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2022年9月4日日曜日

ゲーテの神秘主義と人文・社会科学 ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その4

 ゲーテは端的に詩人であり同時に科学者であったといわれ、本人も自らをそのように規定していたといわれる。ここで科学者とはもちろん自然科学者であり、社会科学者ではない。第一当時はまだ社会科学とか人文科学というような概念が確立していたとは考えられないが、科学者としてのゲーテの業績はすべて自然科学に分類されるものである。もっとも、自然科学の著作とされる色彩論などには当時の科学研究への批判や言語の問題なども多く、評論的な部分はむしろ人文科学的である。私はかつて岩波文庫版の「色彩論」を読んだことがあるが、この本に収録されていたのは色彩論とされる著作の一部分で、そこに含まれていたのはむしろ、そういう近代科学の一傾向に対する批判に該当する内容が多く、特に科学における言葉の用い方に対する考察と批判が多くみられ、それはむしろ言語論といってもよいような印象を受けた。とはいっても、ゲーテのそういう著作が自然科学とされていることは確かである。ただし、当時に自然科学という表現があったのかどうかは知らない。自然科学という言葉は社会科学と対になった言葉であるから、少なくとも当時はまだあまり一般的ではなかったのではないかと思われる。

詩と科学がゲーテの創作分野といえるとすれば、前回記事で取り上げた占星術や錬金術は創作分野とは言えないが、研究分野であるとはいえる。この占星術と錬金術は、今では天文学と化学の前史のような扱われ方をされることが多いが、ゲーテにとってはそうではなかったことがわかる。特に占星術の方は一般的に言っても、今でも天文学とは独立して連綿として引き継がれていることは否定できない。

占星術は神秘主義的ではあるが、取り扱う素材や内容は、個人または国家や社会あるいは人類の歴史と未来に関わることであって社会科学や人文科学で取り扱われる諸々であるといえる。一般に占いは統計学であると言われることがよくあり、確かにそういう一面はある。しかし占星術の場合はそのような社会・人文的な諸々を天体とその動きと関連付けることに特徴がある。こういうことは社会科学ではありえないことであり、占星術が神秘主義である所以であるだろう。

占いに関連して言えば、ゲーテは有名な観相学者と付き合いがあり、観相学にも興味を持ったことがわかる。もちろんこれは当時の一般社会の傾向でもある筈である。観相学とは人相学であり、一言でいえば、身体の外見と人の精神性との関係性であり、この場合の身体は医学や生理学とは異なり、身体そのものではなく、身体の表情といえる。この点はまた非常に興味深い問題につながるが、当面はまあ保留である。

一方の錬金術の場合、これは後にゲーテの影響を強く受けたユングがここに心理学との関係を見出して「心理学と錬金術」を著したことにみられるように、現代の心理学と関係付けられるとすれば、内容的に人文科学的要素を持つことになる。

錬金術が現代の心理学や脳科学と異なる点は、錬金術においては物質と精神が関連付けられていたことであり、ここでの物質は人間や生物の身体ではなく無機物であり、元素でもある。実は私はユングのこの本をその日本語訳が出版されたときに購入して、一応は通読した記憶がある。こうなると、ここでこの件で考察を掘り下げるとすればこの本を再読しなければならなくなりそうなので、この件は言及するだけにとどめておかざるを得ない。

以上をまとめると、近代科学が切り捨てたように見える学問あるいは知的な営みは、実質的に途絶えたわけでもなく、何らかの形を変えて、あるいは変えずに受け継がれ続けていることがわかり、ゲーテにおいて特に顕著にそれらを総合的に掘り下げた考察が行われたということかもしれない。

ここまでの議論は前回の書き出しのとおり、ヨーロッパのキリスト教文明の歴史における話であって、当然それ以前からヨーロッパ文明は存在しており、またヨーロッパ文明自体、その他の文明と隔絶していたわけでもないことはもちろんである。

2022年7月3日日曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その1

 かつて、というか私の若いころの話だが、「反共」、あるいは「反共主義」という言葉の意味するところはそれだけで印象が悪い内容であったように思う。少なくとも私にとって印象の悪い言葉であった。もちろんそれには当時の社会一般の常識的な印象を反映していたはずである。共産主義そのものに同調する人は多くはないものの、日本共産党は安定して勢力を伸ばし続け、極端な反共主義者は共産主義者以上に嫌われるような風潮があったように思う。私の場合、そんな深くも強力にでもないが外面的な共産主義の影響を受け、少なくともあこがれる程度までは影響を受けていたとはいえる。

ソ連崩壊後はソ連や東欧諸国で実際に効力を持っていた共産主義や依然として共産主義国家であった中国の共産党も含めて共産主義や共産主義政党に対する反感は増大し、理念としての共産主義の権威性も大幅に低下した印象がある。しかしだからと言って、反共や反共主義に対する印象が向上したとか、悪い印象がなくなったかといえばそうでもない。むしろ反共や反共主義という概念自体が希薄になって、この言葉が使われることも少なくなってきたのではないかと思われる。

共産主義体制や理念としての共産主義も事実上破綻したにもかかわらず、反共産主義が盛り返すようには見えないのはなぜなのか?私は、それは宗教と科学主義の問題が絡んでいるように思われる。というのは、共産主義は一応、少なくとも形式的には反宗教であり、逆方向から言えば多くの宗教は反共産主義であった。つまり共産主義は唯物主義であり、科学主義であることが建前であったということである。

言い換えると、理念としての共産主義は科学主義であるという点で、今でも一部の知識人、常識人の心をとらえ続けていると思うのである。反共主義は反科学主義であり、宗教的である場合が多いという点で、一部の知識人や一般人にもに忌避される傾向は今でも持続しているといえる。

要するに、共産主義と反共産主義との対立関係が科学主義と宗教との対立を含意しているともいえようか?もっと単純に言い切ってしまえば、科学主義と宗教との対立関係を置き換えているともいえるのである。そこで科学主義と宗教との対立関係を分析する必要が生じるのであるが、これはまあ難しい問題である。

なによりも、その前に、現実の共産主義団体や反共主義団体が、各々それらの理念を体現しているかどうかはまた別の問題としてあることである。こういう問題は理念だけを取り出して考察することはまず不可能だから厄介なのである。

一方現実の科学上の諸問題で科学を尊重することと科学主義とはまた別物であることも考慮しなければならない。例えば、端的に言えば特にCO2温暖化説において日本共産党を含めて共産主義的勢力の科学無視、あるいは科学的ないい加減さについては、今はもうあきれるばかりである。一般的に言えば形式的に科学的な表現を使用するだけに過ぎない場合や一部の科学者の所説を盲目的に支持するに過ぎないことが多いのである。いわば科学は内容よりもむしろ形式と方法であって、この形式と方法でカバーできる内容というのは限られているともいえるし、適した対象もあれば不適切な対象もあり、人間の知的活動の分野としては極めて限定的なものであることが次第に明らかになってきたのが現在ではないかと思う。その点で、いまや政治思想の拠り所を科学に求めたり、逆に科学の拠り所を政治思想に求めたりすることは、時代遅れになりつつあるのではないかと思うのである。

公開日2022年7月3日

修正および加筆2022年7月6日

2013年1月27日日曜日

岡潔の科学観とゲーテの言葉 ― 科学と人間的なもの ― 科学と陰謀

小林秀雄と岡潔の対談を掲載した『人間の建設』を文庫本で読んだ。小林秀雄全集から文庫本に再録された薄い本で昨年発行され、先日購入したのは今年の第八刷。茂木健一郎氏が最後に解説文を書いている。この本を購入する気になったのは、岡潔が小林秀雄を相手に、相対性理論について、かなりのスペースを割いて説明というか、見解を述べていたので、詳しく読んでみたいと思ったからであった。

今は一読しただけなので、もちろん難しい話でもあり、その個所については何とも言えないが、そのあと岡潔が科学一般について簡潔に定義しているところがあって、それは非常に簡潔で当を得た見事な定義であると思われた。その個所は、「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張を入れる。・・・」

この発言自体は相対性理論についての文脈で、この後もまだその文脈は続くのであるが、相対論に関わる文脈を離れても、この定義「人間の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのです・・・」は非常に有効な一つの定義というか、科学についてのもっとも本質的な局面を表すものといえるように思われる。当たり前のこと、と言うこともできようが、そうだとしてもそれが忘れられがちでもあり、ことに近年は科学についてこれとは異なった面の方が強調されがちであると思えるのである。

この定義は、先般このブログで触れたゲーテの発言にも直接つながるものだといえる。その個所をここに再録すると、

『1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。』

もうひとつ、思い出すことのひとつは私が直接耳にしたたところの、記憶に残っている言葉で、大学の鉱物学教授、T先生が良く口にした次のフレーズである。「・・・科学は人間性を疎外しますからね・・・」。そういえばこのT先生もゲーテのファンで、授業中に時に専門の講義ををそっちのけでゲーテがどうこうという話を始めたりするものだから、一部には不評だった。(もっともゲーテ自身が科学者、地質学者を任じていたこともあり、他の先生も専門的な文脈でゲーテに言及することはあるにはあったし、特に生物学者や地質学者にはゲーテのファンが多いということはある)。で、「疎外しますからね、・・」の続きはどういうことかと言えばそれはつまり、自然科学は人間性を疎外(この字の「疎外」で良いのだろうと思うが、個人的には、よくこの意味を知っているわけではない)するので、他方で哲学や文学も続けてこなければ持ちこたえられなかったであろうということ、自然科学だけでは精神的に耐えられなかった、ということではなかったかと理解している。

以上の三者に共通することは、科学が人間的なものを排除することで成立するという認識だといえるが、ゲーテは「いっそう高次の人間」と言ったり、「魂の言語が自在に駆使できなければならない」と言い、「魂の言語」なる概念を持ち出す。こういう表現でゲーテは何を言おうとしているのであろうか?これは当面、難しすぎる問題である。

いずれにせよ、ゲーテはこの科学の問題を言語の問題として語っているのに対して、岡潔は言語の問題を捨象して語っている、あるいは言語には触れていない。そういうことを含めてこの二つの発言の微妙な差異を分析することは興味深いものになるような気もするが、他方、そういう緻密な分析には深入りせずとも、このような科学の定義、科学の本質的な局面からすぐに思い浮かぶことは、理科系学問と文化系学問の違い、人々が自然科学的な考察に慣れた人々と、歴史や社会的、政治的なものへの理解に慣れた人々に分かれる傾向があることなどの問題の考察への基本的な糸口になることである。

少なくとも、知的な専門分野が理科系と文化系に分かれていることは自然なことでもあり、止むを得ないことでもあることが、このことからも納得できるのである。

他方、理科系の分野では思考から可能な限り人間的な要素を抜くということだとしても、完全に抜き去ってしまうことが不可能であることはゲーテの言葉からも明らかである。言葉そのものが人間的なものから生じているのだから、これはもうどうにもしようのないことなのだが、科学というものはそこを何とか無理をしながらも自然をとらえようと努力してきたのだろう。


また、同じ理科系と言ってもその科学性の純度には分野によって大きく差があるともいえる。技術系、工学となると、これらほど一面で人間的なものに束縛される分野もないからである。たとえば科学技術の最たるものであるコンピューター、ロボット技術や情報技術においては機械装置やソフトウェアを擬人化せずに、つまり擬人的な言語表現を用いずに使用することはもちろん、設計することも、説明することも不可能であろう。

当然、技術、工学や医学のみならず、人文科学とか社会科学などの「科学」性が問題になる。これらの学問分野が科学であるかとか、そうでないとかの議論は昔から盛んにおこなわれているが、特に心理学や言語学、精神医学、他方では歴史学などで問題になることが多かったのではないかと思う。最近では脳科学とコンピュータサイエンスの発達に伴って急速にこれらの人文系、社会学系分野の科学性が求められるような風潮が加速してきたような印象がある。

こういう現状に照らし合わせて、元の文脈に戻ってみたい。
岡潔は科学の立場からみて、科学に「主張のない科学に勝手な主張を入れる。」と、科学に人間的なものが混入してくることを、つまり科学が不純なものになること、歪められることを問題視しているわけであるけれども、上述の工学や医学のように明らかに人間的な要素の含まれる分野の存在を問題にしているわけではないことは明らかだろう。工学や医学はいわば自然科学の応用であって、工学的あるいは医学的な問題の解決の過程で自然科学的な知見を利用しているのであり、最初から明瞭な目的が前提となっている。科学はその目的のための手段の一つに過ぎない。目的のために手段として利用されている基礎科学の内容そのものに立ち入ることはなく、歪めることもない筈である。

しかし、工学や医学は全体としてのそれら自体が科学そのものであるとは言えない。また、建物の基礎があまりにも重い建造物のために崩れたり変形したりする可能性があるように、科学的な基礎が揺らぐこともないとは言えないだろう。このこと、つまり工学や医学は全体としてのそれら自体は決して自然科学そのものではないということをよくよく認識することは、昨今の風潮から見て特に重要なことであるように思われる。

