2014年12月19日金曜日

鏡像の意味論 ― その4 ― 用語の意味から考える-その3(左右逆転と座標系)

1. 左右そのものが逆転する場合と解釈できる「左右逆転」の問題

前回は「左右逆転(反転)」という熟語が、「左右そのものが逆転している(左右が主語である)」とも受け取れるし、「何かあるものが左右において逆転している」あるいは「何かあるものの左右が逆転している」ともとれる可能性があり、「左右そのものが逆転している」と考えること、つまり左右そのものが本来の主語であると考えることは不自然で理解困難であるため、「何かあるもの」の左右が逆転しており、その何かあるものは「形状」とみるのが自然であるということを述べました。

しかし、抽象的な左右そのものが逆転するという表現が意味を持つことがあり得ないわけでもなく、この表現が理解可能になるような解釈ができる可能性もあります。その例が、前々回の記事(比較と変換の問題)の最後の方で述べたように、左右の意味を逆転させることです。本来の左が意味する対象に右という言葉を使用し、右が意味する対象に左という言葉を使用することです。人間の左右を考えると左右を入れ替えても見かけ上はそれほど変わらないようにみえますが、左右を上下に置き換えてみると、頭のある方を下であるとし、足のある方を上であるとする考え方です。しかしこれは言葉の定義ないし慣用に反します。要するにそれは間違いであり、虚偽であるともいえます。

人間の「上下」で考えると、そのような、意味を逆転させることは間違いで有り得ないことであることはすぐにわかりますが、左右の場合は問題は微妙なものになってきます。人間の左右の基本形は殆ど変らず、両手を比べてみても違いがあるとすれば大きさや長さであり、それらの違いも個人によりさまざまで、左と右の意味を交換しても大した不都合は生じない場合は有り得ます。それでも左と右を入れ替えることが間違いであることに変わりはなく、現実問題としても不都合が生じてきます。向かい合っている他の人の右側が自分の左側と同じ方向にあるからと言ってその人の右側を左側と呼ぶことは間違いであり、許されないことです。機械の場合も右のスイッチと左のスイッチを間違えると取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もあります。

しかし、間違いであることと、その間違いが生じうること、ケースによって間違いが生じる頻度に差が生じることとはまた別の問題です。また対象がヒトではなく道具などの場合、左右を取り違えても一概に間違いとは言い切れない場合もあります。ヒトの上下を間違えることはまずありえないことですが、他者の左右を間違えること、瞬間的にでも間違えることはあり得ることではないでしょうか。自分自身の左右を間違えることは事実上有り得ないでしょうが、他者の場合に左右を間違える頻度は結構高いように思われます。この点で、自分自身の鏡像は他人(他人の鏡像ではなく)の場合と同じではないでしょうか。

ふつう、鏡に映った自分自身の像を何気なく眺めるとき、特に左右の形が本当の自分自身の左右の形とは逆転しているとは通常、意識しないものです。そういう時、無意識的に、鏡に映った自分の鏡像の左右も自分自身の左右で判断している可能性が高いと言えます。しかしそのような場合、鏡像の前後も自分自身と同じ基準で判断しているとは考えられません。これも、鏡像ではない他の人物そのものの場合と同様です。自己鏡像の場合も、向かい合う他の人物そのものも同じことですが、向かい合う他者の姿の前後を自己と同一基準で判断するとすれば、顔、胸、腹の側を後ろとし、背中の方を前とみなければなりません。そう見るとすれば明らかに前後の意味が入れ替わります。人間の場合、顔や胸や腹がある方が前と決まっているので、そのような意味の逆転は有り得ません。したがって、この場合、前後方向の向きについては向かい合う人物像に自分自身の前後の基準を押し付けることはせず、自分の前後とは逆向きの前後を鏡像や向かい合う他者に適用するものです。そうすると左右方向の向きとの関係が通常の場合の逆になり、観察者本人の場合とは異なった関係になります。向き合っている対象が他の人物の場合は普通、少なくとも左右を確認する必要が生じた場合は、自分と相手の左右の方向が逆であることにすぐに気づくものです。それは、前後の向きが逆であることから左右の向きも逆でなければならないことにと気付くからであると言えます。しかし左右を確認する必要がない場合、無意識では相手の左右も自分自身と同じ方向であるものと感じている可能性は大いにあると思います。というのも、人物以外の対象、特に道具や機械などの左右はそれを使用する人物の左右の方向で定義されている場合が多いからです。

