎮魂という風習は人類に普遍的であって、日本人にとっても何の違和感もない。この傾向はヨーロッパにおいてもそうなのだろうか。たとえば、ブラームスはプロテスタントであるにもかかわらず、鎮魂ミサ曲を書いたことで知られる。もっとも、同じプロテスタントであったバッハの書いた、有名なロ短調ミサ曲という例もある。

このように、クラシック音楽は西洋のキリスト教ないしはキリスト教会が発祥と言われていても、クラシック音楽自体はすでにキリスト教の教会音楽そのものではなくなり、実際に教会で儀式や祈祷に使われるミサ曲や賛美歌自体がキリスト教からも離れてキリスト教徒ではない日本人にも親しまれている。私自身もそういう日本人の一人でもある。このように、多くの日本人にとってと同様、私の場合も、クラシック音楽一般のみならず、キリスト教の教会音楽についても、キリスト教の教理とも一神教の理念とも無関係に、端的に言って有難い「芸術」として受け入れているという他はない。

とはいうものの、やはりクラシック音楽のなかでも、何かジャンルとして宗教音楽と分類されるものや、キリスト教との関わりを想起させるような、あるいは宗教的といわれるような作品にはなにか特別に高尚な作品群であるという印象を持っているのは私だけではないだろうと思う。

一つの典型的な例と思われるものはブルックナーの交響曲を主とする作品群である。一般にブルックナーと言えば、彼が熱心なカトリック教徒であったことからカトリックの信仰との結びつきについて語られることが多い。ウィキペディアの記述を見てもそうだが、古いブリタニカ国際大百科事典の日本語版を見ても、次のような記述がある:
「敬虔なカトリックの世界観に根ざす彼の深い精神性も、当時の知的潮流から彼を遮断してしまった。」

実のところ、私はブルックナーの生涯や人となりについてあまり知らなかったので、最近になって短い伝記作品を読んだが、だいたいそれまで持っていた印象のとおりで、彼が幼少期からカトリック教会に聖歌隊の隊員として預けられたことに始まり、何度も教会の専属オルガニストとして人生の長期間を過ごしたことや、交響曲以外にはミサ曲やオルガン曲を作曲した一方でオペラや派手な協奏曲などは書かなかったことなど、まだ人となりについては、やはり敬虔なカトリック教徒という表現がふさわしいが、かといって聖職者のような生活をしていたわけでもないことなど書かれている。

ただし、私が若いころに初めてブルックナーに関する短い文章を読んだのは、彼の有名な指揮者フルトヴェングラーの『音と言葉』という日本語訳タイトルの著作の一部で、著者一流のブルックナー論とでもいえる内容の、二十数ページからなる一章であった。そこではキリスト教、キリスト教会、カトリック、といった言葉は使われていなかった。もっともそれはブルックナーの伝記的な紹介のようなものではなく、深く掘り下げた作曲家論とでもいうべきものである。全体としてかなり主観的で理解しづらい文章だったが、次に引用する一節がある。

「彼(ブルックナー)に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪い取って、吾々人間的世界の中へ持ち込み、吾々の世界に植え付けることでありました。魔神との戦いの中にも、また至高の浄福を歌う響きの中にも、――この人の全思と観念とは彼の内部の神的なるものに向かって、彼の上に司宰する神々に向かってその深遠な情感を尽くして捧げられています。彼は決してただ音楽家であるという様なものではありませぬ。この音楽は真の意味に於いてあのドイツの神秘思想家、あのエックハルト、ヤーコプ・ベーメ等の後継者であります。(芳賀壇訳)」

これは、簡単にいってブルックナーは神秘主義者であり、その音楽は神秘主義的である、と述べていると言ってよいだろう。ブルックナーが具体的にエックハルトやヤーコプ・ベーメを研究して音楽にそれが反映しているのかどうかについてまでは、フルトヴェングラーは何も書いていない。またもちろん、私のように、専門的に音楽を研究しているわけでもなく、趣味的に、しかも殆ど録音で音楽を聴いているだけでは知る由もない。また、「神秘思想」や「神秘主義」も、キリスト教の教義や一神教の理念などと同様に、言葉でしか表現できない概念や理念であって、音楽で表現できるわけではない。しかし神秘、神秘感、あるいは神秘性、神秘的な感情といった何か神秘的としか言いようのないものは音楽で表現されうるものであり、聞き手は音楽から感じ取ることはできる。これは造形芸術でも同様で、同じ西洋美術の範疇でもモナリザの微笑や聖堂建築の荘厳さなど、多くの例を挙げるまでもない。

一つの結論として、私にとっても、多くの日本人にとっても、西洋のキリスト教のラベルが付いた芸術が持つ魅力、そこから得られる感銘はキリスト教の教理や一神教の理念ではなく、むしろその神秘感ないし神秘性にあると言え、宗教との関わりでいえば、むしろ一神教よりも多神教に馴染むものであるといえる。上記のフルトヴェングラーの言葉の中でも、「魔神」とか「神々」という言葉が使われているように。

上記の事情は、次に引用するフロイトの指摘にも関係がある。
フロイトの「モーセと一神教」から「Ⅲ モーセ、彼の民族、一神教」の第一部の終わりに近く、ユダヤ教からキリスト教が誕生する経過のまとめとして次のような一節がある。「この新しい宗教は、古いユダヤの宗教に照らしてみるならば文化的退行を意味していた。キリスト教はユダヤ教が上りつめた精神化の高みを維持できなかった。キリスト教はもはや厳格に一神教的ではなくなり、周辺の諸民族から数多くの象徴的儀式を受け入れ、偉大なる母性神格をふたたび打ち立て、より低い地位においてではあるにせよ、多神教の多くの神々の姿を見え透いた隠しごとをするような仕方で受容する場を設けてしまった。これらを要約するに、キリスト教は、アートン教やそれに続くモーセの宗教のようには迷信的、魔術的、そして神秘的な要素の侵入に対する峻拒の態度をとらなかったのであり、結果としてこれらの要素はその後の二千年間にわたって精神性の展開を著しく制止することになってしまった。」

このフロイトの分析では、一方的に一神教が高次の優れた宗教であり、多神教が低級な宗教ないしは文化であることを前提に語っている。それはフロイトの科学思想にも関係が深いように思われる。フロイトの精神分析については、フロイト自身はそれが科学であることを誇っているように見えるが、一方で一部の科学者からは、精神分析が科学ではない、または科学的ではないというような批判がある。この点では、フロイトも、フロイトの精神分析を科学ではないという理由で批判する側も、どちらも科学主義者であるといえる。また、神秘主義や神秘主義的な思想を批判し、神秘的なものを否定するという点でも共通している。例えば、フロイトはユングの神秘主義的傾向に批判的である。上記の引用においても、フロイトは明確に神秘主義的な要素を拒否し、「アートン教やそれに続くモーセの宗教」を高く評価していることは明らかである。上記引用中のフロイトが「精神性の展開」と呼んでいるものは、科学的精神とでも呼ぶべきものなのであろうか。

他方、上述のフルトヴェングラーからの引用中には、日本語訳ではあるが、「魔神」と「神々」という、神的なものに二極性の表現が用いられる。実際、一般に芸術に表現され、感じ取られる神秘性には不気味で恐ろし気なものと対極の神々しさや神聖さという、両極を含んでいる。それに対してフロイトの思想においては神秘性そのものが全体として克服されるべき低級なものとみなされているように見える。