というのも昨今はどのような分野においてもことさら科学性が強調される傾向が強いからである。自然科学を基礎とする、あるいはそれを手段として用いる工学や医学のみならず、社会科学や人文科学をも科学でなければならない、科学にしなければならない、自然科学と同一の基礎を持たなければならない、といった強迫観念のような考え方が正当であるかのような論調が多いからである。

かつて若いころ、私自身もそのような強迫観念のようなものを持っていた。特に歴史、歴史学に対してそのような考えを持っていた。しかし今ではそのような強迫観念こそが有害なものだと思っている。歴史は歴史、歴史学はあくまで歴史学であって、自然科学と同じ意味での科学ではありえない。科学にもいろいろな定義の仕方があり、定義によっては科学と言えるかもしれないが、少なくとも自然科学と同じ意味での科学ではありえない。そもそも同じ自然科学であっても物理学と生物学あるいは地球科学とが、同一の基礎のうえに立っているとは言えない。

科学ではあり得ないもの、科学になりえないものを科学でなければならない、自然科学と同様の形式を持たねばらならない、同様の条件を満たさなければならない、という無理に科学であるかのように、科学の外観を与えようとするとどこかに無理がかかり、いびつなものが出来上がるのではないかと思われる。そういうものを疑似科学と呼ぶことはできるかもしれない。しかし、言葉の次元でもゲーテが言うように完全な科学というもの、純粋な科学というものは殆どあり得ないもの、いわば理念的なものであるとすれば、事実上あらゆる科学は疑似科学であるということになってしまう。ただ、程度や方式の問題になってしまうのである。

例えば当ブログの以前の記事で取り上げた梅棹忠雄の「文明の生態史観」によれば、著者は、「生態史観は単なる知的好奇心の産物であって現状の価値評価でも現状変革の指針でもない。そのような「べき」、当為の立場に立たなかったからこそ、生態史観のようなものができたと考えている。」と述べている。

梅棹忠雄のいう「純粋な知的好奇心の産物」は科学ないし自然科学とはまた別、というよりももっと幅広いものであると思われる。

「べき」、当為の要素を取り除くことは人間的な要素を取り除くという点で科学に近づいたものになるとはいえるかもしれないが、しかしそれで文明の生態史観が、自然科学と同じ基準で科学であるとは言えないし、梅棹忠雄自身もそこまで科学そのものであるとは考えていなかったのではないかと思う。文明という概念自体が科学とは相容れないものだからである。そのモデルである生物学的生態学にしても、また生物学全般にしてもそうである。これは、生物学が化学と物理学に還元されるとかされないとかいった議論とは異なる。化学や物理学自体にしてからが言葉なくして成立しないもので、完全に人間的なものから解放され得ないともいえる。

もちろん、歴史につきものである過去や現在の事実検証、未来の予測において科学的な手法を用いなければならないし、その限りで科学的な概念と手法に従わなければならない。しかし歴史あるいは歴史学そのものが科学になることは永遠にあり得ない。歴史の真実と科学的真実とは全く別物であるからである。

歴史も、科学も、言葉を用いる。しかし歴史の言葉から人間性を排除することはできないのに対して、科学の言葉からは可能な限り人間性を捨象しなければならないのである。

例えば歴史的な問題で科学性との関係で、疑似科学論議を含めてよく話題にされる問題に「陰謀論」がある。「陰謀論」という歴史理論のカテゴリーのようなものがあって、それが科学ではないとか、「疑似科学」であるとか、「ニセ科学」であるとかの議論が専門の自然科学とされる科学分野の科学者を含め、批判の対象になっている。

陰謀とはまた格別に人間的な言葉ではあり、概念であり、意味である。こういう格別に人間的な概念が岡潔の言う「主張のない科学に勝手な主張を入れる」事と同様、科学的な考察に影響を与えることがあるとすれば科学にとって重大な問題だろう。とすればよく「疑似科学批判」というような科学そのものについて考察すると言えなくもない文脈で、「陰謀」とか「陰謀論」が問題にされるのも表面的には一理はあると言えなくもない。

しかし問題はあくまで科学側の問題なのであって、科学的な考察の中に中に「陰謀」という概念や陰謀そのものが入り込み、陰謀によって科学的結論が歪められたりすることがあるとすればそういうことこそが問題になるのであり、陰謀をあつかうこと、政治や歴史の中における陰謀について何かを主張すること自体が問題になるわけではない。

陰謀論や「陰謀」そのものの具体的な定義は何であれ、「陰謀論」と呼ばれているものは広い意味で歴史、あるいは歴史認識とでも呼ばれるものの範疇にはいるものとみなせるが、すでに述べたように歴史自体も歴史学も、それ自体を科学とみなすことはできないが、そうであるからと言って、疑似科学とかニセ科学とか、あるいは反科学といったカテゴリーに入るわけでもない。単に歴史、あるいは歴史学と呼ばれる一つの言説に過ぎない。真実や事実という見方においても、歴史的な真実と科学的な真実とは別物である

陰謀にしても、陰謀論にしても、そういった概念自体は科学とは馴染まない、というよりも相容れないというべきで、陰謀の定義、陰謀の存在や、陰謀の意義や機能、そういったものをいくら客観的に扱ったところで、科学になるというものでもない。科学が介入できるのは具体的な事実関係だけである。

もちろん、歴史的真実に科学的真実が含まれる、あるいは歴史的真実の前提として科学的真実が必要とされる場合はあるし、多くの場合はそういえるであろう。その場合、科学性を問題にするのであれば、その科学的真実にかかわる部分のみを問題にすればよいのであって、全体としての「陰謀論」そのものが科学ではないとか、これまた明瞭とは言えない概念である「疑似科学」であるといったような定義づけをすることには何の意味もないのである。

また一方、あまりにも人間的である政治的な歴史からは遠く離れた分野であり、純然たる自然科学である地球科学上の問題である「地球温暖化懐疑論」が科学ではないとか、「疑似科学である」とか、主張する人がいる。これには逆の立場もある。CO2温暖化説そのものが科学ではないとか、疑似科学であるとかの主張である。どちらかと言えば、というか程度の問題からいえば、後者の方に正当性があると思うが、こういう正反対の主張が出てくること自体がこういった議論の無意味さを表しているのではないかと思われる。。

地球科学は工学とはまた異なった意味で、物理学や化学とは異なっている。地球科学あるいは地質学、ジオロジーは究極的には地史、すなわち地球の歴史となるべきだという考え方がある。とすれば、人間の歴史、民族や国家や人類の歴史と同様、歴史であるとすれば、人間的なものが相当に入ってくるはずのものであって、可能な限り人間的なものを排除してゆくべき、純粋性を追求すべき科学の分野ではないと思われるのである。

しかしCO2温暖化説を含んだ地球温暖化に関する議論では、この問題自体はCO2という化学物質、太陽活動を含めたエネルギー、そして物理的な時間といった物理と化学の量にすべてが還元される問題である。たとえ人間活動が入っていても、この問題に関する限り人間活動も生物の活動も完全に化学物質と物理量に還元されるのである。それを歴史的に扱うのが地球化学なのである。地球化学的に合理的に説明されているかどうかを判定することがすべてであり、疑似科学であるとかニセ科学であるとかの議論は何の意味も必要性もないのである。

2012年1月12日木曜日

「再生可能エネルギー」の意味 ― 「胡散臭い」ひびき?


再生可能エネルギーという言葉が使われる頻度が着実に増してきているようだ。

去年、この言葉を使用した法律案が提出される頃の話、ある日曜日、昼のテレビ番組でコメンテーターのK氏がこの法案について「胡散臭い」という表現をしていたのが記憶に残っている。

たしかに、脈絡なしでこの言葉を聞いただけでも何か胡散臭いという感じがする言葉である。もちろんこのような言葉はいくらでもある。極端な話、言葉、言語そのものが胡散臭いといえば言えないこともないが、それを言ってしまえばお終いということになろう。

ともかく法律にまで使われている言葉である。きちんと意味を明らかにしておく必要がある筈である。

ちょうど昨日読み終わった書物、内橋克人著「浪費なき成長」に、この言葉が次のように定義されている。
「地球の自然環境のなかで繰り返し再生している現象を利用する無限に近いエネルギー。風力や、バイオマス、太陽光・熱発電など」

この定義は一応、論理的な定義であると思う。これによれば「再生可能」というのは「自然現象」にかかる修飾語であり、エネルギー自体を修飾しているのではないことがわかる。しかし普通に使われている「再生可能エネルギー」あるいは「再生エネルギー」という言葉をそのまま聞いた印象ではエネルギー自体が再生されるとかいう意味になり、実際多くの人はそのような印象を受けるであろう。

この場合、エネルギーという言葉が物理的なエネルギーを指していることに疑う余地はないが、物理的なエネルギーについてはエネルギー保存の法則という大原則がある。その不滅である筈のエネルギーが再生するとか再生可能であるということの奇妙さがまずある。まだ「再生可能」ではなく「再利用可能」であれば何らかの意味があるのだが、それはこの場合当てはまらない。

次に、先の内橋氏の定義が正解であるとすればそのような現象、つまり風や太陽光・熱などが再生しているというのはわかるが、「再生可能」というのは意味不明ではないだろうか?風は地上の何処かで自然に吹き荒れているし、太陽光は常に何処かに降り注いでいる。何が「可能」だというのであろうか?「可能」をつけることにどの様な意味があるのだろうか?

いずれも自然に再生されているとは言えるが、また自然に途切れる場合もある。特定の場所で風は止むこともあり、太陽は雲に隠れることもある。それらのコントロールが「可能」であるならそれは大した技術であるといえるのだが。ちなみに水力はダムによってこのコントロールが可能になっていると言える。
要するに「再生」あるいは「再生可能」が自然現象にかかる修飾語であるとしてもおかしいし、エネルギーにかかる修飾語としてもおかしいのである。

結局この「エネルギー」を「エネルギー資源」とすれば分かりやすくなる。エネルギー資源を簡単にエネルギーと言うのだという事かもしれないが、エネルギーとエネルギー資源は全く異なった概念である。略称という考え方もあるが、略称の場合はちゃんとした正式な名称があってのことである。また「再生」であるのか「再生可能」であるのかも決まっていないようだ。

この場合は日本語と英語のニュアンスの違いによる面があるかも知れない。英語では恐らく「reproducible」に決まっているのだろう。

しかし端的に無尽蔵エネルギー資源とでも言えばそれで済むことではないだろうか、「再生可能エネルギー」とは何か思わせぶりで「胡散臭く」思われても仕方が無いだろう。とりあえず少なくとも「資源」を付けて「再生(可能)エネルギー資源」と呼ぶべきだろうと思う。

そこで「再生可能エネルギー資源」と変えた場合、印象はどの様に変わるだろうか?

単にエネルギーというのではなく「エネルギー資源」になると、かなり具体性が出てくるように思われる。そしてさらに具体的にその資源とは何をさすのであるかという問題が浮かび上がってくるように思われる。

この問題を考える場合に及んで始めて「再生」と「再生可能」との違いが意味を持つようになってくるといえる。太陽光や風力、あるいは水力の場合は「再生」という表現が最適であるとは思えないが、まあとりあえず自然に、不規則ではあるが「再生」されているとは言える。「再生可能」にあたるのはバイオ燃料のことであろう。とくに穀物や燃料用作物を栽培する場合は「可能」が重要な意味を帯びてくる。

天然林の薪などを使う場合はまたこの「可能」の意味合いも異なってくる。天然の森林は人間がコントロールして再生しているとは言えないからである。それでも常に再生はしている。

さらに、石油石炭、天然ガスなどの化石燃料の場合も「再生可能」ではなく自然に「再生」される範疇に入ると考えられる。ただし地質学的スケールで進行する現象だけに、人間的スケールでは「再生」とも「再生可能」とも言うことはできないということであろう。しかし埋蔵量のことなどを含め、わからないこと、解明されていないこと、あるいは隠されていること、公表されていないことなどが多すぎる。

この様に見てくると、事実上、すべてのエネルギー資源は再生エネルギー資源または再生可能エネルギー資源といって差し支えない。ところが、例の再生エネルギー関連の法律では事実上太陽光発電と風力発電のことを意味しているとみなさざるを得ない。再生可能エネルギー資源といってもその意味合いは千差万別であるから、この様なカテゴリーを使うことに科学的な意味は無いのである。

具体的に風力発電とか太陽光発電などといえば良いのである。風力発電と太陽光発電の2つをまとめる必要があるのであれば「気象エネルギー」という言い方が適当だと思われる。いずれも気象に左右されるからである。

いずれにしてもエネルギー資源を「再生可能エネルギー」と「非再生可能エネルギー」の2つに分ける二分法には何の意味もなく誤解や欺瞞が入り込む隙間だらけであるといえる。


