2009年12月20日日曜日

地球温暖化問題の個人的重圧 ― 前回に続いて

要するに科学上の問題も政治的な問題と同じようなプロセスで決められているという事なのである。しかし、形式的には、科学理論の決定に多数決のような民主主義的ルールは通用しない。そこで拠り所となるのが権威と専門性なのだ。


前回の冒頭で述べた前提を繰り返すと、例外はあるにしても、科学的権威、政治的権威、宗教的権威がことごとくCO2原因温暖仮説を支持していることからくる思想的重圧がある。

しかし、CO2という言葉と概念、温室効果という言葉と概念、これらによって表現されているCO2原因による地球温暖化説それ自体は、自然科学上の理論であって、したがって形式上、責任を持つのはこれら諸々の権威の中で、科学的権威だということになる。

それで、政治的権威、宗教的権威も専門性の尊重という原則にのっとって科学的権威に従っているというのが形式上、言えることなのだと思われる。ただし、そこに政治的権威にしても宗教的権威にしても、自分たちの意図と目的、あるいは思想に合致している、あるいは合致させられるように見えるからこそ、この問題に関しては、科学的権威を尊重しているともいえる。これは形式上あるいは見かけ上ということであって、政治的権威と科学的権威との関係では、実際のところいずれが主導権をもっているとも言えない面があるのかもしれない。他方、宗教的権威はともすれば科学的権威とは対立しがちであることを思えば、なおさらこのことが言える。

政治的権威については、これ以上考える材料や見識を私は持たないが、宗教的権威がこの問題でCO2原因説を受け入れるのはある意味で自然、やむを得ないような面があると思う。というのも、それは倫理観の問題ともいえるからである。

CO2原因温暖化説というのは平たく言って因果応報の思想に合っている。因果応報というと仏教的な感じがするが、この思想は殆どあらゆる宗教に共通するものだと思う。宗教を離れた直感的な倫理観にもあるといえる。自業自得とか、天に向かってつばを吐く行為、とか、必ずしも宗教とは関わり無く使われる表現である。この、いろいろな表現やニュアンスの違いはあるものの、端的にいって因果応報の思想が多くの倫理的な権威をCO2原因説に傾かせるものなのだと思う。

ところが、CO2原因による地球温暖化の理論自体はあくまで自然科学の理論であって、政治でも宗教でもない。

しかし以上のような因果応報的な倫理観は宗教的権威や倫理学者だけではなく社会科学や政治的学的な権威にも潜在しているのではないか。そしてそれは科学的社会主義といわれる共産主義、マルクスレーニン主義にもあるのではないかと思うのである。

科学的社会主義、あるいはマルクスレーニン主義系の政党や団体は、科学を信奉する一方で非常に倫理に厳しいところがある。そこから多くの過激派や毛沢東主義などを生み出してきた。そういう倫理性はどこに由来するのか、それは外から見ると謎のようなところがある。もちろん、現実には人の心の問題であり、心理的なものに由来しているのに違いは無いのだが、理論上、科学的社会主義者は、それを唯物論の基盤で説明しなければならないのである。そして左翼過激派を含めた共産主義政党などでは倫理も唯物論に由来すると思っているふしがある。そこに欺瞞性、自己欺瞞性があるように思われる。

地球温暖化問題から、このようなことも少し見えてきたような気がする。

2009年12月16日水曜日

地球温暖化問題の個人的重圧

私は社会的には地球温暖化問題からは何の重圧も受ける立場にはない。専門的にそのような問題と関わる研究者ではないし、政治、経済的に多少とも責任ある立場にいるわけでもない。利権などはもちろん、単に職業的にでもエネルギー産業に関わっているわけでもない。それでも個人的に、地球温暖化問題の重圧は非常に大きいのである。重圧というのは不適当かもしれない。それよりも悩みか憂い、あるいは単に気がかりとでも言っておくべきか?しかしやはり、重くのしかかってくる問題なので重圧というほかはないのである。

