2017年4月26日水曜日

鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)

【今回のキーポイント】
  1. 鏡映反転のプロセスには鏡映対をなす2つの像が成立するプロセスと、この2つの像を比較するプロセスとの2つの主要素に分けられる。前者は基本的に幾何光学的プロセスであり、後者は認知プロセスである。
  2. 2つの像を比較することは詰まるところ2つの像の差異を認知し、その差異を表現することである。従って比較される2つの像に客観的に識別できる差異(観察者個人の認知ではなく科学的に表現できる差異)があるかどうかを判定しなければならない。
  3. 2つの像すなわち鏡映対のあいだに客観的に(科学的に)表現できる差異がなければ鏡映反転は純粋に認知の問題であって幾何光学的プロセス、言い換えると物理的プロセスとは無関係であることになるが、客観的に(科学的に)表現できる差異がある場合は観察者がその差異を認識できるか、またどのように表現できるかが、認知の問題となる。
  4. 2つの像を客観的に、すなわち科学的に比較するための方法として幾何学的な形状の比較以外にありえない。形状には当然、表面のパターンや色の分布も含まれる。
  5. 認知過程としての比較プロセスは思考過程である
  6. 鏡映対は同形ではなく互いに対掌体であることが明らかにされている。したがって両者には幾何学的に表現できる差異がある。 

前回のとおり、像、光、および物体の三者の区別が必要であることは鏡像問題においてこの三者の存在が前提になっているからですが、仮にも鏡像の問題、鏡映反転に限らず、鏡像が関わる事象では、この三者と観察者の存在が前提になります。この三者と観察者を含めた四者間の関係は単に「科学的に」規定できるようなものではないと私は思います。科学以前の常識あるいは科学を超えた認識論的視点にも焦点があてられる可能性があります。というのも、光と物体は物理的な存在であるのに対して像は物理的な存在ではなく、観察者の直接的な認知対象であり認知内容ともいえるものであるからです。しかし逆にいえば、認識論的な問題や主張を科学面から検証することにつながる可能性もあると考えられるわけで、そういう意味でも鏡像問題は単なる一つの問題ではなく、きわめて意義深いものになるのではないかと思う次第なのです。

観察者を除き、三者のうち物体としては鏡と鏡に映る物体の2つですが、光(正確には光線)は普通物体とは言われません。ただし物体と光は共に物理的な存在であり、物体と光との関係を科学的に説明するには物理的な関係として説明する以外にありません。これだけで、仮にも鏡像が関係する問題には物理的な関係あるいは条件の関与は必須条件であり、いかなる具体的な状況であれ、物理的な条件を抜きに心理的な条件のみで鏡像問題を語ることはそれだけで間違いであるか不完全であることは自明ではないでしょうか?光と物体との相互関係を無視しては鏡像の問題は消えてしまいます。これは自明のことです。鏡像問題それ自体は数学の問題のように厳密に規定されていないとはいえ、鏡像を他の像から区別する意味がなくなってしまえば鏡像の問題ではなくなりますからね。

 さらに、物理的といってもここで問題になっているのは光と物体との関係であり、それも鏡像に関わる限りの関係ですから、それに関わる物理学の分野としては必然的に光学、それも幾何光学を置いて他に考えられません。確かに光が物体に作用して物体の運動や化学変化に影響を与えることもあるでしょうし、眼の仕組みに関しては実際にその種の作用が問題になるでしょうが、それは像が成立する以前の問題であり、本文のタイトルのような像、光、および物体の三者の関係では眼の構造や原理については捨象、つまり消去して考える他はないので、鏡像の問題に関わる物理学としては幾何光学だけで十分といえるでしょう。

ところが、例えばMorris説を読み始めると鏡映反転を説明する理論としてのPhysical Rotation(物理的ないし身体的回転)説 やMental Rotation(心的回転)説などが光学説と共に、並列的に列挙されています。次に引用してみます:「Many psychological explanations have been advanced to explain left-right reversal in mirror images, but Gregory and Haig have each proposed a physical explanation for the reversal.(多くの心理学的説明が鏡像の左右逆転の説明を進展させたたが、そこにグレゴリーとヘイグがそれぞれ「逆転」についての物理的な説明を提起した。)」ここではGregory(1987)「Physical Rotation」Haig(1993)の光学的説明が共に「物理的な説明として一括されているわけです。

このように、物理学としては幾何光学だけで十分だと思われる鏡像問題に、なぜか「物理的な回転」という説明が使われているのですが、この論文では従来説として次の4種の説明が列記されています:
  1. Optical Explanation(光学的説明):Haig(1993)
  2. Physical object rotation(物体の物理的な回転):Gregory(1987)
  3. Symmetry(対称性):Pearth(1952)、Ittelson(1991)
  4. Mental rotation(心的回転):Gardner(1990)
ちなみにMorris説では言及されていませんがMayo(1958)ではPhysicalとかMentalなどを付けずに単に「Rotation」として「Reverse」と比較対照されています。「3」の対称性についていえば、対称性自体は幾何学的な概念または性質であって物理的プロセスではありませんが、「2」のPhysical object rotationは「4」のMental rotationとどこが違うのでしょう?実際のところ、Gregory説のPhysical rotationとはつまり、鏡の前の人が鏡と向き合うために180度回転することをこう表現しているわけです 。「鏡と向き合うために」回転すると言っていますが、Gregory(1987)が実際に意図していることは回転する前の人の姿と回転後の人の姿を比較しているのです。つまり同じ人の2つの姿を重ねて比較しているのであって、回転運動は(鏡の前の人物本人ではなく著者が)2つの姿を比較するための手段なのです。最終的にはそれらの像を鏡像と比較するためというはないでしょう。 このような比較は本来、鏡像との比較が目的であったはずであり、つまるところ比較が目的であるという意味では「4」のMental rotationと同じで、どちらもMental rotationなのです。「4」のMental Rotationは、鏡像の方だけを回転することですが、これも実際に目に見えるように行うことは不可能なので、Mentalというのも当然でしょう。

