2020年12月26日土曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― その3― 最近のメディア空間でますます露わになったいくつかの日本語の欠点

最近のメディア空間と日常会話空間においてうんざりしていることのひとつは、『コロナ』という短い言葉が単語としても、またコロナ禍、ポストコロナ、といった熟語としても、無反省に氾濫している事です。まさに決壊するまで氾濫していると言っても良いと思います。そのままコロナと言う三文字で、やれコロナに感染した、コロナにかかった、コロナで死んだ、コロナの疑いがどうこう、等々、本来病気ともウィルスとも何の関係もないコロナという短い単語が新型コロナウィルス感染症との関連で安易に使われているのを見聞きして、個人的には本当にやり切れない気分の悪さを感じています。一つの言葉の意味が多様に広がったり、変化したり、良い意味の言葉が悪い意味の言葉に変化したりと言うことはどの言語でもよくあることで、ある意味、抵抗しても仕方のないことかもしれませんが、しかしコロナという言葉の場合、本来的ないくつかの基本的な意味は厳然として存在しているわけだし、英語の辞書にはCoronaという女性の名前も載っているくらい、もともと言葉のイメージとしては美しい言葉なんですけどね。まあ言葉には当然、良い意味の言葉もあれば悪い意味の言葉もある。それぞれの言葉自体に良いも悪いもないが、美しさとか、イメージといったものはある。そういうイメージを壊すような使い方についても云えると思いますが、安易に、よく考えもせず、あるいは作為的に意味を転用したり、拡大したりすることは、言葉や言語そのものの冒涜につながるような気さえします。言葉と言う人類の宝物は大切に、慎重に取り扱わないと、そのうち言葉を奪われてしまうということにもなりかねません。

かつてのSARSが流行した際、これは日本ではあまり深刻な問題にはならなかったようですが、改めて調べてみると、SARSとは「重症急性呼吸器症候群」の英語の短縮形であることがわかります。またそれ以前にMARSというのがあり、これは「中東呼吸器症候群」の英語短縮形であり、病原体の名前ではなく症状の名前で呼ばれていたことがわかります。それが今回の新型コロナの場合は症状ではなくコロナウィルスという、病原体の名前で呼ばれているわけです。しかしコロナウィルスと言うのは厳密にはコロナウィルス科という集合的な名前で、これにはSARSやMARSやその他の「普通の風邪」も含まれるみたいですね。ウィキペディアをちょっと見ただけでも、それらの分類は恐ろしく複雑で多様で、とても素人の手におえるようなものではないことがわかります。

ここで専門的に深入りすることは無理で、仮にそうしても収拾がつかなくなるだけなので、本題の言葉の問題という観点に立ち返ってみれば、SARSやMARSのように症候群で識別することの意味と、病原体名で識別することは明らかに意味が違っているのであって、どちらが正しいかとか優れているかという以前にその違いを意識したうえで言葉を使用すべきだと思うのです。

いずれにしても今回の新型コロナウィルスをコロナウィルスというのは、少なくとも「種」としての名前を「科」としての名前で呼んでいるわけで、そのことだけでも大幅に曖昧さが加わっていますが、さらに「コロナ」という、単にウィルスの形状を表現するためだけに使われているだけで、それ自体がウィルスとも病気とも何の関係もない言葉で総称され、様々な文脈とニュアンスで使われまくっていることが放置されてよいものか?と日々憤りを感じている次第です。

この問題に関連して先般、英語の略語、特にアクロニムのデメリットについて「PCR」を例にとって考えて見ましたが、一方で英語のアクロニムには日本語における略語にはないメリットもあり、日本語の欠点部分にも関係しているので、まずそれについて考えて見たいと思います。先般の記事のように日本語では表意文字を使うことでやたらに英語のようなアクロニムを避けることができるとしても、それでもやはり複雑過ぎる概念は短縮形に頼らざるを得ないわけで、英語のような表音文字のアクロニムにはそれなりのメリットがあると考えざるを得ません。今回の新型コロナウィルスの場合はCOVID-19ですが、こういう短縮形の作り方は表意文字の場合は無理で、強いて日本語に訳そうとすればやはり表意文字を使用して「コヴィッド19」とか「コビッド19」とかになるでしょうか。しかし日本では政府権威筋でもマスコミでも、ジャーナリストでも、こういう表現を使う人はいることはいてもわずかで、殆どは「コロナ」で済ませてしまっています。これは多くの外国でもそうではないかと思います。これは1つには「コロナ」という言葉の発音が持つ語呂のよさといったものも関係しているのでしょう。ということはまた、「コロナ禍」とか、「ポストコロナ」、とか「コロナに負けない」といった造語や表現を作りやすいという面もあると思われます。しかしだからと言ってそういう造語を作ることが良い結果をもたらすかと言えばそうでもなく、むしろ安易な造語が行われやすいという、マイナス面も大きいと思います。

もう一つ改めて露わになった日本語の欠点は、日本語に単数と複数の区別がないことです。この点は古くから指摘されていることですが、中にはそれほどの欠点ではないという考えかたも結構あるようです。たしかに必要に応じてそれなりに複数の表現はできるわけですが、それでもあえて単数か複数かを区別せずに曖昧さを残すために使うこともできるわけです。特に最近のメディア空間で「コロナ」とともに頻繁に使われている「専門家」という言葉の使い方で、この欠陥が改めて露わになっているように思います。総理大臣以下の権威筋のみならず有名ジャーナリストも「専門家がこういっているから」云々、という言い方で公衆に向けて説得姿勢で語りかけるのが日常的になっています。単数形と複数形を区別せざるを得ない英語ではこういうルーズな表現による曖昧化はずっとしにくくなります。たとえば不定冠詞の「a」以外にも「some」のような限定詞や数詞なども付けやすくなります。日本語で表現するとすれば、「一部の専門家」とか「特定の専門家」とか、もっと具体的に専門家を特定することも視野に入ってくるわけです。単純な複数形でも曖昧さは残りますが、それでも専門家のすべてを表すわけではないので、単複の区別がないよりはずっと良いと思います。


最初のコロナとい言葉の問題にもどります。いまや現下の社会状況に言及する際にコロナという言葉を使わないでは済まないようになってしまったようです。これはいわば言葉の土俵でありこういう土俵は自然にできる場合もあるかもしれませんが、やはり現代ではマスメディアが、意図的であるか無意識的であるかに関わらず、作りだしていると言えます。こういう土俵は便利ではあり、中に入ることで楽に思考や言論ができるようになります。しかしそれは言語空間を狭めてしまうものであって、深められた思考による自由な言論を妨げるものです。思考や言論はゲームやスポーツではなく、もちろん理想的には闘いであってはならない。

では日本語は上記の点、つまり狭隘な言葉の土俵のようなものが発生しやすく作られやすいのではないだろうか、特に英語と比べてどうだろうかという問題意識が生じてきます。これについては今すぐどうこうは言えませんが、表意文字の言葉、単語が主体である場合はそういう傾向が生じやすいのではないか?という予感がしないでもありません。今回は以上で。



