2012年3月12日月曜日

関裕二著「蘇我氏の正体」を読む


最近、近所の書店店頭に現れた「応神天皇の正体」という新刊本に興味をそそられたが、同じ著者の著作が文庫本でたくさん出ている。同じ書店の文庫本コーナーには新潮文庫で沢山並んでいる。また電子書籍でもPHP文庫で沢山でている。結局一昨日の夕方、新潮文庫の「蘇我氏の正体」をとりあえず購入し、この土曜日の夜から日曜日だいたい1日をかけて読了した。

この本は前半と後半とに大きく分けられ、前半では大化の改新の時代を扱っており、その時代の蘇我氏と聖徳太子、そして中臣鎌足と中大兄皇子らの関係に限られているため、比較的難なく読み進むことができた。

この前半の結論は、大化の改新という事件では蘇我氏の側に正義があったというものである。端的に言ってこの説にはかなり説得力があるように思われた。

というのは、古代史にしてもこの時代に限っても、特別に興味を持っていたわけでも、沢山の本を読んでいたわけでもなかったが、ただ、この本でも言及されている梅原猛著「隠された十字架」を過去に読んでいたからでもある。また竹澤秀一著「法隆寺の謎を解く」も、比較的最近に読んでいた。後者は法隆寺に関する梅原説を否定したとされているが、著者は建築家であって、ただ法隆寺の仏教建築としての様式が伝統に則ったものであって特別に異常なものではないという事から、梅原説のいう怨霊封じ込め説を否定しただけであって、聖徳太子や蘇我氏にまつわる歴史的な問題については何も考究しているわけではなかったように記憶している。少なくともこの二冊を読んだ記憶を考え合わせると、本書の前半の結論はかなり説得力のあるものと思われた。

後半の方は表題の本題である蘇我氏のルーツを扱ったものであり、こちらの方は時代的にも長期間、地理的にも朝鮮半島を含めた広範囲に及び、夥しい数の人名、神名が登場するため、かなり読むのに骨が折れるし、正直なところこの本の後半を読むだけでは殆ど把握できなかった。

結論的には次のようになっている ― 蘇我氏のルーツは古事記に書かれているとおり武内宿禰であるが、武内宿禰は同時に応神天皇の父親である。従って蘇我氏は天皇家であるということになる。その武内宿禰は天之日矛であり、天之日矛のルーツは「浦島太郎」であると考えられる ―。

この、後半部を理解するには古代史全般について相当な知識が必要だろうと思われるし、著者のその他の数多くの著書を読む必要もありそうである。

ここでも邪馬台国論争が関係している。個人的に邪馬台国論争に詳しいわけでは全くないが、比較的最近、森浩一著「魏志倭人伝を読みなおす」を読んだことは、邪馬台国に関係する部分では比較の対象になった。

「魏志倭人伝を読みなおす」では魏志倭人伝の原文も引用され、かなり難しい本であって、十分に理解も記憶もしていないのだが、邪馬台国に対する魏、すなわち当時の中国の影響あるいは干渉が相当に大きなものであったことが述べられている。中国から派遣された役人が邪馬台国の政変に関与していたということになるだろうか。そういう、この時代の中国の影響力についてはそれまで聞かされたことが無かったので、今までの歴史認識を変えなければならない様な気がしたものである。

「蘇我氏の正体」の方では、卑弥呼の後を継いだ台与が、そのまま神功皇后に重ねられている。ただその神功皇后のルーツがヤマトなのであるが、そのヤマトの実態が、この本ではブラックボックスになっているといえる。纒向遺跡が想定されているのかも知れない。「魏志倭人伝を読みなおす」では、台与は文字通り卑弥呼の後を継いだ女王であるが、卑弥呼は魏の役人の干渉もあって死に追い込まれたとされていた。「蘇我氏の正体」では、卑弥呼は天之日矛と台与によって討たれたことになっている。

この辺りの問題は、件の新刊本である「応神天皇の正体」では進展があるのかも知れない。ただしこの関連での読書はしばらくお預けにしておこうと思う。

2012年3月10日土曜日

写真と文字、音楽と工芸




二か月ほどまえ、ちょっとしたついでの折に、携帯のカメラで何枚かの写真を撮った。それというのは、以前購入したガラス工芸作家の小品である小さな盃に白ワインを注いでみたのである。そうすると、うす黄色い透明なワインが注がれると、いかにもぶどうの果実を思わるように見えたのである。といっても普通の赤紫色をしたぶどうの外観色ではなく、皮をとったぶどうの粒か、それともマスカットのような色である。とにかくその器に注いだものをみるとぶどうの粒のような感じがして面白いものだなと思い、ちょっと写真をとってみたのである。しかし器が小さいのでそれひとつを撮るのも寂しいと思って、近くにあったものをとり合わせて何枚かとってみたのだが、撮った結果を見るとその時はどれもつまらない写真にしか見えず、そのままにしておいた。それをつい最近、携帯電話の画面で何気な見てみたところ、結構いいではないか、と思うのが一枚だけあった。それがこの写真である。もちろん自分でちょっといいなと思っただけで、他人が見てもいい写真に見えるとは思っていない。ただ、下にまとめた4枚の写真よりは写真として出来がいいと思ってもらえるのではないかと思う。