このように特に責任ある如何なる立場にあるわけでもないが、ただ、別のブログ、発見の[発見」で一昨年からこの問題を可成りの回数、取り上げてきた。それは、そのブログでは幾つかの科学ニュースサイトの記事からテーマを見つけてきたので、必然的にこの問題をもかなりの頻度で取り上げる事になった。そういう行きがかり上からも多少はこの問題を考え続ける責任を感じてもおかしくはないと勝手に思っているという事もある。

その、「発見の発見」の方で、そしてこちらでも書いてきたように、個人的には、前世紀末にピークを迎えた地球温暖化の主要な原因は太陽活動にあるという説が正しいことに確信を持っている。一方、この問題では、今さら言うまでもなく、組織、個人を問わず権威筋の方ではことごとくCO2原因説を支持している。政治的権威、学問的権威だけではなく、宗教的権威でもその傾向が有る。古い言い方をすれば、聖俗を問わず、権威筋はCO2原因説を支持しているようなのだ。そういう中で最近、権威筋の代表とも言うべき人物がこの問題を解説しているインターネット動画を2本見る機会があった。一方は下記リンク、日本の外務副大臣でこの問題を直接担当している福山副大臣へのインタビュー。
http://www.videonews.com/asx/marugeki_free/447/marugeki447-1_300.asx
もう一方は下記リンク、名古屋大学大学院の春名幹男教授の解説。
政府関係ではないが政治や報道関係の大学院教授だから、この問題でも権威者に間違いはないだろう。

この権威者2人の温暖化問題に対する解説には共通する部分と異なる部分とがある。共通する部分としては、まず、CO2による温暖化説への「懐疑論」について一定の言及をしている事が上げられる。そして「懐疑論」が存在していること自体は認めているが、その「懐疑論」の内容の当否、内容に対する個人的な判断は全くしていないという事である。つまり、科学的には、あるいは地球温暖化という自然現象そのものについては、実際にはどうか分からないが、少なくとも建前上、自分自身では考えることも判断する事も停止している。つまり語ることを避け、無視しているという事である。この点で2人は共通しているのだが、違いもある。

福山副大臣の方は、国連IPCC科学者の合意が世界の専門科学者の合意であり、現在それを正しいと見なすしかないという立場であるのに対し、春名教授の方は、エネルギー利権による対立という構造を持ち出している。IPCC側すなわち主流のCO2温暖化説の方は石油石炭以外の新エネルギー開発を指向する利権側を代表しているのに対し、CO2懐疑説の方は石油利権側を代表しているというわけである。そういう事であるなら、なおさら自分自身でどちらが正しいのかを、つまり太陽活動説とCO2説のどちらが真実に近いのかを自分自身で調査し、判断すべきではないのか?と個人的には思えるのだが、教授はそれをしない。少なくともこの場面ではしない。春名教授はもっぱら政治的な判断でCO2温暖化説を採る方を得策とし、それを支持する。

政治的な判断が科学的な真偽の判定に優先するということは確かに解る。それは宗教や倫理と同じ事だろう。恐らく上記の2人とも政治的な判断でそうしているのだろうと思う。しかしそうではない、という可能性もないといえない。そうであるとすれば、つまり科学的な、この場合は自然現象の解釈や理論に対する判断を避けることの理由が政治的あるいは倫理的、宗教的なものではないとすれば、考えられる理由としては、単なる怠慢と無責任、あるいは無能としか考えられないのではないかという考え方も出来る。

もちろん、他にも多忙とか、そこまで立ち入ることの効率性とか、重要性の認識というものがあるだろう。多忙でそういう専門外の問題にまで立ち入る時間がないとか、そこまで自分が時間をかけて追求するに値しない。専門外のことは専門家に任せておけばよいというわけである。

しかしこの問題に限ってはそういう議論は成り立たないだろう。問題はあまりにも重大である。というのも、IPCCなどのCO2原因論者の説明を信じるとすれば、これは他人任せにするにはあまりにも重大である。なにしろIPCC報告の理屈を信じるならば、それは人類の存亡に関わる重大問題であるからだ。そしてこの問題を本当に自分自身の頭で考え、判断することは素人にもそんなに困難なことではない。もちろん、最初から研究者として調査研究を始めることなどは問題にならないが、CO2主因説をとらない誠実な専門科学者が素人に理解できるように語っている資料はいくらでもある。そういった専門学者は政府や政治家が呼べば、あるいは権威のある評論家が訪問すれば喜んで説明に応じるだろう。インターネットで世界各地から資料を集めることができるし、気象庁のホームページで公開されている資料、データだけでも可成りの事が分かる。逆に困難な面があるとすれば専門家にとっても困難である。これは特定の専門分野だけの問題ではないからである。

