2012年1月18日水曜日

「ゲーテとの対話、第二部」読了


エッカーマン著「ゲーテとの対話」(山下肇訳、岩波文庫)の第二部、文庫本の中巻を読み終わった。日記形式で書かれているので、電車の中など、毎日すこしずつ読むのに最適であった。この巻の最終日の記事にゲーテの死が描かれている。と言っても著者がゲーテの臨終に立ち会ったわけではなさそうだが、ゲーテの亡骸に対面している。顔だけではなく、裸の胸や手足まで布をとって見せてもらい、美しさに感動したという。

この日の記述に含まれているゲーテの語った内容は、死の数日前にエッカーマンに語った言葉なのであろう。それに相応しく重要なことが語られていると思う。この書物に含まれるゲーテの思想の中でも特に有意義な内容ではないだろうか。

その中から少し抜書をしてみる。
「詩人が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう詩人でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」

ここでゲーテは詩人という言葉で文学者一般について語っているのだが、ここで語られていることはそのまま科学者にも、学者一般についても当てはまることだろうと思う。

もっとも、学問といっても経済学や政治学、さらに詳細な実践的な部門になればどういうことになるのかはちょっと判断に困るのではあるけれども。

とにかくこの問題は現在の日本の状況においても切実な事柄であるように思われる。

ソ連邦の崩壊以降、社会主義、共産主義のイデオロギーも崩壊したように言われている。それ以降、社会主義だけではなくイデオロギー一般というかイデオロギーそのものに対して疑惑の眼が向けられるようになった傾向がある。しかし現在の状況をみると相変わらず各種のイデオロギー活動は盛んであるように見える。

端的に言って今、反原発運動がイデオロギー化しているように感じられる。もう少し幅が広くなるがエコロジー運動もそうである。

科学者や文化人が党派的になっている傾向が強く感じられるのである。

ひとたび反原発の陣営に組み入れられると少しでも原発推進派に有利に働くと思われる事柄はすべて否定しなければならなくなってしまう。その典型的な例が低線量の放射線リスクの問題である。現在の時点で閾値とされる値よりもはるかに少ない低線量を問題にして危険を云々するのは愚かにみえるのが健康な常識人からみた印象であろう。

ゲーテが詩人について語った先ほどの引用個所の「詩人」を「科学者」に置き換えてみよう。

「科学者が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう科学者でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」

2012年1月12日木曜日

「再生可能エネルギー」の意味 ― 「胡散臭い」ひびき?


再生可能エネルギーという言葉が使われる頻度が着実に増してきているようだ。

去年、この言葉を使用した法律案が提出される頃の話、ある日曜日、昼のテレビ番組でコメンテーターのK氏がこの法案について「胡散臭い」という表現をしていたのが記憶に残っている。

たしかに、脈絡なしでこの言葉を聞いただけでも何か胡散臭いという感じがする言葉である。もちろんこのような言葉はいくらでもある。極端な話、言葉、言語そのものが胡散臭いといえば言えないこともないが、それを言ってしまえばお終いということになろう。

ともかく法律にまで使われている言葉である。きちんと意味を明らかにしておく必要がある筈である。

ちょうど昨日読み終わった書物、内橋克人著「浪費なき成長」に、この言葉が次のように定義されている。
「地球の自然環境のなかで繰り返し再生している現象を利用する無限に近いエネルギー。風力や、バイオマス、太陽光・熱発電など」

この定義は一応、論理的な定義であると思う。これによれば「再生可能」というのは「自然現象」にかかる修飾語であり、エネルギー自体を修飾しているのではないことがわかる。しかし普通に使われている「再生可能エネルギー」あるいは「再生エネルギー」という言葉をそのまま聞いた印象ではエネルギー自体が再生されるとかいう意味になり、実際多くの人はそのような印象を受けるであろう。