2011年12月28日水曜日

政治とビジネスに取り込まれた科学

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DATE: 04/29/2011 21:03:27
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今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。

あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。

機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。

自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。

環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。

『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』という呆れた新刊本

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TITLE: 『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』という呆れた新刊本

CATEGORY: 「ニセ科学」論議

DATE: 03/08/2011 21:37:34
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書店で表記の新刊本(文芸社)が目についたので手に取ってみた。

表題からして、おかしな本であると私には思える。というのは、もう一般的に通用するようになってしまった陰謀論という言葉自体、奇妙で無責任な意味不明の造語であると思われる上に「パーセントで判定」という副題がついているからである。中を覗いてみると著者が「陰謀論」の範疇に含めている各種の言説についてそれぞれ「真実度」なるものをパーセントで表示している。これが冗談やユーモアでなく科学であるというのなら、まったくこの本こそが「ニセ科学」(私自身この言葉を認めないが)であり、無責任なでっち上げであることを告白しているようなものである。

いやしくも科学の名において何かをパーセントで表すというのであれば、どのようなデータ用いてどのように計算したかという、計算式を示さなければ何の意味もない。そしてそれを「真実度」と呼ぶとすれば、それは著者がその計算式に恣意的に与えた定義あるいは単なる命名に過ぎない。もちろんその計算式があったとしての話である。抽象的な「真実度」に正確な意味などありえない。意味があるとすれば幻想のようなものだろう。科学技術の専門分野には真実度といった概念があるようだが、それらはその分野において正確な計算式が定義されている筈である。

ちょっと立ち読みをさせて貰うと、最初の方に「地球温暖化はでっち上げだという説」という項目があったのでざっとめくってみた。それによると、地球温暖化はでっち上げだという説の「真実度」は0パーセントだそうである。内容を読んでみても、権威に訴えるだけの科学的に見える用語を使って断定的な表現をしているだけであって、何の議論も論証もない薄っぺらな文章である。そもそもこういう問題を科学的に論じようというのであれば「でっち上げ」などという言葉を持ち出したりすると、ただでさえ複雑きわまりない問題をさらに複雑曖昧にするばかりである。「でっち上げ」などという言葉は使うべきではないだろう。「地球温暖化否定説」とか「地球温暖化懐疑説」とでも言うべきだろう。こういう問題にパーセントを出そうなど大それた事を試みるというのであればなおさらである。

他はぱらぱらとめくってみただけだが、真実度が0パーセントという項目が多く、0.01パーセントというのもある。取り上げられている項目も一貫性があるとは思えないが、どうやら盛んに「疑似科学」批判を行っている人たちが批判の対象にしている言説を集めたと言って良さそうである。「疑似科学」批判の対象と言えば初期にはオカルトや超常現象などだったように思うが、それがいつの間にかそこに政治的な言説が取り上げられるようになり、「陰謀論」という範疇ができあがって来たのではないか。これは筆者の推測。

それにしても何という意味の混乱、科学の乱用だろうか、と思う。科学技術自体の暴走も問題にされる昨今である。科学者、科学的であるこを自認する人達がこんな本を書いているとすれば、科学の信用を落とすばかりだろう。

2010年1月10日日曜日

「疑似」という言葉の弊害

最近、といってももう可成り前になってしまったかも知れないが、2つの文脈で「疑似」が使われている例に遭遇した。

1つはウィキペディアでLEDランプについて調べてみたとき。もう1つは作家の冷泉彰彦氏のメールマガジン[『from 911/USAレポート』第440回、[JMM565Sa]「3Dという文明と日本文化」from911/USAレポート ]の文中にて。

初めの方は、LEDランプの原理で「疑似白色発光ダイオード」という言葉が使われていたことだ。これはもう学会や業界の専門用語として確立しているのであろう。しかし、疑似科学論議の文脈でいつも言うように、疑似という言葉は定義の困難な、あるいは曖昧な概念に対して使われると弊害が大きいように思うが、白、白色という概念も非常に厳密な定義の困難な言葉の1つである。例えば白い紙は赤い光が当たって赤く見えているときも、その紙の色自体は白である、というか白い紙であることに変わりはない。つまり同じ白でも物体について言う場合と光について言う場合では異なった意味になる。そこで白色光という、つまり光源の色に限ったとしてもまた定義は難しい。

たとえば白色X線という用語がある。X線は眼に光としては感じられない。当然色として見えないので比喩と言うべきである。これは連続X線とも呼ばれ、要するに波長を横軸に、縦軸に量をとったグラフでなだらかに連続した曲線をもつX線である。対立概念は白色に対する黒色ではなく、特性X線であり、要するに先のグラフでは鋭いピークを指している。おなじ連続X線でも、個々のケースで波長分布や頻度、要するに曲線の傾き、形は様々である。特性X線のピークにしても完全にただ 1 つの周波数というわけでもなく一定の幅がある。一方先の疑似白色光ダイオードに対する対立概念として「髙演色白色光ダイオード」というタイプがウィキペディアの同じ項目に出ているが、それによれば原理的には上記疑似白色と同じく青色発光ダイオードに黄色の蛍光体を組み合わせたもので、ただ黄色の発光体のスペクトル幅がひろく、多くの波長が含まれているということで、量的な違いに過ぎない。

この種のLED光源に対して三波長型は三種類のダイオードを組み込んだもので、鋭いピークが3つある。ピークの数から言えば2つよりは連続に近い。だからこちらの方が良質な光源だと言う人(科学者)もいる。さらに同じ三波長型であるともいえる液晶ディスプレーと相性が良いそうだが、ピークが鋭いため、「疑似白色光ダイオード」に比べて照明には向かないと、ウィキペディアには書かれている。

こう考えてくると、「疑似」なる用語は殆ど意味がない事が分かる。分類するのなら発光のメカニズム、構造、そして波長分布の特性で分類すべきである。それも三波長というような波長の数ではなく発光体の数と種類で類すべきだ。三波長型はピークが鋭いと言ってもあくまでもそれぞれがピークであり、ただ 1 つの波長というわけでもない。

特に、こういった工業製品などには「疑似」という、誤解を招きやすく、人聞きの悪い表現は避けるべきではないか。

次に、冷泉彰彦氏のメールマガジンの方だが、こちらは映画アバターにちなんで3D映像の文化的意義の考察といった内容で、それ自体は興味深いものだった。このエッセーの中で氏は遠近法のことを疑似3Dと呼んでいるのだが、ここでの「疑似」にも大いに問題がある。やはり定義の問題になってしまうが、「3D」もきわめて多様な言葉で使われてきた言葉である。そのまま正確に表現し直せば三次元という事だが、3Dは情報技術との関わりでよく使われるようになった表現である。もう最近はあまり使われなくなった言葉である「コンピュータグラフィックス」において形態の三次元情報のデータを持っている映像のことではなかっただろうか。アバターに使われている技術での3Dには、もちろん詳しくは知らないが、この意味の3D技術ももちろん含まれている筈だが、それに加えて、画像データだけではなく、視聴者が見る場合の技術、つまり左右両眼で異なった映像を見るという技術の事をも指しているようである。つまり両眼の視差による要素である。これは昔はステレオ写真といったり、立体写真と言ったりしたが、今は動画の場合が多いので立体映像というようになり、簡単に表現するために3Dと言うようになったのだろう。

このように3Dという言葉の意味や用法に相当な曖昧さがあることは先の白色の場合と同じである。そして同様に「疑似3D」という表現には大いに問題があると思うのである。とくに「遠近法」を疑似3Dと表現することには問題がある。

日本語で「遠近法」というと何らかの技術というような印象がある。しかし本来これは技術と言うよりも現象、視覚あるいは知覚の心理的な現象と言うべきではないか。原語の perspective からもそのようなニュアンスが感じられる。絵画や写真の技術とは関係なく、人間の立体的な知覚には遠近法が含まれているのである。両眼の視差による遠近感の知覚は、遠近法を補強する要素に過ぎないといえるのではないかと思われるのである。

遠近法に対して「疑似3D」というような表現を使うと、人間の知覚、認識についての理解を固定化し、硬直化して、理解を深めてゆくことが出来なくなってしまうように思われる。

「疑似」という表現はいかにも科学的で厳密な用語のように感じられる。確かに定義が厳密な場合には便利であり、科学研究を進める上でも効率的であるかも知れない。生物学や鉱物学では生物種あるいは鉱物種、あるいは形式種別において「擬」という表現や、もっと露骨に「ニセ」という表現が使われる場合がある。生物学の種名ではよくあることで、ニセアカシアなどが有名だ。こういうのは固有名詞に近いもので、人名や商品名の様なものだ。この場合の「擬」あるいは「ニセ」は原語では Pseudo で、疑似の場合と同じである。この用語は学術用語的な響きがあるから、なおさらこういう言葉を使われると科学的で厳密であるかのような印象を持たれてしまう。しかし現実はただ効率的で便利だから使われているに過ぎないのである。

固有名の単なる命名を超えて、便利だという理由だけでやたらにこの言葉を使用することは誤解をまねく場合があるというだけではなく、思考を硬直化させ、思考の発展を阻害させるいって良いと思われる。

「疑似」という言葉は可能な限り使わない方が良い。
また言葉の使い方でも効率ばかりを追求しない方が良い。


2009年12月20日日曜日

地球温暖化問題の個人的重圧 ― 前回に続いて

要するに科学上の問題も政治的な問題と同じようなプロセスで決められているという事なのである。しかし、形式的には、科学理論の決定に多数決のような民主主義的ルールは通用しない。そこで拠り所となるのが権威と専門性なのだ。


前回の冒頭で述べた前提を繰り返すと、例外はあるにしても、科学的権威、政治的権威、宗教的権威がことごとくCO2原因温暖仮説を支持していることからくる思想的重圧がある。

しかし、CO2という言葉と概念、温室効果という言葉と概念、これらによって表現されているCO2原因による地球温暖化説それ自体は、自然科学上の理論であって、したがって形式上、責任を持つのはこれら諸々の権威の中で、科学的権威だということになる。

それで、政治的権威、宗教的権威も専門性の尊重という原則にのっとって科学的権威に従っているというのが形式上、言えることなのだと思われる。ただし、そこに政治的権威にしても宗教的権威にしても、自分たちの意図と目的、あるいは思想に合致している、あるいは合致させられるように見えるからこそ、この問題に関しては、科学的権威を尊重しているともいえる。これは形式上あるいは見かけ上ということであって、政治的権威と科学的権威との関係では、実際のところいずれが主導権をもっているとも言えない面があるのかもしれない。他方、宗教的権威はともすれば科学的権威とは対立しがちであることを思えば、なおさらこのことが言える。

政治的権威については、これ以上考える材料や見識を私は持たないが、宗教的権威がこの問題でCO2原因説を受け入れるのはある意味で自然、やむを得ないような面があると思う。というのも、それは倫理観の問題ともいえるからである。

CO2原因温暖化説というのは平たく言って因果応報の思想に合っている。因果応報というと仏教的な感じがするが、この思想は殆どあらゆる宗教に共通するものだと思う。宗教を離れた直感的な倫理観にもあるといえる。自業自得とか、天に向かってつばを吐く行為、とか、必ずしも宗教とは関わり無く使われる表現である。この、いろいろな表現やニュアンスの違いはあるものの、端的にいって因果応報の思想が多くの倫理的な権威をCO2原因説に傾かせるものなのだと思う。

ところが、CO2原因による地球温暖化の理論自体はあくまで自然科学の理論であって、政治でも宗教でもない。

しかし以上のような因果応報的な倫理観は宗教的権威や倫理学者だけではなく社会科学や政治的学的な権威にも潜在しているのではないか。そしてそれは科学的社会主義といわれる共産主義、マルクスレーニン主義にもあるのではないかと思うのである。

科学的社会主義、あるいはマルクスレーニン主義系の政党や団体は、科学を信奉する一方で非常に倫理に厳しいところがある。そこから多くの過激派や毛沢東主義などを生み出してきた。そういう倫理性はどこに由来するのか、それは外から見ると謎のようなところがある。もちろん、現実には人の心の問題であり、心理的なものに由来しているのに違いは無いのだが、理論上、科学的社会主義者は、それを唯物論の基盤で説明しなければならないのである。そして左翼過激派を含めた共産主義政党などでは倫理も唯物論に由来すると思っているふしがある。そこに欺瞞性、自己欺瞞性があるように思われる。

地球温暖化問題から、このようなことも少し見えてきたような気がする。

2009年12月16日水曜日

地球温暖化問題の個人的重圧

私は社会的には地球温暖化問題からは何の重圧も受ける立場にはない。専門的にそのような問題と関わる研究者ではないし、政治、経済的に多少とも責任ある立場にいるわけでもない。利権などはもちろん、単に職業的にでもエネルギー産業に関わっているわけでもない。それでも個人的に、地球温暖化問題の重圧は非常に大きいのである。重圧というのは不適当かもしれない。それよりも悩みか憂い、あるいは単に気がかりとでも言っておくべきか?しかしやはり、重くのしかかってくる問題なので重圧というほかはないのである。