CO2原因説側に立てばそれほどまでに重大なこの問題を、そこまで自分自身で追求する気持ちがないとすれば、そして単なる怠慢、無責任、無能ではないのだとすれば、内心ではそれほどの重要性を認めていない、すなわちCO2原因説を内心では信じていないという可能性が十分に考えられる。内心というよりも無意識という可能性も考えられる。自己欺瞞の1つのあり方とも考えられる。

そこで気になるのは、共産党ではこの問題をどう考えているのかという事だ。共産党は上述の2者のように政府筋でもなく、学者、評論家でもなく、野党のひとつであり、立場が多少異なっている。またイデオロギー政党であり、科学的社会主義を標榜している。とにかく科学、科学を尊重することにかけては最高権威を自任するところのひとつである。前委員長、現委員長、共に東大の物理系出身であり、一般党員にも各種専門の自然科学者を多く抱えていると思われる。

そこで共産党関係のホームページを調べてみる。不破元委員長については新聞記事か何かで、CO2原因説を確信をもって主張されていた記憶があり、だいたい党としても同じようなものだろうと思われるが、やはり予想通りである。

党中央委員会のホームページでは、科学上のCO2原因説そのものについての言及は無いが、政策として温室効果ガス排出量を1990年比で30%削減することを求めている。CO2削減要求が必ずしもCO2原因説と一致する訳ではないが、ここまで要求すると言う事はCO2原因説を根拠にしていることに間違いないだろう。実際IPCCの予測を信じ、それを根拠に対策を講じなければならないとすればこの位は必要な事かも知れない。そういう意味では誠実だと言えるかも知れない。しかし現実にそれ程の危機感をもっているとも思えないが。

また「しんぶん赤旗」の科学記事紹介を見ると、「太古の地球を暖めていた超温室効果ガス(10月4日付)」「温暖化で始まる両生類の産卵時期(8月30日付)」、といった見出しの紹介ページがある。

一般に科学、科学、と科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を権威の拠り所とし、科学を盾とし、科学を宣伝、喧伝する、端的に言えば科学信仰者、科学喧伝者がCO2原因温暖化説を支持する傾向が強いことは言えるようである。逆にCO2原因温暖化説の喧伝者も科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を盾に持ち出してくる。今流行のニセ科学という言葉も、そしてニセ科学批判もCO2原因温暖化説の喧伝者が発祥ではないにしても主要な普及元ではないかと思える節がある。そこを「温暖化懐疑主義者」が逆手にとって、CO2原因温暖化説が逆にニセ科学と呼ばれるようになったようだ。

こうしてみると、こういう科学信仰者、科学信仰的イデオロギーの見据える科学とは何かイメージ的なもの、幻想のようなものではないかとも思えるのである。

だが私は、物理学者であった不破前委員長にしても志位現委員長にしても、ご本人自身で本当に先入観なしに信頼できる地球科学者の太陽活動主因説論者の説明と、例えばIPCC報告書におけるCO2主因説とを比較検討されたならば、太陽活動主因説の正しさとCO2主因説のいい加減さに気付かないはずは無いと確信するものである。そうならないとすれば、あるいはそれをされないとすれば、そこに怠慢、無責任、あるいは自己欺瞞、あるいは先入観、偏見、思い込み、幻想、予断があるとしか思えない。

もちろん、共産党にも政治的な判断で科学的に基づいた論理を犠牲にする場合もあり得るだろう。


しかし・・・、政治的な判断に未来の予測は不可欠である。そして地球温暖化は、多少は人間活動の影響による可能性があるとしても、それ自体は自然現象である。そしてCO2原因温暖化説の科学者達は今後数年間の気温と大気中CO2濃度の推移をどのように予測しているのであろうか。そしてそのデータにどのように対応するのであろうか、ということが今一番気になることである。