Mayo(1958)では回転の他に、さらにReverse」や「Transform」が並行的に比較されています。その「Reverse」や「Transform」というは物体の各点が一つの方向だけで逆転することで、つまり鏡面対象の形に変形するということそのままであって、こうなると移動や回転といった物体の動きとしては不可能な変化で、あり得ない「変形」になってしまいます。

ここでこれ以上Gregory説Gardner説あるいはMayo説に深入りすることは煩瑣になるので避けたいと思います。以上の例で私が言いたいことは、これらの文脈でRotation(回転)やReverssal(逆転)など呼ばれているものはつまるところ二つの形状を比較するための操作であり、比較アルゴリズムともいえることです。これは物理的なプロセスではなく、むしろ思考プロセス、それも幾何学的思考のプロセスというべきです。それがMorrisではHaig(1998)の光学的説明と併せて物理な説明として一括され、心理学的な説明と対置されていたわけです。このような命名や分類は本人にとっても後に続く研究者にとってもミスリーディングという他はありません。

ともあれ、鏡像問題において物理学的なプロセスは幾何光学的なプロセスのみであり、後は光学的なプロセスで成立した2つの像を観察者が比較するプロセスであることが明らかになったわけです。

以上の光学的プロセスと認知プロセスのそれぞれについてさらに掘り下げる前に、従来説では鏡映反転という事象をこれらの2つの要素に分析することなく一つの現象として説明していたことに注目する必要があると思います。「鏡像問題は物理学で解ける問題なのか?心理学的に解くべき問題なのか?」というような二者択一的な問いかけもその表れといえるでしょう。

高野陽太郎先生が従来説のどれをも「単一の原理によって生み出される単一の現象とみなす点で共通していた」(認知科学VOL. 15, NO.3 Sep.2008)と解釈したのはこの点で部分的に理解できるものです。ただし引用部の後半「・・・単一の現象とみなす点で共通していた」には同意できますが、「単一の原理によって生み出される・・・」という規定は明らかに従来の諸説を歪曲した表現であると思います。例えばMorris(1993)はGardner(1990)を「Mental rotation(心的回転)」という一つの熟語で表現していますが、Takano(1998)は同じGardner説を「Conventional description hypothesis(言語習慣説)」と呼んでいます。「心的回転」と「言語習慣」とは全く意味が違いますが、こうなったのは結局Takano(1998)もMorris(1993)もGardner説の主張の一部を取り出してこの説を名付けているだけということでしょう。単一の原理を暗示するように命名したからといってGardner説を単一原理による説明とは言えないでしょう。Gardner説にも光学プロセスが潜んでいない保証はありません。いずれもGardner自身が自説にそのような名前を付けたわけではありませんからね。

高野先生はTakano(1998)においてGardner(1990)を引用していますが、そこでGardnerは次のように述べています「Such a reversal [mirror reversal] automatically changes an asymmetric figure to its enantiomorph」。ここでGardnerが言っていることは、鏡映対が互いに対掌体になっているということで、これは幾何光学的なプロセスが原因なのです。ですから、Gardner説には幾何光学的な帰結が前提として含まれているわけです。

高野説による従来説の解釈は詰まるところ、従来説において結論の前提となる諸々の条件を差し置いて結論の部分だけを取り出しているだけだと思います。高野説自体についてもそれが言えると思います。例えば高野説の「Type 1 Reversal(視点反転)」では観察者と鏡面と鏡像とを上から俯瞰した絵が描かれています。観察者自身が絶対に見ることのできない観察者自身や鏡の裏側に生じる鏡像を上から俯瞰したような絵はどうして描けるのでしょう?これは幾何光学の帰結を利用したものに他ならないのではありませんか?同様に「Type 2(光学反転)」についても、「Type 3(表象反転)」についても別個にイラストレーションがありますが、何れも幾何光学の帰結を描いたものであり、対掌体という表現を用いるとこれら3通りだけではなくすべての鏡映対の形状が対掌体という一つの言葉で表現できるのです。ですから対掌体に基づく理論では絵を描いたり、といったケースごとの具体的なイラストレーションは必要ないのです。これであらゆる鏡像問題の少なくとも前提となる部分については包括的な説明が実現されているわけです。(2017年4月26日 田中潤一)



2017年4月18日火曜日

鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないこと

【今回のキーポイントまたは結論】
  • 鏡映反転を含め鏡像の問題はすべて立体像すなわち三次元の像を基本として考察しなければならない
先回には像、光、および物体、三者間の区別の重要性について考えてみましたが、今回は鏡像の問題を考える際には必ずこの三者(三種類)の存在(存在形態)を想定しなければならないことを強調したいと思います。

例えば文字の場合、文字が物質性を持たない平面であること、さらに抽象的な記号としての形状であること、この二重の意味で物質性を持つ物体からは切り離して検討することできます。しかし、そもそも現実の鏡面で生じる鏡映反転という現象は、物質性を持つ物体を欠いては絶対に生じない現象なのです。

【光】
光は照明により物体から乱反射を介する場合と発光体がそのまま鏡に映る場合とがありますが、何れも光の存在が不可欠であることは自明のことでしょう。

【物体】
鏡については、これも物体ですが、この際一応鏡面という抽象的な機能が問題になっているので必ずしも物体としての鏡を想定する必要はないかもしれません。しかし、鏡面で反射する光の光源としての物体は、絶対に想定しなくてはいけません。そうして物体は常に三次元の存在であることも忘れられてはならないことです。

【像】
鏡像の問題なのだから像の存在が前提であることもまた自明であるといえます。ここで重要なことは、像は抽象的な形状つまり幾何学的な形状そのものではないことです。幾何学的な形状は像の属性と考えることができますが、像そのものは全体としても部分的にも何らかの意味を持つので、単に幾何学的な形状ではないということです。また像の存在は常に観察者の存在をも想定していることになります。