2020年11月10日火曜日

感染者と言う言葉の独り歩き(その2)― 感染者(数)という表現の独走態勢

 前回、もう数か月前ですが、この問題を取り上げたときはシニフィアンとシニフィエの組合せといえる見方から、平たく言えば、意味するものから離れた単なる言葉だけが拡散している様子について述べたわけですが、今回は別の観点から、つまり表題のように、感染者(数)、感染確認者(数)、感染率、陽性者、陽性率、PCR検査陽性者、等々、様々な関連用語の中で、飛び抜けて頻繁に使われている感染者という表現について考えて見たいと思います。

これらの言葉は今回の新型コロナ騒ぎにおいて人的統計資料として各種広報やマスコミで連日使われているわけですが、このような人的統計の用語として「~数」という表現がこれほどまで頻繁に毎日使われたことがこれまであったでしょうか?普通は「~率」ではないでしょうか?端的に他の例を挙げてみると、例えば失業者の場合、真っ先に失業者数がそのまま報告されることってあまりないと思いませんか?普通はまず失業率が発表されてきたはずです。失業者数が発表される場合はまず失業率が発表された後、その具体的で詳細な資料として発表される場合に限られていたように思います。今回の新型コロナ騒ぎの広報と報道においてはこれが完全に逆転していますね。「感染者」と「感染者数」の頻出には、大抵の人は、例え無意識的にでもこれに違和感を感じているのではないかと思います。これは独り歩きと言うより独走、この場合は二人三脚における独走と例えられるしれませんね。

まずこの「感染者」と「感染者数」を比較してみると、この二つは同じ意味で使われる場合が多いようです。このように、数えられる名詞は普通、日本語でも英語でも数量と同じ意味で使われることが多いようです。英語の場合は複数形が使えるので、なおさらそういうケースが多いように思います。例えば、個人的に畜産関係の翻訳をする機会がよくあるのですが、表などで豚の頭数を表す場合、列の見出しはは単に「Pigs」となっているケースがよくあります。こういう言葉の用法は、物質名詞の場合は少ないように思います。例えば水量を表すのに「Water」と表現することはあまりないでしょう。日本語では普通、水量と表現しますが、英語の場合はリットルとかの単位を見出しにするのが普通のように思います。ですからこれはあらゆる名詞に通用するわけではないので、言葉の用法としては厳密さに欠ける使い方であると言えます。「感染者」の場合も、例えば記事や一覧表の見出しなどで単に「感染者」と書かれているのと「感染者数」と書かれているのでは少し印象が異なってきます。例えば、「感染者」の場合は「新たな感染者」という表現で使われる場合が多いようです。そうなるとこれまで感染していなかった人が新たに感染したかのような印象を受けます。「感染者数」の場合はすでにある状態の確認という印象で、新たに感染した人という印象は薄らぎます。「感染確認者(数)」となればさらにそういう印象は薄らぎ、既存の感染者が新規に確認されたという印象に近づきます。要するに新たな感染者というだけでは潜在的感染者の存在が捨象されていると言えます。これは「感染者」の定義や「PCR検査」「患者」等との関係とはまた別の問題です。

次に掘り下げて検討すべきは「~数」と「~率」の違いですが、一言でいって「~率」の場合は分母となる集団が空間的にも時間的にも意識されるという違いがあります。具体的に「感染者数」で言えば、上述のように潜在的感染者の存在が捨象されていることに加え、分母となる集団もあいまいなまま残されています。たとえ、東京の特定日における感染者と言われたところで、その日に何らかの検査で判明した人数である可能性もあれば、累計である可能性もある。その日に何らかの検査で判明した人数であるならば、その日以前に判明している人数が今はどうなっているのかという問題が残されることになります。累計であるならば、感染状態から非感染状態に移行した人数は無視されていることになります。

このように感染者ないし感染者数という表現では極めて多くの情報がうやむやのうちに葬られることになり、そこから感染者と言う概念自体の曖昧さにも疑念を持たざるを得なくなります

これは交通事故の死者と比べてみるとはっきりします。交通事故は、普通、東京都などの自治体単位で、発生率ではなく死亡者数で公表されますが、これを単に「死者」と言えばどういうことになるでしょうか? 当然、東京都に限っても、到底数えられるような数値ではありません。つまり、この場合は死者数というよりも当日の死亡事故の件数と言うべき数値でしょう。この考え方を当今の感染者数に適用してみると、感染者数というのは当日のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査陽性者である可能性が濃厚ですが、それが示されていない以上、そう言い換えることもできないわけです。これが、「感染者」という言葉の曖昧さであり、端的に言って意味不明と言わざるを得ません。(以上、青字部分を11月11日追記)

今回の論議では感染の意味とかPCRの意味についての論議は度外視しています。これらについては本ブログの最近記事や別ブログ『日々と人生の宝物』の最近の記事で考えを述べているとおりです。

2020年9月29日火曜日

略語、特にアクロニムの多用による重大な弊害について、「PCR検査」を例に考える ― いくつかの比較日本語論的トピックス (その2)― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化

英語の翻訳という仕事を続けるうえで煩わしい問題の1つは、増加する一方のアクロニム(頭字語)の扱いである。アクロニムは翻訳せずに済む場合もあるが、いつもそれで押し通すわけにも行かない。そのためには、表現方法の問題はさておき、まず意味が分からなければ話にならない。今では各種の辞書も充実し、大抵の場合はウェブ検索で何とかなるが、それでもわからない場合もなくはない。

アクロニムというものは本来、可能な限り避けるべきものであろう。英語の原文にもいろいろあり、高い信用度が要求されるような書類の場合は、注釈としてアクロニムのリストが付けられているのが普通である。また科学雑誌で英語論文の投稿規定などをみると、基本的にアクロニムは使うべきではないとされ、使う場合は当然、定義を明確に付記すべきことが要求されている。しかし近年の技術用語、ビジネス用語、とくに報道、マスコミ用語ではこの種のアクロニムは増殖する一方であり、その使い方も恣意的であり、論理的でもなく、ときは無責任極まりない使われ方をされている場合も多い。報道、ジャーナリズムはお笑い番組でも仲間内のお喋りでもないはずである。

例えば、「AI」の場合、文章記事ばかりではなくテレビやラジオ放送でも大抵の場合は日本語で「人工知能」という言い換えが追加されるのだが、一方、最近の「PCR検査」の場合はどうだろうか。PCRの場合は殆ど初めて聞かされた時から今に至るまで、少なくとも通常のニュース番組で何らかの説明が付加されたことは聞いたことがない。私の記憶では、この言葉が頻繁に使われだしたのは政府広報などよりもむしろジャーナリストや進歩的文化人と言った人たち、あるいはツイッターの発信者たちの発言からであったような印象がある。私は当初からこの略語の使用に不信感を持っていた。というのは、この略語を使う人たちの多くがしきりにもっとCR検査をせよ、拡大せよとまくし立てるのだが、一般人がそれまで聞いたこともないPCR検査なるものについていきなりどうのこうのと言われても困るのである。それが政府や行政を批判する文脈で発言されていれば、PCRの意味など理解されずとも、行政に不満を持つ多くの人々の支持を得やすいのは確かではある。しかしそれは無責任ではないか。それで私は最初からそういう意見に耳を貸すつもりはなく、あえて急いでPCRの意味を調べることは怠っていた。

