2017年7月30日日曜日

鏡像の意味論その23 ― 擬人化と「固有座標系」との深い関係

今回の要点
  1. 鏡像を擬人化することで語ることができる問題は、鏡像の問題に固有の問題ではない。
  2. 知覚心理学で使われている「固有座標系」などの概念は物体や空間の擬人化に由来する。
  3. 固有座標系の概念に関連する問題は鏡像の問題、特に鏡映反転の問題に固有の、あるいはあらゆる鏡映反転に共通する問題ではない。

鏡像問題との関連で擬人化の問題については何度か言及したことがあります。特に高野説、つまり高野陽太郎先生の多重プロセス理論の「視点反転」、今回参照している Takano (1998) におけるType I で鏡像の Viewpoint(視点)に基づいた説明、つまり、自分の鏡像を見ている場合、鏡像自身の左右は人物としての鏡像自身の視点で鏡像氏自身の右手と左手を見ることで判断するので、観察者自信の左右とは方向が逆になっているという考え方ですが、これは明らかに鏡像を擬人化した説明になっています。

擬人化だから直ちに間違いであるとか、良くないというわけではありませんが、擬人化が持つ意味をよく考えてみる必要があるでしょう。鏡像を擬人化することはすなわち鏡像を現実の人物に見立てることです。つまり、逆に考えると、鏡像を擬人化することで語ることが可能な問題は、現実の人物についても該当する問題であるということになります。 要するに、観察者が現実の他の人物と対面している場合に、対面する相手自身の左右を判断する場合と同じプロセスであるということです。もちろん、これだけで鏡映反転を説明するには不都合なので、高野先生は光学的な説明を付加的な条件として加味しています。次はTakano (1998) からの引用です。
"To explain the Type I reversal precisely, the optical transformation by the mirror has to be taken into account. As stated earlier, the mirror reverses an optical layout along an axis perpendicular to its surface." 

この条件を「光学的変形(変換)」と呼ぶのには賛成できませんが、光学的な条件が関与していることには間違いありません。むしろこちらの条件が鏡映反転の中心的なメカニズムであるはずですが、高野先生はこちらの条件を副次的な条件のように考え、それ以上は深く掘り下げて分析することなく、「光学的変換」という一言で済ませ、その後はむしろ「視点反転」について込み入った分析を開始し、そこから「固有座標系」という概念を導入しています。
 
一部の知覚心理学者によって ― 必ずしも鏡像の問題について考察するためではなく ― 導入されていた「固有座標系」の概念を使用して、高野先生はそれ以降、Type II 以後の鏡映反転について長く複雑な議論を展開しています。

この、固有座標系を使った解析は鏡像問題においても高野先生以外の何人かの論者で使用されています。しかし全く使用していない論文もあります。ただ、日本語では「固有座標系」としてほぼ統一的に呼ばれていますが、英文の論文ではかなりいろいろな用語が使用されていて、定義が極めてあいまいなのです。例えば、「object axis system」「frame of reference」、「intrinsic reference system」、「internal reference system」、「intrinsic coordinate system」、「viewer centered coordinate system」、「object centered coordinate system」といった具合です。Ittelson (1991) ではさらに流動的で、「reference systems or axes」、「physical system」、「object axes」といった具合で、systemとaxisが同じような意味で使用され、これらのすべてを単純に「固有座標系」あるいは「~座標系」と置き換えることは無理でしょう。 ちなみにIttelson (1991) では「coordinate system」は他とは区別されているようです。


つまるところ、固有座標系の類の概念で論議されているのは、鏡像問題に限らず、観察者自身以外の人物や道具などの物体あるいは対象の固有の上下・前後・左右を決定する基準なのです。ここでまた擬人化が問題になるのは、物体の場合はその物体固有の上下・前後・左右を決めるだけなのですが、人間の場合、身体の上下・前後・左右だけではなく、本人が知覚する右方や左方などの空間的な方向感が問題になることです。言わば彼の人物の身体外部の空間についても上下・前後・左右が問題になるわけです。普通はこういう感覚は物体に適用されることはありません。物体に適用されたとすれば物体が擬人化されています。自動車など乗り物の場合はこういう擬人化がありそうです。

固有座標系に類する概念は、人間が知覚する方向感覚が物体にまで擬人的に適用された結果、ひいては空間そのものまで擬人化された結果であるということができます。鏡映反転の場合は 2つの像の形状の差異、相対的な逆転を問題にしています。そこで鏡像は人間の鏡像であってもあくまで像であって感覚や知覚を持つわけではなく、道具などの物体と同様にそれ自身の上下・前後・左右などが決まればよいのであって、像の外側の空間はどうでもよいのです。

 そのためか、固有座標系の概念を用いた理論は途中で挫折、あるいは諦めているか混乱している場合が多いように思います。個人的には座標軸として上下・前後・左右を用いるような座標系の概念自体に疑問を持っています。


鏡映反転の問題がいまだに未解決であるといわれるのは、それが左右逆転の謎として提起され、左右逆転の謎が解明されない限り鏡映反転あるいは鏡像問題が解決したとはみなされないとされていることが大きく関係していると考えられます。また自己鏡像の反転の問題として提起されることも多かったことも関係しています。しかし、あらゆる場合に適用される鏡映反転の問題自体は対掌体の見え方の問題である点で、ある意味、もう結論がでているともいえます。鏡映反転全体に共通するメカニズムは対掌体である鏡映対の見え方に還元されるのであり、逆転して見える方向は左右に限らないことがすでに知られています。ですから、鏡映反転を包括的に記述するには左右逆転にこだわることは諦める必要があるのです。また自己鏡像の場合は自己鏡像の認知プロセスが必要であり、たいていは他者鏡像の鏡映反転から類推できるものである以上、他者の鏡映反転を基礎とすべきであり、他者の鏡映反転に限ればもうすでに明らかになっているといっても差し支えありません。

とはいえ、なぜ上下や前後ではなく左右が逆転して見える場合が多いのかという問題は依然として気になる重要な問題であることには相違ありません。それは鏡映反転に固有の問題を離れた空間認知の問題が反映されているのであり、鏡像問題において集約的というか、極端な形になって表れていると言えます。ですから、鏡映反転と鏡像問題を区別することも一つの利点になると考えます。さらに鏡像問題を超えた空間認知の問題にも寄与できる可能性が多いのであり、開かれた問題として今後とも大いに議論を展開すべきであり、すでに自身の理論で問題が決着していると考える著者も少なくはないかもしれませんが、しかしそうだとすれば、それは偏狭な態度というべきでしょう。
(2017年7月30日 田中潤一)

2017年6月11日日曜日

前回記事『鏡像の意味論その22』の補足 ― 上下前後左右の適用と重ね合わせの比較は別のプロセス

【今回の要点】
  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。

というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。

さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。

たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。

この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。(6月13日追記)



ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。

以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。

2017年6月7日水曜日

鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義

【今回の要点】 

  1. 座標系ないし座標軸のセットと方向軸(異方軸)のセットは区別しなければならない座標軸は等方的な幾何学空間で任意に定められる3本の直交する軸であって通常 x、y、zで表現される軸上の位置は相対的で、固有のx、y、zは変数であってそれ以上の意味を持たないが、方向軸は固有の意味と価値を持つのであり、座標空間のなかではむしろベクトルに相当するものと考えられ、矢印で表現できる
  2.  鏡像問題においてこれまで固有座標系と呼ばれてきたものは個別の像空間(像が占有する内部空間)であるものと解釈できる。これに対してすべての像空間(鏡像と直視像を含め)を含む鏡像認知空間が想定できる。鏡像認知空間、Itteleson他(1991)のphysical reference systemや従来、視覚心理学で環境座標系あるいは共有座標系などと呼ばれてきた概念と共通する要素もあるが、座標系というよりは等方的な幾何学的思考空間を意味し、明確に等方的であるために座標軸は相対的な位置を示すのみであり、意味のあるラベル(上下前後左右、東西南北など)を使用しないので、それらとは同じではない。
  3. 等方的な鏡像認知空間には通常の幾何学的な座標系が適用できるのに対して、各々の像空間は異方的であり右手座標系か左手座標系かの何れかが適用できる。
  4. 個別の像空間の内部ではすべての位置が異なる価値または意味を持っている(例:上下・前後・左右のセット)。そのためすべての軸は一方的な方向性を持つので方向軸と呼ぶべきであり、矢印で表現すべきである。
  5. 鏡映対の各像が持つ方向軸(矢印で表せる方向を持つ)は鏡像認知空間の中で、鏡面に垂直な方向で互いに逆方向を向いているが、鏡像認知空間は等方的な幾何学的思考空間であり、その中では像は任意に回転と平行移動ができる。回転と平行移動により直交する3軸のうち2つの方向軸(の矢印の向き)を重ね合せると、残りの1軸の矢印が互いに反対方向を向くことになる。認知される鏡映反転は意識的または無意識的に行なわれたかまたは行なわれなかった操作の結果である。
今回の考察はItteleson他(1991)をレビューすることで進行できました
 Itteleson他(1991)は、まず鏡映対が互いに対掌体になっていることを前提とした上で、物理的な問題と心理学的な問題を区別するために異なった2つの座標系のセットが使用できるとし、その1つ目は鏡と物体を含めた世界に固定されたphysical system物理系)、2つ目はobject system物体系)と呼んでいます。そうして前者が物理的であり、後者は心理学的であるとし、従来理論では両者の概念が混同されてきたと主張しています。そうして上記の2通りの座標系ではなく、「右手系」と「左手系」の2つの座標系のみがmirror transformation(鏡映変換?)を示し、「鏡が光学的に鏡面に垂直な軸を逆転させる」ことを示すとしています。次の図はItteleson他(1991)からの引用です:

