2009年8月30日日曜日

「信じぬものは救われる」という、本のタイトル。

書店の棚を眺めていたときに、「信じぬものは救われる」というタイトルの本が目に留まった。著者は香山リカ氏。この人が書きそうなタイトルだなと思ったが、一方、個人的には違和感のある、印象のよくないタイトルである。それも狙いかも知れないが。・・・この本について内容も読まずに論評するわけにはゆかないが、タイトルについてのみで言える範囲でちょっと思うところ、言いたくなったことを書いてみたい。

というのは、こういう表現はこの種の本のタイトルとしては如何なものかと思うのである。宮沢賢治に「うたがふをやめよ」という題の詩があったが、詩や小説のタイトル、あるいはエッセーでもいいが、文学的な文章のタイトルであればこういう表現も有りかなという気はするが、香山氏は精神科医だから精神医学という分野の科学者なのであろう。この本も専門の論文ではないにしても科学者の立場で書かれた書物とは言えるだろう。それならこういう語呂合わせのような安易なタイトルはどうかと思うのである。

もちろんこういう表現も個々の文脈の中での表現としては、たとえ科学者による科学上の問題がテーマの文章であっても何ら問題はないと思うのだけれども、科学者としての立場で書かれた本のタイトルとするには、たとえ一般向けの本であっても粗雑にすぎると思うのだ。それが内容の粗雑さを推量させるのである。もちろん中身は一行も読んでいないのであるから、これ以上中身を想像してあれこれ言う事は許されないことだろうが、やはり、タイトルそのものから言えることはあると思われる。

繰り返しになるが、こういう表現、「信じぬものは救われる」というような表現はある種の文脈の中で使われる場合はともかく、それ自体としては欠陥のある文である。というのは信じる、信じないという言葉は他動詞であって目的語がなければ意味がない。文脈の中で使われる場合は目的語が了解されている場合である。この表現は間違いなく「信じるものは救われる」という、たぶんキリスト教の説教師の言葉とみなされている表現の言い換えであろう。もし実際にあるキリスト教の牧師がそう言ったことがあったとしても、それは文脈の中で言われた発言であろうし、キリスト教の牧師がそう言うタイトルの本を書いたとしても、それはキリスト教を信じることを意味することは誰にも了解できることである。それに対してそれを反転させた「信じぬものは救われる」という表現を学者が本のタイトルに用いたりすることは、対象を曖昧に、秘密めかして、あるいは無制限に一般化してという、余りにも粗雑な、論理の枠からはみ出した表現といって差し支えないと思う。

仮に、著者の狙いが宗教批判にあるとすれば正面から宗教を批判すべきだろう。そうではなく、詐欺商法の類、宗教が絡んでいる、いないに関わらず、詐欺商法のような悪意ある意図から素朴な人たちを守りたい、騙されていることを教えたいとう動機であるならば、騙す方の心理とあるいは意志、意図と騙される方の心理と意志、意図などを学問的に解明し分析することは確かに重要で意味のあることかも知れない。ただそこで騙されたとされる、語られた内容の真実性についてはまた別の問題があることが覆い隠される場合があるのである。

信じるか信じないか、信じやすいか疑い深いか、こういった極度に抽象的なコンセプトで具体的な問題を取り合うことは問題を極度に大ざっぱにし、そこにいくらかの正当性があったにしても、大切なものを覆い隠したり、流し去ったりしてしまう危険性があるのである。

だいたい何かを信じるという場合、一方で何かを否定することになる場合が多い。早い話が、香山氏と香山氏が否定する他の人物の両方の言説を知っている人がその他方の人物の言説を信じたとすれば香山氏の方を信じなかったか疑ったことになるのである。

そもそも誰かの言説を信じるという場合、その人物を信じるということとその言説を信じるという、二重の意味がある。各々のケースによってその二者が微妙に異なった割合で混ざり合っている。話者の人物、あるいは人物の意図を全く信じていなくてもその言説を100%信じることもあり得るのである。