一方、逆にオーソリティの側でしきりに使われはじめ、いまでもある意味では基本用語として頻繁に使われているのは略語ではないが「感染者」という言葉である。この言葉に対する不信感についてはすでに本ブログで記事にしている。こちらの方は一応「感染者」という字義通りの意味は、分かるのだが、そもそも感染者というのはどういう状態の人のことを言うのか、どうやって判定するのかが全く分からないのである。つまりこの場合は新型コロナウィルスの感染者と言う、字義通りの意味はあるが、そういうものは一般人が見て判別できるようなものではないということである。つまり新型コロナウィルス感染という状態自体が眼に見えるわけでも、耳で聞こえるわけでも、触って分かる訳でもないからである。という訳でこちらは、略語とは少々レベルが異なるが、やはり意味が隠されている言葉であると言えるだろう。しかしなまじ固有の意味を持つ単語が使われているだけになお問題は複雑である。

その後、PCR検査について、一般人にも分かりやすく説明をしてくれるHPやユーチューブチャンネルに遭遇して、私はそれが病原体を検出するものではないことを知るに至って、この検査の必要性を喧伝する人たちに対する不信感はいよいよ高まる一方になったのである。

その後数日前になってようやくPCRそのものについてネット検索した見たところ、PCRとはpolymerase chain reactionの略であり、日本語では「ポリメラーゼ連鎖反応」であることを知るに至った次第である。英語では25文字が3文字に短縮されるのだから随分と効率的であるに違いないが、日本語による本来の記述では10文字であり、しかもPCRでは本来の日本語の記述を全く反映できていない。

確かに「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と言っても素人には何のことか判らないことは確かであるが、もともと概念自体が難しいのだから他に言いようがない。では「ポリメラーゼ検査」と略してみればどうだろうか。英語でもこういう略し方はできる。ただし、この検査は1つの技術であるので、概念的な正確さが格段に落ちることは確かだろう。しかし素人向けにはそれでも良いのではないか。ポリメラーゼが何を意味するかは分からなくとも、少なくともそれが化学物質の名前であって、新型コロナウィルスの名前ではないことも推察できる。もちろん新型コロナウィルスとどう関係があるのかまでは分からないが、多少とも知識欲のある人であれば、この何でも簡単にネット検索ができる現在、すぐにでも調べてみる意欲を持つことができるであろう。PCRでは何のことか全くわからないのである。私自身、数日前まで調べる気にもならなかったのである。同時に喧伝者を信用する気にもならなかった。

アクロニムは本来、言葉を使う際の効率上、やむを得ずに発生してきたものだと思うがやはり一種の暗号のようなものであり、悪用と言っては語弊があるが、恣意的な目的で利用されやすいことにはことさら注意すべきだろう。特に科学技術や学術的に使われることが多いの問題だと思う。

哲学者カッシーラーは科学について、科学は真理に近づくためにも使われるが真理を覆い隠すためにも使われると言っている。言葉についても同じことが言える。アクロニムはこの点で余程注意が必要で、特にジャーナリストや報道関係者は慎重に使用すべきだと思う。政治家に至ってはもちろんである。信用にかかわると思うべきであろう。一方一般人の立場からは、やたらにアクロニムを多用するジャーナリストや政治家や文化人に対しては、悪意や善意とは関係なく1つの信用と警戒の尺度になるともいえる。

(以下30日追記)

他方、別の視点、というより、もっと比較日本語論的な視点で見れば、ここで図らずも漢字熟語やカタカナ語を平仮名に混在させられる日本語のメリットが改めて明らかになっている事にも注目すべきだろう。漢字熟語はもちろん、カタカナ英語にしても文字数から言えばアルファベット表記よりも短くなっている。文字の大きさから言えばどうしてもアルファベットよりも大きくなってしまうので、スペース的にはそれほど節約できるとは限らないけれども、読みやすさの点でも漢字熟語やカタカナを併用する日本語のメリット、英語などのヨーロッパ言語ではアクロニムに頼りがちになるような長い単語を短く、視覚的にも表現できる漢字カタカナ混り日本語のメリットを生かさない手はないのではないか。こういう日本語のメリットについては夙に多くの見識家によって繰り返し主張され紹介されてきたはずであるけれども、なかなか主流派の意見とはならならず、英語のメリットの方が強調される流れは相変わらず強く、日本語自体も英語の影響を強く受け続けている。もちろん英語の影響を受けることに利点がないとは言えないが、少なくとも安易にアクロニムに頼ることは悪影響の一つといえるだろう。もちろんすべてとは言わないが。

というわけで、PCR検査は当面、略語を使わずに日本語で「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と表現するのが良いと私は考える。くだけたところでは「ポリメラーゼ検査」でもよいのではないかと思う。


2020年8月14日金曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化 (その1)

 簡単な序論

 最近、比較日本語論的な論議が、以前にも増して盛んになってきているように思われます。これは一方で時代のニーズでもあると思います。ただし、比較と言っても事実上は英語との関係に限られることになりがちですが、それはやはり時代の要請から、そうならざるをえないことを前提に、本稿を進めたいと思います。

一つの範疇にくくられる有名な言説として、日本語の音韻、特に母音の特殊性に関するものがあります。それらについては興味深くはあるものの、筆者にとってはいまのところ近づくすべはないという印象です。一つの理由は、それらが現在の脳科学の成果と結びついて主張されている場合が多いことです(例えば右脳と左脳との関係など)。現在に至るまでの脳科学には多くの重要な成果があるには違いはないとは思いますが、個人的には方法論的になじめないところが多く、また実験的な研究ともなれば実験物理学的なアプローチが必要になるでしょうが、私には立ち入れない世界です。

もう一つは、超科学的、あるいは神秘思想的な言説と結びつけられることが多いことです。私はこの種の思想や言説について、たとえば疑似科学という風にとらえて否定し、無視することには反対ですが、かといってそのまま素直に理解でき出来るわけでもありません。脳科学がそれを理解する契機になれば良いのでしょうが、少なくとも今の筆者には捉えどころがなく、これまでの本ブログの文脈からも、近寄りがたいのです。

本ブログの文脈はあくまでその名の通り意味に関するものです。もちろん、音楽については言うに及ばず、言葉の音韻を含めてどのような音にも何らかの意味はありますが、言葉としての意味はあくまで言語的概念と表現手段の問題になるように思います。本シリーズではこの二つの局面でトピックを見つけて取り上げて行きたいと思います。

 

言語表現における生物と無生物の区別

日本語表現では生物と無生物を区別する傾向が強いことは、昔からよく指摘されてきた有名な常識であり、日本語のこの特徴は、ここで改めて指摘するまでもないことですが、日本語では人や動物が存在する場合には「いる」という動詞を使い、無生物の場合には(植物については微妙ながら)「ある」を使い分けていることですね。一方の英語などでは、要するに三人称に関して人間や生き物についても無生物と同じbe動詞と代名詞を使うということですね。もっとも英語では単数に限ってはheとsheとitを使い分けていますが、複数になればすべて同じtheyを使うし、他のヨーロッパ言語ではすべての名詞に性別が残っているため、完全に人間や動物と無生物との間に区別がありません。抽象名詞にしても同じこと。これまでの比較日本語論的な議論ではこの点について掘り下げたり展開されることが少なかったのはなぜなのかを考えて見ることには重要な意味があるようにおもわれます。一つの理由として考えられることは、これまでは英語の合理性と先進性に注目することが多く、欠点に注目することが少なかったからではないか、という疑念がもたれれます。私自身は最近特にこの点に関心を持っていて、この日本語の特徴は、少なくとも英語を始めとする欧米系諸言語との比較においては、日本語の特質であることを超えて、優れた点であり得ることに注目すべきであると考えます。逆に言えば英語の欠点につながるのではないかということです。その端的な例が、本ブログの6月4日の記事でも再録しましたが、筆者の別ブログ『発見の発見』で6月3日に投稿した記事「鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える」で指摘したことの1つです。この記事では英語のreflectという語を例にとりましたが、要するに、生物と無生物を区別しない傾向はbe動詞と代名詞だけではなく、英語全般に行き渡っているということが言えるように思われます。