図1. William H Ittelson, Lyn Mowafy, Diane Magid, 1991, Perception, 1991, volume 20, pages 567-584 から引用

ただ、この図で示されている座標系は、座標軸が原点すなわちゼロ点からプラスマイナスの方向に延びる直線として表現される普通の直交座標系ではなく、単一方向の矢印で示されています。この矢印は座標軸ではなくベクトルを表現しているとみられます。というのはこの符号を持つ矢印のセットはすでに定義済みの直交するx,y,z座標系の中で定義されているからです。


この右手座標系と左手座標系による説明は多幡先生のサイト「鏡の中の左利き」で説明されているものと同じ説明で、数学的な鏡映そのものを説明するものであることがわかります。この説明の結果について言えば、Itteleson他(1991)の文脈では、ここで述べられている結論は物理的な条件を数学的に説明できたものの、この時点では心理学的な逆転認知の解明には至っていません。言い換えると、Itteleson他(1991)では物理的な問題と心理的な問題を区別するために「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系を導入したのですが、ここで右手系と左手系の関係で得られた結論は鏡映対が互いに対掌体であり、鏡面に垂直な方向で互いに逆転しているという、「物理的」な条件を再確認したまでであって、物理的問題と心理的問題を区別するために導入された「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」という2つの座標系の関係については置き去りにされてしまいました。

しかしここから、Itteleson他(1991)は上記の物理的な条件を心理的問題の前提事項であることを確認したうえで、改めて心理学的なプロセスを考察し始めます。Itteleson他(1991)はその方法として直交する3軸のそれぞれを中心として鏡映対の一方を180 度回転することと平行移動の組み合わせによる重ね合わせにより、両者が互いに逆転して認知される方向が認知されるという方法を採用し、以下の章では模型を使用して被験者を使用して実験を行うという手法を実行することになりました。ただ、ここで重ね合わせる方法としては「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」という、直感的になんとなくわかりますが明確な定義とは言い難い表現となっています。それはともかく、この実験結果をとおして、物理的な条件(鏡映対が互いに対掌体であり、任意の方向で逆転しているとみられる)を前提とした上で、心理的にどの方向が逆転してみえるかを考察し、それが像の三次元形状における対称性が最も小さい方向であるとする、いわゆる「対称性仮説」を結論付けている訳です。

 「対称性仮説」の当否は後の問題として、ここでItteleson他(1991)が先に導入した「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系をなぜ利用できなかったかを考察する必要があります。「物理系」が物理的であるという論理はわかりますが、「物体系」が物理的ではなく心理的とみなさなければならなかったのはなぜなのでしょうか?それは「物体系」が上下・前後・左右の軸を持つと考えざるを得なかったからで、上下・前後・左右が物理的ではなく人間の心理に由来すると考えたからでしょう。これは先回の記事ですでに解明済みですが、鏡映対すなわち鏡像とその相手方との関係が鏡像と物体との関係ではなく鏡像と直視像(鏡を介さずに見る像)との関係であることを認めれば解決に向かいます。つまり、鏡映対は一方が鏡像で他方が物体なのではなく、いずれも像であり、対の一方が物体の鏡像であるなら他方は同じ物体の直視像であり、いずれも客観性はあるものの、観察者によって視覚的に把握された物体の像であり、だからこそ互いに対をなすことが可能なわけで、像は物質でも物理的なものでもなからです。この鏡像と直視像の対右手系と左手系の対をなす座標系が適用されたものとみなすことができます。これを固有座標系と呼ぶとすれば、固有座標系とは各々の像そのものと言えるのではないでしょうか?個々の像は言い換えると個々の像空間です。ここで右手系と左手系は対をなす像空間の性質とみなすことができます。その像とは人間の視覚による認知の内容であり、像空間は人間が視覚で認知する空間、すなわち視空間の中で認知されます。視空間の異方性についてはテクニカルレポートの主要論点の一つでした。前回記事の通り、マッハが発見したともいえる異方的な知覚空間ということになります。

では Itteleson他(1991)が物理系(Physical system)と名付けた方の座標系はどのような意味を持つのでしょうか?これについては端的に疑問を呈するより他はありませんが、物体が視覚によって認知される空間が視空間であるなら、視空間で認知される以前の物体そのもの、つまり感覚で認知される以前の物体にそもそも何らかの座標系などが適用されるでしょうか?物体自体が感覚を通じて認知される以前には何も認知されていないのです。そこにいかなる座標系も適用される訳がありません。したがって Itteleson他(1991)が物理系と呼んだ系とは、むしろ、視空間で各々の像が認知された後から思考力によって再構成された幾何学的な思考空間であると考える他はなく、鏡像認知空間がそれに相当します。この等方的な思考空間と異方的な知覚空間との関係こそがテクニカルレポートの中心的なテーマでした。

以上の空間定義を専門的な幾何光学の説明と比較してみたいと思います。岩波理化学事典の項目『結像』には次のように記述されています:「実在の空間を物点の集合とみなしたものを物体空間(object space),像点の集合とみなしたものを像空間(image space)という.両者は相重なるが,その屈折率などは,光学系の前のものを物体空間に,後のものを像空間にあてる.光学系による物体空間の像空間への変換が結像であり,物体を物体空間の部分空間とみれば,変換された像空間の部分空間が像である [株式会社岩波書店 岩波理化学辞典第5版]」

この定義はなかなか判りづらいものがありますが、ここでは認知のプロセスは完全に消去されています。ここでの定義をItteleson他(1991)の定義と比較してみると、Itteleson他(1991)の「物理系」は結像光学でいう物体空間に相当し、Itteleson他(1991)の「物体系」は結像光学では物体空間内の部分空間であって、個々の物体が占める部分空間に相当します。結像光学では認知のプロセスが完全に消去されていますが、「像」という概念の中に、いわばブラックボックスとして認知プロセスが閉じ込められているということもできます。ということで、Itteleson他(1991)が後に固有座標系と呼び、心理学的であるとみなした「物体系」が、結像光学における像空間の部分空間としての個々の像に対応させられます。

一方、Itteleson他(1991)が「物理系」と定義した座標系は、結像光学では全体としての物体空間に相当すると考えられます。ただし結像光学では物体空間を像空間に重ね合せています。これは物体空間の部分空間である個々の物体を個々の像と重ね合せているのに対応していますが、Itteleson他(1991)の「物理系」にはその対応が欠落しています。Itteleson他(1991)が「物体系」を心理学的とみなすことができたのは物体系を像空間の部分空間である個々の像とみなせるからであることから類推すれば、Itteleson他(1991)の論理でも結像光学と同様に「物理系」を像空間に対応させる必要があります。この像空間は結像光学では消去されていた鏡像認知プロセスにおける鏡像認知空間そのものであるとして問題はありません。

簡単に言ってしまえば、Itteleson他(1991)の「物理系(Physical system)」と「物体系(Object system)」は何れも心理学的に再定義できるものであり、前者は鏡像認知空間であり、後者は個別の像空間(結像光学では像空間の部分空間)ということになります。結像光学では後者(像空間の部分空間)は前者(像空間)の部分ということになりますが、結像光学では像の認知という心理学的プロセスが完全に消去されています。鏡像を含む空間の場合、前者は等方的な幾何学的思考空間であることを前回記事で確認したわけですが、各々の像空間についてはどうなのでしょうか?