以上から、一つの帰結として、鏡像の問題は常に三次元の立体でなければならない物体の存在を前提として考察する必要があることがわかります。

何度も繰り返し取り上げて申し訳ないのですが、高野先生の「表象反転」は、抽象的な記号としての文字だけを他の場合と完全に切り離して全く異なった原理、つまり他のケースと共通する原理を含めずに説明している点でも、今回の要請からも容認できないものです。記号としての文字であっても鏡映が実現するには何らかの物体表面に書かれていなければなりません。どんなに薄い紙であっても、透明フィルムに書かれていようとも、質量を持つ物体なしに鏡像は成立しえないわけですから。

もちろん、抽象的な記号としての文字の鏡映反転を考察することは可能であるとしても、一つの付加的な条件として、すべての鏡映反転に共通する条件への付加的な条件として考察すべきものです。
(2017年4月18~20日 田中潤一)

2017年3月27日月曜日

鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すること

前回記事では「Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する」という副題を掲げていましたが、Morris説についてはTakano(1998)中の引用との関連で言及した限りで批判したまでで、そこで全体としてのMorris説について批判にはなっていませんでした。ただこれまで読込んだ限りで感じることは、既存の諸説についてOptical explanateion、Explanation based on symmetry、Physical rotation、Mental rotation、などと命名しているのですが、こういう命名が諸説をどこまで的確に表現しているか、あるいはこういう名称がその後に一人歩きして他人の研究に影響を与えすることで混乱が生じていないか、かなり危ういものを感じます。特に「Symmetry(対称性)に基づいた説明」を単に「Symmetry」という単語だけで見出しとして使用していることは非常に問題だと思います。


さて、前回記事と前々回記事ではHaig説における2通りの説明のうち最初の説明を私が高く評価していることがご理解いただけると思います。だからこそ、Haig説を「たらいの中の赤ん坊」に喩え、赤ん坊を流してしまったMorris説と高野説を批判していたわけです。というのも、この説明では鏡映反転において比較される対象は何(何と何)かという、本質的でありながら意外と忘れられがちな問題を浮び上がらせているからです。今回もまた同じ図を転載します:

この図では鏡像が表現されていません。それというのもHaig氏は光線という物理的な存在だけで説明しようとしているからですが、同じような状況で鏡像を表現した図を私が作成したことがあり、次にその図を掲げます:

この図ではHaig(1993)の点Eに相当するのが(A)で、Eの共役点Fに相当するのが(A2)です。

さて、鏡像問題のテーマそのものである「Reversal」、「逆転」、「反転」、「変換」などが論じられる際に、鏡像はいったい何に対して逆転しているのかを規定せざるを得ないはずですが、それがどうも自明と言うわけには行きません。初期の論文であるPears(1952)には「Counterpart」と表現されています。確かにそうですが、これでは何のことか分かりません。大抵の著述では「Object」あるいは日本語の場合「実物」と表現されることが多いようです。

「実物」と表現されることは一見、自明のように見えますが、本当に自明といえるでしょうか?自己鏡像の場合は言葉の上から当然、「自分自身」ということになり、多くの著者はそのように表現しています。しかし、肩から下の自分自身で見える部分は別として、自分自身では絶対に直接見ることのできない顔や頭部について、どうして逆転が観察できるのでしょうか?

他者鏡像の場合は確かに鏡像と同様に他者そのものを直接眺めることができ、場合によっては同一視野の中で同時に見比べることもできます。しかし幾何光学が明らかにしているところによれば、鏡像はその他者の表面から発散する光線が鏡に反射することで観察者の眼に見えるのであり、光線を眼で受け止めることによって見ているという点で、鏡を介さずに見る場合と全く同じです。つまり、他者から出る光線がいわば二手に分かれて違う方向から観察者の眼に到達することで2つの像を見ているのであり、その人物自身を見ているという点で両者に違いはありません。したがって、鏡映反転における「逆転」は「鏡像と実物(物体自体、本人自身)」との関係であるとは言えないのです。

以上のように、逆転は鏡像と、いわば直視像との2つの像を比較した上で観察されるものであり、一方が他方に「Transform」あるいは「変換」されたなどと考えることは誤った結論に導かれる原因になりかねません。

鏡像と対になる、あるいは比較される対象が「実物(物自体)」ではなく「直視像」とでも言うべき「像」であるといえる根拠は他にいくつも挙げることができます。例えば:
◆ 鏡像も直視像も照明光の存在で生じるものであるのに対し、物自体は常に存在している
◆ 色や平面パターンは眼で観察することで始めて認知されるものである。つまり物自体ではなく像に生じる属性である
◆  物の形状は幾何学的な計測で把握し、表現できるとしても、結局のところすべては感覚に基づいているのであり、そのようなデータも結局のところ「像」と言うほかはない

今は思いつかないものの他にも根拠はいくつも挙げられるように思います。

(以下、3月29日の追記です)
最後に、鏡映の関係が何と何との関係であるかを明らかにすることは鏡像問題の根本であり、これを曖昧にしたり取り違えたままでは鏡像問題になりません。高野説は文字の鏡映反転認知は文字の記憶と比較することで生じるとしています。このプロセスはレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったと言われる反転文字、いわゆる鏡文字が通常の文字とは逆転していることに気付くプロセスと何も変わりません。ただ逆転に気付くというだけの話であって、こうなればもう鏡像問題そのものを放棄したに等しいといえます。


 (以上2017年3月27日、29日 田中潤一)


2017年3月15日水曜日

鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する

鏡像の「像」、英語ではMirror Imageの「Image」とは何でしょうか?