この場合、エネルギーという言葉が物理的なエネルギーを指していることに疑う余地はないが、物理的なエネルギーについてはエネルギー保存の法則という大原則がある。その不滅である筈のエネルギーが再生するとか再生可能であるということの奇妙さがまずある。まだ「再生可能」ではなく「再利用可能」であれば何らかの意味があるのだが、それはこの場合当てはまらない。

次に、先の内橋氏の定義が正解であるとすればそのような現象、つまり風や太陽光・熱などが再生しているというのはわかるが、「再生可能」というのは意味不明ではないだろうか?風は地上の何処かで自然に吹き荒れているし、太陽光は常に何処かに降り注いでいる。何が「可能」だというのであろうか?「可能」をつけることにどの様な意味があるのだろうか?

いずれも自然に再生されているとは言えるが、また自然に途切れる場合もある。特定の場所で風は止むこともあり、太陽は雲に隠れることもある。それらのコントロールが「可能」であるならそれは大した技術であるといえるのだが。ちなみに水力はダムによってこのコントロールが可能になっていると言える。
要するに「再生」あるいは「再生可能」が自然現象にかかる修飾語であるとしてもおかしいし、エネルギーにかかる修飾語としてもおかしいのである。

結局この「エネルギー」を「エネルギー資源」とすれば分かりやすくなる。エネルギー資源を簡単にエネルギーと言うのだという事かもしれないが、エネルギーとエネルギー資源は全く異なった概念である。略称という考え方もあるが、略称の場合はちゃんとした正式な名称があってのことである。また「再生」であるのか「再生可能」であるのかも決まっていないようだ。

この場合は日本語と英語のニュアンスの違いによる面があるかも知れない。英語では恐らく「reproducible」に決まっているのだろう。

しかし端的に無尽蔵エネルギー資源とでも言えばそれで済むことではないだろうか、「再生可能エネルギー」とは何か思わせぶりで「胡散臭く」思われても仕方が無いだろう。とりあえず少なくとも「資源」を付けて「再生(可能)エネルギー資源」と呼ぶべきだろうと思う。

そこで「再生可能エネルギー資源」と変えた場合、印象はどの様に変わるだろうか?

単にエネルギーというのではなく「エネルギー資源」になると、かなり具体性が出てくるように思われる。そしてさらに具体的にその資源とは何をさすのであるかという問題が浮かび上がってくるように思われる。

この問題を考える場合に及んで始めて「再生」と「再生可能」との違いが意味を持つようになってくるといえる。太陽光や風力、あるいは水力の場合は「再生」という表現が最適であるとは思えないが、まあとりあえず自然に、不規則ではあるが「再生」されているとは言える。「再生可能」にあたるのはバイオ燃料のことであろう。とくに穀物や燃料用作物を栽培する場合は「可能」が重要な意味を帯びてくる。

天然林の薪などを使う場合はまたこの「可能」の意味合いも異なってくる。天然の森林は人間がコントロールして再生しているとは言えないからである。それでも常に再生はしている。

さらに、石油石炭、天然ガスなどの化石燃料の場合も「再生可能」ではなく自然に「再生」される範疇に入ると考えられる。ただし地質学的スケールで進行する現象だけに、人間的スケールでは「再生」とも「再生可能」とも言うことはできないということであろう。しかし埋蔵量のことなどを含め、わからないこと、解明されていないこと、あるいは隠されていること、公表されていないことなどが多すぎる。

この様に見てくると、事実上、すべてのエネルギー資源は再生エネルギー資源または再生可能エネルギー資源といって差し支えない。ところが、例の再生エネルギー関連の法律では事実上太陽光発電と風力発電のことを意味しているとみなさざるを得ない。再生可能エネルギー資源といってもその意味合いは千差万別であるから、この様なカテゴリーを使うことに科学的な意味は無いのである。

具体的に風力発電とか太陽光発電などといえば良いのである。風力発電と太陽光発電の2つをまとめる必要があるのであれば「気象エネルギー」という言い方が適当だと思われる。いずれも気象に左右されるからである。