 先に検討したように、数学的な鏡映の分析により、鏡面の両側で鏡映対のそれぞれの像空間に適用できる座標系は互いに右手系と左手系の関係にあり、鏡面に垂直な方向で軸方向が互いに方向が逆向きになっているというわけですが、ここで定義されている右手系と左手系と呼ばれるものは抽象的な座標軸そのものではなく、多幡先生のサイトでは行列式との関係が言及されているいますがウィキペディアの項目『右手系』によれば線形代数学で定義される座標系と言えるそうで、このような高等数学の定義になると私としては正直なところお手上げなのですが、要するに上図には矢印で表現されているように、単なる直線でしかない座標軸ではなく方向性を示すベクトルと考えられます。したがって方向軸と表現して差し支えありません。矢印で表現されるとおり、線上の各点は等価ではなく価値的に差があります。つまり、個々の像空間の内部では無限に想定できるすべての方向において各位置が相対的な関係ではなく価値的に差があるということであり、それぞれの方向自体にも価値的に差があるということです。等方的な空間ではそれぞれの軸線は角度で相対的に表現されるだけですが、個々の像空間では方向自体にも価値的な差異があることになります。このような空間は等方的ではなく異方的と言うべきでしょう。それはマッハ(E. Mach)やカッシーラーE. Cassirer)がそう定義したとおり、そのままです。

このような性質は、私たちが知覚、この場合は視覚で認知する視空間の上下・前後・左右という方向性に対応しています。このような方向軸は鏡像認知空間のように原点を持つ通常の座標系で表現されるのではなくベクトルのように矢印で表現されるべき方向軸を持つものであるといえます。

以上を端的に要約すると、鏡像認知が生じた時点で観察者に鏡像認知空間という等方的な空間が把握されることになり、その空間内に個々の像や鏡像が認知される訳ですが、通常は各々の像について上下・前後・左右の方向性が認知されます。Itteleson他(1991)が上述のように鏡映対を互いに重ね合せて比較することができたのは等方的な鏡像認知空間の中で、鏡映対をなす2つの像の一方を回転または平行移動することで重ね合せることができたからですが、それが可能であるのは全体を包含する鏡像認知空間が等方的な思考空間であるからであるということができます。その際の重ね合せ方について、Itteleson他(1991)は「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」と言っています。しかしこれは曖昧な表現です。上述のように方向軸が矢印で表せることが判明した今、この重ね合わせの操作は、具体的には上下・前後・左右の各矢印の向きを合せることと言うことができます。結果的に上下・前後・左右の3つの矢印のうち2つの矢印を合せると、残りの1つの矢印が互いに反対方向を向くことになる、というわけです。言い換えるとどのように動かしても3つの矢印を合わせることができないというわけで、両者が同形であれば3つの矢印を合わせることで完全に重ね合わせられます同形でも対掌体でもなければそもそも形状のすべての特徴が一致しないのでどの矢印も合わせることができません。人間であれば他人でも上下・前後・左右の特徴が一応似ているので誰でも方向軸の矢印を合わせることができますが、全体の形状を重ね合わせることができません。

Itteleson他(1991)が行った重ね合わせの方法は結果的には上述の方向軸の重ね合わせに近い方法ですが、等方的な鏡像認知空間と異方的な視空間との関係が認識されるに至っていないため、正しい結論にたどり着くことができずに終わっています。Itteleson他(1991)の誤謬は、心理学的な問題においてもあくまでも幾何学的な概念(対称性の大きさ)で迫ろうとする方法論にあるように思われます。なぜなら、何度も指摘しているように個々の像に上下・前後・左右を定めるものは幾何学的な形状ではなく像の各部が表現する機能的な意味であるからです。Itteleson他(1991)の誤りは、幾何学的なブロックで実験を行い、機能的な意味を持つ立体で行わなかったことにも起因しています。Itteleson(1993)では体操の選手を呼んで逆立ちをしてもらう実験をしているのは興味深い実験かもしれませんね。しかし結論は変えていません。

人間の場合、上下・前後・左右のうち左右の機能的な特徴が同じであり形状も大体同じであることは確かで、左右対称に近く、対称性が大きいということはできます。しかし現実には歩くたびに片方の足を前に出したり、片手をあげたり、片方にアクセサリーを着けたり、絶えず対称性は崩れています。ただこのような特徴は交換が可能なのです。少なくとも同一人物の同一時刻には左右の形状の差が確定しています常に左右対称に近いというわけではないのです。道具ではさらに左右の形状差は大きく、例えばグランドピアノなどはどうでしょうか?右側が高音部であるという非常に重要な機能に由来する形状の差異を持っています。また道具では、例えば砂時計など上下の差異は無いに等しいといえます。しかし普通に置かれた砂時計の鏡像が直視像と比べて上下が逆転して見えるとは言えないでしょう。このように Itteleson他(1991)の「対称性」仮説は誤りであるといえます。


以上であらゆる鏡映反転の基礎となる概念はだいたい確立できたように思います。最後の重要な問題は左右軸の従属性に関する問題ですが、これについてはテクニカルレポートで、十分ではないかも知れませんがかなり掘り下げられたものと考えています。

以下、補足です。 
上下・前後・左右の意味的な考察については上記のItteleson他(1991)に、ジェームズ(W. James)からの興味深い引用が挿入されています。私には、ここに紹介されているジェームズの考察は直接マッハとカッシーラーの認識に繋がるように思われ、非常に興味深いのですが、論文の著者はこれに興味を示しながらも鏡像問題には寄与するものではないとして、素通りしてしまいました。左右の意味的な考察についてはテクニカルレポートで空間の異方性との関係でかなり掘り下げたつもりですがまだまだ掘り下げる、あるいは敷衍する余地はいくらでもあるように思います。

これは補足というよりも余談ではありますが、今回の考察でつくづく思うことは、座標系という言葉はいかにも厳密に定義された意味を持つような印象がありますが、その意味するところは文脈により相当に流動的で、意味を把握することは容易ではない場合も多いように思います。これは日本語であるか英語であるかには関係がないようです。

今回は非常に込み入った説明でわかりずらいものになってしまいましたが、テーマ自体が像空間(したがって視空間)の異方性というわかりづらいものであるためやむを得ないところもあります。いずれもう少しわかりやすい説明の仕方が、見つかればと思います。ただ、テクニカルレポートでは固有座標系、右手系といった難しい座標系の概念を使用せずに一応の説明はできたものと考えています。

これで「鏡像の意味論」シリーズは一段落ということで、今後はまた別の形で考察を続けてゆきたいと考えています。もちろん補足や訂正を含めてこれでこのシリーズは打ち切りということではありませんが…
(以上 1017年6月7日 田中潤一)











2017年5月28日日曜日

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

【今回の要点】
  1. 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  2. これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  3. 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  4. 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。 
  5. 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、
道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。

 鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間
前回の記事で、鏡像認知のプロセスは他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセスは他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。

さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。

前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。

例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。

この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。

この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。

思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。

この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。
(2017年5月28日 田中潤一)

2017年5月25日木曜日

鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知について

【今回の要点】
  1. 鏡映対の成立(プロセス1)は、光の反射という物理的プロセスであると同時に鏡像認知のプロセスでもある
  2. 他者の鏡映対を比較する際には鏡像認知のプロセスは捨象(消去)されるので、鏡映対の成立は物理的プロセスと見なせる
  3. 自己鏡像を認知する場合、鏡像を認知するプロセスと、対応する自己像の認知プロセスは異なる(厳密には存在しない)ので鏡像認知のプロセスは捨象されない。

前々回と前回では鏡映反転を認知するプロセスは2つのプロセス:①鏡映対の成立プロセス(プロセス1)と、②鏡映対の比較プロセス(プロセス2)からなること、そして②の鏡映対の比較プロセスは物理的なプロセスではなく思考プロセスであるとし、この比較プロセスについて考察しましたが、今回は振り返って2つのプロセスで最初の①鏡映対成立プロセス(プロセス1)について改めて分析してみたいと思います。

前回の考察のとおり、高野説のType3は「光学変換」とされているものの、実際には比較プロセスに該当するものであることが判明しています。要するにこのプロセスは1つの共通空間の中で2つの像(の形状)を比較するプロセスです(この共通空間についてはまた改めて検討したいと思います)。これで、高野説のType1、Type2、およびType 3はすべてプロセス1の条件の記述が欠落していることになります。三者それぞれについてイラストや具体的な状況説明はありますが、それらの状況に共通する光学的、すなわち光の鏡面反射による鏡像の成立という鏡像問題の基本前提である物理的な条件を全く素通りしています。これは、鏡映反転は物理的な現象ではなく全面的に心理的な現象であるとする髙野陽太郎先生の主張に合致していますが、物理的な条件を絵を描くことと具体的な状況説明だけで済ませ、理論としては素通りして心理的なプロセスのみを考察しているのですから、物理的な条件を既存の解決済みの条件とみなしているわけで、これも一種の「論点先取りの誤謬ないしは詭弁」に相当するのではないかと思うのですがね...。

さて、それではプロセス1すなわち鏡映対の成立プロセスは本当に、あるいは純粋に物理的なプロセスであるといえるのでしょうか?