一般に道具や機械類の左右はそれを扱う人の左右に合わせられています。鍵盤楽器やパソコンのキーボードなどもそうで、ピアノを例にとってみると、高音部が右側で低音部を左側とみなすのが普通でしょう。紙面や文字、横書きの文章の場合も同様です。他方、乗り物の場合上下・前後・左右の関係は大体人間の場合と同様であると言えます。ピアノやパソコンのような場合は、前後方向と左右方向の関係は、ヒトの場合と異なったものになります。上下・前後・左右の三方向軸(六つの方向)を直交座標軸で表現するとすれば、左右の軸が逆転していると言えます。

このように、左右の方向自体がヒトの場合とは逆になっている認知は有り得ることで、対象がヒトである限り、このような逆転した認知は明らかに間違いですが、他者の場合では間違えることは有り得ることです。ですから、自己鏡像の場合も向かい合った他者の場合も、左右についてのみ間違えることがあり得ると言えます。上下と前後では仮装でもしていない限りそういう間違いはないといえます。この場合に自己鏡像と向かい合う他者との違いは、相対する人物像が他者の姿であるか自己の鏡像であるかという違いだけであって、左右の方向自体には何ら変わるところがなく、鏡像だからと言って現実の人物と異なった左右方向を持つということはありません。

こうしてみると、左右の意味を交換あるいは逆転させることは結構、日常的に、しかも必ずしも個人の恣意や個人的な条件に基づいているのはなく社会的な共通認識の下に行われていることであると言えます。したがって機械道具の左右は上下や前後との関係において人間の場合とは逆転していたとしてもそれは定義されているからであって、誤りとは言えないと考えられます。

しかし、一度ある種の物に左右が定まったら、それ以後は恣意的に左右を交換することはできません。ピアノの高音部を左側だと言えば他の人に誤解されるでしょう。

実物と鏡像の場合でも同様で、実物と鏡像で左右の意味を逆転させることは明らかに間違いであり、実物と鏡像の形状における違いを認知できていないことに他なりません。例えば右手を挙げている人が鏡に向かっている場合、鏡に映っている人物像も同様に右手を挙げているとみなす場合、鏡に映さずに直接見る姿と鏡像の形状の違いを認識できていないわけです。客観的に見るために右手を挙げている本人ではなく、横にいる他人が両方の姿を見比べられる位置にいるとしましょう。他人が両者を見比べれば明らかに両者が反対側の手を挙げていることがわかります。つまり全体としての形状の違いがすぐに判ります。右手を挙げている本人は自分自身の全体としての姿を見ることができないため、両者の形状の違いは直接、またすぐに認知することはできません。手や身体の一部は直接見ることができるにしても、身体全体としての姿は直接見ることは不可能です。そのため、鏡像と鏡像ではない、他人なら直接見ることのできる姿と見比べることは基本的に不可能ですが、身体感覚や写真の記憶や想像力、構成力、推理力などを駆使して、両者の形状の違いを認知することはとりあえず可能であるとみなすべきでしょう。しかしいつでも、誰でも、常に可能であるとは言えず、他者の鏡像を見る場合と同列に考察すべきではないと考えられます。。

このように考察を進めてくると、この、左右そのものを逆転させること、言い換えると左右の意味を交換するという認知現象は鏡像を含む空間認知に固有の現象ではなく鏡像を含まない空間における認知においても普遍的な現象であり、鏡像の場合に特有のケースとしては自己鏡像の認知の場合のみであるといえるでしょう。鏡像問題、すなわち鏡映反転現象のメカニズムは鏡像が自己の鏡像であるか自己以外の鏡像であるかには無関係であり、自己鏡像の認知に限られたプロセスは除外すべきです。鏡映反転現象は鏡像に関わる現象であり、当然鏡像認知に関わる領域と重なる部分はあると思いますが、自己の鏡像と自己以外の対象の鏡像の認知に共通する要素のみが鏡像問題の基本的な対象であり、観察者の自己鏡像に固有の現象は鏡像問題の重要ではあるが特殊な一ケースとして考察すべき問題です。