幸いなことに、語源についてはいざ知らず、日本語の像と英語のimageはだいたい同じ意味で(専門用語としても一般用語としても)使われているようです。 ただ日本語の「像」は漢字の熟語として使われる意外には単独ではあまり使われず、かわりに「イメージ」が使われることが多いですね。

「像」も「イメージ」も実に多様な意味で使われています。そういったわけで像とは何かという議論になるとあまりにも多岐にわたる議論になって、とても収拾がつかなくなるでしょうし、鏡像問題の枠を超えてしまいます。ただし、鏡像問題で重要な要素である光学あるいは幾何光学的に定義される「像」については、明確にして理解しておく必要があります。というのも、そもそも鏡像が光の存在下で生じていることはまあ、光学の知識などを知らなくても普通の人なら理解しているとはいえますが、なぜ実際に鏡で見ているように見えるのかということは、光学の知識なしでは絶対に理解できないからです。本当は眼のしくみについても理解しなければならないはずですが、それは当面ブラックボックスに入れておくとしても、光の直進と反射の理屈を知る必要があります。

鏡映反転の謎はプラトンを悩ませたと言われています。プラトンのような超天才でも鏡映反転の謎が解けなかった理由の少なくとも一つは、プラトンの時代には幾何光学が成立していなかったためでしょう。プラトンは幾何学者ではあったけれども幾何光学はまだ存在もしていなかったというわけですね。しかしプラトンは当時のあり合わせの知識で安易な説明を付けて満足するようなことはしなかったわけで、これは逆にプラトンが真の科学者でもあったことを示すものだと思います。

ということで、鏡映反転の問題がまともに議論されるようになったのは光学の、少なくとも光の直進と反射の法則が明らかになった後、つまりヨーロッパのルネッサンス時代以降のことになるのではないでしょうか。 たとえば哲学者のカント。

数学者で科学者でもあったカントが鏡映反転の問題を考えたと言われています。これは私見ですが、カントはどうも鏡映反転の問題を考えているうちに、いつしかもっと抽象的な空間の問題に移行してしまい、具体的な鏡映反転の問題を置き去りにしてしまったように思います。というのは鏡映反転の問題からもっと抽象的な空間の問題に移行することで、後の学者などによって幾何学的な対掌体の概念がやがて明らかになってくるからです。ここではこういう歴史的な問題は余談ということにしておきます。(注:私はプロレゴ-メナの日本語訳しかカントの著作は知らないので、上記カントの考察について考えたことは、プロレゴ-メナから読み取れる限りのことです。)


さて、以上のような次第で幾何光学の基礎、少なくとも幾何光学における像の定義を知らずに鏡映反転のメカニズムを考察することは現代では無意味であることが分かります。

とは言え、幾何光学で「像」の概念が完璧に定義されているかといえば、必ずしもそうはいえず、「像」の本質を問うような議論はあまりされていないのではないでしょうか? ただし、幾何光学(この場合は結像光学という分野もあるようですが)で取り扱われる限りの実像と虚像の定義、少なくともそれらの像が成立する位置や大きさなどは厳密に定義されているはずで、それらを正しく扱わない限り、幾何光学を論じること自体が無意味です。

日本人の場合、少なくとも高校までに幾何光学の基礎、光の直進と反射の理論については習っているのではないでしょうか?例え習っただけで十分に理解していないとしても、 少なくとも専門家には鏡像成立のメカニズムが理解されていることを納得しているので、鏡を見ても不思議に思わず、安心していられるのではないでしょうか。光の反射による鏡映のメカニズムが知られるまでは、鏡の作用は日本でも神秘現象だったのです。もっとも何らかの自然現象であるらしいことは経験的に分かっていたでしょうし、多分、江戸時代くらいにもなれば、殆どの場合は特別な神秘現象ではないらしいという程度のことも経験的には感づいていたとは思いますが。とは言え、鏡や水面の向こう側にこちら側の景色が映って見えること自体は謎であり、不思議なことだったのです。幾何光学によって少なくとも大幅にこの謎が解明されたわけですから、幾何光学の理論を無視したり、理解せずに鏡映反転の謎を解くことは無謀であり、知的後退と言わざるをえません。

ただ、現在の科学は数多くの専門分野にわかれており、例えば小林秀雄もどこかで、「科学者も自分の専門分野以外のことでは素人と変わらない」と書いていたように記憶しています。 それは全くそのとおりでしょう。前回に考察したHaig氏の説明を見ても、Haig氏は心理学者を、「光学を知らない」ということで批判していますが、当のHaig氏は光という物理的な存在について考察しているだけで、「像」という物理的ではない存在については非常に無理解のままです。一方の高野先生は幾何光学の基本的な概念を理解していません。これについてはHaig氏の心理学者に対する批判がそのまま該当するのかも知れません。

そうはいっても、科学が多くの専門分野に分かれているとはいえ、心理学は感覚や知覚の問題を扱わざるを得ないのであって、生理学を通じて物理化学と不可分とも言えるのではないでしょうか。だからこそ、マッハのような物理学者が心理学の発展に貢献しているのではないのでしょうか? ですから、少なくとも知覚心理学のような分野で、特に視覚に関連する分野で幾何光学を正しく、少なくとも必要な範囲で、理解していないことは致命的な結果をもたらすと言わざるを得ません。

そこで前回の続きですが、ここでもう一度Haig論文の図を次に引用します。


前回は私の考えによるHaig説の批判でした。その際、特に必要はなかったのでHaig説の具体的で詳細な説明はしませんでしたが、今回、高野先生によるHaig説批判を検討するに当たってはそうも行かないので、まず簡単にHaig説の主張そのものを要約しておきます。なお、以下の数節は今回のテーマ「虚像について」とは必ずしも関係なく、また煩雑なので、青色文字にしてあります。適当に飛ばしてお読みください。

Haig説では次の2つの異なる方法(どちらも上図に基づいていますが)で鏡映の左右逆転を説明しています。ただし基本的な原因が光の反射の法則にあるとする点が両者に共通しています(Morris氏や高野先生などはこれを「光学仮説」と呼んでいます。要するに幾何光学に基づく説明のことです):

① 上図で顔(face、右側の四角形)から出る光を鏡(mirror、左側の四角形)で反射させてEの位置で見た像を、Fの位置(conjugate point、共役点)で直接見た像と比較すると、上下(AC)は逆にならないが、左右(BD)は逆になる

② 上図で(a)のように入射光の作る面(APQC)と反射光の作る面(PQE)が重ならない方向(Tangential)の場合は方向が逆転しないのに対して(b)のように、入射光の作る面(STBD)と反射光が作る面(STE)が重なる(同一面)場合には方向が逆転して見える