【以下は12月22日に追記】

科学主義的な傾向は一般に、宗教よりも神秘主義を批判し、否定しようとする。それはフロイトのように一神教を多神教よりも高次の宗教として評価する傾向と符合する。

ところで、科学主義的な言説は宗教における言説と同様、基本的に言語で表現され、規定されるものであり、科学それ自体、個々の科学分野も言語で表現されるものである。一方の音楽は言語ではない。造形芸術も言語ではない。芸術は、特に音楽は言語的ではない。造形芸術も言語ではないが、図像は象形文字やピクトグラム、絵文字、あるいは文章中のイラストレーションなどのように言語と組み合されても使われるなど、音楽よりも言語に近いところもあるように思われる。音楽ももちろん言語と結びつくが、音楽の場合は科学的な言語ではなく詩やドラマのような形でのみ、つまり芸術的な表現でのみ言語と結びつく場合があると言える。この問題も深入りすると際限がないので今は打ち切らざるを得ないが、一つの重要な、事実とまでは言えないが、少なくとも傾向として、科学主義は神秘主義と神秘性を受け入れないが、音楽を始めとする芸術は神秘性と馴染みが深く、見方によっては、神秘性と神秘主義こそが芸術の究極でないかとみなす考え方があってもおかしくはないと思われる。

次回からは、科学主義(あるいは科学志向)と芸術という両極との、私個人的な関わりを反省してみることから、両者の関係について考えてゆきたいと思う。

2022年9月4日日曜日

ゲーテの神秘主義と人文・社会科学 ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その4

 ゲーテは端的に詩人であり同時に科学者であったといわれ、本人も自らをそのように規定していたといわれる。ここで科学者とはもちろん自然科学者であり、社会科学者ではない。第一当時はまだ社会科学とか人文科学というような概念が確立していたとは考えられないが、科学者としてのゲーテの業績はすべて自然科学に分類されるものである。もっとも、自然科学の著作とされる色彩論などには当時の科学研究への批判や言語の問題なども多く、評論的な部分はむしろ人文科学的である。私はかつて岩波文庫版の「色彩論」を読んだことがあるが、この本に収録されていたのは色彩論とされる著作の一部分で、そこに含まれていたのはむしろ、そういう近代科学の一傾向に対する批判に該当する内容が多く、特に科学における言葉の用い方に対する考察と批判が多くみられ、それはむしろ言語論といってもよいような印象を受けた。とはいっても、ゲーテのそういう著作が自然科学とされていることは確かである。ただし、当時に自然科学という表現があったのかどうかは知らない。自然科学という言葉は社会科学と対になった言葉であるから、少なくとも当時はまだあまり一般的ではなかったのではないかと思われる。

詩と科学がゲーテの創作分野といえるとすれば、前回記事で取り上げた占星術や錬金術は創作分野とは言えないが、研究分野であるとはいえる。この占星術と錬金術は、今では天文学と化学の前史のような扱われ方をされることが多いが、ゲーテにとってはそうではなかったことがわかる。特に占星術の方は一般的に言っても、今でも天文学とは独立して連綿として引き継がれていることは否定できない。

占星術は神秘主義的ではあるが、取り扱う素材や内容は、個人または国家や社会あるいは人類の歴史と未来に関わることであって社会科学や人文科学で取り扱われる諸々であるといえる。一般に占いは統計学であると言われることがよくあり、確かにそういう一面はある。しかし占星術の場合はそのような社会・人文的な諸々を天体とその動きと関連付けることに特徴がある。こういうことは社会科学ではありえないことであり、占星術が神秘主義である所以であるだろう。

占いに関連して言えば、ゲーテは有名な観相学者と付き合いがあり、観相学にも興味を持ったことがわかる。もちろんこれは当時の一般社会の傾向でもある筈である。観相学とは人相学であり、一言でいえば、身体の外見と人の精神性との関係性であり、この場合の身体は医学や生理学とは異なり、身体そのものではなく、身体の表情といえる。この点はまた非常に興味深い問題につながるが、当面はまあ保留である。

一方の錬金術の場合、これは後にゲーテの影響を強く受けたユングがここに心理学との関係を見出して「心理学と錬金術」を著したことにみられるように、現代の心理学と関係付けられるとすれば、内容的に人文科学的要素を持つことになる。

錬金術が現代の心理学や脳科学と異なる点は、錬金術においては物質と精神が関連付けられていたことであり、ここでの物質は人間や生物の身体ではなく無機物であり、元素でもある。実は私はユングのこの本をその日本語訳が出版されたときに購入して、一応は通読した記憶がある。こうなると、ここでこの件で考察を掘り下げるとすればこの本を再読しなければならなくなりそうなので、この件は言及するだけにとどめておかざるを得ない。

以上をまとめると、近代科学が切り捨てたように見える学問あるいは知的な営みは、実質的に途絶えたわけでもなく、何らかの形を変えて、あるいは変えずに受け継がれ続けていることがわかり、ゲーテにおいて特に顕著にそれらを総合的に掘り下げた考察が行われたということかもしれない。

ここまでの議論は前回の書き出しのとおり、ヨーロッパのキリスト教文明の歴史における話であって、当然それ以前からヨーロッパ文明は存在しており、またヨーロッパ文明自体、その他の文明と隔絶していたわけでもないことはもちろんである。

2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2021年10月25日月曜日

なぜ憂うべきなのか ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その6

 当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。

アクロニム(頭字語、略語)による分析

人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPCRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。

一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。

PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。

このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。

擬人化、仮想と人工知能

以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。

以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。

人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、

「集合的知能」あるいはこれに類する概念と用語を用いることの利点

ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。

一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。

  1. 心理学、集団心理学や人間学などの成果をシステムの設計や解析の方法論に取り入れることが可能になる。
  2. 当該分野あるいはカテゴリーの有意義な分類と整理、さらには体系化が可能になる。
総括すると、現在エーアイと呼ばれているものの真に人間的な次元での構造化が可能になり、したがって分析と構成が可能になり、真に精神的な意味で生産的な開発と発展の見通しが得られるようになるのではないだろうか。


2021年10月4日月曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その5 ― 人間と生物、無生物

著者は後半で、バイオコンピュータの可能性について考察を始めるが、私は最初にバイオコンピュータのアイデアが出てきた時点で違和感を持った。それは、一言で表現すれば、生物と無生物を区別する根拠とAIの理念との結びつきに対する違和感というべきかと思う。なぜなら、私はすでにAIの理念そのものが破綻していると考えるものであって、その理由は生物と無生物との違いとは関係がないからであった。バイオコンピュータの可能性について考察している本書のそれ以後の記述については一応、通読はしたが、明確に表現できるような印象と理解を得るに至らなかったものの、上記の違和感あるいは疑念を覆すものではなかった。前回同様、この問題を著者の論旨に沿って考察するには少なくとももう一度、たとえ拾い読みでもする必要があるが、前回記事に書いたように、本書を無くしてしまったのである。ただ、今回はその違和感を掘り下げることで持論を展開してみたいと思う。

上述したように、前回までにAIの理念が破綻していることを述べた根拠は生命現象、生命の概念や生物と無生物の違いなどとは直接関係がなく、むしろ人間性と人間以外の存在との違いまたは関係であるというべきである。最初の根拠は、AIとは、コンピュータその他のハードウェアを「道具として使う」存在である、という著者の一種の定義から、その存在は人間に他ならず、人間以外ではありえないのではないか?という問いかけから得られたものであった。続いて、情報とは何か、情報の本質から、少なくともコンピュータとソフトウェアを使用して処理を行うような種類の情報は人間によってのみ発信および受信されるものであるという観点であり、この場合も普遍的な生命の概念あるいは生物と無生物という対立関係とは直接的な関係はない。何らかの対立関係を想定するのであれば、要するに人間と人間以外という対立関係である。これは基本的には人間は言語を持つということにある。私自身はソフトウェアの本体ともいえるプログラム言語を言語と呼ぶことに何となく抵抗があって、プログラム言語については素人で使うこともできないにも関わらずいろいろ思うところもあったが、プログラム言語が一般の、いわゆる自然言語から派生したといえることは間違いがないし、少なくとも言語を持たない動物がプログラム言語を生み出すということはあり得ないので、言語能力を持つ人間のみがコンピュータ、あるいは人工頭脳、あるいはエー・アイを使い、操作する主体であり得ることは疑いようがないのである。

別の観点から言えば、バイオコンピュータの概念はハードウェアに関するものである。もちろん、そういうハードウェアが実現したとすればソフトウェアもそれに対応した変化を受けることになるとしても、AIの理念の実現をハードウェアに期待することは、ソフトウェアでAIの理念を実現することが無理であることを、すでに認めていることに他ならない。端的に言えば、ソフトウェアでAIの理念を実現することは、それ自体が自己矛盾なのである。