気象庁のホームページでは日本で観測している年平均データを公開している。もちろん諸外国でも公開している。とりあえず気象庁による日本のデータが下記からアクセスする事ができる。

これに関しては次の、ブログ・発見の「発見」の2回の記事で触れている。

気温については、2000年以降、上昇が止まっていることはすでに世界的にも色んなところで言及されていることもあり、そのとおりであることが分かる。そして今年途中までのデータは、今にもシミュレーションの範囲から外れそうな位置にある。温度については、これまでのデータからも、多少の上下の振れは見ることができるから、たとえシミュレーションから外れてもごく一時的な現象ですぐに上昇に転じるという見方もできるかも知れない。しかしCO2濃度になるとどうであろうか。これまで、何十年にもわたって一貫して上昇を続けてきたCO2の年平均濃度の上昇が止まるとか、減少に転じるようなことがあればどうなることだろうか。

CO2濃度が減少に転ずるような事があれば、気温のデータ以上にCO2原因温暖化説にとって深刻な脅威になることは間違いが無い。そうなれば、大気中CO2濃度が人為的なCO2排出による要因を遙かに超えて気温と海水温の要因に依存していること、大気中CO2濃度が温暖化の原因である程度を遙かに超えて温暖化の結果であったことが証明されることになる。

ただ気温の傾向については素人でも、自分の生活している地域に関してに限られるが、ある程度は感覚的に掴むことができるのに対し、CO2濃度に関しては、こういう所のデータに頼る以外に手段がない。それでCO2濃度の変化に関しては、一般人に対しては目立たない可能性がある。とにかく、正しいデータが公開され続けることだけは保証されなければならないと思う。

一方、以上の問題は科学の本質にも関わる「専門性」という問題に行き着く。これは実は科学と言うより、学問一般の専門性の問題と言うべきだと思うけれども、科学とは何かという問題とも深く関わるところの、専門性とは何かという問題である。これは民主主義といった社会制度にも関わる、現代人に課せられた最大の問題のひとつなのだと思う。

2009年12月3日木曜日

カッシーラー、「シンボル形式の哲学第三巻認識の現象学」を読み終えて

いつ、つまり何年何月何日何時何分に、というわけでも無く、この書物を一応読み終わった。と、こういう表現になるのは、最後のあたり、もちろん完全にというわけには行かないが、一応読み終わったと納得できるように読了したいと思いながら、途中で少し前の方に戻ったり、とりあえず最後までざっと読んでみたりの繰り返しで、何ともメリハリのつかない読了という事になったわけである。

こういう本は少なくとももう一度、第一巻から読みなおし、各章節の要約でも作りながらでもないと、一瞬頭に入った内容も直ぐに雲散してしまう。

しかしまあ、昨年10月に第一巻を読み始めてから1年と少しでとにかく最後まで読了した。今の段階で第一巻「言語」および第二巻「神話的思考」とこの第三巻「認識の現象学」とを比べてみると、解説でもこの第三巻が「全巻のクライマックス」と述べられていることからも分かるように、第一巻、第二巻とは異なった手応えがある。例えば、全巻を通じて古代から現代に至るまでの哲学者、科学者からの非常に多くの引用があるが、第一巻、第二巻では引用の仕方が比較的断片的であった。もちろん、本の記述自体が断片的というわけではなく哲学者達の引用が断片的という意味である。

この第三巻の場合、引用はその場限りの断片的な引用と言うよりも、それぞれの哲学者や数学者、科学者の思想全体あるいは核心が引用されているといえる。具体的には、特にデカルト、ライプニッツ、カント、ラッセル、あとは多数の数学者達と科学者達である。ただし科学者の場合、その人の哲学というよりもその重要な業績に関わる場合と、その哲学思想に関わる場合とに分かれる。どちらかというと哲学者として引用されている科学者はヘルムホルツとヘルツ、その科学的業績について引用されている代表はアインシュタインという事になるだろうか。数学者の場合は数学基礎論関係ということになる。

というわけで、この第三巻に関しては特に引用されている学者達の業績に精通していることが前提となることが分かるが、もちろん私にはそういう事は望めない。できれば逆にさかのぼってそれらの一つでも勉強してみたいと思う。