鏡映対はふつう、鏡面に対して面対称(鏡面対称)の対をなす立体像、― 大抵は人物像ですが ― として表現され、図に描かれます。例えば以前の記事で使用した次の図のような図です。この図では鏡像はB’のみで、AとA2は何れも観察者、Bは観察者A2が鏡を介さずに直接人物を見た像を表しています。



このBとB'は鏡面に対して面対称に描かれている訳ですが、この面対称という概念はGardnerもそう述べているように数学上の概念であって、実際に実物ないしは光の像が面対称の図のように成立しているわけではありません。実際には(A)が(B')を見る光学系と、(A')が(B)を見る光学系は独立していて相互に何の関係もないのであって、一つの光学形として同時に成立している訳ではありません。以前、「鏡は光を反射するのであって像を反射するのではない」といったのはこの意味です。つまり、これは虚像である鏡像を作図するためのテクニックであって、決して物理的にこのような対が成立しているわけではない。つまり、鏡面対称という状況は数学的な概念であって、物理的にそのようなものが成立しているわけではないので、鏡映の対は単純に物理的なプロセスだけで成り立っているとは言いきれません。そもそも、これも何度も言っていますが、鏡像であっても直視像であっても像というものは心で知覚される内容であって物理的な存在では決してありません。結論を言えば、鏡映対の成立には物理的な光学プロセスと、鏡像認知という認知プロセスが同時に進行しているとでもいうより他はありません。

ただ、自分ではなく他者の鏡像を見る場合は比較する対の双方(直視像と鏡像)を認知するプロセスは共通しているので、両者の差異を見つけるときには捨象(消去)され、結局プロセス1は光学的で物理的プロセスであるといって差し支えないわけです。しかし客観的に見られる他者ではなく自分の鏡像の場合、鏡を介しない直視像は存在しないので、厳密な意味で自己鏡像の鏡映対は存在しません。ただ他者(自己の身体の一部を含めて)の鏡映反転から類推できるだけです。高野先生は自分の正面像の鏡映反転を説明しなければ鏡映反転を説明したことにはならないとおっしゃいますが、そのためにはまず他者の鏡映反転のメカニズムをきっちりと説明しなければ不可能なのです。事実高野説においても観察者とその鏡像を上から俯瞰したという、見えるはずのない絵や状況説明を行なっていますが、絵に描いたり外観を描写したりする時点でそれはもう他者の鏡映反転を考察していることに他ならないのです。例え自分自身の外観を想像できたとしても、想像した時点ですでに客観化されていて、それはもう想像上の他者なのです。

というわけで、鏡映対の成立プロセスは鏡像認知のプロセスでもあるのですが、ここで問題になるのは一般に鏡像認知の問題は即自己鏡像の認知プロセスとみなされる場合が多く、他者の鏡像を含めた鏡像認知一般についてはこれまであまり議論されていなかったのではないでしょうか?今後はこの分野の進展を願うばかりです。これは重要な問題で、これまでの鏡映反転の議論の中には鏡像認知の問題が潜んでいる場合が多いのです。そこではかなり混乱した議論が見られるように思います。 下の図は認知科学会に提出済みのテクニカルレポートで使用したもので、鏡像認知と鏡映反転の関係を描いたものです。


(以上、2017年5月25日 田中潤一)

2017年5月7日日曜日

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2 - 続)― Gardnerの誤謬 ― 対掌体と鏡面対称の違い

以下、前回にそのまま続きます。

【今回のポイント】
  • 鏡面対称と対掌体対とは明確に区別しなければならない

ところで、Gardnerの主張の矛盾は何に由来するのでしょうか。この矛盾はよく考えると非常に重要な問題であることに気付きました。まずこの矛盾を整理してみましょう。

次の三段論法が成り立ちます:
(1)鏡面対称の2つの立体は互いに対掌体である。
(2)対掌体の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。
(3)故に鏡面対称の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

 鏡面対称の図は「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させるので、鏡映対は鏡面に垂直な方向で逆転が認知される」という高野陽太郎先生の説:Takano(1998)のTypeⅢの根拠となっているものですが、「任意の1方向」と「鏡面に垂直な方向」は明らかに異なります。実際、可能性としては鏡面に垂直な1方向以外のいかなる方向でも逆転が認知される可能性はあるはずです。やはり「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現と主張におかしいところがあるのではないでしょうか?

上記の三段論法の帰結である「任意の1方向で互いに逆転していると見られる」が光学プロセスの帰結であるとすれば、「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」も間違いとは言えないように見えます。しかし、後者の表現では、鏡面に垂直な方向以外の任意の方向で逆転しているとも見られる可能性が覆い隠されているとは言えないでしょうか?

見方をかえると、鏡面対称の状態であるということは、鏡映対が互いに対掌体であるという条件に加えて鏡面対称であるという両者の位置関係の状態が付加されているということができます。この位置関係というのは表現が難しいですが、両者の「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」というように表現できると思います。この方向軸という概念が座標系の座標軸と紛らわしいのですが、少なくとも数値座標を表すものではない限り座標軸と呼ぶ必要はないし、座標系を想定する必要もないと考えるものです。単に方向を示す軸と考えていただきたいのですが、この「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」という場合、鏡面の両側の各像が互いに鏡面に対して垂直に特定の方向軸で逆転しているといえます。実はこの問題を述べたのが本シリーズ「鏡像の意味論 ― その6」で、イラストを使って説明していることなのです。

結論は、鏡面対称の状態は、対掌体の対が互いに特定の方向軸で逆転している、すなわち向かい合っている、あるいは対面状態にあるということです。対掌体の対はそれだけでは互いの位置関係については何も規定されていません。例えば自分の左手の上に右手を重ねたような状態は鏡映関係ではあり得ないのですが互いに対掌体の形状であることに違いはありません。ですから対が互いに対掌体であることと特定の方向で向かい合っているという鏡面対称の状態であることは全く異なる意味、あるいは条件ということができます。対掌体の対が特定の方向軸で互いに向き合っている場合、本来どの1軸で(方向)形状が逆転しているとも見なせるわけですから、当然この方向での逆転が認知されて不思議はありません。特定の方向軸の逆転という意味では、このような状態は鏡像が存在しなくても日常的に無数にあるのです。早い話が、二人の人物が互いに向かい合っている状態がこの状態そのものです。Takano(1998)のTypeⅢに似た例でいえば、横並びの人物像の一方のが鏡像ではなく別人が後ろを向いていたり、こちらを向いていても逆立ちをしていたりした場合、両者の左右は逆転しているので左右が逆転していると言えます。つまりTypeⅢで左右が逆転して見えるプロセスは鏡像であるかないかとは関係のないプロセスなのです。確かに一方の人物像が他方の人物像と同じ上下と前後を向きながら左右が逆転しているのは一方が他方の鏡像であるからですが、この場合一方が他方の鏡像であることが分からなければ、両者で左右の逆転に気付くこともありません。

以上のように、Takano(1998)のTypeⅢの「光学反転」もTypeⅠおよびTypeⅡの場合と同様、鏡像の問題を事実上放棄したにも等しいといえるのではないでしょうか。

余談になりますが、このように鏡面対称と対掌体は区別すべきで、紛らわしい使用法は避けた方が良いのではないかと思います。例えば化学では鏡像異性体というような用語がありますが、こういう用語はあまり適切ではないのではないでしょうか?

2017年5月5日金曜日

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含む

 【今回の要点】
  1. 比較プロセスは思考プロセスであり、選択肢からの選択プロセスが含まれる
  2. 回転、移動、逆転、反転、変形、変換などは比較を行なうための操作、手順であるか、差異の表現形式でもある。
  3. 鏡は、物体を光源とする光を反射することで鏡像の成立に寄与するが、それは鏡映対の一方だけであり、他方の成立には寄与していない。言い換えると鏡映対は互いに独立した光学系に基づいて独立して成立しているしたがって鏡が他方の像を変形したり鏡像に変換することもその逆もない
  4.  鏡は、光源にならない空虚な空間を反射したり空間に何らかの作用を及ぼしたりすることはあり得ない。当然、ある空間を別の空間に変換することもあり得ないしたがって鏡の向こう側全体をこちらの空間とは異なる性質を持つ別空間と見ることに意味はなく、観察者にとっては同じ一つの視空間である
  5. したがって鏡のこちら側と向こう側で異なる空間を表すために異なる座標系や座標の変換を考えることは無意味である。鏡映関係は個々の像の形状と位置についての関係であり空間の関係ではない。
  6. 鏡像は相手(直視像)と比較した場合にのみ鏡像としての特徴を示すのであり、両者間の差異は相対的である


前回の考察で、鏡映反転のプロセスは鏡映対の成立プロセスと両者を比較するプロセスとの2つに分けて考える必要があることが明らかになりましたが、後者の比較プロセスは思考プロセスであることが最大の要点ともいえます。そしてこの思考プロセスには任意選択の要素が含まれるはずです。というのも、対掌体は任意の1つの方向で、つまりどのような1つの方向で形状が逆転しているともみられるので、事実上は無限の方向で逆転が認知される可能性があるわけです。