という次第で、バイオであろうがバイオでなかろうが、AIの理念が実現できるとすれば、それはソフトウェアが不要、すなわち人間が設計する一切のソフトウェアから解放されたハードウェアが実現することに他ならない。それは、いわば完全に人間のコントロールから解放された、言語能力を持つ物理的存在ということになる。もちろん、人間とのコミュニケーションが可能でなければならない。そういうものが実現できるかどうかはともかく、これはもう、古典的な人造人間であって、プログラムともプログラミング言語とも関係のないものである。

もちろん現在の、ソフトウェアとハードウェアとの組み合わせによる人工頭脳が、完全に人間によってコントロールされているとは言えない。コンピュータが、関係者の予測できない動作をすることはよく問題になるところである。しかしこれは、ハードウェアがソフトウェアなしで自律的に動作するという訳ではない。これは、ソフトウェア自体も、人間が完全にコントロールできているわけではないことを意味しているともいえる。

以上は多分に、いわゆるエー・アイが、(前回に1つの結論として得られたとおり)人工知能ではなく集合的知能とみなせるということと関係がある。集合的ということは総合的ということでも包括的ということでもない。悪く言えば多くの個人の、それも断片的な知能の、またかなり恣意的な寄せ集めに過ぎない面もあると言わざるを得ない。ただ、機械を、いわば軸的中心として統合されているとは言える。具体的に言えば、プログアミング言語の作成者、オペレーティングシステムの作成者、アプリケーションの作成者、それぞれの使用者、何れについても膨大な人員が、ハードウェアのシステムを軸として関わっている。いわば多様な個々人の断片的な知性の、無秩序ではないが、かなり恣意的な結合体であると言える。そこに何らかの統合原理が機能していることは確かであるが、一方で人知の及ばない要素が入り込んでいる可能性がある。しかしそういうことは何もソフトウェアにおいてのみ生じる現象ではなく、多数の人間が関る共同作業において生じることである。これは個人の言語活動あるいは情報活動、あるいは芸術創作においても生じることである。人は自分自身の発言や作文、あるいは描画や音楽活動においてさえ、自分自身で完全にコントロールできているわけではない。直観や無意識の作用もあれば感情に動かされる面もあり、インスピレーションや天啓も大いにあり得るというべきであり、端的に言って人知の及ばない要素と言わざるを得ない。

バイオコンピュータの理念あるいは構想については原理的な基礎的知識もなく良くわからないが、以上のような文脈で考察するのはどうだろうかと思う。いずれにしても、他の場合と同様、人工知能という概念とは相容れないものである。

以上の考察を通じて、一貫して存在感を示し、輝きを増し続けているように思われるのが、「人間はシンボルを繰る生き物である」という人間の定義に立脚して名著『人間』を書いたカッシーラーの哲学である。その全貌を私はいまだ知らないが、「人間」という存在の本質と特質に着目し、言語を中心とするシンボル形式を中心に据えたその哲学は、コンピュータサイエンスあるいは情報学においても基本的な支えとなってしかるべきではなかろうかと思うのである。例えば、主著である『シンボル形式の哲学』中で有名な個所として、等方空間と異方空間の相違に関する考察がある。等方空間については西垣通氏自身も本書中で一回だけ言及しているところがあるが、カッシーラーの哲学については一度も言及していない。まあ今となってはもう30年以上も前の著作であり、当方も著者のその後の思想については殆ど知るところはないのだが。ただ、社会的にも、専門的にと同様、人工知能という言葉が以前にも増して無反省に使われる頻度が高くなっている現状は憂うべきではないかと思うのである。

2021年8月29日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その4 ― 情報の本質

 前回までの記事を前提としてエーアイについて、引きつづき考えて見たいと思う。ただ、以降、エーアイをエー・アイと書いた方が良いかとも考えている。ところで、今回の記事を書き始める直前に本書を紛失したので、本書の記述に即して記述を進めることが難しくなった。また入手することも簡単だが、この際、本書の記述に即して進めることを止め、本書の内容に対する私の理解に基づいて自分の論理で考察を続けていく方が、効率的で良いと思われ、そうしたいと思う。本書の記述に即して考察を進めて行くと、袋小路とは言わないが、多岐にわたる道に分け入らざるを得ないので、総合的にまとめるのは容易ではないからである。という次第で原文を確認できなくなり、以下で短い引用を行う場合、原文と一致しない可能性があることをお断りしておきたい。

著者は現在大多数の権威者や業界人と同様だと思うが、「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する装置である」という見方あるいは表現を採用している。ところが本書の中ほどで東大名誉教授清水博氏の「そもそもコンピュータは情報を処理するものではない」という見方を紹介している。後で著者自身も清水博氏の考えに同調する見解を表明している。しかし著者は再び「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する」という前提で考察を続けているのである。これはある意味、これまでの文脈上、そのような表現を使わざるを得ないということであろうと思う。ここにも思考が言葉の限界に制約される悲しさがある。

私の考えではそもそもコンピュータないしエー・アイは、情報を処理するか、しないか、という二者択一の前提自体が間違っているのである。

日本語表現の一例を挙げれば、「コンピュータは情報を処理する装置である」という表現では、必ずしも情報を処理する主体がコンピュータであるという意味で語られているとは限らない。この表現は、「コンピュータは、人がそれを用いて情報を処理する装置である」という意味で発言されたとしても、受取られたとしても、一向におかしくはない。私はそれが本来の日本語の含意であると思う。それが、何がなんでも言語表現上の主語と意味上の主体とを一致させなければ済まない英語の影響もあって、コンピュータが情報処理の主体であると解釈されるようになったという面がある。この考え方についてはもう何年もまえに電気掃除機とか洗濯機の例をとって本ブログでも書いている。こういう、道具を主語にする表現は英語には特に多い。例えばWeblio英和には次のような例文がある:These scissors cut well(このはさみはよく切れる)。私は以前からこういう表現は擬人化表現の一種であると考えている。

という訳で、コンピュータもハサミも、詰まるところは道具であって人間との関わりなしでは意味を持たないのである。仮に、手塚治虫のSFマンガにあったようにロボットが人間に反乱を起こすとか、はさみが付喪神になるようなことがあるとすればそれはもはやロボットが内蔵するコンピュータの情報処理機能とか、紙を切るというハサミ本来の機能とはまったく別の起源をもつ現象であって、そういう機能と何らかの関係を持つことがあったとしても、全く別の文脈で考えるべきなのである。

ただし、エー・アイと他の一般の道具や機械と異なる点は、コンピュータはソフトウェア、特にプログラム言語で記述されたソフトウェアを必要とし、このソフトウェアはプログラム言語とよばれる一種の「言語」とされるもので記述されるという点である。本書の著者はこのプログラム言語とプログラムをエー・アイの主要部分と考えて、多岐にわたる考察を進めていると言える。

プログラム言語自体と、作成されたプログラムとを一体のものとして考えた場合、これと情報との関係がどのようなものであるかを考えるとすれば、本など、書かれた文章と比較するのがもっとも適切だろう。何らかの自然言語(自然言語とか機械言語とかいう表現にも違和感があるが)で表された本は紛れもなく著者によって情報が込められたものではあるが、しかしそれが著者自身を含めて人間によって読まれない限りは情報とはいえない。したがって、本が情報を担うためには書き手と読み手の両方が人間でなければならない。

プログラムの場合は書き手は人間なのだが、読み手が機械であるともいえる。読み手というのはもちろん比喩である。正確に言えば、プログラムが入力されるコンピュータという機械はプログラムの読み手であるという訳にはゆかない。プログラムは機械言語に変換されたうえで機械に読み取られるとされているが、機械が機械言語を読み取るというのも擬人化という一種の比喩に過ぎないのであって、つまるところ、本当の意味での読み手は最終的にディスプレイ画面の表示を読み取る人間または、ロボットの動作を認知する人間以外にはありえない。端的に言えば情報の入口と出口は何れも人間である以上、この情報を操作しているのは人間以外の何物でもない。すなわち、エーアイは人間とは独立した何らかの知能ではなく人間の知能そのものである。ただし個人の知能ではなく膨大な知能が集約された集合的知能と考えてよさそうだ。要するにエーアイと呼ばれるものは一種の機械装置を伴う集合的知能である。英語で表現するのであれば"machine aided collective intelligence"で良いのではないだろうか?