以上の①と②の二通りの説明をしているわけですが、高野先生はまずMorris(1993)を引用して①を否定しています。その根拠は、Eの位置で鏡像を見ている人がFの位置に歩いて移動して直接(鏡を透過させるか鏡を取り除いて)顔を見た場合を鏡像と比較すると確かに左右だけが逆転するが、歩いて移動せずに上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でFの位置まで移動した場合は左右ではなく上下が逆転するではないか?だからHaig説は間違いである、と言うものです。

端的に言ってこのMorris(1993)による批判は間違っています。確かに観察者が上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でEからFに移動したとすれば左右ではなく上下で逆転しますが、だからといって、普通に歩いてEからFに移動した場合に左右が逆転することまでを否定することにはなりません。何れの場合も上下か左右のどちらかで逆転しています。要するにMorris(1993)の説明はHaig説に条件を付けているだけであって、これでHaig説のすべてを全面的に否定することはできないのです。前回記事で私が説明したように、対象が平面であって「鏡映で左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する回答である限り、Haig説(上記①の説明)が間違いであるとは言えないのです。


次にTakano()では上記②の説明を、次のように否定しています。「 If his explanation were correct, an up-down reversal would be observed by the eye located on the elongation of AC in Figure I A because the optical layout becomes essentially identical to that in Figure I B, producing what Haig called a "sagittal view" (pp. 864865).

これは正当な批判であると考えられます。確かにACの延長線上、例えばCの下方で鏡を見た場合は上下方向をHaig(1993)のいう「Sagittal」面で見ているのにも関わらず上下が逆転して見えることにはなりません。この点でHaig説は誤りです。ただし、この説明が誤りであるからといって①の説明までを否定できるわけではありません。①の説明と②の説明は、両者が光反射の法則に基づいている点で共通していますが、一方が否定されたら他方も否定されるという関係ではありません。①の説明が、例え条件付きであっても有効である以上、「光学仮説」を全面的に否定することはできないのです

Haig説の問題は、「Sagittal」という用語の用い方にもあるようです。手元にあった2つの理化学事典(岩波理化学事典と研究社理化学和英辞典)で調べてみましたが、光学にはSagittal planeSagittal rayなどの専門用語があるものの、「回点対称な結像系」で定義される用語だそうです。つまり凸レンズなどによる実像についてのみ、意味を持つ用語ではないかと思います。鏡像は虚像であるし、文字通り鏡面対称であって回転対称な結像系ではなく、光学用語としての「Sagittal」にはあまり意味がないと考えるのですがどうでしょうか。

前回の記事で私は「Sagittal」を解剖学用語として理解したのですが、確かに光学、具体的には結像光学でこの用語が使われているようです。しかし鏡像の問題では結像光学で使われるこの用語と概念に意味はないことになります。ただし、この用語「Sagittal」を解剖学の用語と意味で解釈すると鏡像問題において重要な意味を与えることができます。(解剖学用語としてのSagittalについては、インターネットで画像検索すればすぐに分かります)。

というのは、解剖学用語としての「Sagittal」は人間の上下・前後・左右に関わる用語であるからです。上記Morris(1993)の批判に見られるように、観察者の姿勢と向きは鏡映反転において重要な意味を持っています。ところがHaig説では観察者を含めてすべて1つの点でしか表現されていないのです。そこにSagittalという解剖学にある用語が入ってきたので、私はその前後をきちんと読まずに、ここに観察者の姿勢と方向の要因が加えられているのかなと考えた次第なのです。しかし光学的な定義ではSagittalにさしたる意味はなさそうです。

もしかすると、Haig説では観察者、つまりEで示される眼を持つ観察者の上下・前後・左右の三つの軸の一つである前後軸が、光学でいうSagittal planeという概念にすり替えられているのではないかと思われるのです。上図には観察者は眼の位置だけで表現されています。しかし、観察者が正立して鏡面に向かっていることは暗黙の中に了解されています。Eの位置にいる観察者がFの位置に移動するとすれば、観察者の前後軸と左右軸は逆転しますが、上下軸は逆転しません。長くなるのでこの問題についてはこれまでとします。


以上はHaig説の問題点あるいは誤りと言えますが、今回のテーマである虚像に関連する問題として高野説には上記引用の後の2つの節で重要な誤りが見つかります。引用すると長くなるので省略しますが、次の節とその次の節では、鏡像を、鏡面上に生じた平面パターンのことであると認識した上で議論が展開されています。現に、Haig(1993)からの引用された上図に高野先生が追加された説明には、「The mirror image, PQ, of the vertical line segment,」と書かれていますが、PQmirror imageというのは明らかな誤りで、幾何光学の定義に反しています。PQは、鏡像でも鏡像中の線分でもありません。前回の記事で私が述べたように、この図には鏡像は表現されていません。この部分を分析してみようと思いましたが、これらの節では「Optical layout」という定義されない曖昧な表現がキーワードのように使われているので、分析するのは非常に難しいです。ただ、この用語が幾何光学で定義されている虚像(この場合は鏡像)を意味しているように受取ることができます。とすれば、高野先生はここで鏡像の二重定義を行っていることになります。これは高野説のその後の展開の基礎になっていますので、この辺の論理を明確にしておくことは重要だと思います。高野先生は鏡像が平面であるという理由で鏡像が相手の対掌体であることを否定しておられますが、幾何光学で定義される鏡像は平面パターンではなく、鏡の表面に生じるものでもないのです。

まず、この文脈で言えばOptical layoutという表現で何を意味しているのかを具体的に、明確にする必要があります。Layoutの本来の意味からは外れますが、上図のような幾何光学の光路図を指しているのでしょうか?その場合は場合によっては具体的にどの図のどの部分であるかを示す必要もあります。あるいは新たに図を作成する必要があるかも知れません。


ここでは、私は専門家でもないので詳しく説明しませんが、幾何光学では鏡像を含めて虚像について厳密にその位置と大きさ、また方向もきちんと定義されています。それらの定義に反する説明は現在の幾何光学の大系そのものを否定することになり、否定するのであればその根拠を示す必要があります。

とはいえ、幾何光学で厳密に定義される虚像というのは、最初の方でも述べましたが、位置とか大きさとか、要するに技術的な展開が可能な範囲でしか定義されず、像そのものについて何ら明確な定義はおこなわれていないように思います。そもそも簡単に辞書的な「定義」で済ませることは不可能な問題であるのかも知れません。しかしそれこそが心理学者、認知科学者、あるいは認識論学者の仕事であり、使命なのではないでしょうか?