とりあえず、最後の方で、この本の一つの要約となっているように思われた箇所をメモしておきたい。もちろん、それでこの本全体の構造が読み取れるわけでも無く、単に最も重要な帰結の一つと思われるだけだが。

「こうして物理学は、〈表示〉の領域、いやそれどころか表示可能性の領域一般をさえ決定的に放棄してしまい、抽象の領野に踏み込むことになった。イメージによる図式機能が、原理によるシンボル機能にその座を明け渡すことになったのだ。むろん現代の物理学理論の経験的起源は、この洞察によって少しも侵害されはしない。だが、いまや物理学は、もはや内容をもった現実としての存在者を直接取り扱うことはせず、それが扱うのはその〈構造〉、その形式的な仕組みなのである。統一化への傾向が、直感化への傾斜に対して勝利をおさめた。」


カッシーラーのこの仕事が科学史、科学思想にとって非常に重要なものであることは間違いが無いように思われるが、それにしては現在、科学思想的な文脈でカッシーラーの名前を聞くことが少ないのはなぜなのかという疑問が起きる。もちろん私自身はその方面で研究してきたわけでもなく多くの書物を読んで来たわけでもないが、例えば現在流行している疑似科学論議では、カッシーラーへの言及はあまり見ないのである。

例えばウィキペディアは、現在主流というか、少なくとも流行している思想を多少とも反映しているに違いないと思われるけれども、たとえばよく聞く「科学哲学」を調べてみても主要哲学者のリストにカッシーラーの名前がない。また英語版で「Scientific philosophy」を引くと「Experimental philosophy」に転送される。こういう言葉は知らなかったが、哲学の対象と言うよりも方法の意味で科学的という事らしい。ここにもカッシーラーの名はありそうにもないが、一方で「Philosophy of science」という項目がある。この項目に載せられている哲学者のリストにも、カッシーラーの名前は見あたらない。どうしてこういう事になっているのかについて、非常に興味が持たれるところである。ユダヤ人であるカッシーラーはアメリカに亡命し、そこでこの書物の英語版を出すことを懇請され、その代わりに「人間についてのエッセー」を書いたという事である。この本は私が過去に読んだ数少ない、哲学書の一つだった。というように、カッシーラーの世界的な名声が低いというわけではなさそうに思う。このこと、つまり科学思想との関わりであまりカッシーラーに関心が向けられることが少ないということ自体になにか重要な意味がありそうな気がするのである。

しかし、ネットで検索すると、マルクス主義哲学者として有名な戸坂潤の「科学論」でカッシーラーが言及されている事が分かった。これは青空文庫で公開されていた。全文は読んでいないが、その言及されている箇所は次のような文脈である。

「 さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている。」
「だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう。」

どうやら、ここで戸坂潤はカッシーラーが科学を自然科学としてしか捉えていないことに不満を持ち、自然科学を超えた科学一般として扱っていないことを欠点と見ていることが分かる。ただ、ここでは「シンボル形式の哲学」という書名への言及はなく、カッシーラーのそれ以前の書物に基づいているのではないかとも思われる。私は戸坂潤のこの文章全体はまだ読んでいないし、理解できるかどうか分からないし、リッケルトの思想についてもまったく知らない。しかし、逆にこのことがマルクス主義を含む現代思想の多くに見られる科学思想の欠陥というか誤りにつながっているのではないかという疑いを持つのである。

究極としての物理学を一つの専門とする自然科学をさらに超えた科学一般というものがあり、そちらの方をより一般的で基本的な科学であるとするような考え方が、現在主流であるように思われる。どうもそこら辺に現代思想の重要な問題があるのではないかという気がするのである。もちろん自然科学とそれ以外の社会科学とか人文科学とかを含めた科学一般というものが何らかの形で存在することには間違いようが無いし、追求に値するものに違いはない。しかし一面で、それがより一般的であるにしても、重要さという点で、そちらの方に分があるとは思えない。それはあくまで一面であり、多分に幻想を含んでいると言っても良いのでは無いかと思う。

こういう点で私はこの難しいカッシーラーの思想に引かれるのである。

*書名:シンボル形式の哲学(四)、第三巻、認識の現象学、カッシーラー著、木田元訳