本シリーズの次回は「人間と生物」という切り口で考察してみたい。

 

2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


2021年8月5日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その1、三種類のAI概念

去る五月、引っ越しの準備を機に蔵書の半分ほど削減することを目標に整理を行った際、偶然にも表記の本一冊を手に取った一瞬、処分する方に回そうと思ったが、すぐに思い直して残しておくことにし、今、引っ越し先の住まいで読み終わったところである。最初に処分しようと思った理由は、端的にいって今ではもうAI、人口知能という言葉と概念に辟易していたためである。しかしすぐに思い直して読み直そうと思った理由は、もともと、当時から人工知能という言葉と概念には反感を感じていたけれども、本書自体は拾い読みした程度で実際には一読したとも言えず、内容もほとんど記憶していなかったし、AIという言葉に辟易していたとはいえ、この現在に至ってますます盛んに用いられるようになった言葉と概念について、もう少しは掘り下げて理解する必要を感じたからに他ならない。

著者の西垣通氏は、実は私と同年齢である。 調べてみると生年月日も極めて近い。もちろん、経歴や業績の差は比較にならない。著者がこの本を出したのはちょうど著者40歳の頃になるが、その当時の同年齢の私は一地方大学の卒業を挟んで何回かの転職を繰り返した後に宝飾品の加工職人をしていた筈である。私が購入したのは1992年の第三刷であるから、ちょうど不景気で宝飾品加工業の先行きも怪しくなり、転職を考え、間もなく50歳にもなろうかという時期にパートのアルバイトもしながら放送大学で情報工学やプログラミングなどを受講してみたり、と、あれこれ迷ったり、あがいていた時期でもあった。所詮、ITの専門家に転身などできるはずもなかったが、それでもその後から現在に至るまで実利につながるパソコンユーザーになることができ、身を助けることになったことは有難いことではあった。

さて、本書を今度読み返してみて、というより、初めてまともに通読してみて改めて気付いたことは、コンピュータサイエンスに関する西垣氏の思想的態度には、前提知識の圧倒的な差にも関わらず、結構共感できる部分が多いことであった。しかし決定的に私とは異なる点をも発見できたように思う。

一つの概念として語ることが困難なAIという用語 ― 現実に存在する技術としてのAI概念とAIそれ自体、また到達目標としてのAI概念

この書は「AIとは何か」という、AIの定義から始まり、この言葉がアメリカ生まれの言葉とされ、かつては人工頭脳と呼ばれたこともある、と書かれている。私自身がこのブログで、AIは人工頭脳と同じものを指しているとする記事を書いたが、同じ認識であったことになる。ただ、著者自身も述べているように、AIという用語は極めて多義的で、そもそもどういうカテゴリーに属すのかが把握しにくいと思われるのである。ちなみに本書には次のような記述もある:「AIという分野は何も珍しいものではない。米国の大学の某研究室には、三十年も前からAIの看板が麗々しく掲げられている。」ここではAIは「分野」として説明されている。こういう所では、「何の分野なのか?」という問題が気になる所である。

本書の中ほどで、ドレイファスという名前の、「反AIの闘志」と呼ばれる哲学者の紹介とともに「反AI」という一つのキーワードが登場する。ここではその内容について議論はしないが、このようなAIという用語の多面的な使われ方をみると、AIについて語る場合にそれを1つの概念として語ることが困難であることに気付く。そこで、この見出しのように、取りあえず次の3つの意味に分けて考えるのが良いと思われる。

  1. 現実にAIという触れ込みの下で存在している技術で、完全であるかどうかは問われない。例えば機械翻訳システムとか、自動運転システムといった技術。こういうものはすでにAIという名称で通用しているのだから、総称する場合にはAIと呼ぶしかないともいえる。しかし、例えばITという更に総称的な用語を使うこともできるし、また単に、即物的に機械翻訳システムとか自動運転システムなどといえばそれで済む話である。ソフトウェアとハードウェアの組合せに過ぎないともいえるので、私自身は「AI」はできるだけ使わないことにしている。
  2. AIという用語それ自体の概念。あるいは理念と呼べるかもしれない。そもそもAIという概念に相当するものが存在し得るのか、という議論に導かれるような概念である。
  3.  実現すべき最終目標としてのAIの概念。

本書は、冒頭の数行で上記「1」の問題に触れ、その後前半で「2」の問題を扱い、中ほどで「反AI」について紹介した後、その後の後半で「3」の問題を扱っていると言える。 次回以後、これら「2」と「3」に関して本書と本書に込められた著者の思想について感想を述べてみたいと思っている。



2020年12月26日土曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― その3― 最近のメディア空間でますます露わになったいくつかの日本語の欠点

最近のメディア空間と日常会話空間においてうんざりしていることのひとつは、『コロナ』という短い言葉が単語としても、またコロナ禍、ポストコロナ、といった熟語としても、無反省に氾濫している事です。まさに決壊するまで氾濫していると言っても良いと思います。そのままコロナと言う三文字で、やれコロナに感染した、コロナにかかった、コロナで死んだ、コロナの疑いがどうこう、等々、本来病気ともウィルスとも何の関係もないコロナという短い単語が新型コロナウィルス感染症との関連で安易に使われているのを見聞きして、個人的には本当にやり切れない気分の悪さを感じています。一つの言葉の意味が多様に広がったり、変化したり、良い意味の言葉が悪い意味の言葉に変化したりと言うことはどの言語でもよくあることで、ある意味、抵抗しても仕方のないことかもしれませんが、しかしコロナという言葉の場合、本来的ないくつかの基本的な意味は厳然として存在しているわけだし、英語の辞書にはCoronaという女性の名前も載っているくらい、もともと言葉のイメージとしては美しい言葉なんですけどね。まあ言葉には当然、良い意味の言葉もあれば悪い意味の言葉もある。それぞれの言葉自体に良いも悪いもないが、美しさとか、イメージといったものはある。そういうイメージを壊すような使い方についても云えると思いますが、安易に、よく考えもせず、あるいは作為的に意味を転用したり、拡大したりすることは、言葉や言語そのものの冒涜につながるような気さえします。言葉と言う人類の宝物は大切に、慎重に取り扱わないと、そのうち言葉を奪われてしまうということにもなりかねません。

かつてのSARSが流行した際、これは日本ではあまり深刻な問題にはならなかったようですが、改めて調べてみると、SARSとは「重症急性呼吸器症候群」の英語の短縮形であることがわかります。またそれ以前にMARSというのがあり、これは「中東呼吸器症候群」の英語短縮形であり、病原体の名前ではなく症状の名前で呼ばれていたことがわかります。それが今回の新型コロナの場合は症状ではなくコロナウィルスという、病原体の名前で呼ばれているわけです。しかしコロナウィルスと言うのは厳密にはコロナウィルス科という集合的な名前で、これにはSARSやMARSやその他の「普通の風邪」も含まれるみたいですね。ウィキペディアをちょっと見ただけでも、それらの分類は恐ろしく複雑で多様で、とても素人の手におえるようなものではないことがわかります。

ここで専門的に深入りすることは無理で、仮にそうしても収拾がつかなくなるだけなので、本題の言葉の問題という観点に立ち返ってみれば、SARSやMARSのように症候群で識別することの意味と、病原体名で識別することは明らかに意味が違っているのであって、どちらが正しいかとか優れているかという以前にその違いを意識したうえで言葉を使用すべきだと思うのです。

