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2021年11月24日水曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その8 ― 結論の図式化

本シリーズ記事の結論に相当する部分をユーチューブ配信向けに図式化しましたので、3枚の画像として、こちらでも公開します。新しい発見ないし表現も盛り込まれていますので、ぜひご覧ください。ユーチューブでは拙いナレーションで説明していますので、よろしければご覧ください:https://www.youtube.com/watch?v=0NlDAtqu9wg

【概念的分析】

  

【認知機能による考察】



要点は、インターフェースを通じて認知される仮想知能および人工知能というそれぞれの概念は、いずれも思考作用によるものであって、仮想知能と認識されるか、または人工知能と認識されるかの違いは思考力あるいは、思考経路ないしは思考プロセスの差異あるいはレベルによるものであると考えられることです。端的に言えば、人工知能のほうはより単純素朴、あるいは短絡的で、プリミティブともいえる思考回路ではないかと疑われます。




 

2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2021年10月25日月曜日

なぜ憂うべきなのか ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その6

 当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。

アクロニム(頭字語、略語)による分析

人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPCRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。

一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。

PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。

このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。

擬人化、仮想と人工知能

以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。

以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。

人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、

「集合的知能」あるいはこれに類する概念と用語を用いることの利点

ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。

一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。

  1. 心理学、集団心理学や人間学などの成果をシステムの設計や解析の方法論に取り入れることが可能になる。
  2. 当該分野あるいはカテゴリーの有意義な分類と整理、さらには体系化が可能になる。
総括すると、現在エーアイと呼ばれているものの真に人間的な次元での構造化が可能になり、したがって分析と構成が可能になり、真に精神的な意味で生産的な開発と発展の見通しが得られるようになるのではないだろうか。


2019年6月17日月曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その3)― 『国体論(白井聡著)』に見られる戦後「変節」の分析を参照する

このタイトルシリーズを書き始めるきっかけとなったのはその1で述べた通り、太田原和橆 著『祖父たちの昭和』の中で、ある意味身近な例として見出されることとなった戦前から戦後にかけての日本人の「変節」の問題だった。実は『祖父たちの昭和』を読む次第となる前、去年の中頃あたりから少しづつ読み始めていたひとつの本があって、それは白井聡 著『国体論』である。実のところ私はこのような現代史や政治に関わる本や記事に近づく習慣を持たなかった。若い頃には多少は読んでいる振りをしていた時期もあった程度である。そういう次第で本書の濃密な内容に参ってしまい、時期的な多忙も重なって殆ど中断していたころに上述の『祖父たちの昭和』を読了する機会を得た結果、このシリーズを書き始めた次第なのだが、その後に改めてこの『国体論』を何とか読了し、改めて、やや精度を高めて再読したところである。本シリーズ記事は前者『祖父たちの昭和』に触発されて私自身の問題意識で書き始めたので、全体としての前者への論評ではなかったのと同様、今回の記事も後者『国体論』の一部に触発されて本シリーズ記事の文脈で書いたものであり、決して全体としてのこの著作への論評ではないことを、まずお断りしておかなければならない。

本書の第四章と第五章で、当の「変節」が詳細に分析されている。まず、アメリカの占領軍に対して予期された抵抗が皆無であったことについて「ひとことで言えば、途轍もない変節が生じたのである」(同書)と書かれている。そして理由として天皇による日本国民への戦争終結宣言を挙げることを端緒として、それ以後に継続したこの持続的な変節の問題を国体概念の分析をとおして展開していると言える。

先般の『その1で 私はその変節の理由として、敗戦の結果としてもたらされた個人主義指向的な諸々の制度変革がもたらす環境の居心地の良さと開放感を指摘したのだけれども、それに関連すると思われる表現として、『国体論』の著者が次のように述べているくだりがある:
 様々な意味で「あの戦争に負けてよかった」とは、多くの場面で語られてきた戦後の日本人の本音であるが、このような本来あり得ない言明が半ば常識化し得たのは、われわれが「新しい国体」を得たことによると考えるならば、合点が行く。(『国体論』第五章より)
 つまり著者はその「本音」を正当化する、あるいは正当化できるための論拠として想定される国体の概念とその変化を緻密に考察しているように見られる。この論理は、本音の反対概念とされる建前という言葉を使用すれば建前論ともいえるが、建前論という表面的な見方ではその心理、心情を深く掘り下げることはできないだろう。むしろ倫理的な心情の文脈というべきと思われる。

しかし個人主義の論理を用いれば、上述の本音はストレートに正当化できるように思われる。確かに個人主義の論理を適用することは、いわゆる忠君愛国という戦前と戦中の建前としての大義を全面的に否定することになるという意味で、途轍もない変節ではある。しかし個人主義的な思潮というか傾向がそれまでの日本に全くなかったわけではない。個人主義的指向にもとづく民主主義運動と多様な活動家も存在していたので、波や反動があったにしても、多少の民主主義的制度も採り入れられつつあったはずである。(これについては著者自身が大正デモクラシーとの関連で考察の対象としている)。戦時中にその動向がどのように変遷したのかという詳細については曲折があろうけれども、この戦後の変節がアメリカから強制されたものであっても、政権の当事者ではない限り、この制度的な変節自体に何の負い目も罪悪感をも感じる必要はないはずである。むしろこれらの制度的変節がアメリカによる日本の政権への要求ないし押し付けによるものであったがゆえに、アメリカに対して恩義を感じなければならない点に負い目を感じる向きが多かったのではないかと思う。敗戦により日本は海外での権益を失い、それ以外にも私などのあずかり知らぬ経済的負担があったのだろうと思う。アメリカはそれらに加えて民主主義の普及喧伝者として正義という大義の下で内政干渉をしてきたことになる。そのために多くの日本人にとってその要求、少なくとも民主主義と個人主義的な諸制度が与えられた点で、戦争によって日本人にひどい仕打ちを行ったアメリカに恩義を感じることを余儀なくされたことにおいて、何らかの正当化を必要とする負い目あるいは罪悪感が生じたのだろう。少なくともこういった負い目や罪悪感を感じることにおいて、殆どの日本人は日本人あるいは日本国民としてのアイデンティティーと一体感を持ったはずである。この日本国民としてのアイデンティティーと一体感は、個人主義とは逆方向のベクトルを持つものと言える。個人主義は各個人のアイデンティティーを優先あるいは重視するからである。

個人主義の対義語は集団主義とされ、心理学ではこの二つの用語と概念を基礎にさまざまに考察されているように思われる。しかし集団といっても小は家族から大は人類全体に至るまで多種多様である。当面、この一対のセットを二つの反対方向を持つベクトルのセットと考えることで、多種多様な集団のベクトルを大きさと方向のずれによって差別化できるであろう。ただし、個人の対義語が集団とされることに抵抗を感じるのは私だけだろうか。例えば、集団を和英で調べると、まずgroupという訳語が代表語として出てくる。しかし集団主義に相当するのはどうやらcollectivismらしい。collectivismをネットのhttp://learnersdictionary.comで調べると、"a political or economic system in which the government owns businesses, land, etc."とあり、またcollectivistという副項目があってcollectivist ideologyに加えてcollectivist culture/societyという例が挙げられている。また英辞郎にはgroupismという語があり、「集団順応(主義)」の訳語が出ている。web検索でこの語の用例を見るとどうやら日本人のメンタリティーを表現するために作られた造語であるのかもしれない。

別の英和辞典にはcollectiveの訳語のひとつに「共同体」という言葉がでている。少なくとも日本語で個人主義の対義語を集団主義と固定して考察していては不都合な局面も出てくるように思われるのである。

『国体論』には集団という言葉や概念は見当たらないが、共同体という表現は2回ほど出てくる。私の考え方では、個人主義の対義語が集団主義となるのは仕方がないにしても、個人の対義語としては共同体の方が相応しいような気がする。ただし「共同体主義」という言葉をざっとWEB検索してみると、この表現はcommunitarianismの訳語で、特定の学者の主張に由来する特定の思想と言うべきものらしい。という次第で人間一般が普遍的に持つ二つの反対方向を持つ心情的な傾向という意味では、また特に政治学的な文脈では個人の対義語は共同体とみなせば見通しが良くなるのではないだろうか。家族も一つの共同体であり、地域コミュニティーや企業や宗教団体も共同体であり、当然、親族、氏族、民族、国民、さらには人類に至るまでそれぞれが何らかのレベルで共同体といえる。現代の政治を語る場合はとりあえず民族と諸国民を扱うわけで、日本の場合は日本国民であり、当然、『国体論』の扱う対象は日本国民である。とはいっても、日本国民の意思はもちろん、心性や心情やを考察するには各個人の心情を通して以外にはありえず、各日本人は日本人としてのアイデンティティーと同様に各個人としてのアイデンティティーを持っている。同様に上述のように多様なレベルで多様な共同体としてのアイデンティティーをも持っている。


『国体論』では当然のこととして、基本的に日本人としてのアイデンティティーに基づいた心情と論理が分析され考察されているといえるが、個人としてのアイデンティティを指向する個人主義については本書でよく用いられている表現を使うとすればやや不可視化されているようにも見られる。個人主義と関係の深いとみられる民主主義については、もちろん本書の主要なテーマであるが、もっぱら戦後民主主義という限定された形で分析され、もっと広い意味あるいは抽象的なレベルでの民主主義については無条件で理念的に言及されるにとどまっている。いわばブラックボックスではないが、輝いて中身が見えない光球のようなものとして扱われているような印象を受けたのである。

一方、国民としてのアイデンティティーを超えた意識として個人や集団は、世界人あるいは人類そのものといった概念によるアイデンティティーを持ち得る可能性を否定できない。著者の視野にそれがないとは思えないが、少なくとも本書では個人主義と同様、不可視化の状態にあると言える。

さらに本書では霊的という言葉が最初の方と終わりの方で、使われている。いずれも天皇に関わる文脈であり、最初の方では「日本という共同体の霊的中心」、「共同体の霊的一体性」という形で使われ、最後の方では「天皇の発言に霊性に関わる次元を読み込むこと」、「霊的権威」という表現で使われている。この霊性についても、本来その正体がとらえ難いものであるゆえか、本書でもそれが詳らかにはされていない。

一般に霊的、霊性という言葉で表現されるものが宗教と関わりが深いことは言うまでもない。しかしそれは特定の宗教や宗教団体にのみ関わるものではない。その意味で著者が宗教性を視野に入れていることは間違いないと思われるが、それは本書でカバーされるものではないようだ。


という次第で、『国体論』の最初と最後に一瞬の三日月のように姿を見せる霊的霊性という言葉で表現されているものは科学主義唯物主義、あるいは物質主義などという言葉で表現されるものと対置され、対比されることが多いものである。ただしそこまでの分析と考察にまで行き着くにことは簡単ではないようだ。

2019年4月22日月曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その1)

注記: 今回のテーマは、昨日ひと通り読み終えた本『祖父たちの昭和―化血研創設期の事ども―(田原和橆著)』の一節に触発されて着想を得ました。この著作は先般、私の別のブログ『矢車SITE』で言及したとおり、昨年に友人である著者から贈られたものです。当該作品についての全体的または部分的な感想や紹介についてはまた別の機会に別のブログかまたは本ブログで取り上げてゆきたいと思っています。この記事はあくまで上記著作の一節のみに触発された私自身の問題意識で書き始めました。


 まず当該書籍の引用から:「戦後生まれの私にとって、第三日記に見られる最も際立った特徴は、やはり、戦時中と終戦後の極短期間で祖父豊一が示している心象の大きな変化、一種の『変節』である。― 中略 ― もっとも、終戦直後における手のひらを返したような変節は、日本国民の間でよく見られたようで、昨日まで軍国主義者だった中学の先生が、終戦を境にアメリカ贔屓に豹変したという類の逸話も珍しくない。また、そのような変節は、GHQの操作により促された節もある。」

上記引用のような複雑な戦後日本の状況は、著者や私のような団塊世代の人間にとっても自然に環境から伝わってきたように思えるが、私個人的には祖父に関する知識は一切なく、父親も戦争以外の原因で亡くなっていたため、著者の祖父に相当するような公人的立場の知識人はもちろん、何らかの記録を残すような人物には身近に恵まれず、この点で当事者的な感覚からは比較的遠かったと言える。しかし、今回のように友人の祖父の日記という形でこの間の経緯を具体的に目にしてみると(日記の文章は長くなるので上記の引用では省略)、これまでに比べてより当事者体験に近いものが感じられたように思う。

かかる「変節」のメカニズム、正当性、または非正当性を考察するのにまず自分自身の心情から類推してみると、端的に言って、戦時中と終戦の過程においてアメリが日本と日本人に対していかにひどい仕打ちを行ったとしても、アメリカがもたらした終戦後の社会環境はそれ以前の社会に比べて少なくとも一面でそれまでになかった居心地の良さと開放感をもたらしたことは紛れもない事実ではなかったかと思われる。その根拠となる思想を一言で言い表すとすれば個人主義という表現以外には考えられない。

個人主義と民主主義との関係性については多様な論理付けが可能だろうが、まず直観的に、民主主義的制度の根拠が個人主義に求められることは明らかだろう。結果から言えば、アメリカから押し付けられた民主主義的制度と不可分に伴う個人主義的な諸々の社会制度の変化が、殆どの国民にとって居心地の良さと開放感をもたらすものであって、これはいわゆる知識層と一般庶民に共有されていたもののように思われる。この個人主義の先進国であるアメリカへの憧れが科学技術の面での先進性とあいまって、戦勝国への反感を凌駕するものだったのだろう。