 

無生物主語と擬人化 

― あらゆる言語に、見かけ以上に、潜在的に、広範に広がる無生物主語 ―

英語の無生物主語については普通あからさまな擬人化に見えるような表現について、語られるようです。例えばweb検索を行ってみると次のような例が挙げられています:「雨が、私が釣りに行くのを妨げた」。この表現は日本語としては変だが英語では普通の事であるとし、「無生物主語構文」と定義されています(http://cozy-opi.sakura.ne.jp/englishgrammar12.html)。しかし、鏡像問題の例で取り上げたような、reflect、あるいは名詞化されたreflectionなどの動詞の基本的な用法については、無生物主語とみられることはなかったように思われます。

無生物を主語にすること自体はどの言語でもごく普通に見られることです。雨の例でいえば、日本語では普通に「雨が降る」と、雨を主語にして表現します。逆に英語では、「Rain falls」というよりも「It rains」というのが普通のようです。この点ではドイツ語でも同じと思いますが(Es regnet)。このことは英語やドイツ語ではrainが動詞でもあることと関係しているのでしょう。日本語では雨は動詞にはならないが、形容詞的であるとも言えます。日本語では形容詞は動詞なしで使えるので、日本語では形容詞だけで言葉が成立します。「雨だ」と。英語では普通、動詞は主語を要求するので、要するに普通は主語と動詞のセットが要求されると言えます。これも英語で無生物が主語になる機会が多くなる原因でしょう。

とはいえ、日本語でも無生物を主語にする表現はごく普通に使われることであり、基本的には程度の問題であると言えないこともありません。ただ、存在を意味する動詞で、生物と無生物では「いる」と「ある」という全く異なる言葉を使うという点で、本質的に重要な差異があるように思われます。それは、「いる」と「ある」の違いは他の多くの動詞においても区別され、「いる」と同じ範疇にはいる動詞と「ある」と同じ範疇にはいる動詞とに区別できるように思います。この区別は一言でいえば人間的な意味を表現する動詞と物理的な意味を表現する動詞との区別です。この区別は実際の人間、生物と無生物の区別に対応するわけではありません。というのも、人間も物理的な物体とみられることがあり、端的な例をあげると、普通、死体は「いる」とは言わずに「ある」と言います。反対に、無生物に人間的な、あるいは生物的な側面があるかと言えば、少なくとも日本語的にはそれはないと考えるのが普通で、無生物の物体に「いる」という表現は使いません。もしそのような表現がつかわれるとしたら、その場合は擬人化されていると言って良いと思います。(注:ここでは抽象名詞の主語については考えていません)

【Migrateという例(自動詞)】

 例えば、「動く」という動詞は生物主語にも無生物主語にも使えます。また「移動する」も、人間を含めた生物主語にも無生物主語にも使えるわけですが、「移住する」という動詞は普通、人間にしか使えません。無理をすれば、動物や植物にも使えると思いますが、物体や物質には使いませんね。ところが英語でこれに相当する「migration」は、大きな物体にはあまり使われることはないものの、物質、特に化学物質など、自然科学上の文脈で使われることが多いように思います。例えば地球化学や地質学では岩石や土壌中の分子の移動の意味でよく使われ、一般化学でも電気分解におけるイオンの移動などの意味でもごく普通に使われる言葉であり、英語として使用され、表現されている限り、日本人であっても、特に違和感や抵抗を感じることもないように思われます。この意味では最初に例に挙げた「reflection」の場合と全く同様ですね。これは言語に固有の特徴と考えるべきで、必ずしも人間性や民族性とはそれほど関係がないのかもしれません。しかし、民族性に多少関わるかもしれない要素として宗教性あるいは宗教的な心性との関係は否定できないような気もしますが。

【Reflectという例(他動詞)】

鏡という物体を主語として使われる「reflect」の場合について考えて見ます。対応する日本語の「反射する」について考えて見ると、普通、光を反射する場合には英語と同様、鏡を主語として「鏡が光を反射する」で、特に違和感がない印象があります。上の例のように、物質を主語にして「移住する」という動詞を使った場合に感じられる不自然さは感じられません。しかし、この言葉の場合、反射するという言葉自体が、西洋の近代科学が日本に導入される以前からあったのでしょうか?どうも「reflection」の訳語として「反射」という名詞が新しく作られたような気がします。ちなみにkindle版「言海」でこの言葉を調べてみたところ、動詞形の「反射する」の説明はなく、名詞としての反射については、「光リノ映リテカヘル」 という極めて簡潔な説明だけがあります。この説明は、光を反射する鏡などの物体を主語にするのではなく、反射される光を主語として自動詞的に表現しているように見えます。上の例と併せて考えてみると、英語との比較で、日本語では全体的に物理的な存在が主語となる機会が少ないうえに、他動詞の主語として使われる機会が自動詞の主語となる機会に比べてさらに少ないのではないかと思われます。

英語の無生物主語他動詞構文

ここで改めて英語の無生物主語構文の問題にもどってみると、無生物主語構文は無生物主語他動詞構文とも表現されており、特に無生物の擬人化的な表現はすべて他動詞であることが条件であることが分かります。これは、無生物を主語とする極めて普通の文であっても、他動詞の場合にはより擬人化的である場合が多い可能性を示していると思います。