このように特に責任ある如何なる立場にあるわけでもないが、ただ、別のブログ、発見の[発見」で一昨年からこの問題を可成りの回数、取り上げてきた。それは、そのブログでは幾つかの科学ニュースサイトの記事からテーマを見つけてきたので、必然的にこの問題をもかなりの頻度で取り上げる事になった。そういう行きがかり上からも多少はこの問題を考え続ける責任を感じてもおかしくはないと勝手に思っているという事もある。

その、「発見の発見」の方で、そしてこちらでも書いてきたように、個人的には、前世紀末にピークを迎えた地球温暖化の主要な原因は太陽活動にあるという説が正しいことに確信を持っている。一方、この問題では、今さら言うまでもなく、組織、個人を問わず権威筋の方ではことごとくCO2原因説を支持している。政治的権威、学問的権威だけではなく、宗教的権威でもその傾向が有る。古い言い方をすれば、聖俗を問わず、権威筋はCO2原因説を支持しているようなのだ。そういう中で最近、権威筋の代表とも言うべき人物がこの問題を解説しているインターネット動画を2本見る機会があった。一方は下記リンク、日本の外務副大臣でこの問題を直接担当している福山副大臣へのインタビュー。
http://www.videonews.com/asx/marugeki_free/447/marugeki447-1_300.asx
もう一方は下記リンク、名古屋大学大学院の春名幹男教授の解説。
政府関係ではないが政治や報道関係の大学院教授だから、この問題でも権威者に間違いはないだろう。

この権威者2人の温暖化問題に対する解説には共通する部分と異なる部分とがある。共通する部分としては、まず、CO2による温暖化説への「懐疑論」について一定の言及をしている事が上げられる。そして「懐疑論」が存在していること自体は認めているが、その「懐疑論」の内容の当否、内容に対する個人的な判断は全くしていないという事である。つまり、科学的には、あるいは地球温暖化という自然現象そのものについては、実際にはどうか分からないが、少なくとも建前上、自分自身では考えることも判断する事も停止している。つまり語ることを避け、無視しているという事である。この点で2人は共通しているのだが、違いもある。

福山副大臣の方は、国連IPCC科学者の合意が世界の専門科学者の合意であり、現在それを正しいと見なすしかないという立場であるのに対し、春名教授の方は、エネルギー利権による対立という構造を持ち出している。IPCC側すなわち主流のCO2温暖化説の方は石油石炭以外の新エネルギー開発を指向する利権側を代表しているのに対し、CO2懐疑説の方は石油利権側を代表しているというわけである。そういう事であるなら、なおさら自分自身でどちらが正しいのかを、つまり太陽活動説とCO2説のどちらが真実に近いのかを自分自身で調査し、判断すべきではないのか?と個人的には思えるのだが、教授はそれをしない。少なくともこの場面ではしない。春名教授はもっぱら政治的な判断でCO2温暖化説を採る方を得策とし、それを支持する。

政治的な判断が科学的な真偽の判定に優先するということは確かに解る。それは宗教や倫理と同じ事だろう。恐らく上記の2人とも政治的な判断でそうしているのだろうと思う。しかしそうではない、という可能性もないといえない。そうであるとすれば、つまり科学的な、この場合は自然現象の解釈や理論に対する判断を避けることの理由が政治的あるいは倫理的、宗教的なものではないとすれば、考えられる理由としては、単なる怠慢と無責任、あるいは無能としか考えられないのではないかという考え方も出来る。

もちろん、他にも多忙とか、そこまで立ち入ることの効率性とか、重要性の認識というものがあるだろう。多忙でそういう専門外の問題にまで立ち入る時間がないとか、そこまで自分が時間をかけて追求するに値しない。専門外のことは専門家に任せておけばよいというわけである。

しかしこの問題に限ってはそういう議論は成り立たないだろう。問題はあまりにも重大である。というのも、IPCCなどのCO2原因論者の説明を信じるとすれば、これは他人任せにするにはあまりにも重大である。なにしろIPCC報告の理屈を信じるならば、それは人類の存亡に関わる重大問題であるからだ。そしてこの問題を本当に自分自身の頭で考え、判断することは素人にもそんなに困難なことではない。もちろん、最初から研究者として調査研究を始めることなどは問題にならないが、CO2主因説をとらない誠実な専門科学者が素人に理解できるように語っている資料はいくらでもある。そういった専門学者は政府や政治家が呼べば、あるいは権威のある評論家が訪問すれば喜んで説明に応じるだろう。インターネットで世界各地から資料を集めることができるし、気象庁のホームページで公開されている資料、データだけでも可成りの事が分かる。逆に困難な面があるとすれば専門家にとっても困難である。これは特定の専門分野だけの問題ではないからである。

CO2原因説側に立てばそれほどまでに重大なこの問題を、そこまで自分自身で追求する気持ちがないとすれば、そして単なる怠慢、無責任、無能ではないのだとすれば、内心ではそれほどの重要性を認めていない、すなわちCO2原因説を内心では信じていないという可能性が十分に考えられる。内心というよりも無意識という可能性も考えられる。自己欺瞞の1つのあり方とも考えられる。

そこで気になるのは、共産党ではこの問題をどう考えているのかという事だ。共産党は上述の2者のように政府筋でもなく、学者、評論家でもなく、野党のひとつであり、立場が多少異なっている。またイデオロギー政党であり、科学的社会主義を標榜している。とにかく科学、科学を尊重することにかけては最高権威を自任するところのひとつである。前委員長、現委員長、共に東大の物理系出身であり、一般党員にも各種専門の自然科学者を多く抱えていると思われる。

そこで共産党関係のホームページを調べてみる。不破元委員長については新聞記事か何かで、CO2原因説を確信をもって主張されていた記憶があり、だいたい党としても同じようなものだろうと思われるが、やはり予想通りである。

党中央委員会のホームページでは、科学上のCO2原因説そのものについての言及は無いが、政策として温室効果ガス排出量を1990年比で30%削減することを求めている。CO2削減要求が必ずしもCO2原因説と一致する訳ではないが、ここまで要求すると言う事はCO2原因説を根拠にしていることに間違いないだろう。実際IPCCの予測を信じ、それを根拠に対策を講じなければならないとすればこの位は必要な事かも知れない。そういう意味では誠実だと言えるかも知れない。しかし現実にそれ程の危機感をもっているとも思えないが。

また「しんぶん赤旗」の科学記事紹介を見ると、「太古の地球を暖めていた超温室効果ガス(10月4日付)」「温暖化で始まる両生類の産卵時期(8月30日付)」、といった見出しの紹介ページがある。

一般に科学、科学、と科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を権威の拠り所とし、科学を盾とし、科学を宣伝、喧伝する、端的に言えば科学信仰者、科学喧伝者がCO2原因温暖化説を支持する傾向が強いことは言えるようである。逆にCO2原因温暖化説の喧伝者も科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を盾に持ち出してくる。今流行のニセ科学という言葉も、そしてニセ科学批判もCO2原因温暖化説の喧伝者が発祥ではないにしても主要な普及元ではないかと思える節がある。そこを「温暖化懐疑主義者」が逆手にとって、CO2原因温暖化説が逆にニセ科学と呼ばれるようになったようだ。

こうしてみると、こういう科学信仰者、科学信仰的イデオロギーの見据える科学とは何かイメージ的なもの、幻想のようなものではないかとも思えるのである。

だが私は、物理学者であった不破前委員長にしても志位現委員長にしても、ご本人自身で本当に先入観なしに信頼できる地球科学者の太陽活動主因説論者の説明と、例えばIPCC報告書におけるCO2主因説とを比較検討されたならば、太陽活動主因説の正しさとCO2主因説のいい加減さに気付かないはずは無いと確信するものである。そうならないとすれば、あるいはそれをされないとすれば、そこに怠慢、無責任、あるいは自己欺瞞、あるいは先入観、偏見、思い込み、幻想、予断があるとしか思えない。

もちろん、共産党にも政治的な判断で科学的に基づいた論理を犠牲にする場合もあり得るだろう。


しかし・・・、政治的な判断に未来の予測は不可欠である。そして地球温暖化は、多少は人間活動の影響による可能性があるとしても、それ自体は自然現象である。そしてCO2原因温暖化説の科学者達は今後数年間の気温と大気中CO2濃度の推移をどのように予測しているのであろうか。そしてそのデータにどのように対応するのであろうか、ということが今一番気になることである。

気象庁のホームページでは日本で観測している年平均データを公開している。もちろん諸外国でも公開している。とりあえず気象庁による日本のデータが下記からアクセスする事ができる。

これに関しては次の、ブログ・発見の「発見」の2回の記事で触れている。

気温については、2000年以降、上昇が止まっていることはすでに世界的にも色んなところで言及されていることもあり、そのとおりであることが分かる。そして今年途中までのデータは、今にもシミュレーションの範囲から外れそうな位置にある。温度については、これまでのデータからも、多少の上下の振れは見ることができるから、たとえシミュレーションから外れてもごく一時的な現象ですぐに上昇に転じるという見方もできるかも知れない。しかしCO2濃度になるとどうであろうか。これまで、何十年にもわたって一貫して上昇を続けてきたCO2の年平均濃度の上昇が止まるとか、減少に転じるようなことがあればどうなることだろうか。

CO2濃度が減少に転ずるような事があれば、気温のデータ以上にCO2原因温暖化説にとって深刻な脅威になることは間違いが無い。そうなれば、大気中CO2濃度が人為的なCO2排出による要因を遙かに超えて気温と海水温の要因に依存していること、大気中CO2濃度が温暖化の原因である程度を遙かに超えて温暖化の結果であったことが証明されることになる。

ただ気温の傾向については素人でも、自分の生活している地域に関してに限られるが、ある程度は感覚的に掴むことができるのに対し、CO2濃度に関しては、こういう所のデータに頼る以外に手段がない。それでCO2濃度の変化に関しては、一般人に対しては目立たない可能性がある。とにかく、正しいデータが公開され続けることだけは保証されなければならないと思う。

一方、以上の問題は科学の本質にも関わる「専門性」という問題に行き着く。これは実は科学と言うより、学問一般の専門性の問題と言うべきだと思うけれども、科学とは何かという問題とも深く関わるところの、専門性とは何かという問題である。これは民主主義といった社会制度にも関わる、現代人に課せられた最大の問題のひとつなのだと思う。

2009年12月3日木曜日

カッシーラー、「シンボル形式の哲学第三巻認識の現象学」を読み終えて

いつ、つまり何年何月何日何時何分に、というわけでも無く、この書物を一応読み終わった。と、こういう表現になるのは、最後のあたり、もちろん完全にというわけには行かないが、一応読み終わったと納得できるように読了したいと思いながら、途中で少し前の方に戻ったり、とりあえず最後までざっと読んでみたりの繰り返しで、何ともメリハリのつかない読了という事になったわけである。

こういう本は少なくとももう一度、第一巻から読みなおし、各章節の要約でも作りながらでもないと、一瞬頭に入った内容も直ぐに雲散してしまう。

しかしまあ、昨年10月に第一巻を読み始めてから1年と少しでとにかく最後まで読了した。今の段階で第一巻「言語」および第二巻「神話的思考」とこの第三巻「認識の現象学」とを比べてみると、解説でもこの第三巻が「全巻のクライマックス」と述べられていることからも分かるように、第一巻、第二巻とは異なった手応えがある。例えば、全巻を通じて古代から現代に至るまでの哲学者、科学者からの非常に多くの引用があるが、第一巻、第二巻では引用の仕方が比較的断片的であった。もちろん、本の記述自体が断片的というわけではなく哲学者達の引用が断片的という意味である。

この第三巻の場合、引用はその場限りの断片的な引用と言うよりも、それぞれの哲学者や数学者、科学者の思想全体あるいは核心が引用されているといえる。具体的には、特にデカルト、ライプニッツ、カント、ラッセル、あとは多数の数学者達と科学者達である。ただし科学者の場合、その人の哲学というよりもその重要な業績に関わる場合と、その哲学思想に関わる場合とに分かれる。どちらかというと哲学者として引用されている科学者はヘルムホルツとヘルツ、その科学的業績について引用されている代表はアインシュタインという事になるだろうか。数学者の場合は数学基礎論関係ということになる。

というわけで、この第三巻に関しては特に引用されている学者達の業績に精通していることが前提となることが分かるが、もちろん私にはそういう事は望めない。できれば逆にさかのぼってそれらの一つでも勉強してみたいと思う。

とりあえず、最後の方で、この本の一つの要約となっているように思われた箇所をメモしておきたい。もちろん、それでこの本全体の構造が読み取れるわけでも無く、単に最も重要な帰結の一つと思われるだけだが。