以上の考察から、「左右そのものの逆転」あるいは左右の概念の逆転、左右の意味を逆転させる認知現象の問題は、鏡像問題の基礎、少なくともあらゆる鏡映反転に共通するプロセスの問題からは除外すべき問題と言えるでしょう。

2. 座標系の概念を使用する説明と理論

鏡像問題の研究論文の中には、上下・前後・左右を座標系として表現している場合があります。座標系という概念を使用することについての是非や問題点についてここで論議することは避けたいと思います。というのも、そこには用語の選択と定義、同義語ないし類義語と英語との関係、意味の変遷等、問題が際限なく広がってしまうからです。個人的には上下・前後・左右を表現するために座標系という用語を使用することには違和感を感じ、必ずしも使用する必要はないと思いますが、目的によっては便利な場合があるかもしれません。具体的には上下軸と前後軸と左右軸という三つの三次元空間を表現する軸方向を定めるものだと言えます。

このような上下・前後・左右を表す三つの直交軸からなる座標系というものを想定した場合、この記事の最初に提起した問題、つまり「左右逆転」を左右そのものの逆転と解釈すること、左右が修飾語ではなくて主語であるとみる解釈に一つの意味が与えられる可能性が出てきます。端的に言えば左右そのものが逆転することは、左右の軸が逆転することだとみなせるわけです。

鏡像問題の研究書『鏡の中の左利き(吉村浩一著、ナカニシヤ出版)』と、吉村氏の英文論文『Relationship between frames of reference and mirror-image reversals(共著)』では、上下・前後・左右の三軸からなる「固有座標系」と、同様に上下・前後・左右の三軸からなる「共有座標系」が想定され、観察者が鏡像を固有座標系で見る場合と、鏡像を実物と共通する共有座標系で見る場合があり、鏡像を固有座標系で見る場合に左右逆転(形状の左右逆転)が観察され、共有座標系で見る場合に左右以外の逆転(形状の上下または前後での逆転)が認知されるという結論に到達しています。

正直な感想を言えば、この視覚対象を何らかの特定の「座標系を使用して」見るというプロセスがどのようなものか理解が困難であり、このような着想自体、概念が明確にされていない印象を持つものですが、鏡像を固有座標系で見る場合と共有座標系で見る場合に違いが生じるとすれば、同じ上下・前後・左右の各軸で構成されながら異なる構造の座標系を使用して見ることを意味しているものと想定できます。左右軸の場合に着目すると、これは左右の方向が異なる座標軸を用いること、すなわち、事実上は左右軸自体が逆転した座標系を使用することになり、前段 で述べたように、左右の意味を逆転させることに相当すると言えます。

さらに、やはり前段での一つの結論として、このような意味の逆転は間違った認知であるということです。間違った認知もそれ自体は生じ得ることですが、これも前段で述べたとおり、このような間違いはヒトの場合は上下や前後の認知ではあり得ないことです。そしてやはり前段における結論の通り、鏡像問題に適用した場合、観察者本人の自己鏡像の認知の場合にのみ考察対象となる問題であることになります。観察者本人以外の鏡像でこのような間違いが生じたとしても、それは鏡像ではない直接の対象でも生じ得る間違いと変わらないからです。すでに述べたとおり、これは鏡像認知ないしは視覚認知一般の問題であり、鏡像問題、鏡映反転の基礎的な要素からは除外できる問題であると言えます。

ただし以上の解釈は吉村氏が著書で挙げている実例には適用できないものです。教授の著書や論文で、共有座標系が使用されている場合として提示されている例は湖面に映る富士山、バックミラーに映る他者の像、水平の鏡に映ったろうそく等、いずれも観察者以外の鏡像に関するものである一方、観察者自身が鏡に正対している場合は固有座標系を使用する場合であり、必ず左右逆転(この場合は形状の左右逆転)が認知されるとされています。したがって上述の解釈は吉村氏の考え方とは異なることになります。