個人主義の根拠についても多様な論理があるだろうが、まず直観的に科学、科学主義、唯物主義、物質主義、といった思想、思潮、風潮との密接なつながりは眼に見えて明らかではないだろうか。人間、ヒト、家族、国民、人類、といった単位の中で物理的に、視覚的に、そして触覚的に明らかに区別できる単位は個人だけである一方、各人が意識的に自覚できる単位も、それぞれの個人以外にはありえない。

この科学、科学主義、唯物主義、物質主義が現今、再考、再吟味、あるいは反省と批判の対象になりつつあり、一方でますます増長する科学主義との対比が明瞭になりつつあるように思われる。

2016年4月27日水曜日

『ブッダは実在しない(島田裕已著、角川新書)』を読んで

この本のタイトルには確かに一定のインパクトはある。しかし一方で少々違和感を感じさせることも事実である。一つには、人物について「実在しない」という用語を、しかも現在形で語ることにも多少の違和感を感じるが、それ以上に、「ブッダ」という微妙な言葉が「実在しない」の主語として使用されている点にも違和感が伴う。

というの、歴史上の仏教の開祖とされる人物については一般の日本人は「お釈迦さま」という名前で馴染んできたし、今もそうである。一方のブッダは近代の学問的なカタカナ語であり一般の日本人はあまり使わないことばであるが、 ブッダが「仏さま」という言葉に相当することはだれでも気が付く。というのも「仏陀」という言葉も昔から知られているからである。いずれにせよ、仏(ホトケ)が固有名詞ではなく、この本で「ブッダ」について語られているように「悟った人」に類する意味を持っていることは一般の日本人にとっては常識であるといってもよいと思う。そういう点で、「ブッダは実在しない」という表現は、「実在」という用語自体の違和感と相まって、せっかくのインパクトが少々抑えられた感じがする。

この本が直接論証しようとしている事柄は、いわゆるお釈迦さま、仏教の歴史的な開祖としての個人が実在しなかったということである。だから、もっと分かりやすく即物的に言えば「お釈迦さまは実在した人物ではなかった」ということになるだろうか。

この本でカタカナ語の「ブッダ」が使われているのは、著者が宗教学、仏教学の学者であって、近代仏教学の文脈で語っているからに他ならない。というのも近代仏教学はパーリ語やサンスクリットの原典を解読することから始まっているからである。その原典を追う文脈ではお釈迦様をブッダという言葉で表さざるを得なかったのであろう。

同様の、ヨーロッパ経由で、従って近代仏教学経由で日本に入ってきたところのお釈迦様の名前に「ゴータマ・シッダルタ」という言い方がある。読んだことはないがドイツ文学『シッダルタ』というヘッセの作品があるのは有名である。ところが、本書の著者によると、「ゴータマ」も「シッダルタ」も、必ずしも固有名詞とは言えないらしい。またこの本には江戸時代以前にもそれに起源をもつ言葉が使用されていて、例えば歌舞伎の勧進帳に「クドンシャミ(漢字は省略)」という名前が使われていたり、江戸時代に読まれていたブッダの伝記で「悉達(シッダ)太子」という表現などもあり、江戸時代以前にお釈迦さまがどのように認知されていたか、興味深い。


 以上のように著者はパーリ語などの文献をたどることで仏教の開祖としての歴史的なただ一人のブッダは、複数のブッダ達から神話的に形成された象徴的な存在であると結論付けている。どうやらこれは著者が初めて主張する新しい知見のようである。もちろんいくつかの先行研究が挙げられているが、本書の主張は近代仏教学でも初めての主張であるらしい。著者は文献調査の結果として次のように述べている。「近代仏教学が、歴史上の存在としてのブッダの姿を十分に明らかにしたとは必ずしも言えないのである。」
 
確かに、 近代仏教学が確立されてからも、西洋でも日本でもお釈迦さま個人が実在したことが疑われたことはなさそうである。例えば、私がその昔読んだ小冊子で『日本人と日本文化(司馬遼太郎+ドナルド・キーン著)』という本があり、読みやすく面白い本だったのでいまだにいくつかの表現が記憶に残っているが、断片を拾うと、例えば空海を話題にした章で仏教について次のような談話があるので、ちょっと司馬遼太郎が語った断片を列挙してみよう。

「密教というのはあれは本当は、仏教ではなくバラモン教でしょう。お釈迦様が教主じゃありませんね。」
「仏教のようにお釈迦さんという一個の天才が土俗の中から一つの結晶体を取り出した・・・」
「親鸞も日蓮も、ほとんどお釈迦さんとは関係のない人ですね。極端にいえばお釈迦さんという世界性がどうであれ、・・・」

ここで語られている真言密教や鎌倉仏教についてはさておき、明らかに釈迦という個人が本来の仏教を作ったのだという、つまり今までの日本に栄えてきた様々な形の仏教とは異質の、釈迦という個人が生み出した明確に区別のできる本来の仏教というものが確実に存在することを前提として語られている。その意味で司馬遼太郎も近代仏教学の現在の成果の上に立っているともいえる。本書の著者はそのような近代仏教学で得られたとされる知見に変更を迫るものといえる。

学問的にはそういうことだが、しかし著者のこの新しい見解は、仏教に対して様々な新しいアプローチを提供するものではないだろうかと著者自身考えているようだし、私もそのように思う。

一つの重要なインパクトは、本書でも重要なテーマとして扱われているとおり、いわゆる大乗仏教と、小乗仏教といわれる上座部仏教との関係に対するものである。それは近代仏教学の影響もあって小乗仏教が本来の仏教、お釈迦さまの仏教に近いものと考えられているが、釈迦の存在が実在の個人ではなく神話的に形成されたものであるとすれば、いわゆる小乗仏教あるいは上座部仏教と言われている仏教も、実在したとされる仏教の開祖、あるいは始祖の教えにより忠実であるとは言えなくなるということで、著者も本書の中で、実際にその種の仏教(ちなみにテーラワーダ仏教とも呼ばれることを初めて知った。)が必ずしも原始仏教に最も近いとは言えないことを検証している。

著者はこういう点で仏教が持つキリスト教やイスラム教とは異なった、ユニークさを強調するとともに、小乗仏教に対する大乗仏教の優位性をも指摘しているように見える。そして、それには共感できるものがある。 

本書の第5章に、「日本で一番読まれている仏教の経典は『般若心経』」という小見出しがあり、そこで般若心経の成立について触れているが、そこで著者は、「般若心経は実は大乗仏教の立場からの小乗仏教批判の性格を持っている。というよりも、そこにこそ般若心経の本質があるともいえる。」と書いている。 

それにしても日本でだけ般若心経が特別に尊重され、一般にも広く読まれてきたということは興味深いである。本書によると、般若心経のサンスクリット語原典が伝わっているのは日本だけで、それは法隆寺にあるのだそうである。大乗仏教がこれだけ栄えてきた日本特有の事情についても興味がわいてくるというものだ。

最後に著者は次のように締めくくっている。「私たちは開かれた宗教としての仏教に、いささかの誇りをもってよいのではないだろうか。」 、なるほどそうかもしれないなと思う。

2014年6月22日日曜日

『自然界における左と右』新版、マーティン・ガードナー著、坪井忠二他訳の部分読みと拾い読み

本書は34の話題、事実上の章で構成されるが、基本的な三つの部分に分けて読むこともできる。最初の部分は鏡像の問題と、くくることができ、鏡像の性質や画像の対称性と認知に関わる心理学的な問題といえる。次の部分は生物の構造と分子の構造における対称性の問題で、特に立体化学と呼ばれる分野の問題が生命現象との関わりで扱われている。そのあと、「四次元」というタイトルの一章で哲学者カントが考えた鏡像に関係する問題が扱われる。ここでカントが偉大な哲学者であると評価されているのだが、その哲学や認識論に触れるのではなく、カントが四次元や多次元のことを考えていたということを紹介する方向へと進み、後続の各章への導入のような役割を果たすことになっていると思う。後続の章群は本書の半分近くを占めるが、すべてが事実上、量子論と素粒子論の紹介と解説になっている。

今回この、やはりむずかしい素粒子論の各章の途中まで何とか継続して読み続けたが、第25章「時間普遍性の破れ」以降は最後まで、ざっとめくりながら目についたところだけ拾い読みするだけで最後まで行き着いた。もちろん、よく判らないからだが、図書館の貸し出し期限が迫っていることもあるし、量子力学や素粒子論についての解説書が沢山出ている中でこの本が特別わかりやすいという印象も持てなかったからでもある。少なくとも当面の関心事でも対応できる問題でもなかった。

さて、この書の日本語タイトルと全巻の構成から誰もが受けとるであろう内容は、日常の現象から、生物、化学、一般物理、さらには素粒子論にいたるまで自然全般にわたって左右の概念で扱える問題を科学的に論じたとでも言うべきかと思われる。翻訳者のあとがきでも大体そうである。しかし原著者のまえがきを見ると、著者の主眼は量子力学におけるパリティの保存、非保存問題の意義を左右の対象性の意味を通して解説し、解釈し、さらに奥深いところまで読者を誘ってゆきたいという意図にあるように思われる。それは、本書が初版から第二版、第三版と版を重ねるごとに素粒子論に該当する章が大幅に増補されると同時に副題も変更されている事からもわかる。

さらに、訳者あとがきによると原著初版の副題は「左と右とパリティ非保存」であるのに第二版の副題は「対象性と非対象性、鏡の反射からスーパーストリングまで」となっており、「左右」という言葉が消え、日本語タイトルには無い「対称性」が主役となっている。主タイトルの「両手使い」という用語に左右の意味が込められていることは確かだが、日本語のタイトルに比べて比ゆ的な度合いが強い。このことから、原文と日本語訳の語法と表現に若干の齟齬が感じられる部分があり、タイトル以外の訳語にもそれが感じられるところがある。

翻訳の面で特徴的な一例として――これはアマゾンのサイトで原文の索引だけを見て確認したのだが――enantiomorphが一貫して「鏡像対象」と訳されている。この訳語は化学の専門用語として定訳のようだから、何の問題も無いはずなのだけれども、この語の和訳には「対掌体」という訳もあり、本来の意味からいえば対掌体が正しい。実際に定義からも鏡像と対掌体は異なる。対掌体は右手型と左手型の関係だが、鏡像の方は例えば右手(の像)と右手の鏡像との関係である。似たようなものだが、例えば左手の甲の上に右手の手のひらをのせた場合の位置関係など、鏡像関係ではあり得ない位置関係である。量子力学ではどういう意味を持つかはわからないが、少なくとも鏡像問題、鏡映反転の問題では、鏡像と対掌体の概念を区別しなければ話は進まない(鏡像が実物像とが互いに対掌体の関係にあるということ)。この点で原著者自身、enantiomorphという語は使っているものの(鏡像問題の箇所でこの語が使われているかどうかは日本語版ではよくわからないが)、鏡像問題の箇所では、区別できていないのではないかという印象をぬぐえない。

というのも、本書全体を通じて著者は実のところ左右よりも対称性、対象の概念を中心に据えており、当然この用語を頻繁に使用しているが、単に対象と書かれている箇所と左右対称と書かれている箇所とがある。対称性の概念が左右の概念と分かちがたく結びついているといえるが、それは違うのではないかと思うのである。現実に上下対称や前後対称という表現が全く使われない訳でははない。第一、左右対称という表現があること自体、上下その他の左右以外の対称性があり得ることを示している。要は頻度の問題だが、頻度の問題を絶対化すると誤解が発生して道がそれてしまう。著者は左右に過剰な意味と役割を与えているように思われる。翻訳ではさらにそれが増幅されているように見えるのである。

少なくとも後半の、量子力学と素粒子論を扱う部分では左右の概念からは決別し、単に対称性の概念だけで問題を考察すべきではないかと思う。単に対称性という場合と左右対称性という言い方が混在しているが、不要な「左右」を引きずっているように思われる。さらに以下は内容をよく理解しないままの印象に過ぎないけれども、対称性の概念自体どこまで有効なのか、疑問に思えるところもある。著者は初めの方、結晶の対称性を解説した章で、「この本の目的は対称性一般を論ずることではない。いまここで結晶を取り扱うのはその反射対称に関してだけなのである。」として、本書で扱うのは鏡面対称のみである事を明言しているのだが、本書の素粒子論に関する部分でも後の方、「時間不変性の破れ」や「反物質」の章などで考えられている対称性は、少なくとも鏡面対称性そのものではないし、対称性という表現(もちろんそれは術語として定着している用語ではあるが)自体がかなり比ゆ的ではないかという印象が持たれるのである。

既に述べたように、本書でカントの鏡像に関する考察を扱った章が一つの転回点になっている。このカントの鏡像論をマッハが批判し、マッハもまたそこから四次元や多次元幾何学の問題に移行していることに本書の著者が触れていないのは少し意外である。ただしマッハはその一方で左右の概念も生理学的な面から考察し、幾何学空間の等方性に対する知覚空間の異方性の問題として「左右」問題としてではなく「上下・前後・左右」の感覚の問題を考察している。著者は本書でマッハの研究にも触れているのだが、マッハによって指摘された幾何学空間の等方性と視空間の異方性の問題を見逃していたことはかなり重要な見落としではないかと思われる。