「こうして物理学は、〈表示〉の領域、いやそれどころか表示可能性の領域一般をさえ決定的に放棄してしまい、抽象の領野に踏み込むことになった。イメージによる図式機能が、原理によるシンボル機能にその座を明け渡すことになったのだ。むろん現代の物理学理論の経験的起源は、この洞察によって少しも侵害されはしない。だが、いまや物理学は、もはや内容をもった現実としての存在者を直接取り扱うことはせず、それが扱うのはその〈構造〉、その形式的な仕組みなのである。統一化への傾向が、直感化への傾斜に対して勝利をおさめた。」


カッシーラーのこの仕事が科学史、科学思想にとって非常に重要なものであることは間違いが無いように思われるが、それにしては現在、科学思想的な文脈でカッシーラーの名前を聞くことが少ないのはなぜなのかという疑問が起きる。もちろん私自身はその方面で研究してきたわけでもなく多くの書物を読んで来たわけでもないが、例えば現在流行している疑似科学論議では、カッシーラーへの言及はあまり見ないのである。

例えばウィキペディアは、現在主流というか、少なくとも流行している思想を多少とも反映しているに違いないと思われるけれども、たとえばよく聞く「科学哲学」を調べてみても主要哲学者のリストにカッシーラーの名前がない。また英語版で「Scientific philosophy」を引くと「Experimental philosophy」に転送される。こういう言葉は知らなかったが、哲学の対象と言うよりも方法の意味で科学的という事らしい。ここにもカッシーラーの名はありそうにもないが、一方で「Philosophy of science」という項目がある。この項目に載せられている哲学者のリストにも、カッシーラーの名前は見あたらない。どうしてこういう事になっているのかについて、非常に興味が持たれるところである。ユダヤ人であるカッシーラーはアメリカに亡命し、そこでこの書物の英語版を出すことを懇請され、その代わりに「人間についてのエッセー」を書いたという事である。この本は私が過去に読んだ数少ない、哲学書の一つだった。というように、カッシーラーの世界的な名声が低いというわけではなさそうに思う。このこと、つまり科学思想との関わりであまりカッシーラーに関心が向けられることが少ないということ自体になにか重要な意味がありそうな気がするのである。

しかし、ネットで検索すると、マルクス主義哲学者として有名な戸坂潤の「科学論」でカッシーラーが言及されている事が分かった。これは青空文庫で公開されていた。全文は読んでいないが、その言及されている箇所は次のような文脈である。

「 さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている。」
「だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう。」

どうやら、ここで戸坂潤はカッシーラーが科学を自然科学としてしか捉えていないことに不満を持ち、自然科学を超えた科学一般として扱っていないことを欠点と見ていることが分かる。ただ、ここでは「シンボル形式の哲学」という書名への言及はなく、カッシーラーのそれ以前の書物に基づいているのではないかとも思われる。私は戸坂潤のこの文章全体はまだ読んでいないし、理解できるかどうか分からないし、リッケルトの思想についてもまったく知らない。しかし、逆にこのことがマルクス主義を含む現代思想の多くに見られる科学思想の欠陥というか誤りにつながっているのではないかという疑いを持つのである。

究極としての物理学を一つの専門とする自然科学をさらに超えた科学一般というものがあり、そちらの方をより一般的で基本的な科学であるとするような考え方が、現在主流であるように思われる。どうもそこら辺に現代思想の重要な問題があるのではないかという気がするのである。もちろん自然科学とそれ以外の社会科学とか人文科学とかを含めた科学一般というものが何らかの形で存在することには間違いようが無いし、追求に値するものに違いはない。しかし一面で、それがより一般的であるにしても、重要さという点で、そちらの方に分があるとは思えない。それはあくまで一面であり、多分に幻想を含んでいると言っても良いのでは無いかと思う。

こういう点で私はこの難しいカッシーラーの思想に引かれるのである。

*書名:シンボル形式の哲学(四)、第三巻、認識の現象学、カッシーラー著、木田元訳




2009年8月30日日曜日

「信じぬものは救われる」という、本のタイトル。

書店の棚を眺めていたときに、「信じぬものは救われる」というタイトルの本が目に留まった。著者は香山リカ氏。この人が書きそうなタイトルだなと思ったが、一方、個人的には違和感のある、印象のよくないタイトルである。それも狙いかも知れないが。・・・この本について内容も読まずに論評するわけにはゆかないが、タイトルについてのみで言える範囲でちょっと思うところ、言いたくなったことを書いてみたい。

というのは、こういう表現はこの種の本のタイトルとしては如何なものかと思うのである。宮沢賢治に「うたがふをやめよ」という題の詩があったが、詩や小説のタイトル、あるいはエッセーでもいいが、文学的な文章のタイトルであればこういう表現も有りかなという気はするが、香山氏は精神科医だから精神医学という分野の科学者なのであろう。この本も専門の論文ではないにしても科学者の立場で書かれた書物とは言えるだろう。それならこういう語呂合わせのような安易なタイトルはどうかと思うのである。

もちろんこういう表現も個々の文脈の中での表現としては、たとえ科学者による科学上の問題がテーマの文章であっても何ら問題はないと思うのだけれども、科学者としての立場で書かれた本のタイトルとするには、たとえ一般向けの本であっても粗雑にすぎると思うのだ。それが内容の粗雑さを推量させるのである。もちろん中身は一行も読んでいないのであるから、これ以上中身を想像してあれこれ言う事は許されないことだろうが、やはり、タイトルそのものから言えることはあると思われる。

繰り返しになるが、こういう表現、「信じぬものは救われる」というような表現はある種の文脈の中で使われる場合はともかく、それ自体としては欠陥のある文である。というのは信じる、信じないという言葉は他動詞であって目的語がなければ意味がない。文脈の中で使われる場合は目的語が了解されている場合である。この表現は間違いなく「信じるものは救われる」という、たぶんキリスト教の説教師の言葉とみなされている表現の言い換えであろう。もし実際にあるキリスト教の牧師がそう言ったことがあったとしても、それは文脈の中で言われた発言であろうし、キリスト教の牧師がそう言うタイトルの本を書いたとしても、それはキリスト教を信じることを意味することは誰にも了解できることである。それに対してそれを反転させた「信じぬものは救われる」という表現を学者が本のタイトルに用いたりすることは、対象を曖昧に、秘密めかして、あるいは無制限に一般化してという、余りにも粗雑な、論理の枠からはみ出した表現といって差し支えないと思う。

仮に、著者の狙いが宗教批判にあるとすれば正面から宗教を批判すべきだろう。そうではなく、詐欺商法の類、宗教が絡んでいる、いないに関わらず、詐欺商法のような悪意ある意図から素朴な人たちを守りたい、騙されていることを教えたいとう動機であるならば、騙す方の心理とあるいは意志、意図と騙される方の心理と意志、意図などを学問的に解明し分析することは確かに重要で意味のあることかも知れない。ただそこで騙されたとされる、語られた内容の真実性についてはまた別の問題があることが覆い隠される場合があるのである。

信じるか信じないか、信じやすいか疑い深いか、こういった極度に抽象的なコンセプトで具体的な問題を取り合うことは問題を極度に大ざっぱにし、そこにいくらかの正当性があったにしても、大切なものを覆い隠したり、流し去ったりしてしまう危険性があるのである。

だいたい何かを信じるという場合、一方で何かを否定することになる場合が多い。早い話が、香山氏と香山氏が否定する他の人物の両方の言説を知っている人がその他方の人物の言説を信じたとすれば香山氏の方を信じなかったか疑ったことになるのである。

そもそも誰かの言説を信じるという場合、その人物を信じるということとその言説を信じるという、二重の意味がある。各々のケースによってその二者が微妙に異なった割合で混ざり合っている。話者の人物、あるいは人物の意図を全く信じていなくてもその言説を100%信じることもあり得るのである。

少し前に問題になった納豆ダイエット事件の場合、結局その言説の話者、著者を信じるかどうかと言う問題に過ぎなかったのである。納豆にダイエット効果があるという説をアメリカの権威ある学者が唱えているというのがねつ造であったという事で、1つのねつ造問題に過ぎなかった。それが発覚した後になってから「納豆でダイエットできるなんてできる筈ないでしょ」、などと香山氏が言われたかどうかは知らないが、評論家などが言い出したのだった。しかしこの種の健康食品や食品の健康に対する効果については色々な言説が飛び交っている。その中には権威のある学者が科学的根拠があるとして正規に発表している場合も多いし、また一方でそう言う権威ある言説を否定する新しい研究が現れたり、実に錯綜しているのである。こういう状況では結局本人の直感による判断になるのであるが、一応、権威ある科学者が正規に発表しているかどうかが、多くの人がその言説を信じるか信じないかの基準になるのは仕方のないことなのである。このケースは結局マスコミの信頼度という問題になったがそれは当然のことだろう。

他方、霊感商法とか前世占いとか、とかくこの種の批判の対象になることが多いが、この種のものは話者の具体的な、個別の内容を信じること、つまり嘘をついていないということを信じる場合、その前提として霊の存在とか前世を信じていることが前提になっている。この種の人物の具体的な話を聞いて始めて霊の存在とか前世を信じるようになる場合もあるかも知れないが、初めからそういった存在を信じている場合の方が多いと言えるだろう。また、そういう存在を信じているけれども、特定の霊感商法とか、偽りの前世占いには騙されない人がいないわけではない。神、神々、心霊、前世などの存在を信じているからといって霊感商法や偽りの前世占いなどに騙されるとは限らない。

神の存在や非存在という問題については言うまでもなく、心霊や前世、来世といった対象についても正面切って議論することはそう安易にできることではなく、簡単な議論で片付く問題ではない。まして議論もせずに「そんなものあるわけないでしょ」の一言で人を納得させられるような問題ではないのである。そういう問題について深く議論することを避け、宗教絡みの詐欺や、オーム事件のような宗教絡みの犯罪の問題と一緒くたに扱い、処理してしまうこと ― そのような騒ぎが起きたときに、どさくさに紛れてのように宗教や宗教的な思想や超自然的な言説などを一括して批判するようなことは、日常語での雑な議論でならともかく、厳密で論理的な議論をすべき学者、科学者にはして欲しくないと思う。専門の論文ではなく一般を対象にする本においてでは、専門の論文において以上に、言葉の意味に対する細心の注意が必要であると思うのだ。

専門の論文では専門用語に頼ることができる。しかし一般に向けて語るときは多くの専門用語に頼ることはできない。それで日常語、言葉一般に対する理解、あるいは感性が試されるのだとも言える。

以上の問題は「ニセ科学」論議において広く共通するものであるといえる。「ニセ科学」批判を展開する人々の多くは批判する対象が偏っているし、防御する対象も偏っている。おそらく「ニセ科学」批判論者のあいだでも多くの問題で見解が一致することもないだろう。何を「ニセ科学」と判定し、何を正規の科学であると判定するかには、単なる恣意的なものもあるだろうが、そこにイデオロギー的なものが入り込んでいることも多い。当然、政治的なものまで侵入してきていることも十分考えられる。もちろん具体的にどのようなケースを批判するのも自由であるが、あくまで個々のケースについての具体的な批判に止めておくべきものを「ニセ科学」という一般化された、よく分からない概念を基準にとらわれ、こだわり始めるか、あるいは「利用」さえし始めるのである。

きまって「まず疑ってかかりなさい」というのがよく使われるフレーズだが、このフレーズもそれに合った文脈で使ってこそ意味があるのであって「科学とは疑うこと」、という定義のような表現に変わり、一人歩きする言葉として使われるようになっている。見方を変えると、一面、言葉をそのように使う傾向は科学にとって必要なものであり、それが科学の限界のひとつではあるまいか、という気もしないではない。

言葉の意味と使い方について深く反省することなく雑な使い方をしていると議論を深く掘り下げることができなくなり、大切なものを見逃し、覆い隠し、流し去ってしまう。よく用いられる比喩を使えば、「たらいの水と共に赤ん坊まで流し去ってしまう」ことになるのである。

(以上は、上記書物のタイトルに関連して思うところを述べたまでで、本の具体的な内容については何も語っていません。読んでいませんが、恐らく有益な内容が含まれていることと推察します。)

2009年5月24日日曜日

科学重視、論理軽視の風潮

DNA 鑑定に絡んだ確実な冤罪事件ないし冤罪の可能性の高い多くの事件が問題になっている。そしてDNA鑑定という科学的捜査方法の用い方についての疑問や問題性が多くの方面から提起されている。

一方で現在、世界、社会一般で、また特にマスコミ関係で一種の科学ブームという傾向がある。

国際政治では「CO2による地球温暖化論」が、すでに科学的に確立された真実であることを前提として交渉や政策が進められ、それに異を唱えると「科学に刃向かうもの」という汚名を着せられる。そのCO2地球温暖化論そのものは実に大ざっぱで薄っぺらで、表面的な、中身のない論理である。