こう考えてくると髙野陽太郎先生の「光学反転」、すなわちTakano(1998)のTypeⅢの説明はこの点でもおかしいことに気付かれないでしょうか?光学的プロセスという物理的なプロセスでこのような思考が進行しているわけはありません。思考プロセスはあくまで観察者の心の中にあります。これはTypeⅠ(視点反転)と同様、一種の擬人化と言えます(TypeⅠでは鏡像が実在人物であるかのような擬人化)。科学上の表現にも擬人化はつきもので避けられない場合あるいは局面もあるでしょうが、擬人化が一人歩きするようになるととんでもない地点にまで行き着く危うさがあります。

TypeⅢの「反転」は、鏡の前で人物が肩の片方を鏡に向けている、つまり鏡面に対して横を向いているときに他の観察者が当の人物とその鏡像を見た場合に限定した説明です。この場合、両者の正面像に近い姿を同時に観察できるわけで、確かに左右逆転を認知する可能性が高いと思います。Takanao(1998)はその説明として光学的には鏡は鏡面に垂直な方向を逆転させる(これはGardner(1990)なども言っていることですが)ので、この場合は鏡の前の人物の左右方向が鏡面に垂直な方向なので、左右が逆転しているように見えるというわけです。

しかし「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」ということは科学的に正しい表現と言えるでしょうか。このような表現を行なっているGardner自身、鏡映の対は互いに対掌体であり、任意の1方向で特徴が逆転していると見ることができる旨を指摘しています。ですから鏡映反転の趣旨から言えば、光学的には鏡面に垂直な方向で形状が逆転していると見るのが正しくそれ以外は間違いであるとは言えないはずです。この例のような状況でも想像力の逞しい観察者が、鏡像または直接見る人物像のどちらかを上下軸を中心に180度回転させて(平行移動するだけではなく)両者を重ね合わせると、人物像の前後の逆転が観察される可能性を否定できません。

要するに、光学的プロセスが空間の特定の方向軸を逆転させるなどということはないのです。 きわめておおざっぱな比喩に過ぎないのです。実際のプロセスとしては鏡面対称(面対称)の図を描く場合の作図方法に過ぎないのです。すでに何度か述べてきたように思いますが、鏡は光線を反射しますが像を反射したり反転したりは絶対にしません。光は像ではないのです(英語ではどちらも「reflect」とい言いますが)。これについても言い換えると、鏡面対称を作図する場合は一方を鏡面に対して反転させて描きますが、現実の鏡映対は両者が独立した光学的プロセスで成立しているということですね

高野説は、Gardner説などに含まれていた誤謬だけを徹底させた結果のような気がします。

ここでもう一度、TypeⅢの説明に戻りますが、このような状況の場合、人はなぜ左右の逆転が認知されるような像の合せ方(回転方向)をするのだろうか?という方向に考察を進めてゆくべきでしょう。TypeⅠの場合と同様に、左右の逆転を選択しがちであることは、Ittelson(1991)なども考察しているような左右軸の特殊性に着目することは自然な流れであるように思われます。せっかくのこの流れを押しとどめてしまってはつまりません。多幡達夫先生のTabata-Okuda(2000)やCorbalis(2000)の「左右軸の従属性」はこの流れの一つの帰結であるように思います。先般の日本認知学会に提出したテクニカルレポートはこの「左右軸の従属性」を再定義したといえる部分があります。ただし左右軸の特殊性だけにこだわることも一つの停滞であるように思います。左右のみならず上下・前後・左右、さらに知覚空間の一つである視空間全体にまで問題を拡張すべきです。実は、古くはE. Machがそういう知覚空間について述べているのですが、鏡像問題文献のほとんどが無視しているようです。著書の他の部分でマッハの功績を称えているGardner(1990)でさえ、これには言及していません。確かにマッハは視空間の性質と鏡像問題を結びつけることはなかったようですが、一方で鏡像の問題についても論じているし、対掌体に相当する概念で説明しています。少なくともカントよりも本格的に論じています。このこと(マッハを等閑視)自体、非常に興味深いことであると、私は考えています。(2017年5月5日、6日 田中潤一)


2017年4月26日水曜日

鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)

【今回のキーポイント】
  1. 鏡映反転のプロセスには鏡映対をなす2つの像が成立するプロセスと、この2つの像を比較するプロセスとの2つの主要素に分けられる。前者は基本的に幾何光学的プロセスであり、後者は認知プロセスである。
  2. 2つの像を比較することは詰まるところ2つの像の差異を認知し、その差異を表現することである。従って比較される2つの像に客観的に識別できる差異(観察者個人の認知ではなく科学的に表現できる差異)があるかどうかを判定しなければならない。
  3. 2つの像すなわち鏡映対のあいだに客観的に(科学的に)表現できる差異がなければ鏡映反転は純粋に認知の問題であって幾何光学的プロセス、言い換えると物理的プロセスとは無関係であることになるが、客観的に(科学的に)表現できる差異がある場合は観察者がその差異を認識できるか、またどのように表現できるかが、認知の問題となる。
  4. 2つの像を客観的に、すなわち科学的に比較するための方法として幾何学的な形状の比較以外にありえない。形状には当然、表面のパターンや色の分布も含まれる。
  5. 認知過程としての比較プロセスは思考過程である
  6. 鏡映対は同形ではなく互いに対掌体であることが明らかにされている。したがって両者には幾何学的に表現できる差異がある。 

前回のとおり、像、光、および物体の三者の区別が必要であることは鏡像問題においてこの三者の存在が前提になっているからですが、仮にも鏡像の問題、鏡映反転に限らず、鏡像が関わる事象では、この三者と観察者の存在が前提になります。この三者と観察者を含めた四者間の関係は単に「科学的に」規定できるようなものではないと私は思います。科学以前の常識あるいは科学を超えた認識論的視点にも焦点があてられる可能性があります。というのも、光と物体は物理的な存在であるのに対して像は物理的な存在ではなく、観察者の直接的な認知対象であり認知内容ともいえるものであるからです。しかし逆にいえば、認識論的な問題や主張を科学面から検証することにつながる可能性もあると考えられるわけで、そういう意味でも鏡像問題は単なる一つの問題ではなく、きわめて意義深いものになるのではないかと思う次第なのです。

観察者を除き、三者のうち物体としては鏡と鏡に映る物体の2つですが、光(正確には光線)は普通物体とは言われません。ただし物体と光は共に物理的な存在であり、物体と光との関係を科学的に説明するには物理的な関係として説明する以外にありません。これだけで、仮にも鏡像が関係する問題には物理的な関係あるいは条件の関与は必須条件であり、いかなる具体的な状況であれ、物理的な条件を抜きに心理的な条件のみで鏡像問題を語ることはそれだけで間違いであるか不完全であることは自明ではないでしょうか?光と物体との相互関係を無視しては鏡像の問題は消えてしまいます。これは自明のことです。鏡像問題それ自体は数学の問題のように厳密に規定されていないとはいえ、鏡像を他の像から区別する意味がなくなってしまえば鏡像の問題ではなくなりますからね。

 さらに、物理的といってもここで問題になっているのは光と物体との関係であり、それも鏡像に関わる限りの関係ですから、それに関わる物理学の分野としては必然的に光学、それも幾何光学を置いて他に考えられません。確かに光が物体に作用して物体の運動や化学変化に影響を与えることもあるでしょうし、眼の仕組みに関しては実際にその種の作用が問題になるでしょうが、それは像が成立する以前の問題であり、本文のタイトルのような像、光、および物体の三者の関係では眼の構造や原理については捨象、つまり消去して考える他はないので、鏡像の問題に関わる物理学としては幾何光学だけで十分といえるでしょう。

ところが、例えばMorris説を読み始めると鏡映反転を説明する理論としてのPhysical Rotation(物理的ないし身体的回転)説 やMental Rotation(心的回転)説などが光学説と共に、並列的に列挙されています。次に引用してみます:「Many psychological explanations have been advanced to explain left-right reversal in mirror images, but Gregory and Haig have each proposed a physical explanation for the reversal.(多くの心理学的説明が鏡像の左右逆転の説明を進展させたたが、そこにグレゴリーとヘイグがそれぞれ「逆転」についての物理的な説明を提起した。)」ここではGregory(1987)「Physical Rotation」Haig(1993)の光学的説明が共に「物理的な説明として一括されているわけです。