いずれにしても今回の新型コロナウィルスをコロナウィルスというのは、少なくとも「種」としての名前を「科」としての名前で呼んでいるわけで、そのことだけでも大幅に曖昧さが加わっていますが、さらに「コロナ」という、単にウィルスの形状を表現するためだけに使われているだけで、それ自体がウィルスとも病気とも何の関係もない言葉で総称され、様々な文脈とニュアンスで使われまくっていることが放置されてよいものか?と日々憤りを感じている次第です。

この問題に関連して先般、英語の略語、特にアクロニムのデメリットについて「PCR」を例にとって考えて見ましたが、一方で英語のアクロニムには日本語における略語にはないメリットもあり、日本語の欠点部分にも関係しているので、まずそれについて考えて見たいと思います。先般の記事のように日本語では表意文字を使うことでやたらに英語のようなアクロニムを避けることができるとしても、それでもやはり複雑過ぎる概念は短縮形に頼らざるを得ないわけで、英語のような表音文字のアクロニムにはそれなりのメリットがあると考えざるを得ません。今回の新型コロナウィルスの場合はCOVID-19ですが、こういう短縮形の作り方は表意文字の場合は無理で、強いて日本語に訳そうとすればやはり表意文字を使用して「コヴィッド19」とか「コビッド19」とかになるでしょうか。しかし日本では政府権威筋でもマスコミでも、ジャーナリストでも、こういう表現を使う人はいることはいてもわずかで、殆どは「コロナ」で済ませてしまっています。これは多くの外国でもそうではないかと思います。これは1つには「コロナ」という言葉の発音が持つ語呂のよさといったものも関係しているのでしょう。ということはまた、「コロナ禍」とか、「ポストコロナ」、とか「コロナに負けない」といった造語や表現を作りやすいという面もあると思われます。しかしだからと言ってそういう造語を作ることが良い結果をもたらすかと言えばそうでもなく、むしろ安易な造語が行われやすいという、マイナス面も大きいと思います。

もう一つ改めて露わになった日本語の欠点は、日本語に単数と複数の区別がないことです。この点は古くから指摘されていることですが、中にはそれほどの欠点ではないという考えかたも結構あるようです。たしかに必要に応じてそれなりに複数の表現はできるわけですが、それでもあえて単数か複数かを区別せずに曖昧さを残すために使うこともできるわけです。特に最近のメディア空間で「コロナ」とともに頻繁に使われている「専門家」という言葉の使い方で、この欠陥が改めて露わになっているように思います。総理大臣以下の権威筋のみならず有名ジャーナリストも「専門家がこういっているから」云々、という言い方で公衆に向けて説得姿勢で語りかけるのが日常的になっています。単数形と複数形を区別せざるを得ない英語ではこういうルーズな表現による曖昧化はずっとしにくくなります。たとえば不定冠詞の「a」以外にも「some」のような限定詞や数詞なども付けやすくなります。日本語で表現するとすれば、「一部の専門家」とか「特定の専門家」とか、もっと具体的に専門家を特定することも視野に入ってくるわけです。単純な複数形でも曖昧さは残りますが、それでも専門家のすべてを表すわけではないので、単複の区別がないよりはずっと良いと思います。


最初のコロナとい言葉の問題にもどります。いまや現下の社会状況に言及する際にコロナという言葉を使わないでは済まないようになってしまったようです。これはいわば言葉の土俵でありこういう土俵は自然にできる場合もあるかもしれませんが、やはり現代ではマスメディアが、意図的であるか無意識的であるかに関わらず、作りだしていると言えます。こういう土俵は便利ではあり、中に入ることで楽に思考や言論ができるようになります。しかしそれは言語空間を狭めてしまうものであって、深められた思考による自由な言論を妨げるものです。思考や言論はゲームやスポーツではなく、もちろん理想的には闘いであってはならない。

では日本語は上記の点、つまり狭隘な言葉の土俵のようなものが発生しやすく作られやすいのではないだろうか、特に英語と比べてどうだろうかという問題意識が生じてきます。これについては今すぐどうこうは言えませんが、表意文字の言葉、単語が主体である場合はそういう傾向が生じやすいのではないか?という予感がしないでもありません。今回は以上で。



2020年11月10日火曜日

感染者と言う言葉の独り歩き(その2)― 感染者(数)という表現の独走態勢

 前回、もう数か月前ですが、この問題を取り上げたときはシニフィアンとシニフィエの組合せといえる見方から、平たく言えば、意味するものから離れた単なる言葉だけが拡散している様子について述べたわけですが、今回は別の観点から、つまり表題のように、感染者(数)、感染確認者(数)、感染率、陽性者、陽性率、PCR検査陽性者、等々、様々な関連用語の中で、飛び抜けて頻繁に使われている感染者という表現について考えて見たいと思います。

これらの言葉は今回の新型コロナ騒ぎにおいて人的統計資料として各種広報やマスコミで連日使われているわけですが、このような人的統計の用語として「~数」という表現がこれほどまで頻繁に毎日使われたことがこれまであったでしょうか?普通は「~率」ではないでしょうか?端的に他の例を挙げてみると、例えば失業者の場合、真っ先に失業者数がそのまま報告されることってあまりないと思いませんか?普通はまず失業率が発表されてきたはずです。失業者数が発表される場合はまず失業率が発表された後、その具体的で詳細な資料として発表される場合に限られていたように思います。今回の新型コロナ騒ぎの広報と報道においてはこれが完全に逆転していますね。「感染者」と「感染者数」の頻出には、大抵の人は、例え無意識的にでもこれに違和感を感じているのではないかと思います。これは独り歩きと言うより独走、この場合は二人三脚における独走と例えられるしれませんね。

まずこの「感染者」と「感染者数」を比較してみると、この二つは同じ意味で使われる場合が多いようです。このように、数えられる名詞は普通、日本語でも英語でも数量と同じ意味で使われることが多いようです。英語の場合は複数形が使えるので、なおさらそういうケースが多いように思います。例えば、個人的に畜産関係の翻訳をする機会がよくあるのですが、表などで豚の頭数を表す場合、列の見出しはは単に「Pigs」となっているケースがよくあります。こういう言葉の用法は、物質名詞の場合は少ないように思います。例えば水量を表すのに「Water」と表現することはあまりないでしょう。日本語では普通、水量と表現しますが、英語の場合はリットルとかの単位を見出しにするのが普通のように思います。ですからこれはあらゆる名詞に通用するわけではないので、言葉の用法としては厳密さに欠ける使い方であると言えます。「感染者」の場合も、例えば記事や一覧表の見出しなどで単に「感染者」と書かれているのと「感染者数」と書かれているのでは少し印象が異なってきます。例えば、「感染者」の場合は「新たな感染者」という表現で使われる場合が多いようです。そうなるとこれまで感染していなかった人が新たに感染したかのような印象を受けます。「感染者数」の場合はすでにある状態の確認という印象で、新たに感染した人という印象は薄らぎます。「感染確認者(数)」となればさらにそういう印象は薄らぎ、既存の感染者が新規に確認されたという印象に近づきます。要するに新たな感染者というだけでは潜在的感染者の存在が捨象されていると言えます。これは「感染者」の定義や「PCR検査」「患者」等との関係とはまた別の問題です。

次に掘り下げて検討すべきは「~数」と「~率」の違いですが、一言でいって「~率」の場合は分母となる集団が空間的にも時間的にも意識されるという違いがあります。具体的に「感染者数」で言えば、上述のように潜在的感染者の存在が捨象されていることに加え、分母となる集団もあいまいなまま残されています。たとえ、東京の特定日における感染者と言われたところで、その日に何らかの検査で判明した人数である可能性もあれば、累計である可能性もある。その日に何らかの検査で判明した人数であるならば、その日以前に判明している人数が今はどうなっているのかという問題が残されることになります。累計であるならば、感染状態から非感染状態に移行した人数は無視されていることになります。

このように感染者ないし感染者数という表現では極めて多くの情報がうやむやのうちに葬られることになり、そこから感染者と言う概念自体の曖昧さにも疑念を持たざるを得なくなります