虚像について考えることは像そのものについて考える上で最上の手がかりです。


今回の引用参考文献:
Nigel D Haig, 1993 "Reflections on inversion and reversion" Perception1993, volume 22, pages 863-868

 Reg C Morris, 1993 "Mirror image reversal: Is what we see what we
present?" Perception, 1993, volume 22, pages 869-876


Yohtaro Takano, 1998 "Why does a mirror image look left-right reversed?
A hypothesis of multiple processes" Psychonomic Bulletin & Review 1998,5 (1), 37-55


以上(2017年3月15日 田中潤一)
















2017年2月1日水曜日

前回記事(鏡像の意味論その12)の捕捉(変換という言葉の危うさ)

前回記事に関して、タイトルの範囲からは多少それますが、若干の捕捉をします。
冒頭に箇条書きで4つのキーポイントを掲げましたが、その3番目は次のとおりでした:


鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。



これについては理解されがたいか、あるいは異論をもたれるかも知れませんので、少々説明したいと思います。いずれにしても比喩ですが比喩といっても妥当な比喩もあれば不適切な比喩もあります。

例えばデパートだとか、何らかの商業施設の中などの広い空間で、壁面が大きな鏡になっているような場所があると思います。そういう鏡から、いくらか離れた位置に1人の人物がいて、その人を直接見ることも、鏡に映った姿を見ることもできるとしましょう。あなたが鏡に映った人物を最初に見て、その後に直接その人物を見ることも十分あり得ることです。もちろんその逆もあります。清潔で品質の良い鏡なら、鏡に映る人物を見てそれを鏡像だと気付かない場合もまた十分にあり得ることです。

映るという言葉の語源と関係があるかどうかは分かりませんが、現実に実際の人物が鏡の向こう側に移動したということも、コピーされたということも、また鏡のこちら側にコピーされたということもありえないのは自明のことです。

つまりあなたが視覚で認知しているのは、直接見る場合も、鏡を通してみる場合も同様に、その人の姿であり、像であるということです。ところが鏡を通して見る場合だけ像と呼ばれるのに対して直接見る場合には像と呼ばれません。しかし「姿」という日本語があります。和英辞典をを見るとshapeとfigureが挙げられています。


また横道にそれてしまいそうですが、このように考えてくると、鏡像に対応するものは直接見た姿に他ならないので、私は昨年末に認知科学会に提出した件のテクニカルレポートではそれを呼ぶのに「直視像」という言葉を用いました。この直視像と鏡像はどちらかが他方に変換されたというようなものではないと思います。どちらかが他方に変換されたり、コピーされたり、ということではないからです。


鏡映反転の問題として左右の形状の逆転が観察される場合、それは変換されたのではなく、あなたが直接見た姿と鏡像との2つの像を比較して逆転が観察されるということでしょう。例えば直接見た人物が右肩に鞄をかけているのに対して、鏡像は左肩に鞄をかけているとか。

この逆転はどちらが鏡像で、どちらが直視像であるかには関係のないことです。簡潔に言えば相対的な逆転なのです。ですから必ず二者を比較する必要があります。問題はなんらかの自動的な変換ではなく、あなた、すなわち観察者による能動的な比較なのです。以前に「変換」という言葉の曖昧さ、危うさについて考察したことがありますが、それはこういうことなのです。鏡映反転の原因、あるいはメカニズムを「変換」という一言で表現する説明には非常な危うさを感じてしまいます。

というのは、ここで「変換」という場合、鏡が主語として想定されています。たいていの説明では「鏡が(形、像、姿、等々を)を映す」とか、「鏡が(形、像、姿、等々を)反転する」とか「鏡が(形、像、姿、等々を)逆転させる」といったような表現が用いられていますからね。こういう表現は鏡の擬人化ですが、こういう表現もやむを得ないところは確かにあります。

鏡を主語として考えると、鏡は光を反射させているだけで像を反射させたりしているのではないとはいえ、鏡像の成立に関与していることは確かです。 ところが、あなたが鏡像と比較しているもう一つの像、つまり先の言葉で言えば直視像ですが、この直視像の成立には、鏡はまったく関与していません。2つの像の一方にしか関与していない鏡が、一方の像を他方の像に「変換」しているなどと言えるでしょうか。私は言えないと思います。少なくともここで「鏡が(あるいは光学的原理が)~を変換している」と言い切ってしまえばそれ以上のメカニズムの分析が不要になってしまい、結局は覆い隠されることにならないか、と言いたいのです。

さて、以上から鏡は2つの像のうちで鏡像の方にしか関与していませんが、2つの像を比較する観察者の存在は、2つの像の両方に関与していることが自明といえます。鏡あるいは光学原理が鏡映反転という「変換」を行っているというような考え方をすると、観察者の存在、観察者の個性や能力と言った要因を無視することに繋がります。ここから次のような2とおりの誤りが生じてくると思うのです。

A.鏡映反転の原因はひとえに物理的(幾何光学)なものであるという考え方

B.鏡映反転の原因として物理的ではない(例えば心理学的)原因を考えざるを得ないとき、その原因は、ひとえに心理学的な原因であるという考え方。

端的に言って、Aの考え方は前回のHaig説を始めとする、多数派ではないかと思います。一方Bの考え方の代表は、高野先生の多重プロセス理論と言えるのではないかと考えるのです。「多重プロセス」という考え方は、常に2とおりのプロセスが進行しているという意味にとれば、あるいは鏡映反転のタイトルとして適切かも知れないと思いますが、常に2とおりのプロセスが進行しているのではなく、ある場合(例えば観察者自身が鏡に対面している場合)に一方のプロセスだけで説明し、別の場合(例えば観察者自身が鏡に対して横を向いている場合)にもう一方のプロセスだけで説明するのは、単なるご都合主義ではないかと思えるのですが・・・・・。