いずれにしてもエネルギー資源を「再生可能エネルギー」と「非再生可能エネルギー」の2つに分ける二分法には何の意味もなく誤解や欺瞞が入り込む隙間だらけであるといえる。


2012年1月6日金曜日

ピアノの音色について



多くの人と同様、私は音楽が好きでピアノ音楽も好きだが、もちろんピアニストでもなくピアノが弾けるわけでもない。またピアノという楽器に関わる仕事を経験したこともないし、楽器を購入する予定があるわけでもない。また、どのような意味でも音楽のプロではなく、素人としてでも音楽活動といえるような体験はなく、音楽のマニアと言えるほどの趣味人でもない。

クラシック音楽が好きだが、正直なところ鑑賞能力が高いとは思っていない。難解な曲が鑑賞できるようになるまでには相当な年月がかかった。いつまでたっても馴染めないような曲も多い。

第一耳、あるいは音感と呼ばれるものがそれほど良くないのだろう。単に耳とか音感といってもいろいろな意味合いがあるが、音痴ではないものの、和音を聞き分ける能力とか、リズムを聞き分ける能力といった高度なものから、単に聞こえる周波数範囲といった即物的なものにいたるまであまり高級な耳を持っているとは言えない。

また「耳」とは別に、精神的な集中力がないという点が致命的な欠点がある。集中力は特に音楽に関係が深いように思われる。

そういう人間であるにもかかわらず、私の中で音楽の占める重要度は相当に大きい。考え事をする時も、その中に音楽について考えることが占める割合はかなり大きいのである。もっともこういうことは断るまでもない事かもしれない。ジャンルが何であれ、一般人が切実に音楽を求めるからこそ職業音楽家が存在できるわけであるのだから。

最近はピアノの音色についてあれこれと考えることが多い。具体的にいえば、特に現代ピアノの音とフォルテピアノと呼ばれる旧式のピアノの音色の違いについてよく考える。もちろん実際の楽器の音を聞く機会はめったに無いし、特にフォルテピアノの実演を聞いたことは恐らくない。もう昔になるが、東京の何処かで開催されたベートーベン記念の展覧会を見に行ったことがあり、ベートーベンが使用したピアノを見たことがある。しかし記憶ではその演奏を聞くことはできなかった。

という次第で、当然すべて録音での話であるが、旧式のピアノを聞いた記憶は相当古くから、若い頃からあるにはある。ただ、やはり古い音だなあ、というか中途半端な音だなあという程度の印象しか持ってなかったところ、たまたま購入した歌曲のCDの伴奏でフォルテピアノの音に接した時に、その音色に魅了される経験をした。そのCDは手放してしまったが、エリー・アメリンクのソプラノ独唱、ピアノ伴奏がイエルク・デムス、そしてクラリネットがダインツァーという人の演奏であった。その、デムスが弾いていた楽器がフォルテピアノで、シューベルトとシューマンの、女声向けの優雅で優しい歌曲に実によく合っていた。ただ、この時はこういう曲には合っているなという印象をもったことと、一般家庭で使用するピアノはこういう音色のほうが良いのではないかと思ったが、ベートーベンやショパンなどの多くの名曲がこういうピアノで演奏されるべきだとまでは思わなかったし、今もそう思うわけでもない。

そんな時、別の切り口からバッハの鍵盤音楽と楽器との関係について考えるこ機会が出てきた。といってもバッハの鍵盤音楽を色々聞き比べた結果として考えるようになったわけではない。だいたい私にとってバッハはあまり馴染みやすい作曲家ではなかった。もちろんバッハの曲にも、一度聞いただけで好きになれた曲も沢山ある。ブランデンブルク協奏曲のような管弦楽曲や協奏曲はどれもそういう曲風である。フルートなど管楽器のソナタもそうだ。しかし、バイオリンやチェロの無伴奏組曲などは鑑賞して楽しめるようになるまで随分年月を要した。そして鍵盤音楽もその部類であった。