これは交通事故の死者と比べてみるとはっきりします。交通事故は、普通、東京都などの自治体単位で、発生率ではなく死亡者数で公表されますが、これを単に「死者」と言えばどういうことになるでしょうか? 当然、東京都に限っても、到底数えられるような数値ではありません。つまり、この場合は死者数というよりも当日の死亡事故の件数と言うべき数値でしょう。この考え方を当今の感染者数に適用してみると、感染者数というのは当日のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査陽性者である可能性が濃厚ですが、それが示されていない以上、そう言い換えることもできないわけです。これが、「感染者」という言葉の曖昧さであり、端的に言って意味不明と言わざるを得ません。(以上、青字部分を11月11日追記)

今回の論議では感染の意味とかPCRの意味についての論議は度外視しています。これらについては本ブログの最近記事や別ブログ『日々と人生の宝物』の最近の記事で考えを述べているとおりです。

2020年9月29日火曜日

略語、特にアクロニムの多用による重大な弊害について、「PCR検査」を例に考える ― いくつかの比較日本語論的トピックス (その2)― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化

英語の翻訳という仕事を続けるうえで煩わしい問題の1つは、増加する一方のアクロニム(頭字語)の扱いである。アクロニムは翻訳せずに済む場合もあるが、いつもそれで押し通すわけにも行かない。そのためには、表現方法の問題はさておき、まず意味が分からなければ話にならない。今では各種の辞書も充実し、大抵の場合はウェブ検索で何とかなるが、それでもわからない場合もなくはない。

アクロニムというものは本来、可能な限り避けるべきものであろう。英語の原文にもいろいろあり、高い信用度が要求されるような書類の場合は、注釈としてアクロニムのリストが付けられているのが普通である。また科学雑誌で英語論文の投稿規定などをみると、基本的にアクロニムは使うべきではないとされ、使う場合は当然、定義を明確に付記すべきことが要求されている。しかし近年の技術用語、ビジネス用語、とくに報道、マスコミ用語ではこの種のアクロニムは増殖する一方であり、その使い方も恣意的であり、論理的でもなく、ときは無責任極まりない使われ方をされている場合も多い。報道、ジャーナリズムはお笑い番組でも仲間内のお喋りでもないはずである。

例えば、「AI」の場合、文章記事ばかりではなくテレビやラジオ放送でも大抵の場合は日本語で「人工知能」という言い換えが追加されるのだが、一方、最近の「PCR検査」の場合はどうだろうか。PCRの場合は殆ど初めて聞かされた時から今に至るまで、少なくとも通常のニュース番組で何らかの説明が付加されたことは聞いたことがない。私の記憶では、この言葉が頻繁に使われだしたのは政府広報などよりもむしろジャーナリストや進歩的文化人と言った人たち、あるいはツイッターの発信者たちの発言からであったような印象がある。私は当初からこの略語の使用に不信感を持っていた。というのは、この略語を使う人たちの多くがしきりにもっとCR検査をせよ、拡大せよとまくし立てるのだが、一般人がそれまで聞いたこともないPCR検査なるものについていきなりどうのこうのと言われても困るのである。それが政府や行政を批判する文脈で発言されていれば、PCRの意味など理解されずとも、行政に不満を持つ多くの人々の支持を得やすいのは確かではある。しかしそれは無責任ではないか。それで私は最初からそういう意見に耳を貸すつもりはなく、あえて急いでPCRの意味を調べることは怠っていた。

一方、逆にオーソリティの側でしきりに使われはじめ、いまでもある意味では基本用語として頻繁に使われているのは略語ではないが「感染者」という言葉である。この言葉に対する不信感についてはすでに本ブログで記事にしている。こちらの方は一応「感染者」という字義通りの意味は、分かるのだが、そもそも感染者というのはどういう状態の人のことを言うのか、どうやって判定するのかが全く分からないのである。つまりこの場合は新型コロナウィルスの感染者と言う、字義通りの意味はあるが、そういうものは一般人が見て判別できるようなものではないということである。つまり新型コロナウィルス感染という状態自体が眼に見えるわけでも、耳で聞こえるわけでも、触って分かる訳でもないからである。という訳でこちらは、略語とは少々レベルが異なるが、やはり意味が隠されている言葉であると言えるだろう。しかしなまじ固有の意味を持つ単語が使われているだけになお問題は複雑である。

その後、PCR検査について、一般人にも分かりやすく説明をしてくれるHPやユーチューブチャンネルに遭遇して、私はそれが病原体を検出するものではないことを知るに至って、この検査の必要性を喧伝する人たちに対する不信感はいよいよ高まる一方になったのである。

その後数日前になってようやくPCRそのものについてネット検索した見たところ、PCRとはpolymerase chain reactionの略であり、日本語では「ポリメラーゼ連鎖反応」であることを知るに至った次第である。英語では25文字が3文字に短縮されるのだから随分と効率的であるに違いないが、日本語による本来の記述では10文字であり、しかもPCRでは本来の日本語の記述を全く反映できていない。

確かに「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と言っても素人には何のことか判らないことは確かであるが、もともと概念自体が難しいのだから他に言いようがない。では「ポリメラーゼ検査」と略してみればどうだろうか。英語でもこういう略し方はできる。ただし、この検査は1つの技術であるので、概念的な正確さが格段に落ちることは確かだろう。しかし素人向けにはそれでも良いのではないか。ポリメラーゼが何を意味するかは分からなくとも、少なくともそれが化学物質の名前であって、新型コロナウィルスの名前ではないことも推察できる。もちろん新型コロナウィルスとどう関係があるのかまでは分からないが、多少とも知識欲のある人であれば、この何でも簡単にネット検索ができる現在、すぐにでも調べてみる意欲を持つことができるであろう。PCRでは何のことか全くわからないのである。私自身、数日前まで調べる気にもならなかったのである。同時に喧伝者を信用する気にもならなかった。

アクロニムは本来、言葉を使う際の効率上、やむを得ずに発生してきたものだと思うがやはり一種の暗号のようなものであり、悪用と言っては語弊があるが、恣意的な目的で利用されやすいことにはことさら注意すべきだろう。特に科学技術や学術的に使われることが多いの問題だと思う。

哲学者カッシーラーは科学について、科学は真理に近づくためにも使われるが真理を覆い隠すためにも使われると言っている。言葉についても同じことが言える。アクロニムはこの点で余程注意が必要で、特にジャーナリストや報道関係者は慎重に使用すべきだと思う。政治家に至ってはもちろんである。信用にかかわると思うべきであろう。一方一般人の立場からは、やたらにアクロニムを多用するジャーナリストや政治家や文化人に対しては、悪意や善意とは関係なく1つの信用と警戒の尺度になるともいえる。

(以下30日追記)

他方、別の視点、というより、もっと比較日本語論的な視点で見れば、ここで図らずも漢字熟語やカタカナ語を平仮名に混在させられる日本語のメリットが改めて明らかになっている事にも注目すべきだろう。漢字熟語はもちろん、カタカナ英語にしても文字数から言えばアルファベット表記よりも短くなっている。文字の大きさから言えばどうしてもアルファベットよりも大きくなってしまうので、スペース的にはそれほど節約できるとは限らないけれども、読みやすさの点でも漢字熟語やカタカナを併用する日本語のメリット、英語などのヨーロッパ言語ではアクロニムに頼りがちになるような長い単語を短く、視覚的にも表現できる漢字カタカナ混り日本語のメリットを生かさない手はないのではないか。こういう日本語のメリットについては夙に多くの見識家によって繰り返し主張され紹介されてきたはずであるけれども、なかなか主流派の意見とはならならず、英語のメリットの方が強調される流れは相変わらず強く、日本語自体も英語の影響を強く受け続けている。もちろん英語の影響を受けることに利点がないとは言えないが、少なくとも安易にアクロニムに頼ることは悪影響の一つといえるだろう。もちろんすべてとは言わないが。

というわけで、PCR検査は当面、略語を使わずに日本語で「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と表現するのが良いと私は考える。くだけたところでは「ポリメラーゼ検査」でもよいのではないかと思う。