書店を覗くと、相変わらず脳科学本が氾濫している。これについては、こちらが専門家であるわけでも無く、実際に読んでもいないのでこのことにどういう意味があるのか、良いことなのか悪いことなのか、何とも分からないが、気分的に一種の科学ブームであり、科学信仰の現れと言えないこともないと思うものである。

テレビ番組でも、最近、以前は科学の番組など制作することがなかった民放でも科学の番組を制作放映していることが多くなっていることに気づく。良いことかも知れないが、一面、どうも興味本位ではないかと思われることが多い。これはNHKだが、「ダーウィンが来た」という題名の、生物の生態を紹介する番組を放送している。しかし、これは変な題名である。少なくとも題名と内容とが論理的に結びつかない。何となくイメージ的に結びつくという程度である。ダーウィンの生誕と「種の起源」公刊何十周年かの意味があるのだろうが、なにかダーウィン信仰とでもいう気分が感じられて個人的にはあまり気持ちが良くない。

テレビドラマでも最近、脳科学者を主人公か、テーマにしたドラマが放映されているのを偶然に見た。その日はすぐに終わったし、他のことを考えていたので、内容はよく見ていなかったが、これも何となくだが、あまり感じが良くなかった。ただ、ドラマではあり、批判的な問題意識はあったのかも知れない。

「ニセ科学」批判などにもそういう面がある。「ニセ科学」という造語自体に、科学を絶対化し、科学信仰の異教徒を一掃しようというような意識の現れのような印象がある。科学的ではない言説の非科学性を指摘し、必要に応じて批判する事自体は結構なことだが、現在の科学を絶対化してはいけないし、あくまで論理的に精密で、意味内容を持たなければ意味がないし、粗雑な論議であってはならない。


一般的に、科学性を前面に押し出し、それを砦とも盾ともし、その陰で粗雑で欺瞞性をはらんだ論理を展開する風潮が目立つように思う。

科学性と論理性はもちろんそれら自身、異なったものである。

論理の正しさ、緻密さ、意味内容の豊かさは、その作品自体で判断されるべきものであるのに対し、科学性は必ずしもそうではなく、多くの場合何らかの権威からの引用によって保証されているのが常と言える。

例えばある文章あるいは論文などの作品で、作者が「これは論理です」、「これは論理学に基づいています」、などと断ることはあまりなく、そういう断りがあったとしても、読者はあくまでその作品自体の論理性を判断すべきものであり、作者もそれだけで論理性を保証できたなどと考えるとすれば滑稽だろう。

しかし科学性となると必ずしもそうではないのであって、筆者が作品中で「これは科学です」などと言うことは良くあることである。これは科学そのものを権威として利用しているわけだが、宗教でも「幸福の科学」という宗教など、これと相似の現象かもしれない。

普通に考えて科学ほど論理性が要求されるものは無い様に考えられている。しかし科学は論理そのものではなく、他に様々な要素があり、科学とは何かという問題ほど困難で、しかし現在特に重要な問題はないのではないかと思えるほどである。

ただ、1つ確実に言えることがある。それは科学は専門性なしには存在し得ないということである。少なくとも現実の科学はいずれも個別科学といわれるように専門分野に所属することなしに成立することができない。そしてそれぞれの専門分野にはオーソリティーが必要である。このあたりの実情はよく分からないが、おおよそ権威のある大学で1つの科学分野として講座が確立する事が1つの条件なのかも知れない。この意味でフロイトの精神分析の歴史には興味深いものがあるように思う。

このように、科学であることの重要な要件は専門性である。個々の専門分野の中でも、細分化された分野があるのはもちろんだが、その狭い専門分野の中でも、個別の研究や成果、あるいは個別の著作か論文というものはそれ自身その分野内の一小部分である。現実の大きな問題、たとえば温暖化問題などの問題、小さな問題では個別の犯罪捜査の問題などでの例をとってみても、科学的な理論それ自身は特定の、現実の一部か、あるいは要素を概念的に切り取るか抽出したものである。

そういった専門分野内での論文といった次元ではなく、現実の問題に科学を適用、応用するという問題、例えば科学捜査がそうであり、地球温暖化問題がそうであるのだが、専門外の一般人に向けた専門科学の紹介、その価値の紹介や人生、社会全体のおけるその分野の価値を問うといった目的での著作とかも含まれるが、このように、そういう個々の細分化された科学的知見を総合して現実の問題を考察し、あるいは鑑賞したり味わったりもし、応用をも考えたり、何らかの対応や対応策の資料としたりする場合には、専門分野への参照、引用が欠かせないものとなる。これは結局権威に頼るということなのである。この面では科学といえども、結局は信頼、信用に支えられているのであって、そのことはよくよく自覚する必要があると思うのである。ところが、それが絶対的な信仰にまでなることがあり、また権威筋の方でも信仰されることを要求することもあるのである。

宗教の場合は信者はそれが信仰であることを自覚している。しかし科学信仰の場合は信じる方がそれが信仰であることを自覚せず、また逆にオーソリティーの方から信仰を強要するような場合もありえるのである。

こういう、科学を盾とし、砦として利用し、その陰で論理を鈍化させる傾向が、一部のマスコミ、一部の政府筋、一部の大学教授の科学者など、どちらかというとオーソリティーの側に見られることが問題なのだ。

2009年5月4日月曜日

科学と論理と「陰謀論」、そして専門性

陰謀論という言葉が最近特に目に付くようになっている。私自身も最近、ブログで使ってしまったが、よく考えると変な言葉、少なくとも、注意して用いなければならない種類の言葉で、事実、ブログなどではそのような、この言葉を使うことへの批判的な論調も少なからず見うけられ、それは正当なことのように思われる。

だいたい「何々論」という表現自体が問題を含んだ表現である。「論」という言葉が、非常に具体的なものから最高度に抽象的な意味にまで使われるからでもあろうか。少なくとも状況によって幾つかの言葉に置き換えることができるだろうと思われる。たとえば「何々説」といった方が適当と思われる場合もあり、「何々理論」といって良い場合もあり、あるいは「何々を論ず」、あるいは「何々を批評する」、または「何々研究」、あるいは「何々の考察」とでもいうべき場合もあるだろうと思う。

「何々論」という場合に、以上の中でもっとも近いと感じられるものは「何々を論ず」という意味で使われる場合だろう。この場合は普通、具体的な特定の対象に対して用いられる場合が多い。とくに有名な人物などに用いられる場合が多く、例えば「夏目漱石論」とか、今話題の政治家などでは「小沢一郎論」とかいう場合である。この場合は分かりやすい。この種の受け取り方でいえば、「陰謀論」も「陰謀」という言葉あるいは概念のついての意味的な考察か、陰謀一般についての考察または論考と考えるのが自然なのであるが、現在流通している「陰謀論」はそうではなく、どちらかといえば「陰謀説」といった方がまだ正確なのではないかと思えるようなものである。

簡単に言えば特定の、あるいは一般的に、政治的に重要な意味を持つ事件が陰謀によって起こされているものと推論したり、想像したりすることを「陰謀論」といっているように思われる。

問題なのは、陰謀論というだけでは陰謀で説明していると言うだけであって、それが単なる想像や妄想によって結論づけているのか、科学的に説明できる根拠による論証によるものか、どちらをも意味しないか両者を意味するとも言えることである。

しかし今流行している用い方によれば、ある特定の陰謀説とでも呼ぶべき言説を、「それは陰謀論だ!」という事によって、それは想像もしくは妄想、あるいはねつ造による陰謀説であるものと断定して非難するような仕方で用いられている。これはおかしな話であり、少なくとも論理的ではない。こういう論法は英語でいう Sweeping generalization と呼ぶものに近いものがある。

どうやらこういう「陰謀論」の用法は「ニセ科学」で有名な阪大の菊池誠教授の影響が大きい可能性がある。というのも以前、教授のブログで陰謀論のスレッドを見たことがあったからである。その時は少々驚いた。「ニセ科学」論議も反感を感じさせるものであったが、このようなことまで「ニセ科学」と殆ど同じような調子、論法で扱っているのにちょっと呆れてしまったのを覚えている。

それまで菊池教授については、「ニセ科学」を糾弾するNHKのテレビ番組の録画がインターネット上に流布しているのを友人に教えられて見たことがあるのみだった。おそらくブログなどをも書いておられるのだろうとは思ったけれども特に探して見ることもなかったのだが、ある時期にそのブログを拝見したところ、ちょうど「911陰謀論」でコメントによる論戦が華やかに展開されているときだった。今もう一度みてみると、昨年の10月になる。その頃まではあまり「陰謀論」という言葉は聞かなかったような気がする。もちろん、世界の歴史が何ものかの陰謀によって繰られているという言説や書物を問題視するような記事が時々、新聞などに現れていたことは知っている。

今あらためて教授のブログの、それらの記事を見ると、問題の記事は「911陰謀論」というカテゴリーで、その上位カテゴリーとして「陰謀論」というカテゴリーが立てられており、内容のどの部分でも「陰謀論」が盛んに用いられている。はっきり言って、科学者らしい論理的な文章とは思われない。たとえば次の簡単な表現から端的にそれが見て取れる。

「アメリカが嫌い」だからといって、アポロや911を陰謀だの捏造だのと言うのは間違いです。
「中国が嫌い」だからといって、神舟を捏造だと言うのは間違いです。』(2008/10/03

形式論理的にどうこう言うのではなく、意味的にあまりに粗雑だと思うのである。「嫌い」という言葉を始めすべての言葉の意味を固定的に考えている。

そもそもアポロや911を陰謀だという人たちがアメリカそのものを嫌っているといえるのかどうかが疑わしいが、仮に嫌っているとしても、それには理由があると考えるのが普通であるか、考え深いというものであろう。またアポロと911とを何の根拠があって一緒に扱っているのかも分からない。

彼らがアメリカが嫌いになったのはアポロあるいは911を陰謀だと確信するようになったからかも知れない。そういう可能性もないとは言えないはずである。

あるいはアメリカが嫌いになった理由に、そのような陰謀を疑う根拠となるようなものがあったのかも知れない。

難しい専門分野で業績をあげているはずの大学教授が何故このような粗雑な論理を用いるのかと考えることは興味深い事である。

だいたい専門用語というのは、特定の用語の意味を非常に限定した意味で固定的に使うものであるということはできるだろう。

たとえば「力」は、物理学では事実上、数式で定義されているとも言える。日常的につかわれている「力」はそれよりも遙かに多様な意味で使われる。

「力」の場合はあまりにもよく使われる言葉だからそれ程問題になるようなこともないかも知れない。しかし、専門分野で特殊に限定された意味で用いられる専門用語を形式的に数式に代入し、固定的に、形式論理的にのみ扱うことに慣れてしまうと専門外の、多様で重層的でもあり、深い意味を持ちうる言葉をも、単なる記号として固定的に扱うようになるのかも知れないと思えるのである。






2009年3月12日木曜日

温暖化問題と専門性について

温暖化問題で言えば、少なくとも対立する専門家同士の意見ないし説明を比較することは一般人でもできる訳ですね。まあそれしか道がないわけですし、また現実の生活に繋がる問題ですから比較検討する必要もあり、政治家にとっては比較検討し、判断する義務があるというものでしょう。そこで対立する専門家間で、どちらの説明が説得力があるかと言うことですが、その専門家の解説ないし説明を理解し、判断できるだけの能力は、温暖化問題の場合、高等学校かせいぜい大学の教養課程程度の自然科学(化学と地質学)の素養があれば十分に判断できる程度のものと思います。ただ正確に理解するためには本なり記事なりを正確に理解するための多少の努力は必要でしょう。ごく普通の人がそういう判断ができるようにするにはマスコミが判断をできるだけの材料や専門家への発言の機会などを正統に提供してくれることが理想ですが、現実はそうではなく、情報操作が行われているのではないか、とか陰謀論、あるいは社会心理学的なメカニズムによる説明なども出てくるのは当然だと思います。事実、科学ニュース記事には社会心理学者による解説記事なども出ています。しかし社会心理学者による解説を読んでも、CO2による温暖化説の肯定に読者を誘導していることがはっきりと分かる場合があり、逆にIPCCのメンバーである気象学者(CO2主因説の否定論者)のコメントでは、そこでの合意事項が決定される過程に集団心理、集団思考的なメカニズムを指摘しています。そういう記事なども多面的に勘案してみると、CO2主因説には社会心理的、集団思考的、さらに政治的なメカニズムがあることを認めざるを得なくなり、その面からも逆に太陽活動説が補強されるように思います。  

科学の専門分野というのはそれを特定の専門分野として公認する権威の存在を無視するわけにはゆかないでしょう。科学も社会的なコミュニティーなしに存在しえないもののようですから。また一言で専門分野といっても多種多様の専門分野を一律に専門分野と言っている訳で、その内容は様々です。敷居の高い専門分野もあれば、敷居は低いが、奥が深い専門分野もあるでしょうし、現状で周囲から存在価値を疑問視されているような分野もあるかも知れません。一概に専門分野を同列に扱うこともできないと思います。  

