2010年12月17日金曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。

ゲシュタルトの概念導入の必要性

前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。


これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。

「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―

このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。

さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。

しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。

マッハとカッシーラーによる次の引用文

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。

例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題

例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。

そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。

上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること

書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。


1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)

これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。


数式が横書きに適していること。

これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。

今回、以上。