このように、物理学としては幾何光学だけで十分だと思われる鏡像問題に、なぜか「物理的な回転」という説明が使われているのですが、この論文では従来説として次の4種の説明が列記されています:
  1. Optical Explanation(光学的説明):Haig(1993)
  2. Physical object rotation(物体の物理的な回転):Gregory(1987)
  3. Symmetry(対称性):Pearth(1952)、Ittelson(1991)
  4. Mental rotation(心的回転):Gardner(1990)
ちなみにMorris説では言及されていませんがMayo(1958)ではPhysicalとかMentalなどを付けずに単に「Rotation」として「Reverse」と比較対照されています。「3」の対称性についていえば、対称性自体は幾何学的な概念または性質であって物理的プロセスではありませんが、「2」のPhysical object rotationは「4」のMental rotationとどこが違うのでしょう?実際のところ、Gregory説のPhysical rotationとはつまり、鏡の前の人が鏡と向き合うために180度回転することをこう表現しているわけです 。「鏡と向き合うために」回転すると言っていますが、Gregory(1987)が実際に意図していることは回転する前の人の姿と回転後の人の姿を比較しているのです。つまり同じ人の2つの姿を重ねて比較しているのであって、回転運動は(鏡の前の人物本人ではなく著者が)2つの姿を比較するための手段なのです。最終的にはそれらの像を鏡像と比較するためというはないでしょう。 このような比較は本来、鏡像との比較が目的であったはずであり、つまるところ比較が目的であるという意味では「4」のMental rotationと同じで、どちらもMental rotationなのです。「4」のMental Rotationは、鏡像の方だけを回転することですが、これも実際に目に見えるように行うことは不可能なので、Mentalというのも当然でしょう。

Mayo(1958)では回転の他に、さらにReverse」や「Transform」が並行的に比較されています。その「Reverse」や「Transform」というは物体の各点が一つの方向だけで逆転することで、つまり鏡面対象の形に変形するということそのままであって、こうなると移動や回転といった物体の動きとしては不可能な変化で、あり得ない「変形」になってしまいます。

ここでこれ以上Gregory説Gardner説あるいはMayo説に深入りすることは煩瑣になるので避けたいと思います。以上の例で私が言いたいことは、これらの文脈でRotation(回転)やReverssal(逆転)など呼ばれているものはつまるところ二つの形状を比較するための操作であり、比較アルゴリズムともいえることです。これは物理的なプロセスではなく、むしろ思考プロセス、それも幾何学的思考のプロセスというべきです。それがMorrisではHaig(1998)の光学的説明と併せて物理な説明として一括され、心理学的な説明と対置されていたわけです。このような命名や分類は本人にとっても後に続く研究者にとってもミスリーディングという他はありません。

ともあれ、鏡像問題において物理学的なプロセスは幾何光学的なプロセスのみであり、後は光学的なプロセスで成立した2つの像を観察者が比較するプロセスであることが明らかになったわけです。

以上の光学的プロセスと認知プロセスのそれぞれについてさらに掘り下げる前に、従来説では鏡映反転という事象をこれらの2つの要素に分析することなく一つの現象として説明していたことに注目する必要があると思います。「鏡像問題は物理学で解ける問題なのか?心理学的に解くべき問題なのか?」というような二者択一的な問いかけもその表れといえるでしょう。

高野陽太郎先生が従来説のどれをも「単一の原理によって生み出される単一の現象とみなす点で共通していた」(認知科学VOL. 15, NO.3 Sep.2008)と解釈したのはこの点で部分的に理解できるものです。ただし引用部の後半「・・・単一の現象とみなす点で共通していた」には同意できますが、「単一の原理によって生み出される・・・」という規定は明らかに従来の諸説を歪曲した表現であると思います。例えばMorris(1993)はGardner(1990)を「Mental rotation(心的回転)」という一つの熟語で表現していますが、Takano(1998)は同じGardner説を「Conventional description hypothesis(言語習慣説)」と呼んでいます。「心的回転」と「言語習慣」とは全く意味が違いますが、こうなったのは結局Takano(1998)もMorris(1993)もGardner説の主張の一部を取り出してこの説を名付けているだけということでしょう。単一の原理を暗示するように命名したからといってGardner説を単一原理による説明とは言えないでしょう。Gardner説にも光学プロセスが潜んでいない保証はありません。いずれもGardner自身が自説にそのような名前を付けたわけではありませんからね。

高野先生はTakano(1998)においてGardner(1990)を引用していますが、そこでGardnerは次のように述べています「Such a reversal [mirror reversal] automatically changes an asymmetric figure to its enantiomorph」。ここでGardnerが言っていることは、鏡映対が互いに対掌体になっているということで、これは幾何光学的なプロセスが原因なのです。ですから、Gardner説には幾何光学的な帰結が前提として含まれているわけです。

高野説による従来説の解釈は詰まるところ、従来説において結論の前提となる諸々の条件を差し置いて結論の部分だけを取り出しているだけだと思います。高野説自体についてもそれが言えると思います。例えば高野説の「Type 1 Reversal(視点反転)」では観察者と鏡面と鏡像とを上から俯瞰した絵が描かれています。観察者自身が絶対に見ることのできない観察者自身や鏡の裏側に生じる鏡像を上から俯瞰したような絵はどうして描けるのでしょう?これは幾何光学の帰結を利用したものに他ならないのではありませんか?同様に「Type 2(光学反転)」についても、「Type 3(表象反転)」についても別個にイラストレーションがありますが、何れも幾何光学の帰結を描いたものであり、対掌体という表現を用いるとこれら3通りだけではなくすべての鏡映対の形状が対掌体という一つの言葉で表現できるのです。ですから対掌体に基づく理論では絵を描いたり、といったケースごとの具体的なイラストレーションは必要ないのです。これであらゆる鏡像問題の少なくとも前提となる部分については包括的な説明が実現されているわけです。(2017年4月26日 田中潤一)



2017年4月18日火曜日

鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないこと

【今回のキーポイントまたは結論】
  • 鏡映反転を含め鏡像の問題はすべて立体像すなわち三次元の像を基本として考察しなければならない
先回には像、光、および物体、三者間の区別の重要性について考えてみましたが、今回は鏡像の問題を考える際には必ずこの三者(三種類)の存在(存在形態)を想定しなければならないことを強調したいと思います。

例えば文字の場合、文字が物質性を持たない平面であること、さらに抽象的な記号としての形状であること、この二重の意味で物質性を持つ物体からは切り離して検討することできます。しかし、そもそも現実の鏡面で生じる鏡映反転という現象は、物質性を持つ物体を欠いては絶対に生じない現象なのです。

【光】
光は照明により物体から乱反射を介する場合と発光体がそのまま鏡に映る場合とがありますが、何れも光の存在が不可欠であることは自明のことでしょう。

【物体】
鏡については、これも物体ですが、この際一応鏡面という抽象的な機能が問題になっているので必ずしも物体としての鏡を想定する必要はないかもしれません。しかし、鏡面で反射する光の光源としての物体は、絶対に想定しなくてはいけません。そうして物体は常に三次元の存在であることも忘れられてはならないことです。

【像】
鏡像の問題なのだから像の存在が前提であることもまた自明であるといえます。ここで重要なことは、像は抽象的な形状つまり幾何学的な形状そのものではないことです。幾何学的な形状は像の属性と考えることができますが、像そのものは全体としても部分的にも何らかの意味を持つので、単に幾何学的な形状ではないということです。また像の存在は常に観察者の存在をも想定していることになります。

以上から、一つの帰結として、鏡像の問題は常に三次元の立体でなければならない物体の存在を前提として考察する必要があることがわかります。

何度も繰り返し取り上げて申し訳ないのですが、高野先生の「表象反転」は、抽象的な記号としての文字だけを他の場合と完全に切り離して全く異なった原理、つまり他のケースと共通する原理を含めずに説明している点でも、今回の要請からも容認できないものです。記号としての文字であっても鏡映が実現するには何らかの物体表面に書かれていなければなりません。どんなに薄い紙であっても、透明フィルムに書かれていようとも、質量を持つ物体なしに鏡像は成立しえないわけですから。

もちろん、抽象的な記号としての文字の鏡映反転を考察することは可能であるとしても、一つの付加的な条件として、すべての鏡映反転に共通する条件への付加的な条件として考察すべきものです。
(2017年4月18~20日 田中潤一)

2017年3月27日月曜日

鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すること

前回記事では「Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する」という副題を掲げていましたが、Morris説についてはTakano(1998)中の引用との関連で言及した限りで批判したまでで、そこで全体としてのMorris説について批判にはなっていませんでした。ただこれまで読込んだ限りで感じることは、既存の諸説についてOptical explanateion、Explanation based on symmetry、Physical rotation、Mental rotation、などと命名しているのですが、こういう命名が諸説をどこまで的確に表現しているか、あるいはこういう名称がその後に一人歩きして他人の研究に影響を与えすることで混乱が生じていないか、かなり危ういものを感じます。特に「Symmetry(対称性)に基づいた説明」を単に「Symmetry」という単語だけで見出しとして使用していることは非常に問題だと思います。