幾何学空間の等方性に関しては著者も「等方性」という表現は用いていないものの、鏡像問題に関する章の最後の方で次のような表現で言及している。「混乱の殆どが、一般の言語では左右反転をわれわれの(生物学的な)左右対称をもとに定義することからおこっている。三次元空間の座標幾何の正確なことばを使えば、各座標軸がおのおののx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する。」。この点はさすがというべきかもしれない。

しかし結論をいえば著者自身、ここで指摘している「混乱」を免れていないのではないか、と思うのだが。

著者は巻末に、カントが「左と右に関する見解について言及している」沢山の本や論文を掲げている。ここでの「左と右に関する見解」という表現にも上記で述べたような誇張と行き過ぎが感じられる。またそこにマッハの著作が入っていないのは著者がマッハについて何度も言及しているだけに異常である。ここに著者の思索上の偏りが何となく感じられる。この偏りはこの著者に限らず、かなり時代に根深いものであるかもしれない。

2014年6月3日火曜日

佐藤亜紀著 『鏡の影』 を読んで

表記の本だが、本当に久しぶりに小説を読んだ。時々訪れるあるブログで書評というわけでもないが優れた作品として言及されていたのに少々心を動かされた結果、ネット検索で最寄りの区立図書館にある事が分かり、借り出して一読した。

とりあえず一読後、確かに優れた作品と言えるのだろうと、一応は納得している。しかしかなり読みづらく、読みなれない漢字づかいも多い。何度も行きつ戻りつしながら、なんとか最後までつじつまが合うように脈絡を追いながら読了したものの、やはり、一通りの意味を理解するには最初からの再読が必要と思われた。ただ、そこまでするだけの余裕も意欲もなかったが、最期のクライマックスと言えそうな部分だけは再読することで、一応は不完全ながら全体の脈絡を読み取ることができたように思う。

構成要素あるいは道具立てとして、(1)ヨーロッパ中世の政治社会、文化、カトリック思想、異端思想、錬金術、妖術などへの関心、(2)作者自身の思想、(3)フィクションにおける登場人物群、(4)ファンタジーの四つの要素で構想されていると見て、感想を整理してみたい。(4)のファンタジー要素というのはこの作がファンタジー小説と分類されているのでそう表現したまでだが、とりあえずこの言葉が便利であることには違いない。そのようなジャンル分けが重要であろうとなかろうと、ファンタジーの要素がある事は確かである。具体的には、①由来(どこから現れたのか、どこへ消えたのか、どこから再登場したのか、何を原資として生活しているのか)の知れない謎の登場人物(悪魔的存在)、②特異な夢や異常な眠り(眠りの美女)、③異常な亡骸(塵埃となる)、④異常な(処女の)妊娠(処女懐胎といえば聖母マリアに限られるらしいので)、⑤素性の知れない美女(ヴィーナスか)、などが挙げられる。このような道具立ての揃った有名な作品と言えばやはりファウスト伝説ないしゲートの『ファウスト』ではなかろうか。まあ今のところ当方にファウストとこの作品を比較するだけの素養はないので、今は単に言及するしかない。


この作品の主眼が上記(1)にあるとすれば、個人的には大いに興味があるのだけれども小説ではなく研究書かエッセーなどで読みたいと思う。例えば、錬金術ならユングの『錬金術と心理学』などである。ちなみにこの書は最初に翻訳書が出た頃に購入して何とか読んだがもちろん当方の読書力では字面を追った程度だった。ちょうど最近になった再読したいと思うようになったが果たせないでいる。

主眼がエンターテインメントにあるとすれば、それにしては読みづらいし難しすぎる。もっともそういうエンターテインメント性もあるように思えるが。

主眼が詩的、音楽的、絵画的な美にあるとすれば、当方の趣味と鑑賞力から言えばいまいち。

「意味」という掴みどころのない難物への取り組みが感じられる部分はある。

要するに、あくまでも当方の読書力にとっての話、いずれにしても中途半端という印象。ただしそれぞれの中途半端の程度を合計して、読んで損をしたとは思わない。

もうひとつ、かつてとりあえず字面を読んだだけのゲーテのファウストをもう一度読みたいと思う。なんといってもあのゲーテが最晩年に至るまで書き続けた有難い作品とされているのだから。この方面で当方は権威に弱いのである。

2014年4月9日水曜日

E・マッハ著、野家啓一編訳 『時間と空間』 を読んで

この書は、編訳者がマッハの二つの著書から時間と空間を主題にした論文六篇を選んで一書に編んだものとのことである。次の六篇からなっている。Ⅰ計測的空間に対する生理学的空間、Ⅱ幾何学の心理学と幾何学の自然発達、Ⅲ自然研究の立場から見た空間と幾何学、Ⅳ計測的時間に対する生理学的時間、Ⅴ時間と空間―物理学的考察、Ⅵ時間・空間に関する一考察。

当初の個人的な目当てはⅠの『計測的空間に対する生理学的空間』を読む必要を感じたからだったが、事実上、六編の論文すべてがこのテーマに発する問題を扱っていると言える。Ⅰでは、幾何学的な空間は生理学的な空間から由来していることを示し、さらにそれが生理学的な空間とははっきりと異なり、区別されるべき空間であることが強調されている。ⅡとⅢは、いずれも生理学的な起源と物理学的な認識との絡みで幾何学が発展する過程を追ったものと言えるかもしれない。Ⅱではユークリッド幾何学の範囲であるけれども、生理学的空間の異方性とは異なる幾何学空間の等質性ないし等方性がそのまま位置と運動の相対性でもあることが示されている。

Ⅱの方はさらに多様体とか非ユークリッド空間に及び、平行線公準の証明といった問題やガウス曲率といった高度な問題が論じられるので、当方にとってすべて数式を追いながら理解して読むのは当然、無理である。もちろん理解は無理であるが、それでも非ユークリッド空間やこれまで言葉だけでしか知らなかった多様体について、この本を読む前に比べて多少の親しみが持てるようになったような気がする。そんな気にさせるのはさすがにマッハが優れた研究者、学者で、説得力のある本質的な内容を述べているからであろうと思わせる。

マッハの科学思想といえばアインシュタインの相対性理論とのつながりが有名で、確かにこれらの論文を読むと、特殊相対性理論も一般相対性理論についても良く理解していない当方であっても、そのことが改めて納得されるのであるが、同時に、空間の相対性というもの、つまり位置と長さ、運動などの相対性が事実上は空間の等方性と同じことであって、この相対性はもっと卑近な、日常的な物理現象の理解にも深く関わっていることに気付かされるのである。つまり空間の相対性は相対性理論のみではなく物理学一般の基礎でもあるということ、当面の個人的な課題では、幾何光学の空間も相対的な物理学的空間、すなわち幾何学的空間であるということである。マッハ自身がそういう問題を論じていないとすればそれはそういう卑近な応用問題ではなく理論的な問題自体をさらに一般的で高度な幾何学に対応させて展開することや、逆に認識論への沈潜を考えていたためであろうと思われる。

上述の例として一か所を抜き書きしてみよう。
「手を使うのであれ、人工的な物差しを使うのであれ、物体相互の比較を〔を始める〕と同時に、われわれはすでに物理学の領域に足を踏み入れているのである。物理学的規定はすべて相対的である。」(『自然研究の立場から見た空間と幾何学』)。

この書物の持つ最大の意義は、物理学と認識論とが不可分の関係にあることを改めて認識させられることにあるように思われる。

ちなみに、この本を小さな区立の図書館で借りた際、自然科学の書架を探して見つからなかった。同じ出版社の「叢書・ウニベルシタス」に含まれる他の書籍が並んでいた中にこの本だけがなかったので、係の人に探してもらったところ、哲学の書架に置かれていたのだった。まあこの本が哲学に分類されるのは順当だと思われるが、それに気付かなかった一つの理由は、図書分類では哲学と自然科学が対極と言えるほど離れていることで、当然書架も反対側といえるほど離れているのも一つの問題と言える。日本ではあまり一般的ではないようだが、書架を円形というか円環状に並べる方法はこの点で非常に有利ではないかと思う。

それにしてもこの本は図書館にしても書店にしても科学の欄に分類されていればもっと広範な読者に読まれていたのではないかという気もする。マッハ自身が生理学者でもあり心理学者でもあったのだから、心理学や認知科学の書籍として扱われたとしても不自然ではないといえる。いずれにせよ、多方面の分野の科学者や学生に読まれるべき名著ではないだろうか。

2014年2月4日火曜日

E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』読了 ― 哲学の最終目標は美学なのか

数日前に表記の本を読了した。この本を読み始めた経緯は、このブログか別のブログに書いたが、これはおそらく20年ほども以前に購入して殆ど読んでいなかった本である。同じ著者の『シンボル形式の哲学』は数年前に一通り読了したが、つい昨年には学生時代に読んだ、やはり同じ著者の『人間』を再読したところであり、一応だがカッシーラーの重要な著作を三冊読んだことになる。こういうこと、一人の大哲学者の著書三冊を読了したといえるのは初めてのことで、ちょっとした満足感がある。もっとも『人間』は一般人を対象に書かれた本であると言われているし、今回の『啓蒙主義の哲学』も最初に購入したのは哲学史の教科書的な印象で購入したものだったが。

そういう次第なので、どうしてもこの三冊を、どれだけ理解できたかはさておき、自分なりに比較する気が起きる。もちろん先に読んだ二著作、特に主著と言われる『シンボル形式の哲学』がどれほど頭に残っているかと言えばまったく心もとない次第である。とはいえ、先日脱稿し、テクニカルレポートとして日本認知学会に投稿して再録された鏡像問題に関わる論考は、『シンボル形式の哲学』の第二巻である『神話的思考』を読んでいなければ成立することがあり得なかったものなのである。ちょうどブログで鏡像問題の新聞記事に触れた頃に、まさに今回のレポートで引用したあたりを読んでいたのだから。

とにもかくにも少なくとも個人的に、これらの三著作を比較することは特に興味深いのである。

『シンボル形式の哲学』は第一巻が『言語』、第二巻が『神話的思考』、第三巻が『認識の現象学』というタイトルになっているが、第三巻『認識の現象学』 の後半では自然科学と数学がテーマとなり、訳者の解説によるとこの部分がこの書の「クライマックス」とされている。それに対して『人間』では人間の「文化」を対象とし、文化の要素として神話と宗教、言語、芸術、歴史、そして科学が、どちらかというと並列的に扱われていたような印象があったが、比較的に芸術と歴史に重点が置かれていたような気がする。

今回の『啓蒙主義の哲学』では、対象は表題の通り啓蒙主義の哲学という、哲学そのものである。それが自然と自然認識という認識の基礎から始まり、心理学、宗教、歴史、法、国家、社会、と、この順序で著述が進められ、最後は『美学の基本問題』という章タイトルのとおり、美学が対象となっている。分量的にも、この書物では美学の問題が「クライマックス」となっている印象であった。これにはかなり強烈な印象を受けたといってもいい。 個人的に「啓蒙主義の哲学」についても、一般人としても殆ど知識と明確な印象を持っていたわけではなかったが、それでも、美学が啓蒙主義の哲学の中で重要な位置を占めているという印象は殆どなかったからである。それがこの著作を読了することで、美学こそが哲学の最終目標であるかのような印象が得られた次第なのである。それは単に啓蒙主義の哲学についてのことではなく、哲学そのものの目標が美学にあるといえるのではないかということなのだ。

改めて木田元氏による『シンボル形式の哲学』の解説を少しだけ拾い読みしてみたところ、次のような記述があった。「彼はこの〔シンボル形式〕という概念をどこから汲みとってきたのであろうか。カッシーラー自身は、その直接の源泉として美学と物理学を挙げている」

「美学と物理学」―なるほど、意味深長。











2013年10月2日水曜日

『漱石と温かな科学』(小山慶太)の読了にいたるまで

表題の本は、もう10年以上も前に購入した新刊書をこれまで読まずにいたものである。永らく放置していたこの本に手を伸ばしたきっかけは、一連の最近の読書である。読了した順を遡って列記してみると次のようになる。



岡潔 『春宵十夜』、ごく最近再刊された文庫本

太田文平 『寺田寅彦』、古書店の店先で偶然に見つけて購入

中谷宇吉郎著、福岡伸一編、『科学以前の心』、最近の文庫本

高瀬正仁 『岡潔 数学の詩人』、岩波新書

小林秀雄+岡潔 『人間の建設』、新潮文庫、最近の刊

白洲次郎 『プリンシプルのない日本』、最近の文庫本

白洲正子 『隠れ里』、『白洲正子自伝』、『西行』、いずれも購入した文庫本


とまあこんなところ。

小林秀雄の本は書店の文庫本コーナーの平積みで見つけたが、昨年あたりから読んでいた白洲正子と白洲次郎が作品と私生活でも影響を受けていたことで念頭にあったことは確かだ。もちろん小林秀雄は現在なお多数の著者やジャーナリズムで言及され続けている人物でもあり、多く人々の念頭に常にあるのだろう。哲学者の木田元氏の近年の著書でもかなり目立って言及されていた。しかし個人的には若いころにあの有名な『モオツァルト』を読んだだけだった。それが岡潔との対談ということで新たな興味が湧いたことは確かである。