鍵盤音楽の場合、馴染めなかった理由の1つはやはりフーガの難しさである。もちろん音楽技法の知識が無いこともあるだろうが、やはり集中力のなさによるところが大きいのだろう。しかしフーガではない場合も何か抵抗を感じる場合が多かった。比較的最近になってそれはピアノの音色によるものではないのかなと思うようになったのである。それは、思い出したのはフォルテピアノの音色の魅力に目覚めた以降のことである。

平均律ピアノ曲集など、バッハの鍵盤音楽をラジオ放送などで時どき聞くことはあったが、バッハのこの種の音楽のピアノ演奏に限って何かいたたまれない寂寥感を感じていたのである。それはもしかしたら現代ピアノの音色のせいではないかと思うようになった。それで昨年、中古CDショップで平均律クラヴィーア曲集の第一巻をレオンハルトによるチェンバロの演奏で、第二巻をアンドラーシュ・シフによるピアノ演奏で、購入して時どき聞き比べてみたのである。同じ曲ではなく、片方を第一巻、もう一方を第二巻とするところなど、我ながらけちで欲張りだなと思う。

気まぐれな聴き方だが、折りを見てこの2つのアルバムを聞いているが、どうしてもチェンバロの演奏の方を聞きたくなるのである。ピアノの演奏は音色の冷たさからくる寂寥感が耐えられないようなところがある。もっと本質的な部分を聴きとるだけの鑑賞力が無いからかもしれないのだが・・・。というのもフーガをよく鑑賞することはやはり、今もできない。

もっとも、チェンバロの音色がそれほど好きだというわけでもない。チェンバロの音が嫌いだという人は多いようだが、私にもその気持はわかる。はっきり言って音量が大きくなるとガシャガシャとした音がうるさい。しかし、ピアノにない荘重さを持っていることも確かである。そして何よりも現代ピアノの冷たい音色ではなく温かみがあり、現代ピアノの演奏で聞くときの何とも言えない寂寥感が消えているといってもいい。

あの寂寥感は何なのだろうか。曲が本来持っていない内容、この場合は寂寥感がピアノの音色だけから生じるのだろうか・・?バッハの音楽との相性でそうなるのだろうか・・?わからない。またこんなことを感じるのは私だけなのだろうか?一般に平均律クラヴィーア曲集はピアノによる演奏が圧倒的に多そうである。どうもわからない・・・。

そんな訳で、現代ピアノよりも温かい音色であるフォルテピアノによるバッハを聞いてみたいと思うようになった。

そんなとき、パウル・バドゥラ=スコダ演奏のフォルテピアノによるベートーベン、ピアノソナタ全集の広告が目に入った。バッハをフォルテピアノで聞いてい見たいと思っているときで、ベートーベンをフォルテピアノで聞きたいと思っていたわけではなかったが、宣伝文につられて、めったに買わない高額のCD九枚組セットを注文してしまった。

このアルバムに関するコメントはまたいつか改めてまとめてみようと思うが、このCDを聞いてから思いついたことのひとつに、シューベルトのピアノ曲をフォルテピアノで聞けばどうだろうか、ということがある。

というのは、シューベルトのピアノ曲、ソナタや即興曲や連弾曲、その他の小品など、若い時にLPレコードでよく聞いたが、ある時期から聞かないようになった。それというのも、どの曲にも、長調の明るいはずの曲にも潜んでいるあまりにも冷え冷えとした深い孤独感に耐えきれない気持ちになってきたのである。それはもちろんピアノ曲だけではない。弦楽四重奏や五重奏曲にもいえる。もちろん歌曲にもいえるし、交響曲にも言える。しかしピアノ曲にはピアノの音色独特の寂寥感がやはり感じられたように、いまになって思うのである。当時はそういう次第でシューベルトの曲は段々と聞かないようになり、ブラームスをよく聞くようになった。ブラームスの曲もそういう要素が無いわけではないが、まだ生ぬるさというと言葉が悪いが、そういうところがあり、シューベルトの場合ほど落ち込むことはないような気がする。