さて、前回記事と前々回記事ではHaig説における2通りの説明のうち最初の説明を私が高く評価していることがご理解いただけると思います。だからこそ、Haig説を「たらいの中の赤ん坊」に喩え、赤ん坊を流してしまったMorris説と高野説を批判していたわけです。というのも、この説明では鏡映反転において比較される対象は何(何と何)かという、本質的でありながら意外と忘れられがちな問題を浮び上がらせているからです。今回もまた同じ図を転載します:

この図では鏡像が表現されていません。それというのもHaig氏は光線という物理的な存在だけで説明しようとしているからですが、同じような状況で鏡像を表現した図を私が作成したことがあり、次にその図を掲げます:

この図ではHaig(1993)の点Eに相当するのが(A)で、Eの共役点Fに相当するのが(A2)です。

さて、鏡像問題のテーマそのものである「Reversal」、「逆転」、「反転」、「変換」などが論じられる際に、鏡像はいったい何に対して逆転しているのかを規定せざるを得ないはずですが、それがどうも自明と言うわけには行きません。初期の論文であるPears(1952)には「Counterpart」と表現されています。確かにそうですが、これでは何のことか分かりません。大抵の著述では「Object」あるいは日本語の場合「実物」と表現されることが多いようです。

「実物」と表現されることは一見、自明のように見えますが、本当に自明といえるでしょうか?自己鏡像の場合は言葉の上から当然、「自分自身」ということになり、多くの著者はそのように表現しています。しかし、肩から下の自分自身で見える部分は別として、自分自身では絶対に直接見ることのできない顔や頭部について、どうして逆転が観察できるのでしょうか?

他者鏡像の場合は確かに鏡像と同様に他者そのものを直接眺めることができ、場合によっては同一視野の中で同時に見比べることもできます。しかし幾何光学が明らかにしているところによれば、鏡像はその他者の表面から発散する光線が鏡に反射することで観察者の眼に見えるのであり、光線を眼で受け止めることによって見ているという点で、鏡を介さずに見る場合と全く同じです。つまり、他者から出る光線がいわば二手に分かれて違う方向から観察者の眼に到達することで2つの像を見ているのであり、その人物自身を見ているという点で両者に違いはありません。したがって、鏡映反転における「逆転」は「鏡像と実物(物体自体、本人自身)」との関係であるとは言えないのです。

以上のように、逆転は鏡像と、いわば直視像との2つの像を比較した上で観察されるものであり、一方が他方に「Transform」あるいは「変換」されたなどと考えることは誤った結論に導かれる原因になりかねません。

鏡像と対になる、あるいは比較される対象が「実物(物自体)」ではなく「直視像」とでも言うべき「像」であるといえる根拠は他にいくつも挙げることができます。例えば:
◆ 鏡像も直視像も照明光の存在で生じるものであるのに対し、物自体は常に存在している
◆ 色や平面パターンは眼で観察することで始めて認知されるものである。つまり物自体ではなく像に生じる属性である
◆  物の形状は幾何学的な計測で把握し、表現できるとしても、結局のところすべては感覚に基づいているのであり、そのようなデータも結局のところ「像」と言うほかはない

今は思いつかないものの他にも根拠はいくつも挙げられるように思います。

(以下、3月29日の追記です)
最後に、鏡映の関係が何と何との関係であるかを明らかにすることは鏡像問題の根本であり、これを曖昧にしたり取り違えたままでは鏡像問題になりません。高野説は文字の鏡映反転認知は文字の記憶と比較することで生じるとしています。このプロセスはレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったと言われる反転文字、いわゆる鏡文字が通常の文字とは逆転していることに気付くプロセスと何も変わりません。ただ逆転に気付くというだけの話であって、こうなればもう鏡像問題そのものを放棄したに等しいといえます。


 (以上2017年3月27日、29日 田中潤一)


2017年3月15日水曜日

鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する

鏡像の「像」、英語ではMirror Imageの「Image」とは何でしょうか?

幸いなことに、語源についてはいざ知らず、日本語の像と英語のimageはだいたい同じ意味で(専門用語としても一般用語としても)使われているようです。 ただ日本語の「像」は漢字の熟語として使われる意外には単独ではあまり使われず、かわりに「イメージ」が使われることが多いですね。

「像」も「イメージ」も実に多様な意味で使われています。そういったわけで像とは何かという議論になるとあまりにも多岐にわたる議論になって、とても収拾がつかなくなるでしょうし、鏡像問題の枠を超えてしまいます。ただし、鏡像問題で重要な要素である光学あるいは幾何光学的に定義される「像」については、明確にして理解しておく必要があります。というのも、そもそも鏡像が光の存在下で生じていることはまあ、光学の知識などを知らなくても普通の人なら理解しているとはいえますが、なぜ実際に鏡で見ているように見えるのかということは、光学の知識なしでは絶対に理解できないからです。本当は眼のしくみについても理解しなければならないはずですが、それは当面ブラックボックスに入れておくとしても、光の直進と反射の理屈を知る必要があります。

鏡映反転の謎はプラトンを悩ませたと言われています。プラトンのような超天才でも鏡映反転の謎が解けなかった理由の少なくとも一つは、プラトンの時代には幾何光学が成立していなかったためでしょう。プラトンは幾何学者ではあったけれども幾何光学はまだ存在もしていなかったというわけですね。しかしプラトンは当時のあり合わせの知識で安易な説明を付けて満足するようなことはしなかったわけで、これは逆にプラトンが真の科学者でもあったことを示すものだと思います。

ということで、鏡映反転の問題がまともに議論されるようになったのは光学の、少なくとも光の直進と反射の法則が明らかになった後、つまりヨーロッパのルネッサンス時代以降のことになるのではないでしょうか。 たとえば哲学者のカント。

数学者で科学者でもあったカントが鏡映反転の問題を考えたと言われています。これは私見ですが、カントはどうも鏡映反転の問題を考えているうちに、いつしかもっと抽象的な空間の問題に移行してしまい、具体的な鏡映反転の問題を置き去りにしてしまったように思います。というのは鏡映反転の問題からもっと抽象的な空間の問題に移行することで、後の学者などによって幾何学的な対掌体の概念がやがて明らかになってくるからです。ここではこういう歴史的な問題は余談ということにしておきます。(注:私はプロレゴ-メナの日本語訳しかカントの著作は知らないので、上記カントの考察について考えたことは、プロレゴ-メナから読み取れる限りのことです。)


さて、以上のような次第で幾何光学の基礎、少なくとも幾何光学における像の定義を知らずに鏡映反転のメカニズムを考察することは現代では無意味であることが分かります。

とは言え、幾何光学で「像」の概念が完璧に定義されているかといえば、必ずしもそうはいえず、「像」の本質を問うような議論はあまりされていないのではないでしょうか? ただし、幾何光学(この場合は結像光学という分野もあるようですが)で取り扱われる限りの実像と虚像の定義、少なくともそれらの像が成立する位置や大きさなどは厳密に定義されているはずで、それらを正しく扱わない限り、幾何光学を論じること自体が無意味です。

日本人の場合、少なくとも高校までに幾何光学の基礎、光の直進と反射の理論については習っているのではないでしょうか?例え習っただけで十分に理解していないとしても、 少なくとも専門家には鏡像成立のメカニズムが理解されていることを納得しているので、鏡を見ても不思議に思わず、安心していられるのではないでしょうか。光の反射による鏡映のメカニズムが知られるまでは、鏡の作用は日本でも神秘現象だったのです。もっとも何らかの自然現象であるらしいことは経験的に分かっていたでしょうし、多分、江戸時代くらいにもなれば、殆どの場合は特別な神秘現象ではないらしいという程度のことも経験的には感づいていたとは思いますが。とは言え、鏡や水面の向こう側にこちら側の景色が映って見えること自体は謎であり、不思議なことだったのです。幾何光学によって少なくとも大幅にこの謎が解明されたわけですから、幾何光学の理論を無視したり、理解せずに鏡映反転の謎を解くことは無謀であり、知的後退と言わざるをえません。

ただ、現在の科学は数多くの専門分野にわかれており、例えば小林秀雄もどこかで、「科学者も自分の専門分野以外のことでは素人と変わらない」と書いていたように記憶しています。 それは全くそのとおりでしょう。前回に考察したHaig氏の説明を見ても、Haig氏は心理学者を、「光学を知らない」ということで批判していますが、当のHaig氏は光という物理的な存在について考察しているだけで、「像」という物理的ではない存在については非常に無理解のままです。一方の高野先生は幾何光学の基本的な概念を理解していません。これについてはHaig氏の心理学者に対する批判がそのまま該当するのかも知れません。