上記の中、『人間の建設』までは、すでに当ブログの記事にしている。

『人間の建設』を読了した後、続いて小林秀雄とその周辺に向かう気もあったが、結果的に岡潔の周辺に向かっていったようだ。岡潔と親交があった中谷宇吉郎の本も偶然なのかどうか、新刊文庫本のコーナーで目が止まり、もともと関心のある人でもあったので購入して比較的すぐに読了した。その後、中谷宇吉郎の先達でもあり、先生でもあったともいえる寺田寅彦の伝記を古書店で見つけてそれも積読にはならず比較的早期に読了した。それと殆ど同時にまた岡潔の恐らく処女作だろうと思われる『春宵十夜』を読了したわけである。この本が新刊書として刊行されたとき、恐らく立ち読みした記憶がある。数学志望でそれが果たせなかった大学の同級生が読んで憧れていたことは確実だったが、なぜか自分は購入してまで読む気にはならなかった。


寺田寅彦と親密な関係にあってその弟子であったところの先生であり、中谷宇吉郎と岡潔にも特別深く敬愛されていたといえるのが漱石にほかならないが、その漱石と科学との関わり、あるいは接点とも言えるかもしれないが、漱石のその面にフォーカスを当てた漱石論とも言えるのがこの本、『漱石と暖かな科学』と言っても良いだろうと思う。著者のあとがきによると、「漱石の作品や生きざまを通して織りなされる文学と科学の綾を、七つの物語にしてまとめて描いてみたのが本書である」となっているが、「織りなされる文学と科学の綾」とは実にうまく表現したものだと思う。この表現自体が非常に文学的で、あまり科学的でも論理的でもないが、実に適切で、他に言い様がないとも言える。私には接点とでも表現するしか能がないが。

ともかく、漱石の思想や文学と科学との関係を理論的に解明できたものとも説明できたものとも思えないが、それでも確実に漱石あるいはその周辺と時代そのものと科学との深い関わりを暗示する含蓄のある本だったと思う。もちろん、作品以外に、寺田寅彦や科学の面で関わりのあった何人かの人物も登場する。

さらに文学一般と科学の関係などを掘り下げることや漱石の科学性や科学観について考究することも意義あることだろうが、今これ以上この問題で考えるいとまも能力もない。ただ、「話変わって」、というべきかもしれないが、個人的には鴎外との関係または対比で、少し思うところがある。今のところ寺田寅彦、中谷宇吉郎、岡潔の三人共に、鴎外について語っている文章に行き当たっていないが、少なくとも漱石ほどには評価していなかったのだろう。現在の一般的な人気においてもそういえる。しかし私的には、最初に両者の作品群を多少とも読んだ頃から、鴎外のほうが偉いという感想をもっていた。

鴎外は、漱石が意識的にかどうかは分からないが、扱うことを避けたと思われる人生の重要事に重点をおいて追求しつづけていたように思う。それは職業、仕事、あるいは使命、天職という問題で、見方によっては立身出世の問題になってしまい、そういう問題を避ける事で漱石は人間関係の深みを追求する事ができたのかも知れないとも思う。その辺りについては、漱石の作品群もごく通り一遍にしか読んでいないので何も言えない。

過去に、漱石の代表作をひと通り読んだ頃と同時期に鴎外選集をかなり読んだので、その頃から私は鴎外と漱石について上記のような印象を持っていた。後年の史伝と呼ばれる作品群になると難しくてとても読めなかったが、渋江抽斎までは、一応面白く読めた記憶がある。鴎外が描いたそういう人物は過去の武士を含めた役人や学者の場合が多いが、初期の短編ではもっと身近な職業人や職人も多く、漱石の描いた人物よりもはるかに多様であるといえる。女性を描くの場合もそういうところがあり、有名な「安井夫人」は変な言い方だが、学者の妻という、一つの天職に取り組む女性を描いたと言えないこともない。夫との感情的な人間関係については何も書いていないし推測も憶測もしていない。著者が推測しているのは彼女の「あこがれ」であって、確かにそれはあまりにも茫漠としたものではある。が、やはり漱石作品と同様に純然たる文学である。やはりゲーテの影響は否定出来ないと思うが、漱石がゲーテをどう思っていたのだろうかと思うことはある。

・・・今はこの記事でもうあまり時間をとる気にもなれないので、あとはちょっと断片的なメモをいくつか。

◆岡潔は、世界的にいっても女性を本当に描くことができたのはドストエフスキーと漱石だけだと言っている。他にも断片的だが岡潔の文学論で意味深長な発言は多い。

◆しばらく前からカッシーラーの「啓蒙主義の哲学」を少しづつ読んでいる。ちょうどデカルトからニュートンにいたる時代の考察を読んでいて、「漱石と暖かな科学」の記述と重なるところがあり、興味深かった。

◆寺田寅彦は俳句の創作で漱石と深くつながっていた。岡潔も芭蕉と俳句そのものを高く評価していた。それに対して鴎外はどちらかと言うと短歌や歌人達と関わりが深かったようなところがある。岡潔はまた「佐藤春夫は芥川は詩がわからないといっているが、むしろ佐藤春夫は詩人ではなくうたびとだという気がする」と書いている。これと関係があるかどうか分からないが、太田文平著『寺田寅彦』には次のような一節がある。「俳諧の精神はロマンよりも写実をとるということであり、抽象的なものより具体的なものを対象にするのが、科学における寅彦の俳諧の私信の真髄である。・・・」この辺りの事は個人的に、短歌も俳句も理解しているとはいえないのでよくわからないが気になるところではある。どちらかと言えば短歌の方が好きかなという程度だ。

2013年8月2日金曜日

歴史と科学 ―― カッシーラー『人間』よりやや長い引用というより抜き書き

先日、かつて学生時代に一度読んだカッシーラー『人間』宮城音哉訳、の再読を終えたので、メモしておきたい。

現実のところ、内容を今まで、具体的に記憶し続けていたわけではまったくない。しかし、改めて読み返してみると、その後自分があれこれと考えたことの多くがこの本の影響を受けていたことに改めて気づかされた。もちろん、その後で散発的に読んだゲーテなどの本の記憶や影響と重なる部分もあり、どこまでがこの本の影響なのかと言い切ることもできないではあろうけれども。それにしてもゲーテからの引用が多く、改めてゲーテの影響の深さにも気づかされたといえる。

今回特に印象に残った長い一節を抜き書きしておこうと思う。やはり年のせいか、歴史の問題に興味の重心の一部が移ってゆくようなところもある。次の引用というより抜き書きは「歴史」と題された第十章からのものである。

『偉大な科学者マックス・プランクは、科学的思考の全過程は、すべての「人間学的」要求を除去しようとする恒常的な努力だと述べた。我々は自然を研究し、自然法則を発見して、公式化するためには人間を忘れねばならぬ。科学的思想の発展において、擬人的(主観化的)要素は、次第に背景に退けられ、ついに物理学の理想的構成においては、全く姿を消すのである。歴史学は、これとは全く異なった方法をとって発展する。それは、人間世界においてのみ生き、また呼吸することができる。言語及び芸術と同様、歴史は根本的に擬人的である。その人間的側面を除去することは、その独特の性格と本性を破壊することであろう。しかし、歴史的思想の擬人性は、なんら、客観的心理の制限でもなく、客観的心理を妨害するものでもない。歴史は、外部の事実や事件ではなく、自己の知識の一形式である。自己を知るために、自己を超えて行こうとしてもむだであるし、いわば自己の影を飛越えようとすることはできぬのである。私はこれと反対の方法を選ばねばならない。歴史において人間は、つねに自己自身にかえる。人間は、その過去の経験全体を回想し、これを現実化しようと試みる。しかし、歴史的自己は、単に個人的自己ではない。それは擬人的ではあるが、自己中心的ではない。矛盾した表現形式を用いるならば、我々は、歴史は「客観的擬人性」を表現するものということができる。歴史は、人間経験の多様性を我々に教え、これによって我々を、特殊で唯一の瞬間における、気まぐれと偏見にしばられぬようにする。歴史的知識の目的は、実に自己の――我々の知る自我および感ずる自我の――このような豊富化であり、また拡大であって、これを除去することではないのである。』

2013年6月7日金曜日

カント、プロレゴーメナ再読後のつぶやき

先週だったか、先々週だったか、かつて一度だけ読んだカントの『プロレゴーメナ』を再読了した。とにもかくにも通読はし切った記憶のあるわずかな哲学書の一つである。最近になってこの書を再読するきっかけとなったのは、昨年あたり、純粋理性批判を読み始め、最初の「先験的感性論」だけは何とか読み切ったものの、その後、カテゴリーの問題に入ってからは読み続けることができなくなり、そこでひとまず打ち切り、この書を再読することに決めた次第。

最初にこの書、プロレゴーメナの存在を知ったのは、かつてある私立大学文学部の夜間部に1年ほど通ったとき、教養物理の先生から授業中に勧められた時である。その先生はカント哲学は物理学にとって必須との考えだったようで、純粋理性批判は難しいのでプロレゴーメナを読むのがが良いと。ただ文学部での授業であったためにそのような話をしたので、専門の物理学や工学部の学生にはそのような話はしないのだとも言っておられたような記憶もある。

実際に読んだのは当時すぐにではなく、何年か後になってからだと記憶している。いつどこで読んだのかは記憶に残っていないが、当時の、もうかなり変色した岩波文庫本をとってみると最後まで鉛筆で線を引いた箇所がかなりあり、とにかく読み切ったという記憶には間違いなかったのだなあという感慨はあった。

その後、といっても今はもう昔、「意志と表象としての世界」を読んで、これも内容を記憶しているというわけにはゆかないが、ショーペンハウアーがプロレゴーメナを推奨していた箇所があったのだけはよく覚えている。この本は純粋理性批判の理解を著しく容易にするものであるのに、読まれることが少ない、と嘆いていたように記憶している。

ゲーテは、プロレゴーメナに言及しているかどうかは知らないが、カント哲学についてはいくつかの箇所で言及していることには気づいている。例えばエッカーマンに対して、「カントの思想はもうドイツ人の血肉になっているので、君はもう純粋理性批判を読む必要はないだろう」、「君が読むなら判断力批判を読みたまえ」というようなことを語っていたように記憶している。

確かに、現代人、世界中の現代人全体にとって、ある程度はそのようなこと、つまりゲーテがエッカーマンに語ったようなことが言えるといっても良いのではないだろうか。もちろん個人や社会や文化によって濃淡があるし、意識化の程度も大きく異なるだろうが。さらに時代の推移によって薄れていったり復活したりという波のようなものはあるだろうが。

私の場合、当時、プロレゴーメナを読んで以降、プロレゴーメナに何が、どのようなことが書かれてあったかを説明できたかというと、全くそのようなことはなかった。何が書かれていたかと問われれば、忘れたと答えるしかなかっただろう。しかし、それ以降、ある程度は無意識にも血肉になっている部分はあったといえると思っている。

先の私立大学文学部の夜間部を1年あまりでやめ、1年おいて本州の西の果てにも近い大学の一応は理科系学部に地質鉱物専攻で入学したのだが、そのころはもう科学信仰というべきか、自然科学に対するあこがれのようなものはなくなっていたのだが、それでも自然科学に対するこだわりの気持ちは結構強いものがあった。自然科学に対するカントの、あるいはプロレゴーメナの思想がある程度は身についていたのかもしれないと思う。たとえ直接カントの著作から得たものではなかったとしてもである。

せっかくここまで来たのだから、純粋理性批判を読むことを再開したいものだが、中巻と下巻は購入していないので同じ訳者のものを続けて読むか、改めて別の訳者のものを読むかを迷っている。現在あるのはプロレゴーメナと同じ岩波文庫で、訳者も同じである。最近、ここ数年の間に木田元氏の短い哲学解説書を文庫本で何冊も読んだが、この著作の翻訳について触れている箇所や文献案内もあったので、参考になるのだが、それにしても現在の訳者に対しての個人的な印象は悪くない。


翌日追記
同じ大学の同じ教授の教養物理であっても理科系での講義は文化系での講義に違いが出るというのは十分に考えられることであるし、当然のことともいえるが、さらに理科系での講義では哲学的、あるいは思索的な側面がなおざりにされるということも、当然とも、予測できることともいえるが、やはりそれはさびしいともいえるし、残念なことであるともいえる。自然科学そのものというか自然科学全体が工学的な方向に傾く傾向が続く一方であるともいえる。

どこの国でも国を挙げての科学技術奨励の風潮も高まる一方であるが、他方、一般人のあいだでは科学への不信感や絶望感も広がっている。

もちろん技術開発の喜び、それも純粋な、技術開発そのものの喜びというものはあるに違いはないが、科学そのものの喜び、というのが不適切であるとすれば、やむに止まれぬ探求というものがなおざりにされる結果に至るのではないかと思うのである。科学による自己疎外、といいながら自分でもこの言葉の意味はよくわからないが、そういうものが自然科学専攻の学習者の心の深層に沈潜するというような考えは一種の老婆心であろうか。