こういう次第で、シューベルトのピアノ曲、つまり独奏曲や連弾曲などをフォルテピアノで聞けばどういう印象だろうかという興味が沸き起こってきた。確かに最初の方で触れたフォルテピアノによる女声歌曲の伴奏では現代ピアノには無い暖かさ、優しさが感じられたことは確かなのである。

そんな時、やはり垣間見た音楽雑誌の記事でリュビモフというロシア人ピアニストが旧式のピアノで演奏したシューベルトの即興曲のCDが出ていた事を知った。またその後訪れた中古CDショップでそれが見つかったのである。中古にしては高い方だったが、とにかくタイミングがよかったこともあり購入した。

今もあり、かつて聞いていたこの曲のLPレコードはエッシェンバッハによる演奏のもので、この曲の演奏として文句のないものであった。一ヶ所だけだが今も鮮烈に耳に残っている箇所がある。ロザムンデのメロディーによる変奏曲の最後から2番目の変奏曲の終わり、消え入るような弱音の箇所である。

今回のリュビモフの演奏は、基本的にこのLPで聞いていたエッシェンバッハの演奏とそれほど異なるという印象はない。使用された楽器の音色は解説にもあるように入念に選ばれたようで、フォルテピアノの中でも特別に美しい音色の優れた楽器が選ばれていることはわかる。ただ、この曲集全体、隅々まで行き渡っている冷え冷えとした音色はやはり、この曲集の曲想自体が持つところの本来のものだろう。フォルテピアノであるからといって、曲自体が明るく朗らかな音調になるということはないようだ。

しかし、やはり、フォルテピアノ独特の潤い、温かみというものは感じられるのであって、それは純粋な曲想に付加されたものといえる。但しそれが作曲者の意図を超えて付加されたものとは思わない。作曲者のシューベルト自身はあくまでフォルテピアノの音色を聞きながら作曲していた筈である。逆に言えば、純粋な曲想自体は作曲者の意識していたイメージとも別物であるかも知れないのである。

この音質、音色は言葉ではどう表現すれば良いのだろうか。簡単にいえば何度も言っているように温かみがあるといえることは確かである。もちろん不満もある。響きの深さ、厚み、純度、密度といったものは確かに現代ピアノの方で得られるものだと思う。

もう少し立ち入って表現してみれば、次のようにも言えると思う。何か人々の社会的な空間、といったものを感じるのである。シューベルトはいつも友人に取り囲まれて生活していたそうだが、そういう生活空間のようなものが音色から感じられるのである。それは純粋な、あるいは抽象的な曲の本質とはまた別のものであるかも知れないのだが、あくまで作曲者自身のイメージにあった音調であったに違いないと思えるのである。

こう考えてくると、バッハの場合とシューベルトの場合とは事情が異なるようだ。バッハの場合はあくまで現代ピアノの冷たい音色が余計な付加物を付け加えているのではないかと思うのである。もちろん、これは特にフーガの部分などを含め、私の個人的な鑑賞能力の及ばない広大な領域を無視した、狭い世界での印象に過ぎない。


ただ、この一文はバッハの音楽論でもシューベルトの音楽論でもなく、強いて言えば「音色と音楽」論、あるいは「音色と音楽の意味論」とでも言いたい内容と考えているので鑑賞力の不足はこの際容認されるものと思う。

楽曲の本質とは別のところで、楽器の音色自体に由来する寂寥感、冷たさというものはあるのではないかというのが一応の結論である。それが個々の曲調、作曲者による曲調によって独特の現れ方、異なった発現のしかたがあるのではないかと思うのである。