更にまた、地球温暖化問題は特定の専門分野の問題というわけには行かないと思います。既存の専門分野との関わりでは気象学ともっとも関わりが深いと言えるだけで、細分化すれば気候学、古気候学などもあり、他に深く関わる分野としては天文学、地質学、地球物理学、海洋学、地理学、生物学と、きりがありません。もちろん物理学、化学は言うまでもありませんが、極端にいえば神学なども持ち出す人が出てくるかも知れません。また同じ気象学者でも他の分野に詳しい人もいれば、全く詳しくない人もいるかも知れません。たとえば一昨年ですが、「NewsBusters」というサイトに次のような記事がありました。 
「Former IPCC Member Slams UN Scientists' Lack of Geologic KnowledgePosted by Noel Sheppard on July 9, 2007 - 13:53」
元IPCCメンバーの学者が当時の国連科学者の地質学的知識の欠如を叱るという内容です。 こうなってくると、温暖化問題を特定の専門分野の問題として距離をおくことは難しくなってきます。限りなく難しいことですが一般人が専門家を判断しなければならないということになってきます。今盛んな「ニセ科学批判」はこの点で非常に偏った独善的な主張になりがちです。

最近のいわゆる「ニセ科学批判」には色々な側面があると思いますが、他分野批判という側面もあるように思います。特定の専門分野、例えば精神分析、精神医学、あるいは脳科学など、分野そのものを「ニセ科学」あるいは「疑似科学」などというカテゴリーに区分しようというようなものです。こういうものと超自然現象をあつかったもの、宗教批判、迷信、ねつ造論文、欠陥論文、ねつ造テレビ番組、こういった諸々を一括した概念でくくられるようになるともう、恣意的なものが入り放題です。結局は暴論と中傷合戦に陥ってしまいます。

「ニセ科学」は論外としても、「疑似科学」というような一般化した呼称または概念で議論することは、多くの分野が関わる複雑な問題である温暖化問題を論議する場合も持ち込まない方が良いと思います。「温暖化問題」そのものは具体的なこの地球環境の現実そのものの問題であって科学のどの特定分野の問題でもないし、科学一般という学問分野の問題でもなく、如何なる専門分野の問題でもないと考えるべきではないでしょうか。関わっている専門分野を挙げればいくらでも沢山の分野を挙げることが出来、それ程多くの分野における理論とデータの蓄積がからんでいるであろうと想像されることに圧倒され、素人には判断のしようがないものと思いがちですが、少なくとも一冊くらいは本当の専門家(ゴアのような政治家ではなく)による一般向けに包括的な解説をされている本(但し、少なくとも一冊は一般に喧伝されているCO2主因説とは反対の結論をもつ本)を読み、その他の本やインターネット、マスコミなどで各所の広報やニュース記事などの説明、対立する意見を注意深く読めば、以外と確信できるような知識が得られる可能性もあるものです。問題は限りなく複雑で容易に理解することはできないのだというような言い方をしがちなのは、どちらかといえば、主流のCO2主因説の支持者の方です。しかし一方でCO2主因説論者はCO2が主要原因であることがほぼ確実であると確信したような矛盾した主張をしています。素人が考えるのはよして自分たちの主張を信じなさいと言っているようなものではありませんか。そういう論者が一方で「ニセ科学に騙されないように」とか、「科学リテラシー」というような言葉を振りかざすとすればそれは変です。欺瞞か無知か怠慢をかぎとらざるを得ません。


すべて具体的に、ケースバイケースで議論すべきでしょう。「科学リテラシー」などという言葉も必要のない、むしろ有害な言葉だと思います。まだ数学リテラシーとか物理学リテラシーなどは意味があるかも知れませんが、しかしそれも程度の問題です。数学の場合は割とはっきりしているので、よく「中学校程度の数学」とか「高卒程度の数学」とか、もっと具体的に微積分とか、明確に指定する場合が多いとおもいますが、リテラシーという言葉はそのように具体的でなければ意味がないと思います。科学一般に通用するリテラシー、抽象的な「科学」についてのリテラシーなど幻想に過ぎないと思います。

2009年3月7日土曜日

言葉の私物化

最近の急激な社会と政治経済の状況変化をきっかけに小泉元首相の再評価、というより批判的見直しがもうすでに一般的になっている。

私が小泉政権の時代に最もいやな感じがしたことは、彼の言葉の用い方、言葉使いであった。いわゆる「言葉の巧みな人」であったには違いない。その巧みな言葉使いを駆使した政治手法はよく「劇場型」などと評されていた。それはそれで1つの要領を得た表現だろうが、それではその言葉使いそのものに対する批判にはなっていない。そのレトリックというのだろうか、言葉使いそのものの持つ問題点を一言で表現するなら、それは「言葉の私物化」と呼べるのではないかと思う。

言葉の私物化は普通に公認されている場合がある。個人やペットなどの名前などがそうだ。たまたま昨日ラジオを聞いていたら、フランスでは豚にナポレオンという名前を付けることが法律で禁じられているいう話をしていた。日本でも何らかの制限はあるが、基本的に真、善、美、貴、剛、優、といった類の意味を持つ名前は使い放題である。理由はいろいろ考えられるけれども、とにかく平等に、そう言う言葉を自由に使えることになっているから誰でもそんな名前を使っている。しかしこれが商品名となるともっと制限が厳しい。

たとえば東京は文京区本郷の老舗の和菓子屋さんが大学最中という名前の最中を売っている。かなり昔からと思われるから、当局からも近くの東大からも、一般のだれからも苦情などは来なかったに違いない。これが和菓子ではなく私立の高等学校とか、各種学校などだったら、とても許される名前ではないだろう。学校も一種の商品である。

政府の政策とか、政治方針とかいったものはどのような商品よりもはるかに重要で、国民生活に影響を与えるものである。勝手に意味のある名前などを付けられては困るのである。「構造改革」、「骨太の方針」、「三位一体の改革」等々、これらはみんな言葉の私物化といってもおかしくない。本人がそう信じるのであればそう呼ぶことは仕方が無いかもしれないが、マスコミまでがそのまま使用するのは尚おかしい。その意味では報道関係者の責任の方が大きいかも知れない。商品名やある程度は個人の名前にさえ、使用できる用語が法律で制限されている。このような政策などにこんな名前を付けることは法律で禁止してもおかしくはないのではないかとさえ思う。

「ニセ科学」、「エセ科学」なる用語が、それまでにあったかも知れないが、盛んに使われるようになったのはその頃からではないだろうか。「トンデモ」という表現もそうである。「トンデモ」などはもう差別用語の最たるものといってもよいと思う。差別用語を禁止するのであれば、これも禁止されておかしくない用語である。「トンデモ」も一種の、言葉の私物化であると言えるのではないか。「とんでもない」という個人の、あるいは仲間内の主観的な感情に過ぎないものを強引に客観的な実質として通用させてしまう暴力的な言葉の用法である。

せめて科学者にはこのような変な言葉で下品な議論をしないで貰いたいものだと思う。

自らを科学ではないといっているものを科学の名のもとで批判する権利を持つほど科学は絶対的なものであるとは思われない。科学そのものの中に抱える問題をこそもっと真剣に考えるべきである。それも科学性というような、それ自体問題の多い基準で批判するべきではなく、あくまで論理の基準で議論、批判をするべきだと思う。それも単純な形式論理だけではなく、意味的に深めた論理の基準であるべきだ。科学自信が科学性を基準に判断することができる訳がない。科学性そのものを議論するにはいったん科学の外に出なければならない。それは当面は一般人の立場か、あるいは学問的には哲学者の立場にならざるをえないだろう。「ニセ科学」という概念を根拠にすることはそういった謙虚な姿勢を拒否した自己中心的態度ともいえる。例えてみれば、科学という砦の中から外部に飛び道具を放っているようなものかも知れない。

2009年3月3日火曜日

哲学の科学批判 ― シンボル形式の哲学第三巻の序論を読んで

前巻に引き続きこの書物の第三巻を読み始め、とりあえず序論の部分をかなり不消化のまま、一応読み終えた。このような本をそう簡単に消化しながら読めるわけはないが、この序論は読みやすい箇所と解りづらい箇所とが分かれているような感じだったせいか、読みやすい箇所に集中して読んでしまった感じだ。

この巻、「シンボル形式の哲学第三巻 認識の現象学」の第一部が始まる前にはこの可成り長い序論がおかれている。この部分で1つのまとまった構成になっている。序論という形式のとおり、この巻の解説のようになっている部分もあるのだろうが、それよりもこの部分にはかなり著者の意図、目論見というものが率直に語られているようにも思われた。感情的とさえ思われる箇所がある。


この序論自体が4つの節に分けられ、それぞれに見出しが付けられているが、各節に一貫して可成り強い調子での科学批判がこの序論のテーマになっているとも見られる。もちろんこの序論の目的はこの書物全体のテーマであるシンボル形式という概念の位置づけということになるのだろうが、それが科学批判に平行していることが分かる。

第一巻が言語批判ということも出来、第二巻が神話批判ということも出来るわけだから、このことは当然とも言える。それにしてもこの序論を読むと当時のカッシーラーは科学批判に対して相当切実なもの、必要性を感じていたように思われる。というのも科学に対する哲学の優位性についての、感情的とさえ思えるような表現が見られるからである。たとえば、

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」

哲学は言語を超える可能性があるが、科学はいつまでたっても言語を超えることはできないということだろう。

それはともかくも、現在も科学至上主義あるいは哲学よりも科学を優位におく傾向の人々が言葉の使用に関して無神経、無反省である傾向は否めないような気がする。端的に言っていわゆる「ニセ科学」とか「トンデモ」というような非論理的な言葉を術語のように使う人たちである。

特定の言葉の意味を深めることなく、いったん形式的に定義してしまえば述語として固定してしまい、無反省に使用し続けられる。

「温暖化ガス」、「温室効果ガス」などもその最たるものだろう。とくに「温室効果ガス」はちょっと無謀とも言えるほどの使い方である。現実の温室で起きている温室効果には、メタンやCO2に限らず如何なるガスも関わりがない。この場合の温室効果は比喩的に用いられているに過ぎないのに、比喩ではないような印象を与える。英米のニュース記事では以前ではheat trapping gas  というような表現も良くあったが、最近ではgreenhouse gas (温室ガス) という表現が一般的になっている。日本で言う温室効果ガスに輪をかけて乱暴な表現である。こういう乱暴な比喩と省略は英語の方がひどいところがある。古くからゲーテが言っているように、比喩が術語として一人歩きするようになれば、手に負えないことになりがちだ。

元に戻って、
この序論では上記のような科学批判に引き続き、マッハとベルクソンの哲学が簡単に紹介され、それらに批判が加えられる。正確に言えばマッハとベルクソンも科学を批判しているわけだが、その科学批判の不徹底さに批判が加えられているように見える。ここでシンボル形式というものが軸になって論が進められているが、ここらあたりが特に難解だ。とりあえず先に進むしかない。



2009年2月15日日曜日

キリスト教原理主義について ― 「ニセ科学論議」との関わりで

キリスト教原理主義と呼ばれる宗派のすべてか、少なくとも多くはヤングアース創造論者であるといえる。現在日本で言われているキリスト教原理主義の正確な定義はよく知らないが、この辺りの状況は、日本のマスコミではアメリカの国情として取り上げられるだけのように見える。しかし、現実にはアメリカの一部だけではないのではないだろうか。BBCニュースの科学欄などを見ていても、イギリスやヨーロッパ大陸でも地質学と生物進化論に関わる部分で、このキリスト教原理主義的な傾向の高まりが見られるらしいし、日本にも予想以上に浸透してきているのではないかと思える。


もう20年以上も前の話だが、あるプロテスタント教会とその牧師さんに近づきになったことがある。独立系で正統的なプロテスタントを自認しており、その信者の1人の話では、自分はカルバンの思想に近いのだといっていた。牧師さんによれば、根本主義者、 (当時fundamentalismは原理主義ではなく根本主義と訳されていた)と呼ばれている宗派はプロテスタントではなく、エホバの証人や統一教会などと同様に新興宗教なのであって、自分たちはそうではなく、あくまで正統的なプロテスタントであると主張していた。しかしその教会では当時盛んに、今でいうヤングアース創造論者の講師を迎え、講演会などを頻繁に行い、地球の年齢は6千年であると主張し、地質学の攻撃をやっていたのだった。その講演の内容は完全なねつ造に基づいた、あきれるようなものだった。そのやり方というのは、現代の地質学の説明をしてからそれを攻撃するわけだが、その批判される現代の地質学というのが全くのねつ造であったのである。地球科学での地球の年齢というのは当時と今でも殆ど変わっていないと思うが、当時の定説で45億年の筈だったのが、そのねつ造地質学によると10億か100億という切りのいい数字であったように記憶している。それをまた切りの良いように10程にわけ、原生代とか古生代とか、聞いたことのある名称を割り振っただけのものであり、そういったでたらめの地質学をねつ造した上で、それをコテンパンにやっつけて地質学のいい加減さを説いていたのだった。そういった資料のすべてはアメリカ製だった。もしもニセ科学と呼べるものに近いものがあるとすればそれこそニセ地質学であり、ニセ科学とも呼べるものだろう。私はニセ科学ということばの使用に反対しているが、このように限定して局所的に、正確に使用すれば問題はない。しかし現実には言葉をそう正確に使用する人は専門の科学者にもあまりいないのである。