2020年6月4日木曜日

鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える ― 「ブログ・発見の発見」の記事を転載します

以下は昨日、別ブログ「発見の発見」に掲載した記事ですが、もともと当ブログで扱っていたテーマを継承した問題でもあり、特に多くの読者に読んでもらいたく思っている内容なのですが、最近ではなぜか、そちらのブログへのアクセス数が伸びなやんでいることもあり、こちらの方にも転載することにしました。また昨日の記事への追記部分もあります:

 鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える


筆者はある時期から英語翻訳を仕事にしてきたということもあり、英語表現の得失、平たく言えばいろんな局面において英語と日本語の優劣について考える機会は多かったのですが、ある時期から仕事とは別に、鏡像問題に関心を持って深くかかわるようになり、その方面で英語の論文や著作物に触れる機会が多くなり、挙句の果て、自分で英文の論文作成を試みるまでになってしまいました。そんなわけで、それまで何となく断片的に考えていた英語使用の得失、とくに科学的な考察における英語使用の得失、メリットとデメリットがかなり明確に意識できるようになってきたように思います。今回、取り合えず急いでまとめてみたいと思い、あまり時間をかけて多面的に考察することもできないので、1つの問題についてのみ、1、2の例を挙げるだけで整理してみたいと思います。この問題に限って言えば英語のメリットではなくむしろデメリットに該当します:

結論として端的に言えば、現在の英語、文章として使われている英語は、技術的な目的では極めて論理的かつ効率的に考察も表現もできるように発達しているように思いますが、真に深く意味を掘り下げ、追究するという意味では、行き過ぎた名詞的表現と、潜在的な擬人的表現により、決して小さいとも浅いとも言えない陥穽に陥る可能性を無視できないように思います。確かに一部の知識人がよく云うように、優れた英文は抽象的な概念において洗練され、論理的に見通しよく整理されているかもしれませんが、そういう見かけ上整った論理性や洗練された抽象表現の中身自体が、そもそもどれほどのものなのか、反省してみることも必要ではないでしょうか。言い換えると形式論理よりも意味論に注目すべきではないかと言えるかもしれません。

ここで鏡像の問題では欠かすことにできない用語である「Reflection」について考えて見たいと思います。この用語を岩波理化学辞典で引いてみると「Reflection=鏡映」と「Reflection=反射」という二つの項目に出会います。「鏡映」の方は数学的な定義のようで、同じ英語でも「Mirror operation」という別の用語が併記されています。この意味で日本語の用語は「反射」ではなく「鏡映」となっているのも意味深いですね。つまり、この翻訳語を考えた人物は、この意味では「反射」という用語は不適当であると判断し、賢明にも「鏡に映す」という表現を選択したことがわかります。

以上からわかることは、鏡の機能としては通常、物理的な光の反射が考えられ、日本語でも英語でも同様に「反射」が使われるのですが、英語の場合は視覚イメージについても反射という言葉が使われるということです。日本語では普通、「人の姿が鏡に映る」とは言いますが、反射するとは言いません。そういう人がいるとすれば、たぶん英語の影響でしょう。また日本語では鏡を主語にしてこういう意味のことを表現することはあまりないと思います。「映す」という他動詞も使えますが、普通は人が主語で、鏡に自らの姿を映すというような表現であって、鏡が主語になってものの姿を「映す」というような表現はあまりしないように思います。ある日本語の鏡像問題論文で鏡を主語にして「映す」という表現に遭遇したことがありますが、この場合は相当に英語表現の影響を受けた上での表現だと思います。

一方、日本語ではボールなどが平面の物体にぶつかって反発する際にも「反射」を使うことがあります。これは物理的に考えても極めて自然なことだと思います。物体は引力の影響を受ける点で光線とは違いますが、現象的には、客観的に観察できるという点で、光線の反射と殆ど同じような現象であると思うのですが、なぜか英語ではreflectという言葉ではなくbounceという言葉を使うようです。

要するに、英語では光と像(視覚像、視覚イメージ)を区別していないのです。これは視覚イメージに関わる問題を考える場合に致命的ともなり得る誤解に導かれる可能性があるように思われます。そもそも光は物理的存在ですが、像は人に認知されて初めて像となるのであって、観察者なしでは存在し得ないものです。光の場合、ボールのような物体と同様、明るい窓や光源から出た光線を鏡で反射させて暗いところに向けることができますが、像についてそのようなことができるでしょうか。像はヒトが認識するコンテンツであって、ヒトの意識内にのみ存在するものです。ある人が鏡の向こうに自らの姿を認めることができたところで、横から見ている別人が鏡の背後に、当の観察者が自らの鏡像を認識しているその位置に、そのような鏡像を見ることができるでしょうか?その位置にそのような姿を持つ本体が実在しているかのような推論をすることは、鏡像の擬人化あるいは物質化に他なりません。そうして実際、英国人心理学者によって英語によって記述された鏡像問題の研究でそのような、結果的に鏡像を擬人化しているとしか思えないような考察が見つかっている訳なのです。例を挙げると、グレゴリー説がそうですが、それ以外に物理的な光線の幾何光学のみによって説明している同じ英国人のヘイグ説も結果的にそれに該当するように思えます。ヘイグ説は光線の幾何学のみによって説明しているので一見、擬人化とは無関係のように見えますが、鏡映反転という視覚イメージの問題を光線の幾何学のみで説明しているという点で、結局のところ光と視覚イメージを同一視していることになり、擬人化と同じことであると言わざるを得ません。
[グレゴリー説の方は、良く知られていると思いますが、要するに光学的な条件を否定し、観察者やまたは物体の物理的な回転のみで鏡映反転を説明する説です。これは観察者が見ている視覚像が何らかの鏡像であるか実物の像であるかに関係なく成立する説明なので、対象が人の場合、鏡を取り払って鏡像の位置に別人が入れ替わったとしても成立し、結果的に鏡像の問題ではなくなるわけです。しかしいかにももっともらしい説明に見えるので、今でも、少なくとも部分的に正しい説として通用しているように見えます。実を言えば私自身その擬人化に気づかず、これがすべてを説明する完全な説明ではないものの、部分的に有効な説明であるという印象を持っていました。しかし本当に根本的な原因を説明するという意味では、今となっては完全否定すべき説明だと考えています。(6/4 追記)]

有名な高野陽太郎東大名誉教授は、英語の論文においても、グレゴリー説やヘイグ説を正しく批判し、彼らの論旨を正当に否定していると思います。しかし、氏はグレゴリー説やヘイグ説が鏡像の擬人化ないし物質化に陥っていることには気づいておらず、擬人化においてむしろ両者の上を行くような複雑な論旨を展開しているように見えます。これは氏が英語表現からの強い影響を受けていることにもよるのではないか、というのが私の見方です。

もちろん鏡像は本質的に、単独で見る限り鏡像ではない姿と区別できないものであり、鏡像を擬人化するような考え方は言語に関わらずごく自然に起こりえることです。しかし鏡像の問題を科学的に考察すべき科学者までがそのような擬人化に陥ることは多分に言語表現のシステムに関わることであり、私見では、英語は学術的な表現においてもこのような点でむしろ、日本語よりもプリミティブな面があるのではないかという疑いを禁じ得ないのです。

そもそもこういう鏡像の擬人化は見方を変えると、鏡そのものを擬人化することに始まっているとも言えます。そもそも人以外の物体を主語にして他動詞を用いて何らかの現象を表現すること自体が擬人化と言えなくもありませんが、そこまで突き詰めることは今は避けたいと思います。ただし、例えば「光を反射する」というように物理的なものを対象とするのではなく視覚イメージのような物理的ではないものを対象として、鏡を主語にして表現するとなれば、これはもう限りなく擬人化に近づいて行く可能性があります。視覚イメージの場合、日本語でも「鏡が姿を映す」とは言いますが、「鏡が姿を反射する」とは言いません。英語ではそれがあり得るように思われます。英語で「映す」は「project」になるでしょうか。しかし鏡の場合に「project」を使うと何か不自然ですね。