さらに、現在のピアノは音色の点でまだ変化、進化の余地があるのではないかという期待感もある。

2012年1月4日水曜日

元旦に見た報道番組2本の印象


(テーマ別に複数のブログサイトを持っているせいで、どのブログに投稿しようか迷うことがあります。今回の記事は特に迷いましたが、とりあえずここに落ち着きました)


1日の午後、NHKオンデマンドで衛星放送の報道系番組2本を続けて見た。1つは「ソビエト崩壊20年」という番組で、プーチンのロシアシリーズの1つである。国際共同制作というのでどういう意味があるのかと思ったが、Brook Lappingという名前が出ているだけで、何処の国のどういう団体であるのかも分からない。ネットで調べるとロンドンにあるイギリスのテレビ番組制作会社であることがわかった。このような場合、イギリスの制作会社であるBrook Lappingとの共同制作といえば良いのであって、何も国際共同制作などという大げさな言い方はしないほうが自然ではないのだろうかと不審に思う。見た印象では、実質的にBrook Lappingで制作された番組といって良さそうな感じだったが、最後の字幕をみると、結局はBrook Lappingで製作された番組の日本語版を日本で作成したというだけのように見える。英語版と日本語版以外にもあるのだろうが、別に日本のスタッフとは関係あるとは思えない。そうであるなら、イギリスのBrook Lapping制作番組の日本語版として放送すべきだろう。という次第で、世界的にマスコミの偏向報道が問題になっている昨今、こういう触れ込みでの放送は印象が悪い。内容的にどうこういうだけの見識を私は持たないが、ただ最近の日本のドキュメンタリーで過剰に使われる音楽が一切使われていなかっとことは気持ちが良かった。その分映像テクニックが目立ってくる。それとナレーションだ。ただ見終わっても大した充足感がない。断片的な映像や政治家の発言を切り離して参考に出来るだけの識見がある人が見ればそれなりに得るところがあるかも知れないが、結局ナレーターが話すストーリーと解釈を聞かされるだけという印象。


続いて見たもう一本は経済評論家の内橋克人氏への長時間インタビュー番組である。世界と日本の現在の政治と経済への批判が基調になっていて、いずれも納得できる内容で、大いに氏への共感が持たれるわけだが、その解決策として氏が提唱する「理念型経済」の説明のところまでくると、端的に言って失望である。「理念型経済」の思想そのもは個人的に良く理解していないし、おそらく豊かで示唆的なものを多く含むものであろうと推察するものの、具体的な方策となるともう、はっきり言ってエコロジー運動にみられる欺瞞をそのまま受け継いでいるように思えるからである。本ブログの先般の記事「梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える」で考察した大きな問題を孕んだところの、言葉を換えると、欺瞞に立脚したところのエコ思想そのものである。

内橋克人氏も少なくとも次の3つの大なる欺瞞をその思想の主要な砦としているように見える。すなわち、CO2温暖化論と放射線リスク直線仮説、そして太陽光発電と風力発電をメインとする「再生エネルギー」に対する過剰な期待である。少なくともこの3つを砦とせざるを得ないとすればそのような思想あるいは「理念」はかなりいい加減なものと言わざるを得ないと思う。

氏自身は「夢ものがたりと思われるかも知れないが」というが、遠い未来の夢物語でもそれはそれで「理念」として存在価値があるかも知れないが、欺瞞を根拠に現在でも実現可能というのであればそれは否定せざるを得ない。

この辺りが本来の自然科学者でも科学技術者でもない人文科学系の文化人の一つの限界のように思われる。もちろん絶対的な限界というわけではないものの、一つの壁かもしれない。

ネットで氏の「理念型経済」を検索してみると「浪費なき成長―新しい経済の起点」という氏の著書がアマゾンのサイトでヒットし、マーケットプレースに中古品が1円で出品されている。送料を入れて251円で購入できるので注文した。もうすこしこの辺りのことを考えてみたい。内橋克人氏のような人物がこういった欺瞞にしがみついているのは本当に残念なことだと思う。