2014年12月13日土曜日

鏡像の意味論 ― その3 ― 用語の意味から考える-その2(逆転/反転)

左右逆転(反転)という用語について



鏡像問題の議論では「左右逆転(反転)」という用語ないし表現が頻繁に用いられるが、これは極めて簡潔な表現であるだけに、わかりにくい言葉である。というか、わかったように思われても、さらに理解を深めてゆくには問題を含んだ表現であるように思われる。あらかじめ概念が明確に規定された内容を定義した上でそれを簡潔に表現するのならわかるのだが、表現される内容自体が議論の対象である問題を含んだまま、簡潔に表現されているところに、問題があると思われる。その難しさというのは、この熟語で表現しようとしている内容は直観的なイメージであり、本来それを言葉で概念的に表現すること自体が、問題を解明することになるという側面を持つからではないだろうか。

左右逆転(反転)という用語は主語と述語を備えた文章ではないが、これを文章として理解する場合、当然、主語は何か?という問題になる。当然、ここには「左右」と「逆転」という言葉しか含まれないから、主語は「左右」で述語が「逆転」であると考えるのが順当というものだろう。しかし改めて「左右が逆転する」といえば左や右という抽象的な概念そのものが逆転するというさらに理解困難で難しい問題を理解することを迫られる。

そこで、ここに何か隠された主語があるのではないか?左右は主語ではないのではないか?ということが想定できる。そうだとすれば左右は修飾語であり、何かあるものが「左右において」逆転して[あるいは「何かあるものの左右」が逆転]いるのではないか?ということになる。ではその主語になるものは何かといえば、現在までの鏡像問題の議論としては「位置」、「距離」などのほかに「形状」が議論の対象になっているといえる。現実問題として、少なくとも当面は、この主語になるべきものは「形状」であるとみなされているといえよう。それを示すために上のような図を作ってみた。

この変な図が顔を表していることはわかっていただけると思うが、右側の顔では右のほほに星形の図形があり、左のほほには三日月形の図形があるのに対し、左側の顔ではその「左右が逆になっている」といえる。また眉を表す矢印の向きが「左右で逆になっている」といえる。こうしてみると、「左右逆転」の真の主語は形、すなわち「形状」であると考えるのが妥当であるといえるのではないだろうか。じじつ鏡像問題の最近の諸論文の多くでもこういう見方がとられているといえる。

しかし言語的な表現は極めて多様であって[文脈に依存する]、すぐ上の段落でも「左側の顔ではその左右が逆になっている」という表現や「矢印の向きが左右で逆になっている」というような異なる表現を使ってしまうのである。前者の表現では「左右が」というように左右を主語にしても別に不自然ではないのである。このようなところから、抽象的な左右そのものが逆転するという方向での考察が生じてきても不思議ではない。この面から生じる問題については、前回の記事、「比較」と「変換」という用語の問題で少し触れたつもりである。

一方、この図は平面図形であるうえ、リアルな顔の描画ではないと同時に単なる図形の集合でもなく、人の顔の意味をも持つ変なイメージである。また眉を表す矢印の向きが左右で反対になっている。鏡像問題は立体像の問題であり、現実には二次元のモデルだけで考察することはできないが、抽象的あるいは幾何学的な「形」という概念を取り出すには平面図形を使わざるを得ないといえよう。

さらにまた「形」と「意味」との関係の問題も浮上してくる。現実世界で左とか右が意味を持つのは人間とか道具とか、具体的な意味を持つ対象なのだ。実際、鏡像問題の対象は事実上すべてが人物である。あとは文字のように意味を持つ図形なのである。人物の場合、左右は、たとえば右手を挙げているかとか、右の顔にほくろがあるとか、左側にアクセサリーをつけている場合、あるいは顔が右を向いているか左を向いているか、などのように、すべて「意味」を表す表現であって、幾何学的な形状ではないので[幾何学的な概念をとおして形状と結びつくので]ある。ここから、形の持つ幾何学的側面と意味的側面の区別に関する考察の展開に道が開けてくるように思うのである。

*[]内は12/14日に追記



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