2021年8月29日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その4 ― 情報の本質

 前回までの記事を前提としてエーアイについて、引きつづき考えて見たいと思う。ただ、以降、エーアイをエー・アイと書いた方が良いかとも考えている。ところで、今回の記事を書き始める直前に本書を紛失したので、本書の記述に即して記述を進めることが難しくなった。また入手することも簡単だが、この際、本書の記述に即して進めることを止め、本書の内容に対する私の理解に基づいて自分の論理で考察を続けていく方が、効率的で良いと思われ、そうしたいと思う。本書の記述に即して考察を進めて行くと、袋小路とは言わないが、多岐にわたる道に分け入らざるを得ないので、総合的にまとめるのは容易ではないからである。という次第で原文を確認できなくなり、以下で短い引用を行う場合、原文と一致しない可能性があることをお断りしておきたい。

著者は現在大多数の権威者や業界人と同様だと思うが、「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する装置である」という見方あるいは表現を採用している。ところが本書の中ほどで東大名誉教授清水博氏の「そもそもコンピュータは情報を処理するものではない」という見方を紹介している。後で著者自身も清水博氏の考えに同調する見解を表明している。しかし著者は再び「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する」という前提で考察を続けているのである。これはある意味、これまでの文脈上、そのような表現を使わざるを得ないということであろうと思う。ここにも思考が言葉の限界に制約される悲しさがある。

私の考えではそもそもコンピュータないしエー・アイは、情報を処理するか、しないか、という二者択一の前提自体が間違っているのである。

日本語表現の一例を挙げれば、「コンピュータは情報を処理する装置である」という表現では、必ずしも情報を処理する主体がコンピュータであるという意味で語られているとは限らない。この表現は、「コンピュータは、人がそれを用いて情報を処理する装置である」という意味で発言されたとしても、受取られたとしても、一向におかしくはない。私はそれが本来の日本語の含意であると思う。それが、何がなんでも言語表現上の主語と意味上の主体とを一致させなければ済まない英語の影響もあって、コンピュータが情報処理の主体であると解釈されるようになったという面がある。この考え方についてはもう何年もまえに電気掃除機とか洗濯機の例をとって本ブログでも書いている。こういう、道具を主語にする表現は英語には特に多い。例えばWeblio英和には次のような例文がある:These scissors cut well(このはさみはよく切れる)。私は以前からこういう表現は擬人化表現の一種であると考えている。

という訳で、コンピュータもハサミも、詰まるところは道具であって人間との関わりなしでは意味を持たないのである。仮に、手塚治虫のSFマンガにあったようにロボットが人間に反乱を起こすとか、はさみが付喪神になるようなことがあるとすればそれはもはやロボットが内蔵するコンピュータの情報処理機能とか、紙を切るというハサミ本来の機能とはまったく別の起源をもつ現象であって、そういう機能と何らかの関係を持つことがあったとしても、全く別の文脈で考えるべきなのである。

ただし、エー・アイと他の一般の道具や機械と異なる点は、コンピュータはソフトウェア、特にプログラム言語で記述されたソフトウェアを必要とし、このソフトウェアはプログラム言語とよばれる一種の「言語」とされるもので記述されるという点である。本書の著者はこのプログラム言語とプログラムをエー・アイの主要部分と考えて、多岐にわたる考察を進めていると言える。

プログラム言語自体と、作成されたプログラムとを一体のものとして考えた場合、これと情報との関係がどのようなものであるかを考えるとすれば、本など、書かれた文章と比較するのがもっとも適切だろう。何らかの自然言語(自然言語とか機械言語とかいう表現にも違和感があるが)で表された本は紛れもなく著者によって情報が込められたものではあるが、しかしそれが著者自身を含めて人間によって読まれない限りは情報とはいえない。したがって、本が情報を担うためには書き手と読み手の両方が人間でなければならない。

プログラムの場合は書き手は人間なのだが、読み手が機械であるともいえる。読み手というのはもちろん比喩である。正確に言えば、プログラムが入力されるコンピュータという機械はプログラムの読み手であるという訳にはゆかない。プログラムは機械言語に変換されたうえで機械に読み取られるとされているが、機械が機械言語を読み取るというのも擬人化という一種の比喩に過ぎないのであって、つまるところ、本当の意味での読み手は最終的にディスプレイ画面の表示を読み取る人間または、ロボットの動作を認知する人間以外にはありえない。端的に言えば情報の入口と出口は何れも人間である以上、この情報を操作しているのは人間以外の何物でもない。すなわち、エーアイは人間とは独立した何らかの知能ではなく人間の知能そのものである。ただし個人の知能ではなく膨大な知能が集約された集合的知能と考えてよさそうだ。要するにエーアイと呼ばれるものは一種の機械装置を伴う集合的知能である。英語で表現するのであれば"machine aided collective intelligence"で良いのではないだろうか?

本シリーズの次回は「人間と生物」という切り口で考察してみたい。

 

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