少し前に問題になった納豆ダイエット事件の場合、結局その言説の話者、著者を信じるかどうかと言う問題に過ぎなかったのである。納豆にダイエット効果があるという説をアメリカの権威ある学者が唱えているというのがねつ造であったという事で、1つのねつ造問題に過ぎなかった。それが発覚した後になってから「納豆でダイエットできるなんてできる筈ないでしょ」、などと香山氏が言われたかどうかは知らないが、評論家などが言い出したのだった。しかしこの種の健康食品や食品の健康に対する効果については色々な言説が飛び交っている。その中には権威のある学者が科学的根拠があるとして正規に発表している場合も多いし、また一方でそう言う権威ある言説を否定する新しい研究が現れたり、実に錯綜しているのである。こういう状況では結局本人の直感による判断になるのであるが、一応、権威ある科学者が正規に発表しているかどうかが、多くの人がその言説を信じるか信じないかの基準になるのは仕方のないことなのである。このケースは結局マスコミの信頼度という問題になったがそれは当然のことだろう。

他方、霊感商法とか前世占いとか、とかくこの種の批判の対象になることが多いが、この種のものは話者の具体的な、個別の内容を信じること、つまり嘘をついていないということを信じる場合、その前提として霊の存在とか前世を信じていることが前提になっている。この種の人物の具体的な話を聞いて始めて霊の存在とか前世を信じるようになる場合もあるかも知れないが、初めからそういった存在を信じている場合の方が多いと言えるだろう。また、そういう存在を信じているけれども、特定の霊感商法とか、偽りの前世占いには騙されない人がいないわけではない。神、神々、心霊、前世などの存在を信じているからといって霊感商法や偽りの前世占いなどに騙されるとは限らない。

神の存在や非存在という問題については言うまでもなく、心霊や前世、来世といった対象についても正面切って議論することはそう安易にできることではなく、簡単な議論で片付く問題ではない。まして議論もせずに「そんなものあるわけないでしょ」の一言で人を納得させられるような問題ではないのである。そういう問題について深く議論することを避け、宗教絡みの詐欺や、オーム事件のような宗教絡みの犯罪の問題と一緒くたに扱い、処理してしまうこと ― そのような騒ぎが起きたときに、どさくさに紛れてのように宗教や宗教的な思想や超自然的な言説などを一括して批判するようなことは、日常語での雑な議論でならともかく、厳密で論理的な議論をすべき学者、科学者にはして欲しくないと思う。専門の論文ではなく一般を対象にする本においてでは、専門の論文において以上に、言葉の意味に対する細心の注意が必要であると思うのだ。

専門の論文では専門用語に頼ることができる。しかし一般に向けて語るときは多くの専門用語に頼ることはできない。それで日常語、言葉一般に対する理解、あるいは感性が試されるのだとも言える。

以上の問題は「ニセ科学」論議において広く共通するものであるといえる。「ニセ科学」批判を展開する人々の多くは批判する対象が偏っているし、防御する対象も偏っている。おそらく「ニセ科学」批判論者のあいだでも多くの問題で見解が一致することもないだろう。何を「ニセ科学」と判定し、何を正規の科学であると判定するかには、単なる恣意的なものもあるだろうが、そこにイデオロギー的なものが入り込んでいることも多い。当然、政治的なものまで侵入してきていることも十分考えられる。もちろん具体的にどのようなケースを批判するのも自由であるが、あくまで個々のケースについての具体的な批判に止めておくべきものを「ニセ科学」という一般化された、よく分からない概念を基準にとらわれ、こだわり始めるか、あるいは「利用」さえし始めるのである。

きまって「まず疑ってかかりなさい」というのがよく使われるフレーズだが、このフレーズもそれに合った文脈で使ってこそ意味があるのであって「科学とは疑うこと」、という定義のような表現に変わり、一人歩きする言葉として使われるようになっている。見方を変えると、一面、言葉をそのように使う傾向は科学にとって必要なものであり、それが科学の限界のひとつではあるまいか、という気もしないではない。

言葉の意味と使い方について深く反省することなく雑な使い方をしていると議論を深く掘り下げることができなくなり、大切なものを見逃し、覆い隠し、流し去ってしまう。よく用いられる比喩を使えば、「たらいの水と共に赤ん坊まで流し去ってしまう」ことになるのである。

(以上は、上記書物のタイトルに関連して思うところを述べたまでで、本の具体的な内容については何も語っていません。読んでいませんが、恐らく有益な内容が含まれていることと推察します。)

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