この場合もいったんその資料についてニセ科学というような言葉を使い出すと、そのような原理主義信仰そのものについもニセ科学と呼ぶようになりがちである。現実には現在の「ニセ科学批判」者の多くはこのキリスト教原理主義についてはあまり言及することはないようなのでそのこと自体は起きていないが、このキリスト教原理主義の思想の問題はあくまで宗教の問題とか、宗教と科学との関係の問題といったコンセプトで論議されるべき問題であって「ニセ科学問題」というような変な枠組みで論議するものではないと私は思う。


しかし、いずれにせよ、このこのキリスト教原理主義の問題は興味深い問題であり、と現在オカルトとか言われているようなものとの比較からも何か重要な論点が現れてくるような気がする。


このブログの先日の記事で触れたことだけれども、カッシーラー著「シンボル形式の哲学第2巻・神話的思考」の最終章に主要な宗教を比較した部分があり、そのキリスト教に関する記述には現在のキリスト教原理主義の理解にも非常に示唆的なものがあるように感じられた。ただ掘り下げて理解するには一筋縄では行かないような気はする。

2009年2月11日水曜日

「ニセ科学」という概念とカテゴリーの持つ問題について


以前はてなのブログ『「発見の」発見』でニセ科学批判に関する問題を取り上げたところ、そのブログとしては最も多いアクセスがあり、そのブログの記事の中ではもっとも反響のあったものだった。


この記事はそのブログの建前として、毎日新聞科学欄の記事に即して書いたものだった。その時はあまり系統的に、また緻密に考えることはなかったのだけれども、その後もこの問題については色々と考えざるを得ず、折を見て考えをまとめようと試み、今回一通り納得がゆくようにまとめる事ができたと思う。

「ニセ科学」という言葉、概念を根拠にある種の言説を批判する立場 の多くは、建前上、そういう理念的というか理想的な科学を根拠にそういう批判を行っている訳だが、実際、現実にはそういう理念的な科学ではなく、現実のコミュニティーの内実から沸き上がってくるような批判を行っているという事ができそうな気がする。というのは、次のような事情があると思うのである。

現実の科学はオーソリティーをよりどころとする1種のコミュニティーの存在抜きには存在し得ないものである。プラトン以来、ギリシャから世界各国に引き継がれ、日本ではそういう名前ではないが、多くの国でアカデミーとよばれているものがそれだと思う。国単位でも、もっと別の単位でも、正規の団体であろうとなかろうと、必ずそういうものがある。それが現実の科学というものだろう。但し理念的な、あるいは理想的な科学というものが当然想定できる訳だが、そういう理念的なものは容易に定義できるようなものでも無いこともまた明白である。

科学のコミュニティーも当然人間の集まりである。オーソリティーがあり、多少の民主主義もあるだろうが、意識しないタブーや不文律などもあると考えても差し支えないだろう。言葉を換えていえば科学とはいってもそこにも1種の神話に相当するものがあるとも言える。今盛んなニセ科学批判には多分にそのようなタブーや不文律による批判が、少なくとも潜在的な部分で多分に含まれているように思えるのである。もちろん不文律でもタブーでもない正当な規約違反とでもいうべきものもあるのは当然だが、それだけというわけではないのである。

そもそも何故「ニセ」とか「エセ」とかこういう定義の曖昧な、ある意味卑俗な言葉を、論理的であるべき文脈で使うのだろうか。これと似た言葉で、「トンデモ」という言葉もよく使われている言葉である。感情的な、あるいは文学的な、あるいはユーモアを含んだ文脈でこのような言葉を使うのなら分かるが、まるで確立した述語のような感覚でトンデモという言葉が論理的であるべき文脈で使われている。「トンデモ」という言葉ほど主観的な言葉もないだろうと私は思うのだが。

トンデモというのは「とんでもない」という表現から来た言葉であることはまず間違いが無い。「とんでもない」というのはまず、人を非難する目的で使われる場合は「非常識だ」というような意味で使われることには誰でも同意するだろう。「常識」という概念も人によって相当に差があり得る概念だが、「とんでもない」といえば自分の常識が本当の常識であるという、自分の主観を絶対化するような表現のように受け取ることができる。その意味で最高度に主観的な言葉といって差し支えない。多くの場合、単に「とんでもない!」と、主語なしで使われる。意味上の主語は無理に解釈すれば話し相手のことになりそうだが。場合によっては殆ど間投詞のように使われる。よく、人からほめられたときなど、「とんでもありません」とか「トンデモございません」などというが、これは謙遜の気持ちを表そうとする間投詞のようなものである。こんな主観的な意味しか持てないような言葉によるカテゴリーの中に何らかの対象を押し込めるというのは、言葉の暴力に近い。

「トンデモ」ということばが、見るからに変な言葉であることは一目瞭然だが、ニセ科学という言葉も一言で言って、変な言葉である。ユーモアを含んだ文脈あるいは感情的な文脈で、あるいは詩的でもいい、文学的な表現といっても良いような文章でも、文脈によっては使われて効果的になることもあるかも知れない。しかし、論理的な文脈で使われたり、まして学術的な述語に近いような形で、こんな言葉がまかり通るようになるとすれば、いったいわれわれ一般人はどのように考えればよいのだろうかと戸惑うばかりである。

非科学ということばは昔からよく使われている言葉である。もっとも実際には「非科学的」という言葉がよく使われてきたのであって「非科学」という言葉はそんなに使われることはない。しかし非科学ということばは非常に明確な、それ自身が明快な定義であるともいえる。「非」というのは論理学でもそのまま使われている言葉で、そのままそれに相当する論理記号がある。但しそれは、この場合「非科学」が明快な意味を持つことができるのは「科学」そのものについて何も詮索する必要のない場合だけであって、科学の定義について考え始めるとすれば、そういうわけには行かなくなる。だから、ひとたび何か非科学とされたものがどういう点で非科学であるのか、とか、それは非科学的であるのか、というようなことを考え始めると、もう結論を出すことは容易なことではなくなるのである。

例えば、音楽は科学そのものではないから非科学であるということは言える。しかし、音楽は「非科学的」というようなことは普通言われることはないし、わざわざそんなことを考える人もあまりいないだろう。また音楽に科学的なもの、あるいは科学そのものが含まれていないという事はできないだろう。音楽ほど科学と技術とに深く結びついて発展してきた、あるいは変遷してきたものも少ない。

こういう問題はその言葉がどういう意味で使われているか、どういう範疇の意味で使われているかという問題と関係があるということは間違いが無い、しかしそれだけでもないように思われる。範疇の問題に入っていくと、物事を整理して正確に論議するのは容易なことではないだろう。またそれで解決する見込みがあるかどうか。

音楽とか、言葉とか、あるいは科学そのものも、こういうものは、論理的にはそう簡単に扱えるものではないのだろうと思う。すくなくとも眼に見えるもの、数えられるもの、物質的なもの、少なくとも論理的にはそういうものと同じようには簡単に取り扱うことはできるわけがない。音楽と非音楽、言葉と非言葉、科学と非科学、こういう、論理的には単なる否定の記号を付けるだけでも、物質的なものと同じようには簡単に、論理的に扱う事はできないものなのだと思う。こういう概念には「非」という、明快な、単なる論理記号のような言葉でもそういう難しさがあるわけだが、そこに「ニセ」とか、「疑似」とかいった、論理的に明快ではないような形容詞をつけると問題がどのように紛糾してくることか、容易に想像できるというものである。

偽物というのはもともと具体的な個物に対して用いられてきた言葉である。とくに美術骨董品や、あるいは影武者の場合のように重要人物のような人間など、要するに固有名詞で呼ばれるようなものとか、また金やダイヤモンドなど、貴重な物質について使われてきた言葉である。それも場合によってはきわめて慎重な使われ方をしている。例えば美術骨董品の世界では模写とか、レプリカとか複製とか、必要に応じて色々な近い概念の言葉た使い分けられてきた。金やダイヤモンドなどの物質の場合でも、模造とか、人造とか、人工とか、代替とか、代用とか、あるいは疑似というような言葉も慎重に使い分けられてきたのである。

少し、例を挙げて詮索してしてみれば、例えば美術品については偽物にまつわる話はきわめて頻繁に出てくる話であるのに対し、音楽について偽物にまつわる話はきわめて少ない。聞いたことがある例を思い出してみれば、例えばバッハの曲として知られている曲が実際にはバッハ以外の人物の作品であることが疑われているとか、ベートーベンの新しい曲が発見されたニュースがあるが、おそらくそれはベートーベンの名前をかたった他人の作で、たぶん偽物だろう、といったような話で、これは実際には音楽そのものではなく作曲者という、人物を騙った偽物であるというべきだろう。音楽そのものには偽物ということばは使うことは無理なのかも知れない。少なくとも美術骨董品や貴金属などと同じ意味での偽物の音楽というのはあり得ない。

あるものがある別のものAの偽物であることをいうには、その前の段階で「非A」であることが証明済みあるいは了解済みでなければならない。非AであるだけでAの偽物ということにはならないからである。偽物であるということができるのは非Aであることが証明された上で、さらに議論を重ねなければならないことののである。だから、単に非Aというだけの言葉を使う場合は、一応Aの意味を保留したままで話を進めてゆくこともできるが、偽物であるというにはそういうわけには行かない。非Aであることに議論の余地がない場合にのみ、その上で改めて偽物という言葉が使えるかどうか、込み入った議論が必要になってくるのだと思う。こういう点だけから見ても、ニセ科学も疑似科学も、きわめて恣意的で主観的な意味が入り込んでくる言葉であると言える。

とはいえ、世の中にはニセ科学ということばを使いたくなるような批判されるべき言説や、動向などが頻発している事も事実である。多くの場合それらはねつ造事件ということで落着を見るのである。あるいはトリックが発見されたということで落着に至る。解決に至るような場合は殆ど100%がトリックを含め、ねつ造が発覚することによっている。だから、私は個人的にはこういうものを「ニセ科学」ではなく、「ねつ造科学」と呼べば良いと思っている。あるいはあえて「科学」をつける必要もなく単なる「ねつ造」とか「ねつ造言説」とか、「ねつ造論文」と呼べば良い。事実、専門学者によるねつ造事件の場合は「ねつ造論文」と呼ばれているのである。但しそれをそう呼ぶには具体的なねつ造の事実を突き止める必要がある。それまではあくまでも「ねつ造の疑い」であり、ねつ造の容疑者にすぎない。「ニセ科学」というカテゴリーを根拠にこの種の言説を批判する人たちはねつ造の疑いがあると思われるもの、彼らにとってのねつ造の容疑者に過ぎないものを「ニセ科学」と呼ぶことによって「ねつ造科学」同等物としてそれらを葬り去りたいと願っている。実際、本当に有害であると信じられるのであれば、証拠が見つかるまで待つことはできないし、危険な徴候を持つものであれば早めに告発する必要があるだろう。そういう場合はあくまで「ねつ造容疑」ということで告発をすれば良いのである。これは他の刑事事件と全く同じことである。

しかし、「ニセ科学」批判論者の多くは非科学的であることをもってねつ造の疑いをかける。これでねつ造の事実が発覚する場合もあるだろうが、必ずしもそうとは限らない。例のノーベル賞を取り損なった韓国の大学教授の論文ねつ造事件の場合、たぶんその非科学性によってそのねつ造に事実が発見されたというよりも、何らかの証拠が発見されたことによるのではないだろうか。単に証拠が発見されたということであって、それが非科学的だということから発覚したというのではないように思われる。たぶん「ニセ科学」批判論者によってこの事件が発覚したとのではないだろうと思う。非科学性と、ねつ造のような倫理的問題とは別の問題である。

「ニセ科学」批判論者の本当の意図は「ねつ造」という犯罪性を告発するところにあるのではなく、非科学性を告発することにあると考えざるを得ない。しかし最終的に告発するには「ねつ造」という欺瞞性、つまり倫理性に訴えざるを得ない。つまり、本当の目的は非科学性を批判することにあるのだが、批判する根拠としては欺瞞性に頼るのである。

言論は自由であり、非科学性の批判ももちろん自由である。しかし「トンデモ」という言葉と共に、「ニセ科学」というような非論理的な言葉、変なカテゴリーを盾にすることは有害である。