言語的擬人化

 一般に自動詞が持つ意味と、他動詞が持つ意味とを、主語との関係で比べてみると、他動詞の方が主語の意思や意図を示す度合いが強いと思われます。それは明確に主語と目的語あるいは対象語という対立関係があるからと考えられます。それに対して自動詞の場合、必ずしもそういう対立関係がないので、主語の意思や意図があらわである場合もあれば客観的な状態を示す場合もあります。例えば「石が動いた」という表現において、普通人は石が自分の意思で動いたとは考えず、実際には何かの力で動かされたものと思うでしょう。ところが「石が移住した」と言った場合、石が自分の意思で動いたような印象を与えます。英語でも普通にその辺の石ころなどの移動にmigrateという言葉は使わないと思いますが、使ってもそれほど不自然ではないようです。簡単な検索でも医学的に結石の移動にmigrateが使われることが分かります。すでに述べた通り、自然界における化学物質の移動にはmigrateが普通に使われているわけで、例えば日英用語辞典で調べてみると、migrationは、自然科学と社会科学を問わず、実にあらゆる分野で多様に使われていることが分かります(社会科学では例えば資本移動など)。それらの殆どは日本語訳として「移動」が充てられいます。とすればmigrationは本来、基本的に「移住」よりも「移動」に相当するのだろうかという見方もできるので、逆に「移動」の英訳を同じ辞書で調べてみると、化学物質の場合にはやはりmigrationですが、光や音の場合はtravelが使われるようです。光や音になぜtravelが使われるのかを考えて見ると、たぶん、というか間違いなく移動距離の大きさでしょう。なんといっても人間の場合にtravelが使われるのは長距離移動の場合ですからね。ですから光や音にtravelが使われるのは間違いなく人間的な意味合いが込められていることが分かります。この点で日本語の移動は英語のmoveと同様、遥かに抽象度が高く、生物にも無生物に使えるような普遍性あるいは客観性を持っていると言えます。このように英語ではいわゆる無生物主語構文から一般の他動詞、さらには一般の自動詞にいたるまで擬人化的な表現が浸透しており、すでに述べたように民族性とか国民性とは別の、言語に固有な擬人化傾向とでも呼べるものがあり、これを言語的擬人化と呼ぶことができるように思います。この種の擬人化は、神話や芸術などにおける擬人化やイリュージョンとは区別すべきでしょう。また、日常言語よりもむしろ学術的な言語表現で多く見られ、特に近代科学と言われる物質科学的要素が強い自然科学系の学問の発達と展開に影響を与えてきたのではないでしょうか。

(次回に続く。2020/08/14 田中潤一)

 




2020年8月3日月曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その2

予測分析という概念への疑問、および遺伝子分析と呼ばれるものへの危惧について

(前回の文脈で引き続き考察を進めたいと思います。)

情報科学分野でデータ分析において予測分析という概念が用語として確立され、普通に使われているにしても、情報科学、あるいは情報工学、コンピュータサイエンスという学問分野自体、本質的に技術志向的で、純粋な学問とは言えない側面が強いように思われる。一般に情報科学関連の理論は高度に論理的、数学的で、とくに私などには苦手で近寄りがたい印象があるが、反面、ご都合主義的な面が強い印象がある。個人的にはかつて放送大学で、辛うじて「可」をとれる程度に勉強した経験があるだけだが、そういう印象を持っている。端的に言って、プログラムを効率的に作成することが目的であって、困難あるいは解決不可能にみえるような問題は飛ばして見えなくしてしまうようなところがある。そういう次第で、用語の概念を深く掘り下げるようなことはあまり追及しないような印象を持っている。

専門的な情報理論を離れて、分析という概念の本来的意味を考えてみると、カント哲学による有名な分析判断と総合判断の区別を思い起こせばわかるように、分析の対象は、どう考えても、既存のデータであり、予測値のように未来の、すなわち現在存在していないデータが対象であるとは考えられない。定量的な予測が可能であるとしても、それは分析によるものではなく計算である。前回最初に例に挙げたように天気予報は数値予報と呼ばれていたし、日食の予測は、計算によるものであった。

もちろん、以上は個々の予測分析と呼ばれる成果物の価値とは関係のない話である。一般に予測分析と銘打たれているからといっても情報科学の定義と手法をそのまま使っているわけでもなく、単に予測と分析という二つの言葉を組合わせているだけであるかもしれない。ただ、全体として予測を述べる作品であれば、日本語的感覚で言えば、こういう熟語ではなく「分析と予測」あるいは「分析・予測」というような表現が妥当ではないかと私自身は考える。

さらに言えば、情報科学、コンピュータサイエンスと呼ばれるものは科学ではなくあくまで技術的な工学であり、マーケティングでもあることを十分に見据えておく必要があると思う。


もう一つ前回記事の最後の方で触れたことで、より深刻に思われる問題は、予測との関係ではなく分析自体における自然科学的な要素と、人間科学的な要素の共存という問題である。この問題は遺伝子分析において端的に現れているように思われる。

そもそも遺伝子という概念自体、物質的側面と、人間的な意味的側面の両面を持っている。つまり、化学成分や分子構造といった量的で幾何学的な要素と、身体機能とか人間的な性質という要素である。機械的にデータ分析できるのはあくまで量的で幾何学的な要素だけである。個々の物質的要素に機能的要素が割り当てられているとはいえ、言葉の意味、単語の意味を考えて見ればわかるように意味というのは流動的であり、具体的に話し言葉や文章として使われて初めて意味をもつのである。意味の分析についていえば、今ではある程度の機械翻訳も可能になったようだけれども、その使われ方を見ると、多くは簡単な会話の補助として使われる程度で、絶えず人間同士で相互に検証されながら、あるいは確認しながら使われるケースがほとんどだろう。文章の翻訳に使われる場合があるにしても人によるチェックを欠かすわけにはゆかない。

という次第で、私は遺伝子分析という概念や技術の進展に相当な危惧を抱いている。もちろん以上のような問題は遺伝子分析に限ったわけでもないし、同時にまた遺伝子分析の価値と可能性を否定するわけでも認めないわけでもない。ただ暴走が大いに危惧されるのである。

2020年7月24日金曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その1

最近、筆者の別ブログ「発見の発見」で、「質的」と「量的」という対立的な概念についてシリーズ(のつもりで)で考察を始めましたが、最初の2回は分析の意味との関連で考察する結果となっています。ここでは分析そのものについて予測との関係性において考察してみたいと思います:


最初に1つの例を挙げると、天気予報は今ではコンピューターを使って行うのが当たり前で、かつてのように数値予報などといった言い方はあまりされなくなった。それでも天気予報という表現は変わることなく使われている。「天気分析」とは言われない。自然科学ではだいたいどの分野でもそうだろうと思われる。日食の予測なども、計算とは呼ばれても、分析とは呼ばれない。それが、特に経済や金融方面の分野では「予測分析」という表現があるようで、これもご多分に漏れず英語の「predictive analysis」という表現に由来するようである。ただし、ウェブ検索してみると「predictive analytics」という表現の方が多く出てくる。「Analysis」と「Analytics」の違いはよく分からないが、Analyticsの方がやや婉曲的というか、意味を拡大したような印象も受ける。身近なところではグーグルのアクセス解析は「アナリティクス」と、カタカナで書かれている。

いずれにしてもこの熟語においては日本語でも英語でも、「予測」が「分析」を限定的に修飾しているとみなさざるを得ない。とすれば、Predictive Analytics をより日本語らしく訳すとすれば「予測的分析」となる。「~的」という表現はいろいろな意味合いがあるから、「予測のための分析」と取れないこともない。しかし、現実にそういった予測分析と言われるものは、何らかの分析が含まれることには違いがないが、結論としてはどうみても予測である。ということは全体としては分析とは言えないと思うのである。予測と分析は、互いに全く異なる概念であるからだ。であるから、むしろ実質的には「分析的予測」あるいは「Analytic Prediction」と呼ぶべきではないだろうかと思うのである。ちなみにいつものようにグーグルで検索してみると、「分析的予測」も「Analytic Prediction」も存在するが、いずれもその逆に比べては一桁以上少ない。