2017年1月28日土曜日

鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連して

【今回のキーポイント】

光(光線)は物理的な存在であるのに対して、像(イメージ)は物理的な存在ではない。像は知覚される内容(あるいは意味)である。

 

 ● 人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これらについては相当な個人差がある。

鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

ヒトが眼(網膜)を通して見るのは像をであって、光ではない。

さて前回、「次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたい」と書きましたが、今回はそれとの関連で、前回の最後の話題になった平面パターンと文字の場合に焦点を合わせる方向で、考察してみたいと思います。


少々横道にそれますが、私自身が鏡像の問題でこのシリーズのような記事を書いたり論文を公表したりしていますが、正直なところ今でも他の人が書いた鏡像問題の論文や記事を読むのは苦手で気が重く、英文であっても日本語であっても相当に苦労します。最初の頃、多幡先生から認知科学誌の論文集(日本語)をお送りいただいた時も最初はあまりにも読みづらいために、1年間ほどそのまま放置していたのです。その時点では自分で論文を書いて発表し、諸先生方と議論したいなどとは思っても見ませんでした。


しかし当時、ちょうどカッシーラーという哲学者の書いた『シンボル形式の哲学』を遅々としながら1日あたり数ページといった調子で読んでいたのです。特に素養もないのに何故その時期にのような哲学書を読もうと思ったのかという話になると、この記事を終えることができなくなるので止めますが、翻訳者の木田元氏による解説で、この書が「20世紀哲学の最大の成果であると考える」、と書かれていたことにも鼓舞されて、私にはあまりないことなのですが、最後まで一通り読むことは読んだのです。


全体としてどれほど理解できたかは心許ないものの、なぜか『第二巻 神話的思考』で、幾何学空間と知覚空間という二つの空間が比較されている個所を読んだときには最初から非常な、衝撃ともいえるほどの感銘を受けたのです。それが鏡像問題と関係がありそうに思えたことについてはこのブログでも書いたのですが、これが心理学や認知科学方面の先生方の目にとまった様子もなく、自分で展開してゆくほかはないな、と思うようになったという次第ということになりますか。


そんなわけで、他の人の論文を読むのは今でも本当に難しいと思います。その理由などを考え始めるとまた横道にそれるので、以下、論題について端的に進めたいと思います。


前回、文字の鏡映反転の問題で検討した高野陽太郎先生の、米国心理学会のPsychonomic bulletinに掲載されているTakanao(1998)を再読し始めたところ、最初の方で図1としてHaig(1993)から転用された図が用いられています。この図によるHaig氏の理論に対する批判が述べられているのですが、Haig 理論に問題があることには同意できるものの、高野先生はHaig 理論とこの図を正しく理解していないのではないかと思われたので、Haig 論文そのものを見なければならないことになりました。幸いなことに、ちょうど昨年末に、また多幡先生がHaig 論文を含むいくつかの外国の論文を送ってくださっていたのです。以下にHaig 論文から問題の図を引用してみます。この図について著者の説明を最初から紹介すると煩雑になるのでやめますが、とりあえず「mirror」と「face」で鏡と顔が表され、EとFで視点、つまり眼が表現されています。



Haig(Perception, 1993、Volume 22, pages 863-868)から引用

この図に対するTakano(1998)に見られるコメントについては後に触れますが、とりあえずこの図によるHaig氏の説明には、図を見るだけで、少なくとも3つの、興味深くはありますが、致命的な欠陥があることが指摘できます。それは:


1) 複雑な人体の一部で凹凸のあるべき人の顔が真っ平らな平面で表現されていること
2) 画像であると仮定したとしても、人の顔が四角形でしか表現されず、 上下と左右を表す基準が何も示されていないこと
3) 形状の逆転(鏡映反転)の根拠が光線の方向のみで説明され、像(Image)で説明されていないこと。

【1(顔が真っ平らな平面で表現されていること)について】

上下・前後・左右が問題になっている鏡映反転の問題で、人様の顔を平面で表現するなど、妖怪漫画のお化けではないのだから、乱暴というか、暴論というより他はありませんね。その結果、一切の前後方向の要素が欠落することになってしまいました。


【2(上下と左右を示す基準が表現されていないこと)について】

著者はこの図で上下と左右および前後を定義していますが、本来上下・前後・左右は空間についても個物についても任意に、勝手に定義できるものではありません。具体的なヒトやモノ、空間を離れた抽象的な上下・前後・左右はありません。著者は本文中では解剖学の用語を使って、結果的には、上下・前後・左右の根拠になっています。しかし、この図を元に説明している以上、図にその根拠を表現する義務があります。仮に上下と左右を認めるとしても、このような二次元の平面では前後を表現しようがありません。仮に正面を向いた顔の絵が描かれているとしても、後ろから見ると後頭部が見えるわけではなく、同じ顔の絵を裏から見た像が見えるはずです。

一方、著者はこの図によって左右の逆転は物理光学的に説明できるとしていますが、本文中で解剖学用語(sagittal、矢状)と概念を使用しています。これでは単に物理光学的な論証とは言えないと思います。


【3(鏡映反転が像ではなく光線の方向で説明されていること)について】

人が見るのは像であって、光あるいは光線ではありません。物理的な物体を見るには光で照明を当てる必要があります。光に光の照明を当てられるでしょうか?

もっとも、光そのものではなく光源を見ているとは言えます。それは眼の網膜に投影された光源のパターンが元になって網膜像が成立しているからですが、網膜上の光源のパターンと網膜像はまた別ものです。詳しい専門的な用語は調べていませんが、私の定義では網膜像は網膜パターンを元にその人物が認知する像のことと考えています。この、現実に認知する像が立体であることは自明であると言っても良いと思います。現に私たちが周囲の人や物や環境を立体として認知しているわけですから。このような現実の視空間の像が網膜パターンからどのように認知されるかは解明されていませんが、Haig氏が「The question of how mirror-reflected objects are perceived remains, of course, a psychological one」と言っているのは恐らくこのことでしょう。脳科学で研究されていると言われますが、おそらく科学的には永久に解明できないのではないでしょうか?