鏡を擬人化するといえば、例えば白雪姫の童話のように鏡に人格を与えたり、「鏡よ、鏡よ」と鏡に呼び掛けたりすることを想像しがちですが、こういうあからさまな擬人化の話は、聞く方でもそれが擬人化であることがわかります。しかし単に主語として使われるだけの場合、それが擬人化であっても普通はそうとは気づかれないですね。ですからこういう場合は潜在的な擬人化の可能性とでもいうべきかと思います。問題なのはこういう表現は日常の表現よりもむしろ学術的あるいは科学的な言語表現で使われる場合が多いことです。冒頭の方で述べたように、英語では特に著しいように思いますが、簡潔な名詞的表現とよばれるところの、何であっても名詞的に表現される概念が次々と生産され続ける傾向です。いったん名詞化されたものは簡単に主語として使われるようになります。それが英語らしい、いかにもスマートな表現として定着することになります。

以上のような問題は自然科学と社会科学ではまた異なった分析をする必要があるかもしれませんが、いずれにしても難しい問題です。ただし、少なくとも英語の優れた表現にはこのような、決して小さくはない陥穽もが潜んでいることにも、特にこれから英語に取組まなければならない若い人たちにも注目してもらいたいと思います。
(昨日に投稿した記事ですが、[]内を追記し、タイトルも少々変更しました。6月4日)

2020年5月31日日曜日

「一人歩き、ひとり歩き、独り歩き」という言葉の独り歩き

「ひとり歩き」という言葉が最初だれによってどういう風に使われたのかということには非常に興味を持っているが、今のところそれについては詮索せずに、最近思ったことを書いてみたい。

この言葉が最初から比喩的に使われる言葉であったことは疑う余地はないだろう。それだけにその意味するところのも本当に追求してゆくこと自体がそう簡単なことではないだろうと思う。簡潔に言えば、「ひとり歩き」という言葉自体がひとり歩きしやすいのではないだろうか。

というのは、私がこのブログで何度か、この表現であわわされる意味内容を テーマにしているが、私がこれまでこの表現を使ったのはシニフィアンとシニフィエ(これらの言葉を使ったかどうかには関わらず)との問題についての文脈においてである。つまり、言葉は本来、シニフィアンとシニフィエのセットからなるのであるから、シニフィアンだけがシニフィエを伴わないまま歩き出すことを意味するといえる。もう一度言い換えると、前回の記事で述べたように、言葉という乗り物に意味という乗員がいない幽霊船のような感じである。であるから、言葉について言う場合はシニフィアンについて言っているのでシニフィエについては、普通、言葉について述べる以上は、こういうことはあり得ないのである。

ところが現実には普通の意味での言葉、つまりシニフィアンとシニフィエとがそろった状態で「ひとり歩き」という言葉が使われる場合がある、というかそれが現実ではないだろうか。もちろんそういう言葉の「ひとり歩き」もあるだろう。というより、こちらの使い方が本来の使い方なのだろう。だからこそ、私は「シニフィアンの」という限定語を付けなければならなかったとも言える。ただし、その場合、その言葉が何から離れて独り歩きしだしたのか、本来その言葉が共に歩かなければならなかったはずの、そのものが何であるかを明らかにする必要があるだろうと思う。それがなければ「ひとり歩き」という言葉自体のひとり歩きになってしまいそうだ。

端的に言って、文脈がわからないというか、曖昧なままで、唐突に何かが「ひとり歩き」したと言われると、何を言わんとしているのかわからないか、意味不明な場合が往々にしてあるように思われる。ちなみに、独り歩きという漢字の使い方はいいなと思う。こういう漢字の使い方ができるというのは日本語の独壇場だろう。「一人」を「独り」と書き始めたのは誰だったのだろうか。

2019年6月3日月曜日

象徴的なものと言葉たち ― (2)建築と工芸における象徴性―その1、物の機能

建築と工芸が美術あるいは視覚芸術として語られるとき、一般に両者を併せて絵画や彫刻など、ファインアートとされる分野と区別され、応用芸術などと呼ばれることもあります。服飾デザインのように単に「デザイン」と呼ばれることも多いと思います。工芸品に限って言えば、その定義は商業的な業界や個人によっても様々であり、例えばかの有名な陶磁器鑑定家は、工場や無名作家によって比較的近年に作られた、やや値段の安い工芸品を「工芸品」と定義しているように見受けられます。こういう本来の定義からやや離れたか限定された定義は業界人同士で使うのはともかく、一般人に向かって使われることについては、個人的には多少の反感を感じなくもありません。とはいえ目的により分類方法はいくらでもあり、どのような分類もそれなりに有用でしょう。ここでは象徴性という観点からこれら両分野の視覚芸術を特徴づけて考察してみたいと思います。

端的に言って、建築や工芸品は言葉やイメージではなく「物」自体の象徴性が重要な機能を果たしている分野であると思います。ここで言う物自体は抽象的な「物自体」ではなく、個々の言葉やイメージで表現される対応物であって、記号論的に言い換えるとシニフィアンではなくシニフィエということです。

例えば「器」という言葉は人間性あるいは人格を表す言葉として象徴的に使われています。これは言葉の世界で「器」という言葉の象徴性を用いているわけですが、具体的な器そのものの象徴性を表現手段として用いるのが工芸であると言えると思います。器を描いたり写真に撮ったりすれば当然それは器のイメージということになり、「言葉」と「イメージ」とそれらで表される「物」そのものという、三つのセットの中で、の象徴性について考えて見たいと思うわけです。

建築の場合、全体としての建築について象徴性を現在の文脈で云々するのは難しいですが、建築の構成部分として、例えばを例にとってみると、言葉の「窓」も言葉の「器」と同様に象徴的に用いられる場合が多いことはすぐにわかります。英語になりますが、Window―ウィンドウという言葉はいまやコンピュータ用語として象徴性も意識されることなく使われるようになっています。日本語の「窓」も、多様な文章表現で象徴的に用いられていることは言うまでもありません。この窓そのものを象徴的に用いた芸術がステンドグラスであると思います。

ステンドグラスは光の芸術であるも言われ、またガラス工芸の一部門ともみなされていますが、少なくともキリスト教会で作られてきたステンドグラスを何の芸術であるかと問うとすれば、私は光の芸術あるいはガラスの芸術というよりも窓の芸術というべきかと考えます。そこでは窓の機能が持つ象徴性が大いに活用されていると思われるからです。

もちろん、 ファインアートと呼ばれる絵画や彫刻と異なる点は以上の「物の機能の象徴性」だけではなく、特に絵画と比べると素材の質感が大きな役割を果たしている点は大きいと思います。しかし材料の質感は絵画でも重要な要素であり、彫刻になればなおさらです。ということで、建築と工芸において特有の表現要素は物の機能が持つ象徴性であると定義して差し支えないと思います。

工芸品の機能性に関しては用の美ともいわれる機能美がよく問題にされる、というよりむしろ工芸品の機能についてはもっぱら機能美の観点から論じられ、機能の象徴性についてはあまり注目されることがなかったように思われます。象徴性も、どちらも何らかの意味であることは確実ではありますが、象徴性はとりあえず別物であります。この機能美に関しては肯定派と否定派あるいは重視派と非重視派とがあり、完全な否定派になると機能そのものを否定して作品はオブジェと呼ばれるようになるか、または事実上の彫刻となり、もはや工芸とは呼べなくなります。その種の作品では必然的に素材の質感に注目されるようになり、素材の質感に対する感性が強化されたり、さらには素材の象徴性の発見、掘り下げに至るかもしれません。しかし機能そのものを否定したことでそれまで自然に備わっていた機能の象徴性をも失うことになります。それが良いことかどうかは別として、器なら器としての機能を維持することで機能の象徴性も維持されることの意義、メリットについて改めて思いを致すことはこの時節、大いに意義のあることではないかと思うものです。今後の工芸の発展につながるのではないかと考えないこともありません。