こうなってくると、本来、「予測」の範疇に入るべきものが「分析」と呼ばれることが多いのではあるまいかという疑念が起きるのである。もちろんその逆に「分析」の範疇に入るべきものが「予測」と呼ばれるケースもあり得ることが想定できるが、それは恐らく少ないであろうと思う。現実に「予測分析」、「Predictive Analytics」という表現が圧倒的に多いからである。端的に言って、実質的には「予測」であるものが「分析」とみられることを欲しているように思われるのである。これが欺瞞であるとすれば、他者欺瞞であると同時に自己欺瞞でもあるのだろうと思う。とはいえ、もう少し詳細に検討してみると欺瞞というのは当たらないか、少なくとも言い過ぎではないかという可能性もないではないし、もう少し詳細に検討してみる必要はあるだろうと思われる。

そこで、あらためてPredictive Analysis という用語について調べてみると、やはり情報科学、あるいはコンピュータサイエンスとの関係が深いことが分かる。もっと端的に言えば情報科学、コンピュータサイエンスの用語であると言える。特にAIという用語との結びつきが強く感じられる。

今回はとりあえず、分析という言葉が本来分析と呼ぶべきではない概念に対して安易かつご都合主義的に使用されていることについて指摘しておきたいと思う。最近の新型コロナ騒動においても、分析とか分析結果という言葉が盛んに用いられているが、実際、分析という言葉で「考察」や「結論」を述べているに過ぎないケースが多いのである。つまり、考察や結論に相当する内容を分析と呼ぶことで、そういった考察や結論を導きだすための分析結果を示すことを省略していると言える。つまり実質的には何らかの分析に基づいているのか、分析に基づくこともなくただ恣意的な結論を述べているのかを分からなくしている。政治の世界では仕方のないことともいえるが、やはりこういった問題は科学分野自体にその根を持っていることを見過ごすわけには行かない。

自然科学と人文社会科学との対比において考えて見ると、やはり、このような分析という用語の安易でご都合主義的な使用は、人文社会科学系において多いのではないかと思われるけれども、自然科学とされる分野にも人文社会科学的要素は当然含まれるし、当然、その逆もある。気候変化の研究や遺伝子研究の分野では特に人間的な要素と同時に情報科学的要素が重要な部分を占めているのであるから、何が分析で何が予測、考察、構成、結論その他に相当するのか、そういう概念分析が極めて重要になってくるのであり、そういう分析が行われないままに研究自体が暴走することを許してはならないと思うのである。

2020年6月4日木曜日

鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える ― 「ブログ・発見の発見」の記事を転載します

以下は昨日、別ブログ「発見の発見」に掲載した記事ですが、もともと当ブログで扱っていたテーマを継承した問題でもあり、特に多くの読者に読んでもらいたく思っている内容なのですが、最近ではなぜか、そちらのブログへのアクセス数が伸びなやんでいることもあり、こちらの方にも転載することにしました。また昨日の記事への追記部分もあります:

 鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える


筆者はある時期から英語翻訳を仕事にしてきたということもあり、英語表現の得失、平たく言えばいろんな局面において英語と日本語の優劣について考える機会は多かったのですが、ある時期から仕事とは別に、鏡像問題に関心を持って深くかかわるようになり、その方面で英語の論文や著作物に触れる機会が多くなり、挙句の果て、自分で英文の論文作成を試みるまでになってしまいました。そんなわけで、それまで何となく断片的に考えていた英語使用の得失、とくに科学的な考察における英語使用の得失、メリットとデメリットがかなり明確に意識できるようになってきたように思います。今回、取り合えず急いでまとめてみたいと思い、あまり時間をかけて多面的に考察することもできないので、1つの問題についてのみ、1、2の例を挙げるだけで整理してみたいと思います。この問題に限って言えば英語のメリットではなくむしろデメリットに該当します:

結論として端的に言えば、現在の英語、文章として使われている英語は、技術的な目的では極めて論理的かつ効率的に考察も表現もできるように発達しているように思いますが、真に深く意味を掘り下げ、追究するという意味では、行き過ぎた名詞的表現と、潜在的な擬人的表現により、決して小さいとも浅いとも言えない陥穽に陥る可能性を無視できないように思います。確かに一部の知識人がよく云うように、優れた英文は抽象的な概念において洗練され、論理的に見通しよく整理されているかもしれませんが、そういう見かけ上整った論理性や洗練された抽象表現の中身自体が、そもそもどれほどのものなのか、反省してみることも必要ではないでしょうか。言い換えると形式論理よりも意味論に注目すべきではないかと言えるかもしれません。

ここで鏡像の問題では欠かすことにできない用語である「Reflection」について考えて見たいと思います。この用語を岩波理化学辞典で引いてみると「Reflection=鏡映」と「Reflection=反射」という二つの項目に出会います。「鏡映」の方は数学的な定義のようで、同じ英語でも「Mirror operation」という別の用語が併記されています。この意味で日本語の用語は「反射」ではなく「鏡映」となっているのも意味深いですね。つまり、この翻訳語を考えた人物は、この意味では「反射」という用語は不適当であると判断し、賢明にも「鏡に映す」という表現を選択したことがわかります。

以上からわかることは、鏡の機能としては通常、物理的な光の反射が考えられ、日本語でも英語でも同様に「反射」が使われるのですが、英語の場合は視覚イメージについても反射という言葉が使われるということです。日本語では普通、「人の姿が鏡に映る」とは言いますが、反射するとは言いません。そういう人がいるとすれば、たぶん英語の影響でしょう。また日本語では鏡を主語にしてこういう意味のことを表現することはあまりないと思います。「映す」という他動詞も使えますが、普通は人が主語で、鏡に自らの姿を映すというような表現であって、鏡が主語になってものの姿を「映す」というような表現はあまりしないように思います。ある日本語の鏡像問題論文で鏡を主語にして「映す」という表現に遭遇したことがありますが、この場合は相当に英語表現の影響を受けた上での表現だと思います。

一方、日本語ではボールなどが平面の物体にぶつかって反発する際にも「反射」を使うことがあります。これは物理的に考えても極めて自然なことだと思います。物体は引力の影響を受ける点で光線とは違いますが、現象的には、客観的に観察できるという点で、光線の反射と殆ど同じような現象であると思うのですが、なぜか英語ではreflectという言葉ではなくbounceという言葉を使うようです。