いずれにしてもHaig説のように光線の方向あるいは位置で説明する限り、網膜パターンという平面に対応させざるを得ないので、Haig氏は顔をも平面で表現せざるを得なかったのではないかと考えられます。

これは別の面からも言えます。仮に図の四角い「face(ABCD)」に凹凸(前後方向)が表現されていたとしましょう。例えばface平面に直交する線上でf「face(ABCD)」の前と後ろに1つずつ点があったとします。図に書いていないので分かりにくいかも知れませんが、この2点から眼に到達する2つの光線の方向の違いによって遠近、つまり前後が表現できるでしょうか?結局それらは左右の差となって表現される他はありません。言い換えると「前後方向の差は左右の差に変換される」ということで、物理的なの光線の作図による限り、顔の前後方向は表現され得ないわけです。しかしヒトそのものや顔面に限らず鏡に映すあらゆるモノが立体ではないということはあり得ないので、このような方法では現実を正しく表現し得ないということが分かります。Haig氏は「鏡は実際には鏡に向かう人物の前後軸を逆転している」というGardner説を否定していますが、そもそも前後軸を消去してしまうような方法論と図を用いているわけで、これは完全な誤りであることが分かります。

一言で言えば「光と像は全く異なるものであり、鏡像問題の対象は光ではなく像である」ということです。

では像とは何でしょうか?また像と光の違いは何でしょうか?今はこのような議論を始めてもまた収拾がつかなくなるので止めます。ただ、物体をを直接見る場合と、鏡像として見る場合の何れの場合も、次の2点は確実に言えると思います。

1)光は物理的な存在であるのに対して、像は知覚される内容(あるいは意味)であり、物理的な存在ではない。

2)人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これについては相当な個人差があることは確かです。


ここではHaig(1993)説自体については説明していませんが、それでも上の図を元にしていることだけで、それが行き過ぎた単純化による暴論であることがわかります。しかし上記の3つの問題をを指摘できたことは、この図が鏡像問題の本質を叩き出すいわばたたき台としてきわめて興味深いと思うのです。同時に、この図によるHaig氏の説明に優れた、正当な部分があることも認めざるを得ないのです。


まず、三つの問題点のうちで(1)に付いて言えば、この説明が正しいとしてもそれは平面パターンにについてしか適用されないとことが明らかで、当面これ以上の説明は必要がありません。そこで残りの(2)と(3)について、このような誤りがその後の考察にどのように影響しているかを考えてみたいと思います。


今述べたように、この図には1つ以上の優れた点あるいはメリットがあります。その1つは光の経路という物理的な存在のみを表現し、鏡像という非物理的存在を描いていないことです(この点を理解せずに批判する人もありますが)。具体的に言うと、Haig氏はEの位置(眼の位置)で顔(ABCD)を鏡で反射させて見た場合の像と、Fの位置で鏡を透明とみなして顔(ABCD)を直接見た場合の像を比較しているので、鏡像も直接見た像も描いていません。強いて言えばどちらの像も顔(ABCD)そのもので表し、顔(ABCD)を正面から見た場合がFの位置で見た像に近く、おなじ顔(ABCD)を裏側から見た場合がEの位置から見た鏡像に近いと言えるでしょう。この表現は私の考え方、つまり、鏡映の関係とは実物と鏡像との二者関係ではなく、実物を直接見た場合の像と、同じ実物を鏡に反射させてみた像との二者関係であるという考え方を示す点では適切であると考えます。鏡映反転を表現する図では、よく上から俯瞰した鏡像を描きますが、それは虚像といわれるように、鏡を見る本人以外に外部から客観的に見えるはずがありません。(もう1つの優れた点は観察者自身の視点ではなく他人の視点で考察していることですが、これについては今回は触れません)


とはいえ、鏡を見る人(E)が実際に眼をとおして見るのは先にも触れたように、光でも光線でもなく、像(イメージ)なのであり、 図をもとに説明する以上は像を表現する必要があると思います。結果的に、この図では光線のみが表現されているので、像を見る人が正立している場合には必ず左右で鏡映反転が生じることになり、人が横向き、つまり寝そべった状態で見ている場合は必ず上下逆転というように確定してしまいます。


これは、像が平面パターンである限り、「鏡像は左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する解答としては間違ってはいないし、一つの正解であるとも言えます。文字の場合もこれに該当します。ちなみに、文字の場合は平面であると同時に、形状が著しく単純であったり、逆に複雑であったりするために、左右を逆転させたり回転させたりしても同じ形状になったり、逆に全く別の形して認識され、全く読めなくなったりするという特徴が指摘できると思います。文字の特徴としてよく指摘されることで、上下と左右が定められていることは別に文字に限ったことではないし、また洋書の背表紙のように横向きに表示される場合もあります。


ところが、鏡像問題は「左右が逆転するのはなぜか」という問いかけに限られないことはすでにはっきりしています。上下や前後が逆転して認識されることについてはすでに多くの指摘があるとおりです。これは像が物理的存在ではないことに関係していると言えるでしょう。


先に述べたとおり、像(イメージ)は物理的な存在ではないので、それを記憶したり、想像力と思考力を駆使して位置を移送させたり回転させたりといった操作ができます。これは当然、その場のさまざまな条件と見る人の個性や能力にも影響されることです。自分自身が動くことを想像するとしても結局は相対的な問題なので同じことです(「回転仮説」だとか「回り込み」だとか色々と回りくどい表現がなされていますが)。ですから平面パターンの場合でも、普通は左右の逆転と見られる場合にも、想像力をたくましく働かせれば上下の逆転とみることも可能なわけです。


このような鏡映反転の問題を、平面パターンだけではなくあらゆる場合を含めて包括的に説明するのが対掌体の概念であり、また等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間の概念であると言える、ということです。


今回はHaig先生のhaig(1993)を分析することで、結果として平面パターンの鏡映反転について考えてみました。次回は
haig(1993)に対する高野先生のコメントを契機に、高野先生のTakano(2008)を再び検討することで、虚像の問題、鏡像は虚像であることの意味を考えてみたいと思います。
 (以上田中潤一)