なぜこれだけがいいと思ったのか、考えてみると、他の写真と同様にCDケースと組み合わせて撮っているのだが、これだけは実はCDボックスであり、テーブルの上に立てることができたのだった。それでBEETHOVENの文字が上部の正面から右半分を占め、はっきりと読むことができ、写真全体のタイトルであるかのようにさえ見える。少なくとも文字の意味するところのベートーベンという人物のことが直ぐにわかるようになっている。CDボックスの四角い形とあいまって、その時はなにかモニュメントか墓碑のように見えたのかも知れない。そしてワインの盃はお供えのように見立てられたのである。撮るときはそんなことまで考えたことはなかったのだが。

下の、CDが写った写真では、構図的にも収まりが悪いが、ただありあわせのCDをなんとなく、特に意味もなく組み合わせただけという感じで、大した意味が感じられない。

やはり写真も、より具体的な意味が読み取れることでこそ、美しく見えるのだということに改めて気付かされたような気持ちである。とくに文字が映される場合、文字の意味がやはり重要な意味を持つのだなということである。文字の意味といってももちろん受取り手によって様々である。これがベートーベンとは気づかれない場合もあるだろう。しかしその場合でも、その位置と大きさ、書体などから何らかの重みのある意味を感ぜられるということはあると思う。

奥のほうに写っている陶器はどのように見られるだろうか。これは急須であって、機能的な意味ではあまり前の盃ともCDボックスとも関係がなく、偶然に写ったように見えるかも知れない。実際、取るときは本当によく考えもせず、構図に入れただけである。第一これは急須で合って、機能的にはワインともベートーベンとも、まったく別世界のものである。ただここでは急須には見えず、ただ陶器であることだけは誰にも見て取れると思われる。ただし一応は意識的に入れたように記憶している。ただ構図上、何かなければ寂しいと思ったのかも知れない。それにしても普通には、意味が感じられないと思われる。

ところが、後から気がついたのだが、これも意味的に、CDボックスに関連付けることができるのである。ただ、それは殆ど100パーセント、私個人による勝手な意味づけに終わるようなものである。しかし、説明を加えれば多少は分かってもらえる可能性のあるような意味づけであると言える。というのは、

BEETHOVENの下の行にやや小さい文字で、「ピアノフォルテのためのソナタ集」とフランス語で書かれている。その下にさらに小さい文字で書かれているのは古楽器による演奏という意味だろう。これは日本では「フォルテピアノ」と呼ばれるところの、ベートーベン時代の複数の古楽器によるベートーベンのピアノソナタ全集(演奏はパウル・バドゥラ=スコダ)だからである。

最近はCDといえば中古しか買わず、ボックス入りの全集などもまったく買うこともないのだが、最近はフォルテピアノの音色に魅せられているところがあって、かなり高価なボックスを購入してしまったのであった。なぜか、もちろん四六時中ではないにしてもピアノの音色に対する興味が頭から離れないのである。音楽のプロでも、アマチュアでもなく、楽器としてのピアノに関わりがあるわけでもなく、音楽の鑑賞者としてもマニアックには程遠いのだけれども、そうなのである。これについては1月6日の記事に書いている。

そのフォルテピアノの音色は陶器に例えられると思ったのである。現代ピアノの音を磁器に例え、それに対してフォルテピアノの音を陶器に例えるのがふさわしい、フォルテピアノの音色をうまく表現できるのではと思っていたのである。もっとも陶器の持つ土の感触はピアノの音色に比較するにはちょっと違和感があるかも知れないが、磁器を現代ピアノに比し、対にして考えれば結構当を得ているのではと思う。こんなことを考えていた事が無意識的に働いて、写真をとるときにこの陶器を配置したのかも知れない。

テーブルの材質が木目印刷の合成樹脂で味わいの乏しいのが大きなマイナス点。構図的にもおそらくイマイチだろうと思う。同じ構図で何枚も取っていれば多少はもう少し良いのが撮れたかも知れない。