テレビの科学番組も事実上、殆ど新技術の紹介に過ぎない。そうでなければダーウィン礼賛を看板にした自然選択による進化論喧伝する番組化のどちらかである。事実上、珍しい生物の生態を紹介する番組に過ぎないので、それはそれで楽しめるものではあるのだが、一方で欺瞞が蔓延してゆく。

まあこんなところか。

2013年4月30日火曜日

脳科学とは何かを考えるヒントとしての鏡像問題―養老猛司著『唯脳論』の読後感その2

(この記事はブログ発見の発見の方にも掲載しました)

―前回のこのテーマでの記事では、この有名な著作の基本前提となる主張への疑問に絞って掘り下げてみましたが、今回は「脳科学」という分野への著者の考え方あるいは方法論と一般的な認識について考えてみたいと思います。―


最初の「唯脳論とはなにか」という節で、著者は唯脳論を「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。」と定義している。これだけではよくわからないが、後に続く叙述と「実証主義と観念論を結合する」という小見出しの内容から、これはおおよそ次のようなことを主張しているように思われた。

ここで著者は実証主義という言葉で理科系と文科系という区分における理科系を意味し、観念論という言葉で文化系を意味しているようである。というのは、この見出しの節で著者は次のように書いている。「理科と文科という二つの文化があると言ったのは、C・P・スノーらしい。私は一介の解剖学者だが、自分がどちらの「文化」に所属するのか、近頃よくわからなくなってきた。」そして、「両者(理科と文科)をどう結合したらいいか。そこで脳にたどり着く。というのが、この本を書いた私の動機である。」

この小見出しの箇所も他の記述と同様、端的で論理的な記述というよりも、間接的で迂回するような記述なのでわかりにくいが、こういうことだと思われる。すなわち、先の唯脳論の定義における「ヒトの活動」は簡単に言って文科系の領域であり、「脳と呼ばれる器官の法則性」は理科系ということであろう。つまり、理科系の観点から文科系を「眺めよう」ということになる。これはこれで著者のこの『唯脳論』のみならず、脳科学と言われるものの現状を表しているように思われる。確かに脳科学者の著書や発言あるいは脳科学と言われる分野の言説の多くは専門科学的な、具体的には、私は専門家ではないのでよくわからないが、解剖学、生理学、脳神経科学、大脳生理学等々の分野なのだろうと思われる諸分野の専門的な記述と人文科学的な、場合によっては日常言語的世界の記述とが混在しているように思われる。

確かにそれはある種の結合の仕方には違いはないが、真の意味で結合―統合というべきかもしれないが―されている言えるのだろうか。

実証主義と観念論という枠組みにしても、それに対応するように用いられている「理科系」と「文科系」という枠組みにしても、それら自体は無意味ではないし、それなりに有意義ではあるだろう。しかしながら、これらの言葉はいずれも抽象的で具体性に欠けている。また、実証主義と理科系とがそのまま重なるわけでもないし、観念論がそのまま文科系に重なるわけでもないし、第一、観念論の定義など難しいもので、文脈から切り離された「観念論」は人によって理解の仕方は様々であろう。

こういう言い方だと、理科系と文科系の様々な要素、あるいは具体的に言って解剖学とか生理学とか、あるいは文科系では心理学とか、言語学とか、社会学とか、あるいは経済や法律にまで関わるような、さらに日常的な諸々の問題といったさまざまな分野の、言わばつぎはぎ、あるいはごった煮のような、ばらばらの要素が形式的にまとめられているだけというものになりかねないのではないかと危惧されるのである。

【理科系研究分野と文科系研究分野の混在の例】
一般に、どのような専門分野も純粋にその分野の用語だけで記述されたり、考察されたりしているわけではない。しかし、専門分野とされている以上、その分野としての統一があり、無秩序に他の分野が混在しているわけではない。

端的な例を挙げると、物理学をはじめとして多くの自然科学や工学で不可欠な数学は実証科学ではないとみなされている。しかし現実には数学は理科系とされている。こういうことからも、実証主義と理科系、観念論と文科系がそれぞれそのまま重なり合うわけでもないが、それはさておき、この場合、数学はいわば道具として、あるいは言語に準ずるような手段として、自然科学の中に取り込まれている。統合されているともいえる。こういう場合、物理学の場合であれば物理学の中に取り込まれ、統合されているのであって。単に物理学と数学が混在しているというわけではない。つまり、自然科学とも数学ともつかない別のものになっているわけでもないし、自然科学と数学の中間というわけでもない。全体としてはあくまで物理学等の自然科学である。

また異なった混在のあり方として工学のような応用ないし実利的な様々の工学的な諸分野がある。それらはあくまで工学であり、技術であって、科学そのものではない。

それ以外に、自然科学と考えられている分野として生物学など、生命科学と総称される諸分野と地球科学の諸分野、それに医学などがあり、脳科学もそれらに含まれるといえるが、これらの諸々の分野においてもそれぞれの方式、構造で、理科系要素と文科系要素が混在していないとは言えない。そのような次第で、脳科学に何らかの形で理科系要素と文科系要素が混在するということ自体は、他の諸々の分野と比べて不自然というわけではないだろう。ただ、今ここでそういった多岐にわたる諸分野の構造をすべてを分析し、考察することなど不可能である。

【鏡像問題という一例】
ここに鏡像問題という興味深い一例がある。これは文字通り一つの具体的な「問題」であって、特定の学問分野、研究分野というわけではない。しかし鏡像左右反転の謎といわれるこの問題は、特定の実用的、技術的な問題ではなく、純粋に知的な興味から発する問題である。であるから、純学問的な問題と言うことができる。決して技術的な、あるいは工学的な問題ではない。

私がこの論争中と言われる「鏡像問題」が世界中を通じて科学者、学会の間に存在することを初めて知ることになり、非常な興味を覚えて自らも考え始めるようになったのは2007年12月の毎日新聞記事がきっかけであり、それ以来本ブログで何度か取り上げて自らも考察し、ひいてはごく最近、当該新聞記事の当事者のおひとりである大阪府立大学名誉教授の多幡先生から直接お話を伺う機会にも恵まれた。ということで、常に念頭にある問題としていろいろな局面で考えることの多い課題であるのだが、今回は鏡像問題そのものというよりも、学問分野の関係という視点での興味で考えてみたい。

当該新聞記事は次のような前文で始まっている。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたといわれるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。今年11月、「鏡像問題に決着をつけた」とする認知心理学者の論文が発表されると、物理学者が批判するなど熱い論争が続く。」

ここではまず、鏡像問題が物理学の問題であるか、(認知)心理学の問題であるかが一つ争点になっているが、その後の経過や記事の内容自体からも、物理学上の問題と心理学上の問題との両方が関わっていると考えるべき方向に向かっていると思われる。物理学的側面と心理学的側面のどちらがより基本的であるかというとらえ方をすると難しくなるが、「鏡像問題」という具体的な問題として捉える限り、これが純粋に心理学的な問題であって物理学の問題ではないというように単一分野の問題であるという考え方は、考えれば考えるほど、分が悪くなるように思われる。

では物理学上の問題と心理学上の問題とが関わっている鏡像問題そのものとはなにかと考えると、これは科学以前の問題であるとすべきであろう。日常的な問題ともいえるが、結局のところ日常言語の概念でとらえられる問題と言うことができる。結局は言葉と概念の問題、さらにシンボル体系の問題として考察できるというか考察すべき問題のように思われるのである。例えばキーワードともいえる「鏡」、「左右」。

それでは脳科学の場合、この問題はどうなっているのだろうか。

実は、私は今回『唯脳論』を読むことで、「脳」は基本的に解剖学の用語であり、概念であることに初めて気付かされた。脳という概念は解剖学の体系の中で初めて明瞭な意味を持つのであり、日常用語としては極めて曖昧で漠然とした意味しか持ちえないともいえる。あるいは解剖学や生理学の内部においてさえも、かなりあいまいな部分の残る用語であるかもしれない。解剖学者である『唯脳論』の著者が「唯脳論」を着想されたのも脳が解剖学の用語であり、概念でもあるからこそであろう。

他方、「脳と心」というように、脳科学の各分野でつねに脳との関係が興味の対象とされるところの一方の「心」の方はどうかと言えば、これは全く解剖学上の概念ではない。解剖学や生理学や諸々の自然科学諸分野が成立するよりもはるか以前から存在し続ける言葉であり、概念である。そして心を科学的に研究する分野が心理学と呼ばれているともいえるが、単に心理学にとどまらず、文科系諸分野の中心テーマといえるほどのものである。
そこから前述のような、『唯脳論』における著者、養老猛司氏の唯脳論の定義が生まれたのであろうと思われる。

しかし、既に述べたように、唯脳論の定義ないし方法論は、はあまりに抽象的で、悪く言えば大ざっぱである。
それは、「理科系」という研究分野と「文科系」といいう研究分野、あるいは必ずしもそれらと重なるとはいえない「実証主義」と「観念論」という研究分野をそれらの違いを明らかにしないままただご都合主義的に結びつけるだけに終わり、論理的に錯綜したものになってしまう危険性が感じられるのである。事実、『唯脳論』の構成は難解で、論理的な一貫性が感じられず、錯綜したものに感じられる。

ここで再び鏡像問題に立ち返ってみたい。この問題では、鏡像問題が物理学の問題であるか、心理学の問題であるかが一つの争点になっていたという事実がある。ということは、鏡像問題そのものはそのまま物理学の問題でも心理学の問題でもなく、日常言語次元の問題、いわば科学以前の問題なのである。その問題を解決するために物理学や心理学が動員されていると考えるべき問題と言える。このことを踏まえて脳科学の問題を考えてみるに、脳科学における最大の問題、あるいは諸問題を総体的に表現すれば脳と心との関係ということになろう。この関係の問題をどうとらえるべきであろうか。

すでに述べたように一方の「心」は諸々の科学が成立するはるか以前から存在し続け、将来的にも消滅するとは到底思われない確固たる日常言語の言葉であるから、この問題は日常言語的な、科学以前の問題と考えるのが自然である。ところがそれに対するもう一方の「脳」は、解剖学や生理学の用語なのであり、本来は日常言語、科学以前の言葉ではなく、それが日常言語としても用いられるようになってきたのであり、この問題を科学的に考察しようと企てるのなら、新たに適切な科学の諸分野を動員して考察を開始すべき問題と言えるのである。

逆に、この問題自体を特定の科学分野の問題ととらえるとすれば、「心」も「脳」もそれぞれその研究分野の体系の中で明確に定義されたものでなければならない、とすればそのような研究分野の体系は現在存在しているとは思われないのである。

前回の記事で検討したところの、「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略―心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」という『唯脳論』の基本主張を以上の視点で検討してみると、この主張では「心」という日常言語的な科学以前の概念を解剖学や生理学の枠内に、無理に引きずり込んでいるように思われる。こうして引きずり込まれる際に「心」の概念が変形を受けることになる。

『唯脳論』には書かれていないが、ウィキペディアによると、「生理学は生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」であり、「形態的側面からアプローチする解剖学や形態学と対置される。」とあり、常識的に納得できる定義だと思われる。とすれば、『唯脳論』の著者が心臓血管系の機能としている「循環」すなわち血液循環は生理学上の機能とみなすことができ、解剖学的な脳には脳の生理学的な機能を対応させるべきところを、それに変えて日常語の「心」を限定された自然科学分野の枠内に引きずり込むことで、本来の「心」が意味するものを損なってしまっている。

もう少し比喩を膨らませてみるなら、「心」を解剖学と生理学の枠内に引きずり込む際に、「心」の持つ膨大な意味内容がすべて搾り取られてしまい、形骸となった単なる言葉、「意味するもの」と言ってよいのかもしれないが、言葉の意味するものとしての側面のみが取り込まれ、その意味されるところのものとして脳の生理学的な機能がすり替えられたかのような印象を受けるのである。この部分の論理的な奇妙さについては前回の記事で分析してみた。

従って、脳の生理学的機能の意味するものと心という言葉が意味するものとが自明とみなされるまで一致することが証明されることを要する仮説であるとみなすことができるかもしれないが、著者は仮説であるとはいっていないし、現実にこれを前提事項として論を進めているのである。

以上の、唯脳論の定義と言える部分は本書の冒頭部分であるが、本書のそれ以降の部分にこの定義の証明に充てられている箇所があるかというわずかな期待を持ちながら読み進んだことは事実である。しかし、一読した限り、むしろこの定義を前提として議論を進めている部分が殆どで、全体としては結論の先取りという印象を受けた。

この先取りされた結論に加えて身心並行論と脳の擬人化による説明がなされることで、何か証明または論証が行われているような錯覚が生じる。

このことを著者は次のように語っている。「脳についてわれわれは、普通の臓器とは逆に、機能をあらかじめ知っており、構造をあとから知るのである。ここでは、したがって通常とは議論が逆転する。」「唯脳論では、あらかじめ知られた機能に対して、構造を割り付けなければならない。こういう逆転した議論を人はなかなか受け付けないのである。」

これは結論の先取りという詭弁でなくてなんであろうか。著者自らが逆転した議論であることを認めている。

好意的に解釈すれば、これは結論の先取りではなく、仮説という見方もできると思われるかもしれない。しかし著者は仮説とは言っていない。実際、「機能をあらかじめ知っている。」と最初から断定しているわけで、これは仮説ではない。事実、最初からこの考えを仮説としてではなく前提条件として扱っている。