そうはいっても、科学が多くの専門分野に分かれているとはいえ、心理学は感覚や知覚の問題を扱わざるを得ないのであって、生理学を通じて物理化学と不可分とも言えるのではないでしょうか。だからこそ、マッハのような物理学者が心理学の発展に貢献しているのではないのでしょうか? ですから、少なくとも知覚心理学のような分野で、特に視覚に関連する分野で幾何光学を正しく、少なくとも必要な範囲で、理解していないことは致命的な結果をもたらすと言わざるを得ません。

そこで前回の続きですが、ここでもう一度Haig論文の図を次に引用します。


前回は私の考えによるHaig説の批判でした。その際、特に必要はなかったのでHaig説の具体的で詳細な説明はしませんでしたが、今回、高野先生によるHaig説批判を検討するに当たってはそうも行かないので、まず簡単にHaig説の主張そのものを要約しておきます。なお、以下の数節は今回のテーマ「虚像について」とは必ずしも関係なく、また煩雑なので、青色文字にしてあります。適当に飛ばしてお読みください。

Haig説では次の2つの異なる方法(どちらも上図に基づいていますが)で鏡映の左右逆転を説明しています。ただし基本的な原因が光の反射の法則にあるとする点が両者に共通しています(Morris氏や高野先生などはこれを「光学仮説」と呼んでいます。要するに幾何光学に基づく説明のことです):

① 上図で顔(face、右側の四角形)から出る光を鏡(mirror、左側の四角形)で反射させてEの位置で見た像を、Fの位置(conjugate point、共役点)で直接見た像と比較すると、上下(AC)は逆にならないが、左右(BD)は逆になる

② 上図で(a)のように入射光の作る面(APQC)と反射光の作る面(PQE)が重ならない方向(Tangential)の場合は方向が逆転しないのに対して(b)のように、入射光の作る面(STBD)と反射光が作る面(STE)が重なる(同一面)場合には方向が逆転して見える

以上の①と②の二通りの説明をしているわけですが、高野先生はまずMorris(1993)を引用して①を否定しています。その根拠は、Eの位置で鏡像を見ている人がFの位置に歩いて移動して直接(鏡を透過させるか鏡を取り除いて)顔を見た場合を鏡像と比較すると確かに左右だけが逆転するが、歩いて移動せずに上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でFの位置まで移動した場合は左右ではなく上下が逆転するではないか?だからHaig説は間違いである、と言うものです。

端的に言ってこのMorris(1993)による批判は間違っています。確かに観察者が上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でEからFに移動したとすれば左右ではなく上下で逆転しますが、だからといって、普通に歩いてEからFに移動した場合に左右が逆転することまでを否定することにはなりません。何れの場合も上下か左右のどちらかで逆転しています。要するにMorris(1993)の説明はHaig説に条件を付けているだけであって、これでHaig説のすべてを全面的に否定することはできないのです。前回記事で私が説明したように、対象が平面であって「鏡映で左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する回答である限り、Haig説(上記①の説明)が間違いであるとは言えないのです。


次にTakano()では上記②の説明を、次のように否定しています。「 If his explanation were correct, an up-down reversal would be observed by the eye located on the elongation of AC in Figure I A because the optical layout becomes essentially identical to that in Figure I B, producing what Haig called a "sagittal view" (pp. 864865).

これは正当な批判であると考えられます。確かにACの延長線上、例えばCの下方で鏡を見た場合は上下方向をHaig(1993)のいう「Sagittal」面で見ているのにも関わらず上下が逆転して見えることにはなりません。この点でHaig説は誤りです。ただし、この説明が誤りであるからといって①の説明までを否定できるわけではありません。①の説明と②の説明は、両者が光反射の法則に基づいている点で共通していますが、一方が否定されたら他方も否定されるという関係ではありません。①の説明が、例え条件付きであっても有効である以上、「光学仮説」を全面的に否定することはできないのです

Haig説の問題は、「Sagittal」という用語の用い方にもあるようです。手元にあった2つの理化学事典(岩波理化学事典と研究社理化学和英辞典)で調べてみましたが、光学にはSagittal planeSagittal rayなどの専門用語があるものの、「回点対称な結像系」で定義される用語だそうです。つまり凸レンズなどによる実像についてのみ、意味を持つ用語ではないかと思います。鏡像は虚像であるし、文字通り鏡面対称であって回転対称な結像系ではなく、光学用語としての「Sagittal」にはあまり意味がないと考えるのですがどうでしょうか。

前回の記事で私は「Sagittal」を解剖学用語として理解したのですが、確かに光学、具体的には結像光学でこの用語が使われているようです。しかし鏡像の問題では結像光学で使われるこの用語と概念に意味はないことになります。ただし、この用語「Sagittal」を解剖学の用語と意味で解釈すると鏡像問題において重要な意味を与えることができます。(解剖学用語としてのSagittalについては、インターネットで画像検索すればすぐに分かります)。

というのは、解剖学用語としての「Sagittal」は人間の上下・前後・左右に関わる用語であるからです。上記Morris(1993)の批判に見られるように、観察者の姿勢と向きは鏡映反転において重要な意味を持っています。ところがHaig説では観察者を含めてすべて1つの点でしか表現されていないのです。そこにSagittalという解剖学にある用語が入ってきたので、私はその前後をきちんと読まずに、ここに観察者の姿勢と方向の要因が加えられているのかなと考えた次第なのです。しかし光学的な定義ではSagittalにさしたる意味はなさそうです。

もしかすると、Haig説では観察者、つまりEで示される眼を持つ観察者の上下・前後・左右の三つの軸の一つである前後軸が、光学でいうSagittal planeという概念にすり替えられているのではないかと思われるのです。上図には観察者は眼の位置だけで表現されています。しかし、観察者が正立して鏡面に向かっていることは暗黙の中に了解されています。Eの位置にいる観察者がFの位置に移動するとすれば、観察者の前後軸と左右軸は逆転しますが、上下軸は逆転しません。長くなるのでこの問題についてはこれまでとします。


以上はHaig説の問題点あるいは誤りと言えますが、今回のテーマである虚像に関連する問題として高野説には上記引用の後の2つの節で重要な誤りが見つかります。引用すると長くなるので省略しますが、次の節とその次の節では、鏡像を、鏡面上に生じた平面パターンのことであると認識した上で議論が展開されています。現に、Haig(1993)からの引用された上図に高野先生が追加された説明には、「The mirror image, PQ, of the vertical line segment,」と書かれていますが、PQmirror imageというのは明らかな誤りで、幾何光学の定義に反しています。PQは、鏡像でも鏡像中の線分でもありません。前回の記事で私が述べたように、この図には鏡像は表現されていません。この部分を分析してみようと思いましたが、これらの節では「Optical layout」という定義されない曖昧な表現がキーワードのように使われているので、分析するのは非常に難しいです。ただ、この用語が幾何光学で定義されている虚像(この場合は鏡像)を意味しているように受取ることができます。とすれば、高野先生はここで鏡像の二重定義を行っていることになります。これは高野説のその後の展開の基礎になっていますので、この辺の論理を明確にしておくことは重要だと思います。高野先生は鏡像が平面であるという理由で鏡像が相手の対掌体であることを否定しておられますが、幾何光学で定義される鏡像は平面パターンではなく、鏡の表面に生じるものでもないのです。

まず、この文脈で言えばOptical layoutという表現で何を意味しているのかを具体的に、明確にする必要があります。Layoutの本来の意味からは外れますが、上図のような幾何光学の光路図を指しているのでしょうか?その場合は場合によっては具体的にどの図のどの部分であるかを示す必要もあります。あるいは新たに図を作成する必要があるかも知れません。


ここでは、私は専門家でもないので詳しく説明しませんが、幾何光学では鏡像を含めて虚像について厳密にその位置と大きさ、また方向もきちんと定義されています。それらの定義に反する説明は現在の幾何光学の大系そのものを否定することになり、否定するのであればその根拠を示す必要があります。

とはいえ、幾何光学で厳密に定義される虚像というのは、最初の方でも述べましたが、位置とか大きさとか、要するに技術的な展開が可能な範囲でしか定義されず、像そのものについて何ら明確な定義はおこなわれていないように思います。そもそも簡単に辞書的な「定義」で済ませることは不可能な問題であるのかも知れません。しかしそれこそが心理学者、認知科学者、あるいは認識論学者の仕事であり、使命なのではないでしょうか?

虚像について考えることは像そのものについて考える上で最上の手がかりです。


今回の引用参考文献:
Nigel D Haig, 1993 "Reflections on inversion and reversion" Perception1993, volume 22, pages 863-868

 Reg C Morris, 1993 "Mirror image reversal: Is what we see what we
present?" Perception, 1993, volume 22, pages 869-876


Yohtaro Takano, 1998 "Why does a mirror image look left-right reversed?
A hypothesis of multiple processes" Psychonomic Bulletin & Review 1998,5 (1), 37-55


以上(2017年3月15日 田中潤一)