要するに、英語では光と像(視覚像、視覚イメージ)を区別していないのです。これは視覚イメージに関わる問題を考える場合に致命的ともなり得る誤解に導かれる可能性があるように思われます。そもそも光は物理的存在ですが、像は人に認知されて初めて像となるのであって、観察者なしでは存在し得ないものです。光の場合、ボールのような物体と同様、明るい窓や光源から出た光線を鏡で反射させて暗いところに向けることができますが、像についてそのようなことができるでしょうか。像はヒトが認識するコンテンツであって、ヒトの意識内にのみ存在するものです。ある人が鏡の向こうに自らの姿を認めることができたところで、横から見ている別人が鏡の背後に、当の観察者が自らの鏡像を認識しているその位置に、そのような鏡像を見ることができるでしょうか?その位置にそのような姿を持つ本体が実在しているかのような推論をすることは、鏡像の擬人化あるいは物質化に他なりません。そうして実際、英国人心理学者によって英語によって記述された鏡像問題の研究でそのような、結果的に鏡像を擬人化しているとしか思えないような考察が見つかっている訳なのです。例を挙げると、グレゴリー説がそうですが、それ以外に物理的な光線の幾何光学のみによって説明している同じ英国人のヘイグ説も結果的にそれに該当するように思えます。ヘイグ説は光線の幾何学のみによって説明しているので一見、擬人化とは無関係のように見えますが、鏡映反転という視覚イメージの問題を光線の幾何学のみで説明しているという点で、結局のところ光と視覚イメージを同一視していることになり、擬人化と同じことであると言わざるを得ません。
[グレゴリー説の方は、良く知られていると思いますが、要するに光学的な条件を否定し、観察者やまたは物体の物理的な回転のみで鏡映反転を説明する説です。これは観察者が見ている視覚像が何らかの鏡像であるか実物の像であるかに関係なく成立する説明なので、対象が人の場合、鏡を取り払って鏡像の位置に別人が入れ替わったとしても成立し、結果的に鏡像の問題ではなくなるわけです。しかしいかにももっともらしい説明に見えるので、今でも、少なくとも部分的に正しい説として通用しているように見えます。実を言えば私自身その擬人化に気づかず、これがすべてを説明する完全な説明ではないものの、部分的に有効な説明であるという印象を持っていました。しかし本当に根本的な原因を説明するという意味では、今となっては完全否定すべき説明だと考えています。(6/4 追記)]

有名な高野陽太郎東大名誉教授は、英語の論文においても、グレゴリー説やヘイグ説を正しく批判し、彼らの論旨を正当に否定していると思います。しかし、氏はグレゴリー説やヘイグ説が鏡像の擬人化ないし物質化に陥っていることには気づいておらず、擬人化においてむしろ両者の上を行くような複雑な論旨を展開しているように見えます。これは氏が英語表現からの強い影響を受けていることにもよるのではないか、というのが私の見方です。

もちろん鏡像は本質的に、単独で見る限り鏡像ではない姿と区別できないものであり、鏡像を擬人化するような考え方は言語に関わらずごく自然に起こりえることです。しかし鏡像の問題を科学的に考察すべき科学者までがそのような擬人化に陥ることは多分に言語表現のシステムに関わることであり、私見では、英語は学術的な表現においてもこのような点でむしろ、日本語よりもプリミティブな面があるのではないかという疑いを禁じ得ないのです。

そもそもこういう鏡像の擬人化は見方を変えると、鏡そのものを擬人化することに始まっているとも言えます。そもそも人以外の物体を主語にして他動詞を用いて何らかの現象を表現すること自体が擬人化と言えなくもありませんが、そこまで突き詰めることは今は避けたいと思います。ただし、例えば「光を反射する」というように物理的なものを対象とするのではなく視覚イメージのような物理的ではないものを対象として、鏡を主語にして表現するとなれば、これはもう限りなく擬人化に近づいて行く可能性があります。視覚イメージの場合、日本語でも「鏡が姿を映す」とは言いますが、「鏡が姿を反射する」とは言いません。英語ではそれがあり得るように思われます。英語で「映す」は「project」になるでしょうか。しかし鏡の場合に「project」を使うと何か不自然ですね。

鏡を擬人化するといえば、例えば白雪姫の童話のように鏡に人格を与えたり、「鏡よ、鏡よ」と鏡に呼び掛けたりすることを想像しがちですが、こういうあからさまな擬人化の話は、聞く方でもそれが擬人化であることがわかります。しかし単に主語として使われるだけの場合、それが擬人化であっても普通はそうとは気づかれないですね。ですからこういう場合は潜在的な擬人化の可能性とでもいうべきかと思います。問題なのはこういう表現は日常の表現よりもむしろ学術的あるいは科学的な言語表現で使われる場合が多いことです。冒頭の方で述べたように、英語では特に著しいように思いますが、簡潔な名詞的表現とよばれるところの、何であっても名詞的に表現される概念が次々と生産され続ける傾向です。いったん名詞化されたものは簡単に主語として使われるようになります。それが英語らしい、いかにもスマートな表現として定着することになります。

以上のような問題は自然科学と社会科学ではまた異なった分析をする必要があるかもしれませんが、いずれにしても難しい問題です。ただし、少なくとも英語の優れた表現にはこのような、決して小さくはない陥穽もが潜んでいることにも、特にこれから英語に取組まなければならない若い人たちにも注目してもらいたいと思います。
(昨日に投稿した記事ですが、[]内を追記し、タイトルも少々変更しました。6月4日)

2020年5月31日日曜日

「一人歩き、ひとり歩き、独り歩き」という言葉の独り歩き

「ひとり歩き」という言葉が最初だれによってどういう風に使われたのかということには非常に興味を持っているが、今のところそれについては詮索せずに、最近思ったことを書いてみたい。

この言葉が最初から比喩的に使われる言葉であったことは疑う余地はないだろう。それだけにその意味するところのも本当に追求してゆくこと自体がそう簡単なことではないだろうと思う。簡潔に言えば、「ひとり歩き」という言葉自体がひとり歩きしやすいのではないだろうか。

というのは、私がこのブログで何度か、この表現であわわされる意味内容を テーマにしているが、私がこれまでこの表現を使ったのはシニフィアンとシニフィエ(これらの言葉を使ったかどうかには関わらず)との問題についての文脈においてである。つまり、言葉は本来、シニフィアンとシニフィエのセットからなるのであるから、シニフィアンだけがシニフィエを伴わないまま歩き出すことを意味するといえる。もう一度言い換えると、前回の記事で述べたように、言葉という乗り物に意味という乗員がいない幽霊船のような感じである。であるから、言葉について言う場合はシニフィアンについて言っているのでシニフィエについては、普通、言葉について述べる以上は、こういうことはあり得ないのである。

ところが現実には普通の意味での言葉、つまりシニフィアンとシニフィエとがそろった状態で「ひとり歩き」という言葉が使われる場合がある、というかそれが現実ではないだろうか。もちろんそういう言葉の「ひとり歩き」もあるだろう。というより、こちらの使い方が本来の使い方なのだろう。だからこそ、私は「シニフィアンの」という限定語を付けなければならなかったとも言える。ただし、その場合、その言葉が何から離れて独り歩きしだしたのか、本来その言葉が共に歩かなければならなかったはずの、そのものが何であるかを明らかにする必要があるだろうと思う。それがなければ「ひとり歩き」という言葉自体のひとり歩きになってしまいそうだ。

端的に言って、文脈がわからないというか、曖昧なままで、唐突に何かが「ひとり歩き」したと言われると、何を言わんとしているのかわからないか、意味不明な場合が往々にしてあるように思われる。ちなみに、独り歩きという漢字の使い方はいいなと思う。こういう漢字の使い方ができるというのは日本語の独壇場だろう。「一人」を「独り」と書き始めたのは誰だったのだろうか。

2020年4月15日水曜日

感染者という言葉の一人歩き

コロナウィルス関連で、またいくつものキーワードが頻繁に使用されるようになった。その中で最初からもっとも気になり、メディアやオーソリティによる使い方に不満を覚えているのは『感染者』という言葉である。端的に私の考え方を言えば、殆どの場合、『感染者』は『感染判明者』あるいは『感染診断者』、あるいはもっと正確に具体的に、どのような診断法や検査方法で判明した感染者であるかを示すべきだと思うのだが、さしあたり『感染判明者』が最も適切ではないかと思う。