というような次第で、著者のいう「実証主義と観念論を結合する」という、あるいは「唯脳論」の行き方は、少なくともこれらの箇所、すなわち基本的な箇所では破たんしていると言わざるを得ない。

他方、脳科学のような問題の多い分野において有効な方法論を確立するためにも鏡像問題は参考になるのではないかと思われる次第である。

2013年3月11日月曜日

『唯脳論』(養老猛司著、澤口俊之解説、ちくま学芸文庫)の読後感とその基本前提となる主張への疑問


本書の難解さ
本書を通読して言えることの一つに、非常に難解だということがある。難解であることに原因が考えられるとすれば、当然、その責任は読者側にあるか、書物、すなわち著者の側にあるか、あるいはその両者に原因があるかの三通りが考えられる。巻末解説者の脳科学者である澤口俊之氏によれば、氏自身もこの唯脳論をよく理解できないことを認めたうえで、その原因、難解である原因はひとえに読者側に、つまり読者の理解力不足あるとしているように見える。ちなみに氏は唯脳論を数千年に一度の画期的な理論であるとみなしておられる。

私の印象では、もちろん私の理解力不足に原因があるには違いないが、著者側にもこの本を難解にしている原因は間違いなくあるように思う。一回通読したうえでのおおざっぱな印象をいえば、全体的に論理構造が不明瞭で、錯綜しているといってもいいような印象を受ける。さらに言えば、論理構造の不明瞭さ、あるいは論理的な矛盾は、この著作自体に含まれるほかに、この著作で前提とされている脳科学における現在の一般的な、あるいは主流とされるような考え方そのものにも含まれている印象を受けた。というのは脳科学者である解説者が現在の脳科学の常識として指摘している本書中の主張そのものにその矛盾を私が感じるからである。まずその主張について考察してみたい。

本書の基礎となる主張
この『唯脳論』では、その主張は最初の「心身論と唯脳論」という節で、次のように表現されている。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」
要するに、心臓血管系の機能が血液の循環であるのと同じ意味で、脳の機能が心である、いう主張である。

また著者は、「脳」は「心臓血管系」と同様に「構造」であり、構造と機能との並行関係という視点でとらえている。したがって、「構造」という概念と「機能」という概念についての理解あるいは認識が鍵となるように思われるが、どちらについてもこの本ではそれ以上の分析がされていないように思われる。
いま「構造」について論じることは難しいが、「機能」という概念について、私なりに分析してみたいと思う。


機能が意味するもの
脳や心臓など、臓器について言う場合、「機能」という言葉と同様に「作用」とか、「活動」とか、「働き」とかの用語が良く使われる。この種の言葉は科学、特に自然科学の領域でも重要な箇所でよく使われる言葉だが、意外と無反省に使われている傾向があるように思われる。何れも非常に抽象的な表現ではあるが、これらの中で「機能」は比較的に具体性が高く、分析しやすいように思われるし、この本の中でも基本的に「機能」が使われているので「機能」について考察してみたい。

心臓血管系の場合、機能は「血液の循環」である(著者は簡単に「循環」と言っているが)。
一般に、「機能」は何らかの目的と不可分の関係であることが多い。心臓血管系の持つ血液の循環という機能の場合、それは人間の生命の維持という目的と不可分の関係にあるといえる。つまり、血液の循環は、人間の生命を維持するために必要な限りでの、心臓血管系が関わる生理現象であるといえる。心臓血管系が関わる生理現象や、さらに物理化学的に還元されるすべての現象を挙げればそれらは無数の現象から成り立っている。熱も発生するし、電波や音波などの波動も発生している。そういった無数の現象のすべてが心臓血管系の機能であるわけではなく、人間の生命維持に必要とされる血液の循環に関わる限りでの生理現象の総体が、心臓血管系の機能であるといえる。

もちろん、このように考えると、他方の「構造」に対応する概念とは言えなくなるかもしれない。しかし、著者が「機能」に対応させている「構造」の方にも同様のことが言えるのであって、人間の生命維持に必要な血液循環機能に関わる限りでの「構造」であって、考え得るあらゆる構造とは言えないのではないだろうか。

これは人間の作った道具に例えることでわかりやすくなる。機能という用語は、生物の臓器などと同様に、道具や機械について特に用いられる用語である。

例えばスピーカーという道具の機能は普通、簡単に言ってしまえば「音を出す」ことと考えられている。しかし、もちろんのこと、どんな音でもよいわけではない。何かが箱にぶつかって出る音はスピーカーの機能に含まれない。他方、スピーカーは熱も出す。また光を反射しているので見ることができるが、こういう現象もスピーカーの機能には含まれない。つまり、スピーカーの機能を正確に言えば、スピーカーを使用する人間が何らかの目的で電気信号を流すことで、その電気信号に従った音波を発生することにある。言い換えると、スピーカーの機能とは、人間が音楽を再生したり、通信に用いたりする用途に合致するように音波を発生することに関わる限りで、スピーカー内で生じる物理現象のすべてを指すといえるだろう。

他方、スピーカーの構造とは、そのような目的で人間が設計した限りでの構造を意味するといえる。
その場から人間が去ってしまえばそれはもうスピーカーではなくなる。

脳と心臓血管系についても同様のことが言える。いずれの機能についても、その背後と前方に人間という全体的存在が欠かせない。この意味で、血液の循環が心臓血管系の機能であるというのは自然であり、誰もが納得できることである。しかし、脳と心について同じことだいえるであろうか。

まず、心が人間の生存、生命を維持するうえで重要な働きをしていることは否定できない。しかし、常にそうであるといえるだろうか。人間は自殺することがある。また自分ではなく他人の生命を維持するために働くこともあれば、殺人を犯すこともある。こういう行為に「心」が関わっていないなどとは誰も言えないであろう。

こう考えてくると、心臓血管系の血液循環機能の場合も生命の維持ではなく生命を破壊する方向に作用する場合もあるのではないかという疑問が持たれるかもしれない。確かに、血液循環機能はがん細胞の増殖をも促進することで、結果的に生命を脅かすことにもつながる。しかしここで改めて言葉の意味について分析してみる必要がある。血液循環機能というのは人間が作り出した生理学、あるいは生物学上の概念なのである。物理学や化学にはこのような概念はない。

試みに、ウィキペディアで「生理学」を調べてみると、「生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」となっている。「機能」を辞書で調べてみると、例えば次のような定義が見つかる。「器官・機械などで相互に関連し合って全体を構成する個々の各部分が、全体の中でになっている固有の役割(大辞林第三版)」この定義は生理現象などについては適切な定義と言えると思われる。

意味するものと意味されるもの
つまり、血液循環機能は血液循環という生命現象のひとつを機能という見方で把握した概念であるともいえる。血液循環という現象、つまり血液循環現象そのものは、いわば「意味されるもの」であり、血液循環機能という場合は血液循環という現象を生理学的な機能という観点で把握したところのいわば「意味するもの」だといえる。

血液循環機能を「生命を維持するための機能」ととらえるのは生理学的な機能を端的に、わかり易く表現したまでで、生理学的な機能と完全に一致するというわけではないとも言える。

「心」に対して以上のような意味的な分析が可能であろうか。

これに関して、「心」について、著者は次のように述べている。「心を脳の機能としてではなく、何か特別なものとして考える。―中略― それはおそらく間違いである。」
ここで、「心を脳の機能として考える」のは著者の立場であり、「なにか特別なものとして考える」のは著者が「おそらく間違いである」として批判の対象にしている人々の立場であるといえる。ここで著者が指摘するような脳と心臓血管系との対応関係を適用すれば、著者の立場は血液循環機能と同様、「心という機能」として、つまり「意味するもの」として使用していることになる。これはひとつの概念である。心とはそれ自体が概念なのであろうか。心それ自体が概念と言えるであろうか。

「心」という言葉は、日本語でもそれ以外の言葉でも、生物学や生理学が確立されるよりはるか以前からある。それに対して、歴史的に、血液の循環は、「心臓は人間を含む動物の生命現象においてどのような役割を果たしているのであろうか」という疑問、要するに生物学や生理学的な探究の結果として発見された現象であり、「血液の循環機能」はその現象を機能として意味づけるために作られた新しい生物学ないし生理学上の用語なのである。

ここで最初に引用した著者の基本的な主張をもう一度確認してみたい。それは次のとおりである。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」

ここで著者は「心臓血管系」を「脳」に対応させ、また「循環」を「心」対応させているのであるが、ここでの「循環」と「心」は共に「意味されるもの」を指しているものと考えざるを得ないのである。しかし、以上に見てきたように、それ以降で展開される著者の議論では、「心」を「意味するもの」として使用していると考えられるのである。ここに重大な矛盾が存在する。

【「心」は単に名前なのか
このような次第で、血液循環機能とは血液循環現象に与えられた概念であり、換言すれば血液循環現象を意味するものとしての「名前」ともいえるのである。

一方、「心」が血液循環機能に対応する脳の機能に対して与えられた「名前」以外の何物でもないとは、たいていの人は承服できないのではないだろうか。

他方、著者が批判の対象としているところの、心を「なにか特別なものとして考える」立場では、「心」という単語自体は名詞であり、何らかの対象に与えられた、対象を意味するところの名前であることは確かだが、その意味する対象は「心」という言葉でしか表現できないところの「何か特別なもの」なのであるといえる。この「何か特別なもの」が「意味されるものである」

この「心」という言葉によって「意味されるもの」は、「心」(あるいはそれと類縁の言葉、例えば精神とか、外国語の相当語句など)という言葉でしか表現できないものであるが、いろいろな性質は考えられる。たとえば意思(自由であるかどうかはともかくも)や感情を持つことなどである。であるからこそ、生命現象の本来の機能に反するような自殺を意図したり、他人の身体や生命に影響を及ぼしたりもできるのである。

脳機能の内容
一方、それでは著者によって「心」という名前が与えられたところの、「意味される」対象である脳機能はどういうものだろうか。それは現在に至るまでの脳科学あるいは神経系に関する学問分野の直接の研究内容のすべてと言えるのだろうが、それに「心」という名前を与えるに値するだけの内容を持つといえるだろうか。

心臓血管系における血液循環機能と同様の生理現象的な部分でわかっていることは、神経細胞を流れる信号(何らかの電気的な現象や化学的な現象)の他、脳波などの物理現象ということになるのではないだろうか。

脳の場合、こういう電気的あるいは化学的な信号に意味的なものが加わっている。意味的なものが加わっているからこそ、信号と言えるわけであり、著者を含めて多くの科学者がさらにそれを「情報」と表現している場合が多い。脳という器官自体がそれらの意味を理解しているかどうかは証明不能であろう。あくまで比ゆ的に用いられているに過ぎない。コンピューターが情報の意味内容を理解しているといえないのと同様にである。それらの信号に「意味」を見ているのは、考察している人間以外の何物でもない。

著者は本文最初の「唯脳論とはなにか」という節の冒頭近くで、「ヒトが人である所以はシンボル活動にある」と述べている。これは「人間はシンボルを繰る動物である」とするカッシーラーの定義と同じであるが、著者を含む多くの脳関連の科学者は「脳」を主語にした行為として生理現象を説明することで、「人間」を「脳」に置き換ええる。

シンボル活動を行う主体としての「人間」は自明な存在と言える。カッシーラーが人間をシンボルを繰る動物として定義し、「人間(邦訳)」という書物を書いたのは、人間がシンボルを繰る主体として自明な存在であったからであると思われる。これに対して臓器に命令したり、臓器の機能をつかさどったり、制御したり、知ったりする主体としての脳は自明な存在とは程遠い。

「脳が命令する」とか、「脳がつかさどる」とか「脳がコントロール」するとかの表現はすべて比喩に過ぎない。こういう比喩は個々のメカニズムや機能を説明するには有用な表現であろうけれども、こういう比喩を前提に論理を積み上げてみたところで、出来上がった理論も所詮は比喩に過ぎない。
言い換えると、脳を人間に例えて語っているに過ぎない。つまり脳の擬人化と言える。

以上は本書の冒頭節『唯脳論とはなにか』で、本書全体で展開される唯脳論の基本前提とされている「心は脳の機能である」という主張に対する疑問ないしは反論である。非常に広範囲に及ぶ問題について考察されている本書の全体については、また再読する機会があれば、部分的にでも感想を述べてみたいが、広範で複雑な内容だけに困難なものになりそうである。

2012年7月12日木曜日

歴史書と哲学書そして現代思想書(思想家の思想とは限らず)

今年の冬ころから思い立ってカントの純粋理性批判を読み始めたが、春頃には忙しくなったため中断した。その後、時間が取れるようになってもなかなか再開できない。とりあえず一つのまとまりである(先験的原理論の第一部門となっている)「先験的感性論」は何とかその場限りの文脈的理解というか、文脈上は「自分なりに」理解して読めたような気がする。しかし中断してから数か月ともなると忘却は如何ともしがたい。続いて「先験的論理学」の「先験的分析論」の途中までは読んだが、今からしおりの位置に戻っても読み続けることができるだろうか?たぶんできないだろう。ということで、なかなか再開できずにいる。


その代り歴史書がしきりに読みたくなり、何冊か読んだり、読み直してみたり。もとより基礎的な背景知識はこういう本を読む素人としても少ない方なのでそうやすやすと読めるわけではない。