2014年12月13日土曜日

鏡像の意味論 ― その3 ― 用語の意味から考える-その2(逆転/反転)

左右逆転(反転)という用語について



鏡像問題の議論では「左右逆転(反転)」という用語ないし表現が頻繁に用いられるが、これは極めて簡潔な表現であるだけに、わかりにくい言葉である。というか、わかったように思われても、さらに理解を深めてゆくには問題を含んだ表現であるように思われる。あらかじめ概念が明確に規定された内容を定義した上でそれを簡潔に表現するのならわかるのだが、表現される内容自体が議論の対象である問題を含んだまま、簡潔に表現されているところに、問題があると思われる。その難しさというのは、この熟語で表現しようとしている内容は直観的なイメージであり、本来それを言葉で概念的に表現すること自体が、問題を解明することになるという側面を持つからではないだろうか。

左右逆転(反転)という用語は主語と述語を備えた文章ではないが、これを文章として理解する場合、当然、主語は何か?という問題になる。当然、ここには「左右」と「逆転」という言葉しか含まれないから、主語は「左右」で述語が「逆転」であると考えるのが順当というものだろう。しかし改めて「左右が逆転する」といえば左や右という抽象的な概念そのものが逆転するというさらに理解困難で難しい問題を理解することを迫られる。

そこで、ここに何か隠された主語があるのではないか?左右は主語ではないのではないか?ということが想定できる。そうだとすれば左右は修飾語であり、何かあるものが「左右において」逆転して[あるいは「何かあるものの左右」が逆転]いるのではないか?ということになる。ではその主語になるものは何かといえば、現在までの鏡像問題の議論としては「位置」、「距離」などのほかに「形状」が議論の対象になっているといえる。現実問題として、少なくとも当面は、この主語になるべきものは「形状」であるとみなされているといえよう。それを示すために上のような図を作ってみた。

この変な図が顔を表していることはわかっていただけると思うが、右側の顔では右のほほに星形の図形があり、左のほほには三日月形の図形があるのに対し、左側の顔ではその「左右が逆になっている」といえる。また眉を表す矢印の向きが「左右で逆になっている」といえる。こうしてみると、「左右逆転」の真の主語は形、すなわち「形状」であると考えるのが妥当であるといえるのではないだろうか。じじつ鏡像問題の最近の諸論文の多くでもこういう見方がとられているといえる。

しかし言語的な表現は極めて多様であって[文脈に依存する]、すぐ上の段落でも「左側の顔ではその左右が逆になっている」という表現や「矢印の向きが左右で逆になっている」というような異なる表現を使ってしまうのである。前者の表現では「左右が」というように左右を主語にしても別に不自然ではないのである。このようなところから、抽象的な左右そのものが逆転するという方向での考察が生じてきても不思議ではない。この面から生じる問題については、前回の記事、「比較」と「変換」という用語の問題で少し触れたつもりである。

一方、この図は平面図形であるうえ、リアルな顔の描画ではないと同時に単なる図形の集合でもなく、人の顔の意味をも持つ変なイメージである。また眉を表す矢印の向きが左右で反対になっている。鏡像問題は立体像の問題であり、現実には二次元のモデルだけで考察することはできないが、抽象的あるいは幾何学的な「形」という概念を取り出すには平面図形を使わざるを得ないといえよう。

さらにまた「形」と「意味」との関係の問題も浮上してくる。現実世界で左とか右が意味を持つのは人間とか道具とか、具体的な意味を持つ対象なのだ。実際、鏡像問題の対象は事実上すべてが人物である。あとは文字のように意味を持つ図形なのである。人物の場合、左右は、たとえば右手を挙げているかとか、右の顔にほくろがあるとか、左側にアクセサリーをつけている場合、あるいは顔が右を向いているか左を向いているか、などのように、すべて「意味」を表す表現であって、幾何学的な形状ではないので[幾何学的な概念をとおして形状と結びつくので]ある。ここから、形の持つ幾何学的側面と意味的側面の区別に関する考察の展開に道が開けてくるように思うのである。

*[]内は12/14日に追記