 『感染』という言葉自体、もちろん程度の問題であるども、最初から概念が明確であるとは言えない。ウィルスもウィルス感染者も目に見えないか、識別できない。なんらかの症状はだれの目にも見える場合もあるが、症状と感染とはもともと別物である。結局のところ感染者は何らかの検査や診断により陽性と判明した者のことであり、特定の検査や診断と切り離された抽象的な感染者というものはないといえるし、少なくとも数値的に表されるものとしてはあり得ない。

一方、感染者と併せて言及される死亡者の方は、はっきりと目に見える概念であるとはいえる。もちろん、『死』自体は他者からはっきり目に見えるとはいえるが、原因までもが誰の目にも見えるとは限らない。とはいえ、同じ文脈で使われる場合、死亡者数は感染者数の中に含まれることが明らかであるから、感染者数に比較すれば死亡者数は遥かに概念が明確であり、数値としては信用できることには間違いがない。しかし報道や一般に語られる内容をみれば圧倒的に『感染者』の方が多いのである。これはもう、感染者という言葉(シニフィアン)の一人歩きが蔓延しているとしか言いようがない。

言葉をシニフィアンとシニフィエに分析する有名な考え方は私自身、どれほどよく理解しているかは心もとないが、有用であり、便利だと思う。ただ私はカッシーラーの、言葉を乗り物に例える表現が好きである。乗り物のように、ある一つの乗り物に殆ど決まった乗員だけが乗っている場合もあるが、相乗りもあれば、乗員や乗客が交代する場合もある。時にはほとんど幽霊船のような場合もあるだろう。乗員に相当するものが概念であるとすれば、概念自体に極めて濃淡があり、かつ移ろいやすいものなのだから。

2020年2月14日金曜日

人工知能と人工頭脳 ― その3(人工知能という言葉とAIという略語の併用)

ニュース番組などで人工知能という言葉が使われる場合、申し合わせたようにAIという略語との併用で話される。AIと言った後、必ず人工知能と言い直す。これは文章の場合も同じであってカッコ付きか併用で用いられる。外国の場合はどうなのかよくわからないが、例えばWikipediaでその項目を見ると、やはり英語でもAIとArtificial Intelligenceを併用してどちらかをカッコに入れて使われる傾向があるように思われる。なぜこんな面倒くさい言葉が使われるようになったのだろうか?このこの熟語、本来は専門用語であったこの熟語自体への違和感とか問題点についてはすでに過去2回にわたって表明させて頂いたが、取り合えず、すでにこの言葉で何らかの概念が表現される習慣が定着してしまい、他の用語を使うことが難しくなってきた状況さえ考えられる。とはいってもやはり違和感あるいは使い心地の悪さ、面倒さは拭い去れない。

この言葉に相当する過去の用語はやはり人工頭脳をおいて他にはないのではないだろうか。人工頭脳という言葉があまり使われなくなった理由を考えて見るとそれは、後から、コンピューターという用語が一般的になってきたからと思われる。というのはそれ以前、日本語の場合であるが、電子計算機という言葉しかなかったところ、計算以外の目的でも使われる計算機としてコンピューターという英語が使われるようになった。さらにパソコンが普及してソフトウェアがソフトと呼ばれて個人的にも購入されるようになり、ハードウェアとソフトウェアという言葉と概念が一般的に使われるようになった結果、ハードウェアとソフトウェアが一体になった概念を適切に表現する言葉が見失われたのではないだろうか、そういう時に別のところから人工知能という言葉が登場したので、この言葉にうまく便乗したのではあるまいか。すでに前回、前々回で述べたようにこの人工知能という概念は不自然で実態があやふやな概念に思えるのだが、新味はある。という訳でハードウェアとソフトウェアが合体した概念がこの新味のある言葉に乗り移ったのではないだろうか。あの、シニフィアンとシニフィエとの複雑怪奇な関係として。

一方、人工知能というシニフィアンの立場から考察してみると、人工知能は本来従来になかった新しい人口の創造物としての概念を表現する意図をもって登場したはずである。そういうものが存在し得るかどうかは別として、そういう概念を表すシニフィアンに、従来からあったハードウェアとソフトウェアの合体物(私は人工頭脳と言って良いと思うが)が相乗りしてきたのだともいえる。そういう相乗りを許したということは、もちろん相乗り自体はあり得ることだが、もともとの人工知能というシニフィアンの中身あるいはシニフィエが空虚であったのではないかという疑いがもたれるのである。要するに空車であったからこそ楽々と入り込むことができたのではないだろうか?

では、人工知能という熟語とAIという略語の併用という現象は何に由来するのだろうか?もちろんAIという略語ではわかりにくいから人工知能という正規の用語で言い直しているのであるけれども、そういう面倒な言葉を使用するのは、端的にいって他の言葉を使いたくないからであろう。要するに新しさを演出したからであろう。人工頭脳と言えば多少は自然で分かりやすいと思えるのだがそれを使わないのはもはやこの言葉がすでに古びてしまい、新しさを演出できない。AIを併用せずに人工知能だけで済ますのは、やはり抵抗を感じるか、反感あるいは違和感を慮ってのことではないかとも思われる。個人的に思うのは、あまりにも漠然とはしているが、単にITでもデジタル技術でも良いではないか、と思うけれども。

2020年1月19日日曜日

人工知能と人工頭脳 ― その2(仮想知能・バーチャル知能という表現が優れている)

前回記事(同一表題のその1)で人工知能という言葉への違和感を書き始め、その後も考え続けていたのですが、ようやく『人工知能』は『仮想知能』と呼ぶべきではないかと思い付き、念のためにグーグル検索してみるとツイッターにそういう提案がすでに出ていましたね。

Shuuji Kajita on Twitter: "「人工知能」は「仮想知能」と改名すべき ...

トマボウ on Twitter: "人工知能は仮想知能と言ったほうが良くて ...


冒頭に述べた通り私も賛成です。ではなぜそうなのかを前回の文脈の続きで述べてみたいと思います。

そもそも『知能』という言葉は何らかの属性を表す概念を意味するのであって属性を担う存在を表すものではないからです。『人工頭脳』という場合は、頭脳そのものと同様、何かの思考に類する機能を担う存在であって機能そのものではないわけです。もっとも端的な言葉で言えば『能力』や『力』そのものがそうです。物理的な力を考えて見ても、引力、重力、圧力、火力、電力、原子力、等々、様々なレベルでいろいろ考えられますが、力そのものに天然も人工もありません。

ただ、日本語の場合、『人工』ではなく『人工的』といえば少々ニュアンスが異なってくるように思います。『人工』の場合は「人間が作ったもの」というニュアンスですが、『人工的』といえば『人為的』という言葉でも置き換えられるように、具体的な性質、性格、あるいは特徴を意味することになるので、それほど違和感は感じられません。英語ではどちらも『Artificial』という他はないので、この点では断然、日本語の方が優れているように思います。他の言語については知りませんが。という訳でこの言葉が英語起源であることには頷けるものがあります。

改めて、日本語は大切にしたいものです。特に日本語を英語化すること、安易に英語風な表現を取り入れる事、英語風な表現にしてしまうことにはよほど注意すべきではないかと思います。もちろん何でも、どのような場合でもそうだとは言いませんが。