それにしても哲学書と歴史書の表現はある意味で対極、極度に対照的である。


哲学書は端的に言って「〇〇とは何か?」の集積であるとも言えるのに対して歴史書は端的に言って「〇〇が何をしたか?」の集積である。さらにここでの〇〇はだいたいが固有名詞である。おおよそ哲学的とは言えないのである。悪く言えば下世話な挿話の集積であるともいえないこともない。ある意味では歴史書を読むのは哲学書を読むよりも格段に楽であり、楽しいともいえる。もちろん難しい過去の用語、政治経済法律がある。固有名詞にしてもおびただしい数の固有名詞を識別しなければならない。

包括的に、あるいは専門的に研究するのであれば、頭をフルに回転させなければならないという点ではどちらも同じようなものかもしれない。しかしそれにもかかわらず哲学者から見れば歴史家は安易で気楽に見えるのではないだろうか?歴史書にも面白くない、退屈なものも多いだろうが、楽しみながら読める歴史書は多いし、歴史家自身が楽しんでいることも多い事だろう。もちろん苦しみもあるだろうが、哲学の場合とは相当に性質は異なるように見える。他方、哲学者は楽しみながら哲学をできるだろうか。もちろん幸福と楽しみとは別である。


たとえば哲学者の梅原猛氏の場合、仏教など宗教についての本はたくさんあるが、専門的な哲学の書物、あるいは解説書なども、少なくとも一般向けには出されていないようだ。それに対して古代史関係の書物では有名な研究書がいくつかある。


哲学者が歴史に興味を持ち、歴史研究と何らかの関わりを持つことは当然ありうることだし、哲学と歴史の両方に興味を持ち、同じ比重で研究する学者も当然ありうる。あるいは一般に思想家というのはそういうケースが多いのかもしれない。中国や日本で昔から「学問」とされてきたものはそういうものだったのだろうか。

しかし少なくとも哲学的なものに一切の興味を持たずに歴史の研究に没頭することはできるし、歴史書を読むことも可能である。その場合はやはり、一方を忘れている、あるいは一方に対して盲目である、あるいは置き去りにしているということになるだろうか。


とはいえ、歴史と哲学の両方に目を配ったとされる、あるいはそう考えられている類の「思想」は、どうも浅薄で拵えものくさいのだ。たとえば唯物史観など。

いずれにせよ、哲学と歴史の両者の始点、あるいは原点に人間が位置することは間違いがない。「〇〇とは何か」、「〇〇が何をしたか」、いずれの始点にも人間が位置するのである。


カッシーラーが「人間」というタイトルの書物を書いたのもそういう意味だろうと思われる。

こういう始点あるいは原点という考え方とは別に、哲学と歴史の接点は他にもある。その最たるものはもちろん、言葉と神話、そして科学。それらこそ、カッシーラーの主著と言われる「シンボル形式の哲学」の内容そのものである。




ところで最近読み始めた本に、過去に購入したままこれまで読まずにいた二冊の本がある。
一冊は:
『アースマインド』ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリン著、青木日出夫訳、1991年

もう一冊は:
『新しい科学論』村上陽一郎著、ブルーバックス、1979年第1刷発行、1996年第10刷発行

前者は当時購入したものの、なぜか今までまったくと言っていいほど手に取ることもあまりなかった。いま読み始めると、少なくとも最初の方だけで判断する限り、物質とは異なる霊的なものの存在をはっきりと前提にしているようだ。「アースマインド」という以上、それは当然なことかもしれない。


後者は、昨年頃、古書店の店外売り場で見つけたもので、200円で購入。

村上陽一郎さんの本はかつて1冊ほど薄い本を購入したことはある。それよりも、今は昔、NHKラジオの音楽番組で長期にわたって週一回のレギュラー出演者だったので親しみを感じていた。しかしなぜか同じNHKの科学番組でお目にかかることが殆どなかったのは不思議である。今は読む機会もないが朝日新聞の文化面などの評論でもお目にかかったことがあるような記憶がある。ということで科学史関連では日本の代表的な研究者なのだろうという印象は持っていたが、それにしては一般的な知名度は高くなく、マスコミ関係でも引用が少ないのではないかという印象もあった。


この本の発行は1979年(今回古書で購入したのは1996年の第30刷)で、著者の40代にあたるので比較的初期の著作になる。序文では中学生にもわかるように心がけたが、そのことで不当に内容の水準を落としてはいないとのこと。以前に読んだ薄い本は、少々物足りないというか、どっちつかずという印象があったように記憶している。そちらは「中学生にも」というより、特に若年層向きに書かれていたのかもしれない。


とりあえず目下、この2冊を早く並行して読んでゆこうか。ちなみにいずれも「現代思想書」に該当とするのが自然だろう。


2012年6月6日水曜日

「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係


当ブログで先日、「LED電球の光が真っ直ぐに進むのは当たり前」という記事を書き、この場合に「真っ直ぐに進む」、あるいは「直進性が強い」といった表現が不適切であるという考えを述べました。LED電球の光に限らず、光そのものが直進するものと認められている現在の科学において言葉の一義的な使用を前提とするなら、LED電球の光に限って、あるいは従来の電球の光に比べて直進性が強いということは、あらゆる光が直進するという前提を否定することになるからです。現実には、真正面方向の明るさが強く、それに比べて側面方向が暗くなるということをこのように表現しているわけですが、これは明らかに言葉の意味が一義的でなければならないという科学的表現の原則に反しているわけです。

ただしかし、多くの人がこういう表現を違和感なく使っているということは、それなりに理由がありそうです。また、それ自体が興味深い問題であるとも言えるように思います。もちろんこういう言い方が不適切だという考えに変わりはありませんが。

そういう次第でこの問題をもう少し考えてみたのですが、それは本ブログや『ブログ・発見の「発見」』で取り上げてきた鏡像問題とも深いところで関わっているところの、科学と言葉に関する本質的な問題であることがわかってきたように思います。

ちょうど一昨日、かなり長期間にわたって少しづつ読み進んでいたエッカーマン著、「ゲーテとの対話」を読み終えたところなのですが、前日に読んだ終わり近くの箇所で、1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。

 「光が真っ直ぐに進む」という表現も、改めて考えてみれば実に人間的な表現であることがわかります。

先日の記事で述べたように、「LED電球の光が真っ直ぐに進む」と言われることをもっと正確に表現すれば、「LED電球の光は拡散性が小さく、側方に比べて前方に進む光量が多い」ということにでもなろうかと思いすが、人間について言えば、前に向かって、つまり前方に進むことがそのまま「真っ直ぐに進む」ことであり、直進することでもあるといっても違和感がないからです。

実際、光について語る場合も言葉の本質上、ゲーテの言うように、つねに人間から離れた表現を使うことはできないのでしょう。光が「進む」という表現自体、擬人的といっても差し支えないもののように思われます。普通、人間や動物にとって「進む」とは、さらに「直進する」とは、真っ直ぐ前に向かって前進することと同義語のように使われていると思います。その表現がそのまま、LED電球の光について使われているということでしょう。

「ゲーテとの対話」の先ほどの箇所で、ゲーテの言葉に続いて対話者のソレ氏が次のような考えを述べ、ゲーテに褒められています。

「・・・ドイツ語は・・・比喩の力を借りねばならぬとしましても、それでもかなり言わんとすることには近づけるでしょう。しかしフランス語は、私たちに比べて、大変不便です。フランス語では高次な自然現象を表現しようとすると、ふつう技術から得た比喩によってなされますから、すでに物質的になり、卑俗になってしまいますので、高次な観察にはまったく適しておりません。」
「なかなかうまくいいあてるね。」とゲーテは口をはさんだ、・・・・。

LED電球はまさに現代の高度技術の産物です。その仕組みも構造もそれ自体が人間が夜間の環境を照明する目的で開発された技術の産物にほかなりません。その目的に沿って作られた電球の構造には前、すなわち前方があり、側方があります。だいたい道具に限らず人間が作ったものには何らかの方向性があります。たいていのものには少なくとも前と後ろ、あるいは表裏は持っている。多くの場合はそれに加えて上下の方向性もあります。電球の場合、通常はねじがついていますから、左右の方向性を持っているといえるかもしれません。

その方向性を持った道具である電球の、前方あるいは真正面に向かう光量が多いことが人間が前に進むことの比喩、あるいは擬人化から、「LED電球の光はまっすぐに進む」と表現されることになるのではないかと思われます。

しかしこれは明らかに、いわゆる光の直進性の原則からは外れたおかしな表現です。LED電球の光に限って直進性が強いというのは、あらゆる光は直進するという原則とは矛盾することになります。自然科学における用語の一義性からいえば明らかにおかしい。したがってこの場合の用語法は科学的ではない、科学ではないということになります。

特に、「真っ直ぐに進む」という表現はまだ日常語的な、おおざっぱなニュアンスがありますが、「直進性が強い」といった、いかにも科学的で厳密な印象を与える表現は、明らかに人を誤った方向に向かわせるようなところがあるように思います。こういう表現を疑似科学的表現と言えるかもしれない。疑似-科学的-表現です。いわゆる「疑似科学」ではありません。

当然のことながら、LEDランプは高度技術の産物であり、人工の道具ですが、光そのものはそうではなく、純粋な自然そのものの最たるものでしょう。

この場合、たとえ「LED電球の」と限定されているにしても、なんとか工夫して「光」ではなく、「電球」を主語にした表現を工夫すべきではないかと考えます。人間が作ったもの、道具や機械はいわば人間の延長であり、分身ともいえます。その最たるものがコンピューターやロボットで、これらはもう、擬人的表現なしには説明することも、使うことも不可能になっています。つまり、道具を主語にするのであれば人間的な、あるいは擬人的な表現でも問題は少ないということです。

もちろん、自然物にも上下左右前後を持つものは沢山ある。火山は上に向かって噴火するし、噴煙を上げる。しかしそういう上下はすべて人間にとっての上下を基準に定められたものであり、火山という単位も一つの人間が切り取った認識の単位に他なりません。
そこで、上記、つまりあくまで人間の認識に基づいた基準であるという事実を踏まえたうえで自然界のもろもろの上下、前後、左右を考察してみることから何か興味深い展開がもたらされるような気もします。

たとえばいま例に挙げた火山は基本的に上下の構造を持っているといえます。それに対して河川は上下に加えて前後(流れ方向)と左右(左岸と右岸)をも基本的な要素として持つと言えそうです。

天体は、地球に対する方向性を別にすれば、基本的に方向性はないように見えますが、太陽系や銀河系になると上下の方向性が出てくるようにも思われます。あるいは一つの天体でも回転することで方向性が出てきそうです。

分子構造でも対掌体と呼ばれる右型と左型のセットがあることは有名な事実であるし、特に素粒子の世界で対称性が問題になっているらしいことは、数年前にノーベル賞を受賞した日本人研究者による「自発的対称性の破れ」で有名になっています。この辺りの問題になると敷居の高い高度な数学の問題になり、ここで私は立ち止まらずを得ないわけです。

気になることは、こういう問題が人間的なものとどのようにかかわっているのか?ということ。「鏡像問題」の次元では問題が人間的なもの、生命的なもの、認識論的なものと関わっていることが見えるように思えるのですが、素粒子論などになるとそれがまったく見えてこないということ。今のところ筆者には取り付く島がないというところでしょうか。

2012年3月12日月曜日

関裕二著「蘇我氏の正体」を読む


最近、近所の書店店頭に現れた「応神天皇の正体」という新刊本に興味をそそられたが、同じ著者の著作が文庫本でたくさん出ている。同じ書店の文庫本コーナーには新潮文庫で沢山並んでいる。また電子書籍でもPHP文庫で沢山でている。結局一昨日の夕方、新潮文庫の「蘇我氏の正体」をとりあえず購入し、この土曜日の夜から日曜日だいたい1日をかけて読了した。

この本は前半と後半とに大きく分けられ、前半では大化の改新の時代を扱っており、その時代の蘇我氏と聖徳太子、そして中臣鎌足と中大兄皇子らの関係に限られているため、比較的難なく読み進むことができた。

この前半の結論は、大化の改新という事件では蘇我氏の側に正義があったというものである。端的に言ってこの説にはかなり説得力があるように思われた。

というのは、古代史にしてもこの時代に限っても、特別に興味を持っていたわけでも、沢山の本を読んでいたわけでもなかったが、ただ、この本でも言及されている梅原猛著「隠された十字架」を過去に読んでいたからでもある。また竹澤秀一著「法隆寺の謎を解く」も、比較的最近に読んでいた。後者は法隆寺に関する梅原説を否定したとされているが、著者は建築家であって、ただ法隆寺の仏教建築としての様式が伝統に則ったものであって特別に異常なものではないという事から、梅原説のいう怨霊封じ込め説を否定しただけであって、聖徳太子や蘇我氏にまつわる歴史的な問題については何も考究しているわけではなかったように記憶している。少なくともこの二冊を読んだ記憶を考え合わせると、本書の前半の結論はかなり説得力のあるものと思われた。

後半の方は表題の本題である蘇我氏のルーツを扱ったものであり、こちらの方は時代的にも長期間、地理的にも朝鮮半島を含めた広範囲に及び、夥しい数の人名、神名が登場するため、かなり読むのに骨が折れるし、正直なところこの本の後半を読むだけでは殆ど把握できなかった。

結論的には次のようになっている ― 蘇我氏のルーツは古事記に書かれているとおり武内宿禰であるが、武内宿禰は同時に応神天皇の父親である。従って蘇我氏は天皇家であるということになる。その武内宿禰は天之日矛であり、天之日矛のルーツは「浦島太郎」であると考えられる ―。

この、後半部を理解するには古代史全般について相当な知識が必要だろうと思われるし、著者のその他の数多くの著書を読む必要もありそうである。

ここでも邪馬台国論争が関係している。個人的に邪馬台国論争に詳しいわけでは全くないが、比較的最近、森浩一著「魏志倭人伝を読みなおす」を読んだことは、邪馬台国に関係する部分では比較の対象になった。

「魏志倭人伝を読みなおす」では魏志倭人伝の原文も引用され、かなり難しい本であって、十分に理解も記憶もしていないのだが、邪馬台国に対する魏、すなわち当時の中国の影響あるいは干渉が相当に大きなものであったことが述べられている。中国から派遣された役人が邪馬台国の政変に関与していたということになるだろうか。そういう、この時代の中国の影響力についてはそれまで聞かされたことが無かったので、今までの歴史認識を変えなければならない様な気がしたものである。

「蘇我氏の正体」の方では、卑弥呼の後を継いだ台与が、そのまま神功皇后に重ねられている。ただその神功皇后のルーツがヤマトなのであるが、そのヤマトの実態が、この本ではブラックボックスになっているといえる。纒向遺跡が想定されているのかも知れない。「魏志倭人伝を読みなおす」では、台与は文字通り卑弥呼の後を継いだ女王であるが、卑弥呼は魏の役人の干渉もあって死に追い込まれたとされていた。「蘇我氏の正体」では、卑弥呼は天之日矛と台与によって討たれたことになっている。

この辺りの問題は、件の新刊本である「応神天皇の正体」では進展があるのかも知れない。ただしこの関連での読書はしばらくお預けにしておこうと思う。

2012年2月29日水曜日

測定と時間(温暖化問題における)


一般に科学的な測定には大抵、時間が何らかの形で関わっている。第一、測定事体に時間がかかる。例えば温度計を読み取るにしても、厳密には絶えず変化しているし、温度計事体、周囲の温度に追随するのに時間がかかる。まあ気温などの場合、こういうことは気にすることはないが、精密な計測では非常に難しい問題になってくるであろう。私自身は素人なのでわからないが、計測装置の設計にとっても非常に難しい問題であろうと推察できる。

多くの技術的な問題ではこれは非常に短い時間の場合が多いだろうが、時間の問題が重要なことは逆に地質学のような時間スケールの長い分野でも難しい問題になってくることには変わりがない。しかしともすればこのことは忘れられがちなのではないだろうか。

また、端的に言って測定そのものは科学である以上に技術の問題であって具体性が何よりも大切であり、測定装置から、測定者、想定の場所や時間、測定サンプル、さらには統計計算の問題、言葉の問題をも含めた表現方法にいたるまで多様であり、その多様さは分野、あるいは業界の慣習に大きく関わっている事が多い。その意味で自分の専門分野以外、狭い意味での専門分野以外の問題に関わる場合はよほど注意が必要なのではないかと思われる。これは純然たる素人にとってよりもむしろ自然科学の他分野の専門家にとって重要なのではないかと思う。

いきなり結論めいた事に踏み込んでしまったようだが、話を最初から始めると、先日NHKオンデマンドで「いのちドラマチック」というシリーズ番組の「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」というのを見た。結構おもしろいので何度かこのシリーズを見ているが、基本的に食べ物に関係のある科学番組のようだ。しかしよけいなことかも知れないが「いのちドラマチック」というタイトルはそれだけでは何のどういう番組なのか、さっぱりわからない。こういう番組はもっと端的に、即物的なタイトルにして欲しいと思う。

それはともかく、このシリーズ番組には毎回分子生物学者の福岡伸一先生が登場することになっているようで、今回もそうであった。

この先生の著書は一冊半ほど読んだことがある。一冊目は「生物と無生物のあいだ」、もうひとつは「世界は分けてもわからない」である。こちらの方は半ばくらいまで読んだままでなぜか忘れてしまっていた。なぜ読むことになったかといえば、もちろん書店でかなり目立つところにつまれていたからでもあるが、いまは昔NHKFMラジオ番組の「日曜喫茶室」のゲストとして出演されていたのを聞いた記憶があって、とにかく話し上手な科学者という印象もあり、本も面白く読めそうな気がしたことは確かである。

この本の主たるテーマについてははっきりした印象の記憶を持てなかった。難しい問題で、理解したとも言えないし、この本を読んだだけでどうこう言えるような問題ではないと思う。ただ、もちろん専門的でわからない部分が多いものの、著者のスタンスがいくらか中途半端かなという印象はあった。それはともかく、本題以外に読み物として、DNA発見に関わる科学者たちの話題、とくに著者が研究生活を送ったたロックフェラー大学の歴史や印象、そこに胸像が飾られているという野口英世に関するあまり芳しくない話題などに多くのページが割かれていて全体として面白い本ではあった。

次の「世界は分けてもわからない」の方は読みかけたもののいつの間にか続みつづけるのを忘れてしまっていた。どうもなかなか話の核心に進んで行かず、まどろっこしいところがあったのかもしれない。非常に興味深い問題を扱っていることは確かなので、最後まで読み直さなければならないと思っている。ただ表題には少々違和感がある。(世界が)「わかる」にしても「分ける」にしてもあまりにも漠然としている。第一、単に「分ける」だけで「世界がわかる」とは誰も思っていないのではないだろうか。本のタイトルとはこういうものかも知れないが、やや我田引水的なタイトルだと思う。

いずれにせよ、断片的にも興味深く面白い話題を沢山提供できる著者であることは確かな印象であり、テレビ番組に登場するようになったのもわかるような気がする。

ただ、最近刊行されたかなり分厚い著書を書店で少し立ち読みしてみたことがあるが、温暖化問題に触れている個所があった。そして、この先生も温暖化問題について的確な判断をしていないことがわかり、この分子生物学教授に対していくらか興ざめ感を持っていたところだった。

さて、本題ののテレビ番組の内容は、葉緑体を持つ植物と動物の両方の特長を備えたミドリムシの食物や燃料としての利用の可能性について紹介されていたのだが、ここでもCO2温暖化対策が登場してくる。ミドリムシを生産して食料や燃料にすることでCO2削減に貢献できるという話題である。

燃料としてなら、つまり化石燃料の代替としてなら、実効性はともかく、CO2削減と結びつけるのもわからないでもないが、食料としての段階でCO2削減に結びつけるというのはあまりにも牽強付会としか言いようがない。CO2の吸収速度が早いというのだが、食用にして食べてしまうのであれば、そんなことはCO2削減と何の関係もない。普通なら「成長が速い」というべきところを「CO2の吸収が速い」と言い換えたのであろう。利用という面からは「成長が速い」という方がよほど意味深いと思う。専門の権威ある科学者がそんな話題に共感するとすればまさに興ざめである。



予想しないでも無かったが、ここで福岡先生によるCO2温暖化の解説が始まる。「いのちドラマチック」という訳のわからない番組のタイトルも関係しているようだ。つまり番組の趣旨が何なのかわからないのである。融通無碍ともいえるが。

それはともかく、ここでの教授の説明もまたさらに興ざめそのものだった。それは、数十万年前から現在に至るまでを通してのCO2濃度のグラフを元にしての説明で、この数十万年をとおして、この18世紀ころから急激に大気中CO2濃度が一方的に増加し、過去数十万年を通して一度も達したことがない400ppmに近づきつつある。従って大気中CO2濃度の増加が人為的な原因によるもので温暖化の原因でもあるというものである。

この種のデータあるいはグラフに問題があることは筆者も何度もブログで触れている。例えば、http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569 。この機会にもう一度この問題を掘り下げてみたい。

基本的に重要な問題は、このグラフでは十万年を超える前から現在にいたるまで一つづきのグラフで表現されているのだが、横軸の同じ長さの時間スケールが地質時代と18世紀以降ではまったく異なっている。その差は100倍くらい異なっているであろう。当然測定方法のみならず測定手続き、測定サンプル事体がまったく異なることはもちろんであり、その種のことにまったく疑問を持たないか言及しないとすれば科学の専門家の態度としては問題があると言わざるを得ないのである。あらゆる測定は測定方法と切り離すことはできないからである。

筆者の知見によれば、この種のグラフには少なくとも3通りのまったく異なった測定が繋ぎ合わされている。いずれも根本順吉氏の著書で知り得たものである。

一つは1958年から1988年までの間、キーリングという科学者がハワイのマウナロア山頂で定期的に測定を始めた連続的なデータである。

次は18世紀から前記1958年までのデータで、これは根本順吉氏の著書では南極のデータとなっているので、氷からサンプリングしたものかも知れないが、詳しくは書かれていない。この間の増加率は、前記1950年代以降の急激な増加に比べると著しく緩慢である。

もう一つは「南極のボストーク基地で得られた2000メートルの氷柱の分析から、過去16万年の気候変化が明らかにされたことである」。この分析では「1m毎にとったサンプルを真空中でくだき、そこからとりだした過去の時代の大気成分について、ガス・クロマトグラフィーを用いた分析が行われ、CO2の変化が明らかにされた」。

16万年で2000メートルとすると、1mあたり80年になる。つまり、この間のCO2濃度は80年間の平均を意味している。80年の間には、キーリングの分析が始まった1958年から現在までの約50年はすっぽり入ってしまう。

現在気象庁などで行なっている分析データは月単位で公表されている。キーリングの分析もそのようで、実際、年間における月単位の数値の変化は結構大きく、夏と冬とではかなりの差があり、曲線はギザギザになっているのが普通である。

以上の事実から、先ほどのグラフから単純に現在と10万年前とで比較できないことは明らかだが、以上の事実を知らなくても、この種のことはグラフ横軸の時間スケールの違いからも疑いを持つのが科学者であれば当然ではなかろうかと思うのである。私自身は、根本氏の本を読んでいなければ気づかなかったかも知れない。

改めて思うことだが、あらゆる測定には異なる時間が関わっていることに思い知らされなければならない。

最初に書いたことだが、これは少しでも専門を外れた分野の問題に言及する場合には特に重要な問題だと思う。素人にとって以上に、他分野あるいは隣接分野の科学者には気を使ってもらいたいものだと思う。

個人的に、あまり専門性を強調したくはないと思う。私自身、事実上すべての化学分野で素人である。ただし、権威ある科学の専門家が専門科学者の資格で権威を背景に科学の問題を語る時、やはり専門外の問題を語ることは控えることが良心的といえるのではないかと思う。もちろん一概に言うことはできない。

少なくとも聴衆、受け取る側はこのことを十分に意識すべきだろう。

(蛇足)先日この番組を見た日、外出したら、直ぐ近くの自然食品の店に張り紙がしてあるにに気がついた。曰く、「みどりむし入荷しました」。

2012年1月18日水曜日

「ゲーテとの対話、第二部」読了


エッカーマン著「ゲーテとの対話」(山下肇訳、岩波文庫)の第二部、文庫本の中巻を読み終わった。日記形式で書かれているので、電車の中など、毎日すこしずつ読むのに最適であった。この巻の最終日の記事にゲーテの死が描かれている。と言っても著者がゲーテの臨終に立ち会ったわけではなさそうだが、ゲーテの亡骸に対面している。顔だけではなく、裸の胸や手足まで布をとって見せてもらい、美しさに感動したという。

この日の記述に含まれているゲーテの語った内容は、死の数日前にエッカーマンに語った言葉なのであろう。それに相応しく重要なことが語られていると思う。この書物に含まれるゲーテの思想の中でも特に有意義な内容ではないだろうか。

その中から少し抜書をしてみる。
「詩人が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう詩人でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」

ここでゲーテは詩人という言葉で文学者一般について語っているのだが、ここで語られていることはそのまま科学者にも、学者一般についても当てはまることだろうと思う。

もっとも、学問といっても経済学や政治学、さらに詳細な実践的な部門になればどういうことになるのかはちょっと判断に困るのではあるけれども。

とにかくこの問題は現在の日本の状況においても切実な事柄であるように思われる。

ソ連邦の崩壊以降、社会主義、共産主義のイデオロギーも崩壊したように言われている。それ以降、社会主義だけではなくイデオロギー一般というかイデオロギーそのものに対して疑惑の眼が向けられるようになった傾向がある。しかし現在の状況をみると相変わらず各種のイデオロギー活動は盛んであるように見える。

端的に言って今、反原発運動がイデオロギー化しているように感じられる。もう少し幅が広くなるがエコロジー運動もそうである。

科学者や文化人が党派的になっている傾向が強く感じられるのである。

ひとたび反原発の陣営に組み入れられると少しでも原発推進派に有利に働くと思われる事柄はすべて否定しなければならなくなってしまう。その典型的な例が低線量の放射線リスクの問題である。現在の時点で閾値とされる値よりもはるかに少ない低線量を問題にして危険を云々するのは愚かにみえるのが健康な常識人からみた印象であろう。

ゲーテが詩人について語った先ほどの引用個所の「詩人」を「科学者」に置き換えてみよう。

「科学者が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう科学者でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」